>【送料無料】 奈良朝の政変と道鏡 敗者の日本史 / 瀧浪貞子 【全集・双書】

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奈良時代末期、朝廷で皇位継承をめぐる前代未聞の事件が起こりました。
皇族とは全く関係のない僧侶・弓削道鏡が、女帝・称徳天皇の後ろ盾を得て天皇になろうとした道鏡事件です。

一介の僧・・・弓削道鏡・・・河内国の弓削一族の出身とされています。
弓削氏・・・弓の製作を統率していた一族の事です。
二度天皇となった古代最後の女帝・・・一度目は孝謙天皇、そして二度目は称徳天皇です。
称徳天皇は、生涯独身を貫き、子供を持つことはありませんでした。
道鏡は、この称徳天皇の寵愛を受け、天皇に並ぶ権力を持つこととなり、自ら天皇になろうとしたのです。
果たして、本当に天皇になろうとしていたのでしょうか??

孝謙天皇は、聖武天皇の娘として718年に生まれました。
父である聖武天皇は、仏の力での国家安泰を願い、全国に国分寺を建立。
東大寺では、世界最級大の廬舎那仏・・・大仏の造立を始めていました。
しかし、病気がちだった天皇は、皇位を譲り、政務から離れることに・・・
既に皇子は病で亡くなっていたので、娘を孝謙天皇として即位させ、自らは上皇となります。
749年孝謙天皇即位。

聖武上皇は、娘である孝謙天皇に、国家安泰の課題を2つ与えました。

①仏法僧を盛んにすること。
②皇位継承・・・女性の天皇は生涯独身を通し、自身の皇位継承者は皇族の中から選ぶこと。

父はこの後継者について、身分を問わず、孝謙天皇に任せると言っていました。

孝謙天皇は即位から3年後の752年、廬舎那仏開眼!!
その後、聖武上皇がなくなると、思わぬ政権転覆計画が発覚!!
首謀者は、孝謙天皇の従兄弟である橘奈良麻呂でした。
このクーデターは未遂に終わったものの、443人もの皇族や貴族が加担していました。
どうして政権転覆が画策されたのでしょうか?
当時の朝廷には、天皇は男性がなるべきだという考え方が多くありました。
女性はあくまでも中継ぎ・・・しかし、孝謙天皇は、頑張っていました。
しかし、大仏建立は終わったので、孝謙天皇の役目は終わったと考えたのです。

女性天皇が故の弱体政権・・・
758年、天皇の座を明け渡すことに・・・
当時、朝廷を牛耳っていたのは、藤原仲麻呂。
孝謙天皇を引きずり下ろし、自分が子供のように育てていた大炊王を即位させます。
これによって孝謙は・・・孝謙太上天皇となったのです。
新しく天皇となった淳仁天皇ですが、実際は仲麻呂の傀儡。
父の遺志を継ぐ孝謙にとっては不本意な跡継ぎでした。
その悔しい思いが天平宝字という年号に現れています。
年号は、即位と同日に改元されますが・・・上皇は淳仁天皇の即位後も、自分の即位年号の”天平宝字”を使ったのです。
天皇が変わったのに、年号が改元されない・・・これは、異例中の異例で、孝謙上皇は淳仁天皇を認めていなかったということです。
藤原仲麻呂のいうがままの淳仁天皇がどうしても気に入らなかった・・・!!

仲麻呂たちへの不満、心労がたたったのか、45歳の時病の床に就きました。
この時、付きっ切りで看病してくれたのが僧侶・弓削道鏡だったのです。

道鏡の詳しい出自は解っていません。
若くして仏門に入り、東大寺で仏教を治めます。
さらに、修験の霊場・大和葛城山に籠って修行をし、中国から伝わった最新の学問を身に着け、呪禁力をもっていたといわれています。
そのため、皇族の病気治療に携わる看護禅師になっていました。
孝謙上皇に出会ったのは60歳ごろの事・・・。
道鏡は、宿曜を用いて孝謙上皇の治療を行ったとされています。

病が癒えた孝謙上皇は、命の恩人である道鏡を、全僧侶を取仕切る住職の一つ”小僧都”に抜擢!!

孝謙上皇と道鏡の禁断の恋の噂は、瞬く間に朝廷中に広まりました。
淳仁天皇は諫めますが・・・無実を主張!!淳仁天皇を非難し・・・
762年、出家してしまいました。

しかし、怒りは収まらず10日後・・・孝謙は強権を発動!!
淳仁天皇から権力を奪い返したのです。
孝謙は、淳仁天皇から国政権を取り上げ、朝廷の中心に返り咲きます。
この孝謙の復権に際し、淳仁天皇と藤原仲麻呂は武装蜂起を計画。
しかし、そのたくらみは孝謙に筒抜けでした。
兵を差し向けた孝謙は、淳仁天皇から天皇の象徴である「駅鈴」と「御璽」を奪います。
こうして、淳仁を天皇の座から引きずり下ろしました。
そして、淳仁天皇を淡路島に流してしまったのです。
越前に逃亡した藤原仲麻呂も捕らえて首を刎ねました。

孝謙は6年ぶりに天皇の座につき、称徳天皇となったのです。
そして、道鏡も、その地位を高めていくのです。
道鏡は、称徳にとって、二人三脚な存在となっていきます。
重要な役職に就けていきます。
仲麻呂が就いていた太政大臣に抜擢、太政大臣禅師として政治の地位も確立しました。
さらに、仏教の隆盛に邁進する称徳天皇・・・
平城京の西に、東大寺に匹敵する西大寺の創建を道鏡に進めさせます。
藤原仲麻呂との戦いで亡くなった将兵たちを弔い、国の安泰を願います。
さらに法皇という新しい位を道鏡に与えます。
これは、天皇に準じるほど高く、道鏡はついに、天皇に匹敵する地位を獲得したのです。

天皇の座に返り咲いた称徳天皇・・・西大寺の創建など仏教の隆盛に努め、父・聖武天皇の遺言の一つは達成しました。
残されたのは、国家安泰を図れる人物に、皇位継承をすること。。。
そんな時、一度目の信託が・・・!!
169年神のお告げがもたらされます。
ご神託があったのは、宇佐八幡宮。。。
ご神託を受けたのは、大宰府の主神・習宜阿曽麻呂でした。
阿曽麻呂は、すぐに平城京に向かい、称徳天皇に神託を奏上します。
そこにはなんと・・・「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」と書かれていました。
僧侶を天皇に・・・という神のお告げが、朝廷を揺るがす道鏡事件の始まりでした。

この信託が作為的なものとするならば・・・まずは道鏡自身です。
その疑惑の根拠は、宇佐八幡宮・・・
当時、八幡神が遷座していた大尾神社。。。九州にあって、聖武天皇ともかかわりのある重要な八幡宮でした。
八幡神は、神仏習合をいち早く成し遂げ、東大寺の大仏造立に積極的にかかわって、国家的な神として信仰され、中央政界とも深いつながりを持っていました。
つまり、宇佐八幡宮のお告げは特別な意味を持っていました。
奈良時代の宇佐宮は、女禰宜がシャーマンとしてトランス状態で神の声を聴き、口頭で伝えていました。
神職が信託を書き留め、宮司に渡す・・・それが大宰府から朝廷に・・・伝えられていたのです。
このプロセスに道鏡が関わることは可能でした。
そのカギは大宰府・・・
当時、宇佐八幡宮は、大宰府の管理下にありました。
その大宰府長官だったのが道鏡の弟・弓削浄人。
弟なら阿曽麻呂を簡単に操ることができます。
しかも、当時、宇佐八幡宮の神官たちは、権力闘争の真っ最中で、うまく取り込むことは難しくなかったようです。
ご神託は道鏡の策略だったのでしょうか??

本当に道鏡の策略であるならば、称徳天皇の死後、道鏡は殺されているはず・・・
しかし、下野国薬師寺に流されただけ・・・この寺は、格式高く、流された理由はもちろん中央から退けられたのですが、悪くはない・・・。
朝廷の人たちも、道鏡自身が動いたわけではないと、わかっていたのではないか?と思われます。
道鏡を天皇に!!という神託は、道鏡を取り巻く人たちが利権を得ようとたくらんだもの・・・??
それは、称徳天皇にとっては渡りに船。。。
称徳は、道鏡を天皇にしたいという思惑がありました。
2014年、奈良市の平城京跡から・・・
称徳天皇の斎宮から、元日に行われる荘厳な儀式には、高さ9メートルに及ぶ、7本の旗が建てられました。
その旗竿の台座の後が、発掘されたのです。
それが7本×2組・・・つまり、称徳天皇のものと、道鏡のものの可能性が・・・!!

765年、称徳天皇が貴族たちを招いて、斎宮の前殿で元日の儀式を行ったと書かれています。
さらに、其の4年後には、道鏡が同じ場所で、大臣らから正月の挨拶を受けたと書かれています。
つまり・・・天皇と道鏡が同等の儀式をしていたのです。
称徳天皇が道鏡を天皇にしようとしたのは間違いない・・・
僧である道鏡に皇位を譲れば、父・聖武天皇との約束を二つ同時に果たせる・・・
仏法僧と、皇位継承・・・
しかし、道鏡を天皇にすることにはためらいもありました。
皇位継承は皇族に限るという不文律への挑戦・・・!!

道鏡を天皇に・・・称徳天皇が取った次の一手とは・・・??
貴族達からの猛反発は避けられない・・・そこで、称徳天皇は、信頼していた女官・広虫の弟である和気清麻呂を召し出し、命じます。
「私の夢に八幡神が現れ、奏上したいことがあるので広虫をよこしてほしいとの事。
 ご神託の真偽を確かめたい。
 弟のお前が、そのご神託をうかがってくるのじゃ。」
二度目のご神託も同じであれば、貴族たちも納得するのではないか??と、称徳天皇は考えたのです。

二度目の信託・・・
清麻呂は、さっそく宇佐八幡宮へ・・・!!
改めて誰が良いか、ご神託を聞いてくることとなりました。
平城京へ戻ってきたのは、出発から数か月後・・・
そこに記されていたのは・・・
「臣下が君主になったことは未だかつてない・・・ 皇子には必ず皇族を立てよ。」
皇位継承者には、天皇の血を引くものに限ると書かれていたのです。
つまり、道鏡を天皇にしてはならないと・・・さらに、
「道鏡を朝廷から追放すべし」と書かれていました。
二度目のご神託は一度目とは正反対のものでした。
そして、清麻呂は・・・
「一度目のご神託は偽りでございました。」と。
自分の思惑が外れたことに怒った称徳天皇は、清麻呂を別部穢麻呂と改名、大隅国へ配流。
側近だった清麻呂の姉・広虫を名を狭虫とし、備後国へ配流。

しかし、落ち着きを取り戻すと、そこに込められた貴族たちの意図に気付きます。
貴族達は道鏡を天皇にすることを反対している・・・

一度目の信託と二度目の信託・・・

神の許しがなければ、君主となる事は出来ない・・・ 

称徳天皇は二度目のご神託を受け入れ、道鏡を天皇にすることはありませんでした。
これ以上道鏡が大きな存在になれば・・・道鏡を天皇にすることで、起きる内乱を避けたのです。
貴族達には贈り物を送り、団結を訴えます。
贈り物は結束の象徴の「帯」が・・・そこには「恕(ゆるす)」の文字が書かれていました。
反対勢力を不問にふし、道鏡事件を終息させたのです。

道鏡事件後、二人が描いた夢とは・・・??
翌年、二人は三度由義宮を訪れています。
平城京の西に在り、副首都と位置付けられていました。
二人は長い時には40日も滞在したといいます。
そこは、道鏡の出身地とされる大阪・八尾市。
しかし、これまで遺物が発見されたことはなく、幻とされていましたが・・・
2016年に東弓削遺跡が発掘。
称徳天皇が道鏡のために建てたと思われる塔の跡が発見されました。
その塔は、巨大な七重塔で、東大寺に次ぐ大きさでした。
さらに大量の瓦が発掘。
自分が生きている間に由義宮に巨大な寺を建て、そこを道鏡に任せる・・・
仏の力によって国家安泰を図る。
それが、道鏡を天皇にできなかった称徳天皇の最後の夢だったのかもしれません。
都に戻った称徳天皇は、暫くして病の床に・・・。
道鏡は、貴族たちの謀りによって一切の見舞いを許されなかったといいます。
770年、称徳天皇崩御。
道鏡と出会って8年・・・53年の生涯でした。

称徳天皇の亡骸が高野陵に葬られると、道鏡はようやくその陵に参り、弔うことが許されます。
次の皇位継承者には、藤原氏を中心とする話し合いによって、称徳天皇の対立する系統の62歳の光仁天皇が即位しました。

完全に後ろ盾を失ってしまった道鏡は、法王の座を追われ、間もなく下野国薬師寺別当に左遷されます。
772年4月6日道鏡死去・・・法王の座まで上り詰め、一度は天皇に推挙された道鏡ですが、死する時は庶民をもって葬られたと伝えられています。


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