日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:弘安の役

1590年、豊臣秀吉が天下を統一!!
しかし、ようやく終止符が打たれたはずの戦国の世は、2人の武将の反目によって大きく揺らぎだします。
武勇秀でだ強者・加藤清正と、頭脳明晰な切れ者・石田三成です。
そんな2人の亀裂が、あの関ケ原の戦いを招くことになりました。

1574年、近江・長浜城・・・
織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、この地で初めて一国一城の主となりました。
有能な二人の少年が、臣下に加わりました。
石田三成と加藤清正です。
三成は、当時15歳、秀吉の身の回りの世話をする近習番として仕え、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
一方、清正は、三成の2歳年下で、剣術の才能に恵まれ、武芸に秀でていました。
2人はともに秀吉にかわいがられ、切磋琢磨しながら成長していきます。

そして・・・最初にその名を轟かせたのは清正でした。
1583年、近江国・賤ケ岳・・・信長亡き後、次なる覇権をめぐって秀吉と柴田勝家が激突!!
主君・秀吉の命運をかけた戦いで、何としても手柄を立てたいと血気に逸る清正でしたが、乗っていた馬が足を痛めて使えなくなります。
すると・・・「馬が駄目なら走って秀吉さまのお供をしよう!!」
なんと、50キロの道のりを走り通したのです。
そればかりか、戦場につくや否や敵将・山路正国を討ち取り、七本槍の一人として功名をあげました。
その後、清正は、戦で活躍する武断派の中心として秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には、功績が認められ、肥後国54万石の北半分、25万石の大名となったのです。

一方、三成は、胃腸が弱かったので戦場に出ると緊張するのかよく腹を壊して大きな武功をあげるどころではありませんでした。
その代わりに、豊臣家臣随一の才知を活かし、戦での食料や武器、兵員の調達など、兵站を担当!!
裏方として活躍します。
こうして二人はそれぞれの分野で秀吉に貢献していきます。

逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]
逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]

そして1590年、秀吉は最後まで抵抗していた小田原の北条氏を破ると、天下取りが実現します。
それはまさに、三成と清正の夢が叶った瞬間でもありました。
しかし、この天下統一が二人を引き裂いていきます。
平和な世の中になったことで、武功を立てて出世する武断派の活躍の場・・・戦が無くなってしまいました。
そんな武断派と入れ替わるように台頭したのが、豊臣政権の政務を取り仕切る奉行派です。
その中心だった三成は、秀吉の天下を不動のものとするため、天才的政策立案能力を発揮します。
一揆を未然に防ぎ、法治国家としての治安を維持する刀狩りや、租税の大元となる田畑の測量・太閤検地を全国的に実施するなど、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そうした奉行派・三成の重用に対し、武断派の清正は反発するようになっていきます。

佐賀県唐津市・・・かつてこの地にそびえていた名護屋城は、秀吉が新たな戦いのために造った城です。
1591年、築城を任されたのは、城づくりの名人と言われた清正をはじめとする九州の大名達でした。
清正はわずか5か月で、巨大な天守を中心とする多数の櫓が立ち並ぶ、大坂城に勝るとも劣らない城を築き上げたといいます。
さらに、周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、その陣容はかつてない大戦の始まりを告げていました。
それこそ、天下統一を果たした秀吉が、朝鮮半島に攻め入る、そこから明の征服を目指すという朝鮮出兵です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが、朝鮮半島に近い九州肥後半国の領主だった清正でした。
秀吉から同じく肥後を納める小西行長と共に、その先陣を任されたのです。
奉行派に主導権を握られていた清正にとって、まさにチャンス!!
清正は、朝鮮半島に渡る前、こう語っています。

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい」by清正

清正にとって、朝鮮出兵は自らの領地を増やす新しい夢の始まりでもあったのです。

一方、三成は朝鮮出兵に大きな疑問を感じていました。
政務を取り仕切る奉行派・三成にとっては、

「今大切なのは、豊臣の世を不動のものとする国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし・・・」by三成

そこで、秀吉に異を唱えたものの、聞き入れられず、主君に従う他、ありませんでした。

1592年、遂に日本軍15万9000が、海を渡り朝鮮半島に上陸・・・
この大軍のうち、1万人余りを率いる司令官を任された清正は、陣頭指揮に立ち、釜山に上陸し北上・・・瞬く間に朝鮮国の都・漢城(ソウル)を陥落させます(文禄の役)。
そして、朝鮮の二人の王子を捕らえ、明との国境まで進軍するなど破竹の快進撃!!
まさに、武断派の面目躍如でした。
流れ星型兜をかぶり、南無妙法蓮華経と染め抜いた旗を持った清正は、朝鮮の兵士たちから鬼上官・幽霊将軍の異名で畏れられたといいます。
しかし、時間がたつにつれ、戦況が様変わりします。
朝鮮各地で民衆が蜂起し、朝鮮水軍が活躍し出すと、日本軍の補給路が絶たれ、食料などが枯渇・・・
苦境に立たされてしまったのです。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参戦・・・
猛烈な反撃を受け、戦況は膠着状態に陥り、戦が長期戦になった事で、大軍を維持するための膨大な食料と武器が必要となりました。
この危機的状況を打開するため、秀吉に代わって朝鮮半島に渡ることになった三成は、こう考えていました。

「早期終戦に向けた講和しか道はない・・・」by三成

すると、その三成の渡航が清正をはじめとする異国で戦う武将たちの反感を買うこととなったのです。
清正たちは血みどろの戦いをしていました。
そこに食料も来ない・・・食料を送る役が三成たちでした。
その三成たちが乗り込んできた・・・自分たちを監督しに来たという思いで見ているので、清正としては余計に反発したのです。
三成は、戦による消耗を最小限に抑えるため、親しい関係にあった小西行長と共に講和に向けて動き出します。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた二人の朝鮮国王子の引き渡しでした。
これに猛反発したのが清正です。

「我々は、何のためにこの過酷な戦を戦ってきたのか!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって、明との講和は承服しがたいものでした。
すると・・・講和交渉に反対する清正に、秀吉からの突然の命が下ります。

「即刻帰国せよ!!」by秀吉

もっとも武功をあげた清正に、まさかの帰国命令・・・そして、そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は三成の謀略ではなく、秀吉に戦況を正しく報告した結果でした。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎になったと思い込んだ清正は、ますます三成を忌み嫌うようになっていきます。

1583年、豊臣秀吉、関白就任!!
諸大名が直接秀吉に謁見したり、献上品を手渡したりできなくなります。
その為、窓口となったのが、側近の石田三成でした。
秀吉に気に入られるかどうかは、三成の口利き次第・・・
もし三成の機嫌を損ねれば、秀吉に何を言われるかわからない・・・
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏すしかありませんでした。
そんな絶大な権力を握った三成には、諸大名からの賄賂が殺到!!
ところが、三成は、私腹を肥やすことなく、そのことごとくをはねつけてしまいます。
良く言えば、清廉潔白、悪く言えば融通の利かない男・・・
主君・秀吉のためにと働けば働くほど、逆恨みする者が増え、敵を作ってしまいました。
しかし、三成は、秀吉のせいでどんなに悪者になろうとそばから離れませんでした。

秀吉からある時、九州の大名にとの話がありました。
石高は倍・・・しかし、三成は断っています。
秀吉の周りで豊臣政権を支える人物が無くなってしまうからです。
三成は、今まで自分のしてきたことが、豊臣政権を支えてきたという自負があったのです。
三成なりの国づくり・・・三成のロマンだったのです。

秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]
秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]

秀吉への忠誠心なら、加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵で有名な清正の虎退治・・・
実は、この話には清正の秀吉への思いがありました。
一説には、家臣のために虎を退治したと言われていますが・・・
実際は、世継ぎができなかった秀吉のための虎狩りで、精力剤として当時、朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に送るように武将たちに命じ、清正自身も虎狩りを行ったというものでした。
清正の虎退治は、彼の勇敢さを示すと同時に、秀吉への忠誠を表すエピソードだったのです。

1596年、慶長伏見地震・・・近畿地方を襲った大地震でした。
この大地震が発生した時、秀吉のいる伏見城に真っ先に駆けつけたのが甲冑をまとった清正でした。
地震に乗じた反乱を案じ、戦支度を整えて駆けつけたのです。
清正が一番乗り・・・
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎をといたといいます。
こうして、秀吉の許しを得た清正に、再びチャンスが巡ってきました。
三成や小西行長が進めてきた講和が破談となり、秀吉は朝鮮への再出兵を命じることになったのです。

朝鮮出兵に、一度は失敗した秀吉でしたが、その野望は捨てきれず、今度は朝鮮南部を占領するため、二度目の出兵を決めます。
秀吉の命を受けた加藤清正は、再び1万の兵を引き連れ朝鮮半島へと渡ります。
慶長の役(1597年)の始まりでした。
しかし、その戦いは・・・前回にもまして、過酷なものでした。
南部に侵攻した清正は、戦に備えていた明と朝鮮の連合軍に猛攻撃されてしまうのです。
食糧などが尽きた日本軍は、各地で苦戦を強いられ、清正の軍も全滅寸前にまで追い詰められてしまいます。
この危機的状況に、石田三成は日本から援軍や食料、武器などを送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまったために、十分な輸送ができませんでした。
そんな三成の事情は、戦の最前線には届かず・・・
清正の三成に対する不満や恨みは、募る一方でした。

1597年12月、日本軍に絶体絶命の危機が訪れます。
明と朝鮮の連合軍は、日本軍の蔚山城を奇襲・・・
劣勢に立たされたこの戦いで、日本軍は500人近くが討死・・・
その後、蔚山城は包囲されてしまったのです。
場内の日本軍は4千500、対する明・朝鮮連合軍は5万7000!!
それは、10倍を超える数でした。
清正はこの時、10キロ離れた西生浦城にいましたが、知らせを聞くや否や周囲の制止を振り切り、救出に向かいます。
なんと、清正は、わずか500の兵で蔚山城を取り囲んでいた敵陣を突破!!
その日のうちに入城を果たしたのです。
兵士たちの歓喜の声に迎えられた清正でしたが、ここからが地獄でした。

大量の死者を出した日本軍は、反撃はおろか、もはや、壊滅寸前。
籠城するにも食糧や水は、わずか2.3日分しかありません。
しかも、追い打ちをかけるように骨まで凍ってしまうような寒さが兵士たちを襲い、凍死者が続出・・・。
それでも、清正は一言も弱音も履きませんでした。
対象だけに配られた一善の飯を、自分は食べずに家臣たちに分け与え、励ましたといいます。
食糧の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を煮て食べるしかありませんでした。

「もはやこれまでか・・・」

死を覚悟した清正でしたが、全軍全滅という寸前、援軍が到着!!
敵を撃退してくれたのです。
この10日余りの籠城戦は清正の戦歴の中で、最も過酷なものとなりました。
かろうじて九死に一生を得た清正でしたが、その胸のうちに残ったのは、援助を行わなかった三成への激しい恨み・・・
三成と清正の関係は、完全に修復不能となってしまったのです。

朝鮮から博多に帰った清正を、三成は
「年が明けたら大坂で茶会の席を設け、慰労しましょう」by三成
とねぎらいました。
すると清正は・・・
「ならば、我らは稗粥を馳走いたそう」by清正
と、答えたといいます。
三成にしてみれば、清正のことを慮った慰労の挨拶でしたが、清正にとっては飢えと寒さに耐えながら、前線で戦う将兵の苦労が、後方で指揮を取るだけのお前にわかるのか??そう言いたかったのではないでしょうか。
朝鮮出兵で反目する奉行派と武断派。
そして、秀吉の死・・・
この豊臣政権内部の亀裂と異変を巧みに利用した男がいました。
徳川家康です。

天下人・秀吉が亡き後、豊臣政権の跡を継いだのは、秀吉の忘れ形見・・・わずか6歳の秀頼でした。
反目していても、石田三成と加藤清正の思いは同じ・・・
秀吉の恩に報いるべく、幼い秀頼を盛り立て、豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな2人の前に立ちはだかったのは、徳川家康です。
豊臣政権の実務を行う三成を中心とした五奉行と共に、家康は政を司る五大老の筆頭として、秀頼を支える立場にありました。
しかし、その裏で・・・朝鮮出兵に参加していなかったことで、兵力を温存し、虎視眈々と天下を狙っていたのです。
1599年3月、事態は急変します。
五大老の一人で家康を抑える存在であった前田利家が世を去りました。
まさに、その亡くなった日、事件が勃発!!
清正や、黒田長政たちの武断派の七将が、三成の首を取るため挙兵!!
世に言う石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の報せを聞いた三成は、間一髪で危機を逃れます。
この時、三成と七将との間を取り持つべく、調停に乗り出したのが家康でした。
家康から事を収めるためには奉行職から退任するしかないと迫られた三成は、すべての役職をとかれ、居城だった佐和山城への蟄居を余儀なくされたのです。

どうして清正は、三成を襲撃したのでしょうか??
家康が、武断派の武将たちを手なずけるという目的で、自分の養女たちを嫁がせています。
その家康の策略に清正は気づいていなかったのです。
「家康は、秀頼を守ってくれる」と思っていたようです。

しかし、三成は五奉行の一員として、五大老の一人である家康を間近で見ていました。
秀吉亡き後は、家康が天下を狙うという危機感があったのです。
武断派と奉行派の意識の違いでした。
将来のことをよくわかっていなかった7人が三成を襲ったのです。

家康としては、ここで三成を殺してしまうと、自分が天下を取る大義名分が無くなってしまうと考えていました。
活かしておいて、次のアクションを起こすことが大事だったのです。
完全に家康の計略にはまったのでした。

1600年6月・・・家康は、三成を戦に誘い出すかのように兵を東へと動かします。
敵対していた五大老の一人・上杉景勝を討つべく、全国の大名を集め、大軍を率いて上杉の領地・会津へと向かいます。
蟄居の身だった三成は、家康が上方を離れたのを知ると・・・

「今こそ、家康を討つ好機!!」と、挙兵を決意します。

豊臣家を守るため、打倒家康を決意した三成は、その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
すると、こう忠告されました。

「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない」by吉継

三成には、人望がない・・・人がついてこないというのです。
そこで、三成は家康と並ぶ五大老のひとり、毛利輝元を総大将に担ぐと、西日本を中心に西軍の陣容を整えていきます。
そんな中、戦に長けた加藤清正にも西軍に加わるように働きかけがありました。
しかし、清正は、九州から動こうとはしませんでした。
三成憎しから、反発し、西軍ではなく東軍についたのです。
それが、やがて豊臣家を滅亡へと導くことも知らずに・・・。

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そして迎えた1600年9月15日・・・美濃の関ケ原に布陣したのは、家康率いる東軍7万4000に対し、三成の西軍は8万4000でした。
軍勢では、西軍やや有利も、家康の裏工作によって西軍の要となる武将たちが寝返ります。
結果、東軍が圧勝します。
三成は、敗軍の将となりました。
三成は、密かに自らの陣を脱し、佐和山城を目指しますが・・・
東軍の追っ手につかまり、京で引き回しの上、斬首となりました。
一方、東軍についていた清正は、西軍方の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、球種で東軍の勝利に貢献するのです。

関ケ原の戦いから11年後の1611年、清正は、徳川家のもと、豊臣家を存続させるため、京の二条城で家康と秀頼の面会を実現させます。
安心したのか、ほどなくして倒れ、6月24日、波乱にとんだ人生に幕を下ろします。
しかし、天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいました。
清正の死後、4年後のことでした。

関ケ原の戦いの3日前、石田三成が西軍の武将に書き送った書状にはこんな言葉が残されています。

「人の心 計りがたし」

結局、豊臣家を守りたいという二人の思いはかないませんでした。
もし、三成と清正の心が通じていたなら・・・2人が力をあわせていれば・・・豊臣の滅亡も、徳川の世もなかったのかもしれません。

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ユネスコは「朝鮮通信使に関する記録」を世界記憶遺産として登録しました。
朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮国王が徳川将軍家に派遣していた外交使節団のことです。
この使節団は、日本と朝鮮が互いに対等で審議を交わす象徴となっていました。
そんな友好の歴史がスポットを浴びたのです。
この「朝鮮通信使」誕生の裏には、江戸時代のはじめ、ある男のギリギリの選択があったことは知られていません。
その男とは・・・九州北部対馬島主・宗義智です。
義智が治める対馬は、日本本土と朝鮮半島の間にある島です。
朝鮮との貿易を生活の糧とし、対馬は日本本土とは違う独自の生活をしていました。
しかし、豊臣秀吉によって天下統一がなされると、対馬も本土の体制に組み込まれていきます。
義智は天下人・秀吉からとんでもない命令を受けます。
「朝鮮王朝は秀吉に服属するよう義智は説得せよ。」
というものでした。
朝鮮王朝が従う筈もない命令・・・。
そして・・・後に徳川家康からは国交回復を・・・!!

九州本土から130キロ離れた長崎県・対馬・・・
古代律令制のもとでは、対馬国として島で一つの国を形成していました。
日本本土から離れた地で、中央の影響を受けにくく、島は地元の豪族たちによって支配されていました。
しかし、その多くが山に覆われて・・・耕作に適した地はなく、人々が目をつけたのは貿易でした。
その相手は、対馬から50キロほどの朝鮮半島でした。
対馬にある韓国展望所からは、うっすらと島と建物が・・・釜山を見ることができます。
夜になると明かりも確認でき、朝鮮半島の人々は目に見える存在でした。
朝鮮側も、古くから対馬は無視できない存在でした。
朝鮮王朝が対馬の豪族を家臣に任命した「告身」も残っています。
どうして朝鮮王朝が、日本の対馬の豪族を家臣に任命したのでしょうか?
その裏には、当時朝鮮半島近海を荒らしていた倭寇の存在がありました。
朝鮮王朝は、成立から倭寇に悩まされていました。
根拠地の一つとして対馬が対馬と想定されていました。
なので、朝鮮王朝は、倭寇の狩猟に対して朝鮮の官職を与えて懐柔するという政策をとるのです。
これによって、彼らは、定期的に挑戦に渡って貿易をする権利を手に入れました。
身近であるがゆえに勝川rざるを得なかったのです。
微妙な関係の上に成り立っていました。
そんな対馬の豪族の中で台頭してきたのは宗氏でした。
宗氏は、倭寇を取り締まることを条件に、朝鮮王朝から特別な権利を手に入れます。
朝鮮への渡航証明書を発行する権利を独占的に担ったのです。
これによって対馬から朝鮮に渡る船は、宗氏によって管理されることとなります。
島内の豪族たちが、これまでのように自由に船を出すことができなくなったのです。

戦国時代末期、島主となったのが、宗義智でした。
義智も、朝鮮王朝との関係をうまく生かしながら、対馬の支配を確固たるものにしようとしていました。
しかし、日本の中央では・・・義智の将来を左右する政権が誕生していました。
戦国の世を一つにまとめた豊臣秀吉です。
天下人として全国の大名を従えた秀吉は、義智にも書状を送ります。

「対馬一国はこれまで通り、安堵いたす。」

義智の対馬支配は認められます。
しかし・・・条件が・・・
「次に高麗(朝鮮)の事だが、国王が日本に参れば、これまで通り朝鮮の支配を認めるが、遅れるようであれば、即時に海を渡って誅罰を加える。」by秀吉

秀吉に服属する為に使節を朝鮮に送らせるように義智に仲介を命じたのです。
これは、朝鮮王朝の立場を考えればあり得ないことでした。
当時、朝鮮国王は、明の皇帝に従うことで、国王と認められていました。
柵封体制です。
その朝鮮国王が、秀吉に従うということは、明との関係を断ち切るということでした。
それは、当時の東アジアの常識ではありえないことでした。
どうする??
義智は驚くべき作戦を立てます。
自らが使者となって朝鮮へ渡った義智は、朝鮮国王に対して日本への公式使節派遣を願い出ます。
しかし、使節の名目は、”秀吉に服従せよ”というものではありませんでした。
秀吉が、新しく天下の支配者になったことを祝福する祝賀使節を送ってくれとしたのです。
他に言いようがありませんでした。
秀吉の意図を隠し、あくまで秀吉の国土統一を祝う使節派遣を求めたのです。

宗氏はこのような大胆な外交手腕を使って、日本と朝鮮の間を渡り歩いていました。
その異色の外交を物語るものが、宗氏が偽造した朝鮮国王の印”為政以徳”です。
日本に残されていた印を、科学的検証を試みると・・・国書に押された印の朱肉の成分が宗氏の偽造印に残る朱肉の成分と一致したのです。
残されていた国書は、宗氏が偽造したものだったのです。
このような危うい行為をしながら、両者の間を渡り歩いていたのです。

1590年朝鮮使節団来日。
11月7日、聚楽第で秀吉と会見に及びます。
ところが・・・目の前の使節が自らへの服属と考えていた秀吉は、使節団に対し、とんでもない命令を下しました。
「明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。
 わが軍が明に攻め入る際には、朝鮮もはせ参じるように。」
なんと、秀吉は朝鮮の宗主国・明を征服すると宣言!!
朝鮮に手伝うように命じたのです。
秀吉を祝いに来た使節団は寝耳に水で、受け入れられるものではありませんでした。
ここに至って交渉は決裂!!
秀吉は朝鮮出兵・・・文禄の役です。
秀吉、朝鮮王朝、双方の意図を誤魔化して、強引に会見を成立させた義智の戦略は大失敗に終わったのです。

1592年4月13日、秀吉は朝鮮半島へ軍勢を進めます。
日本軍の第一陣を率いたのは、義智の妻の父・小西行長でした。
そしてその日本軍の先導役を任されたのが宗義智でした。
この時25歳、皮肉にも、朝鮮の事情に詳しいことが災いしました。
釜山に上陸して破竹の勢いで進撃を開始。
およそ半月後には、朝鮮の首都・漢城を攻略します。
さらに、平壌まで進撃します。
しかし、進撃はここまででした。
朝鮮の宗主国・明が4万で援軍にやってきました。
明と朝鮮の連合軍は、義智ら1万5000がこもる平壌に攻め寄せてきました。
敵の大軍勢を前に、成す術のない日本軍・・・。
義智たちは、命からがら平壌を脱出し、仲間のいる漢城へ・・・!!
何とか漢城にたどり着いたのは7000の兵・・・半分以下になっていました。
最早日本軍に勝ちがないと判断した義智たちは、明との講和に向けて動き出します。
講和に当たり、明が日本に要求したのは、秀吉による降伏文書でした。
秀吉が明に降伏するならば、戦を止めても良いと言ってきたのです。
秀吉が受け入れるはずもない要求・・・。
どうすればいいのか・・・??
小西行長は、秀吉名義の国書を明に送ります。
”明国皇帝陛下の御威光のもとでは、日本など小さな存在でございます。
 是非とも日本国の王として、任命していただきたく存じます。”
秀吉が自らの過ちを認め、明に服属することを求めた・・・??
これは、偽造国書だったのです。
この作成に、宗義智が参加していたのではないか??といわれています。

義智が公式文書の偽造に関わっていたかどうかは疑問です。
しかし、この偽造国書のおかげで、休戦協定が無事成立しました。
1596年9月、明の使節が秀吉に謁見・・・
自らの降伏文書のことなど知る由もない秀吉・・・明の使節は、敵の降伏の使者と信じていました。
しかし・・・
”ここに特に なんじを封じて 日本国王となす”
秀吉を日本国王に任命する・・・つまり、柵封体制に入ることを意味していました。
秀吉は怒り心頭!!
再び朝鮮出兵を命じるのでした。

朝鮮での戦を終わらせるために企てた秀吉の降伏文書の偽造・・・
またもや、義智たちの外交戦略は失敗に終わりました。

1597年7月・・・慶長の役が始まります。
この時も、義智は先鋒を強いられます・・・!!
日本の武将たちに対して、秀吉の命令は苛烈を極めました。
”老若男女 僧侶 なで切り”

大分県にある安養寺には、朝鮮での惨状を記したものが残されています。
当時の安養寺の住職・慶念が朝鮮出兵の折に書いた日記です。
この日記には、日本軍によって多くの朝鮮人が連れ去られている様子が書かれています。
”男女老若 縄で首をくくられ 歩くのを止めた者に対しては 杖でおい立て打つ有様は さながら 地獄の鬼が罪人を 責め立てているようである”

この時、日本に連れ去られた人々は、数万人といわれています。
日本で農村の労働力に使われる場合、奴隷として売買される場合があります。
東南アジアの各地に奴隷として転売される朝鮮の人たちも沢山いたと言われています。

一方、日本軍も明・朝鮮軍の攻撃によって兵站を遮られ、寒さと飢えから次々と兵が倒れていきます。
そんな中・・・日本への撤退命令が出されます。
1598年8月18日、豊臣秀吉が死去したのです。
義智はふるさと対馬に戻ります。
文禄・慶長の役から6年の月日がたっていました。
久し振りの故郷は・・・荒れ果てた島の現実でした。

”朝鮮での戦いが終わった後、村には人がいなくなっていた
 戦で多くの人が死んだり逃げたりしたからである”

文禄の役で、宗氏は5,000人の軍勢の派遣を求められました。
当時の対馬の人口は、1万にも満たなかったのです。
当時は漁業中心・・・漁師たちも船の漕ぎ手として動員されていました。
人がいなくなって・・・田畑は荒れ放題、漁業も荒れ放題だったのです。
天下人秀吉に命じられた朝鮮出兵・・・。
その結果、義智は朝鮮との貿易だけでなく、島を支えていた家臣や領民をも失ってしまったのです。

秀吉の死で戦いが終わった2年後、秀吉亡き後の天下を決める戦いが・・・
1600年関ケ原の戦いです。
この時、宗義智は三成に味方をしました。
舅の小西行長の頼みに応じたものといわれています。
しかし、戦いは徳川家康の大勝利に終わり、義智は次の天下人に弓を引いた形となってしまいました。
家康からの厳しい処分は避けられない・・・??
ところが、下されたのは所領安堵・・・家康は対馬を治めることを許したのです。
その裏には、家康の意図がありました。
外国との通商貿易には義智の力が必要だと思ったのです。
家康は通商国家を考えていました。
しかし、朝鮮国と貿易を再開するにあたっては、まず戦後処理が必要だと思っていました。
戦後処理とは、外交関係の復活であり、それをやらなければ通商貿易は出来ないと考えていたのです。
家康としては、朝鮮問題の解決について、宗氏の力が絶対に必要だという判断があったのです。

対馬を安堵されたことで、家康に大きな借りができてしまった義智。
国交回復は絶対に成し遂げなければならない課題となったのです。
義智は朝鮮王朝に使者を送り続けながら、公式使節派遣の要請を繰り返します。
一方朝鮮王朝は、義智の要請に対して完全拒否を貫いていました。
しかし、遂に松雲大師と呼ばれる僧侶の派遣を決めます。
この時の松雲大師の派遣には、朝鮮の日本に対する不信が関係しています。
新しく政権をとった家康が、再び朝鮮に責めて来るのではないか?
家康政権がどのような挑戦認識か確かめる必要があったのです。

1605年義智は松雲大師を伴い、家康に謁見。
この時、家康が大師に語った内容が朝鮮側の記録に残っています。

「我は朝鮮出兵の時、関東におり、戦いに関わっていない。
 朝鮮との間に恨みはなく、ただ和を通じることを望むのみである。」by家康

朝鮮出兵は毛頭ないと語ったのです。
この時、家康は日本に連れ去られた朝鮮の人々の返還要求についても誠意を尽くすとしています。
会談を成立させた義智としても、これで朝鮮王朝の態度も軟化し、公式使節派遣も近いと安堵しました。
会談から1年余り後、義智の元に硬式使節派遣の条件が届きました。
しかし、その内容は厳しいものでした。
使節派遣の条件は、”家康が日本国王として先の戦について謝罪する国書をだすこと”だったのです。
すなわち、家康が明に服属し”日本と朝鮮が対等である”と示したうえで、国書を出して謝罪せよと言ってきたのです。
この要求を家康に取り次がなければならない・・・。
家康に謝罪国書を頼む??
家康の謝罪国書を偽造する・・・??
どちらの道を選ぶのか・・・??

朝鮮王朝が宗義智に突き付けた「日本国王としての家康の謝罪国書の要求」から数か月・・・
義智は家康の国書を携えた使者を朝鮮に送りました。
国書は残っていない・・・しかし、朝鮮王朝の記録にはその内容が記されていました。

”我々が、前の代の非を改めることは、去年松雲大師に話した通りである”

家康が謝罪する国書は朝鮮に届いたようです。
ところが、朝鮮側の記録には・・・これは偽書であると判断したと書かれています。
それは、数か月後に来たこと・・・。
対馬から江戸までの往復の期間、幕府側がどういうような判断をするか、形式上の手続きも必要でした。
つまり、そんなに早く家康国書が届くはずがないという判断があったのです。

そう・・・義智は、自ら家康の謝罪国書を偽造して送っていたのです。
朝鮮側に見破られてしまった以上・・・使節派遣の道は絶たれてしまったかに見えました・・・
が、朝鮮国王は公式使節派遣を決定します。
朝鮮側としては、自分たちが出した錠kwんが満たされた・・・
蒸し返して偽物だとなると和平が遠のいてしまう・・・。
一番の課題であったひ被虜の人々の送還が遅れる・・・これは許されない・・・。
もう一つは、北方の女真族・・・後に清国となる大きな勢力が鴨緑江を渡って侵入してきていました。
南方、北方、二つの大きな外交課題を抱えていました。
軍事情勢を少しでも安定化させるために、日本との和平を急いだのです。

偽物とわかっていても受け取る・・・。

1607年1月12日、朝鮮使節団、漢城を出発!!
そして、2月29日、使節一行は対馬に到着しました。
この時、対馬側と朝鮮側で奇妙なやり取りがあったことが残されています。

「先年の国書は、果たして家康のものか?」
「もちろんである
 なぜ、そのようなことを問うのか?」
「あの国書に押された国王印はどういったものなのか?」
「あれは、明の使節が文永の役の講和で来日した際に、秀吉を日本国王として任命する為に渡したものである。」
「あの時、日本はそれを拒否したではないか。
 にもかかわらず、その時の国王印を使ったというのか。
 日本とはよくわからない国だ。」
対馬側は、苦笑して何も答えませんでした。
以後、朝鮮側は、国書について何も触れることはありませんでした。
対馬を出発した一行は、瀬戸内海を通って大坂に上陸、陸路で江戸へ・・・!!
1607年5月6日、江戸城にて将軍に謁見。
遂に日朝国交回復が成し遂げられた瞬間でした。 
以後、朝鮮通信使は、江戸時代11回にわたって日本を訪れ、この使節は、まさに日本と朝鮮の友好関係を示す象徴となったのです。
危ういながらも役目を遂げた宗義智・・・国交回復から2年後には、朝鮮国王から貿易再開の許可も得ます。
これによって、朝鮮に攻め込んで以来、荒れ果てていた対馬は、息を吹き返していきます。
6年後、対馬の復興と日朝友好を見届けた宗義智は・・・1615年48歳でその生涯を終えたのでした。

一筋縄ではいかない国際外交の中、宗義智が繰り出した禁断の一手・国書偽造・・・。
日朝友好の象徴・・・朝鮮通信使誕生の裏には、こんな秘話が隠されていたのでした。

江戸時代、日朝友好の象徴となった朝鮮通信使・・・
その足跡が時代を超えて400年経った今、平和を語る大事な記録として新たな輝きを発している。

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13世紀後半、史上最大の帝国を築いたモンゴルの大軍が、2度にわたり日本を襲いました。
元寇です。
日本史上初の異民族の侵略でした。
どうしてモンゴルは日本を襲ったのでしょうか?

13世紀に中国で作られた石碑”賛皇復県記”には・・・
当時の複雑な海外事情が書かれています。
この未曽有の国難に立ち向かったのが、鎌倉幕府・執権・北条時宗です。
度重なるモンゴルからの服属要求を拒否し、徹底抗戦を選びます。
どうして世界最強の大国に挑んだのでしょうか?

国家存亡の危機に、北条時宗はどう立ち向かったのでしょうか?

13世紀初め・・・東アジアの草原地帯に誕生したモンゴル帝国。
騎馬を使ってユーラシアを席巻、わずか半世紀で西はヨーロッパに・・・東は中国に・・・。
モンゴル帝国は、服属さえすれば、文化や宗教には寛容で・・・能力があれば、異民族でも重用されました。
しかし・・・従わない国には容赦ない侵略が行われました。
13世紀後半には・・・その眼は遂に日本にむけられました。

1268年1月・・・モンゴル帝国の使者が、九州・大宰府に到着しました。
使者が携えてきたのは・・・モンゴル帝国第5代皇帝クビライのものでした。

「日本は朕に一度も使者を派遣してきたことがない。
 願わくばこれから交流を持ちたいと思っている。
 ・・・・・
 兵を用いることを誰が好むであろうか。。。
 日本の王よ、よくよく考えよ。」

書は、服属を求めるものでした。

クビライが日本に着目したのは・・・モンゴルに服属しなかった南宋でした。
南宋包囲網の一環として日本に着目して・・・南宋を孤立化・弱体化を狙っていたのです。
国書は朝廷へ・・・。
協議が行われますが・・・未知の国からの脅迫的な国書に慌てるだけでした。
対応を求められたのが鎌倉幕府だったのです。
円覚寺に祀られている時宗・・・。
この時、18歳・・・禅宗に深く帰依し、修業に明け暮れる毎日でした。

南宋からの禅僧たちが、時宗を導きます。
モンゴル帝国の謀略ぶりを伝えたのです。
時宗の教養は、南宋の僧侶によるもので、南宋の文化に親しんでいた時宗・・・。
断固たる態度に出・・・クビライの使者を黙殺してしまいました。

どうしてこのような対応を???
当時の東アジアの外交ルールが関係しています。
宗と周辺国は、貿易を通じた緩やかな関係で繋がっていました。
軍事的な実効支配は伴っていなかったのです。
東シナ海・南シナ海周辺の海を通じて、宗と長い間関係を持っていた国々からすれば、クビライの要求はおかしなものでした。
しかし、何度も使者を派遣して日本に服属を求めます。
が・・・黙殺し続けます。

モンゴル帝国は、1271年には中国制覇に向けて動き始めます。
こうしたクビライの動きに危惧していたのが南宋です。

13世紀に中国で作られた石碑”賛皇復県記”には・・・
瓊林と呼ばれる南宋の工作員が日本を訪れ、元の使者の活動を妨害したと記されています。
南宋が日本と連携してクビライに対抗していたのかも・・・??

クビライは日本への出兵を決心します。
1274年10月・・・クビライの4万の軍勢が博多へと侵攻を開始します。
文永の役です。
迎え撃つのは鎌倉幕府に従う御家人たちでした。
しかし・・・元軍の強さはすごく・・・
”てつはう”=炸裂弾の一種。中には火薬だけではなく、鉄片や陶器片も入っており、殺傷能力が強かったのです。
未知の兵器と圧倒的武力・・・日本に大きな恐怖心を与えて帰っていきました。
1275年4月・・・クビライの使者が国書を携えて日本に到着します。
服属しなければ、再び攻める・・・!!と、脅します。

既にモンゴルの強さを痛感していた時宗・・・この国難にどうする??

①国書の要求に従う。
かつて朝鮮半島の王朝・高麗も同じ立場でした。
高麗は蒙古の要求に従わず、30年もの間戦いを続けた上に降伏・・・。
荒廃し、骸骨が野を覆うような惨状となりました。
日本も国土を蹂躙される可能性がある・・・。

②徹底抗戦する。
蒙古と一戦あるのみ・・・!!
博多で迎え撃つ???

戦いを有利に進めるために内情を探っていたようです。
日本で生活する・・・文永に役で捕まったモンゴルの将軍を生け捕りにし、モンゴルがどんな戦法を使うのか?
どういう組織で軍隊が動いているのか?
相手の情報を聞き出そうとしていました。
その上で、有効な情報を利用して作戦を立てることができました。

御家人たちの士気はどうする?
相手を迎え撃つということは、土地・・・恩賞は出せない。。。
戦場で戦わない者、戦場に行かない者・・・いかにして士気を高めるか???

強大なモンゴルを打ち倒すためにはどうすればいいのか???

1275年9月7日、時宗は、国書の返事を待っていた元の使者を鎌倉に呼び寄せます。
そこで・・・斬首・・・元の使者を処刑してしまいました。
あくまでも徹底抗戦!!

時宗は、決戦への準備を始めます。
博多湾には上陸を防ぐための石積みの防塁を築きます。その長さ全長20km。
12月8日、御家人たちに出された通達には・・・
”異国を征伐す!!”と、高麗に向かって出発し、先制攻撃をしようとします。
この遠征計画は、恩賞のために秘策でした。
恩賞を出すことができない・・・ということは、守ってても駄目だ、攻めて奪い取れ!!ということなのです。
迎撃し、高麗に出兵し、クビライに対抗しようとしました。
が・・・1276年南宋を滅ぼし、中国を統一!!
1281年には、あくまで国書に従わない日本を武力で制圧しようとします。
弘安の役です。
軍勢は、文永の役をはるかに上回るものでした。
朝鮮半島から4万、大陸から10万・・・合わせて14万の大軍でした。
6月5日・・・先鋒隊が博多湾へと迫ります。
防塁を前線に死闘を繰り返します。
防塁によって侵入を阻まれた元軍は、海上に釘づけにされてしまいました。
夜になると御家人たちは奇襲をかけ・・・2か月の攻防が繰り返されます。
ここで・・・7月30日の夜半・・・台風が通過・・・
神風です。。。
元軍の船は壊滅的となりました。
長崎県松浦市の鷹島では・・・今も多くの元軍の船の調査が行われています。
それらを調べると・・・元の船にも問題があったようです。
急いで突貫工事で作られた船・・・
脆弱の構造の船では台風には耐えられなかったのです。

弘安の役の三年後・・・時宗は、34歳という若さで病死します。
そのほとんどを・・・モンゴルとの戦いに捧げた生涯でした。
その後も日本は、元の脅威にさらされます。
クビライは、弘安の役の翌年には、日本侵攻を計画し、3000艘の船を製作し始めます。
鎌倉幕府は、いつ来るかもしれないモンゴルの襲来に備えなければなりませんでした。

福岡市では・・・水路跡が発見されています。
元寇防塁を突破された時の第二防衛戦として作られた堀でした。
幅3m、長さ800m・・・鎮西探題を守る重要な役割を果たしていました。
このほかにも、防塁の修理・整備や九州北部の警備が行われました。

異国への備えは、御家人たちの大きな不満となっていきます。
さらに元寇は、日本人達の考えを大きく変えていきます。
他国からの圧力に対し、日本の国を神々が守る・・・そんな国としての日本。
モンゴルの脅威が高まる中・・・神々に守られている国、日本。。。となっていったのです。
豊臣秀吉のときも”神国・日本”として一つにまとまりました。

そして・・・その考えは、柔軟な外交のできない日本として残っているかもしれません。


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北条時宗 総集編(2巻セット) [VHS]
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2012年長崎県の海底で、歴史的発見がありました。
およそ730年前に沈んだとみられる木造船の船底が発見されました。
それは当時、日本では造られていなかった大型船の形体だと分かりました。
この船は、日本侵略のためにやって来た・・・蒙古襲来なのでした。
鎌倉時代に2回もあった危機的外圧でした。
初めての・・・異国の侵略に翻弄される日本!!

どうしてモンゴルが攻めてきたのでしょうか???
その引き金を引いたのは日本???

総司令官は、鎌倉幕府執権・北条時宗でした。
国を守る!!国防の意識を持たせることを!!挙国一致を推し進めるために!!試行錯誤します。

13世紀初頭、大陸では1206年にチンギス・ハンがモンゴル帝国建国。
騎馬軍団です。その勢力は、ユーラシア大陸に広がり、史上まれにみる大帝国へと発展します。
やがてモンゴル帝国は・・・海を越えて日本にも興味を持ち始めました。
モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハン。
日本遠征は、壮大なアジア戦略の一環として行われました。
1271年中国北部に元を造ったモンゴル帝国は、南宋を攻め始めました。
その為に、周りから攻めよう!!高麗・大理・安南を征服していきます。
その戦略に日本も含まれていたのです。
1274年10月博多に・・・。
異国の大船団がやって来ました。文永の役です。
船900艘、兵の数3万3000人。
博多に上陸したモンゴル軍を、日本の武士が迎え討ちました。
しかし。。。一騎討ち主体の日本軍に対し、モンゴル軍は襲いかかりました。
さらに・・・モンゴル軍は”てつはう”という武器もありました。
陶器で出来た球体の中には、火薬と共に固い鉄片が入っている爆弾だったのです。
日本に火薬が伝わってもいなかったのに!!!
博多の街を一晩で火の海にしてしまいました。
ここに、鎌倉時代の国難の始まりでした。

蒙古襲来・・・元寇とも呼ばれています。
元寇・・・寇は、賊という意味です。つまり、”賊”が攻めてきたということ。
でも、どうして日本に???
きっかけは、文永の役の6年前。。。
1268年フビライの外交使節団が博多に到着しました。
その国書には・・・
「天命を受けた大モンゴル皇帝が、日本国王に国書を差し上げる
 願わくば、互いに好を通じ 親睦を深めたい」
と、ありました。
国交を結びたい!!つまり、侵略ではなかったのでは???
この国書は、鎌倉幕府を経て、朝廷へと届きます。
なぜなら、外交権は朝廷にあったからです。
ところが・・・公家たちは・・・国書の最後を読んで慄きます。。。
「好を通じるのはいわば家族の道理である
 その為に、兵を用いるなど誰も望まない
 日本国王よ、このことを良く考えよ・・・」
兵を送ると思ったようです。
「国書は一見和親を唱えているようだが
 よくよく見れば、これは国家の珍事、一大事である」
と、驚嘆するばかりでした。

そして・・・日本は国際的には異例の・・・
”返書を送らない”方法を取ったのです。
しかし、何度も何度も国書は送られてきました。
クビライは激怒し、最後通牒を突き付けます。
「これまで何度も国書を送ったが、いっこうに返書が送られてこない
 今後も返事がない場合、兵を差し向けることも辞さないことを覚悟せよ」
それでも返書を送らない日本・・・
日本の誠意を感じられない・・・文永の役勃発へと進んでいきました。
日本の外交経験の薄さが、この戦いを引き起こしたのです。

博多は一夜にして焼け野原・・・
国交を開けと日本への威嚇攻撃だったとされます。
どうして国書に返書しなかったのか???
「貴国とは、これまで一度も使者をかわしたことがない
 にもかかわらず、兵を以て我が国を威嚇するとはどういうことか
 そもそも蒙古という国は聞いたことがない・・・
 我が国の皇帝(天皇)の威光はあまりある
 日本は神国である・・・」
日本は神が守る特別は国・・・そうフビライに伝えようと思っていたようです。
神や仏によって守られているので、関わりたくないというのが本音だったようです。
また、日本は世界情勢に疎く、南宋と蒙古は違うということを中央政府が理解できていなかったと思われます。
しかし、”無視”は、多民族からしたら傲慢・怠惰・敵意に満ちた姿勢と思ったのでしょう。

今まで外圧を気にすることなく、独自の考えを純粋化していくことの出来た海に囲まれた日本。

鎌倉幕府を率いたのは、18歳で第8代執権となった北条時宗。
日本の行く末が、時宗の肩にかかってきました。
創造の範疇を超えるモンゴル軍・・・
国難に立ち向かう時宗は、南宋の禅僧から情報を得ようとします。
モンゴルは怖い国・・・警戒すべき国・・・野蛮な国・・・となっていきます。

しかし、国内問題も・・・
それは、武士に対して支払われるべき恩賞・・・
その恩賞を支払って欲しいと、九州の防備をせずに鎌倉まで直談判にやってくる武士達・・・。
国家として危ない!!という危機感がありませんでした。
モンゴルに立ち向かうためには、挙国一致の国防の意思が必要でした。
文永の役の翌年、6度目の使節団が日本にやって来ますが・・・
時宗は、使節団を鎌倉に連れてきて処刑してしまいました。
それは、全国の武士達へのアピールでした。
また、御家人以外の非御家人(朝廷・寺社)も、国家の非常事態の為に!!傘下に入れます。
朝廷が渡したくない力をも手に入れたのです。
そして、九州には異国警固番役を置きます。
外圧の最前線に武士たちを送り込みました。
その象徴と言えるのは、今も博多に残る元寇防塁。。。上陸を阻止するために造られた防壁です。
その長さは、約20kmもあります。
この石は、国防の為に武士が自ら運び、築いたものです。

1279年南宋滅亡。
もはや、日本は南宋攻略に必要ではなくなります。
つまり、次は・・・侵略のための遠征となりました。
空前の大軍団が押し寄せます。

1281年6月博多に再びモンゴル軍がやって来ました。
弘安の役の勃発です。
モンゴル軍は、江南軍3500艘・10万人+東路軍900艘・4万人でやって来ました。
途方もない軍勢でやって来ます。
これに対し日本軍は・・・20kmに及ぶ防壁・武士たちの奮闘もあって、博多上陸はどうにか防ぐことが出来ました。
博多からの上陸を諦めたモンゴル軍は、長崎で体制を整えて、再上陸を狙っていました・・・
武士たちは、奇襲戦法をとるも、武力に劣り苦戦・・・
そんな7月1日・・・・。
大船団を、突如暴風雨が襲います。
船は次々に海の藻屑に・・・
モンゴル軍を壊滅させたのは・・・神風!!
しかし、モンゴル軍の船は、脆弱だったようです。
江南の人々は、もともと南宋の人たちでした。
戦争につかれ・・・2度目の日本への遠征で疲れ切って、不満が渦巻いていました。
欠陥船を造ったのかもしれません・・・。
おまけに江南軍と東路軍は合流する予定だったのに、なかなか江南軍は来なかったようです。
また、船内で疫病が蔓延・・・次々と倒れていきました・・・。
蒙古襲来を救った神風・・・しかし、神風の勝利は、モンゴル軍の本質を覆い隠してきたのです。

日本は、勝ったわけではありません。
しかし、神風が後の日本にもたらしたものは・・・???
神の国・・・神国思想が確信に変わった瞬間でした。
過度な無関心、過度な国粋主義の原点になってしまったのかもしれません。
もっと歴史を勉強することが大切ということでした。

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