日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:平岡円四郎

幕末、その男は様々な姿で写真に納まりました。
ある時は紋付・羽織袴で、銃と刀を両脇に勇ましい武士の姿・・・
ある時は高貴な衣冠の装束・・・伝統を重んじる公家のよう・・・
またある時は、フランス式の軍服に身を包み革新的なリーダーを気取る・・・

江戸時代最後の将軍・徳川慶喜・・・いったい慶喜とはどのような人物だったのでしょうか?

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当時の人々は、ミステリアスな慶喜のことを”二心殿”と呼びました。
海外列強が日本に押し寄せ、攘夷の風が吹き荒れた動乱の時代、英邁の誉れ高かった慶喜は将軍候補として期待され、政治の表舞台に登場しました。
しかし、力強く開国を唱えたと思ったら、攘夷と意見を翻す・・・
国の行く末を決める会議を暴言を吐いてぶち壊す・・・!!
二心殿の言動は、しばしば周りを混乱させました。
そんな慶喜に迫られた最大の選択・・・それは、将軍になるべきか、ならざるべきか・・・!!

当時すでに幕府は弱体化し、朝廷や雄藩に振り回されるばかりでした。
将軍となって、この舵取りを担うことは果たして得策なのか・・・??
慶喜はどうして将軍となり、自ら幕府に終止符を打ったのか・・・??

茨城県水戸市・・・徳川御三家の一つ水戸家の城下町だったこの地に、慶喜が書いた書”楽水”が残されています。
七郎麻呂と呼ばれていた頃の書です。
”楽水”とは、中国の孔子の言葉です。
論語の中で「知者は水を楽しむ」という一節があり、知識が豊かな人は水のように変幻時代に形を変える・・・書いた本人は意識していなかったかもしれませんが、慶喜の変幻自在ともいえる政治手法を6歳の段階で暗示しています。

慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族出身の登美宮吉子との間に生れました。
徳川と皇族、二つの血筋を受け継いだ子供でした。
しかし、7男だったため、藩主となる道はほとんど閉ざされていました。
通常では、他の大名家に養子に出されるところでしたが、父・斉昭はその才能に期待し、水戸に置いていました。
そんな中、幕府からある意向が伝えられます。
慶喜を、御三卿・一橋家の養子に欲しいというのです。
家康の子供たちで作られた御三家に対し、御三卿とは八代将軍吉宗が子供や孫に作らせた3つの家・・・将軍に跡継ぎがいないときに宗家を絶やさないためでした。
1847年、慶喜は10歳で一橋家の当主となります。
しかし、一橋家には城もなく、家臣も幕府からの出向で賄われていました。
独立した大名ではなく、あくまで将軍家の家族・・・政治的実権を持たない存在でした。

慶喜の運命が大きく変わったのが6年後・・・
1853年、ペリー来航し、強大な軍事力を背景に、日本に開国と通商を迫りました。
この時の将軍・徳川家定は、ひどく内気で病弱・・・緊急事態に適切な判断は出来ないとみられていました。
その為、この国難を担う次期将軍の必要性が叫ばれました。
幕閣や譜代大名の多くは、家定の従兄弟で、血統的にも近い紀州藩主・徳川慶福を押しました。
しかし、慶福はこの時10歳に満たず、政治手腕に疑問がありました。
一方、越前藩の松平春嶽、薩摩藩の島津斉彬ら有力大名は、当時17歳となっていた慶喜の擁立に動きました。
しかし、水戸徳川家出身の慶喜は、宗家の血縁とは遠く、正当性が弱かったのです。
しかも、父・斉昭は、幕府の政治に対して強硬意見を繰り返し、幕閣や大奥とも折り合いが悪い・・・慶喜が将軍になればうるさく口を挟むのではないかと警戒されました。
不利な状況の中で、どうやって慶喜を将軍候補として推していったのでしょうか?

尾張徳川家に残っている「慶喜公御言行私記」・・・
慶喜を推す大名たちは、慶喜の日々の行動を記した文書を配り、支持を集めました。
これを書いたのは、慶喜の側近・平岡円四郎と考えられています。
平岡は、慶喜が一橋家に入ったときに、推薦され家臣となった人物です。
慶喜が最も信用した側近でした。
書かれたエピソードには、慶喜を将軍につけたいという平岡の強い思いが感じ取れます。

その人柄を知らしめると共に、東照宮・神孫という・・・慶喜こそ将軍に相応しいというイメージを広げていきます。
慶喜自身はどう思っていたのでしょうか??
当時、父・斉昭に宛てた手紙によると・・・

”天下を取ることほど気骨の折れることはありません
 天下を取った後仕損じるよりは、天下を取らない方が大いに勝るのではないでしょうか”

しかし、そんな思いとは裏腹に、慶喜を推す勢力と慶福を推す勢力の対立は一層深まっていきました。

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大老・井伊直弼が就任すると、事態は大きく動きます。
将軍家の血筋を重んじた井伊は、慶福の就任を強く後押しします。
さらに、将軍・家定の希望もあり、跡継ぎは慶福に・・・後の14代将軍・家茂です。
次期将軍候補から外れた慶喜・・・しかし、この構想を通じて慶喜に対する期待はますます高まっていくのです。

将軍継嗣問題のあと、幕府の危機が深まる中で慶喜は政治の表舞台に登場することになります。
1858年、幕府は列強の圧力に屈し、アメリカはじめ5か国と・・・安政五カ国条約締結。
新たに4つの港を順番に開き自由に交易することを認めました。
開国に舵を切ったのです。
しかし、これに激怒したのが孝明天皇でした。
外国嫌いの天皇は、勅許をえることなく結ばれた条約を決して認めようとはしませんでした。
そうした中、天皇を尊び、外敵を排除しようとする尊王攘夷の動きが高まり、一部の志士が過激な行動に出ます。
1860年3月3日、江戸城桜田門外で、井伊直弼暗殺。
将軍のおひざ元で大老が襲撃されるという前代未聞の事件・・・幕府の弱体化が白日の下にさらされました。
これを機に、英邁の誉れ高い慶喜に幕府の立て直しが期待されたのです。
その結果、薩摩藩などの後押しによって、慶喜は将軍・家茂を補佐する将軍後見職に就任することになりました。
しかし、前途多難!!
当時、京都では強硬な攘夷を唱える長州藩が公家たちと結びついていました。
長州藩の武力に力を得た朝廷は、将軍・家茂に条約の破棄、攘夷の実行を約束させようと考え、三条実美を孝明天皇の勅使として江戸に派遣しました。
勅使を受け入れ、攘夷を実行すべきか?
このまま開国路線を続けるべきか??
幕府で議論が紛糾する中、慶喜は語りました。

「世界ではすでに多くの国が交流している
 独り日本のみ鎖国のしきたりを守るべきではない
 むしろ、自ら進んで外国と交わりを結ぶべきだ」by慶喜

朝廷にもはっきりと意見が言えるリーダーかと思われました。
しかし、その2週間後・・・改めて開国の覚悟を聞かれると

「しばらく明言はやめて、老中たちが開国というのを待とう」by慶喜

すっかり弱気な発言に、慶喜の本心はどこにあったのでしょうか?
そこには、母が皇族出身ということが考えられます。
慶喜は、徳川家よりも朝廷の方に比重がかかっていた人物だったのでは??
縁の深い、血縁的にも深い人である・・・
一方で、慶喜はクレバーなので、もう攘夷が出来ない、開国は避けられないと思っていました。
心の中では開国すべきと思いながら、天皇の願いを蔑ろにはできない・・・
結局、幕府は攘夷の実行を約束してしまいます。
朝廷の圧力に屈し、列強の脅威にもさらされるという八方ふさがりの状況でした。

そんな幕府にとって、起死回生のチャンスとなったのは・・・
1863年、八月十八日の政権です。
長州藩の過激な動向に目を見張らせていた会津藩と薩摩藩が、御所の門を藩兵で固め、長州藩とそれに組する公家たちを京都から追放したのです。
むやみに攘夷を主張し、外交を妨害してきた長州藩はいない・・・
朝廷を説得する好機でした。
ここで動いたのが、薩摩藩で国父として実権を握る島津久光でした。
久光は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体の実現を目指します。
久光の建議で、慶喜を含む有力諸侯が参与というポストに任命され、朝廷との話し合いがもたれました。
参与たちは、このまま開国を続ける考えを示し、話しはまとまりかけました。
しかし・・・またもや慶喜が混乱を巻き起こします。
既に開いていた箱館、横浜、長崎の3つの港のうち、横浜を閉鎖し、朝廷が要求する攘夷の一歩を踏み出すことを主張したのです。
それだけではなく、その後開かれた宴席で、慶喜は先に酔いました。
そして、朝廷の実力者・中川宮に向かって、目の前の島津久光らを罵倒したのです。

「この者たちは、天下の代愚物、天下の大奸物であります
 何故この者たちを信用されるか?
 後見職である自分と一緒にしないでほしい」by慶喜

久光たちは怒り、結局、参与会議は解散となりました。
この騒動をきっかけに、久光は慶喜に強い不信感を抱くようになります。

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”一橋卿の御心底 大いに六ヶ敷”

ころころと考えを変える慶喜・・・人々はそんな彼を皮肉を込めて”二心殿”と呼びました。

参与会議の解散後、慶喜は驚きの行動に出ました。
将軍後見職を一方的に辞退し、新設された”禁裏御守衛総督摂海防禦指揮”に就任しました。
禁裏とは、天皇の暮らす御所、摂海とは大坂湾・・・その警備を担う役職でした。
このポストは、聖慮・・・つまり、将軍ではなく天皇の意向に基づいて任命されました。
京都にとどまり、朝廷への接近を強める慶喜・・・江戸の幕閣はその行動を疑い、将軍・家茂の命で何度も江戸に呼び戻そうとしました。
しかし、慶喜は断ります。
将軍の命令を拒否して、京都に残る・・・
体感的に、自分は天皇、朝廷上層部と引っ付いた方がいいだろうと感じていました。

京都で慶喜は獅子奮迅の活躍を見せます。
1864年7月、前年に京都を追放された長州藩が兵を引き連れ上洛しました。
退去の呼びかけにも応じず、戦闘が始まりました。
禁裏御守衛総督・一橋慶喜は、自ら先頭に立って薩摩、会津の軍事支援のもと、長州を退けることに成功しました。
この活躍で慶喜は孝明天皇の厚い信頼を得ることになります。
そして、天皇の意を受けて、長州への処罰の実行を主張しました。
そこで、幕府は長州藩を朝敵と見なし、諸藩からなる征討軍を送ります(第1次長州征討)。
この時、参謀を務めた薩摩藩の西郷隆盛は、長州と取引し、家老3人を自害させるなどの条件で事態を収束させます。

微笑む慶喜: 写真で読み解く晩年の慶喜

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しかし、長州への甘い処分に、一部の幕臣や会津藩は納得しませんでした。
その不満を抑えきれず、1866年第2次長州征討。
これに、今度は薩摩が反発!!
薩摩は出兵を拒否し、長州と密かに通じるようになります。
国を二分するかもしれない内戦の事態でした。
この局面をどう打開すればいいのか・・・??
悩む慶喜に、急報が届きます。
1866年7月20日、将軍・家茂死去。
もはや、難局を乗り越えられるのは慶喜しかいない・・・!!
老中たちは、慶喜に将軍になることを要請します。

迷う慶喜・・・!!

将軍就任の要請に、慶喜はどう答えたのでしょうか?
慶喜が朝廷に送った手紙の写しが残っています。

”徳川宗家の相続につきましては、国家の大事には代えがたく、承知いたします
 ただ、将軍職に関しましては、私は薄力非才、失態の恐れもあり、お断りいたしたく申し上げます”

将軍職を断わり、徳川宗家の相続だけを引き受ける・・・誰も想像できない選択でした。
徳川宗家を相続することが、自動的に将軍職を継ぐことだと・・・家康以来そうなってきました。
それが初めて実は違うんだと、別のものなんだと示されたのです。

それだけではありません。
徳川宗家を継ぐにあたり、慶喜は自らの思い通りに幕政改革をするという条件を取り付けます。
前代未聞の将軍空位という中、慶喜は幕府の立て直しを進めます。
フランスに習った軍制改革を導入、旗本御家人から石高に応じて人や資金を出させ、新たな歩兵部隊を編成、フランス式の軍事教練を受けさせました。
慶喜のもとで幕府軍は着実に強化されていきました。

長州藩の木戸孝允は、後にこう語っています。

「いまや、江戸幕府の政治体制は一新され、その軍事力は目を見張るものがある
 一橋の大胆にして思慮深い計略は、決して侮るべきではない
 実に、家康の再生を見るようだ」

その一方、慶喜は幕府の精鋭軍を率いて長州との戦争に自ら出陣することを表明。
長く続いた戦いに決着をつけようとしました。
しかし・・・ここで、慶喜はまたもや心変わりをしてしまいます。
先発した幕府軍が敗北を喫したという報告を聞くと、急遽出陣を中止・・・
そして、周囲の十分な同意を得ることなく長州と和解し、休戦に持ち込みました。
突然の休戦に、共に長州征討を推進してきた会津藩や幕臣は納得できず、怒りをあらわにしました。
慶喜は孤立を深めていきます。

頭がいいので、変わり身が早い・・・先が読めてしまう・・・
しかし、人の心はもう一つ読めないところがるのです。

そうした中、1866年12月5日、慶喜はあれほど固辞していた将軍に・・・第15代将軍に就任。
この時30歳。
何故このタイミングで受諾したのか??
諸説あります。
①最初から将軍になるつもりで自分に味方する勢力を見極めていたのか?
②孝明天皇の願いを断わり切れなかった?
いずれにせよ、慶喜は第15代将軍として日本のかじ取りをする覚悟を決めたのです。

将軍宣下のわずか20日後・・・孝明天皇が突然この世を去りました(12月25日)。
常に後ろ盾になってくれた天皇の死・・・しかし、それは攘夷という天皇の願いから解放されるということを意味していました。
慶喜は、ようやく開国という本来の考えのために動き出します。
当時、通商条約で定められた港のうち、兵庫だけが開港されていませんでした。
孝明天皇が京都に近い兵庫の開港を断固拒否していたためです。
慶喜は、国際条約を守り、兵庫開港を実現することは日本の将来の為と信じました。

慶喜は、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光など有力諸侯とこの問題を協議しました。
この時、諸侯たちも兵庫開港に反対ではありませんでした。
貿易の利益で藩が潤うことを期待していたからです。
しかし、まだ大勢いた攘夷論者を恐れ、積極的に賛成する者はいませんでした。
慶喜は違いました。
夜を徹して熱弁を振るい、遂に諸侯たちを説得しました。
そして、朝廷に強く働きかけて、
1867年5月、兵庫開港の勅許がおります。
慶喜の決断によって、安政の条約締結以降揺れていた日本の開国への道は決定的となりました。

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慶喜のすごいところは、攘夷主義者がものすごく多いことを知っていました。
しかし、あえてそれを無視して、この機会に一気に開国体制に持って行こうと決断して、それを実行したのです。
慶喜の、幕末史におけるもっとも重要な役割の一つです。

政局の主導権を握りつつあった慶喜に対して、薩摩藩や長州藩は畏れ、警戒しました。
そして、倒幕のクーデター計画を練ります。
ところが、慶喜が先手を打ちます。
1867年10月、大政奉還です。
幕府に委任されてきた政権を天皇に返納する・・・
慶喜は、264年続いた幕府を終わらせたのです。
それでも、新たな政府が出来れば、慶喜は要職に就くことが見込まれました。
慶喜の名声は依然高く、本人もそれを確信していたと言われています。
ところが、薩摩・長州は許しませんでした。
王政復古のクーデターを断行し、天皇を頂点とする新政府を樹立、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では旧幕府軍を賊軍として征討。
慶喜を新政府から徹底的に排除しました。
慶喜は、死罪は免れたものの、全ての官位を奪われ、謹慎を命じられます。
最後の将軍・・・激動の幕末は終わりました。

明治になり、謹慎をとかれた慶喜は、静岡や東京で長い隠居生活を送りました。
溢れる才能・・・写真や油彩画など様々な趣味に傾けました。
前半生とは正反対の悠々自適の日々・・・
名誉回復を計られ、明治35年に最高の爵位・公爵に叙せられました。
自らを追いやった西郷たちよりも長生きし、大正2年、77歳でこの世を去りました。

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日本資本主義の父・渋沢栄一・・・生涯で、500もの会社を立ち上げ、日本経済の発展に多大な貢献をしました。
晩年は、国際交流にも尽力し、ノーベル平和賞候補者に二度までも推薦されました。
しかし、渋沢の青春時代は、平和とは程遠かったのです。
時は幕末!!外国船を打ち払えと、攘夷が叫ばれ、日本国内は騒然としました。
若き日の渋沢も、攘夷を実行しない幕府に、同志を集めて討幕のテロを計画します。
これを発端に、いくつかの出会いが渋沢を導きます。

埼玉県深谷市・・・かつて武蔵国と呼ばれたこの地に渋沢栄一は生まれました。
栄一の家は、麦の栽培や養蚕の他に、藍染めに使う藍玉の製造販売で財をなしていました。
藍の葉を発酵して固めた藍玉・・・栄一の父・市郎衛門は藍の葉の目利きとして知られていました。
栄一は、6.7歳の頃から親戚の尾高惇忠のもとで学問をはじめます。
栄一が毎日のように通った尾高家が今も保存されています。
近隣の子供たちと家に集い、惇忠の薦めで読書に熱中しました。
自伝「雨夜譚」で、東寺をこう振り返っています。

”里見八犬伝のような小説や軍記物の類が至って好きで、正月のあいさつ回りの時も、本を読みながら歩いていて、溝に落ちてしまい晴着を汚してしまいたいそう母親に叱られたことがありました”

そんな栄一に、父親は厳しく・・・

”父から、家業にも精を出すよう言われ、13の年には一人で藍の葉の買い付けに行ったもんです”

後に、大実業家になる渋沢栄一の商いは、藍の葉を買い集めることから始まりました。
藍玉の出来は、葉の出来の良し悪しに左右されました。
そこで、栄一は、農家に良質の愛を栽培してもらうために工夫します。
農家を力士に見立て、葉の質に応じて番付にします。
これを、農家を集めた宴会の余興に配ったといいます。
行司役には、栄一の名が記されています。

渋沢が考えたのは、情報共有でした。
上位の人は、何か工夫があるはずだと勉強する場となり、村全体が一致団結、もっといい藍を作って藍玉というものを製造販売すれば、村全体に利益がある・・・ひいては人々が豊かになる・・・!!
そこに、渋沢栄一の原点があります。

商売の面白さを知り、父の信頼も得た栄一は、各地の集金を任されるようになります。
はじめて栄一が愛の買い付けをしたのが・・・1853年6月、江戸は大変な騒ぎに・・・
ペリー提督率いる黒船の来航です。
栄一が暮らす武蔵国の隣国・常陸国・水戸では、外国を打ち払えと攘夷が叫ばれ、すでに軍事演習まで行われていました。
栄一の師匠・尾高惇忠も、攘夷思想に傾倒していました。

1856年・・・16歳になった栄一にも、政治に不満を抱く事件が起きます。
それは、血洗島を治める岡部藩の代官から御用金差出の命が下ったことに始まります。
御用金とは、逼迫した藩の財政では賄えない出費を、領民に供出させるというもので、返済されることはありませんでした。
裕福な栄一の家には、ことあるごとに御用金が要求されていました。
都合で行けない父に代わって他の当主たちと陣屋に出向きます。
代官は、横柄な態度で、栄一に500両差し出すように命令します。
よその主人たちは、平伏して引き受けましたが・・・
「私は代理ですから、一度帰って父の承諾を得たうえで、改めてご返事に参ります」と答えました。
代官は、こんな判断もできないのかと、栄一を子ども扱いしてバカにしました。
しかし、栄一は頑として受け付けず、陣屋を後にします。

「無性に腹が立った私は、その根本をよくよく考えました
 あんな下劣な男が代官を務めているのは、もとをただせば藩がだらしなく、藩がだらしないのは幕府がいけないのだと思い至ったのです」

結局、渋沢家は、御用金を引き受けましたが、その後も栄一の心を騒がせる事件が次々とおこります。
栄一、19歳の年に横浜が開港。
さらに、その翌年には桜田門外の変で大老・井伊直弼が水戸藩士らによって殺害されます。
天皇の許可なしにアメリカと通商条約を結んだことが原因でした。

渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 (日経ビジネス人文庫) [ 渋澤 健 ]
渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 (日経ビジネス人文庫) [ 渋澤 健 ]

21歳になった栄一は、農閑期だけという許しを得て、江戸に出ました。
栄一は、塾や千葉道場で憂国の同志たちと合流し、最新の情報に触れます。

1863年8月・・・攘夷を実行しない幕府を倒すしかないと思いつめ、尾高惇忠や従兄弟・喜作と共に討幕の策を練ります。
その策とは・・・横浜を焼き討ちして、外国人を片っ端から切り殺すという乱暴なものでした。
藍玉の売り上げから流用した金で、刀や槍・100本余りを用意しました。
決行に当たり、まず高崎城を襲撃、さらに武器を補充してから鎌倉街道を横浜へと南下する作戦でした。

「幕府に攘夷などできない・・・もはや、徳川の政府は滅亡するに違いないと一途に思い込んでいたので、自分たちが目覚ましく血祭りになって、世の中に騒動を引き起こす引き金になろうと考えたのです」

この血気盛んな決意を、尾高惇忠が信託と題した檄文に認めます。
神に託された計画の正当性と外国人の打ち払いを激烈な言葉で綴り、人々を扇動するものでした。
集まった同氏は総勢69人・・・江戸で知り合った憂国の士と惇忠や栄一に感化された農民でした。
決行は11月23日・・・冬至の日と決定しまた。

10月29日・・・決行の日も近づき、栄一らは尾高家の2階に集まります。
京都の情勢を探索してきた惇忠の弟・長七郎が帰郷したのです。
長七郎を交え、倒幕計画の詰めが行われました。
剣術化として知られた長七郎は、挙兵の参謀官でした。
しかし、長七郎は、栄一たちの計画を聞き、猛烈に反対します。
長七郎は、京都で攘夷派の反乱が力づくで押さえ込まれ、攘夷派公暁までもが朝廷から放逐される様を目の当たりにしてきました。
意見の対立で興奮した栄一と長七郎は、お互いを殺してでも計画を止める、決行すると激論し、夜を明かしました。

「ここまで長七郎さんに言われ、よくよく考えてみたところが・・・
 百姓一揆のように、みなされては後に続く志士もなく、犬死になるかもしれないと悟ったのです
 長七郎さんが、命がけで私らの命を救ってくれたのです」

倒幕計画は断念しましたが、栄一は安穏としてはいられませんでした。
計画のうわさが幕府方に漏れると捕らえられる恐れがありました。
栄一は、各地から人と情報が集まる動乱の中心地・京都に身を隠すことにして、喜作と共に故郷血洗島村を出奔します。

栄一と喜作は情報と策謀の渦巻く京都にいました。
道中の安全は、平岡円四郎という人物の助けを借りました。
平岡は、徳川家の身内・御三卿の一つ一橋家重役でした。
攘夷倒幕に逸る栄一と違い、平岡は開国派でしたが栄一を見所ある若者と評価していました。
平岡は、すでに主君・一橋慶喜に従い京都にいました。
しかし、栄一たちが江戸の留守宅に来たら、家来の身分を与えて京都に来るようにと言い残していたのです。
京都についた栄一たちは、もとより家来になる気はないため、平岡への挨拶もそこそこに諸国の志士たちとの交流や物見遊山に時を過ごしました。

1864年2月・・・栄一のもとに驚愕すべきたよりが届きました。
高崎城襲撃を命がけで止めてくれた尾高長七郎が、殺人事件を起こし捕らえられ、懐から栄一の手紙が出てきたというのです。
それは、栄一が、京都から幕政批判を書き連ね、長七郎も上洛するようにと誘った文でした。
これによって長七郎は討幕派の嫌疑をかけられているという・・・
翌朝、栄一は平岡円四郎から呼び出され、長七郎の一件で、江戸から一橋家に問い合わせが来たのです。
栄一は事の経緯を包み隠さず話しました。
聞き終えた平岡は、栄一たちに思いがけない提案をします。

考えの違いは脇において、一橋家に仕官しないかというのです。
 
予想もしなかった平岡からの誘いに栄一は戸惑います。
宿に戻って悩みます。
討幕の意志を貫くのか、あるいは幕府を支える一橋家に身を寄せるのか??

思い悩むうちに、夜は白々と明けてきました。
渋沢栄一、この時24歳!!
人生の岐路となる選択を迫られます。

議論の末、朝を迎えた栄一たちは、平岡円四郎のもとに出向きます。
そこで栄一は、平岡の申し出を受け、一橋家への仕官を願い出ます。
しかし、召し抱えられるにあたり、条件を付けます。
あろうことか、慶喜本人に直接思いのたけを伝えたいというのです。
前例がないと渋る平岡に、農民を直に召し抱えることも例がありますまいと食い下がる栄一・・・!!
数日後、平尾確信の差配によって、慶喜の宿で拝謁が実現します。

「身の程知らずにも、慶喜公に幕府の命脈もすでに滅絶したと、無遠慮に申し上げたのです
 幕府が潰れるのを、とりつくろわれるようでは、一橋の御家ももろとも潰れます
 敢えて、好むことではござりませぬが、幕府をつぶすのが徳川家を忠孝するもとであります
 と、正直に申し上げたところ、慶喜公はただふむふむと聞いておられました」

慶喜との出会いで、栄一の運命は大きく動き出します。
一橋家仕官後の栄一の活躍は目覚ましく、栄一は一橋の武力強化のため、農民からなる歩兵の編成を目指します。
西国の一橋領をめぐって勧誘し、志願者500人という成果を上げました。
続いて取り組んだのが、一橋家の財政強化でした。
勘定組頭となった栄一は、藩札を発行して、播磨の木綿を買い上げます。
これを特産品として販売し、一橋家の財政を改善していきます。

明治政府がスローガンにあげた富国強兵の一橋家版でした。
慶喜の政界での力を高める意図で、一橋家の財政改革に尽力していきます。
ところが、またしても栄一に時代の大波が押し寄せます。
14代将軍・家茂が死去し、慶喜の15代将軍就任がとりだたされる事態となったのです。
栄一は、幕府はやがて斃れる運命とみていました。

「徳川氏は、家屋に例えていうと土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた大きな家の如きもの・・・
 故に、何卒徳川家相続はおやめ願いたいと上司に進言し、直接慶喜公に申し上げる運びになったのですが」

一橋慶喜は、幕府老中からの懇請を受け入れ、徳川家を相続して徳川慶喜となりました。
栄一は、失望の極みにありました。

「この時は、また元の浪人になろうか、いや、いっそ死んでしまおうかと思い詰めた次第です」

栄一自身は、幕府は日本を背負える組織ではないと感じていました。
潰れていく幕府のTOPを継いでしまう・・・日本を変えていきたいといった思いで一橋慶喜のもとで一生懸命働いてきた栄一にとって、見通せなくなったことで落胆しました。
しかし、この後、またしても栄一に大きな転機が訪れます。

渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]
渋沢栄一検定 公式テキスト [ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 ]

倒すべき敵だった幕府の家臣となってしまった栄一・・・
もう、死んでしまおうかと考えていた矢先、思いもよらない話が舞い込んできます。
フランス・パリに行かないかというのです。
1867年、パリで開催される万国博覧会に、幕府は義信の弟・昭武を将軍名代として派遣し、その後もパリで留学させることにしました。
栄一は、昭武の世話係として、庶務と会計を担うことを期待されていました。
多くの家臣の中から栄一を指名したのは慶喜でした。
これを聞き、栄一はパリ行きを即答します。

「この降ってきたような話、その時の嬉しさは実になんとも例えようもありませんでした
 速やかにお受けをいたしますから、是非お遣わしを願います、どのような甘苦も決して厭いませんとお答えしました」

1867年1月、栄一は横浜を出航!!
長旅の末に到着したパリで、栄一は昭武の世話や滞在費の管理に多忙な日々を送りながら、ヨーロッパの習慣になじんでいきました。

一方、日本ではその年の10月、徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出ました。
この報せがパリに届いたのは、翌年の1月2日。
この時、すでに大坂を出た旧幕府軍は、京都鳥羽伏見に進軍をはじめていました。
しかし、旧幕府軍は惨敗し、慶喜は謹慎しました。
戊辰戦争開戦から2か月後、栄一はパリでこの報せを受け取ります。
栄一は、水戸・徳川家に生まれた昭武を、先行きが見えない日本に帰さず、フランス留学を続けさせることを望みました。
しかし、4月に水戸藩主・徳川慶篤が死去すると、これによって昭武が水戸藩を継ぐことが決まりました。
止むなく栄一がフランスを発った4日後、日本は年号を明治と改めました。
帰国後、栄一は駿府に向かいます。
かつて行き場を失った自分を召し抱え、活躍する場所を与えてくれた慶喜がそこで謹慎していました。

「慶喜公は、貧相なお寺に蟄居していらっしゃいました。 
 畳が破れて、薄暗い行燈のともった小さな一室に、ひとりでひょろりと入って来られ、しょんぼりとお座りになりました
 余りのお変わりように、感極まって涙がこぼれました」

慶喜は、フランスでの昭武の様子を聞き、栄一の労をねぎらったといいます。

明治以降、経済界で華々しい業績を積み上げる栄一・・・
しかし、老境に至っても、倒幕に思いを寄せた血洗島村の生家に度々帰郷しました。
ふるさとの家族たちも、栄一のための座敷を作り、温かく迎えたといいます。

「私は特に人より優れた才能があったわけではありませんが、真心ひとつで万事に当たってまいりました
 まるで夢うつつのようですが、忘れがたいことばかりでありました」

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渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]
渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]

今年、20年ぶりに日本の紙幣が一新されることとなりました。
1,000円札には日本近代医学の父・北里柴三郎
5,000円札には日本女子教育の先駆者・津田梅子
そして10,000円札に起用されることとなったのが、日本経済の父・渋沢栄一です。

時は幕末から明治へと移り変わる時代の大変革期・・・
そんな頃、近代化において数々の偉業を成し遂げたのが渋沢栄一です。
日本で初めての銀行を作るほか、色々な会社を作ります。
生涯に携わった数・・・500社余り・・・。
今も日本経済の屋台骨を背負っています。
しかし、具体的に何をしたのか・・・??
その真の姿とは・・・??

1867年、横浜港からフランスに向けて一隻の船が出航しました。
船に乗り込んでいたのは、パリ万国博覧会幕府使節団。。。そして、そのまま留学することになっていた慶喜の異母兄弟・徳川昭武でした。
この使節団一行に、庶務兼会計係として随行していたのが、幕臣・渋沢栄一、27歳でした。
将軍慶喜からその能力を買われて、直々に昭武のお供を命じられたのです。
その時の決意・・・
”彼の国の長所を探り 我が国のものとせねばならない”
幕府は黒船来航以来、欧米列強の国力の差を見せつけられていました。
そこで、幕府は、一刻も早く追いつかねばと、フランスでその国力の秘密を探らせ、慶喜に報告させることにしたのです。

4月11日、パリに到着した渋沢は、見るものすべてに圧倒されます。
整備された上下水道、黒煙をあげて疾走する蒸気機関車、そしてエレベーターや発電機など・・・最新の技術の数々・・・

「こんなものを作る費用は、どうやって集めているのだろうか?」

渋沢が探ったフランスの国力の秘密とは・・・??
大きなカルチャーショックを受けた渋沢が向かったのは、理髪店でした。
その誇りである髷を切り落としました。
渋沢は、先進文明に触れ、多くの知見を得たいと考えていました。
そのためには、いつまでも誓った文明文化の姿をするのではなく、郷に入れば郷に従え・・・
フランスの文化に染まり、溶け込むことでより良い情報が得られると考えたのです。
全ては、フランスの国力の秘密を探るためでした。

経済の仕組みを教えてくれたのが、銀行家フリューリ・エラール氏でした。

「国に豊かさをもたらしているのは、役人ではなく銀行と株式会社です。」

エラールが渋沢に教えた秘密は・・・資本主義の根幹となる銀行と株式会社の存在でした。
銀行が個人から資金を集め、まとめて貸し出す・・・大規模な事業を可能にし、会社もまた個人に株を買ってもらってそれを元手に商売をし、その利益を配当として還元する・・・
そうすることで、個人、企業、国も豊かになっていく・・・このシステムがフランスを支えているのだと。
それを円滑に行うためには、官尊民卑がないこと・・・。
そして、民間人が政府に従って行うのではなく、両者が対等の立場であることが大切だという事。
フランスの国力の秘密は、民間人が政府と協力して行う銀行と株式会社の仕組みにあったのです。
渋沢はこれを合本法と呼び、日本への導入を決意します。

こうしてフランスの豊かさを渋沢が掴み始めた頃・・・日本ではとんでもないことが起こってきました。
渋沢をフランスに送り込んだ将軍慶喜が大政奉還!!
徳川の世が突如終わりを告げたのです。

1840年、渋沢栄一は、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)に、農家の長男として生れます。
農家といっても渋沢家は裕福でした。
父親が詳細を発揮し、染め物などに使われる藍の葉の買い付けと河口で財をなしていました。
そんな父親から、幼い頃より熱心に学問を授けられました。
6,7歳のころから「三字経」・・・当時の農民は、農業に支障をきたすため、文字を読む必要はないとされていました。
しかし、よりよい生活をしていくためには、教養を身につけるべきだろ渋沢の父は考えていたのです。
父から様々な学問を学んだ渋沢が、驚くべき商才を発揮するのは、わずか13歳の時でした。
不在の父親に代わって藍の買い付けに行った時の事・・・
子ども相手だと見下していた農家に対し・・・
「何だこの藍は・・・肥料が足りない、別の物はないのか?」と、ベテランの目利きのような口ぶりで、周囲の大人を圧倒!!
次々と農家を口説き落とし、良質の藍の葉を手に入れたのです。
渋沢は、人を説得する際には信念を持って話をし、誠実な態度で信頼・信用を得ていました。
人をうまく巻き込む才能が渋沢にはあったのです。

そんな渋沢が17歳になった時、その後の人生を大きく決めることが・・・
村を治めていた代官から渋沢の家に呼び出しがあり、父親の代理で出向いたところ・・・
「500両を納めるよう申し渡す」
「500両と突然言われましても、年貢は毎年納めております
 すぐにはお答えできません」
「何をぬかすか、この若造が!!これは命令じゃ!!」
今のお金で5000万のお金を出すというような理不尽な命令をされても、農民だから逆らえない・・・。
渋沢にかつてない怒りがこみ上げてきました。

”その時に、始めて幕府の政事が善くないという感じが起こりました” 

全ての元凶は、代々受け継ぐというシステムを作った徳川だ・・・!!

当時は尊王攘夷論が流行っていた頃で、渋沢もその思想に傾倒し、江戸に留学、漢学者の塾に通い剣術などを学んだあと村に戻り、同じ考えを持った若者を募り、攘夷作戦を実行しようとします。
その作戦は・・・??
一気に蜂起し、近くの高崎城を占拠、その後横浜の外国人居留地を焼き打ちし、手当たり次第に外国人を斬り殺すというとんでもない過激なものでした。
世の中の不条理を排除していかなければよりよい社会にならないと思ったようです。
それは、自分たちの生活を守るという意識が強かったのです。

結局渋沢は、周囲の説得を受け・・・生き長らえて世の中を変えていこう・・・と計画を中止しましたが、時すでに遅し・・・!!
渋沢は、幕府に危険人物として手配されてしまいます。
このままでは捕まってしまう・・・絶対説明の危機・・・どうやって乗り越える・・・??

身に危険が起こった渋沢は、最早村を出るしかありませんでした。
江戸遊学中に出会った一人が渋沢に救いの手を伸べます。
八代将軍・徳川吉宗の流れをくむ御三卿の一橋家の用人・平岡円四郎です。
渋沢は平岡から思わぬ提案を受けます。

「捕縛されて牢屋で死ぬぐらいなら、いっそのこと一橋家に仕官してみては・・・??」

渋沢に与えられた道は、捕縛され処刑されるか、徳川家に仕官することだったのです。
渋沢が選んだのは・・・士官の道でした。
この時一橋家の当主は、水戸家から養子になっていた一橋(徳川)慶喜でした。
渋沢は尊王攘夷派から一転、慶喜の家臣になることで、処刑の危機を脱したのです。
その裏には・・・一橋家は、当時の幕政に対して批判的な考えを持っていました。
慶喜の実家である水戸徳川家は尊王攘夷派だったのです。
渋沢も、一橋家なら・・・と、選んだのかもしれません。
24歳のことでした。

一橋家は、京都御所を守る役割を担っていました。
一橋家には譜代の家臣が少なかったため、有能な家臣を求めていたのです。
その時、慶喜は平岡から渋沢の能力の高さを聞いていたのでした。
一橋家は家臣も少なく、軍備も弱かったので、渋沢が最初にした仕事は、農兵を集めることでした。
渋沢は、与えられた役割をきっちり果たしただけではなく、先々で見た情報から一橋家の財政改革案を出していきます。

・木綿の生産高と流通機能を高めさせた
・年貢米を領地内の酒造家に買わせた
・領地内に硝石を火薬にする製造所を作った

後に、日本経済の父となる商才が、慶喜に認められた瞬間でした。

徳川慶喜が、第15代将軍に就くことになりました。
渋沢は、遅かれ早かれ幕府が倒れることを考えていた渋沢にとって、慶喜の将軍就任はあってはならないことでした。
渋沢は、危うい状態にある幕府の将軍就任は、負担が大きいだけで意味がないと反対します。
そして、幕政を批判していた自分が、幕臣になることに抵抗があったのです。
慶喜が将軍となった事で、渋沢は未来に展望を見いだせず、悶々とした日々を過ごすことに・・・。
そんな渋沢に新しい命が下ります。
慶喜の弟・昭武の随行としてパリに赴くことでした。
フランスで経済を学ぶという新しい目標を見つけた渋沢・・・まさにそのさ中・・・
1867年10月、慶喜は将軍に就任してからわずか11か月後、まるで政権の座を放り出すかのように将軍の座を朝廷に帰してしまったのです。
翌1868年、フランスから帰国した渋沢は、慶喜が暮らす駿府へと向かいました。

「及ばずながらも、慶喜公に出来るかぎりの御奉公をしなければならぬ・・・」

余生は慶喜のために・・・渋沢は、駿府に妻と子を呼び寄せ、慶喜のもとで骨をうずめようと心に決めたのでした。
そして手始めに・・・パリで学んだ合本法を実践。
駿府領内の産業振興を図ることでした。
そのために渋沢は、商法会所という会社を設立します。
公の資金を領内の商人や農民に貸し出し、大規模な商売をはじめさせ、収益の一部を預けてもらうシステムです。
いまの銀行と商社を組み合わせたようなものでした。
まさにフランスで学んだ合本会社でした。
商法会所は大きな利益を得ていきます。
すると1869年東京の新政府から、税制の実務を取り仕切る租税正に抜擢されます。
断わるつもりでいた渋沢でしたが、いう事を聞かなければ慶喜が政府に反対していると思われ慶喜の立場が悪くなってしまうと思い直し、29歳で政府の役人に転身しました。
大蔵省で、次々と事業を立ち上げていくこととなります。

鉄道の整備、富岡製糸場の建設、郵便制度の整備・・・国の基礎となる重要な事業で、渋沢が取りまとめ役としてかかわった政策立案は、200にも及びました。
渋沢は、その剛腕ぶりが認められ、わずか3軟飯で大蔵省のナンバー2となるのです。

1872年、新政府は国立銀行条例を発布します。
これが渋沢栄一が次に行う大仕事でした。
日本を欧米列強のように富ませるためには、広く出資者を募り、新たな事業に投資するという銀行の設立が不可欠だったのです。
しかし、その頃、渋沢たち国の動きとは別に、巨大資本による銀行設立が進んでいました。
東京府兜町入り口に建てられた三井組ハウス・・・文明開化の象徴となって人々の話題をさらっていました。
その建物を建て、銀行の設立を目指していたのが、江戸一の大店、明治になっても政府のかねの流れを一手に引き受ける御用商人として莫大な利益を上げていた三井家・・・三井組でした。
渋沢は、この三井組による銀行設立に待ったをかけます。

”特定の財閥だけが富を独占したのでは、銀行を作る意味がないのではないか?”

利益を独占する銀行ではダメだ・・・
あまねく社会に資金を回し、経済を活性化し、その利益を国民に還元していく・・・これこそ真に国をとませることだ・・・!!
そこで、渋沢は、三井組による利益の独占を防ぐために、銀行設立に名乗りを上げていた小野組などから広く資金を募る合本会社による銀行の設立を画策します。
さらに、その新銀行に三井組ハウスを明け渡すように迫ったのです。
渋沢は、三井組ハウスの建物が欲しかったのではなく・・・三井組が三井組ハウスで銀行経営を行えば、独占の象徴になるため、引き離したのです。

当然三井組は断固拒否!!

結局三井組独自の銀行設立を認める代わりに、新銀行が三井組ハウスを使うという妥協案で決まります。
こうして1873年日本初の銀行「第一国立銀行」が設立!!

この銀行の主な業務は二つ・・・
お金を預けてもらい、その資金を事業に貸し出す事、そして紙幣(銀行券)の発行です。
紙幣の発行は、欧米列強を見習ってのことですが、それまで全国で流通する紙幣がなかったので、急に小判のようなお金だといっても信じません。
そこで渋沢は、その紙幣と「金」をいつでも交換できると定めました。
紙幣を信用させることで、流通させたのです。
これで最早国に対する自分の役目は終わった・・・と、渋沢は設立の直前に大蔵省を退官・・・銀行のお目付け役である総監役に就任、富の独占を監視することにします。

第一国立銀行設立の直後・・・予想もしない出来事が・・・。
全国で旧士族の反乱がおこり、社会は混乱状態に・・・
凶作で米の価格が急騰!!
紙幣の価値が急落してしまいました。
さらに、銀行の大口出資者だった小野組が倒産。
すると、紙幣を金に変えようと人が殺到します。
まだまだ紙幣の価値が確立されていないために、人々は信用できない紙幣を金に変えたのです。
外国の商人も、安く交換できる日本の金を求めたため、銀行から金の流失が進みました。
銀行の金庫にはもう金がない・・・破綻・・・?
この危機を、渋沢はどう乗り切るのか・・・??
渋沢は断腸の思いで提言します。
「銀行条例を改正し、金と紙幣の交換を廃止してほしい」
渋沢は、自らが携わった銀行条例に大きな欠陥があることに気付きました。
ルールを変えるべきではない??
銀行を残すことが一番だ!!と、紙幣と金の交換を停止することで、銀行からの資金の流失を防ぎました。
この苦肉の策が、新たなチャンスを招くこととなります。

金を保有していなくとも銀行を容易く設立することができる・・・と、日本全国で銀行設立ブームが起こります。
明治12年の時点で日本の銀行数は153!!
地方経済が活性化、鉄道や様々な地場産業が発達していきます。

銀行破たんの危機を乗り切った渋沢栄一は、民間会社の立ち上げに次々と関わっていきます。
その数およそ500社!!
ガス会社・・・東京瓦斯など
鉄道会社・・・日本鉄道(現東日本旅客鉄道)
         畿内電気鉄道(現京阪電気鉄道)など
製紙会社・・・王子製紙(現王子ホールディングス 日本製紙)など
保険会社・・・東京海上保険(現東京海上日動)など
ホテル・・・・帝国ホテルなど
ビール会社・・・大日本麦酒(現アサヒビール サッポロビール)など

その中で、渋沢が長くかかわった会社は、第一国立銀行をはじめ数社です。
どうして会社の経営に携わらなかったのでしょうか?
渋沢は、世の中に必要な事業を会社組織として設立し、事業が軌道に乗れば次の事業に手を差し伸べたのです。
しかし、経済の基盤を作るなら政治家になったほうが・・・??
渋沢は、官尊民卑を打ち破らなければと思っていました。
民の力を信じていたのです。
井上馨が総理大臣になる時、渋沢栄一に大蔵大臣を要請します。
が、渋沢は、頑なに断っています。

次々と会社を作り、経済を発展させていく渋沢・・・強力なライバルが現れます。
1878年8月、渋沢は、向島にある料亭に呼ばれます。
招待したのは、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎です。
土佐藩の藩営会社を引き継いで三菱商会を立ち上げた岩崎は、海運御湯をほぼ独占!!
台湾出兵、西南戦争で莫大な利益を得、海運王として名を馳せていました。
同じ実業家として次々と会社の立ち上げに関わっていた渋沢に興味を持ち、意見交換の場を設けたのです。

「君と僕が手を組めば、世界を牛耳ることができる・・・!!」by岩崎弥太郎

そして、この時、二人は日本経済の在り方を巡って大激論!!
合本主義を主張する渋沢に対し、岩崎は利益の独占を主張します。
世の中の繁栄、日本経済の発展を望むのは同じ二人でしたが、その手法が違っていました。
渋沢・・・個が協力し合う
岩崎・・・強いリーダーシップ
そして二人は、それぞれの手法で日本経済の発展に寄与していきます。

そんな渋沢が晩年、経済以外に次世代へと残した偉業の足跡が渋沢資料館に残されています。
「徳川慶喜公伝」
渋沢の恩人であり、主君であった徳川慶喜が、日本のために果たした役割を克明に書いた伝記・・・
次々と会社を立ち上げていた一方で、渋沢は慶喜本人への取材、資料の収集、編集方針の策定、伝記の出版にも力を注ぎました。
渋沢は幕末、危うい自分を救ってくれた慶喜に対して、強い恩義を感じていました。
その慶喜の伝記を編纂したかったのです。
渋沢が残した公伝により、慶喜が果たした役割が再評価されるようになります。

そしてもう一つの顔は・・・??
1879年、渋沢が院長として就任した施設が・・・明治維新の混乱による困窮者救済のために造られた日本で最も古い福祉施設の一つ「東京養育院」です。
捨て子、親のいない子・・・社会的弱者を預かっていました。
渋沢は運営資金の調達、学校の設置など、慈善事業の拡大にとり人で、長きにわたって院長を務めていました。

渋沢が行った世の中の繁栄と産業振興・・・その中で、貧富の差が生れてしまった・・・
日常の生活からドロップアウトしてしまう人々を、底辺から救い上げ、よりよい社会にするために、福祉に尽力したのです。
渋沢は自分が進める資本主義の負の側面とも向き合い、取り組んだのです。
そして・・・1923年9月1日、死者行方不明者10万人ともいわれる関東大震災・・・。
未曽有の被害を出しました・・・その際には、被災を免れた自宅を開放し、炊き出しを行い、被災者の救済に当たり、その人脈から海外からの支援金を募りました。

1930年・・・90歳の渋沢をたずね、福祉施設の代表ら20人がやってきました。
この時、渋沢は高齢の上に風邪を患っていました。
主治医も面会を許可しませんでしたが・・・渋沢は会うといって聞かず、面会が叶います。
彼等は渋沢に懇願します。
飢えと寒さに苦しむ20万人の貧しい人を救うための救護法が制定したにもかかわらず、予算が足らずに実行されていない・・・力を貸してほしいというものでした。

渋沢はこう答えます。
「どれだけお役に立つかわかりませんが、出来るだけのことを致しましょう 
 それが、私に与えられた最後の義務でしょうから・・・」
と、自ら交渉役を買って出・・・大蔵大臣と内務大臣に面会を申し出たのです。
木枯らしの吹く中、病での外出は命に係わると周囲の者が渋沢を止めようとすると・・・
「これで私が死んでも20万もの人々が救われれば、本望じゃありませんか。」
渋沢栄一が天寿を全うしたのはその翌年・・・1931年11月11日、91歳のことでした。
日本のために生き抜いた渋沢栄一
そして、渋沢の死後、救護法は実施されることになります。

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