日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:御前会議

1945年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていました。
3日間、ほぼ徹夜・・・!!
終戦の詔書です。
日本政府は、アメリカなど連合国から降伏を迫られたポツダム宣言を受諾し、3年8カ月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていました。
しかし、これに全ての者が納得したわけではありませんでした。
玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした将校たちがいました。
一体何があったのか・・・緊迫の24時間!!

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1945年8月14日、午前11時55分
玉音放送のおよそ24時間前・・・アメリカ軍の爆撃機B-29が、山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工廠も爆撃。
岩国市と光市で死者1200人以上!!

皇居では、御前会議が終わろうとしていました。
日本の運命を決めるご聖断が下されました。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。
その中で天皇はこう述べられました。

「私は世界の現状と国内の実情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも万民の生命を救いたい
 この際、耐え難きを耐え 忍び難きを忍び 一致協力 将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば 何でもいとわない 
 国民に呼びかけることが良ければ 私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、会議の列席者も皆涙していたといいます。
時の総理大臣・鈴木貫太郎は、ご聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして、日本のポツダム宣言の受諾・・・連合国に対する無条件降伏が決まったのです。

8月14日、午後0時30分(玉音放送まで23時間30分)
御前会議の終了からおよそ30分・・・会議に列席していた陸軍大臣の阿南惟幾が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦のご聖断が下った
 力及ばず諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」by阿南

これに将校たちが激怒、大臣に激しく詰め寄りました。
阿南は、青年将校たちに対してポツダム宣言は受諾しない・・・日本はこのまま戦争を継続すると、言っていました。
青年将校たちは、阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思ってたのです。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言受諾を容認したのです。

阿南陸軍大臣が、当初、ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それが国体護持です。
国体護持とは国の在り方を変えずに護るということで、すなわち天皇制の存続を意味していました。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては絶対に譲れない条件でしたが・・・
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言にはそれが明記されていなかったため、阿南は強硬に受諾を反対、徹底抗戦を主張していたのです。
しかし・・・
「陛下は”苦しかろうが我慢してくれ”と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上、反対を申し上げることはできぬ
 それでも納得がいかぬなら、まこの阿南を斬れ!阿南を斬ってからやれ!」by阿南

天皇のお言葉に心を打たれた阿南は、ポツダム宣言の受諾を容認するしかありませんでした。
そして、天皇の思いに応えるために、戦争継続を望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にもにた大声をあげ、泣き始めました。
畑中健二少佐・33歳・・・その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどでした。
普段温厚な男でも、平静を保てないほど無条件降伏は受け入れがたいものでした。

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8月14日午後1時(玉音放送まで23時間)
首相官邸において、全大臣出席の元閣議が始まりました。
3日間、ほぼ徹夜で書き上げた終戦の詔書の審議・・・つまり、どのような言葉で終戦を国民に告げるべきか?についてと、その終戦の詔書を天皇が読み上げてラジオで流すという玉音放送についてでした。
日本の敗戦を知れば、国民が激しく動揺し混乱するのは明らかでした。
それを少しでも抑えるべく、天皇の声・・・玉音で伝えることにしました。
閣議では生放送という案も出ましたが、天皇に日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間に合わせてマイクの前に立っていただくのはあまりにも恐れ多いということで、玉音放送に決定しました。
そして、天皇が朗読する終戦の詔書の録音は、14日のうちに宮内省の2階で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に録音班を連れて宮内省に出頭せよという命令が下されました。

8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいたもの全員を会議室に集め、ご聖断に従って陸軍も無条件降伏を受け入れたことを報告します。
これは決定事項であり、いかなる背反も許さないと、強く言い聞かせ、最後にこう告げました。

「諸君においてはもはや、玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い、野に臥しても、最後まで皇国護持のため奮闘せられたい」by阿南

しかし、そこに先ほど大臣室で号泣していた畑中少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れることが出来ず、同志である椎崎中佐と共に戦争を継続するためのクーデターを模索していました。
それは・・・皇居を占拠し、玉音放送を阻止することでした。

日本政府は日本が劣勢という情報を、一切流していませんでした。
畑中たちにしてみれば、この段階で玉音放送を阻止すれば国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
畑中たちはエリート軍人でした。
最前線で戦った経験もなく、現状もしらず、神国日本が負けるはずがないという考えに凝り固まっていました。
東京周辺の軍の施設には、戦闘機や戦車が、まだ多く残っていました。
絶対に負けない!!と思っていたのです。

東京国立近代美術館・工芸館・・・
現在、重要文化財に指定されているこの地は、かつては近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を警護する陸軍精鋭部隊のことです。
師団とは、一つの作戦を単独で遂行できる最小単位の部隊のことで、トップは師団長でした。
その師団が2つ以上合わさると軍になるなど、複合していくことで大きな組織となり、その軍医上のTOPが司令官と呼ばれました。
クーデターを画策する畑中少佐は、陸軍の中間幹部で司令官や師団長を作戦面で補佐する参謀に起用されることが多い階級でしたが、陸軍省勤務でどの部隊にも属していなかったため、戦況をあまり把握していなかったようです。

1945年8月14日午後2時(玉音放送まで22時間)
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛師団の司令部を訪れ、旧知の中だった古賀秀正参謀らと面会。
戦争継続の正当性を訴え、クーデター実行のための下工作を依頼します。

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8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
近衛師団の司令部を後にした畑中は椎崎と別れ、日比谷にある東部軍管区司令部へと向かいます。
東日本を統括する東部郡にもクーデターに協力してもらおうと、司令官を説得しにやってきました。
しかし、司令官室に入るなり田中静壱司令官は割れんばかりの声で一括!!

「俺のところへ何しに来た!!
 貴様の考えていることはわかっておる!!
 帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり、しばらくたち尽くしたのち、一礼して逃げる用に帰りました。
東部軍は、関東一円を統括している実働部隊で、各地の戦況をよく把握していました。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それを強硬に反対する青年将校たち。
しかし、そんな軍部の状況など国民は知る由もありませんでした。
みな、必死に耐えて生きていました。
日本が必ず勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時(玉音放送まで15時間)
突然、ラジオのニュース番組が告げます。
「明日15日正午に重大なラジオ放送があります
 国民はみな謹んで聞くように」

8月14日午後10時30分(玉音放送まで13時間30分)
ラジオから玉音放送の予告が流れたおよそ1時間30分後・・・
クーデターを目論む畑中と椎崎は、陸軍の先輩将校である井田正孝中佐の元を訪ねていました。
寝ている井田中佐を起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明しました。
近衛師団全体を動かすために、森第一師団長の同意が欲しいと訴えます。
畑中の真剣なまなざしに心を動かされた井田は、「ダメなときは本当に諦めるのだな」と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めました。

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8月14日午後11時(玉音放送まで13時間)
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成しました。
鈴木内閣の閣僚たちが署名し、天皇の裁可を受けました。
続けて、アメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言を受諾した旨を通告しました。
対外的な日本の敗戦はこの時決まりました。
そして、日付も間もなく変わろうとする午後11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立ち会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は・・・

「声はどの程度でよろしいか」

と、お聞きになり、「普通で結構です」と、立会人が答えると、静かに朗読を始めました。
天皇の肉声・・・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてです。
朗読は、1回およそ5分、天皇の希望もあって、2回行われ、2組のレコード盤に別々に収録されました。
そして、出来上がった玉音盤は、日本放送協会の担当者によって丸い管の中に納められ、さらにふたが開いてしまわないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、丁度日付が変わった頃でした。
玉音放送まであと12時間・・・!!

この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中・椎崎・井田の三人は苛立っていました。
クーデター実行のために、近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪ねたものの、先客がいたため1時間以上待たされていました。
ようやく室内に通されたのは、午前0時30分ごろでした。
畑中は、別件があってその場を離れていたため、説得役は井田が務めることになりました。
すでに軍服を脱ぎ、くつろいでいた森師団長は、最初こそ
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」
と、反対したものの・・・
汗をびっしりとかきながら懸命に戦争継続の正当性を訴える井田の姿に心を動かされたのか・・・

「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき、最後の決断を授かろうと思う」

井田は戦後この時のことを手記にこう綴っています。

”この言葉を聞いた時ほど嬉しかったことはなかった”by井田の手記

さらに井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにと言われ、師団長室を退出。
するとそこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・
”ところが、それから10分もたったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした”by井田の手記

そして・・・何事かと井田が慌てて師団長室に戻ると・・・拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。

「時間がなくてやりました
 仕方がなかったんです」

井田が師団長室に飛び込むと、既にこと切れた森師団長が無残な姿で横たわっていました。

師団長の行動はウソではないか??
殺さなければ・・・!!
と畑中は思ったのでした。
時間がない・・・畑中は、近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。

しかし、森師団長の命令がなければ、近衛兵は動かせない・・・!!
そこで畑中たちは、大胆な手を考え付きます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、あらかじめ用意していた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を、近衛師団の各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

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8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
師団長命令が偽物とは知る由もない近衛兵たちは、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖して、人の出入りを禁じ、東京放送会館を占拠。
さらに、玉音版の作成を終えて帰宅しようとしていた職員たちを捕らえて監禁。
そして、職員たちの尋問によって、玉音盤が宮内省に保管されていることが分かると・・・
近衛兵たちに宮内省を占拠せよという新たな命令が下されました。
近衛兵たちは、瞬く間に宮内省を占拠し、外部と連絡が取れないように電話線を切断。
そのうえで玉音盤を探し始めました。
しかし、そんなに探しても見つかりません!!

8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
近衛兵たちは、玉音盤が保管されているという宮内省を占拠。
各部屋を回り隅々まで探すも、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな知らないと答えるばかり・・・
結局見つけられませんでした。
玉音盤はどうして見つからなかったのでしょうか?

玉音盤が完成したのち、それを放送まで保管し、守るべきか検討されました。
宮内省側は「放送局が預かるべき」
日本放送協会は「持ち帰るのは畏れ多い」
結局、常に天皇のそばにいる侍従がいいだろうということになって中堅侍従だった徳川義寛がその大役を任されました。
そして、徳川侍従は、大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に無造作に置いておいたのです。
徳川侍従は、玉音盤の保管場所を秘密にし、近衛兵に摑まった際も、決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣ら要人を人質に取られないよういち早く宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
自分の事務室の入り口に、”女官寝室”と書きました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、しかも機転を利かせたことが玉音盤を守ることとなりました。
玉音盤が見つからなければ、放送を阻止することはできません・・・
クーデターは失敗!!
井田は畑中を説得します。

「畑中・・・もういかんよ
 世が明ける前に兵を引け
 そして、我々だけで責任をとろう
 世の人々は真夏の世の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」by井田

しかし、井田の言葉は、畑中の心を変えることはできませんでした。
諦めきれない畑中は、なんと近衛兵たちに占拠されている放送会館へと向かったのです。

8月15日午前4時30分(玉音放送まで7時間30分)
日本放送協会東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を突き付け、
「5時からのニュースに自分を出せ」
と、迫りました。
しかし、副部長はこれを拒否。

「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってから出ないとできない」

すると畑中は、隣のニューススタジオに入り込み、現行の下読みをしていたアナウンサーに銃口を向けました。
自分に放送させろと迫る畑中の左手には、クーデターの趣旨を綴った分厚い原稿がありました。
放送させてなるものか!!と思ったアナウンサーは、咄嗟に嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です
 会報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です」

東部軍の田中司令官には、昨日、一喝されたばかり・・・畑中は銃口を下ろすしかありませんでした。

同じ頃、近衛兵たちに占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
まさにその人・・・東部軍管区司令官・田中静壱大将!!
田中は、近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命じました。

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8月15日午前5時30分(玉音放送まで6時間30分)
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・
玉音放送を前に一人の男が自らの手で命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
”一死を以て 大罪を謝し奉る”
その命を以て敗戦の責任をとったのです。

8月15日午前7時21分(玉音放送まで4時間39分)
突然ラジオから・・・
”かしこくも天皇陛下におかせられましては本日正午、御自ら放送あそばされます
 誠に畏れ多き極みでございます
 送電のない地方にも、放送の時間には特別に送電しますので国民はひとり残らず謹んで玉音を拝しますように”
この玉音放送の予告アナウンスは、もともと午前5時に放送される予定でした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、放送が遅れたのです。

8月15日午前10府(玉音放送まで2時間)
宮内省から、2組の玉音盤が運び出されました。
1組は警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう1組は宮内省の車で日比谷の第一生命館の地下にあった予備スタジオへ!!
不測の事態を想定し、万全の態勢がとられました。

8月15日午前11時(玉音放送まで1時間)
当日は、アメリカの戦闘機がたくさん飛んでいました。
それが、11時過ぎになると姿を消して音がピタッとやみました。
その頃、玉音放送が行われる東京放送会館のスタジオには、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に、えもいわれぬ緊張感が漂う中・・・
畑中たちとは関係のない、ひとりの憲兵が突如乱入しようとしました。
すぐに取り押さえられ、事なきを得たものの、スタジオ内は騒然!!

8月15日午前11時30分(玉音放送まで30分)
皇居前の芝生広場にはクーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分(玉音放送まで1分)
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに27度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・!!
ラジオが起立を促し、”君が代”が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

”朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ
 慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク”

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原となった日本でこれからどう生きていくのかという不安で入り乱れていました。

3年8カ月に及んだ太平洋戦争が終わりました。
この戦争で300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人以上。
戦争は終わっても、人々の生きるための戦いが終わったわけではありませんでした。
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昭和20年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていたのです。
3日間・・・ほぼ徹夜で・・・!!
”終戦の詔書”です。
アメリカなど連合国から降伏を迫られポツダム宣言を受諾し、3年8か月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていたのです。
しかし・・・すべての者が納得していたわけではありませんでした。

「神国日本に敗戦などない!!」

徹底抗戦を叫び、終戦を国民に知らせる玉音放送を阻止しようと、クーデターを起こした将校たちがいたのです。
その最後の24時間とは・・・??

昭和20年8月14日午前11時55分・・・
玉音放送のおよそ24時間前、アメリカ軍の爆撃機B29が山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工場も爆撃!!
併せて死者1200人以上!!の尊い命が奪われました。
その時皇居では、天皇が列席する御前会議が行われていました。
日本の運命を決める御聖断がなされたのです。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。

「私は世界の現状と国内の事情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも、万民の生命を救いたい
 この際、耐えがたきを絶え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば、何でもいとわない
 国民に呼びかけることが良ければ、私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、みな、涙していたといいます。
時の総理大臣・・・第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎は、御聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして日本のポツダム宣言の受諾、日本の無条件降伏が決まったのです。

8月14日午後0時30分
御前会議の終了からおよそ30分、陸軍大臣・阿南惟幾陸軍大将が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦の御聖断が下った
 力及ばず 諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」

これに将校たちは激怒、大臣に激しく詰め寄ります。
激怒したその理由は・・・
阿南はポツダム宣言は受諾しない、日本はそのまま戦争を継続すると言っていたのです。
青年将校たちは阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思っていました。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言を容認したからです。
裏切られた・・・騙されたという思いがあったのです。

阿南陸軍大臣が、当初ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それは”国体護持”です。
国の在り方を変えずに護る・・・つまり、天皇制の存続が理由です。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては、絶対にゆすれない条件でしたが、日本に無条件降伏を迫ったポツダム宣言には明記されていなかったので、阿南は受諾を反対していたのです。
しかし・・・

「陛下は『苦しいだろうが我慢してくれ』と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることは出来ぬ
 それでも納得できぬのなら、まずはこの阿南を斬れ!!阿南を斬ってからやれ!!」

天皇のお言葉に打たれた阿南は、ポツダム宣言受諾をしないわけにはいかないと思ったのです。
そして、天皇の想いに応えるために戦争を継続しようと望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にも似た声で泣き始めました。
畑中健二少佐・・・33歳です。
その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどだったといいます。
普段温厚な男でも絶叫するほど、無条件降伏は受け入れがたいものだったのです。

8月14日午後1時・・・
首相官邸において前大臣出席のもと閣議が行われました。
議題は3日間徹夜で作られた終戦の詔書の審議です。
どのような言葉で国民に終戦を継げるべきか・・・そしてその玉王放送についてです。
日本の敗戦を知れば、国民は激しく混乱する・・・
それを少しでも抑えるために、天皇の声で伝えることにしたのです。
生放送という案も出ましたが、天皇に東京・内幸町にある日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間にマイクの前に立ってもらうのは余りにも恐れ多い・・・と、録音放送になりました。
そして終戦の詔書は、14日中に宮内省で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に「録音班を連れて宮内省に出頭せよ」という命が下りました。

8月14日午後3時・・・
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいた全員を会議室に集め、御聖断に従って陸軍が無条件降伏を受け入れたことを報告しました。

「これは決定事項である
 如何なる背反も許さない」

と、強く言い聞かせこう告げます。

「諸官においては、もはや玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い野に臥しても、最後まで皇国護持のため、奮闘せられたい」

しかし、そこに大臣室で号泣していた畑中健二少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れられず、同志である椎崎二郎中佐と共に、戦争を継続するためのクーデターを計画していたのです。

それは・・・
皇居を占拠せよ!!玉音放送の阻止!!でした。

日本政府は、日本が劣勢という情報を一切流していませんでした。
畑中たちにすれば、この段階で玉音放送を阻止すれば、国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
彼等エリート軍人は最前線で戦った経験もないし、負け戦の現状も知りませんでした。
神国日本が負けるはずがないと考えていました。
敗戦間際の東京周辺の軍事施設には、戦闘機や戦車などがまだ多く残されていました。
絶対に負けないと思っていたのです。

現在の東京国立近代美術館工芸館・・・現在重要文化財に指定されているこの場所は、現在の近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を護る陸軍の精鋭部隊です。
畑中健二少佐は陸軍省勤務でどの隊にも配属されていなかったので、戦況をあまり把握できていませんでした。

8月14日午後2時・・・
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛第一師団参謀の古賀秀正少佐と面会・・・戦争継続の正当性を訴え、クーデターの下工作を依頼します。

8月14日午後3時・・・
近衛師団の司令部を後にした畑中はしい開かれ、日比谷にある東部軍管区司令部に向かいます。
東日本を統括する東部軍にもクーデター協力の依頼にやってきたのです。
しかし、司令官室に入るなり、田中静壱大将は畑中を一喝します。

「帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり・・・一礼して逃げるように帰ります。
東部軍は、関東一帯を統括している実働部隊でした。
各地の戦況をよく理解していたのです。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を継続を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それに強硬に反対する青年将校たち・・・
しかし、そんな軍部の状況を一般家庭は知る由もなく・・・。

配給が乏しい・・・いつまで続くのか・・・??
みな、必死に耐えて生きていました。
必ず日本が勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時・・・
ラジオのニュース番組がこう告げます。

「明日15日正午に、重大なラジオ放送があります。
 国民は皆、謹んで聞くように・・・」

この時、国民のだれもがこの放送が何なのか・・・知る由もありませんでした。

8月14日午後10時30分・・・
ラジオから玉音放送の予告が出た1時間半後・・・。

クーデターを目論む畑中、椎崎は陸軍の先輩将校である井田中佐のもとを訪ねています。
畑中は就寝中の井田を無理やり起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明!!
近衛師団全体を動かすために、近衛第一師団長の森師団長の同意が欲しいと訴えました。
畑中の真剣なまなざしに心打たれた井田は、
「ダメなときは本当に諦めるのだな」
と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めます。
「やれるだけやってみよう」

8月14日午後11時・・・
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成。
鈴木内閣の閣僚が署名し、天皇の裁可を受けました。
続けてアメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言の受諾を通告。
対外的な日本の敗戦が、この時決まりました。

そして・・・11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で、宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は
「声はどの程度でよろしいか」
と、お聞きになり、「普通で結構です」と答えると、静かに朗読をはじめました。

昭和天皇の肉声・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてでした。
朗読は一回およそ5分、天皇の希望もあって、二回行われました。
二組の録音盤に別々に録音されました。
出来上がった玉音版は、日本放送協会の担当者によって、丸い缶の中に納められ蓋が空かないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、日付の変わった頃だったといいます。
玉音放送まで12時間・・・

同じころ、国民たちも眠れぬ夜を送っていました。
マリアナ基地を飛び立った250機のB29が、爆音を響かせ、上空を飛んでいたからです。
すでに、無条件降伏を伝えているはずでしたが・・・最前線の戦場にはまだ届いていなかったのでしょうか?
秋田県秋田市・・・死者250人以上
群馬県伊勢崎市・・・死者40人
神奈川県小田原市・・・死者12人・・・
埼玉県熊谷市では1万8000発もの爆弾が投下され、市街地の殆どが焦土と化し、およそ250人の尊い命が失われました。
あと半日・・・あと半日で戦争が終わったというのに・・・!!

8月15日午前0時・・・
この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中、椎崎、井田の三人は、いら立ちを募らせていました。
クーデター実行のために近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪れていたものの、先客がいたために1時間以上待たされていたのです。
ようやく部屋に通されたのは、午前0時30分頃でした。
畑中は、別件があってその場を離れていたので、説得は井田が行うことに・・・。
既に軍服を脱ぎくつろいでいた森師団長は、
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」と、反対したものの・・・汗をびっしょりかきながら戦争継続の正当性を訴える井田に心打たれたのか、
「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき 最後の決断を授かろうと思う」
井田は戦後この時のことを手記に残しています。
「この言葉を聞いたときほど、嬉しかったことはなかった」

更に井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにといわれ退出・・・
そこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・師団長室へ・・・
「ところが、それから10分も経ったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした」
そして・・・何事かと井田が師団長室に戻ると、拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。
「時間がなくてやりました
 仕方なかったんです」
井田が師団長室に飛び込むと・・・すでにこと切れた師団長が無残にも横たわっていました。

畑中少佐はどうして森師団長を殺害してしまったのでしょうか??
畑中は、森師団長が嘘をついていると感じたようです。
森師団長が逃げるのではないか・・・??と、判断したようです。
近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。
一刻でも早く近衛師団を動かすため、協力する気のない森師団長を見限ったのです。

しかし、森師団長の命令がなければ近衛兵たちは動きません。
そこで、畑中たちは大胆な手に出ます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、予め作っていた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

8月15日午前2時・・・
師団長命令が偽物と知る由もない近衛兵は、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖、日本放送協会東京放送会館に一中隊を送って占拠。

近衛兵たちは、玉音版が保管されている宮内省を占拠、玉音版を探し始めます。
しかし、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな、知らないと答えるばかり・・・結局見つけられませんでした。
玉音盤は、どうして見つからなかったのでしょうか?
天皇による終戦の詔書が録音され、玉音盤が完成したのち、包装までどこで保管するべきか検討されました。宮内省側は「放送局が預かるべき」、日本放送協会は「持ち帰るのが畏れ多い」と・・・結局、天皇の常に傍にいる侍従が・・・となり、中堅侍従の徳川義寛侍従が預かることに・・・。
気軽に預かった徳川侍従は、小さな金庫にしまい・・・大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に、無造作に置いておいたというのです。
徳川侍従は、玉音盤のありかを誰にも話さず、近衛兵に捕まった際にも決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣たち要人を宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
さらに・・・自分の事務室の入り口に「女官寝室」という張り紙をしました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、機転を利かせたために兵隊たちから守ることができたのです。

玉音盤を見つけられなければ放送を阻止することができない・・・!!
クーデターは失敗です。
井田は畑中を説得します。
「畑中・・・もういかんよ・・・。
 夜が明ける前に兵を引け・・・
 そして、我々だけで責任を取ろう。
 世の人々は、真夏の夜の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」
しかし、井田の言葉は畑中の心を変えることはできませんでした。
畑中は近衛兵たちに占拠されている放送会館に向かったのです。

8月15日午前4時30分・・・
東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を押しつけて・・・
「5時からのニュースに自分を出せ!!」と、迫ります。
しかし、副部長はこれを拒否!!
「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってからでないと出来ない」
すると畑中は、ニューススタジオに入り、現行の下読みをしていた館野守男アナウンサーに銃口を向けます。
自分に放送させろという畑中の左手には、クーデターの主旨を綴った原稿がありました。

そんなもの・・・放送させてなるものか・・・

そう思った館野アナウンサーは、とっさにこんな嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です。
 警報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です。」

東部軍の田中司令官には昨日、一喝されたばかり・・・
畑中は、銃口を降ろすしかありませんでした。
ちょうど同じころ、近衛兵に占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
田中静壱司令官その人です。
田中は近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命令します。

失敗に終わったクーデター・・・畑中たちの選んだ終戦とは・・・??

8月15日午前5時30分・・・
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・玉音法を撃を前に一人の男が自ら命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
「一死を以て 大罪を謝し奉る」
とありました。

その命を以て、敗戦の責任を取ったのです。

8月15日午前7時21分・・・
突然ラジオから玉音放送の予告アナウンスが・・・このアナウンスは、午前5時に行うはずでした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、大幅に遅れたのです。

8月15日午前10時・・・
宮内省から二組の玉音盤が運び出されました。
一組は、警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう一つは宮内省の車で第一生命館の地下にある予備スタジオへ。
不測の事態を想定し、万全の体制が取られていました。

8月15日午前11時・・・
当日は戦闘機がバンバン飛んで・・・しかし、11時になるとパタッと音がやみました。
玉音放送が行われる東京放送会館は、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に得も言われぬ緊張感の中・・・

「終戦の放送などさせてたまるか!!
 全員、たたっ切ってやる!!」

と、憲兵が乱入!!
畑中とは関係のない憲兵が、スタジオに乱入しようとします。
すぐに取り押さえられ事なきを得ましたが、スタジオ内は騒然となりました。

8月15日午前11時・・・あと30分!!
皇居前に広がる芝生広場では、クーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に、自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分・・・
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに29度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・

ただ今より、重大なる放送があります
全国の聴視者の皆様、ご起立願います。

君が代が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト
帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 
非常ノ措置ヲ以テ
時局ヲ収拾セムト欲シ
茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原になったこの日本で、これからどう生きていくのか?という不安が入り乱れていました。

3年8か月に及ん太平洋戦争が終わりました。
300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人・・・戦争が終わっても、国民の生きるための戦いは終わったわけではありませんでした。
人間を凶器に変える戦争・・・一度始まってしまうと簡単には止めることができません。
そして戦後70年を過ぎ、戦争を体験した人々の高齢化が進み、体験談を聞く機会も減ってきています。
だからこそ、もっと耳を傾け、私たちが後世に伝えて行かなければなりません。


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今回は、「太平洋戦争への道~近衛文麿と東條英機」です。


戦乱の時代・・・日本は、果てしなく続く戦争に突入していきます。

中国・東南アジアなど、アジア全域に広がる戦線、それは、破滅へと至る道でした。

大陸で渦巻く謀略、錯綜する外交、揺れ動く世界情勢に翻弄され、世界に翻弄されます。
軍の台頭、荒れ狂うテロ・・・

この激動の時代に日本の政治の舵を取ったのは・・・
近衛文麿と、東條英機。

揺れる近衛、突き進む東條・・・運命の御前会議・・・。

誰もが勝てないと解っていた戦争で、日本は完膚なきまでに叩き潰されます。
この戦争に突き進んだのは、誰だったのでしょうか?


大東亜戦争。。。
この時代、タイを除いてインドまで、全てのアジアが植民地という時代でした。

そのアジアを開放する・・・「大東亜解放戦争」という意味です。
こんな名前はけしからん!!と、アメリカが、「太平洋戦争」としました。

なぜ、負けると解っていて戦争をしたのか???

その、暴走した張本人と言われているのが、「東条英機」です。
だから、A級戦犯として処刑されています。

そして、その戦争をしたくなかったのが・・・「近衛文麿」です。

近衛文麿とは・・・
明治24年生まれの侯爵。
藤原鎌足を祖先とする、五摂家の筆頭です。
後陽成天皇12世の孫です。
細川護煕さんも、この家系です。
180㎝あって、東大・京大・・・草食男子、インテリで人気がありました。
が、強引さがない、読経のない、腹の座っていないところがタマにキズでした。

近衛が貴族院の副議長となり、戦争への階段を上っている頃、中国では、軍部による強引な紛争が起ころうとしていました。

1931年9月、柳条湖事件勃発・・・
関東軍は、中国によるものだとして攻撃を開始、
1931年9月満州事変が始まりました。

しかし、この柳条湖事件は石原莞爾の謀略でした。

石原の考えとしては、満州はソ連のすぐ南。。。ソ連に侵攻されると、朝鮮半島、日本海・・・と南下してくるかも???と、思っていたのです。
そのためには、満州がどうしても欲しかったのです。

若槻内閣としては、中国大陸での不拡大方針をとっていたにもかかわらず、石原は爆撃を敢行してしまいます。

そして、軍部は1932年満州国を成立させました。

関東軍が実権を握る、愛新覚羅溥儀の傀儡政権が誕生しました。
石原の目的は、世界最終戦争。。。


リベラリストの近衛文麿が、この満州事変を支持してしまいます。

どうして???

近衛は、ベルサイユ条約の時に、西園寺公望について行っています。
ベルサイユ条約には、今までの植民地はそのままで、今後の植民地化はしないでおこうという文言が入っていました。

そこに疑問を感じた近衛文麿は、「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いています。

これは・・・日本をバカにした条約である!!

と、思っていたようです。


どうして、こんな侵略戦争をしてしまったのでしょう?
国際連盟を仕切っているのは、イギリス・フランス・・・イギリスは、日本を支持してくれていたのです。

満州事変の前後には、五・一五事件、二・二六事件など、テロが勃発・・・政治がテロに屈する時代が始まっていました。

わずか5年で、7人の政治家が殺されていました。政党政治は機能不全に陥ったのです。

そんな時代を背景に、近衛文麿に白羽の矢が立ちます。

1937年第一次近衛内閣発足。
高貴な家柄と、知識人という面から国民に人気がありました。
また、政党政治家と違い、政党争いや汚職とは無縁なイメージがありました。

政党の基盤がなく、軍の台頭に対峙しなければならない難しい局面の近衛を、昭和研究会が支えました。

昭和研究会は・・・
知的には支えられたが、政治的に支えているとは言えない。。。

近衛は問題が生じた時に逃げてしまう!!

しかし、内閣発足1か月後に。。。
1937年7月、盧溝橋事件が起こります。

これをきっかけに、中国を攻めようとするのです。マスコミもこれを支持します。


「やめろ」と言えなかった理由は、暗殺されるかも!!??っていう弱さです。

インテリの悪いところは、屁理屈をこねること・・・
蒋介石のせいにしてしまいます。
上海に終結した蒋介石率いる国民党軍が、日本軍を南部に引きずり出そうとします。


ここに、激戦が始まるのです。


しかし、近衛は、あえて軍を止めようとはしませんでした。
石原莞爾は、何とかまとめようとして、近衛・蒋介石のトップ会談を計画します。

しかし、近衛は、失敗を恐れて動きません。頓挫してしまったトップ会談。。。

石原は激怒します。
「この期に及んで優柔不断では、日本を滅ぼすのは近衛だ」

日本軍は、上海を制圧、南京へと進軍します。
1937年12月13日南京陥落。
南京に入城する日本人・・・
しかし、蒋介石は重慶に逃げてしまっていました。

日本人は誰が市民で誰が兵隊か分からない・・・
怖いものだから、虐殺してしまった・・・?
中国側は、20万、30万殺したと言っているが、10万以上はいないと思われます。
が、虐殺はあっただろうということです。

南京で勝ってしまった・・・。
日本は、いい気になって、「賠償金」や「謝罪」を蒋介石に要求してしまいました。

攻めている最中に、首相を辞めてしまいます。

日本が、中国で果てしない消耗戦をしている時・・・

ヨーロッパではナチスが台頭、ドイツ第3帝国を名乗り、米英と対立します。
日本もその波に呑まれていくことになります。。。

1939年ドイツがポーランドに侵攻したことによって第二次世界大戦勃発。
イギリスとフランスも宣戦布告します。

デンマーク・オランダと快進撃を続けるドイツによって、パリは陥落、唯一残ったロンドンも空襲にあって・・・

ヨーロッパにドイツの敵はいなくなってしまいました。


「ドイツに習え!!」

ここで、国民に人気の高い近衛文麿の再登場です。

ヒトラーに習え、と、国家社会主義を唱え、政党の解体に乗り出します。

1940年、神武天皇から2600年ということで、大々的に紀元2600年の式典が行われます。
その中心には近衛文麿がいました。

同年、外相・松岡洋右の手によって日独伊三国同盟が成立。
それは、米英と戦うことを意味していました。

松岡洋右・・・
最初は日独伊ソの四か国同盟にしたかったようです。
しかし、ドイツはソ連と戦争をしてしまったので、三か国になったのです。

悪化する日米関係を何とかするためにその職に就いた松岡、しかし、軍部のとおり枢軸国側に接近し、三国同盟成立させてしまいます。

そうなると、ドイツと対立するフランス・イギリス・イギリスを支えているアメリカと敵対することとなってしまいました。

近衛は本心では三国同盟に反対でしたが、あえて積極的に食い止めようとはしませんでした。
肝心なところで、軍や松岡洋右に引っ張られてしまったのです。


1941年10月大政翼賛会を作ります。

なぜ・・・
政党政治は政党争いばかりしていること。
財界から金をもらって腐りきっていっる!!
と、一国一党になることを図ったのです。
左翼も右翼も取り込んで、一致団結して戦おうということなのです。

そうなると、党利党略が無くなるので、何もかも早く決まります。


戦争に参加したかったアメリカは、日本と戦うことによって参加する機会を伺っていました。

日中戦争がおこり、石油を求めて南方に進出しようとする日本に対して、ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網が出来ます。

運命の「御前会議」が始まります。

天皇も、近衛文麿も戦争反対。
推し進めたのは、陸軍大臣・東條英機でした。



東條英機は・・・
明治17年東京に生まれます。

56才の時に、第二次近衛内閣の陸軍大臣となります。

昭和天皇は、明治天皇が日露戦争が始まる時に詠んだ歌を詠みます。。。
「四方の海  
  みなはらまらと 思ふ世に
    など波風の たちさわぐらむ」

もちろん戦争反対の・・・。

昭和天皇は若いころ、イギリスに留学していました。

「君臨すれども 統治せず」

を、実践しようとしていたのです。

天皇は、近衛に「駄目」と、言ってほしかったのです。

しかし東條は、日清・日露の勝利の「運」にかけてしまいます。

その後、戦争回避をする決意をした近衛文麿は・・・
荻窪の自宅に陸海軍大臣を集めて話し合います。

話し合ったのは、ハル四原則

①各国の領土保全
②他国への内政不干渉
③通商上の平等の法則
④太平洋の現状を変革しない

①・・・東條はあくまで撤退を拒否。
海軍大臣は、開戦に消極的だったので、根回しをしていた近衛・・・
しかし、海軍は戦争に反対にもかかわらず・・・
及川海相は「総理に一任・・・」と逃げるのです。

東條は、「納得できる確信があるなら戦争準備はやめる」と言います。
納得できる確信はありません。。。
東條「駐兵は、陸軍の生命であって、譲れない。御前会議の時はどう考えていたのか?」

近衛「戦争に私は自信がない。自信のある人でおやりなさい」

東條「今になって不謹慎ではないか」

そして・・・首相を辞めてしまいました・・・。


もう一人の主役・東條にバトンタッチされてしまいました。
東條内閣発足。陸軍大臣も兼任という、はじめての首相でした。

これで、戦争に突き進む?

あえて東條を内閣総理大臣にしました。。。
天皇は、東條の考えを変えさせて、軍を抑えようとします。
もともと天皇の軍隊・・・おまけに東條は天皇崇拝論者。。。
東條は、天皇に言われたら断れません。。。

そして、項目再検討会議が行われました。

思惑は進んだように思われましたが、東條は買えられても、その下の軍部は変えることが出来ません・・・。

「裏切り」とまで言われてしまう東條。。。

しかし、東條が変わっただけでは、日本は変わらない・・・。

マスコミも世論も、開戦を望んでいました。
東條が本当はどう思っていたのか。。。それは謎なのです。。。


航空兵力・海軍力・陸軍力、負けると解っていた戦争。。。
おまけに石油の輸入を80%、アメリカに頼っていました。

会議で・・・東條は海軍は反対すると思っていました。
が・・・海軍は賛成。。。それは、予算折衝があったからだとか・・・。


東條が寝室で一人号泣した翌日・・・
1941年12月8日・・・真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。。。
日本が破滅に向かって突き進んだ瞬間でした。

東條は戦争を回避することが出来ませんでした。

日本は南方へ進撃、連戦連勝をおさめます。
しかし、7か月後のミッドウェーで敗北。虎の子の空母4隻を失って、躓きました。
圧倒的な物量のアメリカの前に、南方では玉砕。日本はじりじりと後退していきます。

サイパン玉砕。
B29による本土空襲。
本土の大都市が空襲にさらされます。

悲壮な総力戦に・・・
女性は軍需工場で働き、学生は学徒出陣で兵隊に・・・。
本土決戦が現実味を帯びてきました。

特攻作戦・・・必ず死ぬのに成功率の低い作戦・・・
広島・長崎に原爆投下。

天皇陛下は、終戦を発表します。8月15日、玉音放送です。

日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をしました。


マッカーサーがやってきました。
戦争を起こした責任を・・・戦犯として捕まえました。
絞首刑・・・東條英機・広田弘毅・松井石根・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤章
終身禁固・・・16名。

極東軍事裁判は、戦犯を裁くために後から法律を作ったので、フェアとは言えませんが、この「負けると解っていた戦争を始めた責任」はあるはずです。

本当ならば、日本国が総括して、あの戦争とは何だったのか?
誰に責任があるのか?
総括していません。。。

終戦後、近衛文麿はマッカーサーと会い、新憲法作りの約束をします。
アメリカと日本の開戦回避に尽力したこそあれ、戦犯として裁かれるとは思っていません。

しかし、マッカーサーは、この新憲法作成に参加させることなく逮捕します。

近衛は逮捕の前日、青酸カリを飲んで自殺しました。


マッカーサーに裏切られた・・・
「悲劇の人」と、思っていたようです。


一方東條は・・・
逮捕の前日、
東京裁判に出廷する前に、陸軍大臣に呼ばれ・・・
「天皇の身代わりになれ」と言われます。

「わかった・・・。しかし、自分のプライドが傷つけられたら分からない。。。」

逮捕の瞬間、自決を試みるも失敗!
公と私の狭間で苦しんだ東條・・・。
瞬間的に天皇を守ることを捨ててしまったのですが、裁判では一貫して天皇の戦争責任回避の為に発言しました。

天皇を守ったのです。

東條は12月23日、他のA級戦犯と共に、天皇を守って、絞首刑になるのです。

この日は、皇太子の誕生日です。。。
日本人に、この日を忘れないように。。。
アメリカの上手い戦術でした。



本当に、関東軍が悪かったのはそうですが、誰が悪くて、誰が悪くなかったのか・・・
本当に難しいですね。。。

私の祖父は陸軍のそれこそ職業軍人でした。
海軍と比べて、悪いとか、了見狭いとか言われますが、軍服を着て背筋の通ったおじいちゃんの写真は、カッコよかったのを覚えています。


私は日向ぼっこをしているおじいちゃんしか知りませんが。。。
島が変形するほど爆撃され、屈辱に耐え、捕虜になりながらも、生存率4%とも言われる島から帰って来てくれたことに感謝しています。黒ハート

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