日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:後村上天皇

1350年~52年、室町時代草創期・・・朝廷が二つに分かれ、南北城時代とも言われた頃、幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発しました。
観応の擾乱です。
相対したのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏と、弟・直義です。
兄弟げんかが日本の武士たちを巻き込みました。

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1336年、足利尊氏は京に室町幕府を開きました。
しかし、政務にはほとんど干渉しませんでした。
尊氏が担ったことと言えば、軍事を取りまとめること。
そして、武士たちの手柄を査定する論功行賞を行い、恩賞を与える”恩賞充行権”を執行することでした。
代わりに政務全般を引き受けたのが、2歳年下の弟・直義でした。
所領の裁判や、寺社勢力との土地をめぐる交渉などを一手に引き受けました。
まさに、兄弟二人三脚で歩み出した室町幕府・・・
このまま順調にいくかと思われました。
しかし・・・幕府内に、不協和音が聞こえてきました。

原因は、直義と幕府の重臣・高師直との対立でした。
高師直は、主君・足利尊氏に従い、各地を転戦・・・室町幕府樹立に貢献した武将です。
将軍に次ぐナンバー2の役職である執事(のちの管領)として、幕府を支えていました。
最も重要な仕事は、尊氏が出す恩賞に関する文章を発給すること・・・
さらに、京の北朝と吉野の南朝・・・二人の天皇が存在する中、幕府が支持する北朝との交渉を行っていました。
そうした師直の幕府内での権力を、さらに強める出来事が起こります。
南朝を樹立した後醍醐天皇の意思を継いだ後村上天皇が、幕府を倒そうと画策します。
その動きに呼応して、1347年、南朝方の楠木正行が挙兵!!
尊氏は、すぐに討伐軍を派遣します。
しかし、大敗を喫してしまいました。
そこで、戦を得意とする師直を、討幕軍の大将として出陣させることにしました。
すると、師直は、見事楠木軍の城を攻め落としました。
さらに、勢いそのままに、後村上天皇のいる吉野にも兵を差し向け、皇居・公家の邸宅、寺社まで焼き払いました。
こうした師直の活躍によって、幕府は危機を回避、その軍功によって師直は忠直より力を得て・・・
尊氏がやっていた論功行賞まで行うようになったのです。
しかし、師直の恩賞の与え方は、配下の武士たちにとって問題がありました。

全ての武士を満足させられるほどの恩賞が与えられたわけではありませんでした。
それに不満を持った武士たちの多数が、直義を支持したことが対立を長引かせる原因にもなりました。
当時の武士たちにとって、領地が与えられる恩賞は、何より重要です。
その為、恩賞次第で誰につくかを決めていました。
さらに、直義は、師直が論功行賞にまで関与するようになったことに、苛立っていました。
そんな中、直義の腹心・上杉重能・畠山直宗が、直義が信頼を寄せる僧侶を通じて師直の悪行を密告してきたのです。

「天皇は木や金で作った人形で十分
 生身の天皇は、遠くに流してしまえ!!」by師直

これは、幕府内で権勢をふるう師直に嫉妬した二人による捏造でした。
ところが、直義は、信頼していた僧侶から聞いたため、これを信じてしまったのえす。

1349年6月、直義は、上杉や畠山らと密かに師直の殺害計画を練り始めます。
それは、100人以上の武士を配し、師直を襲わせるというものでしたが・・・
この計画は、事前に師直の知る処となって失敗に終わります。
すると直義は、将軍である兄・尊氏に直談判に出ました。

「師直が、悪行の限りを尽くし、困っております
 執事の罷免をお願いしたく・・・」

「よし、わかった」

尊氏は、弟・直義の言葉を信じました。
師直は、執事を解任され、所領も没収・・・幕府から追放されてしまいました。
しかし、根も葉もない話で追放された師直が黙っているはずがありません。
罷免されてからわずか2か月後、5万を超える兵を引き連れて京に攻め込むというクーデターを決行しました。
危険を感じた直義は、兄・尊氏の邸宅に避難するも師直の軍勢に取り囲まれてしまいます。
師直は、自分を陥れた上杉重能と畠山直宗の身柄の引き渡しを要求します。
すると尊氏は・・・

「なに!!わしにさしずだと??
 家臣に強要されて、下手人を出した前例などあるものか!!
 そんなことをするくらいなら、討ち死にじゃ!!」by尊氏

激高する尊氏を、直義はなんとかなだめました。
そして、腹心である上杉と畠山を越前国に流罪にし、自身も政務から退くことを師直に約束してことを治めました。
師直のクーデターは、対立する忠直の政務引退という当初の要求以上の大成功を収めました。
ところが、師直は、それだけでに止まらず・・・中国地方を統治していた直義の養子・直冬にも兵を差し向けたのです。
直冬はそれに屈し、九州へと逃れました。
さらに師直は、越前国に流されていた上杉・畠山を殺害させたのです。

この直冬・・・尊氏の実の子でした。
ところが、身分の低い側室から生まれた子供だったためか、尊氏に認められず冷遇されていました。
それを見かねた直義が、自分の養子として迎え入れ、とてもかわいがっていたのです。
それなのに・・・自分だけでなく直冬までも・・!!

1349年8月21日、高師直は、再び尊氏の執事となりました。
その2か月後、身を引くことになった足利忠義から政務を引き継いだのは、将軍・尊氏の跡継ぎと目されていた義詮でした。
正式な引継ぎを終えると、直義は出家。
粗末な家に籠り、 ひっそりと暮らし始めました。
ところが、黙っていなかったのが、直義の養子・直冬でした。
逃げ延びた九州で味方を募り、密かにその勢力を拡大!!

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1350年9月、直冬が反幕の兵を挙げたのです。
10月16日、挙兵の報せを聞いた尊氏は、直冬討伐を決意!!
自ら兵を率い、28日に師直と共に九州に向け京を出発することに成しました。
しかし、その2日前、直義が密かに京を出ていたという知らせが舞い込みます。
師直はすぐに尊氏に進言しました。

「なにやら悪い予感がいたします
 あちらも兵を挙げるやもしれません
 出陣を取りやめ、直義殿を探したほうがよろしいかと」by師直

「たとえ兵を挙げたとて、気にするほどではない
 予定通り出陣じゃ!!」by尊氏

尊氏は、直義のことなど気にも留めていませんでした。
当時の直義は、出家・・・直義に味方する武将はいないと、尊氏は考えていました。
それは、尊氏の判断ミスでした。
直義は、京を出ると大和国から河内国の石川城へ入り、次々と味方を集めていました。
打倒・師直!!
直義の師直討伐の劇に応え、各地の武士が次々と挙兵します。
中には、師直の恩賞の与え方に不満を持っていた尊氏派の重臣もいました。
さすがの尊氏も、直義を無視できなくなります。

そんな中・・・直義が禁じ手を出します。
河内国に入った直義が、次に向かった先は、幕府と敵対していた南朝。
直義は、南朝に和睦を申し入れます。
南朝の権威と戦力を利用し、尊氏と師直に対抗するためでした。
直義からの申し出に対し、南朝では激論が交わされます。
そして、直義と手を組むことが、南朝復活のきっかけになると考えます。

直義が南朝と手を組んだことで、師直に不満を抱いていた武士だけでなく、今後南朝が有利になると考えた武士たちが次々と直義側につきました。
そして、1351年1月7日、直義軍は、石清水八幡宮を占拠。
師直を討伐する準備を整えます。

観応の擾乱の幕開けです。
直冬討伐の為、京を出発していた尊氏と師直でしたが、直義は南朝と手を組んだことを知ると、急ぎ戻ります。
1月10日には、山城国山崎に着陣。 
15日には、尊氏の子・義詮も合流しました。
しかし、形勢が直義側に傾くと、尊氏・師直軍の武士たちは次々と直義に寝返っていきました。
尊氏たちは、ますます追い込まれていきました。

2月17日、摂津国打出浜で、直義軍と尊氏・師直軍が激突します。
尊氏・師直軍は、勢いに乗った直義軍によって、完膚なきまでに叩きのめされます。
ところが、この時、戦場に直義の姿はありませんでした。
直義は戦場から遠く離れた石清水八幡宮に留まっていました。
この戦いは、直義にとっては師直を粛清し、排除するのが目的でした。
尊氏と対立するつもりは全くなかったのです。

2月20日、尊氏と直義との間で和睦交渉が行われます。
尊氏は和睦交渉の条件として師直の出家を提案します。
直義はこれに納得し、兄と和睦しました。
その4日後、師直は出家しました。
そして、京に戻る尊氏を追い、師直も出発しましたが・・・その途中で惨殺されてしまいました。
犯行に及んだのは、かつて師直の嘘の悪行を密告し、流罪となり殺された上杉重能の息子の軍勢と言われています。
差し向けたのは、直義だったと言われています。
1351年2月26日、高師直死去・・・。

兄・尊氏と和睦を結んだ直義は、尊氏の子・義詮の政務を補佐するという形で幕府に復帰します。
直義の養子・直冬も、幕府の一員となり、九州の統治を任されました。
全て思い通り・・・そう安堵したのも束の間でした。
次々と誤算が生じます。

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直義の誤算①南朝との和睦
南朝との和睦交渉が行き詰まりを見せます。
直義は、和睦の条件として北朝と南朝がそれぞれ交互に天皇を出し合い一つの朝廷にすることを提案。
しかし、南朝は、自分達が正当な血筋であるから南朝の皇族だけが天皇になるべきだと断固拒否したのです。
1351年5月15日、5か月に及んだ南朝との和睦交渉が決裂してしまいました。
この交渉失敗に対して、直義はその政治力を疑問視され、信用を失っていきます。

②兄・尊氏に恩賞充行権を残したこと
それは、直義が、兄・尊氏と師直軍に勝利し、尊氏と和睦交渉に臨んだ時のこと。。。
敗者であるにもかかわらず、尊氏はこう言い放ったのです。

「わしに従い戦った武士への恩賞を、最優先にすべきであろう」by尊氏

尊氏は、これまでの恩賞は不十分だったからそれを不満に思っていた武士たちが直義に味方をしてそのために配備区したと考えていました。
将軍として恩賞を広く与えれば、直義に味方した武士も自分のもとに戻ると考えたのです。
その為に、恩賞を与える権限だけは死守したかったので、直義に対して強気に出ました。
観応の擾乱において、恩賞問題は大きなカギとなります。
全国規模の大きな戦いへと広がったのは、武士たちが尊氏、直義、どちらにつけばより確実に恩賞をもらえるかというところにありました。
武士に十分な恩賞を与えて満足させないと、自分に従ってくれないことを尊氏は思い知ったのです。
直義は、弟として尊氏に対して遠慮もあり、この戦いを起こした直義の目的は高師直の排除と、直冬の容認でした。
その二つの目標が達成されていたので、極力擾乱以前の体制に・・・政治体制を元通りに戻すことを、直義は望んでいました。
尊氏が強気の態度に出なくても、直義は恩賞を与える権限を残した可能性が高いのです。

しかし、この判断が直義を追い詰めていきます。
尊氏は、勝った直義側ではなく、尊氏側の武士たちへの恩賞を優先します。
直義は、自分の配下の武士へもちゃんと恩賞を与えるように尊氏を説得しましたが、それは叶いませんでした。
勝利に貢献したにもかかわらず、満足な見返りを得ることが出来なかった直義派の武士たちは、大いに失望します。
彼らまで、直義から離れて行きました。
さらに直義の誤算は続きます。
直義に立強いて、尊氏の子・義詮が強く反発するようになりました。

③義詮の反発
義詮は、補佐であるはずの直義が、このままでは自分の立場を奪いかねないと恐れます。
また、一説に、義詮は、自分を将軍の跡継ぎと認めてくれていた師直に恩義を感じていたため、師直を暗殺した直義のことを恨んでいたともいわれています。
義詮は、土地の所領に関する政務や、土地の訴訟をめぐる裁判をする直義に対抗し、午前沙汰という新たな裁判機関を設立します。
土地の問題に関して、独自に対応しました。
直義とは別の方法で・・・!!
所領争いの裁判は、たいていもともと土地を持っていた寺社側が、代わって土地を得た武士皮を訴えることがほとんどでした。
直義は、訴えた寺社側と、訴えられた武士側双方の言い分を聞き、土地の所有に関する文書を吟味して裁定を下していました。
ところが、義詮は、訴えた寺社側の言い分だけを聞いて裁定。
裁判のスピード化を図ったのです。
これに喜んだ寺社も、直義から離れていくことに・・・
直義は、幕府内で孤立を深めていったのです。

1351年7月19日、直義は、兄である将軍・足利尊氏に政務からの引退を申し入れます。
尊氏は、直義を説得し、引退だけはとどまらせたものの、もはや直義に、政治への熱意や意欲はありませんでした。
同じ頃、南朝が幕府から寝返った武士たちを味方につけたことで、勢いを取り戻し、各地で挙兵します。
尊氏は、南朝軍を討伐するべく、京を出陣!!
多くの兵が付き従いました。
その為、直義は留守を任されることになります。
なんとも不可解な行動に出ます。
深夜・・・京を出て、北陸に向かいました。
通説では、直義は、兄・尊氏の出陣を南朝軍討伐のためではなく、自分を包囲し殲滅するためと考えていたというのです。
だから、夜陰に乗じて京を出たのだと・・・!!
直義と南朝の講和の死牌によって、全国各地の南朝方の武士たちが挙兵をしました。
尊氏派も対処するために京を出ています。
それを自分を討つためだと誤解したのです。

尊氏は、直義が京を離れたことを知ると、大急ぎで京に戻り、使者を北陸に派遣!!
直義に戻ってくるように伝えました。
しかし、尊氏の説得にもかかわらず、直義は帰ってきませんでした。
そのうちに、足利の兄弟たちがたもとを分かったと噂が広まったのか・・・
幕府だけでなく、全国の武士たちが尊氏派と直義派に分かれて各地で戦乱を起こしたのです。
尊氏の歌には・・・

”おさまれと
  わたくしもなく
      祈るわが
心を神も
    さぞ守るらむ”

戦わなくてもいい相手でした。
どうか、今すぐにでも戦が終わってほしい・・・
尊氏はただそう祈ったのです。
しかし・・・1351年9月12日、尊氏と直義の和睦がなってからわずか7か月後のこと。
二人は再び戦うことになってしまいました。
両軍は、琵琶湖の北東にある八相山で激突!!
地の利を得た武士たちが多くいた尊氏軍が勝利しました。

1351年10月2日、近江国錦織興福寺で、尊氏派直義と和睦交渉を行います。
しかし、話し合いは決裂しました。
すると、尊氏は意外な行動に出ます。
なんと、南朝との和睦交渉を始めたのです。
敵対していた尊氏の突然の申し出に、南朝は困惑します。
しかし、尊氏が、今後天皇は南朝の皇族のみから即位させると提案したことで、話しはまとまりました。
どうして、尊氏は南朝と手を組むことにしたのでしょうか?
最大の理由は、直義と講和するというのが最終目標でした。
尊氏は、直義が失敗した南朝との和睦を実現することで、直義と和睦するつもりだったのです。

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感想(31件)



1351年11月3日、尊氏の子・義詮が幕府側の使者となり南朝との和睦を締結。
その内容は、おおむね尊氏の提案通りでしたが、尊氏は不満をあらわにします。
なぜなら、南朝との和睦の条件の中に、直義を追討せよという命令が含まれており、義詮がその条件を受け入れてしまったからです。
しかし、この条件で南朝との和睦は成立。
その翌日、11月4日、尊氏は直義追討の兵を挙げ、京を出発します。
義詮は直義を武力で倒すため、父・尊氏と共に出陣することを考えていました。
尊氏はすべて断っています。
義詮をつれて行くよりも、単独の方が直義と和睦できる余地があると考えたのです。
尊氏は最後の最後まで、直義と講和を諦めずに実現させようとしていました。

直義は、北陸を経由して鎌倉に向かっていました。
11月15日、直義は鎌倉に到着します。
尊氏もまた鎌倉に向かっていました。
11月29日、駿河国薩埵山に3000の兵で布陣。
直義軍も大軍を率いて鎌倉を出発し、尊氏軍を包囲します。
血を分けた兄弟の最後の決戦・・・そこに直義の姿はありませんでした。
直義は、薩埵山から離れた伊豆国府に籠り、そこから一歩も動こうとはしませんでした。
この時、直義が詠んだと言われる歌が残っています。

”暗きより
 暗きに迷う
    心にも
 離れぬ月を
   待つぞはかなき”

何故兄と戦わなくてはならないのか?
どうしてこんなことになってしまったのか?
和睦を拒否した直義でしたが、最期まで兄・尊氏と戦うことなどできなかったのです。
尊氏もまた同じ気持ちでした。
薩埵山に布陣したまま、兵を進めようとはしなかったのです。
そんな中、京にいた尊氏の子・義詮は、関東の武士たちに使者を送り、味方になるよう促しました。
これに、下野国の宇都宮氏などが呼応し、12月15日、尊氏軍として参戦!!
これによって一気に直義軍は劣勢に立たされ、薩埵山から撤退。

1352年1月、ついに、直義は降伏しました。
鎌倉浄妙寺・・・兄・足利尊氏との戦いに敗れた直義は、この寺に幽閉されることになりました。
すると、直義の体調は、そこから急激に悪化。
1352年2月26日、奇しくも宿敵・高師直を暗殺した日からちょうど1年後、直義は46歳でこの世を去ったのです。

この時、兄・尊氏はまだ鎌倉にいました。
戦後処理のため、鎌倉に腰を落ち着け、東国の統治に専念することにしたのです。
しかし、弟の最期に立ち会ったのか、わかっていません。
望まない戦いを続けなければならなかった兄弟・・・
最愛の弟への弔いの気持ちが消えることはなかったはずです。

室町幕府を二つに引き裂いた観応の擾乱・・・
この戦が、後の幕府を大きく変えたといいます。
擾乱以前に比べて、積極的に武士に恩賞を与えるようになりました。
武士の室町幕府への忠誠や支持が高まり、政権の基盤が強化されました。
南北朝の内乱が収束し、室町幕府の覇権が確立する・・・そんな意義のある戦乱でした。

また、全国規模で戦乱が起こったことから、武士の数が飛躍的に増加。
江戸時代まで続く武士中心の社会は、観応の擾乱から始まったといえるのです。

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感想(17件)



観応元年~3年(1350~52)・・・室町時代草創期、朝廷が二つに分かれ南北朝時代と言われたころ・・・
幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発・・・世にいう観応の擾乱です。
相対したのは室町幕府初代将軍・足利尊氏とその弟・足利直義です。
兄弟喧嘩が全国の武士を巻き込んだのです。

1336年、足利尊氏は京に室町幕府を開きます。
尊氏は政務にはほとんど介入せず、尊氏が執り行ったのは軍事を取りまとめることでした。
武士たちの手柄を査定する論功行賞を行い、恩賞を与える権利(恩賞充行権)を執行することでした。
代わりに政務に当たったのは弟・直義・・・所領の裁判や寺社勢力との土地をめぐる交渉などを一手に引き受けていました。
まさに、兄弟二人三脚で歩み出した室町幕府。
このまま順調に行くと思われましたが・・・幕府内に不協和音が!!
原因は、直義と幕府の重臣・高師直との対立でした。
高師直は主君・足利尊氏に従い、各地を転戦・・・室町幕府樹立に貢献した武将でした。
将軍に次ぐNo,2の執事(のちの管領)として幕府を支えていました。
最も重要な仕事は、尊氏が出す恩賞に関する文書を発給すること。
さらに、京の北朝と吉野の南朝を二人の天皇が存在する中、幕府が支持する北朝との交渉を行っていました。

そうした師直の幕府の権力をさらに強める出来事が・・・
南朝を樹立した後醍醐天皇の遺志を継いだ後村上天皇が幕府を倒そうと画策。
その動きに呼応して・・・1347年河内国で南朝方の楠木正行が挙兵。
尊氏はすぐに討伐軍を派遣しますが、大敗を喫してしまいました。
そこで・・・戦を得意とする師直を、討伐軍の大将として出陣させることに。
すると師直は、1348年1月、見事に楠木軍の城を落としたのです。
さらに、勢いそのままに南朝の後村上天皇に兵を差し向け・・・皇居、公家の邸宅、寺社まで焼き払いました。
こうした師直の活躍によって幕府は危機を回避・・・その軍功によって師直は直義をも凌駕する力を得るように・・・
尊氏が行っていた論功行賞まで行うようになりました。
しかし、師直の恩賞の与え方は問題があったようで・・・
すべての武士を満足させられるほどの恩賞が与えられてはいませんでした。
不満を持った武士たちが、直義につき、高師直との対立を深めたのです。
唐居jの武士たちにとって領地の与えられる恩賞は、何よりも重要でした。
そのため、恩賞次第で誰につくかを決めていました。
さらに直義は師直が論功行賞まで口を出すことにいら立っていました。
そんな中、直義の腹心だった上杉重能と、畠山直宗が直義が信頼を寄せる僧侶を使通じて師直の悪行を密告してきたのです。
師直がこんな暴言を吐いていると・・・
「天皇は、木や金で作った人形で十分・・・生身の天皇は、遠くに流してしまえ」
しかし、これは師直に嫉妬した二人のねつ造でした。
ところが直義はこれを信じてしまいます。

1349年6月、直義は上杉や畠山らと師直殺害計画を立てます。
それは、100人以上の兵を配し、師直を襲わせるというものでしたが・・・この計画は師直の知るところとなって計画は失敗に終わります。
すると直義は、兄である尊氏に直談判に・・・!!
尊氏は弟の言葉を信じます。
師直は執事を解任され、所領も没収・・・幕府から追放されてしまいます。
罷免されてからわずか2か月後・・・師直は5万を超える兵を率いて京に攻め入るというクーデターを決行します。
危険を感じた直義は、兄・尊氏の屋敷に避難するも、師直の軍勢に取り囲まれてしまいます。
師直は、自分を陥れた上杉重能と畠山直宗の身柄の引き渡しを要求・・・

すると尊氏は・・・
「わしに指図するのか??
 家臣に強要されて下手人を出した先例などあるものか?!
 そんなことをするくらいなら討死じゃ!!」
激高する尊氏を何とか治める直義・・・
そして腹心である上杉と畠山を越前国に流罪にし、自身も政務から引退することを師直に約束し、事を治めたのです。
師直のクーデターは、対立する忠直の政務引退という当初の要求以上の大成功を治めます。
しかし、師直はそれにとどまらず、中国地方を統治していた直義の養子・直冬にも兵を差し向けたのです。
ただ冬はそれに屈し、九州へと逃れます。
さらに師直は、越前に流されていた上杉と畠山を殺害させたのです。

九州へと追いやられた直冬は、尊氏の実の子でした。
ところが身分の低い側室から生まれた子であったためか、尊氏に疎まれ、実の子として認められないなど冷たく当たられていました。
それを見かねた直義は直冬を養子にし、可愛がっていました。
それなのに・・・自分だけでなく直冬まで追いやられるとは・・・!!

1349年8月21日、高師直は、再び執事に返り咲きました。
その2か月後・・・身を引くことになった直義の跡を継いで政務に綾ることとなったのは、尊氏の子・足利義詮でした。
正式な引継ぎを終えると直義は出家し、粗末な家でひっそりと暮らしたのです。
ところが、黙っていなかったのが直義の養子・直冬でした。
九州で味方を募り、勢力を拡大!!
1350年9月、直冬が反幕の兵を挙げます。
10月16日、足利尊氏は直冬討伐を決意!!

自ら兵を率いて28日に師直と共に九州に向け京を出発することに・・・
その2日前・・・直義が密かに京を出ているという知らせが舞い込みます。
師直は、直ちに尊氏に進言します。

「悪い予感がいたします。
 あちらも兵を挙げるやもしれませぬ。
 出陣を取りやめ、直義殿を探した方がよろしいかと・・・」by師直

「予定通り出陣じゃ!!」by尊氏

尊氏は直義のことなど気にも留めていませんでした。
出家した直義に味方する武将などいないと思っていたのです。
それは尊氏の判断ミスでした。
直義は京を出ると石川城へ・・・次々と味方を集めていたのです。
打倒師直!!
各地の武士が次々と挙兵!!
中には師直の恩賞の与え方に不満を持っていた尊氏派の武将もいました。
さすがの尊氏も無視できなくなり・・・直義はさらに禁じ手を・・・!!

河内国に入った直義が向かったのは、幕府と対立していた南朝!!
直義は軟調に和睦を申し入れたのです。
直義は、南朝と手を組むことで、その権威と戦力を利用して尊氏と師直に対抗しようとしたのです。
直義の申し出に南朝では激論が交わされましたが、ここで直義と手を組むことが南朝復活のきっかけになると考えました。

直義が南朝と手を組んだことで、武士たちが直義側にもつくことに・・・
1351年1月7日、直義軍は、京の石清水八幡宮を占拠、師直討伐の準備にかかります。
観応の擾乱の幕開けです。
直冬討伐のために京を出発していた尊氏と師直でしたが、直義が南朝と手を組んだことを知ると急いで戻ります。
1月10日には、山城国山崎に着陣。
15日には義詮も合流します。
しかし、形勢が直義軍に傾くと、尊氏・師直軍は寝返り始めました。
尊氏たちはますます追い込まれることに・・・



そんな中、1351年2月17日、摂津国新出浜で直義軍と尊氏・師直軍が激突!!
尊氏・師直軍は、直義軍に完膚なきまでに叩きのめされるのです。
観応の擾乱第一章は、直義軍の勝利でした。
ところがこの時、戦場に直義の姿がありませんでした。
遠く離れた石清水八幡宮で傍観していました。
直義は師直を粛正し、排除するのが目的で、尊氏と敵対するつもりは全くなかったのです。
2月20日、尊氏と直義の和睦交渉が行われました。
尊氏は和睦の条件として師直の出家を提案し、直義はそれを受け入れます。
その4日後、師直は出家・・・京に帰る途中で斬殺されてしまいます。
犯行に及んだのは、かつて師直に貶められた上杉重能の息子の軍勢と言われています。
差し向けたのは直義だったともいわれています。
1351年2月26日、幕府のNo,2、高師直死去。
その死はあまりにも酷いものでした。

兄・尊氏と和睦を結んだ直義は、尊氏の子・義詮の補佐として幕府に復帰します。
直義の養子・直冬も、幕府の一員となり九州の統治を任されます。
すべて思い通り・・・安堵したのもつかの間、誤算が生じていきます。

直義の誤算①南朝との和睦
南朝との和睦交渉が行き詰まります。
直義は和睦の条件として南朝と北朝がそれぞれ交互に天皇を出し合い一つの朝廷にする・・・ところが、南朝はこれを断固拒否!!
5月15日、5か月に及んだ和睦交渉決裂!!
この交渉失敗によって、直義は幕臣たちからその政治力を疑問視され、信頼を失います。

直義の誤算②恩賞の権限
尊氏に恩賞充行権を残していました。
敗者であるにもかかわらず尊氏は・・・
「わしに従った武士への恩賞を最優先にすべきであろう」と言ったのです。
尊氏は将軍として恩賞を広く与えれば、直義に味方した武士も自分のもとに戻ると考えたのです。
恩賞を与える権限だけは死守したかったので、直義に対して強気に出たのです。
武士に十分な恩賞を与えて満足させないと、自分に従ってくれないことを尊氏は思い知ったのです。
直義の目的は、師直の排除と直冬の容認にありました。
擾乱以前の体制に戻すことを望んでいたので、恩賞充行権を取り上げなかったのです。
しかし、この判断が直義を追いつめていきます。

尊氏は、勝った直義側の恩賞よりも、負けた自分の武士の恩賞を優先します。
直義は自分の配下の者にも平等にというものの・・・それは叶えられませんでした。
勝利に貢献したにもかかわらず、満足に恩賞を与えられなかった武士たちは大いに失望します。
彼らまで直義から離れていきました。

さらに直義の誤算は続きます。
直義の誤算③義詮の反発
義詮が強く反発するようになります。
義詮は補佐の直義が自分の立場を奪いかねないと畏れます。
一説に義詮は自分を将軍に・・・とした高師直に恩義を感じていたので、直義を恨んでいたともいいます。
義詮は土地の所領に関する政務、土地の訴訟をめぐる裁判を管轄する直義に対し、御前沙汰という裁判機関を新しく設けます。
義詮は土地の問題に関して独自に対応したのです。
直義とは別の方法で・・・!!
所領争いの裁判は、元々土地を持っていた寺社側が、代わって土地を得た武士側を訴えるのが殆どでした。
直義は双方の言い分を聞き、吟味して裁定していました。
しかし義詮は寺社側の訴えのみを聞いて裁定。
裁判のスピード化を図ったのです。
これに喜んだ寺社側も直義から離れていき・・・幕府内で孤立を深めていきます。

相次ぐ誤算によって信頼を失った直義・・・
7月19日、直義は尊氏に対し、政務からの引退を申し入れます。
尊氏は直義を説得し、引退だけはとどまらせたものの・・・直義に、政治に対する熱意や意欲はありませんでした。
同じころ・・・南朝が幕府から寝返った武士たちを取り入れたことで力を盛り返し、各地で挙兵したのです。
尊氏は南朝軍を討伐する為に京を出陣!!
多くの武士たちが付き従いました。
そのため、直義は留守を任されることとなりましたが・・・不可解な行動に出ます。
深夜、京を出て北陸へ向かいます。
どうして京を離れたのでしょうか?
直義は、兄・尊氏の出陣は南朝を倒すためではなく自分を包囲する為に、殲滅する為に出陣したのだと考えたのです。
夜陰に乗じて京を出たのです。
それは、直義の誤解ではなかったか??
直義と南朝の講和(和睦交渉)の失敗により、全国各地の南朝方の武士が挙兵したのです。
南朝の武士を討つための尊氏の挙兵を直義は自分を討つためだと誤解したのです。

尊氏は使者を北陸に送り、直義に戻ってくるように説得します。
しかし・・・尊氏の説得にもかかわらず、直義は帰ってきませんでした。
そのうち・・・全国の武士が高氏派、直義派に分かれて、各地で戦乱をおこします。

おさまれと わたくしもなく 祈るわが
    心を神も さぞ守るらむ      by尊氏

闘わなくてもいい相手でした。
早く戦いが終わってほしい・・・

しかし、9月12日尊氏と直義の和睦が成ってからわずか7か月後・・・再び戦うことに・・・!!
二人は琵琶湖の北東にある八相山で激突!!(八相山の戦い)
地の利を得た武士がいた尊氏軍が勝利します。

10月2日、近江国錦織興福寺で和睦交渉を行います。
話し合いは決裂・・・尊氏は・・・??
南朝との和睦交渉を始めます。
敵対していた尊氏に南朝は困惑・・・しかし、尊氏が、今後天皇は南朝の皇族からのみ即位させると提案したことで話はまとまります。
どうして南朝と手を組むことに・・・??
尊氏は直義が失敗した南朝との和睦を実現することで、直義と和睦するつもりだったのです。

11月3日、尊氏の子・義詮が幕府の使者となり、南朝との和睦を締結。
その内容はおおむね尊氏の提案でしたが・・・尊氏は不満を露にします。
そこには、直義を追討せよという文字があり、義詮がその条件を受け入れてしまったのです。
しかし、この条件で南朝との和睦が成立・・・
11月4日、尊氏は京を出発・・・弟直義追討の兵を挙げるのです。

義詮は直義を武力で倒すため、尊氏と共に出陣を希望していました。
尊氏はすべて断っています。
義詮を連れて行くよりも単独の方が直義と和睦できる余地があると考えていたのです。
最後の最後まで、講和を諦めていませんでした。

直義は・・・??
北陸を経由して鎌倉に向かっていました。
11月15日、配下の武士・上杉氏の本拠地・鎌倉に到着。
11月29日、駿河国薩埵山に尊氏軍が3000の兵で布陣!!
大軍を率いて直義も鎌倉を出発し、尊氏軍を包囲します。最後の決戦・・・!!
そこに、直義の姿はりませんでした。
直義は伊豆国府に籠り、そこから一歩も動こうとはしませんでした。
この時直義が読んだ歌が・・・

暗きより 暗きに迷う 心にも
       離れぬ月を 待つぞはかなき   by直義

どうして兄と戦わなくてはならないのか?
どうしてこんなことになってしまったのか?
兄と戦うことはできませんでした。
そして尊氏もまた・・・薩埵山に布陣したまま動こうとはしませんでした。
そんな中、義詮は関東の武士たちに使者を送り、味方になるように促します。
12月15日、これに下野国の宇都宮氏が挙兵し、尊氏側につきました。
一気に直義軍が劣勢に立たされ撤退・・・。
1352年1月・・・直義降伏・・・ついに観応の擾乱第二章は、尊氏軍の勝利に終わります。

鎌倉浄妙寺・・・兄・尊氏との戦に敗れた直義はこの寺に幽閉されることに・・・
直義の体調は悪化・・・
2月26日、奇しくも高師直を暗殺してからちょうど1年後・・・直義は46歳でこの世を去ったのです。
この時、兄尊氏はまだ鎌倉にいました。
戦後処理のために鎌倉に腰を落ち着け、東国の統治に専念することにしたからです。
しかし、弟の最期に立ち会ったのか・・・??それはわかっていません。

室町幕府を二つに引き裂いた観応の擾乱・・・後の幕府を大きく変えます。
積極的に武士に恩賞を与えるようになりました。
武士の室町幕府への忠誠や支持が強まり、政権の基盤が強化されました。
南北朝の争乱が集結し、室町幕府の覇権が確立する意義のある戦乱でした。

全国規模で戦ったことで、武士の数が増加!!
江戸時代まで続く武士中心の世界は観応の擾乱から始まったといえます。



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