4月30日、先の天皇陛下は退位され、令和時代を担う新しい天皇が即位されました。
天皇の生前退位は、江戸時代以来実に200年ぶりのことです。
最も近い先例となった天皇は・・・??
光格天皇です。

時は江戸後期・天明年間・・・
度重なる天変地異や飢饉に民衆が苦しみ、江戸や大坂で打ちこわしが・・・京では5万人もの人々が御所を取り囲み、天皇に救いを求めました。”御所千度参り”です。
光格天皇は窮状を幕府に訴え、お救米を出させることに成功します。
天皇が政治に口を出すのは、幕府始まって以来、前例のないことでした。
天皇は幕府に物申すだけではなく、譲位式を描いた絵図は、さながら平安絵巻のような行列です。
公家、武家だけでなく、町衆も繰り出して見物しました。
古式にのっとって儀式を復活させ、朝廷の威光を高めていったのです。
朝廷の権威に生涯を捧げた光格天皇・・・その知られざる戦いとは・・・??

鳥取県倉吉市・・・光格天皇に関わる興味深い資料が残っています。
天皇の母が記した手紙です。
「どのような因縁でこのような恐れ多いこととなったのかと我ながら不思議に思います。」
実は、光格天皇の生母・磐代は、倉吉の庶民の娘でした。
京都で光格天皇の父・閑院宮典仁親王の屋敷に奉公し、親王との間に祐宮・・・後の光格天皇を産みました。
典仁親王は東山天皇の孫にあたる皇族で、庶民出身の母との間に生まれた祐宮は本来天皇位とは縁遠いはずでした。
ところが、後桃園天皇が亡くなり・・・残されたのは、生後10か月の皇女だけ・・・
皇統断絶の危機を乗り越えるため、次期天皇の白羽の矢が立ったのです。
1779年、9歳で皇位を継ぎます。
後にこう語っています。

「皇統の末端にいた私が天皇となったのは思いがけない天運だった。」

その出自もあって、光格天皇は生涯本来ある天皇の姿を追い求めたといいます。
中でも力を注いだのが、廃れていた朝廷儀式の復興でした。
新嘗祭・・・しかし、戦国時代以降は、長い間御所の外で公家が代行するようになっていました。
光格天皇は、1786年途絶えていた新嘗祭を再興。
他にも大嘗会、朔旦冬至旬、新宮旬・・・などを復活させ、かつての天皇の権威を取り戻そうと努めました。
しかし、それが儀式の枠を超え、政治に及んだ時、為政者である徳川幕府との衝突を生み出したのです。
きっかけは、1783年の浅間山の噴火でした。
大量の火山灰による天候不順は、東北を中心に数年にわたる飢饉(天明の大飢饉)を引き起こしました。
影響は大都市にも及びます。
1787年江戸や大坂で打ちこわしが起こります。
そして京都でも一大事件を引き起こします。
”御所千度参り”です。
貧窮に苦しむ人々が御所を取り囲み、天皇に向かってお参りを繰り返したのです。
その数、1日に5万人になることもありました。
現場に居合わせた男は・・・

「京だけでなく、大坂や近江からも人が集まり、まるで伊勢参りのような人の集まりだ
 御所では人々が厳しい熱さを避けられるよう、周囲の溝を掃き清め、湧水を流してくれている
 リンゴも三万個も配られていたが、昼過ぎにはなくなってしまった
 京の町衆は、奉行所に何度も訴えたが、何一つしてくれないので天皇に直接訴えることにしたのだ
 あまりにも大規模なお参りが続くので、幕府でも対応を協議し始めたようだ」

この背後で、民衆の窮状に心を痛めた17歳の光格天皇が動いていました。
幕府とのやり取りで・・・
「この頃、飢えて困窮した人々が、御所の築地塀を回って拝礼している
 幕府が米を出して救済するようにすることはできないだろうか」
と訴えています。

朝廷が政治のことに口を出すのは、徳川幕府が始まって以来前代未聞のこと・・・対応を巡って幕閣は紛糾します。
申し入れからおよそ1月・・・
1787年幕府1500石の御救米を京に放出します。
天皇の思いが、幕府を動かしたのです。

天皇としてなさねばならないことがある・・・将軍に意見を言うことを・・・!!
自分がやりたいことをやれば、結果として世の中が少しは良くなるのだ
人を助けるという実感を得たのです。

光格天皇の直筆の書簡には・・・
「自身を後にし、天下万民を先とする」
若き天皇は、幕府との関係を変える大きな一歩を踏み出したのです。

1788年1月30日、思わぬ事態が京都を襲います。
応仁の乱の大火を上回る大火・・・天明の大火で、市中の8割が焼失・・・
火の手は御所にも及び、禁裏御所をはじめ、全てを焼き尽くしたのです。
御所からほど近い聖護院・・・難を逃れてきた光格天皇が仮住まいをした部屋が今も残っています。
18歳の光格天皇は、この仮御所で、焼失した御所の再建という難題に取り組むこととなったのです。
光格天皇は、江戸時代に入って規模が縮小されていた御所を平安様式で再建しようとしました。
しかし、それは容易いことではありませんでした。
江戸時代を通じて朝廷の支出をすべて負担してきた幕府を説得する必要があったのです。

その頃、うち続く不作や飢饉の対策を余儀なくされ、幕府財政も深刻な打撃を受けていました。
再建を担ったのが、8代将軍吉宗の孫で、名君として知られた老中・松平定信でした。
寛政の改革で・・・定信は、徹底的な緊縮財政を行い、あらゆる支出の見直しを進めました。
そんな定信にとって巨額な平安様式の御所の再建など、到底認められるものではありませんでした。
1788年5月、御所造営奉行に任じられた定信は、自ら京に乗り込み、天皇の意を汲んだ関白との交渉に臨みました。
定信の主張は・・・
”費用が巨額となれば、負担を転嫁される下々が困窮する
 元の通りの再建でよい”
天皇の意向はこれと真っ向から対立し・・・
”御所全体というのではなく、紫宸殿と清涼殿を平安時代の様式で再建し、儀式の意味を整えたい
 材木についてえり好みはしない・・・”

半年に及んだ交渉・・・その結果は??
現在の京都御所・・・光格天皇の望み通り、平安様式で再建されたものが今に受け継がれています。
焼失前に比べ敷地面積が1800坪増加、紫宸殿は格式の高い入母屋造りとされ、儀式を滞りなく行えるように建坪が増やされました。
清涼殿は、武家様式の書院造から平安様式の寝殿造りに代わっています。
注目すべきは紫宸殿と南門との間の回廊・・・それまではなかったが、復元されました。
幕府が費用の面から一番難色を示した部分です。

どうして回廊が認められたのでしょうか?
幕府側の資料によると・・・他の個所で減らした部分があり、今回は天皇の考え通りに造営すると書かれています。
定信は光格天皇の強い想いに屈し、他の建物の坪数を少なくすることで帳尻を合わせたのです。
今後の朝廷への対応について定信は・・・
「復古と言っても程がある
 以後、新たな要求については固くお断り申し上げるべし」としています。
御所債権を目論み通り実現させた光格天皇・・・しかし、幕府との間に争いの火種が燻り始めたのです。



1791年12月、21歳となった光格天皇・・・幕府との対決は、新たな局面を迎えました。
この都市の12月、天皇は41人もの公家を御所に招集し、意見を求めました。

「父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい」

典仁親王は、閑院宮家の当主で皇位についたことはありません。
従って、天皇の譲位後の尊号である太上天皇号を贈るというのは極めて異例のことでした。
背景には、宮中における序列の問題がありました。
「禁中並公家諸法度」には、””三公下親王”とあります。
三公とは、太政大臣・左大臣・右大臣のことで、典仁天皇は、天皇の父であるにもかかわらず、臣下のしもに座ることを強いられていました。
光格天皇は太上天皇の尊号を贈ることで、序列を変えようと図ったのです。
しかし、それには幕府の承認が必要でした。
天皇は殆どの公家が賛成同したことを力にして、幕府との交渉を間を取り持つ武家伝奏に交渉を命じました。

光格天皇の主張は・・・
閑院宮典仁親王に太上天皇号を贈るのは、かねてからの願いである。
わが父も老齢・・・何としても叶えたい
これまでに、鎌倉時代の後高倉院、室町時代の後崇光院のように、皇位につかずに太上天皇になった先例もある
朝廷の大多数が賛成している中、幕府が認めないようならこちらにも考えがある

事態はすぐに江戸に急報されました。

これ以上、新規の要望は認められない・・・定信は幕閣に対し、断固たる方針を表明します。

松平定信の主張
先例といっても、各々状況が異なるので、従う必要はない
天皇が持ち出したのは、政治の混乱期の特例である
私情により、皇位についていないのに太上天皇号を贈るのは、道理に合わない
それでも尊号を贈るというならば、責任者の公家を処罰し、閑院宮御自身に尊号を辞退していただくまで

定信は、断固として尊号の拒否を主張・・・しかし、天皇も引き下がる気は毛頭ない!!
1792年8月・・・朝廷は幕府にこう通告しました。
”新嘗祭までに尊号を贈れなければ、御心は穏やかではない
 天皇は11月上旬、尊号を贈ることをお決めになられた”
天皇側からの一方的な通告・・・定信も反撃に出ます。
”皇位とはそのように軽々しいものではない
 尊号を贈ることは決してご無用”

真っ向からぶつかった両者の主張・・・勝利するのは・・・??

1792年10月、光格天皇のもとに、幕府から驚くべき報せが・・・
”武家伝奏・正親町公明、議奏・中山愛親、広橋伊光、異常3名の公卿は江戸へ下向すべし”
武家伝奏や議奏は、本来朝廷と幕府の関係を円滑にするための公家です。
定信は、彼等こそが朝廷を強硬姿勢に傾かせた黒幕を説断じます。
あくる1月・・・正親町と中山は江戸へ下向・・・老中・松平定信直々の厳しい取調べを受けました。
下された処分は、正親町公明=逼塞・中山愛親=閉門・広橋伊光=差控というもので、幕府が皇位の公家を直接処罰するのは、前代未聞のことでした。

定信はその理由を・・・
朝廷が内々に天皇の意思を幕府に伝え、幕府がそれを承認した上で、表立って交渉するものだ

朝廷は幕府に図ることなく一方的に尊号を贈ることを強行しようとした・・・
これまでの手続きに従わず、幕府を蔑ろにしたことを定信は許せなかったのです。
一旦は抵抗するも、幕府の強硬な姿勢に屈し、尊号を贈ることを断念し、公家たちの処罰を受け入れました。
この件は、天皇にとって手痛い敗北となったのです。
しかし・・・光格天皇の心から朝廷の権威回復の意欲が失われたわけではありませんでした。

「桜町殿行幸図」・・・1817年、47歳を迎えた光格天皇は譲位し上皇となります。
これまで住んでいた禁裏御所から仙洞御所に移る様子を描いたものです。
行列を先導するのは、華麗な装飾の牛車・・・その後に正装に身を固めた公家が付き従います。
平安絵巻さながらの行列が繰り広げられました。
この行列の中に、鈴鎰(れいいつ)は鈴などを入れた櫃、大刀契・太刀などを入れた櫃などが行列にあります。
大刀とは、古代・律令制下の将軍が遠征時に天皇から与えられた節刀と割符、鈴鎰は国司が持参する駅鈴と赴任先の倉の鍵が入っています。
南北朝時代以降記録から消えていたこれらの品々を復活させ、譲位の儀式に用いたのです。
地方に国司を派遣、将軍を派遣・・・これは空間的な統治を表象するものです。
天皇は血統が一連につながっている・・・そして、国家国民全体に心を向けていることを示しています。

絵巻にはもう一つ興味深い光景が・・・
桟敷に陣取って行幸を見物する人々・・・公家武士に混じって庶民の姿も・・・当時殆ど外出することのなかった天皇が禁裏御所を出るというので、多くの人が拝観しました。
さらに絵巻に描かれたことで、その壮麗さは後世に残りました。
譲位はあらゆる人々に、朝廷の威光を思い起こさせる結果となったのです。
当時の幕府も例外ではなく、定信が老中を辞して20年以上・・・
時の将軍・11代徳川家斉は、その権威を確固たるすべく、朝廷に接近。
自らを従一位左大臣に、世子・家慶を正二位内大臣に異例の官位昇進を願い出ました。
譲位後も朝廷内で大きな力を持っていた光格上皇は、この要求に応じました。
見返りとして得た物は大きく・・・聖護院に秘蔵されています。
光格上皇が修学院離宮に行かれたときにお乗りになった網代輿・・・
江戸時代初め、後水尾天皇が造営した修学院への御幸は90年以上途絶えていました。
将軍家の官位昇進への返礼として幕府はこの行事を復活させたのです(1824年)。
庭園や建物は修復され、道具類も新規に整えられました。
500両にのぼる道具の費用、上皇の外出に伴う1000両の支出はすべて幕府が負担しました。
光格上皇の修学院御幸は14回に及び、そのための莫大な支度金が幕府から朝廷に支払われました。
幕府はいつしか天皇の権威に寄りかかり、自らを権威づけることに必死になっていたのです。

1840年光格天皇は70年の波乱の生涯を閉じました。
尊王攘夷が全国に広がっていく幕末の到来はその僅か十数年のことでした。


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