日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:後小松天皇

どんな難題や大ピンチもとんちで解決・・・小坊主一休さん。
一休さんこと一休宗純は、、室町時代を生きた実在の禅僧です。

絵本やテレビアニメでお馴染みの一休さん。
中でも有名な話が、室町幕府三代将軍足利義満に招かれたときの事・・・
「あの屏風に書かれたトラを捕まえてみよ」by義満
そして縄を手に取りこう答えます。
「準備ができました。
 それではここからトラを出してください!!」by一休
一休のとんちに将軍も天晴!!

ある商家が一休を家に招きますが、その家の周りは濠で巡らされています。
「このはしわたるな」と、立札が書かれていました。
ひらめいた一休は、臆することなく橋を渡っていき・・・
「はしをわたるなと書いてあったので、真ん中を歩いてまいりました。」by一休

意地悪な難題を突き付けられても機転を利かせる小坊主・一休・・・
これらのエピソードの元となっているのが、江戸初期に出版された「一休咄」に書かれています。
降りかかった難題を解決する一休の明快なストーリーが人気を呼んで大ヒットしました。
その後もいくつも一休本が出版され、とんちの一休さんというイメージがつきました。

このとんち話は実話なのでしょうか?

ほとんどすべて、後世に作られた創作で・・・しかし、一休と全く関係がないかというとそうではない・・・。
一休の生涯を弟子たちがまとめた「一休和尚年譜」には、とんちにつながるエピソードがあります。
実際には、義満ではなく4代将軍・義持に会っていたといいます。
つまり、一部の史実を元に創作されたものです。
実際の一休は・・・ひげ面で髪を伸ばしたお世辞にも愛くるしいとはいえない型破りな僧侶でした。
そういった風貌から、破戒僧と呼ばれていました。
そして人生もまた型破りでした。

・出生の秘密
京田辺にある酬恩庵一休寺は、一休が再興した寺です。
宝物殿には一休ゆかりの品が大切に保管されています。
一休が履いていた靴・・・23cmほどで動物の皮で作られ、ボロボロに履き潰されています。
さらに、一休の出生の品もあります。
時の後小松天皇から拝領した青磁の鉢・・・この鉢を特別に大切にしていた理由は・・・
ふたりの間柄にありました。
一休の母・伊予の局は後小松天皇の側室で、一休はその二人の間にできた子供だったのです。
しかし、天皇の子でありながら、1394年1月1日、京都・嵯峨野で人目をはばかるように生まれます。
幼名は千菊丸・・・当時は、60年にわたって分裂していた南朝と北朝が3代将軍足利義満の画策により統一・・・南朝の後亀山天皇が、三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したことで、後小松天皇が正当な天皇となりました。
ただ・・・統一したとはいえ、北朝の南朝に対する不信感は根強いまま・・・
そんな中、一休を身籠った伊予の局は南朝出身だったことから、後小松天皇に近づいたスパイであるとあらぬ噂をかけられ、宮中を追われたために、人知れず一休を産むことに・・・。
この命を案じた母は、6歳になった我が子を臨済宗の安国寺に預けます。
周建と名付けられた小坊主は、才能を発揮していきます。
中でも禅問答である公案が得意でした。
幼いころから禅問答を得意としていたことから、とんちの一休さんのモチーフになったようです。
13歳になると東山建仁寺に入り、漢詩を作ることを日課とします。
生涯にわたって作られた詩は、知られているだけで1060に及びます。
詩作の喜びを知り、悟りを開くため修行に励む一休・・・
しかし、21歳になったある日・・・真冬の琵琶湖で入水自殺を図るのです。

どうして一休は死のうとしたのでしょうか?
当時、室町幕府は京の主だった寺を管理していました。
一休が修行していた寺もその一つで、手厚く保護されていました。
そのため、僧侶は権力と結びつき、賄賂によって地位や権力を手に入れるようになり、堕落していました。
「ここにいて、この先、真の悟りなどあるのだろうか。」
一休は疑問を感じるようになります。
そして、権力と結びつくことを拒んだ一休は、高僧として知られた謙翁宗為の門をたたき、ただひたすらに厳しい修行の日々を過ごすのです。
しかし、門下となって4年・・・心酔していた謙翁宗為がこの世を去ってしまいます。
極めて真っすぐで真面目だった一休・・・一休の自殺未遂は、謙翁宗為の死で心の支えが無くなってしまったからでした。

しかし、一休は死に切れませんでした。
残されたのは全の道だけ・・・と新たな師を求めます。
京都を去って、近江堅田へ・・・祥瑞庵の華叟宗曇禅師の門をたたきます。
華叟は、俗化した都の宗教界に嫌気がさしていた人物で、その志の高さに強く共感したのです。
入門が許されなければ死ぬ覚悟でした。
甘えや妥協を許さない華叟は、門を閉ざし、一休の入門を拒んだのです。

「それでも私は一日中庵の前で、こうして頭を地につけ入門を願いました。」

息詰まる空気の中・・・3日たち、5日たち・・・不動の姿勢でいる一休を見た華叟は、驚くべき言葉を発します。

「水をかけ、某でたたいて追い払え!!」

しかし、一休は動じません。

「ただ、私は全の道を極めたい その一心でいました」

華叟はついに門を開きました。
仏法に権力を持ち込むことを嫌った華叟は、その志の高さからか暮らしぶりは貧しさを通り越し、極貧でした。
華叟や弟子たちは、まともな食事もとれず、庵では薬草を売って命を繋いでいました。
一休は、上流階級向けの香袋や雛人形作りの内職をして、生計を支えていたといいます。
苦しい日々の中、平家物語を聞いた一休は、この上ない無情を感じ・・・

「有漏路より 
 無漏路に帰る一休み
 雨ふらば降れ
 風ふまば吹け」

と歌を読みました。
華叟はこの歌の中から、一休を与えました。
一休宗純の誕生です。

ある夜の事・・・琵琶湖でこぎ出した船の中で座禅を組んでいた一休は、暗闇で鳴くカラスの声を聴き・・・

「カラスは見えなくてもそこにいる
 仏もまた見えなくとも心の中にある」

これを聞いた華叟は、一休を後継者と認め、印可状を授けることに・・・
しかし、一休は頑としてこれを受け取りませんでした。
当時印可状を欲しいと躍起になっている者はたくさんいましたが、一休は悟りは紙面では伝えられないと考えていたのです。
不伝の伝と考えていたのです。

悟りを開いた一休・・・奇抜な行動が目立ってきました。

・破戒僧の秘密
悟りを開いた一休は、髪を伸ばし、ひげを伸ばし始めました。
暮らしぶりも禅僧に非ず・・・公の場で酒を飲み、女好きを公言します。
著書「狂雲集」でも書いています。
一休は美女に目がなく、ナンパまでしていました。
人々は、一休のことを破戒僧と呼ぶようになります。
一休42歳、大坂・堺にいた頃・・・一休は外出する際には、長さ三尺の刀を持ち、その鍔をたたきながら歩きました。
禅僧が刀をもって歩くなど、正気を疑われる行いです。
町の人が一休に尋ねます。

「剣は人を殺すためのものでしょう?
 和尚さんは、何のために剣を持っているのですか?」

すると一休はその剣を抜いて見せました。
中身は木刀でした。

「あなたたちは何もご存じないようだが、今あちこちの贋坊主どもはこの木剣のようなものではないか
 鞘に納まっていれば立派に見えるが、鞘から抜けば中身はただの木片に過ぎない」

と説いたのです。

一休が最も嫌ったのが偽善でした。
偽悪になることで、偽善をあぶり出す・・・当時の仏教界の現状・・・権力者やお金持ちに近づいて仏法を商売道具にしているのではないか??
当時の禅僧を批判するパフォーマンス・・・身をもって禅の姿を伝えていたのです。

「有難そうな経文の巻物など、もともと便所のチリ紙とおなじようなものじゃ
 言葉をもてあそぶ紙切れに過ぎない
 臨済宗の開祖・臨済義玄は、有難いお経で何のためらいもなく尻を拭いたそうじゃ」

経文にとらわれてしまっては、仏の知恵とは外れてしまう
それのみを深く追求するようになってはならない・・・ということを言っているのです。
常識は時にひとを責めたり、苦しめたりします。
全ての物を捨てて「無」になれというのが一休の・・・禅の教えでした。

・破戒僧の教え
一休は、広く庶民たちにもわかるように禅の教えを説いていきます。
その一つが「一休骸骨」と呼ばれる法話集です。
仏教の教えが、優しい言葉と多くの挿絵で書かれています。
登場するのはユーモラスな骸骨!!
話は、墓場に迷い込んだ僧が、酒宴で骸骨に出会う場面から始まります。

「くもりなきひとつの月をもちながら
    うき世の闇に まよひぬるかな」

くもりなき月=菩提心という清らかな心・・・
人間は、清らかな心を持ながら、どうして闇の中を迷わなければならないのか??
これに対し一休は、迷う心・・・煩悩があればこそ菩提心があると説いています。
よって煩悩があって迷っても、菩提心があれば願わなくても仏になれると説き、

「人間 死んで皮が破れてしまえば、どんな人間も骸骨に他ならない」

貧しい人も裕福な人も、一皮むけば骸骨・・・こうした教えを、各地を巡って説いていきます。
地位や身分にとらわれず、人々に接した一休・・・その常識にとらわれない自由で奇抜な説法は、人気を集めて、人々の信頼を得ていきます。
しかし、その日々は孤独との戦いでした。
一休寺に肖像画が・・・そこに直筆の言葉が残っています。

「この100年間、東海の禅界で瘋癲の限りを尽くしてきたのがこの妖怪のような男
 今日の日本に禅はない。
 だれかこの一休の面前で禅を語ることのできる者がおるか」

この乱れた時代・・・
正当な禅の教えを伝えていく自負と重責・・・そんな一休が二度目の自殺を図ります。

・二度目の自殺
54歳になった一休は、突然寺を出て、山中へ分け入り、一切の食事を断ち、餓死しようとします。
大徳寺の以遠力争い・・・の中で、35人の禅僧が獄につながれてしまいます。
同じ禅僧の失態を前に、一休は恥ずかしさに耐え切れなくなり、山中で自殺を図ったのです。
この時、一休を思いとどまらせたのが、義理の兄弟だった後花園天皇でした。
天皇は、直ちに勅を出します。

「けっしてそのようなことをしてはならない
 そうなれば、仏法も、王道も滅びてしまうだろう
 師よ どうして朕を見捨てるのか
 師よ 国を忘れるのか」

自殺を思いとどまった一休は、京都を転々としながら修行します。
そして63歳の時、臨済宗の高僧・大応国師が建立し、戦火で焼かれ荒廃していた妙勝寺を恩返しにと20年以上もかけて修復し、再興します。
これが、酬恩庵一休寺です。
仏の恩に報いるという意味で、一休が名付けました。
しかし、再興のさなか、応仁の乱が勃発します。

寛正年間のはじめ・・・台風や洪水などの天災に見舞われ、飢饉が重なり、わずか2か月で8万の餓死者を出したと伝えられています。
疫病も広がり、鴨川は死体で流れが堰き止められるほどだったといいます。
一休の嘆きと怒りは権力者たちに向かいます。

・権力者への怒り

時の将軍・8代義政は、財政が破たん状態であったにもかかわらず、花の御所を造営・・・その妻・日野富子は将軍を無視して権力をふるい私腹を肥やしました。
そんな日野富子について一休は・・・

「俗世の女人の厄いは、脚の裏についた煩悩の紅い糸だ
 天下の老禅師もこの強欲には手を焼いている」

世俗の塵にまみれた貪欲な女性が権力を握れば、決まって騒ぎが起きるというのです。
一休74歳の時、その懸念は敵中!!
1467年応仁の乱勃発。
富子が実子である義尚を将軍にしようと画策し、西軍と東軍が対立!!
十数年にわたり内乱が繰り広げられ、主要な戦場となった京都は、壊滅的な被害を受け、すっかり荒廃してしまいました。

1474年、82歳になった一休に、勅命が下ります。
消失した大徳寺の住職になるように・・・と。
すぐさま再建に取りかかりますが、それには今のお金で数十億円が必要でした。
一休は自らの足で京都や堺を回り、再建のための寄進を求めます。
すると・・・武士や商人、庶民までもが寄進をしてくれました。
そして5年後の1479年、一休86歳の時に大徳寺の仏殿は完成します。
しかし、一休は住職にもかかわらず、大徳寺には住まず、生活の拠点としていた酬恩庵から25キロの道程を輿に乗ってわざわざ通ったといいます。

それは、一人の女性の為でした。
一休77歳の時・・・盲目の女性は名を森女といい、一休よりも50歳も若かったのです。
一休は、酬恩庵に住まわせた森女と一緒に居たいがために、わざわざ酬恩庵から通ったのです。
森女は一休にとって大事な存在で、一休の晩年の仕事を支える精神的支柱となりました。

酬恩庵一休寺にある虎丘庵は、応仁の乱の中、一休が自ら京都の東山から移築した庵です。
一休はここで、晩年、最愛の人・・・森女と暮らしながら詩作にふけりました。
死が二人を分かつまで・・・

京田辺にある酬恩庵一休寺・・・
ここに一休の木造が安置されています。
87歳の時に弟子に作らせたもの・・・ありのままの姿を後世に残そうと、等身大に・・・。
自分の毛髪やひげをそりつけさせたといいます。
今でも植え込んだ跡が残っています。
禅僧は髪を剃るもの・・・形式にとらわれずに・・・一休最後のメッセージでした。
木造が完成した翌年・・・1481年10月、一休は熱病が悪化、その1か月後・・・座禅の姿で眠るように亡くなりました。
11月21日、88歳の生涯でした。

そして死の間際にこう一言・・・
「しにとうない・・・」
悟りを得た高僧とは思えない・・・人間らしい、一休らしい最期の言葉でした。

一休辞世の詩・・・
「長い間花の下で 詩情を磨いてきた
 わしの一生涯の風流は、無限の情の中にあるのだ」

そんな一休を慕い、風流の心を受け継いだ者たち・・・
茶道・村田珠光、連歌・宗祇をはじめ、俳諧師や絵師たちなど・・・今に伝わる日本文化のパイオニアたち・・・
一休の美意識と精神は、文化となって連綿と受け継がれていったのです。

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京都にある等持院は、室町幕府将軍家・足利家の菩提寺です。
そこに納められている木像の中でひときわ異彩を放っているのが三代将軍・足利義満です。
この木像、江戸末期の文久3年、天皇を敬う尊王攘夷派に首を奪われ、三条河原に晒されるという災難に見舞われています。
義満が天皇を超えたために、逆賊の象徴とされてしまったのです。

1338年、足利尊氏は京都に幕府を開き、新たな武家政権を樹立しました。
二代将軍・義詮に嫡男・義満が生まれました。
義詮は病弱で、他人の意見に翻弄されやすく、尊氏は義詮の代で足利家は終わるのではないか??と、危惧していたと言います。
そのため、幼いころから聡明だった義満は大切に育てられました。

1367年二代将軍義詮が38歳で亡くなると、家督を譲られた義満は、周りの期待を一身に背負い・・・1369年三代将軍となったのでした。
若くして武家の頂点に立つのでした。


武家の頂点に立った義満は、祖父も、父も成しえなかった高みへと・・・!!
武家でありながら公家の頂点に立つ事・・・!?
当時の幕府は、武力によって地方を抑え、政を行っていましたが、人事などの許可は朝廷にあったので、自由に物事を進めることはできませんでした。
公家社会に入り込むことで、朝廷を意のままに操ろうと画策します。
しかし、朝廷では、多くの儀式が古いしきたりの元行われていて、容易に入っていくことができません。
そこで・・・義満は儀礼や作法を貪欲に学びます。
そのかいあって、16歳で宮中の政に参加できる”参議”に任ぜられました。
そして2年後・・・18歳で公家の娘・日野業子を正室に迎えます。
日野家は天皇とのかかわりが深い家・・・人脈を広げ、昇進の足掛かりとするための結婚でした。
次に、金銭を使って公家たちを取り込んでいきます。
当時朝廷が深刻な財政難だったことをいいことに、スポンサーとなって、資金不足で中止になっていた儀式を次々と復活させていったのです。
これを何より喜んだのは後円融天皇でした。
義満は、しばしば御所に呼ばれます。
年齢が同じこともあって、天皇と蜜月関係を築いていきます。
24歳でNo,4の内大臣に・・・!!
義満は、幕府の引っ越しを行います。
それまでは、天皇の御所から離れたところに幕府を置くのが常でしたが、義満は、御所の隣・・・室町に、室町邸を造営・・・花の御所と呼ばれた室町邸・・・室町幕府の名の由来となりました。

自らの権力の基盤を整えた義満は、さらに朝廷へと食い込んでいきます。
武家の身分でありながら、公家の改革に臨みます!!

①義満が行う儀式への公家の全員参加(高額チップを渡します)
②儀式の遅刻者への処罰(当時の朝廷は遅刻が横行)

足利義満と後円融天皇は、母親同士が姉妹といとこ同士だったために蜜月関係を結んでいました。
なので、後円融天皇は25歳でわずか6歳での後小松天皇に位を譲り、後円融上皇となります。
翌年、宮中で事件が・・・後円融上皇が妃の一人・巌子を突然刀のみねで殴るという暴挙に出ました。
原因は、義満の女好き・・・義満は、気に入った女性がいると身分や家柄に関係なく、手当たり次第に関係を持つほど奔放でした。
後円融上皇の元を訪れるときは、必ず巌子の元も訪れていたので、上皇は二人の密通を疑い暴力に及んだのです。
事件を聞き、義満は誤解を解こうとすぐに使者を出しました。
しかし、上皇はこれを・・・自分の行為に対して怒った義満が流罪にするのでは・・・??と、恐れ、宮廷内のお堂に立てこもり、自殺未遂を図ります。
どうして勘違いしたのでしょうか・・・??
当時、後円融上皇は、幼い息子に位を譲り、院政をしようと考えていました。
しかし、すでに朝廷の実権は義満に奪われていて、後円融上皇の思惑は外れてしまいます。
この時、二人の蜜月は終わっていたばかりか、日毎に大きくなる義満の力に恐れおののいていたのです。
後円融上皇の権威はさらに失墜!!義満はさらに自分を優位にしていきます。
25歳という若さで・・・!!

義満と世阿弥の関係・・・
義満が初めて世阿弥に会ったのは18歳の時・・・
京都の寺社で能舞台を見たときに・・・その美少年を見て一目ぼれ・・・
この時、世阿弥の父・観阿弥が、わざと世阿弥の顔を義満に見せようと、能面を途中で付ける演目を選んだのだそう・・・当時の猿楽師は河原者と言い、農民よりも低い身分でした。
なんとか引き立ててもらおうと思ったようで・・・まんまと引っかかってしまった義満です。
それ以来、義満は世阿弥のパトロンとなり、教養も与え・・・大衆芸能だった能を大成させます。
観阿弥、してやったり!!
そして義満は、芸術、文化のパトロンとなることで、自分が権力の中心にいることを世に知らしめたのです。
義満は、僧侶フェチでもありました。
僧侶の格好をして外出していたと言います。

朝廷を支配するまでになった義満ですが、完全に日本を掌握していたわけではありません。
というのも、吉野に南朝があったからです。
足利尊氏以来、幕府が支持していたのが京都の北朝、吉野には後醍醐天皇の南朝があり、対立を続けていたのです。
義満は、足利家悲願の南北朝の合一に乗り出します。
カギを握るのは三種の神器!!
朝廷が分裂する際に、皇位継承の証とされる三種の神器は南朝に渡っていました。
義満は、これを北朝の手に・・・と目論みます。
義満は南朝側に申し入れます。
「これからは、北朝と南朝、交互に皇位を継承していきましょう。
 そこでまず、一度、三種の神器を北朝に渡していただけませんか?」と。
この時、南朝を支持する武家勢力が弱まっていたこともあって・・・後亀山天皇はこれを受け入れます。
義満35歳・・・こうして三種の神器は、50年ぶりに北朝に移され、後小松天皇が合一初の天皇となったのです。
しかしその後、南朝が皇位を継承することはありませんでした。
約束を反古にさせてしまった義満の狡猾さ・・・
そんな義満には幸運も・・・!!

合一の翌年、後円融上皇が崩御!!
すると義満は、実質上の上皇として、朝廷内で振る舞うようになります。
その翌年の1394年、将軍職を義持に譲ると、義満は紅顔蕪村な態度に・・・
元服した義持に対し朝廷は、通例に倣い初めての官位である従五位下を与えようとします。
が・・・激怒した義満!!
従五位下では低すぎると、公家の名門の摂関家が始めてもらう正五位下を要求したのです。
義満の怒りを恐れた朝廷は、義持に「正五位下」を与えてしまいます。
さらに・・・この騒動の責任を取って太政大臣が辞官・・・
これ幸いとその地位についたのは・・・義満でした。
武家で太政大臣となったのは、平清盛以来、227年ぶりの事でした。
義満は、名実ともに、公家政権のTOPとなったのでした。
しかし、1395年太政大臣を辞して出家
義満の家系は短命で・・・父・義詮は38歳で他界しています。
出家することによって、自分の寿命を延ばすようにと考えたようです。

2016年7月、義満の巨大な権勢を裏付ける発見がありました。
鹿苑寺の敷地内から、青銅製の破片が・・・塔の最上部に取り付ける装飾”相輪”でした。
直径が2mから2.5mと推測され、東寺の五重塔(相輪の直径1.6m)を上回るものと思われます。
東寺の五重塔をはるかに上回る塔・・・北山大塔と思われます。
遺物が全く発見されていなかった幻の北山大塔・・・??
義満はほかにも、相国寺の境内に七重塔(高さ109m)を作ったとか・・・
何のために、巨大な塔を作ったのでしょうか??
それは、白河天皇が建てた巨大な法勝寺の塔を超えるものを作りたいと考えていたようです。
白河天皇は平安時代後期、40年以上にわたって、朝廷の実権を握った人物です。
その白河天皇が建てた法勝寺の八角九重塔は高さが81mあり、まさに、権力の象徴でした。
そこで義満は、これより大きいものを作ることで、もはや天皇を凌駕していることを証明したかったのです。
この完成を祝う落慶法要では、延暦寺をはじめとする1000人もの僧侶が出仕、義満自らが法要の中心役となりました。
そして、相国寺から金閣寺までの路地に灯篭を設置し、ひかりの道も作りました。
盛大な法要にはもう一つ狙いがありました。
相国寺は禅寺ですが、延暦寺や東大寺など旧勢力の僧侶を参加させます。
彼らの前で儀式を取仕切ることで、仏教界でも中心であることを知らしめようとしたのです。
こうして義満は、仏教勢力をも支配下に治めることになりました。

1397年北山第を造営。
そこは、義満が暮らしていた室町や、御所から離れた洛外です。
北山第から南北へ延びる大きな道を作り、幕閣、公家、僧侶などを移り住まわせます。
そこには義満の広大な計画が・・・??
既存の、天皇、将軍と離れた権力を築こうと思っていたようです。
弱体化していたとはいえ、朝廷は権力の象徴でした。
幕府がその近くにあると、朝廷の一部と思われてしまう・・・そこで、義満はあえて、朝廷から離れたところに権力基盤を置こうとしました。そして、自分がその絶対権力になろうとしたのです。
北山第は、政治だけでなく、貴族たちの社交の場となり、北山文化が花開くことになります。

残す悲願は、明との貿易!!
十代の頃から手をこまねいていた・・・実現までに30年を要した悲願です。
当時の明は、倭寇の対策として、貿易を制限・・・
正式に国王と認めたものとだけ、朝貢という形で貿易をしていました。
朝貢とは・・・中国の皇帝に貢物をして返礼をもらう・・・というもので、日本ではその珍しい品々で莫大な利益を得ることができました。
義満が明との貿易に動き出したのは16歳の時でした。
明国初代皇帝・洪武帝に三代将軍として初めて国書を持たせた使者を派遣します。
しかし、日本国王のものではないと使者が追い返されてしまいます。
というのも、九州で勢力を持っていた南朝方の懐良親王を日本国王と認め、貿易を行っていたからです。
義満は、朝廷内での地位を確立させ、南北朝を合一させ・・・機会を狙っていました。
そして、1398年、41歳の時・・・洪武帝が亡くなり、二代皇帝・建文帝の時代へ・・・!!
そこで、1401年満を持して再び明に使者を派遣・・・
翌年・・・建文帝の使者がやってきました。
明との貿易を望む義満・・・使者との対面には問題が・・・
明の使者は、貿易をするなら朝貢という形で・・・支配下に下るという意志が必要でした。
しかし、へりくだった姿勢を見せれば、これまで国内で築いてきた権威が失墜してしまう・・・!!

当時の資料によると・・・
義満は、位の高いほうが据わる北側に座り、明の使者に対し尊大な態度で接していました。
使者への接見儀礼も・・・
明の定めでは、国書の前で5回拝礼することになっていましたが、義満は慣例を破り3回しか行いませんでした。
拝礼をすることで、使者に敬意を払うも、3回に納めることで、明の言いなりではないという姿勢を国内に示したのです。
こうして滞りなく進め、新しく皇帝となった永楽帝に国書を送ります。
そして遂に、永楽帝が義満を正式に日本国王と認めたのです。
義満46歳・・・最初の国書から30年、念願の国交を樹立し、明との貿易を独占することで莫大な富を得、富と権力を維持!!
室町幕府は絶頂を迎えます。

しかし、数年後奇怪な事が・・・
1408年2月6日・・・義満の御所の東門で100とも1000ともいわれるカエルの鳴き声が・・・
2月というカエルが冬眠している時期に・・・!!
不吉だ・・・と、誰もが思いました。
義満の人生に暗雲が・・・??
1408年4月下旬、権勢をほしいままにしていた義満が、突如病に・・・!!
1週間ほどであっけなくこの世を去ってしまいました。
1408年5月6日51歳、栄華を極めた男の死に、毒殺説が・・・!!

暗殺を疑われるには理由があります。
義満が大上天皇=上皇の座を狙っていたからです。
大上天皇は、天皇を務めた者だけがなれる特別な尊号のですが・・・
皇族でもない義満が名乗ることはできません。
しかし、上皇の尊号を手に入れようとする義満・・・。
後小松天皇の父・後円融上皇が亡くなった14年後、生母・巌子が亡くなります。
天皇の在位中に両親が亡くなるのは不吉なことと考えられていたので、形式上母を置くことが習わしとなっていました。
そこで義満は、自分の妻・康子を天皇の形式上の母・・・つまり、自ら天皇の義理の父になることで、上皇の資格を得たと主張したのです。
さらに、家督を継いだもの以外は出家するという公家の習わしを破り、四男・義嗣を還俗させ、親王並みの待遇で元服させました。
これに対し、義満は義嗣に天皇を継がせようとしているのではないか・・・??と、疑われます。
こうした行動から天皇家の乗っ取りを恐れた公家たちによって毒殺されたのでは・・・??と言われていますが、本当に暗殺だったのでしょうか・・・??

毒殺説の根拠である「大上天皇」の尊号を要求・・・しかし、尊号は敬称の一種に過ぎず、皇位継承に関係するものではない。
息子・義嗣を天皇にしようにも、その血筋でない義嗣が天皇になることはあり得ない。
公家たちもわかっているので、暗殺には至らないのでは・・・??
死因は、流行性の病ではないか??と言われています。

武士、公家、宗教界・・・を制し、絶対的な権力を富を得た義満・・・
朝廷は・・・死してなお義満を恐れたのか?崇敬の念からか・・・太上天皇という尊号を送りますが、四代将軍・義持と幕府はこの称号を返却してしまいます。

あまりに強大な権力を持っていた義満の存在は、その死後、朝廷との関係を重視する幕府によって消し去られてしまうのです。
飴と鞭を巧みに使い分ける義満の人生は、この世をも凌駕する勢いで駆け抜けました。
実に、密度の濃い人生でした。


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