日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:後陽成天皇

1598年8月18日、天下人がこの世を去りました。
貧しい農民の出身とされ、そこから異例の出世を遂げた豊臣秀吉です。
2020年、秀吉にまつわる歴史的大発見が立て続けに報じられています。

2020年5月「幻の城」京都新城の遺構が発掘される
     6月「駒井日記」の自筆原本の一部が発見される

こうした新発見により、秀吉の新たな人物像が明らかになるのでは??と、注目されています。
そんな秀吉が天下人となったのは、最後までて期待していた北条氏を攻め落とし、奥羽を平定し終えた1591年、秀吉が55歳の時でした。
天下統一を果たした秀吉は、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、鎌倉幕府を興した源頼朝の像に向かってこう語ったとつたえられています。

「わしと同じく天下を取った頼朝公は、友のようなものである
 しかし、貴殿は帝の末裔であるが、わしは全く何もないところから天下を取った
 それは何事につけ、いつも心を働かせ、素早く動いたからである」

中国大返しも、尋常ならざる素早さでした。
まさに知略とスピードで、天下人となった秀吉・・・。
そんな秀吉の最後とは・・・??

1591年、天下統一を成し遂げたとの年、秀吉に不幸が訪れます。
側室・淀の方との間にようやく授かった男子・鶴松がわずか3歳で亡くなりました。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を養子に迎えると、関白職を譲り、自らは太閤と呼ばれるようになります。
しかし、隠居したわけではなく・・・その目は、海を越え、世界に向いていました。

鶴松を失くした1591年8月・・・
秀吉は、”唐入り”を全国に布告します。
唐(から)とは、当時の明のことで、秀吉は明を征服する為に、まずは朝鮮半島への進軍を計画します。
その狙いは、これまで海外への領土拡張や、途絶えていた明との貿易を再開するためなど、様々な説が唱えられてきました。
しかし、それらとは別の狙いがあったのでは??

秀吉の唐入り計画は、国際的要因が大きかったのでは??
当時、スペインは、世界征服を狙っていました。
その対象には、当然明、日本も入ります。
秀吉は、東アジアの政府苦悩野望を止めるために、機先を制するためだったのでは??
スペインによる日本征服を阻止する為に、その足掛かりになる明を先に支配下に置こうとしたのです。
肥前国・名護屋に拠点の城を築き始めます。
着工からわずか半年で完成した城の総面積は、当時の大坂城の次の規模を誇る約17万㎡。
秀吉の並々ならぬ意気込みが伺えます。

1592年4月、秀吉は唐入りの布告通り、16万の軍勢を朝鮮半島に送ります。
第1次朝鮮出兵・・・文禄の役です。
釜山に上陸した日本軍は、わずか半年で朝鮮の首都を占領し、全羅道を除く朝鮮半島のほぼ全域を制圧します。
この報せを受け、気を良くした秀吉は、5月18日、京都にいた関白・秀次に書状を送ります。
そこには驚くべき構想が書かれていました。

「三国国割構想」です。

・明国を支配した暁には、今の帝(後陽成天皇)に明の都・北京へ移っていただき、秀次が大唐関白となる
・日本での新たな帝は今の帝の皇子(良仁親王)か、帝の弟君(智仁親王)
・朝鮮統治は、秀次の弟である秀勝か宇喜田秀家が行うとする

日本・明・朝鮮を近親者などで統治し、秀吉はアジアの盟主となる壮大な計画でした。
さらに秀吉は、この時フィリピンも視野に入れていたといいます。
フィリピンがスペインに支配されていたことが理由でした。
秀吉は、フィリピンのマニラにいたスペイン人のフィリピン総督に、こんな親書を送っています。

”速やかに日本に使者を寄越して服従せよ!
 もし遅れれば、兵を派遣する!!”

恫喝とも取れる強い態度には理由がありました。
スペインによる日本征服計画を強くけん制し、抑制する効果があったようです。
現に、総督はマニラに戒厳令を敷き、秀吉が攻めてくるのではないか?というスペイン側の記録が残されています。
一説に秀吉は、この時ヨーロッパと香辛料貿易が盛んだったインドまで攻略するつもりだったともいわれています。
しかし、その広大な構想は、行き詰まりを見せます。

朝鮮半島で快進撃を続けていた日本軍でしたが、明の援軍が到着したことによって膠着状態に・・・
1593年3月、明(14代皇帝・万歴帝)との講和交渉が始まりました。
5月23日、秀吉は名護屋城で明の勅使と会見・・・
朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲することなど7つの条件を提示しました。
しかし、結局、秀吉の要求は明に受け入れられず、交渉は決裂してしまったのです。

この年、側室・淀の方との間に拾(秀頼)が授かります。
秀吉は、新築された伏見城に二人を伴って移り住みました。
その時、秀次の側近だった駒井重勝が書いた日記にも、秀頼のことが書かれています。

”御ひろい様
 一段とご息災に御座候”by駒井日記

将来は、お拾様と秀次の娘を結婚させ、舅と婿の関係とすることで、両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えでした。
当初は養子の秀次と、実の子である秀頼を共に盛り立てて行こうと考えていた秀吉でしたが、天下人も人の子・・・我が子がかわいくなります。
秀次に譲った関白に秀頼をつかせて自分の後継者にと望むようになります。

気持ちの変化は行動にも表れたようで・・・秀頼の生まれた4か月後・・・

”秀吉公が定めた「尾州国中御置目・について、一書をもって秀次公に申し上げる”by駒井日記

当時、尾張は秀次の領地でした。
しかし、この日記が書かれる前の月、秀吉が突然尾張を視察・・・
故郷である尾張の荒廃した様子をその目で確かめると、新たな定めを作る順守するように秀次に命じました。

御置目には、田畑が荒れた現状などを憂いたうえで、
・堤防を築き洪水対策を行う
・普請に従事する農民に酒や餅を配る
・陰陽師に土地を祈祷させる

尾張を復興するように書かれていました。

秀次は焦ります。
秀吉から命令されたということは、尾張を統治する者として、そして秀吉の後継者としてダメ出しを食らったようなもの・・・
関白の座を秀頼に譲らせるための秀吉の圧力・・・こうして秀次への圧力は始まっていたのです。

1595年、秀次が突如秀吉から謀反の疑いをかけられたのです。
なかなか関白の座を譲らない秀次に、秀吉が業を煮やし、謀反の疑いをかけたともいわれています。
そして・・・7月15日・・・
秀次は、無実を訴えながら、高野山で切腹・・・
その首は、京都・三条河原に晒され、さらに一族39人を見せしめのために同じ河原で処刑されたのです。
秀吉が亡くなる3年前のことでした。

秀吉は、聚楽第まで潰してしまいます。
そして、伏見城を増改築して豊臣政権の中心に据えようと、聚楽第の周囲にあった諸大名の屋敷も伏見へと移転させます。
ところが、1596年閏7月・・・M7.5の直下型地震・・・慶長伏見地震です。
被害は甚大で、大坂、堺、兵庫では多くの家が倒壊し、京都では伏見城、東寺、天龍寺などが倒壊し、死者は1000人を越えたと伝えられています。
この時、秀吉は伏見城にいたようです。
「当代記」によれば、城内で数百人が亡くなったものの、秀吉はなんとか無事で、台所で一晩過ごしたといいます。
そして翌日からは、伏見城から1キロ離れた木幡山に仮小屋を建て、避難生活を送ったと言われています。
この地震がきっかけで、この年の10月17日、「文禄」から「慶長」に改元されました。

文禄の役で、明との講和交渉が決裂した豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵を決めます。
そして、1597年2月・・・配下の武将たちにこう命じます。

「全羅道をことごとく成敗し、忠清道にも侵攻せよ!!」by秀吉

これによって、総勢14万の軍勢が対馬海峡を渡り、第2次朝鮮出兵「慶長の役」が始まりました。
日本軍は、朝鮮水軍を壊滅させると、わずか2か月で慶尚道、全羅道、忠清道を制圧、反撃に出た明・朝鮮連合軍を蔚山の戦いで撃破し、朝鮮半島南岸の拠点を確保するのです。

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この時、秀吉61歳、まだ気力も体力もみなぎっていました。
秀吉に重用された戦国の名医・曲直瀬玄朔が記した「医学天正記」にはこんな記録が残されています。

「秀吉公が感冒を患ったので、桔梗湯を投与した」

感冒とは風邪のことですが、これ以外に秀吉が大きな病にかかったという記録は残っていません。

秀吉は、東寺が好きで近江長浜城や姫路城には入念に湯殿を作らせたといいます。
天下人になってからは、番医というお抱え医師団を形成、24時間体制で常勤させ、自分だけでなく、身内や大名たちの病も診察させたといいます。
ルイス・フロイスによると、秀吉は大坂城だけで300人の側室を有し、国中の美人や若い人妻の中で秀吉から逃れられた者はない・・・といわれています。

そんな秀吉のスタミナ源とは・・・??
秀吉が若い頃から好んだ食材は、ドジョウでした。
カルシウムが多く、アルギニンが豊富に含まれています。
秀吉は、若い頃、ドジョウを売って生計を立てていました。
どんなふうにして食べていたのでしょうか??

ドジョウ汁・・・ささがきしたゴボウとドジョウとネギを味噌で煮込んだものです。

元気の源です。

2020年5月、日本の城郭史を揺るがす大発見がありました。
豊臣秀吉が最晩年に築いたと言われる京都新城の遺構が派遣されたのです。
京都新城は、関白・豊臣秀次の屋敷だった聚楽第を取り壊した2年後の1597年、天皇が暮らす御所の南東に築かれたとされ、当時は太閤御所などと呼ばれていたことはわかっていました。
しかし、資料が少なく、遺構も見つかっていなかったため、正確なな場所や規模は不明のまま・・・幻の城と呼ばれてきました。
しかし、2019年11月から始められた発掘調査で、遂に京都御苑の傍にある京都仙洞御所の一角から南北8mにわたる石垣の一部が出土したのです。
その石垣は、野面積みの石垣で、秀吉の時代によく用いられた工法でした。
さらに、豊臣家が用いた桐紋が入った金箔瓦の破片も出土したため、この遺構は秀吉が築いた京都新城の一部に間違いないとされたのです。

京都新城からわかる秀吉の政治構想とは・・・??

秀吉は、5歳になった嫡男・秀頼のために、新しい城を築こうと考えました。
破却した聚楽第があった場所ではなく、天皇のいる御所のすぐ近くに建てよと指示したのです。
秀頼が、御所(内裏)の近くに住むことは、摂関家としての豊臣家の象徴行為でした。
秀吉は、秀吉が将来、関白になることを想定して、京都新城を御所の側に建てたのです。
関白となった秀頼の存在を天皇や公家たちにアピールするために建てられたのです。
急ピッチで築城された京都新城は、5か月で完成!!
1597年9月、秀吉は秀頼と共に入居しました。
そして、秀頼の元服の儀を行うのです。

しかし、その夢はうたかたの如く消えます。
秀吉の死後、1599年、秀頼は大坂城へ移ります。
その為、京都新城が使われたのは、わずか1年ほどでした。
その後、関ケ原の戦いで京都新城が破却されます。
今回発見された京都新城の遺構は、まさに秀吉の夢の跡でした。

1598年3月15日、京都醍醐寺三宝院の裏の山ろくで、後世に語り継がれる盛大な花見が催されました。
天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見です。
700本の桜を植樹し、女房、女中衆1300人を招いたというまさに空前絶後の花見でした。
当日は、絶好の花見日和で、秀吉は、終始上機嫌だったといいます。
女房、女中衆全ての着物を新調し、途中でお色直しまであったと言われています。
贅の限りを尽くしたまさに、天下人・秀吉らしい豪遊でした。
平穏に見えますが・・・目下、朝鮮出兵中でした。
戦のさ中です。
1598年5月3日、秀吉は、朝鮮の状況を聞き、激怒します。
蜂須賀家政・黒田長政がその日の先鋒であったにもかかわらず、戦をしなかったというのです。

「臆病者めが!!」by秀吉

この時、年が明けたら福島正則、石田三成、増田長盛ら3人を大将とする第3次朝鮮出兵を計画していました。
そんな野望を熱く語っていた2日後・・・秀吉は、突如倒れてしまいました。

1598年5月5日、秀吉は、極度の下痢に襲われます。
当初は軽く考えていましたが・・・倦怠感と脱力感を訴え、食欲も減退・・・
尿失禁や手足の痛みの症状が出てきました。
しかし、やがて病状は回復・・・
秀吉は、翌年の再出兵に向けて、朝鮮の築いた城に兵糧や弾薬などを備蓄するように命じたほどでした。

ところが・・・
8月5日、秀吉の病状は再び悪化・・・
死期が近いことを知った秀吉は、徳川家康をはじめとする五大老に宛てた遺言状を書きます。

「くれぐれも秀頼のことが成り立つよう、五人の方々に御頼み申す
 何事もこの他には思い残すことなく候」

そして、この13日後の1598年8月18日、秀吉は62歳でこの世を去りました。
戦国の世を駆け抜けた波乱の生涯でした。

発病から3か月後に亡くなった秀吉・・・その死因は何だったのでしょうか?
秀吉の死因についての記録は少なく、今も謎に包まれています。
数少ない記録であるイエズス会宣教師フランシスコ・パシオの「日本年報」には・・・赤痢を患ったとあります。
高熱と激しい腹痛と下痢が続きます。
しかし、下痢の症状から亡くなるまで3か月あまり・・・秀吉の死が赤痢によるものならば、もっと早く命を落とすのでは・・・??
パシオは、秀吉が「時ならず胃痛を訴えた」とも書き残しています。
このことから、胃がんだったのでは??という説もあります。

尿失禁、手足の痛みがあることから、脚気という説もあります。
脚気は、悪化すると尿失禁、手足の痛み、歩行困難、錯乱などの症状が出る病で、ビタミンB1の不足により発症します。
日本人の主食である米と大きく関係しています。
米の灰が部分には、ビタミンB1が豊富に含まれていますが、精米して白米にすると、ほとんどなくなってしまいます。
その為、白米ばかり食べた結果、ビタミンB1が不足して脚気になるというのです。
そもそも、平安時代ごろから米を精米して食べる習慣はありましたが、当時、白米は貴族たちの食べる高級食でした。
秀吉の時代も同じで、貧しい頃には白米など食べられず、雑穀米でビタミン不足にはならないのですが・・・
出世していくにつれ、白米を好むようになり、ビタミンB1が不足し、脚気になった可能性が高いのです。

脚気で死に至ることはあるのでしょうか?
衝心脚気の可能性が高いと言えるでしょう。

1598年8月18日、天下人・秀吉が波乱の人生に幕を下ろしました。
遺言に従い、秀吉の亡骸は火葬されずに伏見城内に甕に納められて安置されました。
さらに、秀吉の死は公表されず、徹底的に隠されました。
その理由は・・・??
丁度その頃、朝鮮半島には、大名や武士などが出兵している段階でした。
その段階で、日本側の最高権力者の死が敵国に伝わると、日本の兵たちが帰国できない可能性があったのです。

朝鮮半島からの帰国命令が出され、引き揚げが開始されたの、秀吉の死から2か月後の10月・・・
そして、引き揚げの目途がついた翌年・・・1599年1月5日、石田三成ら五奉行によって秀吉の死が公表されました。
4月、伏見城内にあった秀吉の亡骸は、京都阿弥陀峰山頂にうつされ、密かに埋葬されました。
秀吉は、死後、自分を新八幡として神格化するように遺言していました。
秀吉は、対外戦争のさ中に亡くなっていく・・・日本を守りたいという遺志が「新八幡」という神号に込められていました。

ところが、神号を授ける後陽成天皇が秀吉に与えたのは、「新八幡」ではなく、「豊国大明神」でした。
秀吉の後継者である秀頼や、正室のおね、豊臣政権で最も力を持っていた徳川家康の意向を受けてのことだったといいます。
豊国大明神・・・豊芦原中津国を省略したもので、秀吉が日本を代表する存在であることを強調する意味が込められていました。
「新八幡」=武の神ですが、「豊国大明神」=武の神でした。
意味合いとしては同じようなものでした。
当時は、朝鮮半島から撤退するも、明や朝鮮との戦いが終わったわけではなく、秀吉亡き後も国内情勢も不安定な状態・・・内憂外患がある中で、秀吉の遺族や家康たちは、秀吉を豊国大明神という日本の象徴として神格化、国内外にいまだ豊臣政権が盤石であることを知らしめようとしたのです。
こうして秀吉は、死後、神となりました。

しかし、後を継いだ徳川家康によって、豊臣家は滅亡してしまいます。
その家康は、1604年、秀吉の七回忌に「臨時大祭礼」を開催しましたが、京都の人々にとって秀吉は生前、都を大改造するなど京都に活気を与え、好景気を与えた大恩人・・・そんな秀吉を敬い、祭りに熱中する京都の人々の太閤贔屓を目の当たりにして、家康、怯えたのかもしれません。
家康は、秀吉を祀る京都豊国神社を破却するよう命じます。
秀吉は、死してもなお、家康を恐れさせていたのです。

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4月中旬、熊本を襲った震度7の巨大地震・・・熊本城も大きな被害を受けました。
堅固な石垣が崩れ、建物は雪崩を打って壊れています。
しかし、熊本は復興に向けて動き出しています。
石を元通りの場所に配置するための石の緻密な採寸が行われていました。
そして6月1日・・・1か月半ぶりにライトアップされました。
人々の心の支えとなっている熊本城には、不屈の精神が宿っていると言われています。

熊本城を築いたのは加藤清正!!

1600年、天下分け目の関ケ原の戦い!!
東軍か??西軍か・・・??
どちらにつけば秀吉の遺児・秀頼を守ることが出来るのでしょうか??


名古屋市中村区の豊国神社は、豊臣秀吉の出生地です。
神社からわずか100mのところで秀吉に後れること25年・・・加藤清正が生まれました。
9歳の時母方の親戚である秀吉に小姓としてあがった清正。
歴史の表舞台に出てくるのは、信長の死後秀吉が柴田勝家と戦った1583年賤ヶ岳の戦いです。
22歳の清正は、槍をふるい、獅子奮迅の働きを見せました。
猛将のイメージが強い清正ですが・・・

九州平定の陣立てでは・・・清正の名が記されているのは後ろから8人目・軍勢僅か170名・・・。
後備という秀吉の周りを固める配置となっていました。
なので、九州征伐で自分が手柄を立てられるような場所ではなかったのです。
秀吉の周りで、秀吉の支持で動く・・・九州征討中に発生した没収地の管理をしていました。
官僚的な側面も強かったのです。

1588年肥後半国19万5千石の大名に抜擢!!
秀吉の朱印状には期待が込められています。
「お前は何事にも精を入れて頑張っており、役に立っているから肥後を与える」と。。。
新たな領地肥後・・・その統治は困難を極めていました。
1587年には既得権益を奪われたため国衆一揆が勃発!!
前任者・佐々成政は責任を取って切腹していました。
秀吉の期待に応えるべく、果敢に立ち向かっていく清正!!

清正が領民に対して施政方針を出しています。
・一揆に加わった平百姓はこれまで通り耕作せよ
・派遣した代官が百姓に無理を言った場合、清正に直訴せよ
一方的に力で押さえつけるのではなく、民に歩み寄り・・・清正ならではの統治策が伺えます。
しかし、豊臣政権は転換期に差し掛かっていました。
1596年7月13日慶長伏見地震!!
秀吉の住む伏見城も崩壊し、多くの女官が犠牲となる大惨事となりました。
復興のための負担は大名たちにのしかかり、政権に対する不満は募ります。
それから2年・・・37歳の清正に最大の岐路が訪れます。
1598年8月豊臣秀吉死去!!
後継者の秀頼はわずか6歳・・・政権争いが始まりました。

不穏な動きを見せたのは家康・・・
秀吉の遺言に逆らい、大名たちとの婚姻を結んでいきます。
家康は大坂城に入場し、天下の政治をわがもの顔で取仕切り始めます。
秀頼を支える立場にあった三成は、これに反発し動き出しました。
天下の行く末が全く見えない・・・どうする、清正!!

熊本城の発掘で出土した”軒平瓦”。。。
刻印に・・・”慶長四年八月吉日”とあります。
清正はこの時、熊本築城を進めていました。
昼夜の境なく、突貫工事を進めています。
来るべき戦乱を見据えたかのように・・・!!
熊本城の特徴は、そのまれにみる防御力にあります。
縄張りは大小の天守49もの櫓からなり、6基の五層櫓を攻略しないと天守にはたどり着けません。
石垣は、高い所では20メートル、急な武者返しが敵を阻みます。
史上空前、難攻不落の城でした。
清正にはどんな戦略があったのでしょうか??

1600年7月、関ケ原の戦いの2か月前、領国・熊本で築城を急がせている清正に驚く知らせが・・・!!
それは、家康と並ぶ実力の毛利輝元!!
「秀頼さまに忠誠を尽くすために、大坂で政務を執る。
 貴殿も早々にご上洛されたい!!」by輝元
1か月前の6月、家康が会津征伐に出陣したとき、家康が大坂を留守にしたので・・・
7月中旬・・・毛利輝元、三成と共に、反家康の挙兵をしました。
激に応え、西国の大名9万5000もの大軍が大坂に集結!!
清正にもそこに加われというのです。
輝元の要請に応えるべきか・・・??

清正と三成・・・
1597年慶長の役で・・・朝鮮戦争出兵の遺恨がありました。
苦戦が続き、戦線を縮小しようとした清正たちの動きを三成の家臣が秀吉に報告したことで、清正たちは厳しい処分を受けました。
秀吉の死後・・・1599年黒田長政らとともに石田三成を襲撃し、奉行職を解任していました。
たとえ戦に勝ったとしても、三成の下で働くのか・・・??

なので東軍につく・・・??

しかし、清正と家康との間にもわだかまりがありました。
1599年薩摩藩で起きた重臣の反乱に清正が加担したことが家康の逆鱗に触れます。

三成には従えない・・・徳川との関係も今一つ・・・
九州で・・・熊本城を本拠地として独自行動する・・・??
そのカギを握るのは・・・秀吉の軍師・黒田如水!!
大部分が西軍の九州にあって、清正と如水は数少ない家康方と目されていました。
関ケ原の前後、二人は頻繁に連絡を取り合っています。
天守の内装についても・・・。

西軍につくのか??東軍につくのか・・・??九州で独自行動か・・・・・??

1600年9月15日関ケ原の戦い・・・東西両軍の戦いは、遂に火ぶたを切りました。
その戦いは、僅か1日で東軍の勝利に終わります。
清正の洗選択・・・??

9月7日に家康側近に出した書状には・・・
黒田如水と相談の上、隣国に侵攻を開始する・・・と、旧州での軍事行動を選択しました。
9月19日、西軍主力・小西行長の留守をついて居城・宇土城に侵攻!!
一月後に落とし、立花宗茂の居城・柳川城を開城させます。
子の清正の行動は・・・??
豊後の大名・中川清秀に対し・・・清正が東軍寝返りを保障した書状には・・・
”家康公に味方するのは秀頼さまへのご奉公である”と書かれています。
清正は、豊臣家に対して独自の戦後構想を持っていたと思われます。
立花家や島津家にも徳川と和平を結ばせようとしていた清正。
九州の大名同士で戦後秩序を作っていこう・・・九州の事は九州の大名で・・・と思っていたようです。
関ケ原ののち、九州では西軍に加担した多くの豊臣大名が勢力を温存しています。
これは、豊臣王国・九州だったのです。
10年後・・・熊本城を大改造する清正。。。
増築された本丸御殿・・・若松の間の奥・・・それは、狩野派の絵師による襖絵に彩られた昭君の間。
描かれているのは絶世の美女・王昭君です。
しょうくん・・・将軍に通じる・・・
一説によると、清正は有事の際に、秀頼をここに匿うことを考えていたと言われています。
熊本城の奥深くに設えられた絢爛豪華な昭君の間・・・例えどのような苦境にあっても、秀頼を守ろうとした清正の決意の表れなのかもしれません。

しかし、関ケ原が1日で終わってしまった。。。

1611年3月28日・・・
京都二条城・・・将軍を息子・秀忠に譲り、徳川の天下を盤石にしていた家康は、これまで上洛を拒否していた秀頼と会談。
通説では清正はこの時、秀頼の側近として参加。
いざとなったら家康と刺し違えるつもりで懐に短刀を忍ばせていたと言われてきました。
が・・・最近の研究からは・・・??
会見に参加した細川忠興の書状によると、そこには・・・
”常陸さま(家康10男・頼宣)へは加肥州(清正)がお供した”と書かれています。
清正は後の御三家・紀州頼宣の供・・・徳川側として会見に参加していました。
しかし、そこには高度な政治判断があったようです。
当時としては、徳川の天下は誰の目から見ても明らかでした。
そんな中で、豊臣家が残っていけるような融和な策を作ろうとしていたのです。
そんなことが出来たのは、清正だけだったのです。
豊臣恩顧の筆頭・加藤清正、あえて徳川方として列席することで、両家のパイプ役となろうとしたのです。

清正の菩提寺・本妙寺・・・清正の本心をうかがわせるような資料が残っています。
関ケ原後・・・家康が将軍に任ぜられた頃の、加藤清正を肥後守に任じる後陽成天皇の辞令書・・・
そこには豊臣清正・・・と書かれています。
あえて豊臣を名乗る・・・自分は豊臣家の柱石である・・・その固い想いが感じられます。

しかし、運命は冷酷・・・
二条城会見から2か月・・・清正は領国に帰る途中で発病!!
帰国後ほどなくこの世を去ります。
享年50・・・余りにも早すぎる死でした。

本妙寺では、毎年清正の命日の前日に盛大な祭りが行われ、10万人以上が祈りを捧げます。
一途に忠義を捧げた清正・・・それは、熊本の人の誇り。。。
不屈の精神を現した熊本城は人々の希望の光なのです。



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