日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:平清盛

鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

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日本列島が今のような形となった縄文時代から繋がってきている日本の歴史・・・
日本の教科書で学びましたが・・・現在、教科書は4年に1度改訂されています。
学んだ教科書の中身も変わってきています。

縄文時代の始まりは、1万2千年~1万3千年前と習いましたが・・・
1998年、青森県大平山本遺跡から出土した縄文土器を測定したところ、1万6500年前と結果が出ました。
なので、今の教科書では、1万6500年前とされています。

教科書の内容も変わってきているのです。

いい国つくろう鎌倉幕府・・・1192年・・・と習いました。
1192年鎌倉幕府成立!!と。
その根拠は、源氏の頭領・源頼朝が征夷大将軍に任命された年だからです。
しかし、鎌倉幕府の成立年には、今は6つの説が唱えられています。

①1180年説
当時、平清盛を中心とした平家が政治の実権を握っていることに大きな不満を抱いていたのが後白河法皇でした。
その意を汲んで、王子である以仁王が1180年に平家討伐の狼煙をあげると、これを受け、平家によって伊豆に流されていた源頼朝も挙兵。
鎌倉に入り、侍所を設置、関東などの実質的支配に乗り出します。
この頼朝が鎌倉に入った年こそが鎌倉幕府成立の年です。

②1183年説
頼とも同様、挙兵した木曽義仲は、平家討伐に貢献するも、家臣たちの粗暴さから朝廷から京都の人々から反感を買います。
すると、後白河法皇は、その身内である源頼朝に討伐を命じます。
頼朝はその見返りとして1183年10月に宣旨を受けます。
その時、朝廷が頼朝に対し、関東の荘園の支配権を与え、鎌倉での政権を公式に認めるというものでした。
つまり、朝廷に政権を認められた年が1183年です。

③1184年説
頼朝は、鎌倉に公文所(政務と財務を扱う)と問注所(裁判事務を行う)を置きます。
こうした幕府の初期官僚組織を形成した年が1184年です。

④1185年説
頼朝を中心とした源氏が、壇ノ浦で遂に平家を滅ぼします。
そしてこの年、頼朝は守護・地頭の任命権を得て、全国におきました。
頼朝が全国掌握に乗り出した年が1185年です。

⑤1190年説
頼朝は朝廷の武官の最高位・右近衛大将に任じられます。

⑥1192年説

このように6つの説がある中で、現在多くの教科書で採用されているのが、1185年説です。
その理由は・・・??
新しく守護・地頭を置く・・・頼朝が全国を支配する権利を得たということです。

どうして6つもの説があるのでしょうか?
それは、”幕府”の言葉の成り立ちです。
頼朝の時代、幕府という言葉は武家政権を表す言葉ではありませんでした。
幕府は、もともと中国で将軍の陣営を指す言葉でした。
日本では宮中の警護を司る近衛府及びその大将の通称なのです。
大将となった頼朝の館自体が幕府と呼ばれるようになったのです。
武家政権そのものを幕府と呼ぶようになったのは、江戸末期のことです。
それまでの武家政権は公儀、将軍は公方と呼ばれていました。
公的なもの・・・という呼び方をしていたのです。
しかし、武家政権を確立したのは頼朝です。
そのシステムは段階的に構築されてきたので、いつというのはどれを重視するかで説が分かれるのです。

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木曽義仲に出会う旅

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平安時代末期の1184年1月20日・・・今から800年以上前・・・
平家討伐の功労者が31歳で命を落とした。
源氏の対象のひとり・・・木曽義仲です。
義仲を討ったのは、あろうことは同じ源氏の源義経でした。
判官贔屓という言葉が生まれるほど人気のあった義経と敵対することで、敵役として語り継がれてきた木曽義仲・・・暴れん坊ともそば繋否か者ともいわれていますが・・・本当にアンチヒーローだったのでしょうか?

木曽義仲・・・本名は源義仲。
木曽の山国で育った猛者のイメージがありますが・・・色白のイケメンだったようです。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝やその弟義経とは従兄弟で、やがて対立していくこととなります。

木曽義仲は、1154年武蔵国に生まれます。
父・源義賢は、皇族の流れをくむ武家の名門を束ねる頭領の一族で、関東の上野国や武蔵国の北部を治めていました。
そんな義賢の子として源氏の武将となることを約束された義仲でしたが・・・わずか2歳の時に悲劇が・・・
父・義賢が殺害されてしまいました。
首謀者は義賢の母親違いの兄・義朝でした。
武蔵に地盤を築いていた義朝が、いずれは弟の義賢が対抗勢力になると恐れ、わずか15歳の息子・義平に命じて亡き者にしたのです。
まさに、血で血を洗う骨肉の争い・・・
義賢の子・義仲もまた父親と共に殺されるはずでした。
そんな義仲の命を救ったのは・・・義朝に仕えていた斎藤実盛です。
残された義仲を不憫に思った実盛は、敵にも関わらず追手から逃すために、木曽の豪族・中原兼遠に預けます。
兼遠は、源氏の頭領の血を受け継ぐ義仲を、将来源氏の大将にすべく、育てていきます。
そのために、兼遠が常々言い聞かせていたのは・・・
「平家を討つことこそ、そなたの定めよ」
真の敵は、父を殺した身内ではなく平家であると・・・!!
義仲は、いずれ源氏の大将となって、兼遠の恩に報いたいと思うようになりました。
そんな義仲の思いが通じる時が、刻一刻と迫っていました。

義仲が木曽の山中で伸び伸びと育っていた頃、京の都では源氏が由々しき事態に追い込まれていました。
源氏と敵対する武家の勢力、平家を束ねる平清盛が平治の乱(1159年)で源氏を束ねる源義朝に勝利、。
義朝は、東国に逃れる途中で殺されてしまいます。
勝者となった清盛は、官職のTOPである太政大臣にまで上り詰めました。
そして清盛一門は、全国に多くの領地を得、朝廷の主な官職を独占!!
清盛の娘・徳子は高倉天皇の正室となり、生まれた孫を安徳天皇に・・・!!
まさに、平家に非ずんば人に非ず・・・清盛一門は栄華を極めます。
このことを苦々しく思っていたのは、天皇を退いた後、院政をしていた後白河院でした。

「平家を倒さねば・・・!!」

この思いを受けて、対平家の急先鋒となったのが、後白河院の三男で安徳天皇に代わり天皇の座を狙っていた以仁王でした。
以仁王は、全国の源氏に平家打倒の令旨を出します。
その令旨は、27歳になっていた木曽義仲にも届きました。
打倒平家は義仲が抱いていた悲願でした。

「平家を攻め落とし、日本に二人の将軍ありと言わせて見せよう・・・」

この二人の将軍とは、源頼朝と、自分のことでした。
平治の乱の後、伊豆に流刑となっていた頼朝が、東国の武士たちを結集して兵をあげていました。
まさに、義仲にとって、千載一遇のチャンスでした。

「源氏の将軍として名乗りを上げようぞ・・・!!」

さらに、義仲が兵をあげたもう一つの思いは・・・
義仲の兄は、以仁王に仕えていました。
以仁王は令旨をばらまき、それがバレて殺されてしまいます。
その時、兄も討たれていました。
平家は兄の仇だったのです。
そして、亡くなった兄の代わりに以仁王の命令を成し遂げる・・・!!
父が殺されたことで離ればなれになってしまった兄・・・その無念を晴らしたい・・・!!
義仲は、兄の思いも背負って挙兵したのです。
平清盛は・・・「山猿の義仲など、案ずるに及ばずじゃ・・・」と、気にもかけませんでした。
しかし、義仲は挙兵の1か月後には上野国に進出!!
父・義賢の領地を取り戻します。

頼朝は、1180年富士川の戦いに勝利していました。
二人の大将が、平家を圧倒し始めます。
そんな中・・・1181年2月・・・絶対的権力者の平清盛が亡くなります。
屋台骨を失った平家・・・これによって天下の形勢は一気に源氏に・・・!!

1181年越後の平家軍と戦うこととなった木曽義仲・・・
平家軍はこの時6万の大軍勢・・・対して義仲軍は、圧倒的に不利な2千でした。
この2つの軍勢が激突!!横田河原の戦いです。
その結果は、義仲軍の勝利!!
その強さの秘密とは・・・??

①義仲が対象として作戦能力に長けていた
この時、義仲がとった戦略が・・・平家軍と思わせるために赤旗を掲げ、背後から接近するというものでした。
子の奇襲に平家軍は慌てふためき、その混乱に乗じて勝つことができたのです。

②木曽四天王など、結束力の強い優秀な家臣たちがいた
非常に忠誠心の強い家臣がそろっていました。
木曽四天王・・・今井兼平、楯親忠、根井行親、樋口兼光・・・絶対的な家臣がいたのです。

こうした結束力をもたらしたのは、義仲が何よりも義と情けを重んじ、家臣たちを大切にしていたからでした。
その中に・・・伝説の女武者・巴御前の姿も・・・!!
平家物語には義仲と濃い中だったと書かれており、その人物像は・・・
”巴は色白く、髪長く、容顔真に優れたり
 一人当千の兵なり”

美人なだけでなく、一人で千人に値する兵だった・・・
その活躍は、横田河原の戦いで、7人の武将を討ち取って功名を得たと記されてもいます。
家臣たちの活躍もあって平家軍に勝利した義仲でしたが・・・
1183年、義仲を震撼させる一報が・・・!!
鎌倉の源頼朝が義仲に大軍を差し向けたというものでした。
頼朝は、味方であるはずの義仲に兵を向けたのでしょうか?

当時、頼朝は坂東(関東)周辺の源氏一族を討伐していました。
その中のひとりとして義仲を・・・!!
そんな頼朝に対し、和議を申し入れようと使者を遣わす義仲。
すると、頼朝から出された講和の条件は・・・
義仲の長男・義高を人質として差し出させ、頼朝の娘と結婚させるというものでした。
当時、義高は11歳・・・周囲は猛反対しましたが、
義仲は「不要な戦はせぬ・・・信濃を戦場にはさせぬ」と、我が子を犠牲にしても信濃での無益な戦いを避け、家臣や民を守ろうとしたのです。

この後義仲は、1180年倶利伽羅峠の戦いでまたもや奇策を用いて大勝利を収めます。
それが火牛の計・・・牛の角に松明を括り付け、一気に平家軍に向けて放ったのです。
牛たちの突進から逃れようとして大混乱に陥った平家軍は、谷底に落ちていきました。
連戦連勝・・・破竹の勢いの義仲軍には、信濃や北陸から武士が集まってきました。
一方、清盛亡き後の平家軍は敗走をかさね、西国へと逃れて行ったのです。
義仲は、奢れる平氏に引導を渡し、源氏の世へと導いた時代の寵児となりました。

石川県小松市の多太神社には、木曽義仲が義と情けの武将であった証が残っています。
義仲が奉納した兜とすね当て・・・この兜をかぶっていたのは、義仲の父親が殺されたとき、降りかかる危険を省みず義仲を木曽へと逃がしてくれた忘れ難き命の恩人斎藤実盛のものです。
義仲を救った実盛は、主君が亡くなってから平家に従う身となっていました。
そして30年後・・・二人は加賀国篠原で敵味方として相まみえることに・・・義仲は、命の恩人を討ち取らせたのです。
実盛の首を前にした義仲は、その名を呼び、天を仰いだといいます。
戦の後、亡くなった実盛の兜を神社に奉納し、その死を弔います。
恩人の情けに報いるために・・・!!

1183年、木曽義仲はやっと京都に入ることに・・・。
朝廷の権力者・後白河院との謁見を果たします。
朝廷にとって大きな功労者であったはずの義仲・・・
しかし、人々は、山里育ちの武骨ものと嘲笑・・・??
しかも義仲は、都の人々の期待を裏切ってしまいます。
民衆が義仲に願ったのは、荒れ果てた都の治安の回復でした。
義仲は他の源氏と共に京都の警護をする京中守護に任じられたのですが、義仲に付き従った源氏の兵士の中から乱暴狼藉を働くものが続出し、治安がさらに悪化してしまいました。

失敗はさらに続きます。
安徳天皇が都を離れたことで、後継を誰にするのか問題が出て来ました。
後白河院は、高倉天皇の皇子で、安徳天皇の異母弟である四ノ宮を考えていました。
安徳天皇に血筋が最も近かったからです。
そこに待ったをかけたのが義仲でした。
平家との戦で死んだ以仁王の子・北陸宮を推薦したのです。
北陸宮は後白河院の孫ではあるものの、天皇の子でもなく、四ノ宮と比べると後継者の順位は低いものでした。
それでも義仲はこう言います。
「源氏が京を目指したのは、以仁王がいたからです。
 その子である北陸宮を次の帝にすることこそ、以仁王の死に報いることではありますまいか・・・!!」
この義仲の主張に後白河院は怒ります。

「武士の分際で、皇位継承に口を挟むとは何事か!!」

義仲が北陸宮を推したのは、以仁王に報いるため・・・そして、もう一つ理由がありました。
父を殺されたという北陸宮の状況に自分を重ねていたのです。
義と情けに厚いことがアダに・・・後白河院に疎まれることになります。

義仲が邪魔となった後白河院は、ある男の力を借りようと接触します。
源頼朝です。
頼朝もまた源氏に二人も対象は要らぬ!!と、打倒義仲を虎視眈々と狙っていました。
義仲が平家と戦っている間、頼朝は後白河院に密書を送り、朝廷への恭順の意を示すとともに自分には義仲を討つ覚悟があると伝えていたのです。
頼朝と通じていた後白河院・・・しかし、ある日義仲に自ら剣を与えこう言います。
「天下の乱れを鎮めよ・・・必ずや平家を倒せ・・・!!」
義仲に西国に逃れた平家追討を命じます。
義仲は後白河院から大役を命じられたと意気揚々と西国に・・・!!
後白河院が追討を命じたのは・・・??
義仲を京都から西日本に行かせて、頼朝を上洛させその頼朝に義仲を討たせようとしたのです。

そんな謀略だと知らずに平家追討に向かった義仲は、西国で力を盛り返していた平家に思わぬ苦戦を強いられます。
備中・水島の戦いでは、数千の兵を失うという大敗・・・。
苦境に立たされた義仲に追い打ちをかけるように都から報せが・・・

「鎌倉から大軍が押し寄せております!!」
「誰の命で動いておるのだ??」
「後白河院が命じたと・・・」
「まさか・・・」

この時初めて義仲は後白河院の謀略に気付きました。
本当の敵は、頼朝と手を組んだ後白河院だったと・・・!!

義仲は急遽、都へと舞い戻り、後白河院に激しく詰め寄ったと言います。
しかし、時すでに遅し・・・後白河院から追討の命を受けた頼朝が、遠征軍の指揮を義経に任せていました。
その義経の大軍が、すでに鎌倉を出陣していたのです。
こうして各地で義仲軍と義経軍との戦いが始まると、義仲軍は次々と破れていくこととなります。
後白河院はさらにしかけます。
京都にいた義仲以外の源氏を法住寺に集めて、義仲を討つための軍事強化を図ります。
信頼していた後白河院に裏切られた義仲の怒りはすさまじく、法住寺を攻めます。
後白河院を捕らえると幽閉し、義仲自身を征東大将軍に任じさせるという強引に反撃に出ます。
こうして、義仲は頼朝よりも先に将軍となったのですが・・・
これこそが、後白河院が待ち望んだ事でした。
案の定、義仲による後白河院の幽閉があまりに横暴と、公家や武士たちが猛反発!!
こうして孤立した義仲は四面楚歌に・・・。
敗色濃厚な義仲軍からは、見切りをつけた兵たちが次々と去っていきました。

1184年、源氏の大将として常勝を誇り、かつては数万の大軍勢を率いた木曽義仲でしたが、各地で負傷兵や脱走兵が出る中、軍勢は僅か数千に激減・・・。
その勢いは見る影もありませんでした。
しかし、木曽四天王をはじめ、昔から義仲を支えてきた家臣たちは、誰一人去らなかったと言います。
義と情けを重んじる義仲と、難い絆で結ばれていたからです。
義仲は、武士道という言葉がまだなかった時代に現れた、類まれなリーダーでした。そして義仲軍は、今日の宇治川で義経率いる大軍と相まみえることとなったのです。(宇治川の戦い)

義仲の最期を記した平家物語には、仕え続けた巴御前との涙の別れが記されています。
敵が目の前に迫る中、義仲は巴御前に告げます。

「どこへでも逃れて行け。。。
 我は討死する覚悟だ。
 最期に女を連れていたなどと言われとうない・・・」

と、巴御前を生かそうとしますが・・・
しかし、巴御前は、

「殿、何を仰せか!!
 嫌でございます。」

巴御前は、義仲の傍から離れません。
それでも、義仲が生きろと諭すと・・・ようやく巴御前は聞き入れます。
その後、彼女は鎧兜を脱いで、東国へ落ち延びたと言われています。

そして、この宇治川の戦いに敗れた義仲が、最期に行った場所は、琵琶湖のほとりの粟津・・・。
そこでは、四天王のひとりでともに木曽の山で育った今井兼平が苦戦を強いられていました。
義仲は、命を落とすことを承知で家臣のもとへ駆けつけました。
しかし、もはや戦いに疲れ果てていた義仲は・・・

「日頃は何とも思わぬ鎧が・・・今日は重く感じられることよ。。。」

兼平が初めて耳にした主君の弱音でした。
すると兼平は・・・
「気の弱いことを申されるな。」
と励まし、名誉の自害を勧めます。

自害するため、敵に背を向けてその場を立ち去る義仲・・・
兼平は、義仲が自害を遂げられるように時間を稼ぎます。
そんな兼平を最後まで心配したのか・・・義仲が振り返った瞬間・・・
義仲の眉間を、一本の屋が貫いていました。

最期の最期まで家臣を思いながら、木曽義仲は散ったのです。
1184年、木曽義仲、31歳でした。

破った義経は、その後の平家との戦いでヒーローとなりました。
しかし、その義経も、後白河院と源頼朝の権謀術数にはまり、義仲と同じ31歳で生涯を閉じることとなります。
勝者となった頼朝は、1185年鎌倉幕府を開き、武家政権を始めることとなるのです。
源氏の覇権争いで頼朝に敗れた義仲について、芥川龍之介は・・・

”彼の一生は失敗の一生也
  彼の歴史は蹉跌の歴史也
 彼の一代は薄幸の一代也
   然れども彼の生涯は男らしき生涯也”

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貴族社会が揺らぎ、武士が台頭してきた平安末期・・・
その歴史のターニングポイントに、天皇・上皇・法皇として30年間にわたり朝廷に君臨したのが後白河法皇です。
平清盛、源頼朝、源義経・・・名だたる武将を手玉に取り、日本一の大天狗と恐れらた後白河法皇。
しかし、その素顔は??

1127年9月11日、後に後白河法皇となる雅仁親王・・・後の後白河法皇が生れました。
父は鳥羽上皇、一番上の兄は崇徳天皇でした。
上皇→天皇が退いた後の称号
法皇→上皇が出家した後の称号
のことです。
雅仁親王は四男だったので、通常ならば皇位から遠い位置にありましたが、長男の崇徳天皇は9歳で子供がなく、次男、三男は病弱だったので、崇徳天皇に何かあった場合、雅仁天皇が皇位を継ぐかもでした。
1139年13歳になったある日・・・末の弟(九男)となる体仁親王が生れると、鳥羽上皇はその子を皇太子にしてしまったのです。
これには母親が誰であったかが重要でした。
雅仁親王の母は、待賢門院璋子、体仁親王の母は、美福門院得子でした。
美福門院の方が寵愛されていたのです。
皇位に着くことはない・・・そう考えた雅仁天皇は、当時の流行歌である今様に熱中します。
貴族から民衆まで楽しんでいた今様にのめり込んでいく雅仁親王。

1141年、雅仁親王を皇位から遠ざけた鳥羽上皇が、再び動きます。
23歳の崇徳天皇に強引に譲位を迫り、まだ3歳だった体仁親王を近衛天皇としたのです。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の本当の子ではないという噂がありました。
崇徳天皇の本当の父は、崇徳上皇の祖父である白河法皇だといわれています。
不貞の子だと考えられていて、鳥羽上皇は一刻も早く自分の子を天皇のしたかったのです。
ところが、新たに即位した近衛天皇は体が弱く、子供を残せぬまま17歳で崩御。
次の天皇を誰にするか??朝廷内がにわかに騒がしくなりました。
鳥羽上皇は、四男である雅仁親王を・・・ではなく、その子・守仁親王を指名します。
それに対し、貴族たちが不満の声が・・・
すると鳥羽上皇は・・・
「ならば、一旦雅仁親王を即位させて、その後すぐに守仁親王へ譲位させよう」
こうして、後白河天皇は、急場しのぎの中継ぎとして即位しました。
この時、29歳でした。

1156年保元の乱!!
保元元年に、一連の皇位継承を快く思わない崇徳上皇が、後白河天皇と衝突!!
指揮を執ったのは近親たちで、実際に戦ったのは武士たち・・・
崇徳上皇・・・・・源為義・平忠正
後白河法皇・・・源義朝・平清盛
でした。

源義朝・平清盛らの活躍で、保元の乱は後白河法皇側が圧勝!!
敗れた崇徳上皇は讃岐国に流されてしまいました。
この保元の乱は、武士が台頭する大きなきっかけとなりました。
2年後・・・後白河天皇退位!!して上皇に。
第一皇子である守仁親王が二条天皇となりました。
これで世の中は落ち着く??そう思われましたが、後白河上皇が争乱の火種を作ってしまいます。
当時、朝廷には二人の実力者がいました。
共に後白河上皇の近臣だった僧侶・信西入道と上級貴族の藤原信頼です。
53歳の信西入道は、もともと貴族で諸芸に通ずる才人で、妻が後白河上皇の乳母であったこともあり絶大な権力を有していました。
一方、藤原信頼は27歳。
後白河上皇の元で大出世し、この時すでに権中納言という地位にありました。
しかし、周りの評価は・・・「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし・・・」と、典型的なダメ男でした。
どうして信頼は異例の出世をしたのでしょうか??
二人は男色関係にあり、後白河上皇は信頼にべた惚れでした。
貴族社会の間では、男色は普通のことでした。

信頼が願いを申し出ます。
「私を右近衛大将にしていただけませぬか?」by信頼
右近衛大将とは、宮中での常設武官の最高職でした。
信頼には分不相応でしたが・・・後白河上皇はこの願いをかなえてやりたいと信西に相談。
信西は・・・
「信頼などが、右近衛大将となったら世が滅びます」by信西
これを聞いた信頼は激怒し、信西を恨み、遂には信西の殺害を目論みます。
この時手を結んだのが、保元の乱で活躍した源義朝でした。
義朝も信西に恨みを抱いていました。
保元の乱の後、崇徳上皇側についた父・為義の助命嘆願をしましたが、信西がこれを許さず、義朝自身に父・為義を処刑させていたのです。
また、信西は、平清盛を優遇し、義朝を冷遇していました。

1159年12月9日、藤原信頼と源義朝が挙兵!!
平治の乱が勃発しました。
平清盛が京都を離れていた隙をつき、義朝率いる源氏軍が信西の屋敷を襲撃し、屋敷にいた者をことごとく殺害し、信西を自害に追い込みます。
さらに、暴走した信頼は、二条天皇と寵愛を受けていた後白河上皇を幽閉しました。
朝廷の実権を奪ったのです。
しかし、平清盛が京都に戻ると状況は一変!!
二条天皇を内裏から救い出し、後白河上皇も自力で脱出!!
勢いに乗った清盛は、激戦の末に源氏軍を撃破!!見事に乱を治めたのです。
追いつめられた信頼は、命からがら後白河上皇の元に逃げ込み、助命嘆願します。
すると上皇は、幽閉されたにもかかわらず、信頼の願いを聞き入れようとします。
しかし、二条天皇は信頼を許さず・・・六条河原でその首を刎ねました。
この時信頼についていた義朝は、尾張国まで逃げますが、殺されてしまいました。
供に逃げていた息子・頼朝は伊豆に流され、弟・義経は鞍馬寺に預けられたのです。
後に、平家打倒に・・・!!

この後、後白河上皇は失脚し、貴族たちの顰蹙を買い総スカン!!
後白河上皇の屋敷には、見物席があり庶民と歓談することを楽しみにしていた上皇ですが。。。
平治の乱の後実権を握った二条天皇の近臣が、見物席の目の前に板を打ち立て後白河上皇の楽しみを奪ってしまいました。
腹を立てた後白河法皇は・・・一気に勢力を高めていた平清盛を屋敷に呼びます。
「板を打ち付けた者を懲らしめてほしいのじゃ!!」
と、懇願します。
失脚しても上皇・・・。清盛はこの願いを聞き入れます。
板を打ち付けた者たちをせっかんし、泣き叫ぶ声を上皇に聞かせました。
自らの武功によって失脚した後白河上皇・・・もはや復権はない・・・。
と、誰もが思っていました。
ところが・・・時代は後白河上皇に微笑みます。
1165年二条天皇が23歳という若さで病死。
亡くなる直前に、実子の六条天皇が後を継いでいましたが・・・まだ2歳・・・。
政務を行える状態ではなかったので、祖父である後白河上皇が復権。
院政を行うこととなりました。
すると上皇は、清盛のご機嫌を取り始めます。
六条天皇の皇太子に清盛の甥・憲仁親王を据え、皇太子に関する実務を司る役所である東宮坊の役人に平家の者たちを・・・。
そして、1167年清盛を太政大臣に任命します。
武士が、官僚の最高職である太政大臣となるのは前代未聞のことでした。
清盛に守られることで、院政を強めようとしたのです。
翌年には、憲仁親王が皇位を継ぎ高倉天皇となりました。
そしてその高倉天皇が、清盛の娘・徳子妃としたので、後白河上皇と清盛の関係は強まります。

1169年後白河法皇は43歳で出家して、後白河法皇となります。
これまで以上に人生を謳歌していきます。
蜜月関係の後白河法皇と清盛ですが、思わぬところから亀裂が・・・!!
1177年比叡山延暦寺の僧兵たちが寺で乱闘事件を起こした者の処罰を求め、高倉天皇の内裏へ乗り込んできました。
激怒した後白河法皇でしたが、その理由は・・・
「訴えがあるのならば、なぜ朕のところへ来ないのじゃ!!」
延暦寺が、自分を最高権力者と認めていないことに腹を立て、後白河法皇は清盛に
「直ちに延暦寺を攻め立てよ!!」と命令します。
これが清盛を悩ませます。
延暦寺は、僧兵がたくさんいて手ごわく・・・何より、仏門を敵にしたくはありませんでした。

そんな時、清盛に知らせが・・・
京都・鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の近臣たちが、平家打倒の陰謀を企てていると・・・!!
清盛は、近臣たちを捕らえ、拷問し、斬首しました。
これを目の当たりにした街の人たちは、平家に逆らうと恐ろしいことになると噂します。
朝廷内にも激震が・・・!!
本当にこの陰謀はあったのか・・・??
清盛は、自らの力を見せつけることで、無理難題を押し付ける後白河法皇を黙らせようとしたのではないか?と思われます。
ところが、後白河法皇は黙るどころか「平家一門もろとも葬り去ってやる!!」と、清盛に激怒!!
清盛が管理していた領地を取り上げ、孫・維盛の知行国・越前を没収。
その上で、またしても延暦寺を攻撃せよと命じます。
これによって清盛はついに挙兵を決意!!
そして1179年11月、数千騎を引き連れて後白河法皇の内裏へと向かいます。
この時、後白河法皇は、「清盛の挙兵は延暦寺を攻めるためだ」と考えていました。
自分が徴発しておきながら。。。
自分が襲われるのだと気づいたのは、清盛軍が目前に迫ってからでした。
慌てた法王は、清盛の元に使者を送り、「今後、朕は一切政治に関与せぬ」と宣言。
しかし、時すでに遅し!!
延暦寺の問題で、後白河法皇と清盛の関係は悪化していました。
これを黙殺し、後白河法皇を幽閉して、院政を停止!!
朝廷の人事を刷新し、法皇の近臣たちをことごとく追い払い、その空いたポストに平家一門をつかせたのです。
これによって、平家が支配する所領が全国の半分を越えるまでに拡大しました。
平家の世が訪れたのです。

法皇は、さほど落ち込むこともなく、今様を舞っていました。
親しみやすい後白河法皇は、民衆から支持されていて、幽閉されたことがわかると、涙を流すものまでいたといいます。
呑気に今様に興じていた後白河法皇。
自分に逆らった清盛への怒りは全く収まっていませんでした。
権力をほしいままにする平家に対し、不満の声が高まり立ち上がる者が出てきました。
源氏の嫡流である源頼朝もその一人です。
伊豆国で挙兵した頼朝は、東国武士を次々と味方につけ、鎌倉に平家を倒すための拠点を作ります。
これに、延暦寺など多くの寺社も呼応し、打倒平家の機運は高まります。
暗雲が立ちこみ始めた平家政権・・・。
すると清盛は後白河法皇の幽閉を解き、院政の再開を要請します。
再び法皇と手を組み、反勢力を抑え込もうとしたのです。
1181年、清盛が突然病に倒れます。
激しい頭痛と体が燃えるような高熱で息も絶え絶え・・・もはや助からぬ・・・と、後白河法皇に

「私が没したら、後を託した息子の宗盛と共に政務を執っていただきたい」by清盛

かつては、蜜月関係を築いていた清盛の最後の願い・・・清盛に恨みを抱いていた後白河法皇はこれを無視!!
清盛は平家の行く末を案じたまま、治承元年閏2月4日、死去。

この時後白河法皇は、清盛を弔うこともなく、内裏で今様を謡い続けていたといいます。
1184年、源頼朝に平家追討の命令を下しました。
その翌年の1185年・・・壇ノ浦で平家は滅亡!!

源義経が近江で平宗盛を処刑すると、後白河法皇はわざわざ宗盛の首を見物しに行ったといいます。
その1年後・・・平家の生き残りとなった清盛の娘・徳子の元を訪れ、一門滅亡の悲痛な思いを聞いて涙したといいます。
自分で滅ぼしておきながら・・・!!

平清盛と蜜月関係を築き、権力を維持してきた後白河法皇は、平家亡き後は源氏と密にしていきます。
そこで目をつけたのが、源義経でした。
平家との戦いを勝ち抜いた戦の天才・源義経!!
武功を高く評価した後白河法皇は、検非違使に任命します。
しかし、これを不快に思ったのが、兄・頼朝でした。
頼朝は、総大将の自分の許可なく官位を得た義経を激しく叱責!!
鎌倉に入ることも許さず、領地も没収!!
非情な兄の仕打ち・・・義経の悲しみは、やがて激しい怒りに!!
そして後白河法皇に兄・頼朝の追討許可を求めました。

「よかろう・・・頼朝を討つがよい!!」by後白河法皇

頼朝は驚きます。
確かに最前線で戦ったのは義経でしたが、総大将として平家を滅亡させたのは自分・・・その自分を討てとは・・・!?
頼朝は、後白河法皇を「日本一の大天狗」と、得体のしれない存在と皮肉を込めて呼びました。
しかし、この時後白河法皇には意図がありました。
この時、都は激化する源平の戦いで混乱していました。
頼朝に対して憤っていた義経が暴発する可能性がありました。
頼朝追放令を出すことで、義経を落ち着かせようとしたのです。
義経を思ってのこと・・・??

頼朝の追討を許された義経でしたが、事は思うようには運ばず・・・
鎌倉に強大な軍事力を持つ頼朝を敵に回そうとする武士は少なく、戦力が整いません。
止む無く、頼朝追討は諦め、若い頃世話になった奥州藤原氏の元へ逃げ込みます。
一方頼朝は、1000騎の軍勢で都を制圧!!
後白河法皇に、義経追討の院宣を求めます。
そると法皇は・・・
「よかろう 義経を討つがよい」と、義経追討をみとめてしまいました。
後白河法皇に見捨てられた義経は、逃げ込んだ奥州で力尽きて自害。
31歳という若さで生涯を追えます。
寵愛していた義経追討を許した後白河法皇。
この時、義経を見捨てた理由は・・・
後白河法皇は、何より都を護りたかったようです。
頼朝が上洛し、都を制圧すると、今度は頼朝の怒りを鎮めるために・・・
義経よりも、都と民衆の安寧を守りたかったのです。

1192年後白河法皇は、66年の生涯を閉じました。
その死に顔は、驚くほど穏やかだったといいます。
今様を愛した後白河法皇、お気に入りの歌は・・・

遊びをせんとや生まれけん
    
   戯れせんとや生まれけん
      
遊ぶ子供の声聞けば

   わが身さえこそ動がるれ

まさに、この歌のように生き、平家と源氏を翻弄し、時代を変えた実に興味深い人でした。


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江戸幕府初代将軍徳川家康。
家康が天下を手に入れることができた一つの要因は長寿でした。
薬や医術を学び病に対処、常に健康に気を遣っていました。
歴史にその名を残す偉人達・・・どうやって病と闘い死と向き合ってきたのでしょうか?

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1147年尾張国に源氏の棟梁・源義朝の嫡男として生まれました。
その後、義朝と共に平治の乱に加わるも、平清盛に敗北を喫し父を殺され、頼朝は伊豆に流されます。
1160年、頼朝14歳の時でした。

それ以来、父の菩提を弔いながら、いつの日か敵を討とうと平家への恨みを募らせていきます。
願いがかなったのは、25年後の1185年、頼朝39歳の時でした。
源氏が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのです。
1192年、頼朝は鎌倉幕府初代将軍となります。
武士が中心となって政治を行う武家政権の安定化を図っていきますが・・・将軍になってから6年後の冬の事。
武蔵国で行われた橋の開通式に参列した帰り道、頼朝は落馬してしまいます。

「武士の棟梁でありながら落馬するとは、何たる失態!!」

酷くショックを受けたものの、大したけがもなくいつもと変わらぬ日々を送っていました。
ところが・・・2週間ほどたった日の早朝・・・ひどい頭痛と吐き気を訴え・・・そのまま亡くなってしまうのです。
53歳でした。

亡くなる前日まで元気だったので、人々はその死を不信がりました。
様々な噂が・・・頼朝の謎の死、その死因とは・・・??

死因①亡霊説
南北朝時代の書かれた「保暦間記」には・・・
「安徳天皇らの亡霊を見て、気を失い病に倒れた」
とあります。
頼朝は壇ノ浦で平家と共に身を海に投げた、安徳天皇らの亡霊を見て病に倒れたというのです。
当時は、亡霊や祟りの存在が強く信じられていたからです。
が、信憑性はありません。

死因②毒殺説
鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」は、なぜか頼朝の死の前後3年間は空白となっています。
これは、頼朝の不信な死を隠したいという隠蔽説ではないか??と!!
そしてその首謀者こそ、当時頼朝の後ろ盾であった北条氏で、頼朝から政権を奪うために、あらかじめヒ素を飲ませ、毒殺し、隠蔽を図ったというのです。
ヒ素の中毒症状は・・・
・胃や腹部の激しい痛み
・嘔吐
・血性の下痢
・重症の場合は、腎障害や、全身痙攣を引き起こす
です。

頼朝もまた、強い吐き気をもよおしていたので、ヒ素とも考えられますが・・・まだ鎌倉幕府が安定していない時期に、北条氏がカリスマ性のある頼朝を毒殺するメリットがない??

死因③糖尿病説
五摂家の一つ近衛家の日記「猪隈関白記」の中に
「頼朝卿、飲水の重病により」という記述があり、頼朝は重い飲水病を患っていたことになります。
飲水病とは・・・??糖尿病のことです。
大量に水を飲みたがることから、飲水病と名付けられたようです。
糖尿病になると・・・血管障害や腎障害、神経障害を起こし、重病の場合、死に至る可能性がります。
頼朝の死は糖尿病??

頼朝の場合、突然体調不良を起こしているので、糖尿病で死に至った可能性は低いと思われます。

頼朝の死の原因は落馬・・・??
慢性硬膜下血腫による死亡が有力です。
これは、頭部打撲の後、2~3週間後に症状が出ます。
頭を討った際に、じわじわと出血し、血種が大きくなり、脳幹を圧迫して死に至る場合がります。
気にならないほどの打撲で・・・。

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝
病歴:糖尿病
死因:慢性硬膜下血腫
没年齢:53歳
でした。


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