日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:後醍醐天皇

1333年、100年以上続いた武家政権鎌倉幕府が滅亡しました。
幕府を倒したのは、北関東を拠点にしていた武士・新田義貞でした。
義貞の倒幕で、時代は大きく転換します。
倒幕後、政治の実権を握った後醍醐天皇は、建武の新政という天皇親政を実現します。
これが、南北朝時代といわれる日本史上まれにみる動乱の時代を呼び込むこととなるのです。

太平記・・・太平記の中で、新田義貞は後に室町幕府を開く足利尊氏のライバルとして熾烈な戦いを繰り広げています。
しかし・・・当時の義貞の立場に疑問が・・・??
実力の時代を切り開いた新田義貞の真の姿とは・・・??

新田氏が治めたのは、現在の群馬県太田市。
かつて新田荘と呼ばれたこの地には、井の文字が多く使われ、たくさんの水源があったことが分かります。
今も市内で湧き出す地下水・・・多くの水源は、新田荘を潤し、豊かな実りをもたらしました。
これにより新田氏は、北関東で大いに力を蓄えていきました。

新田義貞が生れたのは、今からおよそ700年前の1300年頃といわれています。
当時、鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏の権力はゆるぎないものに見えました。
ところが・・・近畿地方で異変が起こります。
1331年、後醍醐天皇が政の実権を幕府から取り戻そうと河内の土豪・楠木正成らを動かし倒幕の狼煙をあげたのです。
義貞は、幕府軍の一員として制圧に向かいました。
しかし、ゲリラ戦を展開する楠木達後醍醐方に苦戦を強いられ、戦いは長期を呈しました。
戦のさ中、義貞は新田荘に帰郷します。
一説には、この時後醍醐方から倒幕の指令を受けていたともいわれています。

一方、畿内で苦戦する幕府は、戦費調達のため裕福な新田荘に臨時の税を課し、2人の使者を取り立てに向かわせます。
この時、事件が起こりました。
義貞は、なんと幕府の使者の一人を斬首・・・もう一人を拘束してしまいました。

鎌倉幕府は、盤石で最盛期を迎えていました。
強い鎌倉幕府に対して、新田義貞は戦争をしかけていくのです。
これは、非常に大きな選択でした。
戦が続く畿内でも、大きな衝撃でした。
幕府方の有力者・足利高氏が後醍醐方に寝返り、鎌倉幕府の京都監視機関・六波羅探題を攻め落としたのです。
新田荘の義貞も、これに呼応するかのように反幕府で挙兵!!
挙兵の地とされるのが、旧新田荘・生品神社・・・
古くから地元の信仰を集めてきたこの神社には、義貞が挙兵の際に幟を立てたといわれる巨木が保存されています。
この時、神社に集まった義貞軍は、わずか150騎・・・義貞はこの少数で鎌倉幕府に戦いを挑もうというのか・・・??

義貞は幕府本拠地・鎌倉への進軍を開始しました。
途中、鎌倉を脱出した足利高氏の息子・千壽王も合流。
大軍勢となった義貞率いる反幕府軍は、鎌倉で北条方と激突します。
義貞は、一族に犠牲を出しながらも奮戦し、北条氏の多くを自刃に追い込みます。
1333年5月・・・鎌倉幕府は、義貞の攻撃によって滅亡しました。
これまで無名の存在だった新田義貞は、この勝利で足利高氏とならぶ、倒幕の功労者として都でその名を知られることとなります。

義貞や高氏の働きで鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、幕府も院政も否定し、天皇自身への権限集中を実行しました。
1334年、年号が建武に変更されたことからこの政治体制は建武の新政といわれています。
義貞は、倒幕の恩賞として播磨の国司に就任し、新田一族の多くが都の警察に相当する武者所の要職につきました。
さらに新田氏は、北陸地方、越前・越後の国司などにも任命され、後醍醐政権の中枢を担うこととなります。

もう一人の倒幕の功労者・足利高氏は、更なる地位を築いていました。
武蔵・常陸・下総など東国の国司に任じられただけでなく、天皇の諱・尊治から”尊”の字をもらい尊氏へと名を改めます。
全国の武士への指揮権も与えられた尊氏は、後醍醐政権の侍大将ともいうべき地位に登りました。

鎌倉幕府滅亡の2年後、東国で北条氏残党による反乱がおこり、尊氏は鎮圧に向かいます。
ところが、乱の終息後も、尊氏は鎌倉を動こうとしない・・・
天皇の上洛命令にも従わないという不可解な行動に出ます。
その背景にはったのは、倒幕の恩賞への不満とも、征夷大将軍や幕府をめぐる考えの相違ともいわれています。
後醍醐天皇は尊氏の行動を反抗と受け取り、討伐を決意します。
その大将に指名されたのは義貞でした。
義貞の負けられない戦いが始まります。

太平記では、義貞も尊氏も、源氏の嫡流とされ、2人で武家の棟梁を争ったと書かれています。
しかし、近年の研究では、同格のライバル関係ではなかったという説が提唱されています。
足利家は格が高く、幕府でも重要視されていました。
新田は無位無官・・・同じ一族の上下縦の関係でした。
新田にとって足利を打倒する・・・それは下克上的な状況でした。
後醍醐につくのか、足利につくのか・・・大きな分かれ目でした。

義貞は、鎌倉に向かって出陣しました。
しかし、尊氏の反撃に撤退を余儀なくされ、逆に京都を奪われてしまいます。
後醍醐天皇は京都を逃れ、比叡山山麓の東坂本・・・現在の滋賀県大津市の日吉大社に籠りました。
義貞らは、東北からの援軍を受け反撃!!
尊氏を九州に追い落とすことに成功します。
しかし、わずか3か月後・・・
1336年5月、西国の武士たちを引き連れて大軍勢で攻め上ってきた尊氏に、義貞は惨敗・・・。
再び尊氏に京都を奪われ、またもや後醍醐天皇と共に比叡山に撤退することとなりました。

琵琶湖を望む比叡山東山麓・・・京都を尊氏に追われた後醍醐天皇は、ここ近江国・東坂本の日吉大社に籠ったと伝わっています。
古来、天皇家の崇拝を受けてきた日吉大社は、比叡山延暦寺と共通の境内を所有していました。
織田信長、明智光秀に延暦寺が焼き払われたとき、日吉大社も灰塵に帰しました。
義貞、尊氏は、共に散発的な戦いを繰り返しますが、双方戦局を打開できずにいました。
季節は秋から冬に向かおうとしていました。
膠着状態を打開しようと尊氏は一計を案じます。
密かに後醍醐天皇に使者を送り、和睦を持ちかけたのです。

後醍醐天皇は、尊氏からの申し出を誰に諮ることもなく、受け入れることに決めました。
後醍醐方の指揮官でありながら、義貞はこの謀を知らされることはありませんでした。
新田一族の武将・堀口貞満は、鎌倉討伐戦以来、義貞と戦い続けてきていました。
不穏なうわさを聞きつけて、天皇のもとに向かいました。
そこで目にしたのは、今まさに京都に向かおうとしている後醍醐天皇でした。
堀口は、涙ながらに義貞始め新田一族の忠誠を訴えます。
そこに、3千余りの兵を率いて義貞も駆け付けます。
尊氏との和睦を決めた後醍醐天皇・・・
一族の想いを語る堀口・・・
両者の間で義貞は、厳しい選択を強いられます。

堀口の言い分は至極最も・・・帝が尊氏と和睦するのは命がけで忠誠を尽くして来た我らに対する裏切りに他ならない・・・このままでは、一族の結束が保たれない・・・
あくまでも、武家の棟梁を勝ち取るために、尊氏と戦い続けなくてはいけない・・・鎌倉倒幕以来の決戦で、新田は多くの命を失ってきたが、ここは残った者たちを戦い続ける・・・??

しかし、このまま帝が尊氏方に行けば、我らは朝敵・・・賊軍となってしまう・・・。
帝と一緒に山を下り、尊氏に服従を誓う・・・??

義貞が鎌倉討伐のために、ふるさと新田荘を出てから3年が経とうとしていました。
後醍醐天皇は、独断で尊氏との和睦を決めていました。
多くの兵を従えた義貞に気おされたのか、口を開いたのは後醍醐天皇でした。

「義貞よ・・・尊氏と和睦するのは一時の謀にすぎず、巻き返す時が来るのを待つつもりなのだ
 事前に知らせなかったのは、事情が漏れることを恐れたに過ぎない・・・
 だが、堀口の恨みを聞いて、自分が誤っていたことに気が付いた
 義貞を朝敵にするつもりはない・・・
 こうなったからには、皇太子に位を譲るので、共に北陸へ向かい、体制を整えて再び朝廷のために働いて欲しい」

義貞は、これを聞き、覚悟を決めました。
後醍醐とはなれ、北陸に・・・尊氏と戦い続けることを選んだのです。
義貞は、北を目指しました。
冬がすぐそこまで来ていました。

一旦、尊氏方に下った後醍醐も、その年の暮れには、京都から吉野に脱出!!
京都と吉野、それぞれに朝廷が立ちました。
南北朝の始まりです。
皇太子を立てて北陸へ向かった義貞は、尊氏方の激しい追撃を受け苦戦していました。

1337年3月・・・越前国・敦賀の戦で、皇太子を尊氏側に奪い取られ苦境に陥った義貞・・・
しかし、義貞は戦いをやめませんでした。
尊氏方の追撃をかわしながらも、各地の兵を糾合し、地盤を固めようとしていました。
どうして義貞は、南朝の後醍醐と合流しなかったのでしょうか?
それは、北陸を拠点にして北関東・北陸で地盤を固め、後醍醐の吉野方、あるいは足利軍団に対抗する勢力を形成しようとしたのではないか・・・??
実力があれば交渉ができる・・・!!
北陸を固めることが、新田にとっては一番重要だったのです。

1338年7月2日・・・義貞が北陸に下って2年近く・・・尊氏からの執拗な攻撃は続いていました。
義貞は、尊氏方が立てこもる城の視察に50騎の兵を連れて向かいました。
しかし、その途中、敵方300騎と遭遇・・・攻めたてられた義貞は、泥田に落とされ、あえなく命を落としました。
義貞が最期を迎えたといわれる地は、現在では公園として整備され、その一角にはささやかな祠が建てられています。
新田義貞は、新田荘を出て以来、清らかな水に満たされたふるさとの地を一度も踏むことなく、その生涯を終えました。

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鎌倉時代終焉後のおよそ60年間、二つの朝廷が並び立つという日本史上類を見ない状態が起こりました。
南北朝時代・・・それはまさに動乱の日々でした。
およそ60年続いた南北朝時代は複雑な時代です。

1333年 建武の新政
1339年 後醍醐天皇崩御
1350年 観応の擾乱
1351年 正平の一統
1367年 足利義満三代将軍就任
1392年 南北朝合一

南北朝時代の軍記物「太平記絵巻」には宴で上半身裸で踊っている者、酒を煽りいい感じの者・・・これは、建武の新政のキーパーソン第96代後醍醐天皇が開いた無礼講といわれる宴です。
身分の上下など一切なくして飲み、歌いましょうということですが、真の目的は鎌倉幕府を倒幕する見方を集めることでした。
倒幕した理由は・・・??

「我が子に皇位を継がせることは出来ぬのか・・・??」

後醍醐天皇は、我が子を天皇にしたかったのですが、出来ない理由がりました。
それが両統迭立です。
その始まりは鎌倉時代の事・・・
きっかけは、第88代後嵯峨天皇が皇位継承を誰にするか明確にしないまま崩御したことにありました。
そして皇位継承者の後深草と亀山の相続争いとなりました。
持明院統第89代後深草天皇と大覚寺統第90代亀山天皇・・・から交互に即位する両統迭立となり、以後それが踏襲されていました。
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇なので、次は持明院統からの天皇と決まっていたのです。
しかし、自分の子を天皇に即位させたい後醍醐天皇はこの両統迭立を廃止したかったのです。
そのためには、承久の乱以降、皇位継承に介入することになってきた鎌倉幕府を倒すことが必要だったのです。
くわえて、幕府による武士中心の政治ではなく、天皇中心の政治に戻すことを考えていました。
両統迭立を撤廃し、自分の子孫に皇位継承させ、天皇中心の政治に戻すために、後醍醐天皇は倒幕の狼煙を上げたのです。
ところが・・・その計画が二度も幕府にバレ、後醍醐天皇は隠岐へと流されてしまいます(1332年)。

後醍醐天皇の皇子・護良親王が各地に倒幕を命じ、吉野で挙兵したのはその8か月後のことでした。
すると、幕府への反乱勢力が次々と立ち上がるのです。
当時の鎌倉幕府に不満を持っていた人々はたくさんいました。
北条氏が日本の大半の所領を治め、その他の武士の所領が少なかったのです。
隠岐に流された翌年、後醍醐天皇は隠岐を脱出することに成功し、三度目の倒幕の狼煙を上げます。
この時、鎌倉幕府が鎮圧軍として関東から京都の派遣したのが、分裂のもう一人のキーパーソン・足利高氏です。
高氏は、一度は後醍醐天皇側と戦いますが、突如天皇方に寝返り、幕府に反旗を翻します。
自分と共に討伐軍の大将として派遣されていた北条一門の有力大名である名越高家が射殺されたことが、足利高氏が後醍醐に味方した理由の一つでした。
形勢が不利だと幕府を見限り天皇方に・・・そして倒幕の呼びかけに応じた武士たちをまとめ、六波羅探題を攻め落とします。
これによって天皇方が優勢に・・・
さらに、尊氏同様幕府から寝返った新田義貞ら反乱軍が鎌倉に入り、幕府軍を撃破!!
鎌倉幕府は滅亡します。

その年の6月のこと・・・武家から政権を奪還した後醍醐天皇は、京都に帰り元号を建武と改め、再び天皇による政治を始めます。
これが建武の新政です。
こうして、朝廷主導による政治に戻した後醍醐天皇ですが、その3年後、朝廷は南北に分かれてしまいます。

後醍醐天皇の政治は府独裁的でした。
天皇は鎌倉時代から武士が持つ所領を白紙に戻します。
その上で、個別安堵法を発布。
土地の所有権は、天皇が許可しない限り無効とするとしたのです。
すると、所領安堵の許可を求める武士たちが京都に殺到・・・都は大混乱となります。

二条河原落書には・・・
”この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀綸旨”
綸旨とは天皇が出す命令の事で、後醍醐天皇のせいで治安が悪化し、偽の綸旨が出回るなど、世の中が混乱したことを批判しています。
朝廷ファーストだった後醍醐天皇は・・・
公家には十分に恩賞を与えるものの、武士たちには少ししか与えませんでした。
武士たちは大きな不満を抱きます。
後世、この時代の政治を「物狂いの沙汰」といっています。

武士を蔑ろにした後醍醐天皇の政治・・・不満分子が幕夏したのは1335年のことでした。
天皇中心の政治に不満を抱く旧幕府の残党が鎌倉を占拠します。
これを鎮圧すべく、願い出たのが足利尊氏でした。

「征夷大将軍に任じていただき、鎌倉へ向かわせてはもらえませんでしょうか」by尊氏

しかし後醍醐天皇は許しません。
天皇中心の政治に戻した後醍醐天皇にとって、征夷大将軍という役職など邪魔でした。
高氏は後醍醐天皇の許可なく鎌倉に向かい、反乱軍を鎮圧。
その後も天皇の帰郷命令を無視します。
まだまだ反乱分子が潜伏していたのです。
尊氏は旧幕府の残党を掃討してから京都に戻るつもりだったのです。

そんな尊氏の考えも露知らない後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏追討命令を出します。
これによって鎌倉幕府を共に倒した後醍醐天皇と袂を分かち朝敵となってしまった尊氏は進撃して来た新田軍を竹之下の戦いで撃破!!
敗走する新田軍を追って京都に入るも、天皇方の北畠顕家の軍に敗北。
九州へと逃れていくのです。
しかし、九州で立て直した足利尊氏は、1336年、多々良浜で天皇方の大軍を破ると京都を目指します。
そして湊川の戦で新田軍と再び相まみえ勝利しました。

京都へと逃げ帰った新田軍は、後醍醐天皇が比叡山に立てこもります。
こうして、後醍醐天皇がいなくなった京都に足利尊氏が入り、持明院統の光明天皇を擁立。
その一方で、次は大覚寺統から天皇を出すことを条件に比叡山に籠っていた後醍醐天皇と和睦します。
これを受け、後醍醐天皇は天皇の正当性を示す三種の神器を新たに即位した光明天皇側に引き渡すのですが・・・
2か月後、御醍醐天皇は京都を脱出。
吉野につくと・・・
「今日の御所に渡した神器は偽物じゃ!!
 真の神器は朕のもとにある・・・!!」と。
自分こそが、正当な天皇であると宣言し、新しい王朝・・・南朝を設立します。
どうして朝廷が南北に分裂してしまったのか・・・??
それは、後醍醐天皇が「建武の新政」に失敗し、足利尊氏と対立したためです。
こうして朝廷は、南朝と北朝に分裂、二人の天皇が並び立つという日本史上類を見ない南北朝時代が幕を開けました。
これ以後、南朝と北朝は違う元号を使うことに・・・南朝は延元、北朝は建武と・・・。

遂に幕を開けた南北朝時代・・・
後醍醐天皇は吉野に追いやられる形で南朝を開くのですが、勢力は吉野周辺と九州、東国の一部にすぎませんでした。
後醍醐天皇は、京の都を取り戻すべく、味方の武士たちに京都に攻め入るように命じます。
しかし、天皇の側近だった北畠顕家が、1338年和泉国で討死していました。
また新田義貞も越前国で雑兵の矢を受け、「最早これまで」と、1338年に自害。
有力な武将を次々と失った南朝は、急速に力を失っていきました。

そこで後醍醐天皇は、自分の王子たちを陸奥や遠江に派遣しますが、これも失敗!!
1339年、我が子護良親王を皇太子とした翌日の8月16日、失意のうちに後醍醐天皇崩御。

「太平記」にはその最後の様子が記されています。
足利方を悉く滅亡させよと命じ、苦しい息を吐きながらも、朕の体は南の吉野で骨になるが、魂は北の京の都奪還の執念を持ち続けるといい残しました。

こうして南朝を立てた後醍醐天皇が崩御したことで、尊氏が後ろ盾となっていた北朝が俄然有利となっていきます。

後醍醐天皇が亡くなる前の年・・・
1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任します。
京都で室町幕府を開きました。
尊氏は弟・直義と政務を分担して、幕政を運営していました。

南北朝の対立は、実質的には南朝と北朝方の室町幕府との対立でした。
そのため、幕府の内紛が南北朝時代をより複雑にしていきます。
1347年、南朝方の運勢が九州で勢力を拡大、九州における幕府の拠点を次々と落としていきます。
これに呼応するかのように、父・後醍醐天皇の遺志を継いで即位した後村上天皇は、北朝方の幕府を倒そうと画策します。
京都に近い摂津国でも南朝方が挙兵しました。
それを鎮圧すべく、尊氏は側近の高師直を討伐軍の大将として出陣させます。
戦を得意とした師直は、見事四条畷の戦いに勝利すると、勢いそのままに南朝に兵を差し向け、皇居や公家の邸宅、寺社にまで火を放つのです。
この時、後村上天皇ら南朝は吉野を脱出し、賀名生へと逃げのびています。

一方、幕府の方でも師直に不満を抱くものがいました。
幕府の政務全般を担っていた弟の直義です。

「見境なく火をつけるとは、なんという狼藉・・・」

そんな直義の不満を余所に、この軍功によって師直の幕府での影響力は強まり、直義を凌ぐほどに・・・
おまけに、直義の養子である直冬が、師直に冷遇されていたのです。
直義の不満はついに爆発!!
「高師直を討つ!!」
これに呼応したのは、師直に不満を抱いていた各地の武士たちで、次々に挙兵します。
世にいう観応の擾乱の始まりでした。
挙兵した直義は、兄・尊氏もびっくりな策を講じます。
突然京都を脱出し、宿敵である南朝に出向きます。
そして、南朝に降伏し、和睦を申し入れます。
南朝勢力を味方につけるためでした。
この時、直義が出した和睦の条件は、南朝と北朝から天皇を交互に出し合う「両統迭立」に戻すというものでした。
しかしこれは、自分の子孫に跡を継がせるという後醍醐天皇の意思に反する事・・・
南朝には受け入れがたい条件でした。
その一方で、これを受け入れれば、直義に味方する武士たちが戦力になり、南朝復活のきっかけになるのでは・・・??
そこで南朝は、和睦の条件をうやむやにしたまま、南朝の戦力回復のために、足利直義の降伏を受け入れるのです。
この直義降伏によって、南朝有利と見た武士たちが南朝側についたことで、南朝の思惑通り、南朝は息を吹き返します。
1月・・・直義は石清水八幡宮を占拠し、大軍で京都に向かうと師直討伐の準備を始めます。
そして2月17日、摂津国・打出浜で直義軍は師直を擁護する兄・尊氏軍と激突。
尊氏軍を完膚なきまでに叩き潰すのです。
その3日後・・・直義は尊氏と和睦・・・高師直に資格を差し向け、斬殺したといいます。
こうして直義は尊氏の嫡男・義詮の補佐役として幕府の要職に復帰。
表面上は平穏をとし戻したかのように見えた幕府ですが、水面化では家臣たちが尊氏派と直義派に分かれて激しく争っていました。
そんな中、直義は義詮との関係がうまくいかず、幕府内で孤立していきます。
すると突如政務からの引退を表明。
北陸へと逃亡してしまいました。
この直義の行動が、再び南北朝に大きな波紋を呼びます。

南北朝時代が始まって15年・・・朝廷が一時的に一つになった時がありました。
1351年正平の一統です。
当時室町幕府は尊氏派と直義派に分裂していました。
孤立を深めた直義は北陸に逃げてしまいました。
九州では南朝方が勢力を拡大、幕府方の城を次々と攻略していました。
尊氏は焦ります。

「九州では我が軍が劣勢・・・ 
 やがて京の都までその手は伸びて来るだろう
 しかし、北へと逃げた弟・直義もなんとかせねばならん」

考えた末に出した答えは、直義を優先させた驚きなものでした。
南朝に降伏して和睦する!!
この時、尊氏が出した和睦の条件の一つが、元号を南朝の「正平」に統一すること。
そして北朝三代崇高天皇と皇太子・直仁親王が廃止され三種の神器も南朝に没収・・・その他北朝が行った叙位・任官も否定され、両朝分裂前に戻されたのです。
幕府が支持する北朝にとって圧倒的不利な条件での和睦・・・
直義のしていた南朝との講和・・・尊氏は南朝と和睦することで、直義を幕府に戻そうとしていました。
尊氏が南朝に降伏したことで、南朝が勝利となり南北朝が統一・・・これが正平の一統です。

しかし・・・再度分裂してしまいます。
南朝の有力武士が加わった尊氏軍が、北陸から鎌倉に向かった直義を捕らえて幽閉・・・。
その直後、直義は謎の死を遂げます。
さらに、尊氏が京都を離れているうちに、南朝が和睦を破って京都に侵攻・・・尊氏の嫡男である義詮を追い出し、三種の神器を奪い取ってしまいます。
天皇中心の世にしたい南朝方にとって、幕府の存在は認めることができなかったのです。
その後、京都はすぐに幕府の手に戻りますが、北朝の三人の上皇(光厳・光明・崇光)と皇太子が南朝に連れ去られます。
そこで、幕府を預かる義詮は、三種の神器のないまま、光厳上皇の第二皇子を後光厳天皇として即位させ北朝を復活。
こうして南朝が尊氏との和睦を破ったため、南北朝は再び分裂したのです。

1358年、足利尊氏死去・・・南北朝の混乱は、尊氏の代では終わりませんでした。

疫病を退散させる目的で、平安時代に始まったとされる祇園祭・・・
その壮麗な祭りの見どころは、山鉾の巡幸です。
今のように山鉾を巡幸しながらお囃子を鳴らしながら京都を練り歩くようになったのは南北朝時代といわれています。
町ごとに工夫を凝らした山鉾は、町衆の経済力を示すももであり、町内の団結を強める役割を果たしていました。
南北朝の分裂によって幾度も焼かれた京の町・・・
戦いは全国に飛び火し、世情は不安定に・・・人々は団結し、自ら身を守るしかありませんでした。
それは農民たちも同じで、惣という農民組織を作り団結、役人相手に年貢の交渉も始めます。
14世紀は、社会経済的にも重要視され、この頃から惣村という現在の農村の原型・村が形成されていきました。
南北朝時代が始まって20年以上が経っていました。
尊氏の死後、二代将軍には息子・義詮が・・・
義詮は南朝討伐を試みるも、混乱は続きます。

1367年、足利義満三代将軍就任。
南朝と幕府の本格的な和睦交渉を受け、後村上天皇は北朝と和睦して争いを収めるために綸旨を出します。
しかし・・・綸旨の中に、”北朝が降参すれば”と書かれていたため、義詮は激怒、和睦は実現しませんでした。
そしてその時、義詮はなくなります。
その後を継いで三代将軍に就任したのが義満・・・この義満こそが、南北朝時代に終止符を打つキーパーソンです。
義詮が亡くなった翌年、幕府との交渉に前向きだった後村上天皇が崩御・・・
和睦に反対していた長慶天皇が即位します。
この長慶天皇は、武力によって南北朝合一を果たそうとしていました。
室町幕府も、義詮が急死し、義満が後を継ぐ者のまだ11歳の少年でした。
義満が推さなかったために幕府は不安定になり、南北朝合一どころではなくなってしまったのです。
将軍義満が成長するまでは幕府も和睦どころではありません。
そして・・・南北朝時代が始まって47年・・・
南朝の長慶天皇が譲位し、後亀山天皇が即位します。
軍事的な体力が残っていなかったこともあり、南朝方の軍事活動は極端に減っていきます。
一方26歳となった足利義満は、各地の有力守護たちを討ち、将軍としての権力を拡大していきます。
南朝は最早脅威ではありませんでしたが、その存在は無視できません。
南朝が幕府に反旗を翻す勢力の受け入れ口になっていたからです。

「余に背く者たちを絶つには、南朝をなんとかせねばならぬな」

そこで義満は、和睦し南朝を取り込むことを考えます。
1391年、北朝方の室町幕府の軍勢が、九州の南朝最後の拠点を攻略。
ここに九州における南北朝の戦いがようやく終わりました。
その翌年の1392年、南北朝の和睦を考えていた義満は、南朝にこう呼びかけます。

「三種の神器を差し出して頂ければ、両統迭立を復活させましょう」

これ以上争いが続くことを望んでいなかった後亀山天皇はこれに応じます。
10月5日・・・天皇は僅かな臣下を連れて京都に向かい、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡・・・
ついに南北朝合一・・・およそ60年に続いた南北朝時代に終止符が打たれたのです。
この時の合一の条件は・・・
①南朝が「三種の神器」を北朝に譲渡
②国衙領は南朝が、長講堂領は北朝が支配
③今後、皇位は南朝と北朝が交互に
でした。

ところがこれに反し、これ以後北朝の系統が続くのです。
どうして南北朝合一の条件は守られなかったのでしょうか?
南朝との和睦交渉に、北朝はほとんど関与していませんでした。
幕府が勝手に行いました。
そのため、北朝が和睦の条件を聞いたのは合一後のことでした。
蚊帳の外におかれていた北朝は、幕府による事後報告を守る必要がないと考えたのです。
また、将軍義満も、もともと守る気がなく南朝をだましていたのでは・・・??とも言われますが・・・
しかし、両統迭立を破った時は、義満は亡くなった(1408年)後です。
南朝は敗北し、子孫が天皇として残ることはありませんでした。
北朝も大幅に弱体化し、足利幕府の強力な保護がなければやっていけなくなりました。
勝者は・・・室町幕府ということになります。
後醍醐天皇が足利尊氏と対立し、吉野に新しい王朝・南朝を設立してから60年・・・多くの人が血を流し、何度も町は焼かれ、人々は不安に駆られ続けました。
今から700年前、日本あった動乱の日々でした。


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軍神の血脈 楠木正成秘伝 (講談社文庫)



大楠公として歴史に名を残す英雄・楠木正成。
1331年8月、150年にわたった武家政権鎌倉幕府と後醍醐天皇との対立が表面化します。
我が子への皇位継承を望む後醍醐天皇・・・それを阻む幕府に不満を募らせていました。
天皇へ政の実権を取り戻すことを望んでいたのです。
これに、河内の土豪・楠木正成が呼応します。
武力と財力を備えた有力者だった正成。
権威を振りかざし、権益を独占している鎌倉幕府に憤りを感じていました。
後醍醐天皇の元に馳せ参じ・・・
「天下を改めるには、武略と知謀の二つでございます。」
河内国に戻った正成は、500の手勢で赤坂城で蜂起!!
幕府は30万ともいう兵で赤坂城を攻撃します。
大木や岩、熱湯で撃退する正成。
兵糧攻めに転じる幕府軍に対し、城に火を放ち、夜に紛れて赤坂城を脱出自害したように見せかけます。
幕府軍は、正成たちが自害したと思い込みます。
しかし、敗れた後醍醐天皇は隠岐に流され、正成も行方不明・・・。

赤坂城脱出から1年後、正成は突然紀伊で挙兵!!
神出鬼没の戦いで、河内を取り戻した正成は、金剛山の支脈に千早城を新たに築きます。
1333年2月、鎌倉幕府の大軍が、千早城に襲い掛かります。
正成は、幕府軍に油を浴びせ火を放つなど、奇手、奇策で大軍勢を撃退!!
寺社勢力の協力もあり、籠城は100日にも及びます。
後方からの支援を受ける正成は、反対に大軍勢の幕府軍の兵糧を脅かします。
持久戦に持ち込まれた幕府軍の戦意は、下がる一方・・・。
正成奮戦の効果は、各地に波及していきます。
千早城一つ落とせない幕府は恐るるに足らず!!と。

幕府軍の大将・足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返ります。
尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を壊滅!!
ここに、鎌倉幕府150年の歴史は幕を閉じることとなります。

隠岐を脱出した後醍醐天皇は、正成に先導され、京都に凱旋!!
1333年6月後醍醐は念願の建武の新政を開始!!
所領争いなどに、前例を省みない判決をし、破格の人事を次々と断行していきます。
痴ほうの土豪に過ぎなかった正成も、天皇の親衛隊長・・・武者所に任命されます。
異例づくめのスタートを切った天皇中心の政治・・・しかし、それはやがて武家だけではなく朝廷内に大きなわだかまりを作ることとなるのです。

鎌倉幕府の大軍との戦いを耐え抜き、建武の新政の立役者となった楠木正成。
地元の墓地には・・・供養塔・見方塚があります。
楠木軍の戦死者は、村人の墓石に囲まれるように祀られていました。
この墓地にはもう一つ正成が立てた供養塔があります。
幕府軍の戦没者が敵ではなく寄手と呼んでいる寄手塚・・・場所は見方塚より小高いところに大きい墓石で建っています。
戦での死者を敵味方なく弔った楠木正成は、平穏な時代の訪れを願っていたのかもしれません。
しかし、鎌倉幕府討幕からわずか2年・・・旧幕府残党を押さえるために鎌倉に下っていた足利尊氏が後醍醐政権から離反します。
反乱の鎮圧後も、上洛の命令に従わず、鎌倉を動かない尊氏を、後醍醐天皇が討伐しようとしたためでした。
ところが尊氏はこの戦いに勝利し、京都を制圧することになります。

比叡山へのがれた後醍醐天皇の元に、正成ら朝廷軍が集結します。
1336年1月、体勢を立て直した朝廷軍は、朝敵となった尊氏軍に総攻撃を仕掛けます。
正成率いる軍勢は、市街戦でも見事な働きを見せ、5万騎ともいわれる尊氏軍を洛中から駆逐しました。
ここで正成は一計を案じます。
自分がまたもや死んだと偽装して、勝ったはずの朝廷軍があたかも散り散りに逃げているように見せかけたのです。
尊氏は洛中に戻るや、逃げる朝廷軍に追手をかけます。
正成の狙いはそこにありました。
手薄になった洛中の尊氏軍に、総力を挙げて襲いかかったのです。
尊氏軍は、慌てふためき逃亡する者、自害する者、中には出家して僧になってしまうものまでいました。
正成はついに、尊氏を追いつめたのです。

しかし・・・優勢の朝廷軍の中から、逃げる朝敵・尊氏軍に付き従うものがたくさんいたのです。
彼等は、所領の拡大など、討幕の功績による後醍醐天皇の恩賞が十分でないと不満を持っていたのです。
混乱する戦場で、正成は選択を迫られます。
尊氏を討ち取る??それとも追撃をやめる??
楠木正成は、現在の兵庫県芦屋の一角で兵を挙げ、足利尊氏との一戦に臨みます。
尊氏を追いつめた正成・・・このまま決着をつけるのか・・・??

終日激戦を繰り替えし、夜になって何を思ったか正成は引きました。
敢えて追撃しなかったのです。
都に戻った正成は、後醍醐天皇に思い切った策を進言します。

「どうか、尊氏卿を召し替えされて、和睦をしていただきとう存じます。
 戦に敗れた尊氏軍に、朝廷方の輩まで付き従っていきました。
 どうか、帝に徳のない事をお分かりください。
 尊氏たちの反撃を受ければ、防ぐ術はございません。
 武略の道においては、いやしき正成に間違いはございません。
 今すぐご決意下さい!!」by正成

しかし、正成覚悟の進言は、一笑に伏され聞き入れられることはありませんでした。
正成の頭の中には、足利尊氏がいてこその後醍醐天皇の政権は続けられると考えていたようです。
足利尊氏をカリスマ的存在として認識していたのです。
正成は、合理的、実利的に選択する面があったと言えます。

正成の進言から2か月後、九州に落ち延びていた尊氏は大軍勢で京都に進軍!!
戦えば明らかに不利な状況で、正成は懇親の武略を巡らします。
それは、天皇を再度比叡山に・・・そして、京都を空にして尊氏軍を引き込み兵糧のルートを絶って市中殲滅戦を展開するというものでした。
正成らしい弱者の兵法でしたが・・・

「戦いもせずに帝が一年も都から逃れるのは、権威失墜につながる。
 今まで勝利してきたのは、武士の戦略ではなく、帝の運によるものである。
 サッサと出陣せよ!!」by公家

討ち死にせよとの命令か??
菊水の旗印の元、僅か500騎で湊川に向かった正成は、尊氏の大軍を前に激闘を繰り広げます。
1336年5月25日、刀折れ、矢尽きた正成は、弟・正季と誓いました。
七たび生まれ変わっても、朝敵を我が手で滅ぼさん・・・後世、七生滅賊という契りを交わし、楠木正成は自刃しました。

その死からおよそ500年後、楠木正成は黒船来航に始まる幕末の動乱で再び注目を浴びることになります。
長州で松下村塾を開いた吉田松陰・・・吉田松陰は討幕を計画したかどで死罪を命じられます。
松陰が死の間際に弟子たちに宛てた遺書「留魂論」・・・松陰はその巻末に、正成の七生滅賊の誓いを歌に詠み込んだ辞世の句を残しました。

七たびも 生きかえりつつ夷をぞ
         攘はんこころ 吾れ忘れめや

正成を忠君の鏡と崇めた松陰の精神は、桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・・・長州藩士たちに受け継がれます。
正成に、長州藩を重ねたのです。
下級武士にとっての理想像が正成でした。
身分が低かろうと、天皇への忠義の志があれば、政治に参加していい!!
自分達は正成のようになりたい!!
当時の志士たちには「正成をする」という言葉が流行っていたようです。

維新達成後も、学校教育を通して、正成の忠君は広く、深く、人々の心に刷り込まれていきます。
正成が自害の時に誓った七生滅賊は、いつしか七生報国に代わり、太平洋戦争末期、沖縄戦での特攻は正成の旗印から撮って菊水作戦と言われました。
間近に迫った敗戦まで、正成の死に際は、戦意高揚に利用されたのです。

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武家政権による初めての幕府が開かれたのが鎌倉。
その海岸線で、1953年に驚くべく物が発見されました。
900体以上の人骨です。
骨は、14世紀前半のもので、刀傷や打撲痕があり、鎌倉幕府滅亡の際の戦死者ではないか?と言われています。

1333年5月22日、鎌倉は討幕軍が放った火によって炎上・・・6000人以上の死者が出て、鎌倉幕府14代執権北条高時も800人以上の家臣と共に自害・・・
150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
どうして壮絶な最期を・・・??

鎌倉幕府は、「御恩と奉公」でした。
武士は領地を認め手柄によって新しい領地をもらい(御恩)、将軍のために命をかけて戦う(奉公)関係でした。
この信頼関係が、鎌倉幕府の基盤となっていましたが、これを揺るがす大きな事件が・・・!!
元寇です。
神風が味方して撃退しましたが・・・大きな問題が残りました。
国内の戦いに勝利したのであれば、奪い取った土地を恩賞として御家人たちに分け与えることができたのですが・・・モンゴル軍を追い返しただけでは得られる土地がなく、武士たちに満足な恩賞を与えることができませんでした。
それにもかかわらず、モンゴル軍の3度目の襲撃に備えて、九州北部の守りを備え、九州の御家人たちは大きな負担を強いられたのです。
十分な御恩を与えられないまま奉公だけを強要される・・・
御家人たちの不満は日に日に大きくなり、幕府に対する忠誠心も薄れていきました。
この頃の幕府の情勢はひっ迫していました。
鎌倉幕府は直接支配していたのは東国だけでした。
西国は、朝廷に任せるというのが基本姿勢でした。
しかし、元寇に当たってほったらかしだった九州の防衛を幕府が担うことになります。
鎌倉時代後半、幕府は組織面でも運用面でもパンクしてしまっていたのです。
そうした状況の中、1316年、北条孝時が14代執権に就任。
孝時は得宗という北条氏直流の当主一族のTOPでした。
しかし、「太平記」によると・・・政治に意欲がなく・・・つまり、得宗に政治力の行使を求めないようになっていたのです。
将軍もお飾り、得宗もお飾りだったのです。
御家人たちの不満は爆発寸前・・・!!
新しく即位した後醍醐天皇が幕府転覆を画策し、時代は大きく動きます。

どうして後醍醐天皇は討幕を・・・??
この頃、朝廷は持明院統と大覚寺統の二つに分かれていました。
幕府の取りなしによって、交互に皇位を継承する両統迭立となっていました。
しかし、これに納得できない後醍醐天皇は両統迭立を原則とする幕府が不満で、天皇を中心とする政治体制を望んでいました。
襲撃先に定めたのが、朝廷の監視役・六波羅探題でした。
襲撃の日は1324年9月23日!!
この日は北野天満宮でまつりが開催されることとなっていて・・・そこでは毎年激しい喧嘩が・・・!!
喧騒に紛れて・・・と思っていたのに失敗!!
同士のひとりが、計画を漏らしてしまったのです。
窮地に立たされた後醍醐天皇はしらを切り、処分を免れます。
が・・・幕府からの監視がきつくなってしまいました。

後醍醐天皇の妃が妊娠・・・安産祈願のために、天皇は延暦寺や仁和寺などを参詣・・・
さらに奈良でも寺社もうでをして穏やか・・・??
しかし、安産祈願はただの口実で、再び倒幕に向けて寺社勢力を味方に付けようと画策していました。
皇子のひとり・護良親王を比叡山に入れ、僧兵相手に武芸の訓練をさせていたといいます。
ついに挙兵・・・??
またしても側近の一人が密告!!
二度目とあって幕府の怒りは大きく、後醍醐天皇の側近たちは斬首刑に・・・。
後醍醐天皇は、三種の神器を携えて京を脱出!!
笠置山に逃げ込むと、山中に立つ寺院を皇居とし、討幕の狼煙をあげるのです。
これに呼応するように、幕府に不満を持っていた武士たちが挙兵!!
その中に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたとされる楠木正成も・・・!!

「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし、策略を巡らせれば勝喜もあるでしょう。」by正成

後醍醐天皇との謁見を済ませた正成は河内の国に戻り、赤坂城で挙兵!!
1331年9月2日、笠置山の戦い!!
天皇軍3000に対し、幕府軍7万5000!!
地の利を生かし善戦する幕府軍!!

赤坂城でも開戦!!
楠木軍500に対し、幕府軍20万!!
兵力の差は歴然で、敗北は確実と思われましたが・・・
正成の奇策が幕府軍を苦しめます。
城の中から丸太や巨石を投げつけます。
熱湯を浴びせたり、巨大な藁人形で敵を混乱。

鎌倉幕府は武士の集団で、大軍を派遣して押しつぶせると思っていました。
正成は山岳ゲリラ戦で、幕府軍は精神的に追い詰められていきます。
笠置山の天皇軍が力尽き、後醍醐天皇が捕らえられると状況は一転・・・
笠置山の幕府軍が赤坂城攻めに合流し、城を取り囲み持久戦に持ち込みます。
籠城を余儀なくされた正成に策はなく・・・
すると正成は、城に火を放ち、その混乱に乗じて行方をくらませました。
幕府がいくら探しても正成は見つかりません。
捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐島に流されてしまいました。
しかし・・・死んだと思われていた正成が赤坂城を奪還!!
河内・和泉を制圧し、新たに千早城を築き、幕府軍を迎え討つ準備を整えます。
護良親王も吉野で挙兵!!
奈良・吉野から討幕の命令を発布!!

千早城での戦い・・・相手は100万??
それでも蹴散らす正成!!
1333年2月・・・後醍醐天皇が幕府軍の隙をついて隠岐島を脱出!!
鳥取県の船上山で挙兵!!
全国の武士に、討幕の綸旨を出します。
鎌倉幕府は制圧しようと関東の有力御家人を西国に派遣します。
そのうちの一人が足利高氏です。
これは、元服の際に、北条高時から一時もらっていました。
幕府の命を受けた高氏は、京に入り、船上山に出陣。
しかし・・・その道中で立ち寄った丹波の篠村八幡宮で耳を疑うような宣言をします。
「勅命に従って討幕の兵を挙げる!!」
どうして幕府を裏切ったのでしょうか??
高氏は、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受け取っていました。
足利家を守るため、北条氏を裏切る準備は以前からしていたのです。
再び上洛した尊氏は、六波羅探題に攻め入り、そして怒涛の攻撃によって僅か1日で敵を壊滅!!

そして、新田義貞も挙兵!!
足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした翌日の5月8日、関東でも討幕の狼煙があがります。
上野国を本拠地とする御家人・新田義貞が、地元の生品神社で挙兵しました。
義貞が討幕を決意した理由は・・・当時、新田氏が置かれていた状況にありました。
源氏名門の出でしたが、始祖が頼朝と不仲だったので、足利氏の方が立場が上で、新田氏の方が格下でした。
30歳を過ぎた新田義貞が無位無官だったのに対し、足利尊氏は従五位下・治部大輔に任ぜられていました。

新田は単独で挙兵したのではなく、高氏が義貞挙兵のうらにいたと思われます。
新田氏は足利氏の中に組み込まれていたのです。
挙兵を決意した義貞でしたが、兵の数は僅か150.
ところが、生品神社から鎌倉街道を進み続けると・・・越後国の新田一族2000、甲斐源氏・信濃源氏の一派5000が参陣!!
太平記によれば翌日には足利尊氏の嫡男・千寿王が合流。
新田・足利連合軍となったことで、東国の武将たちが次々と参陣し、その夜には20万の大軍勢となりました。
一方、義貞挙兵の知らせを受けた幕府は、鎌倉に近づけまいと6万の兵を差し向けます。
5月11日午前7時ごろ・・・両軍は、現在の埼玉県所沢市小手指で激突!!
戦いは、一進一退!!多くの死者を出しましたが、この日は決着がつかず!!
12日、夜明けとともに再び激突!!
幕府軍は左右に広がって挟み撃ちにしようとしますが、義貞は逆手にとって手薄になった本陣を攻撃!!
「勝利は見えた」そう考えた義貞は、翌日、翌々日を休息日にあてました。
しかし、その間に・・・北条高時の弟・泰家の10万の援軍が合流していました。
そうとは知らない義貞は、翌日、幕府軍の猛反撃を受けて苦戦!!
義貞の本陣も総崩れとなってしまいました。
その時、幕府の本拠地である相模の武将たち6000が新田軍に参陣!!
相模は、御内人とよばれ、将軍ではなく北条得宗に仕える武士でした。
そこの人までも暴れ出した・・・それは、潜在的な幕府の不満が大きかったのです。
義貞軍は、幕府軍に奇襲をかけて圧勝!!
討死寸前で家臣に救われた泰家は、鎌倉に逃げ帰りました。
鎌倉に南下した新田軍・・・次々と武士たちが合流し、鎌倉の手前では60万人になっていました。

鎌倉は、相模湾と三方を山に囲まれた自然の要害。。。
出入口は、鎌倉七口しかありません。
そこで義貞は、化粧坂切通し、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しの三方から侵入しようとします。
幕府軍は守備を固めます。
鎌倉幕府存亡をかけた最後の戦いが始まりました。
5月18日、午前6時ごろ・・・
新田義貞が地鳴りのような声と共に60万の兵で鎌倉攻めが始まりました。
義貞率いる本隊は、化粧坂で幕府軍と激突!!
全軍の2/3が投入されたといいます。
対する幕府軍は3万!!
巨福呂坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍6万!!
幕府軍の大将は、16代執権赤橋守時で奮闘しました。
極楽寺坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍5万!!
幕府の猛攻を受けますが、果敢に突撃!!

なかなか落とぜず、焦る新田義貞・・・!!
地の利を生かして守りを固め、新田軍の侵入を防ぐ幕府軍に対し、策を講じます。

「陸路が駄目ならば海からじゃ!!」by義貞

稲村ケ崎の先端から鎌倉の市街地へ入ろうとしました。
切り立った崖は容易に進むことtができませんが・・・??

義貞は、稲村ケ崎の難所を、5月22日に突破しようと考えていました。
その理由は、この日が大潮だったからです。
午前4時ごろ・・・兵を進め、歩いて回り込んだと考えられます。
自然現象を巧みに利用して、由比ヶ浜への上陸を成功させた新田軍は、周辺の民家に次々と火を放ちます。
そして、その火が浜風に乗って広がるのに乗じて市街地に攻め入ったのです。
思いもよらない海側からの攻撃に慌てる幕府軍!!
鉄壁だった切通の守りも次々と破られます。
最早、幕府軍の敗北は決定的でした。
しかし、幕府軍は最後まで鎌倉武士の意地を見せます。
火は燃え広がって、北条執権邸にまで・・・。
高時は、側近らと共に菩提寺だった東勝寺に逃げ込みます。
鶴岡八幡宮の南東600mのところにあったとされる東勝寺・・・ここが、鎌倉幕府終焉の地となったのです。
「もはやこれまでか・・・」
皆、最後の時を覚悟していました。
するとそこへ、最前線で戦っていた高時の側近・長崎高重がこう告げます。
「敵の手にかからぬうちにご自害すべき時ですが、最後の御奉公として今一度敵を蹴散らしてまいります。
 どうかそれまでお待ちください。」
そう言って駆け出すと、150の兵と共に新田軍に突撃!!雷神のごとく戦った高重は、東勝寺に戻ると、

「敵はそこまで迫りつつあります。ご自害ください。
 この高重が、切腹の手本をお見せして、冥途の先導を致しますゆえ」
皆がこれに続き切腹!!
側近たちの見事な切腹に高時も・・・高時もこと切れると皆も自害・・・その数 870人に及んだといいます。

武家政権が生まれ変わるための産みの苦しみだったのかもしれません。
150年続いた鎌倉幕府は終わりを告げたのでした。
鎌倉での死傷者は6000人以上・・・幕府滅亡に心を痛めた後醍醐天皇は、足利尊氏に命じて執権の屋敷跡に寺院を建立し、北条氏の霊を弔いました。

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鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代に至る歴史を描いた軍記物「太平記」。
楠木正成の生涯は、ここに書かれた晩年の5年以外はほとんどわかっていません。
正成は鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇の建武の新政を実現させる原動力となった人物でした。
その戦い方は型破りなものでした。
当時の常識からは考えられない戦いで、僅かな手勢で大軍を翻弄します。

「知謀を用いれば、幕府軍など恐るるに足らない。」

まさに、戦の天才でした。
しかし、本人がどのような思いを抱き、何のために戦っていたのか?それは謎です。
突然、歴史の表舞台に登場して活躍しますが、実像は何もわかっていません。

かくたる資料の残っていない楠木正成・・・どのような立場の人間だったのでしょうか?
かつて正成は悪党と呼ばれる鎌倉幕府と対立した武装集団だと考えられてきました。
しかし近年、鎌倉幕府に仕える御家人のひとりとされています。
それではどうして幕府を倒そうとしたのでしょうか?

正成は、鎌倉時代末期の1294年?に、河内国に生まれています。
正成とゆかりのある河内長野の観心寺・・・少年時代この建物で、学問を学んでいたといいます。

この頃、人々の暮らしは困窮していました。
きっかけは2度にわたる元寇・・・御家人たちは、重い負担に耐え戦ったにもかかわらず、ほとんど恩賞を得ることはできませんでした。
その影響が、社会全体に広がっていました。
鎌倉幕府の執権・北条孝時は、政治に興味がなく、田楽、闘犬に興味を持っていました。
鎌倉幕府は、東国の武士を中心とした武家政権です。
組織の末端にいて、正成は、恩恵を受けていなかったのでは??
西国の武士である正成は、東国中心の幕府に不満を持っていたのではないか??
正成は、武士であるとともに土地の利を生かして商売をしていたようです。
河内は川と川に挟まれ、交易が便利なところでした。
運送業の元締めをやっていたと思われます。
城を持ち、兵士がたくさんいる鎌倉武士とは全く違う武士だったのです。
この頃、交易は人々にとって重要な収入源となっていました。
しかし、鎌倉幕府は関所を設け、税金を取ろうとしました。
幕府に対する人々の不満は募っていきます。
そんな中、打倒鎌倉幕府と挙兵したのは後醍醐天皇でした。
1331年、正成38歳の時、建武の新政!!
天皇が直接国を支配する体制を復活させるのが狙いでした。
謎だった正成の生涯も、ここからの5年間は多くの資料が残されることとなります。
河内周辺で名が知れ渡っていた正成は、天皇に呼び出されます。
この時、正成は
「天下統一を目指すには、武力と知謀の2つが必要です。
 知謀を用いれば、武力に強いだけの幕府軍など遅るるに足らないでしょう。」と言ったとか。
正成は、地域に閉じこもらず、京都(六波羅探題)に頻繁に出入りしました。
その中で、天下の動静をいち早くわかっていたのです。
「鎌倉幕府はもう長くはない・・・」と。
鎌倉幕府から寝返り、後醍醐天皇にかけてもおかしくはありませんでした。

幕府への不満を自分だけでなく、畿内・西国の武士や民衆がもっている・・・
そういう人たちが、正当に評価される新しい社会を望んでいたのです。

後醍醐天皇が挙兵したのは京都にある笠置山。
鎌倉軍はこれを取り囲むように・・・正成はその背後をつくかのように、地元赤坂城で挙兵しました。
しかし、2週間後には後醍醐天皇のいた笠置山が陥落!!
大軍が赤坂城へ・・・!!
対する正成の手勢は僅か500!!
幕府方はつぶやきます。
「哀れな敵の有様や。
 こんなにわか作りの城では一日も持つまいよ。
 楠木の首をとって恩賞に預ろう。」
それでも正成の軍は奮闘、相手を寄せ付けません。
そこで幕府軍は、城を包囲し、兵糧攻めに・・・十分な食料を蓄えることができていなかった正成・・・ついに、自ら城に火を放ちます。
しかし、これも正成の計略でした。
自害したと見せかけ、再起するための時間を稼ごうとしたのです。
かつて、後醍醐天皇に正成はこう宣言していました。
「合戦の一時の勝ち負けを重視なさらず、たとえ負けてもこの正成が生きている限り、天皇の御運は必ず開くと思っていただきたい。」

1332年・・・赤坂城の戦いから1年・・・再び楠木正成が歴史の表舞台に・・・!!
そして、ありとあらゆる戦術で鎌倉幕府軍を翻弄し、戦の天才を見せつけます。

戦術①偽装工作
正成の最初の狙いは、赤坂城の奪還でした。
目をつけたのが兵糧部隊でした。
正成は兵糧部隊を襲うと、俵に武器を隠し、相手から奪った武具を味方につけさせ、城から見えるところで兵糧部隊が襲われているふりを演じさせました。
城にいた軍は、味方が襲われていると救援に・・・偽の兵糧部隊は城内に・・・
兵糧部隊は、隠してあった武具で城内をかく乱!!
正成はあっという間に赤坂城を奪い返しました。
その後、周辺地域を制圧した正成は、1333年鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題のある京都へ・・・。
知らせを受けた鎌倉幕府は精鋭部隊500騎を出します。
正成軍2000・・・。
相手の数の少なさを知った部下たちは真っ向勝負を主張します。
しかし、正成は・・・
「わずかな軍勢で攻めて来るからには、生きて帰ろうとは思っていないはずだ。
 そんな相手と戦ったら、味方の大半は必ず討たれる・・・。」
正成はすぐさま撤退。

戦術②心理作戦
夜・・・幕府軍のいる山々に何万ものかがり火が・・・緊張が走ります。
「正成の大軍に取り囲まれている・・・」
しかし、せめては来ませんでした。
翌日の夜、またもや何万ものかがり火が・・・。
さらに次の夜も・・・眠ること出来ない幕府軍は、疲労がたまり撤退していきました。
このかがり火は、正成は地元の農民5000人を動員して演出したものでした。

「優れた武将は、戦わずして勝つ」

苛立ちを募らせた鎌倉幕府は、正成を討つために大軍を送り込んできました。
正成は、金剛山にある千早城に立て籠ることに・・・
攻め寄せる幕府軍2万5000!!
これに対し、正成軍は僅か1000!!
1333年、40歳の時、千早城の攻・・・。
ここで正成は、今までの常識とはかけ離れたゲリラ戦を展開します。

戦術③ゲリラ戦
これまでの戦いは、「我こそは・・・」と名乗りをあげて一騎打ちをするのが常でした。
が、正成は真っ向勝負をしようとはしませんでした。
敵が攻め寄せてくると、弓で大量の矢を浴びせかけます。
相手が城にのぼろうとすると、丸太、岩を落とします。
更には、煮立った油や糞尿までも浴びせました。

自分の戦力は素人の戦力・・・素人が一番強いのがゲリラ戦だとわかっていたのです。
ゲリラは山岳地帯・・・身を隠しながら、敵の動きを封じて叩く!!
複雑な地形や道を選び、そこに敵を誘い入れ叩く!!
相手が警戒して敵が近づかなくなると・・・

「それなら相手を騙して目を覚まさせてやる!!」

戦術④だまし討ち
正成は夜中に大量の藁人形を城の外に出します。
城内の兵が打って出たと思った幕府軍は、猛烈な勢いで襲い掛かります。
しかし、そこに・・・大量の岩が・・・。
幕府軍は、止む無く兵糧攻めにすることに・・・。
ところが、一向に効果が出ません。
正成は、兵糧攻めに対して、万全の準備をしていたのです。

戦術⑤兵糧攻めへの対応
まず、水は城内に300の水桶を用意し、金剛山の隠された水源から十分に確保していました。
食糧は、山の抜け道を利用し、周辺の村々から調達していました。
やがて驚くべき事態が・・・幕府軍の方が飢え始めます。
正成が近隣の住民たちに幕府軍の補給部隊を襲わせたのです。
幕府軍の兵士たちは、戦意を失い、戦場を離れる者もあらわれました。
千早城の攻防が始まってから3か月・・・幕府は大軍を送り込みながら、僅か1000人の城を落とせずにいました。
この噂は、諸国を駆け巡り、幕府の権威を一気に失墜させることに・・・。
そして、幕府の有力御家人だった足利尊氏が反旗を翻し、京都の六波羅探題に・・・。
同じく、有力御家人だった新田義貞が鎌倉を攻めます。
こうして、鎌倉幕府は滅亡したのです。

鎌倉幕府が滅亡したのち、後醍醐天皇による天皇主導による政治が復活しました。
建武の新政です。
しかし、まもなく共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏が後醍醐天皇に反乱を起こします。
この時、楠木正成は後醍醐天皇側につき、足利尊氏と対峙することに・・・。
どうして正成は、尊氏と対立する道を・・・??
正成は、下級武士であったにもかかわらず、河内・摂津を授かりました。
さらに、新政権の中枢を担うという破格の待遇でした。

「こうしてめでたく幕府に勝てたのは、お前が私の味方として戦ってくれたからだ。
 心から礼を言う。」by後醍醐天皇

「我々の力ではなく、全て天皇の徳によるものでございます。」by楠木正成

正成は、戦いで亡くなった味方を弔うために、慰霊碑を立てたといわれています。
さらに、敵の兵を弔うための慰霊碑も・・・。
しかも、味方の慰霊碑よりも大きいものにしました。

1334年建武の新政が始まりました。
後醍醐天皇は、綸旨を次々とだし、社会の改革を進めようとします。
しかし・・・それは、人々の期待を裏切るものでした。
一刻も早く天皇の権威復活を目指す後醍醐天皇は、天皇の暮らす内裏を造営・・・
その費用を賄うために、農民に従来より重い年貢を課すことに・・・。

「幕府が滅亡して暮らしが楽になると喜んでいましたが、今は昔より重い年貢や労役に苦しんでいます。
 自分たちの暮らしはどうなるのでしょうか?」

討幕に加わった武士たちも不満を募らせていきます。
公家に対して恩賞が手厚かったのに対して、武士への恩賞は僅かでした。
そして、従来所有の土地に対しても新たに綸旨が必要ででした。
結局、武士たちは、綸旨を求め天皇の元へ殺到!!
政府は混乱し、一度認められた土地が没収されることも・・・。
こうした中、社会は乱れ、御所の近くに落首が立てられるほど・・・。

この頃都にハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨

後醍醐天皇自身が、手段は構わないので天皇の権威を再構築しようと綸旨を乱発し、結果的には綸旨の権威を失わせ・・・それは、天皇自身の政治的権威を失墜させることとなったのです。

1335年、正成42歳の時に、足利尊氏が、武士たちの不満を背景に後醍醐天皇に反旗を翻しました。
そして、京へと攻め上っていきます。
後醍醐天皇は、すぐに綸旨を出しました。

「足利尊氏たちが、反逆を企てているので、征伐されるべきである。」by後醍醐天皇

正成は、後醍醐天皇の言葉に従って、尊氏軍を迎え討つことに・・・!!
正成と一緒に戦った人たちは、家来ではなく仲間で、一方的に命令することはできません。
個人で判断できるなら、尊氏につくという選択もあったでしょうが、それは仲間を裏切る形となってしまうので、正成にはできませんでした。
尊氏は、与えられた時代の中で、自分の立場をよくわかっていました。
正成は、時代の中で何が自分に要求されているのか・・・社会との関係でものを考えるのではなく、自分との関係でものを考えていました。 
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏、あくまで天皇の味方をする楠木正成・・・二人の戦いが始まりました。
そして、正成は尊氏を追いつめます。
正成はあえてとどめを刺しませんでした。
九州へ落ち延びていく尊氏・・・。

楠木正成最後の戦いとなった湊川の戦い・・・
足利尊氏軍35,000に対し、楠木正成軍700!!
それは、死ぬことを覚悟した戦いでした。
どうして死ぬことを選んだのでしょうか?
尊氏を撃退した時、正成は不思議な光景を見ます。
敗走する尊氏軍に味方が追従していたのです。
戦いに勝利した正成は、後醍醐天皇の一つの策を進言します。
正成と共に後醍醐天皇に従っていた新田義貞を討ち取ったうえで、足利尊氏を召し出し和睦せよというのです。

「尊氏は、西国の武士たちを味方につけ、一月後には京都へ攻め上がってくるでしょう。
 その時は、彼らの進撃を止めるすべはありません。
 天皇の武士でさえ、尊氏について行ってしまいました。
 これを見て、天皇の徳のなさを思い知って下さい。」by正成

正成は、天皇に武士から尊敬を集める尊氏を、是非味方につける必要があると訴えます。
正成は、足利尊氏を人間的に評価していました。
だから、足利と組めと・・・足利を呼び戻し政権にいれれば、なんとか持ちこたえて、崩壊を免れると考えていたのです。
しかし、正成の進言が受け入れられることはありませんでした。
正成の予測通り・・・
1336年、正成43歳の時に尊氏が西国の武士を味方につけて、再び挙兵!!
この時、新田義貞の軍が兵庫で尊氏を迎え討つことに・・・。
そして、正成にも新田軍と戦うことを命じられます。
それではk地目がないと感じた正成は、別の案を提案します。

「尊氏軍は、これまでにない雲霞のごとき大軍でありましょう。
 そのため、新田を京都へ呼び戻し、天皇は比叡山へお移り下さい。
 そして、尊氏軍を空の京都へ誘い込んで、兵糧攻めにし、南北から挟み撃ちにすれば、勝利出来ましょう。」

しかし、天皇の側近の一人が言い放ちます。

「戦いもせぬうちに都を捨てて、比叡山に逃れることは、天皇の権威失墜につながる。
 これまでのこちらは大軍を退けてきた。
 それは武士の戦略によるものではなく、ひとえに天皇の御運が天命にかなっているからである。」と。

正成は、最後にこう言い残しました。

「この上は、異論を申すまでもありません。
 天皇は大敵を打ち破る策を立て、勝ち戦に導くというお考えではなく、討ち死にせよとのご命令なのですね。」

正成は、討幕戦の主力でありながら、尊氏が兵を進める際には新田義貞が総大将・・・。
その点で、排除されているという孤立感がありました。

1336年5月25日、正成は、湊川で尊氏軍と激突!!
3万5000の尊氏軍に対し、正成軍は僅か700!!
圧倒的な兵力の差にも関わらず、6時間もの間戦い続けたといいます。
そして正成は、生き残った70名ほどの部下と共に、民家に逃げ込みました。
最期の時・・・正成は共に戦い続けてきた弟に尋ねます。

「生まれ変わったら、何を望む?」

「七度生まれ変わっても、同じ人間に生まれ、朝敵を滅ぼしたい。」

「その望みは同じだ。
 すぐさま生まれ変わって、この願いを遂げよう。」

二人は、お互いを刺し合い果てました。
正成、43歳でした。

楠木正成、最期の戦いとなった湊川の戦い・・・
その直前、正成は共に戦いたいという正行に、地元・河内に帰るように命じました。
桜井の別れです。

「一族の誰でも生き残っている間は、命を投げ出して戦い、後代に名誉を残しなさい。
 それが、お前にできる親孝行だ。」

正成の死後、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れました。
これに対し、尊氏は京都で別の天皇を擁立。
二人の天皇が並び立つ、南北朝時代が始まります。
対立が続く中・・・南朝の後醍醐天皇崩御(1339年)。
そこに現れ、南朝のために力を尽くした武将がいました。
正成の息子・正行でした。

武家と天皇の狭間で死んでいった楠木正成・・・
その後の時代の移り変わりを、どんな思いで見つめていたのでしょうか?


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