日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:彰義隊

東京・上野・・・西郷さんの像でお馴染みの上野公園は、動物園だけでなく、美術館や音楽ホールが連なり、全国の人々に親しまれる文化の薫り高い一帯です。
しかし、150年前、ここには全く違う景色がありました。

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感想(1件)



1868年5月15日、この上野の山で西郷さんが戦争を起こし、全てが焼き払われました。
明治維新の動乱の中で、唯一江戸で行われた戦い・・・新政府軍と旧幕府軍と彰義隊がぶつかった上野戦争です。
この年の1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は旧幕府軍に圧勝、勢いに乗って、江戸に軍を進めました。
そして、西郷と勝海舟の会談の結果、江戸城の無血開城が決まります。
しかし、城が明け渡されたとはいえ、これで西郷たち新政府が江戸を手中に収めたわけではありませんでした。
次々と江戸から脱走する旧幕臣たち・・・
江戸の周囲では新政府に対しゲリラ戦が行われていました。
中でも西郷を悩ませたのが、上野の山に立てこもった彰義隊でした。
彼等がいる限り、江戸は新政府のものにはならない・・・西郷は、ギリギリの選択に迫られていました。
江戸を火の海にする危険を冒しても彰義隊を討滅するのか・・・??
西郷隆盛の苦渋の選択とは・・・??

江戸城明け渡しから1か月後の1868年4月・・・
江戸に駐留していた西郷隆盛は、思わぬ事態に頭を抱えていました。
”御用中雑記”・・・将軍・徳川慶喜の側近の日記によると・・・
江戸城明け渡し後、水戸で処分を受けるのを待っている慶喜の動向が書かれています。
4月15日、江戸より新聞が届いた・・・
慶喜は新聞を取ったり、使いを送ったりして江戸の様子を調べさせていました。
慶喜は何を調べていたのでしょうか??
彰義隊がどんな動きをするのか?気が気でなかったのです。
暴発してしまえば、江戸城無血開城はおじゃんとなってしまう!!
この時点で、徳川家がどの所領をもらえるのか??決まっていませんでした。
彰義隊の行動如何でZEROとなる??処罰される・・・??

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さらに慶喜は、彰義隊の暴発を押さえようと、家臣に軍用金65両を持たせ送り込んでいました。
この頃、江戸は混乱のさ中にありました。
4月11日、徳川将軍家の居城が無抵抗のまま新政府軍に明け渡されました。
慶喜は、江戸を出て実家の水戸に移り、謹慎します。
一度は計画されていた江戸城総攻撃!!それは、新政府側の西郷と旧幕府側の勝海舟の行動によって回避されました。
新政府が提示した降伏条件は慶喜の水戸謹慎と江戸城明け渡し、そして幕府が所用する武器・軍艦の引き渡しなどです。
しかし、開城の直前、新政府に反発する旧幕臣・大鳥圭介らが歩兵部隊を率い、武器を手に脱走!!
さらに、旧幕府歓待を率いる榎本武揚は、新政府への軍監引き渡しを拒み、江戸湾を脱走!!館山沖で新政府を威嚇していました。
西郷が勝に言い渡した降伏条件は守られなかったのです。

榎本の場合は、彼が手塩にかけて育成した旧幕府艦隊・・・お金も時間も労力もつぎ込んだ艦隊を、やすやすと薩長に引き渡すことはできない!!
徳川家の行く末がはっきりしていなかったので、全部を引き渡すと条件闘争ができない!!ということもありました。

江戸を脱出した大鳥だけでなく、他の旧幕府勢力も、江戸近くで次々と蜂起!!
新政府軍は関東各地で対応を余儀なくされました。
さらに、東北では奥羽の諸藩が新政府との対立を深めていました。
結果、江戸は手薄となって市中の治安維持もままならなくなっていました。
江戸城は手にしたものの、新政府軍は江戸で孤立していたのです。
さらに、西郷たちを悩ませていたのは、彰義隊の存在でした。

無血開城から遡ること2か月・・・浅草の本願寺で、100名以上の旧幕臣で会合を開きました。
彼等は、その場で彰義隊を結成し、その目的をこう表明しました。
「慶喜公は、朝廷に対して恭順一筋
 裁きを待つお考えである
 一同、この現状を見逃すことはできない
 その為、死を決して盟約を結び、冤罪であると訴えるしかない!!」

漸将軍・慶喜は、鳥羽・伏見の戦いによって、朝敵の汚名を着せられていました。
慶喜は、上野の寛永寺で謹慎し、ひたすら恭順の姿勢を貫いていました。
この状況を打開するために、彼らは立ち上がったのです。
この彰義隊のリーダーである頭取に、慶喜の側近だった渋沢成一郎が選ばれました。
そして、副頭取には旧幕臣・天野八郎が就任しました。
その後、彰義隊は拠点を上野・寛永寺に定めます。
関東各地のみならず、江戸にまで旧幕府側が勢力を伸ばす危険な状態・・・
西郷は頭を悩ませていました。

彰義隊の拠点となった上野の山・・・当時、この山全体が、徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の境内でした。
寛永寺は、3代将軍・家光の時代に創建、最盛期には大伽藍と付属する支院36が立ち並ぶ、江戸随一の寺として栄えました。

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鳥羽・伏見の戦いで破れ逃げ帰った徳川慶喜は、この寛永寺の支院の一つに入って謹慎していました。
寛永寺には、慶喜監禁の部屋が残っています。
”葵の間”床の間のついた書院造・・・10畳と8畳の二間続きの部屋です。
2月12日から4月11日まで、水戸に隠居されるまで、ここで謹慎していました。
将軍がここにいて、徳川の世が明治に変わっていくことに納得がいかないという人たちが・・・幕府恩顧の者たちが、上野に集結してどんどん数が膨れていきました。

慶喜を警護する為に結成された彰義隊は、旧幕臣を中心に参加者が続々と集まり、遂には4000人に達したといいます。
江戸で存在を無視できないほどの大勢力を築いた彰義隊・・・
この状況を利用しようとしたのが、徳川方の代表・勝海舟です。
勝は西郷に、彰義隊に市中取締役を命じ、江戸の治安維持にあたらせることを提案します。
治安が悪化する江戸を、新政府軍の力だけで取り締まるのは不可能・・・
西郷は、その提案を受け入れざるをえませんでした。
さらに、勝の要求はエスカレート・・・
水戸で謹慎する慶喜を、江戸に戻すこと・さらに、江戸城を徳川家に返すことまで要求しました。
このことは、西郷を窮地に陥れます。
降伏条件が守られないことを甘んじている西郷に対し、新政府軍の要人たちから弱腰との声が上がり始めたのです。
佐賀藩士・江藤新平は、手紙にこう記しています。

”官軍の中には、勝らに騙される人がおり、憤慨に堪えない”

巻き返しを図る旧幕府側の圧力・・・新政府強硬派からの圧力・・・
西郷は、のっぴきならない状況に追い込まれていました。

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この頃、京都から江戸にある男が送り込まれていました。
長州藩士・大村益次郎・・・長州に攻め寄せた幕府軍を、散々に打ち破った西洋流の兵学者です。
新政府内での強硬派が西郷の融和策に業を煮やし派遣・・・これは、彰義隊の武力鎮圧を期しての人選でした。
一方の西郷は、4月から江戸と京都を頻繁に行き来していました。
西郷は新政府の首脳陣と連日会議を行います。
徳川家の最終処分を決定するためです。
4月25日、新政府内部で徳川家の処分方針が決定しました。
徳川家を駿河国に移す・・・旗本の領地を含め800万石を一気に70万石まで削減するというものでした。
このことが発表されれば、旧幕臣たちの反発は必至の厳しい処分でした。

5月に入ると大村は彰義隊討滅に向け動き出します。
彰義隊に与えられていた市中取締役の役目を奪ったのです。
これ以降、江戸で事件が頻発します。
彰義隊士による新政府軍兵士の殺傷事件が起こるのです。
佐賀藩士、鳥取藩士、西郷の直属の部下である薩摩藩士も犠牲となりました。

彰義隊の扱いをどうするのか??軍議が開かれました。
大村は、彰義隊の殲滅を強硬に主張、早期の決着に自信を見せました。
一方、西郷と共に徳川方との折衝に当たってきた参謀たちは、兵力の不足を理由に大反対をします。
双方の意見を聞きながら、西郷は選択に迫られました。

彰義隊を討滅・・・??
あくまで戦を回避・・・??

いかに混乱を起こさず、徳川家処分を発表するのか・・・??
江戸と日本全体の行く末を案じながら、西郷は苦悩していました。

西郷の決断は・・・??

「大村には、勝てる清算があるに違いない
 勝てさえするならよかろう」

大村の意見に同意し、彰義隊討滅に同意しました。

5月14日、指揮権を持った大村は、彰義隊に宣戦布告を行いました。
その布告の中で大村は、官兵を暗殺し、官軍と偽り、民の財産を略奪する彰義隊は、国家の乱賊であると決めつけました。

1868年5月15日、降りしきる雨の中、新政府軍による上野攻めが始まりました。
この時、寛永寺に立てこもっていた彰義隊の人数は1000人程度。
大村による事前の宣戦布告が功を奏し、戦う意思のない者たちは寛永寺から大挙していました。
布陣を見ると・・・
彰義隊隊士たちは、寛永寺の8つの門に分かれ、新政府軍の侵攻に備えました。
さらに、現在西郷隆盛の立つ山王台に、大砲を据え、新政府軍に向けていました。
一方、新政府軍の数は1万以上、とはいえ、実際に上野の山の攻撃に当たったのはその一部に過ぎなかったといわれています。
谷中方面には長州を中心とする部隊、最も激戦と予想され黒門を攻めるのは西郷率いる薩摩兵を中心とした部隊・・・そして、谷を挟んだ本郷台には差が藩を中心とする大砲部隊の陣地が置かれました。

午前7時ごろ、戦いの火蓋が切られました。
現在も残る黒門・・・激しい戦闘を物語る無数の弾痕が・・・!!
午前中は、高台で地の利のある彰義隊が優勢に戦いを進めました。
しかし、正午・・・本郷の台地から佐賀藩が誇る最新鋭の大砲アームストロング砲が撃ち込まれました。

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この砲撃をきっかけに、彰義隊が乱れ始めます。
この機をとらえた西郷は、黒門への突撃を命じます。
上野戦争を描いた錦絵には、新政府軍の一斉射撃が高台の彰義隊を狙い撃ちにします。
黒門前は、敵味方入り乱れての大乱戦・・・
濛々と煙を上げる寛永寺の伽藍・・・次々と撃たれていく彰義隊士・・・
自害するものも・・・
午後5時ごろ、戦いは新政府側の勝利で幕を閉じ、江戸で行われた唯一の戦争はわずか半日で集結しました。

新政府軍大勝利の秘密は何だったのでしょうか?
これまで佐賀藩のアームストロング砲の威力によってもたらされたといわれてきました。
しかし、勝利の理由はそれだけではない??
アームストロング砲の特性は、射程距離が長い、命中精度が高い・・・それは、旧来の大砲よりも格段に性能が良かったのですが、上野に持ってきた大砲は、6ポンドで口径が2.5インチ・・・6センチぐらいでした。
旧来の大砲に比べて、弾が小さいのです。
火薬の量も少なく、破壊力そのものでいうとそんなに際立っていないのです。

新政府側の勝因は、アームストロング砲だけでなく、旧式の大砲を使ったその戦術にあったのでは・・・??
加賀藩邸の方に13門集中的に配備、当時、砲列を敷くというのは事例的に多くありませんでした。
集中的に火砲を運用して、攻撃を支援するというのは、大村益次郎の先験的な戦術でした。

戦いののちにとられた写真・・・彰義隊と運命を共にするかのように寛永寺の大伽藍は灰塵に帰しました。
彰義隊の生き残りは、散り散りになりながらも、関東各地や東北に逃れます。
後に会津や箱館の戦いに身を投じた者たちもいました。
新政府軍の勝利は、人々の心に新しい時代の到来を印象付けました。

彰義隊を味方としていた人びとは、賊と呼ぶようになります。
新政府軍に罪を追及される恐れがあるからです。
上野戦争の大勝利の直後、新政府は徳川家の駿河移封と70万石への減俸を発表・・・
しかし、もはや江戸に反発する者はいませんでした。

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傷だらけ・・・って、誰が傷だらけなんでしょうかね~~??

江戸城無血開城をやり遂げた吉之助ですが、政府に不満を持つ勢力が、上野に集結!!
彰義隊と名乗りました。
いきなりやってきた大村益次郎の作戦で戦いを開始!!って、命をかけるのに、いきなりやってきた訳の分からない男の言うことに従うんだな??って思うのは私だけ??

「まっこて、果ての見えん戦でごわす・・・」って、暗そうに、戦をしたくなさそうに言う西郷どんですが、でも、やりだしたのはあなたです。
僅か半日で消滅した彰義隊は、オープニング前に終わっちゃいました

「会津、東北諸藩が必死の抵抗を見せていました。」みたいなナレーションですが、違うだろ??
会津は恭順の意を示してたんですよ!!
それなのに、すでに隠居した松平容保に責任を取らせようとするから、徹底抗戦!!みたいに会津がなっちゃったんです!!
それなのに・・・何で抵抗しようとしているのか??そこを書いてほしいんですよ!!
この作品は、ほんと、勝者の歴史のうわべだけをなぞっているだけで、そこにある志や誠を書いてくれないから、全く持って心がないんです!!

お金も兵糧も、武器も、人もない・・・このままの政府なら負け戦だ・・・という大村益次郎。
寡黙な西郷・・・薩摩を動かせと詰め寄る大村。。。

「この戦・・・最後の最後まで戦いつくさねば終わりません・・・
 お引き受けいたしましょう。」by吉之助

??さっき、この戦、果てが見えないって言ってたじゃない・・・
果てが見えないってことは、止めたいってことでしょ??
それなのに、戦いつくさないと終わらないの??
恭順の意を示していた会津に寛大な気持ちで接すれば終わっていたんじゃないの??
徳川慶喜に一撃を喰らわせたかったのに、大政奉還されて、行き場の無くなった振り上げた拳を会津に振り下ろしたんじゃないの??

やっぱり戦するんだ~~~って思うから、戦自体が軽くなってしまって、そこに居る人の命自体が軽くなってしまいそう・・・

薩摩に戻ってきた吉之助、またもや家に一直線です。
そんな暇ないんじゃないかな??
結婚する時、忙しいから結婚しないって言ってたんじゃないの??
そう思うと、女性ののんびりパートが多くって、忙しいから結婚できないのって理由おかしかったよね??
揚げ足とっているようだけど、話しに一貫性がないから理解できないのよ・・・。
みんな命をかけて戦っているのに、早く兵を連れて東京に帰れよ・・・吉之助・・・!!

って思っていたら、なんでか知らんが有名になった・・・でも、ボロボロの西郷家に金の無心に来る輩が要るって”家”の話が始まります。
人のいい吉次郎が、貧乏なのに、金を貸しているというエピです。
男は体面の時代でしょ??
高名になったのなら、うだつを揚げろよなあ~~。

糸は、大島に書物を送っています。
菊次郎の勉強用です。
これも、吉次郎が用意してくれたものです。
いろいろ西郷家を支えているということを言い出しました。
って、今まででも、兄に代わって西郷家を支えてきた吉次郎です。
いろいろ書くことがあるなら、もっと前から書いてあげたら良かったのにね。

で・・・やっと久光に願い出る吉之助。
なんか、久光、上手く丸め込まれたのか、すぐに援軍を了承しました。
薩摩にも援軍を反対する者も沢山いたんですよ??
この大河って、論じないですよね・・・江戸無血開城の時も、もっと議論して激論を交わしてほしかった。
だって、激論を交わすのも、戦争の一つなんじゃないの??
この作品では、なんでも既に決まっている感がたくさんです。
だから、ドキドキしません。

don
















軍人っぽく命令している吉之助を見るそろばんを持った吉次郎。
何を考える??

ちょっと違う世界を観たくなった吉次郎に自分みたいにケガを負いたいのか??という信吾。
本当の信吾って、バリバリの武闘派です。
そこんとこ、よろしく!!

吉之助が帰ってきたら、妹の琴が帰ってきていました。
「あにさ・・・ちょ、ここに座ってくりゃんせ!!」と、怖い顔して言います。
嫁いだ自分が口を挟むことではないけれど・・・と、前置きはするものの・・・
家の者を労わってくれと説教し始めました。
新しい着物の一つでも買ってやれって・・・
う~ん・・・結構男尊女卑が激しいんですよ・・・九州は・・・。
女性がこんなこと言ったら、もう、ダメだよね・・・
そして、一番我慢しているのは吉次郎だと言い出しました。
欲しいものをいえとか、言い出しました。

う~ん・・・まだ、戦争やってるんじゃないの??
こんな話でなあ・・・

「おいも・・・戦働きがしたか・・・!!」by吉次郎

嫁さんは、行ってほしくないと全力で拒否ります。
この当時の女性に拒否権があったのかどうかも疑問だわ・・・。
武士の妻とは言えんな・・・
なんやかんやで吉之助の許しが出て戦いに出ることに・・・!!

don2
















そして、越後へと出立する吉次郎。

ガトリング砲の説明にやってきた村田新八。
この時、ガトリング砲だから河合継之助が・・・と、一言だけで河合継之助とガトリング砲の何が解るか??と思った私でしたが、ず~っと出ている村田新八のこともわからないので、もういいと、諦めました。

士気も下がっているし、西郷吉之助様に出張ってもらうしかない!!と言いますが、吉之助ならガトリング砲に勝てるんでしょうかね??

で、軍艦で越後へ!!
各方面から来てほしいとモテモテの吉之助です。
吉之助は最終兵器でも持ってるんでしょうかね??
軍議中に・・・そこへ、吉次郎が撃たれたと信吾が言いに来ます。
この作品って、いちいち知り合いがやってくるけど、こんなの伝達がやるんじゃないの??
血みどろで急いで来てさ・・・
そんなとこも緊張感ないって思えてくるんだけど・・・ホントのところはわからんわな・・・。
「兵の命は皆同じ!!」と、今回行かないのか??
みんな、行けって言ってるよ??
泣き崩れる信吾・・・亮ちゃんは泣き虫顔似合うけど、信吾はそんな・・・薩摩隼人だろ??

don3















決着がついてからだけど・・・結局来るんじゃん・・・
史実は会えてないけどね!!
体だけは大切に・・・とか言う吉次郎ですが、優しさを表現したいのかもしれませんが、そこは戦場なんだから、「どんなことがあっても勝ってくれ!!」なんじゃないの??と思う、私でした。
結局、家族のことを沢山描いてきたのに、死んでいく吉次郎のことは殆どキャラ立たず・・・残念!!

この後、戊辰戦争は会津、庄内、箱館と続きました。
そんな中、日本は明治へと新しく生まれ変わり、みんなによる明治政府が出来る・・・??
なんと、戊辰戦争、ナレで終わっちゃったよ・・・。
この大河で死んだり傷ついたりしてるのは、薩摩兵だけだよね・・・おかしくない??
悲惨な東北の戦いを書かずして、何が戊辰戦争なんだよ・・・。
悲劇は吉次郎だけじゃないんだよ!!
と、人の命は同じ重さで、吉次郎が悪いわけでもないのに、思ってしまう私なのです。

遂に・・・明治天皇が東京に旅行に行ってしまいました。
ああ・・・ちょっと東京に旅行に行ってただけなのになあ・・・
次の天皇陛下の即位式のために、高御座がこの秋に東京に行ってしまった・・・
東京の人になっちゃうのね・・・天皇陛下・・・。

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もう・・・終わってしまった。。。
この東京を首都にするのには、一蔵の戦いがあったはずなんだけど・・・
天皇陛下をどうやって東京に行ってもらうのか?も、大作戦をやったんだけど、そんなこんなもまるっきりスルーなのね・・・。

明治維新最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭けはこちら
明治日本 首都は三択だった!~大久保利通 東京遷都の真実~はこちら

で・・・いきなり役目は終わった・・・と言って薩摩に帰る西郷さんです。
う~ん・・・これでは自分勝手ではないですか??
何でか全くわからんけど、それが民の為らしいわ・・・
勝手なことを言うな!!と、大久保一蔵に怒られてしまいました。
当たり前だわな・・・。
民の為って言うなら、戦を始めるなよな~~!!

吉之助のために久光のご機嫌を取り、島から帰したり×2、いろいろ卑怯モンをしてきたのに・・・と思ったのか??
フハハハハ!!と、一蔵、壊れちゃいましたとさ!!

やっぱり帰ってきた吉之助・・・
家族がまだ吉次郎の死を知らないなんて・・・それからどれだけ立ってると思ってんねん!!とツッコミを入れたいぐらいです。
知らせてやれよ・・・それぐらい。

「すまん!!死なせてしもた・・・」

結構きつい言い方です。
寡黙というよりは、心がこもっていないというか・・・
抑えた演技なんでしょうが、ザ・寡黙の高倉健命の私としては、その抑えた演技が冷たく感じました。

糸が吉次郎が今まで壺にためていた銭を見せます。
貧乏でも、吉之助のためにとためてあったお金です。
吉之介が何かやるときのためにとためていたのです。

泣き崩れる吉之助なのでした。

髷を切り落とした吉之助・・・何を思う??

もう「西郷どん」をやめるのかな??って思っちゃったわ・・・。
どうしてこんなドラマになっちゃったんだろ??家族の絆や愛を書くなら、もっと吉次郎も掘り下げて欲しかったわ・・・って思ったけど、よく出てくる弟・信吾も、遊び人だったり、戦争は嫌だとか。。。およそ薩摩隼人とは大違いのよくわからない弟だわ・・・。

もっと人間を掘り下げてくださいな~~!!
泣けやんやろ~~!!

結局傷だらけだったのは、薩摩の人たちだけでしたね・・・。

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