1590年、豊臣秀吉が天下を統一!!
しかし、ようやく終止符が打たれたはずの戦国の世は、2人の武将の反目によって大きく揺らぎだします。
武勇秀でだ強者・加藤清正と、頭脳明晰な切れ者・石田三成です。
そんな2人の亀裂が、あの関ケ原の戦いを招くことになりました。
1574年、近江・長浜城・・・
織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、この地で初めて一国一城の主となりました。
有能な二人の少年が、臣下に加わりました。
石田三成と加藤清正です。
三成は、当時15歳、秀吉の身の回りの世話をする近習番として仕え、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
一方、清正は、三成の2歳年下で、剣術の才能に恵まれ、武芸に秀でていました。
2人はともに秀吉にかわいがられ、切磋琢磨しながら成長していきます。
そして・・・最初にその名を轟かせたのは清正でした。
1583年、近江国・賤ケ岳・・・信長亡き後、次なる覇権をめぐって秀吉と柴田勝家が激突!!
主君・秀吉の命運をかけた戦いで、何としても手柄を立てたいと血気に逸る清正でしたが、乗っていた馬が足を痛めて使えなくなります。
すると・・・「馬が駄目なら走って秀吉さまのお供をしよう!!」
なんと、50キロの道のりを走り通したのです。
そればかりか、戦場につくや否や敵将・山路正国を討ち取り、七本槍の一人として功名をあげました。
その後、清正は、戦で活躍する武断派の中心として秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には、功績が認められ、肥後国54万石の北半分、25万石の大名となったのです。
一方、三成は、胃腸が弱かったので戦場に出ると緊張するのかよく腹を壊して大きな武功をあげるどころではありませんでした。
その代わりに、豊臣家臣随一の才知を活かし、戦での食料や武器、兵員の調達など、兵站を担当!!
裏方として活躍します。
こうして二人はそれぞれの分野で秀吉に貢献していきます。
逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]
そして1590年、秀吉は最後まで抵抗していた小田原の北条氏を破ると、天下取りが実現します。
それはまさに、三成と清正の夢が叶った瞬間でもありました。
しかし、この天下統一が二人を引き裂いていきます。
平和な世の中になったことで、武功を立てて出世する武断派の活躍の場・・・戦が無くなってしまいました。
そんな武断派と入れ替わるように台頭したのが、豊臣政権の政務を取り仕切る奉行派です。
その中心だった三成は、秀吉の天下を不動のものとするため、天才的政策立案能力を発揮します。
一揆を未然に防ぎ、法治国家としての治安を維持する刀狩りや、租税の大元となる田畑の測量・太閤検地を全国的に実施するなど、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そうした奉行派・三成の重用に対し、武断派の清正は反発するようになっていきます。
佐賀県唐津市・・・かつてこの地にそびえていた名護屋城は、秀吉が新たな戦いのために造った城です。
1591年、築城を任されたのは、城づくりの名人と言われた清正をはじめとする九州の大名達でした。
清正はわずか5か月で、巨大な天守を中心とする多数の櫓が立ち並ぶ、大坂城に勝るとも劣らない城を築き上げたといいます。
さらに、周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、その陣容はかつてない大戦の始まりを告げていました。
それこそ、天下統一を果たした秀吉が、朝鮮半島に攻め入る、そこから明の征服を目指すという朝鮮出兵です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが、朝鮮半島に近い九州肥後半国の領主だった清正でした。
秀吉から同じく肥後を納める小西行長と共に、その先陣を任されたのです。
奉行派に主導権を握られていた清正にとって、まさにチャンス!!
清正は、朝鮮半島に渡る前、こう語っています。
「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい」by清正
清正にとって、朝鮮出兵は自らの領地を増やす新しい夢の始まりでもあったのです。
一方、三成は朝鮮出兵に大きな疑問を感じていました。
政務を取り仕切る奉行派・三成にとっては、
「今大切なのは、豊臣の世を不動のものとする国づくり。
新たな戦は、百害あって一利なし・・・」by三成
そこで、秀吉に異を唱えたものの、聞き入れられず、主君に従う他、ありませんでした。
1592年、遂に日本軍15万9000が、海を渡り朝鮮半島に上陸・・・
この大軍のうち、1万人余りを率いる司令官を任された清正は、陣頭指揮に立ち、釜山に上陸し北上・・・瞬く間に朝鮮国の都・漢城(ソウル)を陥落させます(文禄の役)。
そして、朝鮮の二人の王子を捕らえ、明との国境まで進軍するなど破竹の快進撃!!
まさに、武断派の面目躍如でした。
流れ星型兜をかぶり、南無妙法蓮華経と染め抜いた旗を持った清正は、朝鮮の兵士たちから鬼上官・幽霊将軍の異名で畏れられたといいます。
しかし、時間がたつにつれ、戦況が様変わりします。
朝鮮各地で民衆が蜂起し、朝鮮水軍が活躍し出すと、日本軍の補給路が絶たれ、食料などが枯渇・・・
苦境に立たされてしまったのです。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参戦・・・
猛烈な反撃を受け、戦況は膠着状態に陥り、戦が長期戦になった事で、大軍を維持するための膨大な食料と武器が必要となりました。
この危機的状況を打開するため、秀吉に代わって朝鮮半島に渡ることになった三成は、こう考えていました。
「早期終戦に向けた講和しか道はない・・・」by三成
すると、その三成の渡航が清正をはじめとする異国で戦う武将たちの反感を買うこととなったのです。
清正たちは血みどろの戦いをしていました。
そこに食料も来ない・・・食料を送る役が三成たちでした。
その三成たちが乗り込んできた・・・自分たちを監督しに来たという思いで見ているので、清正としては余計に反発したのです。
三成は、戦による消耗を最小限に抑えるため、親しい関係にあった小西行長と共に講和に向けて動き出します。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた二人の朝鮮国王子の引き渡しでした。
これに猛反発したのが清正です。
「我々は、何のためにこの過酷な戦を戦ってきたのか!!」by清正
最前線で戦ってきた清正にとって、明との講和は承服しがたいものでした。
すると・・・講和交渉に反対する清正に、秀吉からの突然の命が下ります。
「即刻帰国せよ!!」by秀吉
もっとも武功をあげた清正に、まさかの帰国命令・・・そして、そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は三成の謀略ではなく、秀吉に戦況を正しく報告した結果でした。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎になったと思い込んだ清正は、ますます三成を忌み嫌うようになっていきます。
1583年、豊臣秀吉、関白就任!!
諸大名が直接秀吉に謁見したり、献上品を手渡したりできなくなります。
その為、窓口となったのが、側近の石田三成でした。
秀吉に気に入られるかどうかは、三成の口利き次第・・・
もし三成の機嫌を損ねれば、秀吉に何を言われるかわからない・・・
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏すしかありませんでした。
そんな絶大な権力を握った三成には、諸大名からの賄賂が殺到!!
ところが、三成は、私腹を肥やすことなく、そのことごとくをはねつけてしまいます。
良く言えば、清廉潔白、悪く言えば融通の利かない男・・・
主君・秀吉のためにと働けば働くほど、逆恨みする者が増え、敵を作ってしまいました。
しかし、三成は、秀吉のせいでどんなに悪者になろうとそばから離れませんでした。
秀吉からある時、九州の大名にとの話がありました。
石高は倍・・・しかし、三成は断っています。
秀吉の周りで豊臣政権を支える人物が無くなってしまうからです。
三成は、今まで自分のしてきたことが、豊臣政権を支えてきたという自負があったのです。
三成なりの国づくり・・・三成のロマンだったのです。
秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]
秀吉への忠誠心なら、加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵で有名な清正の虎退治・・・
実は、この話には清正の秀吉への思いがありました。
一説には、家臣のために虎を退治したと言われていますが・・・
実際は、世継ぎができなかった秀吉のための虎狩りで、精力剤として当時、朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に送るように武将たちに命じ、清正自身も虎狩りを行ったというものでした。
清正の虎退治は、彼の勇敢さを示すと同時に、秀吉への忠誠を表すエピソードだったのです。
1596年、慶長伏見地震・・・近畿地方を襲った大地震でした。
この大地震が発生した時、秀吉のいる伏見城に真っ先に駆けつけたのが甲冑をまとった清正でした。
地震に乗じた反乱を案じ、戦支度を整えて駆けつけたのです。
清正が一番乗り・・・
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎をといたといいます。
こうして、秀吉の許しを得た清正に、再びチャンスが巡ってきました。
三成や小西行長が進めてきた講和が破談となり、秀吉は朝鮮への再出兵を命じることになったのです。
朝鮮出兵に、一度は失敗した秀吉でしたが、その野望は捨てきれず、今度は朝鮮南部を占領するため、二度目の出兵を決めます。
秀吉の命を受けた加藤清正は、再び1万の兵を引き連れ朝鮮半島へと渡ります。
慶長の役(1597年)の始まりでした。
しかし、その戦いは・・・前回にもまして、過酷なものでした。
南部に侵攻した清正は、戦に備えていた明と朝鮮の連合軍に猛攻撃されてしまうのです。
食糧などが尽きた日本軍は、各地で苦戦を強いられ、清正の軍も全滅寸前にまで追い詰められてしまいます。
この危機的状況に、石田三成は日本から援軍や食料、武器などを送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまったために、十分な輸送ができませんでした。
そんな三成の事情は、戦の最前線には届かず・・・
清正の三成に対する不満や恨みは、募る一方でした。
1597年12月、日本軍に絶体絶命の危機が訪れます。
明と朝鮮の連合軍は、日本軍の蔚山城を奇襲・・・
劣勢に立たされたこの戦いで、日本軍は500人近くが討死・・・
その後、蔚山城は包囲されてしまったのです。
場内の日本軍は4千500、対する明・朝鮮連合軍は5万7000!!
それは、10倍を超える数でした。
清正はこの時、10キロ離れた西生浦城にいましたが、知らせを聞くや否や周囲の制止を振り切り、救出に向かいます。
なんと、清正は、わずか500の兵で蔚山城を取り囲んでいた敵陣を突破!!
その日のうちに入城を果たしたのです。
兵士たちの歓喜の声に迎えられた清正でしたが、ここからが地獄でした。
大量の死者を出した日本軍は、反撃はおろか、もはや、壊滅寸前。
籠城するにも食糧や水は、わずか2.3日分しかありません。
しかも、追い打ちをかけるように骨まで凍ってしまうような寒さが兵士たちを襲い、凍死者が続出・・・。
それでも、清正は一言も弱音も履きませんでした。
対象だけに配られた一善の飯を、自分は食べずに家臣たちに分け与え、励ましたといいます。
食糧の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を煮て食べるしかありませんでした。
「もはやこれまでか・・・」
死を覚悟した清正でしたが、全軍全滅という寸前、援軍が到着!!
敵を撃退してくれたのです。
この10日余りの籠城戦は清正の戦歴の中で、最も過酷なものとなりました。
かろうじて九死に一生を得た清正でしたが、その胸のうちに残ったのは、援助を行わなかった三成への激しい恨み・・・
三成と清正の関係は、完全に修復不能となってしまったのです。
朝鮮から博多に帰った清正を、三成は
「年が明けたら大坂で茶会の席を設け、慰労しましょう」by三成
とねぎらいました。
すると清正は・・・
「ならば、我らは稗粥を馳走いたそう」by清正
と、答えたといいます。
三成にしてみれば、清正のことを慮った慰労の挨拶でしたが、清正にとっては飢えと寒さに耐えながら、前線で戦う将兵の苦労が、後方で指揮を取るだけのお前にわかるのか??そう言いたかったのではないでしょうか。
朝鮮出兵で反目する奉行派と武断派。
そして、秀吉の死・・・
この豊臣政権内部の亀裂と異変を巧みに利用した男がいました。
徳川家康です。
天下人・秀吉が亡き後、豊臣政権の跡を継いだのは、秀吉の忘れ形見・・・わずか6歳の秀頼でした。
反目していても、石田三成と加藤清正の思いは同じ・・・
秀吉の恩に報いるべく、幼い秀頼を盛り立て、豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな2人の前に立ちはだかったのは、徳川家康です。
豊臣政権の実務を行う三成を中心とした五奉行と共に、家康は政を司る五大老の筆頭として、秀頼を支える立場にありました。
しかし、その裏で・・・朝鮮出兵に参加していなかったことで、兵力を温存し、虎視眈々と天下を狙っていたのです。
1599年3月、事態は急変します。
五大老の一人で家康を抑える存在であった前田利家が世を去りました。
まさに、その亡くなった日、事件が勃発!!
清正や、黒田長政たちの武断派の七将が、三成の首を取るため挙兵!!
世に言う石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の報せを聞いた三成は、間一髪で危機を逃れます。
この時、三成と七将との間を取り持つべく、調停に乗り出したのが家康でした。
家康から事を収めるためには奉行職から退任するしかないと迫られた三成は、すべての役職をとかれ、居城だった佐和山城への蟄居を余儀なくされたのです。
どうして清正は、三成を襲撃したのでしょうか??
家康が、武断派の武将たちを手なずけるという目的で、自分の養女たちを嫁がせています。
その家康の策略に清正は気づいていなかったのです。
「家康は、秀頼を守ってくれる」と思っていたようです。
しかし、三成は五奉行の一員として、五大老の一人である家康を間近で見ていました。
秀吉亡き後は、家康が天下を狙うという危機感があったのです。
武断派と奉行派の意識の違いでした。
将来のことをよくわかっていなかった7人が三成を襲ったのです。
家康としては、ここで三成を殺してしまうと、自分が天下を取る大義名分が無くなってしまうと考えていました。
活かしておいて、次のアクションを起こすことが大事だったのです。
完全に家康の計略にはまったのでした。
1600年6月・・・家康は、三成を戦に誘い出すかのように兵を東へと動かします。
敵対していた五大老の一人・上杉景勝を討つべく、全国の大名を集め、大軍を率いて上杉の領地・会津へと向かいます。
蟄居の身だった三成は、家康が上方を離れたのを知ると・・・
「今こそ、家康を討つ好機!!」と、挙兵を決意します。
豊臣家を守るため、打倒家康を決意した三成は、その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
すると、こう忠告されました。
「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない」by吉継
三成には、人望がない・・・人がついてこないというのです。
そこで、三成は家康と並ぶ五大老のひとり、毛利輝元を総大将に担ぐと、西日本を中心に西軍の陣容を整えていきます。
そんな中、戦に長けた加藤清正にも西軍に加わるように働きかけがありました。
しかし、清正は、九州から動こうとはしませんでした。
三成憎しから、反発し、西軍ではなく東軍についたのです。
それが、やがて豊臣家を滅亡へと導くことも知らずに・・・。
【中古】 逆説の日本史(11) 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 小学館文庫/井沢元彦(著者) 【中古】afb
そして迎えた1600年9月15日・・・美濃の関ケ原に布陣したのは、家康率いる東軍7万4000に対し、三成の西軍は8万4000でした。
軍勢では、西軍やや有利も、家康の裏工作によって西軍の要となる武将たちが寝返ります。
結果、東軍が圧勝します。
三成は、敗軍の将となりました。
三成は、密かに自らの陣を脱し、佐和山城を目指しますが・・・
東軍の追っ手につかまり、京で引き回しの上、斬首となりました。
一方、東軍についていた清正は、西軍方の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、球種で東軍の勝利に貢献するのです。
関ケ原の戦いから11年後の1611年、清正は、徳川家のもと、豊臣家を存続させるため、京の二条城で家康と秀頼の面会を実現させます。
安心したのか、ほどなくして倒れ、6月24日、波乱にとんだ人生に幕を下ろします。
しかし、天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいました。
清正の死後、4年後のことでした。
関ケ原の戦いの3日前、石田三成が西軍の武将に書き送った書状にはこんな言葉が残されています。
「人の心 計りがたし」
結局、豊臣家を守りたいという二人の思いはかないませんでした。
もし、三成と清正の心が通じていたなら・・・2人が力をあわせていれば・・・豊臣の滅亡も、徳川の世もなかったのかもしれません。
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しかし、ようやく終止符が打たれたはずの戦国の世は、2人の武将の反目によって大きく揺らぎだします。
武勇秀でだ強者・加藤清正と、頭脳明晰な切れ者・石田三成です。
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三成は、当時15歳、秀吉の身の回りの世話をする近習番として仕え、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
一方、清正は、三成の2歳年下で、剣術の才能に恵まれ、武芸に秀でていました。
2人はともに秀吉にかわいがられ、切磋琢磨しながら成長していきます。
そして・・・最初にその名を轟かせたのは清正でした。
1583年、近江国・賤ケ岳・・・信長亡き後、次なる覇権をめぐって秀吉と柴田勝家が激突!!
主君・秀吉の命運をかけた戦いで、何としても手柄を立てたいと血気に逸る清正でしたが、乗っていた馬が足を痛めて使えなくなります。
すると・・・「馬が駄目なら走って秀吉さまのお供をしよう!!」
なんと、50キロの道のりを走り通したのです。
そればかりか、戦場につくや否や敵将・山路正国を討ち取り、七本槍の一人として功名をあげました。
その後、清正は、戦で活躍する武断派の中心として秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には、功績が認められ、肥後国54万石の北半分、25万石の大名となったのです。
一方、三成は、胃腸が弱かったので戦場に出ると緊張するのかよく腹を壊して大きな武功をあげるどころではありませんでした。
その代わりに、豊臣家臣随一の才知を活かし、戦での食料や武器、兵員の調達など、兵站を担当!!
裏方として活躍します。
こうして二人はそれぞれの分野で秀吉に貢献していきます。
逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]
そして1590年、秀吉は最後まで抵抗していた小田原の北条氏を破ると、天下取りが実現します。
それはまさに、三成と清正の夢が叶った瞬間でもありました。
しかし、この天下統一が二人を引き裂いていきます。
平和な世の中になったことで、武功を立てて出世する武断派の活躍の場・・・戦が無くなってしまいました。
そんな武断派と入れ替わるように台頭したのが、豊臣政権の政務を取り仕切る奉行派です。
その中心だった三成は、秀吉の天下を不動のものとするため、天才的政策立案能力を発揮します。
一揆を未然に防ぎ、法治国家としての治安を維持する刀狩りや、租税の大元となる田畑の測量・太閤検地を全国的に実施するなど、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そうした奉行派・三成の重用に対し、武断派の清正は反発するようになっていきます。
佐賀県唐津市・・・かつてこの地にそびえていた名護屋城は、秀吉が新たな戦いのために造った城です。
1591年、築城を任されたのは、城づくりの名人と言われた清正をはじめとする九州の大名達でした。
清正はわずか5か月で、巨大な天守を中心とする多数の櫓が立ち並ぶ、大坂城に勝るとも劣らない城を築き上げたといいます。
さらに、周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、その陣容はかつてない大戦の始まりを告げていました。
それこそ、天下統一を果たした秀吉が、朝鮮半島に攻め入る、そこから明の征服を目指すという朝鮮出兵です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが、朝鮮半島に近い九州肥後半国の領主だった清正でした。
秀吉から同じく肥後を納める小西行長と共に、その先陣を任されたのです。
奉行派に主導権を握られていた清正にとって、まさにチャンス!!
清正は、朝鮮半島に渡る前、こう語っています。
「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい」by清正
清正にとって、朝鮮出兵は自らの領地を増やす新しい夢の始まりでもあったのです。
一方、三成は朝鮮出兵に大きな疑問を感じていました。
政務を取り仕切る奉行派・三成にとっては、
「今大切なのは、豊臣の世を不動のものとする国づくり。
新たな戦は、百害あって一利なし・・・」by三成
そこで、秀吉に異を唱えたものの、聞き入れられず、主君に従う他、ありませんでした。
1592年、遂に日本軍15万9000が、海を渡り朝鮮半島に上陸・・・
この大軍のうち、1万人余りを率いる司令官を任された清正は、陣頭指揮に立ち、釜山に上陸し北上・・・瞬く間に朝鮮国の都・漢城(ソウル)を陥落させます(文禄の役)。
そして、朝鮮の二人の王子を捕らえ、明との国境まで進軍するなど破竹の快進撃!!
まさに、武断派の面目躍如でした。
流れ星型兜をかぶり、南無妙法蓮華経と染め抜いた旗を持った清正は、朝鮮の兵士たちから鬼上官・幽霊将軍の異名で畏れられたといいます。
しかし、時間がたつにつれ、戦況が様変わりします。
朝鮮各地で民衆が蜂起し、朝鮮水軍が活躍し出すと、日本軍の補給路が絶たれ、食料などが枯渇・・・
苦境に立たされてしまったのです。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参戦・・・
猛烈な反撃を受け、戦況は膠着状態に陥り、戦が長期戦になった事で、大軍を維持するための膨大な食料と武器が必要となりました。
この危機的状況を打開するため、秀吉に代わって朝鮮半島に渡ることになった三成は、こう考えていました。
「早期終戦に向けた講和しか道はない・・・」by三成
すると、その三成の渡航が清正をはじめとする異国で戦う武将たちの反感を買うこととなったのです。
清正たちは血みどろの戦いをしていました。
そこに食料も来ない・・・食料を送る役が三成たちでした。
その三成たちが乗り込んできた・・・自分たちを監督しに来たという思いで見ているので、清正としては余計に反発したのです。
三成は、戦による消耗を最小限に抑えるため、親しい関係にあった小西行長と共に講和に向けて動き出します。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた二人の朝鮮国王子の引き渡しでした。
これに猛反発したのが清正です。
「我々は、何のためにこの過酷な戦を戦ってきたのか!!」by清正
最前線で戦ってきた清正にとって、明との講和は承服しがたいものでした。
すると・・・講和交渉に反対する清正に、秀吉からの突然の命が下ります。
「即刻帰国せよ!!」by秀吉
もっとも武功をあげた清正に、まさかの帰国命令・・・そして、そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は三成の謀略ではなく、秀吉に戦況を正しく報告した結果でした。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎になったと思い込んだ清正は、ますます三成を忌み嫌うようになっていきます。
1583年、豊臣秀吉、関白就任!!
諸大名が直接秀吉に謁見したり、献上品を手渡したりできなくなります。
その為、窓口となったのが、側近の石田三成でした。
秀吉に気に入られるかどうかは、三成の口利き次第・・・
もし三成の機嫌を損ねれば、秀吉に何を言われるかわからない・・・
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏すしかありませんでした。
そんな絶大な権力を握った三成には、諸大名からの賄賂が殺到!!
ところが、三成は、私腹を肥やすことなく、そのことごとくをはねつけてしまいます。
良く言えば、清廉潔白、悪く言えば融通の利かない男・・・
主君・秀吉のためにと働けば働くほど、逆恨みする者が増え、敵を作ってしまいました。
しかし、三成は、秀吉のせいでどんなに悪者になろうとそばから離れませんでした。
秀吉からある時、九州の大名にとの話がありました。
石高は倍・・・しかし、三成は断っています。
秀吉の周りで豊臣政権を支える人物が無くなってしまうからです。
三成は、今まで自分のしてきたことが、豊臣政権を支えてきたという自負があったのです。
三成なりの国づくり・・・三成のロマンだったのです。
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秀吉への忠誠心なら、加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵で有名な清正の虎退治・・・
実は、この話には清正の秀吉への思いがありました。
一説には、家臣のために虎を退治したと言われていますが・・・
実際は、世継ぎができなかった秀吉のための虎狩りで、精力剤として当時、朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に送るように武将たちに命じ、清正自身も虎狩りを行ったというものでした。
清正の虎退治は、彼の勇敢さを示すと同時に、秀吉への忠誠を表すエピソードだったのです。
1596年、慶長伏見地震・・・近畿地方を襲った大地震でした。
この大地震が発生した時、秀吉のいる伏見城に真っ先に駆けつけたのが甲冑をまとった清正でした。
地震に乗じた反乱を案じ、戦支度を整えて駆けつけたのです。
清正が一番乗り・・・
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎をといたといいます。
こうして、秀吉の許しを得た清正に、再びチャンスが巡ってきました。
三成や小西行長が進めてきた講和が破談となり、秀吉は朝鮮への再出兵を命じることになったのです。
朝鮮出兵に、一度は失敗した秀吉でしたが、その野望は捨てきれず、今度は朝鮮南部を占領するため、二度目の出兵を決めます。
秀吉の命を受けた加藤清正は、再び1万の兵を引き連れ朝鮮半島へと渡ります。
慶長の役(1597年)の始まりでした。
しかし、その戦いは・・・前回にもまして、過酷なものでした。
南部に侵攻した清正は、戦に備えていた明と朝鮮の連合軍に猛攻撃されてしまうのです。
食糧などが尽きた日本軍は、各地で苦戦を強いられ、清正の軍も全滅寸前にまで追い詰められてしまいます。
この危機的状況に、石田三成は日本から援軍や食料、武器などを送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまったために、十分な輸送ができませんでした。
そんな三成の事情は、戦の最前線には届かず・・・
清正の三成に対する不満や恨みは、募る一方でした。
1597年12月、日本軍に絶体絶命の危機が訪れます。
明と朝鮮の連合軍は、日本軍の蔚山城を奇襲・・・
劣勢に立たされたこの戦いで、日本軍は500人近くが討死・・・
その後、蔚山城は包囲されてしまったのです。
場内の日本軍は4千500、対する明・朝鮮連合軍は5万7000!!
それは、10倍を超える数でした。
清正はこの時、10キロ離れた西生浦城にいましたが、知らせを聞くや否や周囲の制止を振り切り、救出に向かいます。
なんと、清正は、わずか500の兵で蔚山城を取り囲んでいた敵陣を突破!!
その日のうちに入城を果たしたのです。
兵士たちの歓喜の声に迎えられた清正でしたが、ここからが地獄でした。
大量の死者を出した日本軍は、反撃はおろか、もはや、壊滅寸前。
籠城するにも食糧や水は、わずか2.3日分しかありません。
しかも、追い打ちをかけるように骨まで凍ってしまうような寒さが兵士たちを襲い、凍死者が続出・・・。
それでも、清正は一言も弱音も履きませんでした。
対象だけに配られた一善の飯を、自分は食べずに家臣たちに分け与え、励ましたといいます。
食糧の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を煮て食べるしかありませんでした。
「もはやこれまでか・・・」
死を覚悟した清正でしたが、全軍全滅という寸前、援軍が到着!!
敵を撃退してくれたのです。
この10日余りの籠城戦は清正の戦歴の中で、最も過酷なものとなりました。
かろうじて九死に一生を得た清正でしたが、その胸のうちに残ったのは、援助を行わなかった三成への激しい恨み・・・
三成と清正の関係は、完全に修復不能となってしまったのです。
朝鮮から博多に帰った清正を、三成は
「年が明けたら大坂で茶会の席を設け、慰労しましょう」by三成
とねぎらいました。
すると清正は・・・
「ならば、我らは稗粥を馳走いたそう」by清正
と、答えたといいます。
三成にしてみれば、清正のことを慮った慰労の挨拶でしたが、清正にとっては飢えと寒さに耐えながら、前線で戦う将兵の苦労が、後方で指揮を取るだけのお前にわかるのか??そう言いたかったのではないでしょうか。
朝鮮出兵で反目する奉行派と武断派。
そして、秀吉の死・・・
この豊臣政権内部の亀裂と異変を巧みに利用した男がいました。
徳川家康です。
天下人・秀吉が亡き後、豊臣政権の跡を継いだのは、秀吉の忘れ形見・・・わずか6歳の秀頼でした。
反目していても、石田三成と加藤清正の思いは同じ・・・
秀吉の恩に報いるべく、幼い秀頼を盛り立て、豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな2人の前に立ちはだかったのは、徳川家康です。
豊臣政権の実務を行う三成を中心とした五奉行と共に、家康は政を司る五大老の筆頭として、秀頼を支える立場にありました。
しかし、その裏で・・・朝鮮出兵に参加していなかったことで、兵力を温存し、虎視眈々と天下を狙っていたのです。
1599年3月、事態は急変します。
五大老の一人で家康を抑える存在であった前田利家が世を去りました。
まさに、その亡くなった日、事件が勃発!!
清正や、黒田長政たちの武断派の七将が、三成の首を取るため挙兵!!
世に言う石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の報せを聞いた三成は、間一髪で危機を逃れます。
この時、三成と七将との間を取り持つべく、調停に乗り出したのが家康でした。
家康から事を収めるためには奉行職から退任するしかないと迫られた三成は、すべての役職をとかれ、居城だった佐和山城への蟄居を余儀なくされたのです。
どうして清正は、三成を襲撃したのでしょうか??
家康が、武断派の武将たちを手なずけるという目的で、自分の養女たちを嫁がせています。
その家康の策略に清正は気づいていなかったのです。
「家康は、秀頼を守ってくれる」と思っていたようです。
しかし、三成は五奉行の一員として、五大老の一人である家康を間近で見ていました。
秀吉亡き後は、家康が天下を狙うという危機感があったのです。
武断派と奉行派の意識の違いでした。
将来のことをよくわかっていなかった7人が三成を襲ったのです。
家康としては、ここで三成を殺してしまうと、自分が天下を取る大義名分が無くなってしまうと考えていました。
活かしておいて、次のアクションを起こすことが大事だったのです。
完全に家康の計略にはまったのでした。
1600年6月・・・家康は、三成を戦に誘い出すかのように兵を東へと動かします。
敵対していた五大老の一人・上杉景勝を討つべく、全国の大名を集め、大軍を率いて上杉の領地・会津へと向かいます。
蟄居の身だった三成は、家康が上方を離れたのを知ると・・・
「今こそ、家康を討つ好機!!」と、挙兵を決意します。
豊臣家を守るため、打倒家康を決意した三成は、その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
すると、こう忠告されました。
「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない」by吉継
三成には、人望がない・・・人がついてこないというのです。
そこで、三成は家康と並ぶ五大老のひとり、毛利輝元を総大将に担ぐと、西日本を中心に西軍の陣容を整えていきます。
そんな中、戦に長けた加藤清正にも西軍に加わるように働きかけがありました。
しかし、清正は、九州から動こうとはしませんでした。
三成憎しから、反発し、西軍ではなく東軍についたのです。
それが、やがて豊臣家を滅亡へと導くことも知らずに・・・。
【中古】 逆説の日本史(11) 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 小学館文庫/井沢元彦(著者) 【中古】afb
そして迎えた1600年9月15日・・・美濃の関ケ原に布陣したのは、家康率いる東軍7万4000に対し、三成の西軍は8万4000でした。
軍勢では、西軍やや有利も、家康の裏工作によって西軍の要となる武将たちが寝返ります。
結果、東軍が圧勝します。
三成は、敗軍の将となりました。
三成は、密かに自らの陣を脱し、佐和山城を目指しますが・・・
東軍の追っ手につかまり、京で引き回しの上、斬首となりました。
一方、東軍についていた清正は、西軍方の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、球種で東軍の勝利に貢献するのです。
関ケ原の戦いから11年後の1611年、清正は、徳川家のもと、豊臣家を存続させるため、京の二条城で家康と秀頼の面会を実現させます。
安心したのか、ほどなくして倒れ、6月24日、波乱にとんだ人生に幕を下ろします。
しかし、天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいました。
清正の死後、4年後のことでした。
関ケ原の戦いの3日前、石田三成が西軍の武将に書き送った書状にはこんな言葉が残されています。
「人の心 計りがたし」
結局、豊臣家を守りたいという二人の思いはかないませんでした。
もし、三成と清正の心が通じていたなら・・・2人が力をあわせていれば・・・豊臣の滅亡も、徳川の世もなかったのかもしれません。
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