日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:幕末

明治20年、政府内で検討された一通の文書・・・

”右の者、満三年皇居を距てる 三里以外の地、退去” 

名指しされたのは、福沢諭吉!!
明治最大の啓蒙思想家にして教育者・・・
”天は人の上に人を作らず”で始まる学問ノススメは、あまりにも有名です。
ところが・・・明治政府は福沢を、危険人物とみなし、周辺に密偵を張りつけ、誰と会い、何をしゃべったかまで逐一報告をさせていました。
その訳は・・・”福沢は見え過ぎていた!!”

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幕末、三度にわたって洋行した福沢は、理想的な政治体制を見出します。
イギリス議会政治です。
血を流すことなく政権交代ができる・・・福沢は、次々と啓蒙書を出版、イギリス流議会政治の導入を解き続けます。
その前に立ちはだかったのが、薩長藩閥政府でした。
福沢の国民への影響力を削ぐために、政府内で密かに進められた工作・・・そして引き起こされたのが、政府から福沢シンパを追い出す明治十四年政変でした。

時の権力者が恐れた福沢のすごみとは・・・??

東京・三田の慶應義塾大学・・・明治の末に建てられた図書館旧館に、福沢が生涯で目指したステンドグラスがあります。

”ペンは剣よりも強し”というラテン語の上に描かれているのは、鎧兜をつけた武士が馬から降り、西洋文明の象徴である女神を迎える様子です。
封建時代の旧制度を改め、文明の世を切り開くという福沢の理想が描かれています。
剣の時代からペンの時代へ・・・
福沢の思想は、いかに形作られたのでしょうか??

福沢と西洋の出会いは蘭学でした。
緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾・適塾に、郷里・中津から留学、修行に励んでいました。
下級藩士の次男坊だった福沢は、最新の西洋知識を身につけることで、人生を切り開こうとしたのです。
福沢の修行の様子を伝える資料が残されています。
福沢諭吉が初めて本格的に翻訳した原稿・・・ペルの「築城書」
西洋式の城の作り方の本で・・・それを通してオランダ語を翻訳する力を身につけ、西洋のことを知りたいという意欲が感じられます。
福沢は、オランダ語の原書を写し、独力で翻訳、精密な図も添えた力作にしました。
福沢諭吉なる蘭学に秀でたものがいる・・・評判は、中津藩で一気に広まりました。

1585年、福沢は、蘭学塾を開く藩命によって江戸へ・・・!!
しかし、待っていたのは驚くべき現実でした。
開港したばかりの横浜へ行ってみたところ・・・苦心して学んだオランダ語が全く通じない・・・!!
英語が世界の共通語となっていました。
一念発起して、英語を学び始めます。
その決断が人生を大きく開くことになります。
1860年、幕府に英会話能力を買われ、従者としてアメリカへ・・・
さらに1862年、ヨーロッパ諸国を歴訪した福沢は、旅の途中、国家のありようを大きく揺るがされる経験をしました。
あるオランダ人医師から、イギリスの政治について講義を受けたのです。

”イギリスの政治は、国王、上院、下院、3つの要素から成り立っており、政党は、自由・保守の2つがある”

福沢が一番理解に苦しんだのは、イギリスの二大政党制でした。
江戸時代、日本国内では徒党を組むことは禁止されていました。
イギリスの議会には、野党が存在して、野党を含めて議会が円満に運営されていました。
後に、福沢は日本にイギリス流の二大政党制を導入し、野党の役割が重要だということを強調していくことになります。

欧米諸国に追いつくためには、政治体制の大変革が必要・・・そう、福沢は悟りました。
ところが、帰国した福沢を待っていたのは・・・

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1864年、禁門の変が勃発。
過激な攘夷論を唱える長州藩が幕府に公然と反抗、武力衝突を起こします。
その後、禁門の変で幕府側についた外様の大藩・薩摩も、長州と同盟を締結し、倒幕に向けた動きが加速していきます。

1866年7月、幕府に「長州再征に関する建白書」を執筆。
幕府に提出しました。

”長州へ軍事行動を起こし、一挙に征服、その勢いで諸大名も制圧し、朝廷の動きも取り鎮める
 前日本国封建の制度を一変させるべきだ”

将軍が一元的に権力を掌握して、外交を積極的に展開して、産業、文化を積極的に西洋から取り入れて変えていく・・・近代化、文明化を成し遂げて、西洋に追いついていく・・・!!

しかし、その提言が実を結ぶことはありませんでした。

1866年、第二次長州征討・・・幕府は惨敗・・・
翌年、将軍・慶喜は、大政奉還を行って、朝廷に政権を返上してしまいます。
福沢が期待をかけた幕府は消滅してしまったのです。

そして始まった明治という新時代・・・
薩長を中心とする新政府は、文明開化路線を採用。
職を失った幕府の通訳経験者も数多く採用されました。
福沢にも、役人にならないかという誘いが幾度となく届きます。
しかし、福沢は固辞し続けました。

”もはや武家奉公もたくさんに御座候
 この後は双刀を投棄し、読書渡世の一小民と相成り候積”

新時代に福沢がどう向き合ったのか??
上野戦争・・・大砲の音がとどろく中、いつもと変わることなく経済の講義をする福沢がいました。
福沢が力を注いだのは若い世代の教育でした。

1872年に発表された「学問ノスゝメ」
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといへり・・・
封建的身分制から脱した明治の代を、学問を身につけ社会に貢献し、身を立てよという福沢の考えを表したものです。
政治と一線を画し、在野の言論人として生きる・・・
福沢は、新時代に新たな一歩を踏み出しました。

幕府が倒れて数年・・・明治維新は新たな局面を迎えます。
佐賀の乱をはじめとする士族の反乱です。
従来の特権を取り上げられたことに対して各地で武装蜂起、西南戦争まで続きました。

武力ではなく言論で戦おうとする一派も現れます。
1874年、板垣退助・立志社を設立。
薩長藩閥の専横を押さえるには、国会開設以外にないと主張し、自由民権運動は大きなうねりとなります。
当時の心境を福沢は・・・

”うかうかしていては、次第にノーレジを狭くするようあいなるべく、1年ばかり学問する積なり”

激変する時代に対応するには、確固たる政治理論が必要だ!!
そう痛感した福沢は、西洋の最新の政治思想書を大量に買いこみ、1年かけて読み込みます。
1875年「文明論之概略」・・・満を持して発表します。
西洋と日本の文明を比較し、今後日本がどのような道を進むべきかを説いた渾身の論説です。
この本の草稿には、出版の際に削除された部分があります。
それは、議会開設についての福沢の提言です。

”民会の体裁は、速に作らざるべからず”

国会開設の前に、まず地方議会という民会優先論です。
あくまで地方の議会をまず作って、自分の地域のことを自分で決められるようになったうえで、その次の段階として国会を作るべきだと考えていました。
下から変えて、基礎が固まっていないと国家としての基盤が脆弱になってしまう・・・!!
もう一度政治と向き合うことを決めた福沢が、慶應義塾に建設したのが、日本初の演説会堂・三田演説館です。
演説や討論という、当時日本の存在しなかった概念は、この時福沢が導入したものです。
門下生たちは、日夜福沢の前で意見をぶつけ合い、弁舌家としての腕を磨きました。
その後彼等は、全国で演説会や講演を開き、地方議会開設を訴えていきます。
政府は、選挙による地方議会導入に踏み切ります。
理想の政治体制に、その第一歩が記されました。

1879年、新たな論説を発表します。
国民に新時代への心構えを説いたものです。
「民情一新」です。
そこには、注目すべき一説が・・・

”英政を美なりとしてこれを称賛する”

日本が目指すべきは、イギリス型の議会政治だと高らかに宣言したのです。
福沢が評価したのは、イギリスの議院内閣制の仕組みです。
2つの対立する政党のうち、議会で多数を占めた政党の党首が首相となり政治を行う・・・
しかし、次の選挙で野党が多数派となると首相は一議員に戻る・・・
政権交代は、平均して3~4年に一度おこるので、議員は権力にしがみつくことがなく、建設的な議論が行われる!!
はじめて知ったときには、呆然と眺めるだけだったイギリスの議会政治が、福沢にとって明確な目標となったのです。

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一方、その頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいました。
どのような政治体制を目指すのか、国民に示す必要が・・・目をつけたのが、民間に影響力のある福沢でした。
1880年12月、福沢は、政権中枢の参議・伊藤博文・井上馨・大隈重信に呼び出され、次のような申し出を受けました。

”政府はこの度、新聞を発行することとなった
 巷の新聞は、国民を扇動して社会の安寧を妨げてばかりだ
 政府の主張を書いた新聞が必要だ
 ぜひ引き受けてほしい”

在野の言論人を標榜する福沢にとって、政府の御用新聞など問題外・・・
1か月後の1881年1月、申し出を断ろうと井上馨を訪ねた福沢・・・
そこで予期せぬ一言を聞かされます。

「しからば打ち明けよう
 政府は国会を開くつもりだ
 吾輩も国会開設に向け意を決した以上、一身の地位を惜しむものではない
 いかなる政党が進出しようとも、多数を得たものならば政府を譲り渡そうと覚悟を定めた」

伊藤と大隈も、議院内閣制導入に同意しているという井上の言葉に、福沢は大いに感激しました。

「この諭吉、もちろん国のために全力を尽くします」

悲願のイギリス型議会制度がついに実現する・・・!!
福沢にとって、生涯最良の日でした。

1881年10月、福沢にとって青天の霹靂ともいうべき事態が起きます。
新聞発行を頼んできた参議のひとり・大隈重信が政府から追放されたのです。
明治十四年の政権です。
発端は、この年の3月、大隈が政府に提出した意見書でした。

”立憲の政は政党の政なり”

大隈は、この意見書でイギリス型の議員内閣制を主張していました。
この大隈の動きに、伊藤博文が激しく反発したのです。
福沢との会談の時には、志を同じくしていた伊藤にどんな心境の変化があったのでしょうか??

その謎のカギを握るのは・・・井上毅!!
後に、憲法制定にも関わることになる法制官僚です。
7月12日、伊藤博文宛に井上毅の「内陳」が・・・

”現在巷で発表されている憲法案は、全て福澤の私擬憲法が案に基づいている
 福澤の勢力は、知らないうちに人々の脳内を泡立たせ、発酵させている”

井上は、伊藤に大隈の意見書の背後には福沢がいるとにおわせました。
さらに、福沢の思想の危険性を再三にわたって吹き込み、伊藤の考えを一変させたのです。
井上毅は、民衆が力を持つ国家感に対しては批判的でした。
人心が福沢に行ってしまえば、政治制度が議院内閣制になる可能性がありました。
実際に、選挙をやった時に、福沢派に負ける可能性が高い・・・!!
そうなると、立法権も、行政権も失い、明治政府にとって危険極まりないこととなります。
井上の説得に動かされた伊藤は、大隈を呼びつけ詰問します。

「大隈さんの主張は、天皇の大権を人民に投げ捨てる様なものだ
 参議の住職にある君が、福沢如きものの代理を務めるとは、笑うべきではないか」

大隈の政府からの追放が決定します。
その下で官僚として働いていた福沢門下生・・・矢野文雄・尾崎幸雄・犬養毅らも一斉に官職を去りました。
イギリス型議会政治への道は、閉ざされるかに見えました。

福沢諭吉“学問のすゝめ”第1回「学問で人生を切りひらけ」



1882年4月、福沢のもとに来訪者が・・・大隈重信です。
自らの政党・立憲改進党を結成したばかりでした。

「ぜひ福沢先生も、改進党に入り、ともに尽力していただきたい」

政治家となり、現実を変革する道を提示されます。
選択を迫られた福沢は・・・どうする・・・??
政治家に転身する??それとも、在野の言論人??

福沢の発言の文書が残っています。

”余は諸種の人を育成するのを任とすれば、一派の政党に与するを欲せず”

大隈の誘いを断り、あくまで言論で立つ道を選んだのです。

その後、福沢は自ら創刊した「時事新報」誌上で、政府にも特定政党にも偏ることなく、持論を発表し続けます。

”国会開設の準備として、最も肝要なのは官民調和である
 政府は真正面から人民の議論を圧迫すべきではないし、民権家が一身の不平を漏らすために、民権の名を借りるのもいただけない
 官民が調和した上で、藩閥の寡人政府を改め、多人政府となすことが必要だ”

1882年4月から5月にかけて連載されたのが皇室の在り方を書いた「帝室論」です。

”帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給ふものなり”

帝室の役割は、学術、芸術の奨励や、叙勲などに留めるべきで、政治とは離れ、国民精神の統合であるべきだ・・・
福沢は、あくまでイギリス型の立憲君主国家を目指していました。
しかし・・・発布された「大日本帝国憲法」・・・天皇大権が規定され、議会の権限が弱い、プロイセン型国家とすることが定められました。
政府と正反対の立場をとる福沢の周りには、密偵が張り付き、発言は逐一報告されました。

過激派に同情とも思える福沢は、政府にとって見過ごすことのできないものでした。
福沢は最大級の危険人物とみなされ、一時は首都東京からの追放すら検討されました。

生涯を在野の言論人として通した福沢は、1901年、病により死去・・・66歳でした。
あくまで官と対峙した思想家らしく、死後も国家からの叙勲を受けることはありませんでした。
福沢の死から40年・・・日本は英米を相手とする太平洋戦争に突入しました。
そして敗戦・・・明治国家体制は終わりをつげ、大日本帝国憲法は現在の日本国憲法に改正されました。
国民統合の象徴となった昭和天皇は、福沢諭吉の帝室論を知り、次のように感想を残しています。

「この書の中に説かれておるところは、すこぶるもっともである
 わが意を得た」

象徴である天皇のもと、議院内閣制の政府が国政に当たる・・・
福沢の理想は、戦後ようやく制度化されたのです。

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大型船が頻繁に行きかう東京湾の玄関口・浦賀水道・・・
幕末、ここで日本を揺るがす大事件が起こります。
1853年6月3日、突然4隻の大きな船が現れたのです。
黒船来航です。
当時、和船の総トン数が100tだったのに対し、黒船(蒸気船)の総トン数は2500t・・・25倍の大きさです。
この黒船の来航をきっかけに、およそ260年続いた江戸幕府が崩壊へと進むこととなります。
日本の歴史を大きく変えた出来事でした。
どうしてアメリカは極東の小さな島にやってきたのでしょうか?
幕末の日本はどう映ったのでしょうか?

太平の 眠りをさます 上喜撰
       たった四杯で 夜も眠れず

”上喜撰”という緑茶と、蒸気船をかけています。
そしてたった四隻で幕府は不安で眠れない様子を揶揄した歌です。

アメリカ側でもそんな記録が残されています。
マシュー・ペリーは、アメリカから4隻の船で浦賀にやってきました。
蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、そして2隻の帆船です。
艦隊は全部で63門の大砲を装備、臨戦態勢を布きながらを進め、午後5時ごろ浦賀沖に錨を下ろしました。
初めてみる日本・・・ペリーの第一印象は・・・

「投錨の直前に天候は晴れ上がり、富士山の高い頂がますますくっきりと見え、内陸部に広がる群峰よりはるかに高くそびえていた」

ペリーにとっても霊峰富士は強烈な印象だったのです。
ペリーが遠路はるばるやってきた目的は二つありました。
①アジア諸国と貿易をする拠点を作る
②捕鯨船の補給基地を作る
この時ペリーにはもう一つ重要な任務がありました。
アメリカ大統領の親書(国書)を日本に渡す任務です。
鎖国を続けてきた日本に、どうやってアメリカの要求をのませるのか?
ペリーは事前の日本の情報から日本人の特性を掴み、幕府との交渉方針を決めていました。

「排他的に振る舞い、気難しい人物を演じれば演じるほど、形式と礼儀を重んじる日本の人々は、こちらの目的を尊重するようになるだろう」

ペリーが浦賀に停泊すると、すぐに浦賀奉行所の船が近づいてきました。
そして役人のひとりがいきなり横断幕を広げたのです。
そこには当時ヨーロッパの公用語だったフランス語で「艦隊は撤退すべし!」と書かれていました。
もちろんアメリカ側も意味は理解していましたが、毅然とした態度をとっていたいペリーはこれを無視!!
しかし、幕府役人はなかなか引き下がりません。
ひとまず役人を乗船させ、部下のコンティ大尉を通してこう告げます。

「われわれはアメリカ合衆国大統領から、幕府将軍に宛てた親書をしかるべき役職の人物に受け取ってもらいたい」

ペリーは幕府の役職にある人物と会うことが交渉の近道だと考えたのです。
しかし幕府役人は・・・

「異国との交渉は、長崎でしか行えない
 親書は長崎で渡してもらいたい」

別の異国船が来航した際、この言葉で体よく追い返した例がありました。
今回も、帰ってもらおうとしたのですが・・・それを聞いたペリーは激怒!!
幕府役人を追い払ってしまったのです。
そしてここから全く開国する気のない幕府と、何としても国交を結びたいアメリカとの長い戦いが始まるのです。

黒船を見ようとたくさんの人々が浦賀に詰めかけます。
中には見物人相手に商売をする人も・・・
望遠鏡の貸し出し、船での黒船見学ツアーなどです。
ペリーの似顔絵も販売されました。

この時繁盛したのが武具師・・・
江戸幕府始まって以来、武具を使うことがなかったので、多くの旗本、御家人たちは持っていなかったのです。一斉に武具を買いに走りました。

ペリーはいきなりやってきたのではなく・・・幕府は事前にペリーが来航することを知っていました。
諸外国との交易・交流を制限する鎖国政策をとっていた幕府は、取引場所を長崎の出島に限定し、相手はオランダと清国とのみ交易をおこなっていました。
そして、その見返りとして彼等から欧米列強に関する情報を得ていたのです。
当初は開国を求めてやってくる他の欧米列強に対し武力での排除を行っていましたが・・・
1842年清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、不平等条約の締結を強要されたという情報を得ると、大きく方針を変換・・・
1842年薪水給与令を出し、外国船に燃料や水を与え、穏便に帰ってもらうように指示を出していました。
アヘン戦争のころから、欧米列強の武力に脅威を感じ始めています。
”ペリー来航”の情報も、お蘭だから事前に知らされていました。

「アメリカ合衆国が艦隊を派遣し、交易をおこなうために日本へ渡来するとの事、司令官は当初オーリックというものであったが、ペリーなる人物に交代したようだ」

この風説書がオランダより幕府の手に渡ったのが1852年7月でした。
ペリーがアメリカを出発したのが10月でした。
ペリーがアメリカを発つ3か月も前に、オランダを通じてアメリカが通商を求めてやってくることを掴んでいたのです。
しかし、幕府は何ら手を打つことができませんでした。
当時の将軍は12代将軍徳川家慶・・・病気がちだったために老中首座・阿部正弘が政務を行っていました。
当然阿部は、オランダからの報告を聞いていましたが、この年・・・1852年5月22日江戸城西ノ丸御殿が焼失・・・。
再建工事に莫大な費用が掛かるために、軍費にお金を割くことが難しかったのです。
この頃、外国の情勢に詳しい薩摩の島津斉彬と会談した阿部は、こんな事を漏らしています。

「もしアメリカが来ても、なるだけ穏便に済ませ、長崎へ行ってもらうしかない」

そしてペリーが実際にやってきました。
阿部の指示通り、長崎へ行ってもらうようにしますが・・・拒否されてしまいます。
さらにコンティ大尉はこう脅してきました。

「浦賀でしかるべき役人が大統領の親書を受け取らなければ、我々は武装して江戸城へ向かう」

対応した浦賀奉行所・香山栄左衛門は・・・
「船の中は、緊迫した状況であり、アメリカ側は皆殺気立っていた」

幕府はようやくアメリカが本気だということに気付いたのかもしれません。
戦争は避けなければ・・・ようやく幕府は親書を受け取ることに・・・。

1853年6月8日・久里浜・・・6日目・・・アメリカ大統領の親書の受け渡しが行われました。
幕府は江戸湾の警備を行っていた彦根藩・川越藩などの藩兵を5000人配置!!
対してアメリカ側は武装した水兵300人!!
幕府の代表としてペリーを出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道・・・
この時の様子をペリーは・・・
「戸田、井戸の両候は、初めから最後まで銅像のように動かず、一切言葉を発しなかった」
この日はあくまで親書を受け取るだけ・・・
余計なことを言わないように釘を刺されていたのかもしれません。
双方無言の中、13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書が日本側に渡されました。
そこには・・・
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給
それを渡したペリーは・・・
「来年の4月か5月にふたたび来日するので、その時に親書に対する返答を聞かせてもらいたい」
そう言い残し、アメリカがアジアの拠点としていた清国の広東へと向かったのです。
どうしてペリーはその場で交渉しなかったのでしょうか?

幕府はなるべく時間稼ぎをし、はぐらかし、アメリカを諦めさせようと考えていました。
幕府のペースに巻き込まれることを避け、効率よく時間をおいての交渉で決着しようとしたのです。

あっけなくペリーは去りましたが、阿部正弘は再びやってくるペリーにどう対応するのか?頭を悩ませていました。
すると阿部は、驚きの行動に出ます。
親書を一般に公開し、大名から庶民に至るまで広く意見を募ったのです。
時代が大きく動いていました。
全国から約800通の建白書が寄せられました。
一番多かった意見は、「アメリカの要求を拒絶し打ち払う」という案でした。
200年以上守ってきた伝統を崩したくない・・・
しかし、積極的に開国し、アメリカとの貿易で得た利益で軍備を強化するという意見もありました。

1635年、3代将軍家光の時に、「大船建造の禁」によって幕府も軍艦を所有できていませんでした。
阿部は、諸大名に対し大型船の建造を許可し、オランダへ軍艦を発注しています。
しかし、ペリーがやってくるまで9か月!!
ペリーが再来航するまでに強化できた軍備は、品川沖に台場を建設するぐらいでした。

幕府はアメリカン関する情報収集にも乗り出します。
土佐藩士の中浜万次郎を江戸に呼び、旗本格として登用しました。
ジョン万次郎で知られる中浜は、漁船で漂流後、アメリカで10年間暮らし、ようやく帰国したばかりでした。
万次郎は・・・
「アメリカはかなり前から日本と親睦を持ちたがっていました。
 メキシコとの海上戦でわずか4時間ほどでアメリカ側が勝利をおさめた」
などと、開国を進言!!
更に幕府は長崎奉行を通じてオランダ商館の館長クルティウスにも助言を求めます。
「アメリカの要望を一切無視したならば、戦争に発展しかねない
 試しに一港だけ開いてみたらどうか」
多方面から様々な意見を聴取した幕府老中・阿部正弘でしたが、いかにアメリカの要求をはねのけることが難しいか・・・痛感するばかりでした。

1854年1月16日・・・ペリーが再び来航!!
幕府は焦ります。
ペリーの予告では、4月か5月との事だったからです。
そこにはペリーの思惑がありました。
前回の来航直後、12代将軍徳川家慶が亡くなっていました。
そこで、その混乱に乗じれば、用意に条約締結に持ち込めるのでは?と考えたからです。
前回の来航後、ロシアも日本に開国を迫っていたので、他の列強国を出し抜いて、有利な条約を締結したいとも考えていました。
アメリカが要求したのは三つ・・・。
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給

日米両国の国益をかけた戦いの前に、水面下で駆け引きが始まりました。
この時ペリーは、長い航海で持病のリウマチが悪化・・・体調を崩していました。
それを聞き付けた幕府は、お見舞い品として大根800本、人参1500本、鶏卵1000個などを届けています。
対してアメリカ側も、幕府役人らを船に招待・・・
西欧料理や酒を出してもてなしました。
アメリカは船に生きた鶏、羊、イタリア人シェフまで乗せていました。
万端の準備をしていたペリー・・・。
食事でもてなすことで、友好的なムードを作り出そうとしたのです。

こうして当日を迎えましたが・・・両者が激突します!!
アメリカ代表のペリーに対峙したのは江戸幕府応接掛筆頭・林大学頭!!
冒頭、林は3つの条件のうち、難破した船員の救助と保護は承諾します。
そして石炭、水、食料の補給も承諾!!
しかし、両国間で通商を結ぶのは、国の決まりで出来ないと断固拒否!!
この時幕府側は、全てを拒否するのは難しいと考え、受け入れを最小限に止めるという方針に転換していたのです。
しかし、それを聞いたペリーは態度を豹変!!

「貴国は難破船の救助を行わないうえ、海岸に近づこうとしただけで発砲してくる
 さらに、漂着した外国人を罪人同様に投獄している
 貴国が国政を改めないならば、我々は戦争も辞さない覚悟である」

林を揺さぶろうと過去の非人道的な行為をあげて責めます。
しかし、林は動じません。

「外国船に発砲していたのは一昔前の話であり、漂着民に対してもオランダを通して長崎の出島から返還している」と、理路整然と反論!!
さらに通商に関しては・・・
「自国の産物で十分に事足りている」
と、きっぱり拒否したのです。
すると驚いたことに、ペリーは通商の要求をあっさりと取り下げてしまいました。
どうして・・・??
自分達の要求をすべて飲ませようとしたものの林大学頭らが手ごわいのを見て、方針を転換したのです。
全部を処理しなくても、国交樹立を最優先して段階的に通商を認めさせようとしたのです。
こうして日米の間で、ひとまず合意に至りました。
大筋では合意したものの、交渉はまだ終わりません。

日本にやってきたペリー・・・
日本のはじめて目にする日本の風俗や文化に驚きます。
ある時町の銭湯へ・・・驚愕!!
男女とも入り乱れて混浴!!
「日本人は道徳心に優れているのに、その道徳心に疑いを感じざるを得ない」

さらに既婚女性のお歯黒にびっくり仰天!!
「妻がこんな歯をしていたら、夫はものも言わず逃げ出してしまうだろう」

一方で日本人に器用さに感心します。
町で売られていた浮世絵のち密さとユーモアに感嘆!!
焼き物の磁器や漆器の優美な形と洗練されたデザインに魅せられます。

日本人がひとたび欧米諸国の技能を知ったならば、近い将来強力なライバルとなるだろう

日米の交渉は大詰めを迎えていました。
アメリカの蒸気船の燃料である石炭と水、食料の補給などをどの港で行うのか??
幕府は、当面は長崎で行い5年後に別の港を追加することを提案します。
それに対しペリーは・・・

「本来の趣旨を理解されていないようだ」

アメリカが日本に目をつけた主な理由は、太平洋航路の中継地点としたいからです。
太平洋に面していない長崎は、その狙いから外れているので、納得できるものではありませんでした。
ペリーはここでこんな申し出をします。
「大統領の命により運んできた土産の品々を贈呈したい」
献上品は、全部で140種類に及びました。
なかでも幕府の一港が目を見張ったのが、1/4モデルの蒸気機関車と、モールス電信機でした。
アメリカ側はそれらを実演してみせ、日本側を大いに驚かせます。

「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、画集国からもたらされた発明品の数々は恰好の機会を得た」

幕府も負けじと贈り物をします。
米と酒・・・ここで50人もの力士を導入し、1俵60キロもある米俵を片手に二俵づつ、計4俵担いで運ばせて・・・力士の怪力ぶりを見せつけます。
力士たちの巨体と怪力に、ペリーたちは圧倒されます。

「偉大な筋肉は、ヘラクレスのよう彫像のごとく、隆々と盛り上がっていた」

すると予期せぬ事態が・・・傍らでこのパフォーマンスを見ていた水兵が、力士に勝負を挑んだのです。
この思わぬ日米対決に、周囲は大興奮!!
しかし、勝負は一瞬でつきました。
そして力士は水兵に向かってこう言い放ったのです。

「強さの秘密は、日本の美味い米と美味い酒じゃ」

日本が大いに面目を施した瞬間でした。

北太平洋で操業を行う捕鯨船の補給基地に数カ所、清国と結ぶ太平洋航路の補給地として会談を行っていた横浜周辺を含め他に数カ所開港することを要求します。
幕府は、当面は長崎で、5年後にもう一つ追加することで押し切りたいと考えていました。
アメリカの要求を飲めば、長崎で取引をしているオランダも同じ要求をしてくるに違いない・・・!!

しかし、ペリーは執拗に林に食い下がります。
音を上げた林は、「もはや自分の裁量では決められない」と江戸へ戻り、幕閣たちに伝えたのです。
すでにペリーが再来して1か月がたっていました。
長期にわたる交渉に疲れたのか、これ以上拒むことは不可能と感じたのか、結局幕府が折れ、「箱館・下田」を開港すると通知。
ペリーもそれを承諾し、ようやく合意に達したのです。

「この湾にきてわずか5週間・・・
 この国と、この国の人々から大きな信頼を勝ちうることができた」

そしてペリーは日本側に感謝の意を示すためにおよそ70人の幕府役人を招待し、豪華な料理、バンドの演奏にダンス・・・役人の中には酔っぱらってペリーと肩を組む者もいたほど和やかでした。
こうして締結された日米和親条約(1854年3月3日)でしたが、その中には今後日本が他国とこれ以上好条件で条約を締結した場合、その内容が自動的にもアメリカにも適用されるという・・・アメリカに最恵国待遇を与えたのです。

そして黒船の来航は、およそ260年続いた太平の世を揺り起こします。
尊王上運動を誘発し、明治維新へと繋がりました。
ペリー来航から14年後、江戸幕府はついに大政を奉還します。
もしペリーがやって来なかったら・・・??
明治になるのはもっと時間がかかったかもしれません。

日米交流の扉を開いたマシュー・ペリー・・・日米和親条約締結からわずか4年後、アメリカで63歳で死去・・・。
ペリーが日本から持ち帰ったものが、今もアメリカに残されています。
初代大統領ジョージ・ワシントンの功績をたたえるために建てられたワシントン記念塔・・・この一部に幕府からアメリカに送られた伊豆下田の石が使われています。
日本とアメリカの友好の証として・・・!!

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日本の未来をかけた幕府と長州の戦いが始まりました。
高杉晋作らが幕府軍を撃破したその頃・・・
と、そのお話は終わってしまい、美和が中臈になって興丸様の好き嫌いを治すお話が始まりました。

「幕府軍に勝てたのは、小田村様が幕府軍の足並みを乱してくれたおかげです。」by伊藤博文
・・・「高杉晋作の遺言」の回なのに、晋作のおかげではないのね・・・。
おまけに伊藤によると、興丸がすくすく育っているのは美和のおかげだそうです。
だって、先週まで赤ちゃんだったのに、もう大きくなってるからなあ・・・

あ~、何だかなぁ・・・

私の見たい奇兵隊は、すでに勝利を祝っていました。
そんな中・・・晋作・・・吐血!!

でも・・・そんなことはどうでもいいらしい。。。
「高杉晋作の遺言」なのに。。。

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野菜嫌いの激しい興丸様にこんなことをさせたり・・・

他の女性たちが大変だと怒っていると・・・

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大殿がこんなことをやっていたりして。。。
「そうせい。」

銀姫もアホっぽいし口調だし・・・。
おまけに、この畝じゃあ、何も育たないわよ・・・。
どう見ても土が固い。。。畝っぽく土を乗せただけの美術に見えるのは私だけ・・・??


高杉の病状が悪化していると奥にまで来て言う伊之助。
おまけに、美和に手紙を持ってきました。

「話したいことがあるのでできれば下関まで来て欲しいと。。。」by美和
「行ってくれるか・・・??」by伊之助

宿下がりをしてまで下関に向かいますよ。。。
興丸をほったらかしていいのか・・・??
おまけに、畑の世話まで頼んでますよ。。。
こんな話でいいのか・・・??

下関の外れの庵で養生していた晋作。
かなりのやつれよう・・・。

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なんと、元徳様から世話をするようにと命じられていたようです。
「お前たちも来たとはのう・・・」と、パーンしたら、雅と梅之進でした。
??妻なんだから、来ちゃダメなのか・・・??
それは、おうのがいるからか・・・??
ちょっと出て来てた望東尼は・・・??

「本当に、おひとりでございますね!!」
と、病人にきつい嫌味な一言を言った雅、「さっ!!」と・・・

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結核なのに梅之介膝の上に乗せたらだめだろう・・・。

「家族そろって仲睦まじく。。。」と、晋作らしからぬ??いろいろ話してるんですが・・・美和・・・出て行ってあげてください。。。
それ以上に・・・「それはようございます。」って、お前が相槌打つんじゃないよ・・・。
と、邪魔者以上の何ものでもありません。

そして・・・なんと、「高杉晋作の遺言」とは、「久坂の子を引き取って育てろ」ということでした。
なんだこれは・・・。
明日の日本はどうなったの・・・??って感じ。
長州の全てを託された男のすることがこれか・・・


と、落ち込んでいたら伊之助。
「大義であった。。。」と、大殿に褒められてます。
大きなことを成し遂げた伊之助が幕府に狙われる可能性があるから、「名を改めよと」と言われます。
なんと、大殿の右腕となっていたんだって。
「有り難き幸せ。」と、楫取素彦と名を改めます。

う~ん・・・この頃の人は、みんないくつも名前を持っていました。
伊之助だけではないんですよ。。。狙われていたのは。
晋作もいくつも名前があって・・・最後は谷潜蔵です。

晋作に会いに来た伊之助・・・
まだいたのか・・・美和。
庭掃除なんか・・・妻もおうのもいるだろうに・・・。

またもやお菓子を作って・・・松下村塾を思い出すのでした。
「うまい。。。」という晋作、思い出を語る美和・・・そこには雅は入っていけない雰囲気ですよ。。。

「高杉のことを頼んだぞ」by素彦
「はい」by美和

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薬を持ってきたのはまたもや美和。
さっき・・・家族の時間を持たせてやれてよかったって言ってましたよね、美和。。。
お世話を雅にさせてあげてください。

ウフフ・・・と、いろいろ話していますが、もう、私の耳には入りません。
と、やっぱり子供を引き取れという晋作。
引き取ることは出来ないという美和。

これからの日本が心配でたまらないと、美和に託してますよ・・・
新しい世を。。。
近くにいるじゃないの・・・??あなたが振り回していた伊藤博文が・・・!!!

「新しい日本を作れ!!新しい日本人を作れ・・・!!
 おまえならできる・・・!!美和・・・それが天命じゃ・・・!!」by晋作

と、言わなければならなかったことを必死に言った晋作は、血を吐いて危篤!!
あ~、最期ぐらい家族水入らずで・・・と思っているのに、晋作の最期の手をとったのは美和でした。
何でじゃ~~~!!
なんで、雅じゃないんや~~~!!な、展開です。
いくら託されててもなぁ・・・。
しんみり・・・やっと出ていったよ・・・美和。。。

「おもしろき こともなき世を(に) おもしろく」

波乱万丈の人生を遂げた・・・って言ってるけど、そこをやって欲しかった。。。

享年29歳の早すぎる死でした。

臨終には、雅と梅之進の他、父・小忠太と母、野村望東尼、山県もいたのです。
ま、この句は、最期に詠んだのではない・・・少し前に詠んだ句なので、下の句を呼んだ望東尼は今回欠片も出てきませんでした。
そんななら、なんで前回出したんだろう・・・望東尼。。。
美和よりも随分、重要なポジションなのに・・・
なんとも寂しい最期です。


やっと奥御殿に戻ってきた美和。
なんと、大きく育った小芋!!そんなに行ってたのか・・・??
興丸様も好き嫌いが治って万々歳の美和でした。

で・・・京で戦(戊辰戦争)が始まるという。
元徳の足りない薬を運ぶのは、またもや美和。
久坂の忘れ形見を探したいんだそうだ。。。
妾がいて当然の時代に、奥では久坂に忘れ形見がいたことをブーブーサイテーみたいなことを言ってます。
それって・・・どうよ。。。
元徳様の薬を忘れたお付の者は完全に大失態!!
おまけに届けるのは私情をたっぷり挟んだ美和だなんて・・・。

「ありえね~っつうの!!」て言わしたらどうですか”つくし”に。
ま、江も、神君伊賀越えやってますから・・・いいのか・・・

亡き夫、久坂の忘れ形見を探す為京へと旅立つこととなった・・・
と、ナレーションでは言ってますが、駄目ダメ、本当は薬を持って行くことなんですよ・・・!!
吉田松陰は、私情は捨てて公に生きろって言われたんじゃないの・・・??

  

体は私(わたくし)なり、心は公(おおやけ)なり。

私を役(えき)して公に殉(したが)う者を

大人(たいじん)と為(な)し、

公を役して私に殉う者を小人(しょうじん)と為す。


体は私で、個別的なものであり、

心は公で、普遍的なものでなければならない。

私の肉体を使って、身をかえりみずに公のために

役立てる者は、りっぱな人であり、

公である心を私の欲望のために満足させることに

使おうとする者は、

徳のないとるに足らない人である。


松陰が27歳の時、「丙辰幽室文稿」七生説の中でいった言葉です。


さすが”松陰の妹”というんだったら、松陰の妹を貫いてください。

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最近”花燃ゆ”のブログ更新がなっていない私ですが・・・
主婦には一番忙しい盆と正月、夏休みの宿題に追われているのでご勘弁を・・・!!
と言いたいところですが、最近の花燃ゆのブログ、結構つらいんです。
っていうか、史実を、事実の説明を確認しながら挟もうとすると、1話書くのにめっちゃ時間がかかります。
こんな不十分な説明でも時間がかかるのに、大河ドラマとして見ているみなさんには史実を理解してもらえているのだろうか・・・??
そこが心配です。

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今回は功山寺挙兵が”大逆転!!”なんだろうか・・・??
↓きりっとしたこの人が主人公だったらもっと良かったのに・・・
でも、新しい世を見なかったからなあ。。。
伊藤博文??と思ったけれど、伊藤博文じゃ、某国が許さないのかしらね・・・。

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いきなり伊之助の処刑がのびたようです。
なんでも、高杉晋作が下関で兵を挙げたからだとか。
それも、やっぱり椋梨をやっつけるためらしい。。。
座敷牢の美和にも鞠が教えに来てくれて・・・園山さまがやってきて、銀姫をお守りせよ!!という指令が出されたのでした。
なんでも情報は全て美和のもとへ・・・まるでハブ空港だよ・・・。

大雪の降った・・・その日・・・
「奴らの手から長州を取り戻す・・・!!」by晋作
そうか・・・討幕じゃなかったんだ・・・。
なんだかここまで来ると、藩内の小競り合いに見えてしまって・・・
高杉晋作のダイナミックさがかき消されてしまうわ・・・。

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「これより、長州男児の肝っ玉、お目にかけ申す!!」
でもね、カッコいいわ

銀姫様のお子に何かあっては一大事・・・と、分をわきまえて奥をかき乱さないように・・・都美姫様の命が下りました。

なに??姫様のお付を増やす??前にリストラしたのに・・・??
でもって、またもやお願いをする美和。

なんか杉家に身を寄せている雅。。。
美和の力でお側付きとして奥に入ることになります・・・赤ちゃんを連れて・・・
オカシイやろ??反乱軍の妻が・・・
これで銀姫と都美姫の確執が生まれたんじゃないの・・・??
全く分をわきまえておらず、反論する美和。。。
ほんと、主従関係が解っているのかしら・・・??って感じがしますがどうでしょう??
おまけに雅の子をあやす姫を「お上手でございます。」なんて評価する雅。。。
家臣の子を・・・今となっては脱藩した逆賊の子ですよ。。。
主従関係のもとに、尽くして尽くしまくる・・・義を貫く・・・そこが武士の凛として美しいところだと思うのですが・・・
反論ばっかりしているのは駄目じゃないんだろうか・・・。

お・・・木久扇師匠、特別出演ですか・・・??
最近多いですね。。。

そして戦いが・・・
名もなき民の力を得て・・・とナレーションしていますが激しいはずの戦いで・・・
晋作さん、いくら粋でも三味線ですか・・・??
なんだかしらけて現実に引き戻されちゃうわ・・・。
でもって、文之進の息子・彦助は負傷し・・・敏三郎にみとられて亡くなります。
負傷したのは事実ですが・・・実は自害しています。
いかがわしい画や悲惨な画がNHKでは駄目なことは知っていますが、自害も駄目なんでしょうか・・・??
武士として死なせてやりたかったような・・・従兄弟の割に出てこなかったしね。。。

なんだか晋作が奥に攻め込んでくるような感じにお話がなっていて・・・
そんなことしないよ・・・毛利家に仕えていることを誇りに思ってるんだから・・・晋作は。。。
とりあえず、若殿には信頼されていたから、そこら辺を・・・。
新しく入った女中に”晋作の妻”のいることが、都美姫にばれてしまいました。

「やはりお前か・・・!!」by都美姫。

まさにその通り。。。美和のせいです。
御手打ち・・・??

そして雅も・・・自分を人質にとっておけば高杉は手を出せない・・・全ての奥を守る手段だと言ってますがね・・・

「さすがは高杉晋作の妻・・・!!おもしろい!!」
なんて銀姫が人質にしちゃいました。
そう、産まれてくる自分の子供を守るために・・・って、もう、開いた口がふさがらない展開です。

まあ・・・美和のシーンがなければ、いい感じの功山寺挙兵でした。
って、それじゃあ、主人公の立つ瀬がないか・・・

で・・・なんだか知らなないけど、伊之助の処刑が”まかりならん”となりました。
ここら辺がなぁ・・・どうしてまかりならんのか・・・どうしてそうなったのか・・・教えてくれよ・・・って感じ。

伝えに来た高杉小忠太ですが・・・彼は最後まで藩の中心的人物でした。
そう・・・たとえ息子が破天荒Maxでも・・・。
それぐらいすごい人だったのか??
伊之助よろしく藩の処罰が甘かったのか??そこんとこはよく判んないんですが・・・
ちなみに高杉家は・・・小忠太が破天荒息子・晋作を嫡廃しているので、居場所の無くなった晋作に殿が100石高の谷家を起こさせています。
そうなんですよね。
お父さんは厳しかったみたいですが、殿は晋作には甘いみたいで・・・なので、やっぱり晋作が奥を攻めるなんてことは・・・


いえいえ、お話は、中立派が特使として晋作のもとへやってきています。
このメンバーに梅兄がいますよ・・・ここも、捏造です・・・。
メンバーに私の結構好きだった梅兄はいません。
そんな史実がどうこうより、兄はそんな重要な立場にいたの・・・??
おまけにこの時点ではすでに椋梨更迭だったらしいのです。

ちなみに鎮静会員の代表メンバーは、香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎の四人を山口に派遣し、諸隊の頭領高杉、山県、井上らに通達したというものです。

でもって、お城に向けて晋作が空砲!!空砲!!

そんな中、銀姫様をほっといて殿のもとへ行こうとする美和!!

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都美姫様に拒否られちゃいました。
ほんと、御手打ちもんです。

あ、そう言えば、娘が見ているから仕方なくテレビがついているのだけれど、”エイジハラスメント”観ていて・・・武井咲ちゃん演じる英美里と似ているなあ・・・って思ってきました。
なんのキャリアもないのに、自分の意見を正当化して突き進む!!みたいなキャラ。
で・・・大逆転って何ですか??








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「お世継ぎ騒動」か・・・なんだかね、三代将軍の大奥ぐらいなら良かったんでしょうが・・・
この当時、お世継ぎどころか藩の存続も危うくなってきているのに、呑気な方々です。

私・・・幕末大好きなんですが、いつも大河を見るときは、当時のことをもっと細かく検証・・・出来ないけど勉強しながら見るんですよね。
でも、ここまで来ると勉強する気も起きないわ・・・。

ちなみにこの時代は・・・
いろんな失策から前回周布政之助が切腹し、攘夷派が勢いを無くし・・・保守派の力が・・・椋梨藤太らの粛清が始まりました。
高杉晋作や桂小五郎にも暗殺命令が・・・!!

なのに、奥ではおはぎを作るお話。
なんと、おはぎづくりはお家安泰を願う奥の大切の儀式なのだという。
へそを曲げる銀姫。。。
で・・・ここで出てきたのがやっぱり美和。
みんなで一生懸命おはぎを作り・・・元徳様は。。。
「これは姫のおはぎではない・・・」と、哀しそう。。。
「うまい!!」
う~ん、こんな茶番で良いのか??
こんなことしてて藩の大事は回避されるのか・・・??

「じゃが・・・わしはまずいおはぎも好きなんじゃ・・・」
元徳様は銀姫に好意を持っていてくれて・・・銀姫も好意をもってい・・・。
そうじゃない
元徳様は悪くないんだけれども、暢気すぎるんだよ・・・脚本が・・・!!

椋梨に高杉の行方を詰問される伊之助。。。
10月27日の松陰の命日に、お墓参りをする高杉を捕える計画です。
でもって・・・鞠が美和に教えてくれました。

???

だからって美和に何ができるんだ・・・!!
雅に手紙を書く美和。
使いを出すことは出来ない!!と、断られるも・・・って、検閲されるとか思わないんだろうか・・・。
そこに美鶴登場!!
一応悪役なんですよね。
こちらの方が正統派な気もしますが、意地悪く・・・高杉晋作に関わるものを見張っているとか、27日までだとか・・・吹き込んでくれちゃってます。

で・・・勝ったら望みの物を与えるという銀姫に独楽で勝負!!
「雑巾がけでもしておれ!!」ということで、一蹴されるも、いろいろ話を聞いてくれ・・・って、手を貸すだろうか??
今の長州藩は、幕府への恭順です。
なので、反対の意見を述べることはできない・・・というか、姫も恭順派のはず・・・。
で・・・倒されたと知っている幕府なので、討幕!!と思うかもしれないけれど、幕府が倒れるなんて誰も思っていなかったんだから、恭順の方が正統派というか・・・

と思っていたら、伊之助が投獄されちゃいました。
それをまたもや教えてくれる鞠。。。
一体誰がどういった立ち位置なのか??まったく解らず。

で・・・今度は羊羹を作ろうと言い出す美和。
新しい菓子を作って、元徳様を喜ばせて・・・ふたりの間を取り持ちお世継ぎも・・・
と言い出しましたが、史実ではこの時点ですでに銀姫は懐妊しています。

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なんだか観ているのがつらくなってきました。

これ以上人が死ぬのを見たくない・・・みたいなことを言っている美和ですが、この話の流れのどこからそんな言葉が出てくるのか・・・全く取ってつけたようでゲンナリ。。。

御前様に羊羹の褒美として兄の墓前に羊羹を供えたいという美和。
呑気に羊羹を見ている杉家の人々に・・・いきなりやってきた役人は、羊羹を調べる!!
密書があるのでは??との事でしたが、やるなら重箱の中の三本とも調べたらいいのにね。。。
なんと、この役人、武井壮じゃないの・・・。なんだか・・・武井壮さん上手ですが、視聴率もここまで来ると奇をてらったにしか見えないわ。。。

で・・・とうの晋作は、なんと、伊之助のいる野山獄へ・・・
って、こんなことに来たら絶対捕まるだろう・・・。
だって、見張られてるんでしょ??晋作の知り合いたちは・・・。

赤子の祝いにと銀姫様名義で晋作の妻・雅に羊羹を送り、その中に手紙をとのことですが・・・
銀姫様からのお祝いなので、誰も調べることは出来なかったという結果ですが・・・ちょっと待って??
見張られている高杉家の人たちが、いつ、晋作に渡せるっていうんだ・・・
ざるだよ、ざる・・・まさにご都合主義な大河に・・・寂しさを感じてしまった・・・。
それでもヒロイン・美和のおかげで日本の新しい夜明けが始まるみたい・・・。
晋作、これだけ狙われているんだから、逃げる感は絶対に持っていると思うの。。。
誰に助けてもらわなくっても逃げられるというか・・・逃がすんなら、お龍や幾松位の事をしてほしいわ。。。

野山獄で、狂うぞ~~!!と、決起している伊之助と晋作ですが、伊之助は狂ったとこ見たことないし、晋作さんに至っては、その活躍を全く画いてくれないんだから・・・。

そして・・・父に縁を切られる晋作。。。
またもや放浪。。。

そして・・・元徳様の羊羹を作り忘れた・・・こりゃ参った!!テヘッと、笑う美和と銀姫様・・・って、ほんと、少女漫画みたいな発想もなんだかcheap。。。
元徳様はおいでになって・・・ふたりは仲睦まじく・・・って、羊羹もおはぎも関係ないじゃん・・・。

嘘を真にするためには、大きな嘘以外は全て細かく本物を使う。。。みたいなことを宮崎駿さんが言っていました。
例えば、トトロもポニョも、そんな馬鹿な!!なキャラクターです。でも、居るってみんな信じてるでしょう??
他の事は全て本物にして手を抜かない!!だから、大きな嘘も真実に見えてくるのだと言っていたと思う。。。

別にフィクションが悪いって言っているんじゃないの・・・私。
きっちりと史実を書いてくれた上でのフィクションがないと・・・な、感じなんですよ。
ちなみに長男・元昭が生まれるのは、翌年の2月7日です。

品川弥二郎に襲われる高杉ですが・・・晋作さん、免許皆伝です。
弥二郎、命拾いしましたね。

高杉が萩から逃れたのは、奥から情報が漏れたせいだとなんでかピンポイントで当てる椋梨藤太。
だから・・・そこまで優秀なら、晋作に関わる人を見張ってたんだからその時点で捕えるよね。。。
誰が犯人なのか・・・美和??
それを止めたのは銀姫様。

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「御前様・・・子ができました。」
と、この子供ができたことで全てはうやむや・・・だから、情報漏えいの事も不問に・・・ということ??
「つまらぬことでお世継ぎ誕生にさわることがございませぬよう・・・」と、美和を助けてくれました。
これはおはぎのおかげなんだって。
「奥のしきたりとは・・・まことにありがたきものじゃ・・・」by都美姫


って。。。しきたり・・・って言う割には、銀姫様ははしたない御姫様だし、仕える人も品格に欠けると思います。
あ~、なんだか辛口批評になってきて辛いです。
だって、女性のドロドロ・・・嫌いなんだもん。。。

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