日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:川路利良

川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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なんと、最終回BSも、リアルタイムも録画し逃すという失態を侵してしまいました。
今年の大河に対する私の気持ちが表れているのか??それとも呪いか??
土曜日を録画し直しましたよ~~!!

「敬天愛人」・・・菊次郎が職場の部屋に飾ったこの言葉は、西郷さんが大好きだった言葉です。

菊次郎のナレから始まります。
時代の流れに乗り切れなかった男・・・西郷隆盛・・・を。
って、時代の流れに乗り切れなかったのは、いわゆる旧幕府軍の方ではないのか??
よく考えると、西郷さんは戊辰の時は官軍で・・・悲劇としては中途半端ななのかしらね??
1877年8月17日・・・延岡にて・・・戦場にいる糸が、どうも不自然な・・・。
みんなを残し、鹿児島に向かった西郷さん。。。西郷さんに従った者たちと共に・・・。

山縣有朋と西郷従道が糸を尋問しています。
って・・・おまけに謝る従道もなあ・・・もっと、戦う気満々じゃないの??不自然だよ・・・。

don2















山中を駆けずり回る西郷軍・・・やっと、鹿児島の城山にたどり着きました。

なんと、その山で子供の頃の落書きを発見しました。
そして、故郷・鹿児島で”はつらつ”と、戦ったのだそうだ。
はつらつ、溌剌・・・この言葉でいいの??戦うのに溌剌なのか??言葉の選び方、間違っているような気がする・・・。

しかし、反撃もここまで・・・政府軍の圧倒的な攻撃と、陸と海からの援軍に包囲され、山の上にと押し戻されていきます。
って・・・この政府軍の圧倒的な攻撃と、陸と海からの援軍の出し方やあれこれをやってくれたら、面白い戦いになります。
そんなこんなを、このナレ一言で終わらせるから、わかんなくなっちゃうのよ・・・戦いが・・・!!

で・・・いきなり東京の大久保邸です。
今までの大河でも、家族のことを描くことはあっただろうけど、
「女が口出しする」大河があったかな??そこがシラケるのよね??って思っちゃうんです。
私も女ですが、私が男尊女卑というよりも、この時代が男尊女卑です。
でもって、この大河では女性たちはみんな口をそろえて言います。
「話せばわかってくれる」って!!
話してわかってくれたら、戦争なんて悲惨なことにはならないんだよ~~!!
第二次世界大戦だって、官僚たちは止めようと思っていたけど、関東軍がイケイケ陸軍で暴走しちゃったんだろ??って思うの。
止めようにも止まらない戦いとか・・・よく言うでしょ??

「男なら、負けるとわかっていても戦わなければならない時もある」って言葉もあるし・・・!!

糸たちが鹿児島の家に帰ってきました。
そんな家族パートをするのは諦めたけど・・・
西郷どんの妹・琴子、従道に戦争をやめるように怒るんですが・・・
それを言うなら、西郷どんに言わないといけないし・・・
だいたい、嫁に行ったのに・・・出戻ってんの??
昔は嫁に行った娘は年に1回藪入りでないと帰れなかったんだよ??
そんな・・・今どきの嫁でもこんなに実家にいてへんわ・・・!!

西郷どんの陣営は、村田新八によるアコーディオンの演奏で指揮を揚げます。
”ラ・マルセイエーズ”で、戦力アップ!!
踊るんですが・・・まるで阿波踊りです。

その頃・・・大久保は昔を懐かしんでいました。

don3















西郷さんの好意に預らなかったものはおらんか??とか言い出す山縣有朋です。
が・・・この大河って、なんとなく話が進んでいくんですよね??
そう思うなら、山縣有朋と西郷隆盛の大事なエピソードを入れればいいだけのことなのに・・・。
そのエピを端折っているから、その好意が解らんから、”どうして西郷さんが慕われているのか”がわかんないのよね~~!!

総攻撃が行われることが西郷さんに手紙で届きました。
この手紙、山縣有朋からではなく、この大河では大久保からになっております。

don4















どうする??
西郷さんだけは生きてほしいという桐野以下全部!!

あ・・・こんなキンチョーな場面でまたもや東京の大久保・・・。
呑気な音楽で内国勧業博覧会で、商売です。

自分が死ぬことで、”戦が終わる”と戦うことを決心する西郷さんでした。
最期の夜も、最後の晩餐って感じじゃなくって、若者のコンパみたいだわ・・・。
でも、そうだったのかもなあ・・・とも思う。

当日・・・またもやお腹の鳴る村田新八・・・ってどうよ??
あきれるわ・・・。
武士は食わねど高楊枝なんですけどね・・・??
それは、もっと位の上の人なのかな??

don5
















戦って、戦って・・・みんな死んでいきます。
そりゃあそうだよね??

って思っていたら、川路が桐野を撃ったの??
東京にいた川路が・・・??

村田新八も撃たれて死んじゃいました。
なんの感動もさせずに・・・。

「圧倒的じゃないか!!我が軍は!!」と、ギレン・ザビに言わせるぐらいの政府軍です!!

??西郷さん、撃たれちゃいました・・・!!

糸のもとへ西郷が戦場で連れていた犬たちが戻ってきました。
そうね・・・この犬の演技は、犬を飼っているものとしては涙を誘ったかなあ・・・??

大久保邸では・・・吉之助を追いつめたことを悔いる一蔵・・・。

フキとなんだかんだと住んでいたんですね・・・慶喜・・・。
西郷さんをアゲアゲするフキ・・・。
当時の新聞で見てますが・・・そんなに早く新聞でるか??今よりもタイムラグは計り知れないほど大きいというのに・・・。
どうして逃げなかった??という慶喜ですが、慶喜、逃げたんじゃないって言ってたよね??
西郷星も出て来ましたが・・・どうして西郷星が出てきたのかも説明してくれませんでした。
当時の人がテレビのニュースがあるわけでも、字が読めたわけでもなく。全員が西郷さんを知っているとは思えないしなあ・・・。

西郷従道邸では、こんな大きい家を作ったのは、皆を呼び寄せるためだったんですね??なんていう奥さんの前でうな丼をほおばる従道ってなんだよ??諭されている子供か??

みんな普通の生活してますけど・・・そこに何の意味が??
そこは家族愛なのか??で、やっぱりいる琴子です。

1878年5月14日・・・西郷が死んで翌年・・・紀尾井坂にて大久保利通暗殺・・・!!

なんと・・・西郷どんが迎えに来ました。

??終わると思っていたら、這いずり回る西郷どんです。

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「もう・・・ここらへんでよか・・・」by西郷どん

??何回終わったら気が済むん??っていうほど、終わりがたくさんありましたね・・・

なんだか西郷どんの死に方・・・時間軸がよくわからなかったなあ・・・。
西郷さんより桐野利秋が先に死んだし、別府晋介もどっかいったし・・・もやもやです。

で・・・最終的に、吉之助さあと一蔵どんが手に手を取ってあの世へ行ったんですか??
そう見えたんですけど・・・。
やっぱり1年かけてBLだったんでしょうか??
1年見ていて思った事・・・それは、本筋でBLをやるのはなしだなあ・・・ってことです。
今年は「おっさんずラブ」が流行りました。でも、そのBLとはまた違うんですよね??
彼等は150年前に確かに生きていて、子孫の方がいらっしゃるんです。
司馬遼太郎さんは、100年経たないと歴史にならない・・・みたいなことを言てらっしゃいましたけど、やっぱり幕末の人は、かなり資料も残っているし、ちゃんとした子孫の方が生きていらっしゃる・・・。

と書いていて思ったのは、この作品、BLでなくてもみんなをサゲサゲの作品だったなあ・・・と、思うのです。
誰の正義もちゃんと書けていなかったなあ・・・それならみんな人殺しだよ・・・。

話はそれてしまいましたが、BLについて・・・
私が子供の頃にJUNEという雑誌があって・・・やおいや百合がかなり流行った時代でした。
もともとの日本の歴史に男色があったこともありますが、腐女子爆発的に人気が出たのはなんだろう??
個人的には「リングにかけろ」だと思っていますが・・・。
長浜ロマンロボシリーズかも知れないですね??
長浜ロマンロボシリーズが機動戦士ガンダム(腐女子の大好物はシャアガル)になっていくわけですが・・・。

先日、某塾講師の先生のテレビ番組で「新選組もBLだった」みたいな見出しでやってましたけど、今のBLと男色を一緒にしないでほしいなあ・・・と思ってみていました。
男色や衆道の理由にはいろいろあって・・・そこには愛でないものもあると思うんです。
尊敬とか、主従関係とか、僧侶だったとか、女性が少なかったとか・・・
そして、BLは二次作品でないと・・・ってことです。

「好き」って感情でなく・・・
例えば、西郷さんはその尊敬されるあまり桐野利秋によって「新政府軍には渡したくない」と、殺されたともいわれています。
このワンシーンを加えるだけで、腐女子たちは自分でBL化できると思うんです。
それこそ、西郷さんの首を渡すわけにはいかないと、首を隠したという人もいます。
もちろん、ここでBLしたかったであろう大久保利通・・・ただ単に号泣させるのではなく・・・
心の底ではわかりあっていた・・・そう表現することで、腐女子たちは自らBL化してくれるでしょう。
腐女子が好きなのは、友情や、信頼関係なんですよね・・・
ジャンプの友情マンガには、そんな作品が溢れています。
だからそれが腐女子が求めているモノなんですよ・・・。
スラムダンクでの花道と流川のハイタッチとか・・・ただ単に「愛」ではないと思います。

そしてもう一つ・・・歴女が好きな大河について・・・。
誰かが書かれていましたが・・・腐女子はラブラブとかを見たいわけではなくて・・・
斬り合いの中で、吐血しながら階段を転げ落ちる(これは沖田総司な感じ)を見たいのだ、と。
なんかわかる気がする・・・。
私は歴女という言葉が嫌いです。
だって、女性が歴史を好きになっても普通でしょ??
歴女とか、山ガールとか・・・別に女を強調する必要ないんじゃないかな??って思うからです。
そんな私、昔は永倉新八の良さがわかりませんでした。
だって、最後まで新選組隊士として戦わなかったから。
今は、あの時代にあの生き方はしんどかっただろうなあ・・・って思うけど。
若い頃は、そんな儚い男子が好きだったんですよ・・・たぶん歴女はみんなそうじゃないかな??
だから、突っ走った長州はともかく、寝返った薩摩は好きじゃないけどね・・・??


とにかく、今回西郷隆盛をいろいろ調べて思ったのは・・・
テロリストと言われるだけあって、なかなか黒い部分の多い人でした。
あれだけ黒い人を大河で綺麗に書くのは本当に難しいだろうなあ・・・ってことです。
ほんと、かなりえげつないことしてますもん。

この大河では、大久保利通とっても悪者でしたが、大久保利通という人は義理とか人情とかよりも日本政府をつくることが第一の人でした。
なので、西郷さんとは対極にある人というか・・・義理と人情を無視しても日本政府を作る人だったんです。
対極にある二人でしょ??
だから、西郷さん一人なら難しいけど、大久保利通と一緒に描いたら友情物語ができたのになあ・・・って思います。
その二人の心が繋がっていれば・・・
それを書くだけで、脚本家先生の書きたかったBLになったのにね??

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全国に26万人いる警察官。
警視庁は、東京都を管轄する警察組織です。
警察は、我々の安全と秩序を守ってくれます。
が・・・現在の組織になったのは、今から150年前!!
しかし、警察官として最初に採用されたのは、博徒などのならず者や浪人たちでした。
悪化していく東京の治安に西郷隆盛が採った策とは・・・??
西郷から治安維持を任せられたのは、川路利良でした。

江戸時代の治安は、町奉行・与力・同心・岡っ引きなどによって守られていました。
しかし、江戸幕府が崩壊し、明治となると・・・
江戸は東京となり、近代化を推し進める新政府は、旧幕府の制度を廃止していきます。
そんな中、町奉行所までもが消滅し、東京の治安は悪化の一途をたどっていました。

1870年イギリス人暗殺事件が起きて・・・町奉行所に代わるものの必要性を感じた政府。
この時、首都の治安を任されたのが、新政府の重鎮・西郷隆盛でした。
西郷はどのようにして治安回復を行ったのでしょうか?

まず、薩摩藩などから兵を出させ、市中の取り締まりをする”取締”という役職を作ります。
しかし、つきたがる者もなく・・・人数合わせのための博徒や浪人などが含まれていました。
治安を守るどころか、権力を振りかざすようになる取締・・・益々治安が悪くなっていきます。

ヨーロッパ留学から帰国した弟・従道。。。
「フランスにはポリスっちゅうもんがありもうしてな
 こいはほんに便利なもんでごわした」
そして、ポリスは、市民の保護や町の警備、犯罪の摘発を行う仕事だと教えました。
西郷は、早急にポリス制度を導入しなければ・・・!!
1871年取締→邏卒とし・・・かつて武士で、のちに士族となった身元の確かな者たちを中心に採用することにしました。
この士族の起用には、首都を守る以外に、失業した武士の補償ということもありました。
この人事を任されたのが、役人だった川路利良でした。
1834年薩摩国にうまれた川路は、藩の与力として江戸勤番となりました。
様式の銃と出会い、西洋の兵器を学ぶようになります。
1864年禁門の変で功績をあげた川路・・・その後も西郷に引き立てられ、1871年には東京府典事に就任・・・西郷は恩人でした。

そんな西郷から川路は、邏卒候補を探してくるように命じられます。
「身体強健にて 品行方正な薩摩郷士1000人を鹿児島より徴集してくるように。。。」
そして、川路1000人、西郷が1000人の薩摩の下級武士を探し、他の藩の士族1000人と合わせて3000人が邏卒として集められました。
この時、江戸を守っていた与力や同心たちも採用されています。
1872年8月23日、邏卒は国の司法省管轄となります。
地方警察が、国家警察となりました。

「警察手眼」で川路は・・・
「警察とは、国家の治療薬であり良民を保護し、内国の気力を養うもの」としています。
そんな信念のもと、川路は、近代警察づくりに邁進していきます。

しかし、問題は山積み・・・

①邏卒内のいじめ
特に深刻だったのが、薩摩藩内での間でした。
邏卒の中には、薩摩藩時代の上級武士で、天皇の護衛だった近衛兵となっていた陸軍省のエリートも含まれていました。
しかし、その扱いは、下級武士出身の邏卒と同じものでした。
エリートだった邏卒は不満を解消するように、同じ薩摩藩の邏卒にいやがらせを繰り返します。
近衛兵に絡まれてもただただ我慢!!そうなると、近衛兵出身の邏卒たちは刀を振り回し始める始末・・・。
下級武士出身の邏卒たちはいつも泣き寝入り・・・
職を辞し、国に帰るものもいました。

川路は、再三陸軍省に掛け合いますが・・・埒があきません。
結局、非番の邏卒を見張りに回らせます。

②組織の改革
江戸時代は、警察機能と司法機能が同じ奉行所管轄でした。
そのため、警保寮も司法省のもとに置かれていましたが、それでは公平さが失われるということで、西洋と同じように、警察と司法の分離を主張!!
1874年警保寮は、内務省管轄の東京警視庁となりました。
これが本格的な日本の近代警察の誕生でした。

しかし、再び問題が・・・邏卒たちが次々と辞めていきます。
政府内で起きた征韓論が原因でした。

鎖国していた朝鮮に門戸を開かせようとする征韓派(西郷隆盛・板垣退輔・江藤新平)と反征韓派(大久保利通・木戸孝允・岩倉具視)らが対立!!
その結果・・・論争に敗れた西郷らが下野してしまいました。
これに伴い、西郷を慕う邏卒たちが次々と辞表を出していきました。

警察官のうちの1/6が辞職してしまいました。
この時、川路もまた下野するのではないのか??と言われていましたが、この後始末に奔走!!
すると、川路は西郷に世話になっておきながら、信義を知らぬ薩摩の面汚し!!と、たたかれることとなります。
しかし、川路は・・・
「ポリスは、人民を守るのが役目でごわす。
 政争の道具ではありもはん。」
強い意志で、理想を貫き警視長に就任!!

組織改革に全人生をかけるのです。
しかし、260年続いた江戸幕府の警察機能を、短期間で近代警察にかえることは並大抵のことではありませんでした。

東京警視庁は、新たに10の階級制度を設けます。
邏卒は巡査、4階級に分けられました。
当時の給料は、大警視の川路が350円。
一番下の四島巡査で4円でした。
川路はこの巡査に対する決まりを作っていきます。

警察手帳
日本最初の警察手帳は「手帳取扱心得」
明治7年8月巡査全員に配布され、常時携帯されることとなります。
その中には、所属と階級、氏名・・・紛失した場合は、厳しい処分が待っていました。
十手に変わって棍棒を採用!!
警部以上は刀を携帯できたのですが・・・これを、サーベルに替えます。
日本の近代警察を作っていきます。

町の治安を守る巡査は過酷・・・12時間勤務で、
昼番・午前8時~午後8時
夜番・午後8時~午前8時の二交代制。
警察署に当たる屯所と交番が勤務地でした。

その仕事内容は・・・
巡行・立ち番・待機でした。
巡行・・・屯所から出て交番までを30分間警邏する
立ち番・・・交番の前後左右100歩を1時間歩きながら警邏する
別の道を30分帰って・・・巡行後に1時間待機。
これを3人でローテーションでやるのです。
しかし、勤務が明けてもゆっくりと休みことが出来ず・・・1時間ごとに起こされます。
巡査たちは極度の睡眠不足に・・・!!
さぼるものも出てきました。
不正を最も嫌う川路は・・・
「夜も昼も眠ることなく、職務に専念せよ!!」
そして、巡査の不正を取り締まる見廻り役警部を作ります。・・・彼らはオバケと呼ばれ恐れられました。
「警察官は臨戦態勢を維持せよ
 寝ても覚めても警察官であれ!!」by川路

巡査の中には、昔の岡っ引きのような人もいました。
彼らは素行も悪く・・・同じように教育し、市民の信頼を得るために・・・!!
西洋との差を縮めるために・・・!!


文明開化は町に混乱をきたしていました。
明治になり郵便制度が出来、郵便箱が設置されます。
しかし、人々はこれをゴミ箱と勘違いし、ゴミを入れていきます。
これに対処するのが巡査でした。
裸同然で歩いている人、川にごみを捨てている人、家のカギを閉めていない人・・・注意しなければなりません。
新しい時代に翻弄される人々を指導しました。


川路率いる東京警視庁が、本格的に活動しだしたころ・・・不平士族の反乱がおきます。
江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、不平士族の反乱がおきたのです。
どうしてこのような反乱が・・・??
江戸時代の武士は、藩から俸禄を得て暮らしていました。
しかし、明治となると、大名や武士階級が廃止され、大名を華族に、家臣を士族としました。
1187年3月、節の魂である刀を取り上げる廃刀令を発布。
8月にはそれまで保証されていた俸禄まで無くしてしまいました。

当時、明治政府は、公家、大名、武士たちに旧来通りの家禄、維新の時の賞俸禄を支給していました。
しかし、国家財政への負担が多く・・・秩禄処分にし、一定の額のみの支給としたのです。
収入が急になくなる・・・多くは警察官となりますが、あぶれていきます。
商売は全く上手くいきません。
武士としてのプライド、特権を失った人々・・・明治維新のために戦ったのに・・・どうして!!
旧官軍の間で反乱が各地で起こります。

各地で起きた不平士族の乱に立ち向かったのが、川路率いる警察官たちでした。

西郷は鹿児島に戻り、私学校を開いていました。
そんな西郷もまた・・・1877年2月15日教え子たちに担がれて蜂起!!
西南戦争勃発!!
この時内務卿の大久保利通は、すぐさま川路に鎮圧にあたらせます。
警察のトップだった川路は、陸軍少将も兼任し、陣頭指揮を執ることとなります。
しかし・・・大きな恩のある西郷との戦い・・・!!
川路は故郷に帰るのでは・・・??
「私情においては、まことに忍びない事であるが、国家行政の活動は1日として休むことは許されない。
 大義の前に、私情を捨てて、あくまで警察に献身する。」by川路
警察官として西郷とたたかう道を選ぶのでした。

そんな川路の懸念は・・・??
反乱軍は、示現流の使い手が多く、戦いにも慣れている・・・
刀を抜いて襲い掛かってくるはず・・・
武士出身の警察官はともかく、陸軍は農民出身者が多く・・・刀の使い方には不慣れでした。
戦いが始まると、川路の不安は的中!!
反乱軍に圧倒され、陸軍は次々と敗走!!
このままでは負ける!!
指揮官・川路は危機!!
そこで新兵力・警察抜刀隊の編成でした。
目を付けたのが、東北の士族たちでした。
旧会津藩士などを警察抜刀隊に採用し、復しゅう心を利用しました。
命を懸けて西南戦争に立ち向かっていく警察抜刀隊!!

川路も別動隊を率いて戦います。
3月20日、追い込まれた反乱軍は総崩れ・・・
9月24日、西郷隆盛が自刃するのです。
西南戦争は、政府軍の勝利に終わりました。
川路は、勲二等日重光章を授与されます。
しかし、同じ薩摩藩士を死に追いやった大久保と川路に対する非難の声は、世間はもとより政府内にあっても厳しいものでした。
しかし、誰よりも悲しんでいたのは自らの手で朋友・西郷を葬ってしまった大久保利通と恩をあだで返した川路達自身でした。

川路の生家が暴徒化した民衆によって打ち壊され、川路の親族というだけで親類たちが7人も殺され、首を晒され・・・川路は人知れず泣いたと言います。
1878年5月14日大久保暗殺!!
政府のトップが殺されたという非難は、あらかじめ暗殺に対する備えがなかったということで川路に・・・!!
すり減る川路の神経・・・
大久保の葬儀が終わると、新しい内務卿・伊藤博文に辞表を提出するものの・・・却下されてしまいました。

大警視となって5年目の1879年、川路は再びフランスへ・・・
西南戦争後の警察制度の再警備に向けて・・・!!警察官僚の育成方法を学ぶために・・・!!
しかし、心身ともに疲弊しきっていた川路は、病にむしばまれていました。
わずか4か月で無念の帰国・・・。
その5日後、川路は46歳という若さでこの世を去るのです。

人民の秩序と安全を守る優秀な近代警察を作る・・・
命がけで全うしようとした川路・・・その警察人生はわずかに8年間でしたが、その情熱と功績は計り知れないものがあります。

警察手眼に書かれています。
「警察官の精神は全て、人々を慈しみ援助すること以外にないであろう。」
「人民と接するときは、まるで子供に接するように懇切に徹しなさい。」
それは、川路がパリで観た理想の警察官の姿でした。



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