日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川四天王

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「天正の草履番」ってことで、前回の続きです。
15歳の少年に、戦場や陰謀を・・・とは思いませんが、なんとも戦国時代にしては華のない内容になっていると思います。
副題も、「天皇の料理番」だろうしね・・・
ほんと、オリジナルをリスペクトできていないというか、バカにしているんだろうか・・・??
だって。。。このあまりにも盛り上がりに欠ける内容・・・。

井伊万千代として出世の一歩を歩み出した虎松ですが・・・草履番です。

浜松城の玄関で、草履番をする万千代&万福。

naotora4















松下ではなく、井伊として家康に仕えたこと・・・それを焚きつけたのは和尚ではないかと、怒って乗り込むしの!!

井伊の再興を嬉しいと思わないのか??という南渓和尚。
井伊を再興する気はないと・・・面倒だと言い出すおとわ。
しのに賛成のようです。
う~ん、家が一番の時代、だからこそ正室以外に何人もの女性がいて、子供を作ることは絶対だった価値観の時代に、どうしてこの考え方になるのか・・・本当に興ざめだ・・・。

その頃、草履番として奮闘する万千代。
常慶は井伊として仕えたことを怒っていました。

松下が万千代の件で家康に訴えてきました。
近藤殿も、疑心暗鬼に陥っています。
それでも、井伊を再興する気はないといいはるおとわ。
本当ならば、万千代の方に当時の常識や正義があるのに、おとわも意固地にも程があると思っています。
常慶が、「井伊にとり迷惑だ」と、万千代を諫めてほしいと言ったので、浜松へ行くこととなったおとわ。


そして・・・この頃、男前の氏真は・・・優雅に京を楽しみ、歌を詠んでいました。
そんな呑気な氏真に文が・・・凍り付く氏真。
「尾張のうつけが、余に蹴鞠をせよと・・・」by氏真
父を殺し、今川を没落させた張本人に・・・どうする??氏真!!

その頃、万千代は、草履の棚を作っていました。
そこへやってきたのはおとわ。

「亡き御方たちは確かに喜んでおるかもしれぬ。
 じゃが・・・生き残っておる者たちにとっては、ありがたいとはいいがたい・・・
 これは、誰も望んでおらぬ行いではないのか??」byおとわ
「何故、今更そなたに指図されねばならんのだ??
 そなたはもう、当主でも何でもないただの百姓ではないか??
 ただの百姓に、なぜ、俺が説教されねばならんのじゃ!!」by万千代

そうね・・・ほんと、その通り!!

ということで、当主とはなんだ??
生き残りが望んでもいないのに、生きているものを困らせ、悲しませるのが当主なのか??と、おとわに言われ、怒る万千代ですが・・・。
本当に誰も望んでいないの??
私にすれば、この脚本家の意固地な思いが望んでいないように持って行こうと必死にしているように思えて違和感Maxです。

naotora3















来たのが直虎と知って、話し合いを持つ家康。
家康には、井伊に対して負い目があるので・・・。

「此度の事、井伊の生き残りといたしましては、松下に顔向けできぬ上に、井伊谷に住む上でもやりにくい事この上なく・・・」byおとわ

「近藤の手前ということか・・・」by家康

「井伊を再興せぬということで、中野や新野を召し抱えてもろうております。
 加えて潰れた家の者であるからこそ、通る話が多くございます故・・・」byおとわ

何を言っているのか全くわかりません。
戦国時代から文治政治となったのが赤穂浪士の時代です。
あの頃までは、平気で人を殺して・・・みたいな感じでした。
綱吉公は、犬を大事に・・・とは言いましたが、それだけではなく、人間や動物の命を大切にするように説きました。
そんなころまでは、お家が一番大事で、お家再興は本当に悲願だったんですよ・・・
ま、戦国時代と江戸時代、違うとは思うけど、みんなお家再興のために・・・明智光秀だって、宮本武蔵だって、貧乏浪人しながら仕官を望んでたんですよ・・・。

どこをどうすれば、お家再興を望まない当主がいるというのか・・・
あ・・・おとわは百姓でした

しかし、納得した家康は・・・

「井伊を助けたかった。
 直親殿の時も、井伊に攻め入った時も・・・。
 じゃが、助け得るだけの力がなかった。。。
 わし自身、その思いから解き放たれたかったというのが一つあるかの。
 
 瀬名の願いというのも大きいかの。
 わしは、瀬名を泣かせてばかり・・・
 
 じゃが、一番の理由は、その方が万千代が武将として大きく育つと思うたからじゃ。
 松下の跡取りとすれば、皆の目は温かい。
 今川の国衆の子、銭で潰れた家の子、あるのは家格だけ。
 なれど、あの子は叩かれれば叩かれるほど、奮い立つような気がしての・・・違うか??

 この先、万千代が手柄を立てれば、わしはそれなりの処遇をするつもりでおる。
 少し大袈裟かも知れぬが、それが、今後の徳川の生き残りをわけることになると思う。

 徳川の所帯も大きゅうなってきた。
 三河者でのうても実力次第で出世が望める・・・
 そう言う歌風を作らねば。。。
 万千代は、その先駆けとなる力を秘めておるような気がする。
 わしは信玄公のように戦に長けておるわけでもなく、信長公のように天武の才があるわけではない。
 その分、人は宝じゃ。大事にせねば!!」by家康

おお!!
家康の懐の大きさが伺えます。
そうそう・・・これを素直にドラマ化してくれればいいのに・・・裏をかいて裏をかいて・・・
本当にわかりにくくなって困るわ・・・

naotora2
















少し前に、万千代の真意を知っていた万福。
「亥之は、このまま奥山を名乗るつもりなのか。
 俺は、徳川に井伊を再興してもらうつもりだ!!
 誰かのためにするのではない。
 己があの日、そう誓ったからだ!!

 いつかのう・・・井伊を見事に再興し、ゆるぎない大きな家とし、その時殿にこう言ってやるのだ。
 間違いだったといった殿は、間違っておりました。
 なれど、殿がおらねば、虎松は今日の日を決して迎えられなかったでしょう。」by万千代

そんなこんなをおとわに話します。
本当に、単純明快じゃないよね・・・この作品。
年寄りたちは面白いと思うんだろうか・・・。

「後押ししてくれとは申しませぬ。
 せめて、静かに見ていてくれませんか?
 殿は我らに、思うように生きよとおっしゃったのですから・・・!!」by万福

それにしても、万福、本当にいい家臣ですね。
この万福がいたからこそ、万千代が大成功するのだという確信は出来ました
万福に、一本取られたな・・・おとわ。
ほんと、最近は、お家再興は望んでいないと叫ぶだけの主人公に成り下がっていたからな・・・
15やそこらの万福の方が大人だわよ・・・。

やっと草履番で努力していることを認めてくれるおとわ・・・ほんと、大人げないわ・・・。
結局何もできなかったことを家に帰って話すおとわ。
なにしに行ったんだか・・・。
常慶も諦め・・・
「話がおかしい」というしのですが・・・
「もうかまわん」と許してくれる源太郎です。
ほんと、みんないい人です。
しのが一番、当時の常識ある人だと思います。
しのは筋を通せと言いますが、許してくれる源太郎なのです。

よくできた優しいかただと、ほっこりするおとわですが・・・
今回も何もしなかったな・・・主人公なのに!!

なのに、突き詰めれば、おとわが蒔いた種となってしまっていました。
主人公を持ち上げ!!ですが、何が蒔いた種なんだか・・・それすらよくわかりません。


その頃、万千代は万福のおかげで必殺技を考案しました。

naotora1













必殺!!草履手裏剣!!
っと、この技は本当にあったようなので、「え~~~!!」とは、思ってはダメですよ??
日の本一の草履番です。
なので、新しい者を育ててくれということで、やってきたのは松下源太郎でした。
松下の働きを


「井伊の方と今、話しをしおってな。
 そなたに代わる跡継ぎを探しておる。
 こうなったら、井伊と松下、一体となり進んでいくがよかろうと・・・
 これからは、一蓮托生になる。
 よい働きを頼むぞ!!
 井伊万千代殿!!」by松下源太郎

なんていい人なんでしょう、松下の父上!!

そして・・・仇・・・織田信長の前で舞う氏真・・・。

「織田殿は、徳川の力強き味方じゃ・・・せめてこれくらいのことはせねばのう・・・
 これを機に、織田殿の懐に入れればしめたものではないか・・・。
 何も、戦ばかりが仇の取り方ではあるまい・・・??」by氏真

おいたわしや・・・と家臣。

信長の前で・・・

「はい・・・心得ましてございます。」

と、華麗に舞う氏真なのでした。

ほんと、カッコいいですね、氏真!!
今まであまり書かれていなかった氏真ですが・・・
去年の武田勝頼も、この今川氏真も、2代目・・・ていうか、強い父に対してお家を没落させてしまった張本人のように書かれがちですが、今年の大河の一番いいところは、この氏真のカッコよさを書いてくれている事かな??っと思います。

ま、万千代はまだ15歳ですから・・・何でもありでしょう
ただ、徳川四天王となり、西側の目付として彦根に留まる・・・そんな井伊家の基礎ができ始めてきましたよ~~~!!


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時は戦国時代、真紅の幟をはためかせ、朱色に染め上げられたそろいの甲冑・・・
大将自ら突進し、命知らずと恐れられた最強の軍団・・・
人呼んで、”井伊の赤備え”!!
率いたのは、赤鬼の異名を持つ井伊直政です。
井伊直政は、井伊直虎を叔母に持ち、徳川家康の天下取りに貢献しました。
徳川四天王のひとりとして名を馳せました。
そんな壮絶な井伊直政の一生とは・・・??

静岡県浜松市北部にある引佐町・・・かつて井伊谷と呼ばれ、今川家配下にあった井伊家が代々この地を治めていました。
井伊家は、直虎の時代に領地を失い、一族滅亡の危機に瀕します。
直虎唯一の井伊家の希望の星は、直政でした。
直政は、1561年に父・直親と母・ひよの間に生まれました。
直政の父である直親は、本家に養子に入り、直虎とは兄弟関係にありました。
つまり、系図上、直虎と直政は叔母・甥の関係にありました。
そんな井伊家に大きな試練が・・・
井伊家が仕える今川家は、当時は海道一の弓取りと恐れられていました。
しかし、桶狭間の戦いで義元は自刃し、息子の氏真が後を継いだばかりでした。
甲斐の武田信玄や、三河の徳川家康がそこを虎視眈々と狙っていました。
今川家の将来に不安を抱いた直政の父・直親は、今川から独立したばかりの家康に近づきますが・・・その動きを今川に気付かれて殺されてしまいました。
28歳でした。

井伊谷の直接支配を目論む氏真は、直親の子で2歳だった虎松=直政の命も狙います。
この時は、今川家の家臣・新野親矩の嘆願によって命拾いしますが・・・後ろ盾だった新野が戦いで2年後に死亡。
そんな直政の後見人となったのが、叔母の直虎でした。

1568年直政8歳の時、今川家が井伊家の領地を没収、滅亡の危機に・・・
続いて武田信玄と、徳川家康が今川の領地に侵攻・・・
井伊谷にまで戦火が及んできました。
再び命の危険を感じた直政は、つてを頼って奥三河の山麓に身を寄せました。
鳳来寺山・・・1425段もある石段を登りきると・・・1300年以上の歴史を持つ鳳来寺があります。
戦火を逃れてきた直政は、ここで14歳までの7年間を過ごしました。

どうして鳳来寺だったのでしょうか??
寺院は殺生禁断、治外法権の場・・・武力勢力の踏み込めない場・・・
そして、学びの場であり、僧兵による技術の訓練を受けることができました。
何より井伊谷に近い・・・!!
直政はこの寺で、幅広い知識を身に着け、技を磨いていきました。
いつの日か井伊家を再興する為に・・・!!

今川家が信玄と家康に攻められて滅亡・・・領地と主君を失った井伊も風前の灯・・・
そこで直虎は、一族の再興を図るべく、行動を起こしました。
それは、寺に預けられていた直政を連れ戻し、当主にする道筋を立てること・・・。
直政の母・ひよを再婚させます。
相手は、家康の家臣だった松下源太郎です。
直政に井伊を名乗らせるのは危険だったので、直政を養子とし、井伊姓から松下姓に変えたのです。
そして直政の身辺警護も・・・!!
1574年14歳の直政は、父・直親の13回忌の法要を口実に井伊に戻ってきました。
直政に井伊家再興が託されました。

直政をどの戦国大名に仕えさせればいいのか・・・??

武田家は信玄が急死、勝頼が後を継いでいました。
徳川家康はまだ30代・・・三河から井伊谷のある遠江に進出していました。
三方が原の戦いで、武田軍に大敗・・・未知数でした。
しかし、家康を選んだ直虎・・・

直政の父・直親が家康に近づこうとしていたこと、松下源太郎から家康のことを聞き知っていたこと。。。

そこから家康を選びました。


徳川実記には・・・
1575年、家康が井伊谷まで鷹狩りにやってくることに・・・
一行が街道を歩いていると、真っ新の着物を着た少年が道端でひれ伏していました。
叔母直虎が、少しでも目立つように、新調した小袖を着せていたのです。
家康も立ち止まり、顔を上げた直政を見た家康は・・・
「面魂が尋常ではない。」と・・・。
「この地を治めていた井伊の孤児でございます。」byお付きの人
「我についてまいれ!!」by家康

こうして直政は、15歳にして家康に召し抱えられることとなるのです。

家康と内通したことによって、直政の父・直親が今川に某殺されたことを知っていて、自責の念があったこと。。。
築山殿の母は、井伊谷出身であったこと。。。
家康としては直政に身内のような感情を抱いていたのかもしれません。

15歳で家康に仕えることとなった井伊直政・・・
異例のスピードで出世していきます。
そのようにして、家康の信頼を勝ち取っていったのでしょうか?

1575年、甲斐・武田と争った遠江芝原の戦いが直政の初陣となりました。
家康の世話役として本陣に詰めていた直政。
夜半を過ぎた頃、武田の手の者が忍び込み、家康の寝首を欠こうとしました。
間一髪で、直政が討ち取りました。

1582年の神君伊賀越えでは・・・
本能寺の変が起きたとき、織田信長と同盟を結んでいた家康は大坂にいました。
追っ手から逃れるために、伊賀を抜け三河に・・・。
直政は、身を挺して家康を守り抜きます。

徳川家臣団・・・三河武士ばかりの中、外様の自分がどうやって忠義を表せばいいのか・・・??
その忠義に家康も応えます。
神君伊賀越えでの功を称え、「孔雀尾具足陣羽織」を与えます。

ところが家康の直政の可愛がりように・・・
家康と直政が衆道ではないのか??とまで噂されたといいます。

一気に出世していく直政・・・。
1582年天正壬午の乱・・・徳川と北条氏直との戦いで・・・
徳川軍8000VS北条軍4万!!
不利な徳川軍は、長期戦持ち込みます。
すると北条に行っていた武田の旧家臣たちが徳川に寝返っていきます。
遂には形勢が逆転!!
北条は和睦を申し入れ、甲斐と信濃は家康の手に落ちました。
この勝利の陰に、直政の活躍がありました。
直政の外交力・・・武田の旧家臣たちに書状を送り、本領安堵を約束し、彼らを取り込みます。
北条との交渉では・・・21歳にもかかわらず、交渉に臨み、どうどうと渡り合ったといいます。

その後、召し抱えることとなった武田の旧家臣たちを直政の配下に・・・。
武田の旧家臣を直政のもとに置いた家康の狙いとは・・・??
武田と徳川は、2代にわたっての宿敵でした。
皆には遺恨があったかもしれませんが、直政には遺恨がなかったので、上手くやっていけるのでは・・・??と思ったのです。

「武具、甲冑、全て赤にせよ!!」by家康

旧武田軍の中で、もっとも恐れられていたのは、赤備えと呼ばれた精鋭部隊でした。
当時、赤い甲冑は、特別な武勲をあげたものだけに許されていました。
その赤を、あえて身に着けさせることで、部隊の士気を上げようとしました。
こうして、武田の赤備えが井伊の赤備えに生まれ変わり、徳川一の精鋭部隊となったのです。

しかし・・・これが、徳川家臣団の中に不協和音を呼んできます。
やっかみと嫉妬の対象に・・・
直政にできることは、戦で証明し、譜代の家臣を黙らせること・・・
そのチャンスがやってきました。

1584年小牧・長久手の戦い勃発!!
信長の孫・三法師を擁する秀吉と、次男・信雄についた家康が対立!!
それは、後の天下取りを左右する大事な戦いでした。
先陣を任されたのは、井伊の赤備え!!
直政は、旧武田の兵を含む2000の兵を率いて、秀吉軍に襲い掛かります。
その時!!直政は対象であるにもかかわらず、先頭で敵方に突っ込んでいったのです。
すると、大将を死なせるわけにはいかないと、赤備えが・・・!!
直政は、一番首をとる活躍を・・・!!
それを見た秀吉は、「赤鬼!!」と、恐れおののいたといいます。
井伊の赤備えの鮮烈なデビューでした。
この常識破りの行動は・・・
武田の遺臣を任され、同僚の嫉妬、やっかみを黙らせるために、目立った手柄をあげる必要があり・・・旧武田の家臣団には、リーダーとしての気概を見せる必要があったのです。

小牧・長久手の戦いによって、家康から6万石を拝領。
かつて井伊が持っていた井伊谷の領地でした。
この時、25歳となっていました。

秀吉からヘッドハンティングされる直政・・・
しかし、直政は、自分を引き立ててくれ、お家を再興させてくれた家康に忠義を貫きます。
秀吉の命によって家康が関東に移されたときには、もっとも石高の大きい上野国12万石を拝領し、徳川筆頭家臣に・・・家康の四男・松平忠吉を娘婿に迎えます。
家康との結びつきをさらに強固なものに・・・!!
そして、家康の天下統一のために東奔西走します。
天下分け目の関ケ原に向けて・・・!!

豊臣秀吉は、幼い秀頼を残してこの世を去ります。
ようやく家康に天下のチャンスが巡ってきたのです。
徳川派と、反徳川(石田)派が対立する中、直政はその外交力で、豊臣恩顧の武将たちを徳川になびかせるために奔走します。
1600年6月・・・家康は敵対する上杉景勝を討つために会津征伐へと出陣!!
そのすきに、三成が反家康の狼煙を上げたのです。
家康軍はこの時、下野国、小山にいました。
景勝を討つべきか、三成を討つべきか・・・!!
直政は進言します。
「速やかに味方を上方に進め、天下を一つに定めるべきと存じます!!」by直政
家康は、三成との全面対決を決意!!
秀忠は中山道ルートで、直政は家康の名代として豊臣恩顧の大名たちを引き連れて東海道ルートで・・・!!
9月15日、関ケ原の戦い!!
東軍と西軍が対峙!!
前日に家康も到着しているというのに、秀忠は未だ到着しておらず・・・!!
真田に行く手を阻まれて、非常事態に・・・!!

大きな不安を抱えたまま、決戦に臨むことになった家康。
東軍の先陣を任されたのは、豊臣恩顧の武将・福島正則!!
後方にいた直政は、娘婿の松平忠吉と兵を引き連れて、福島隊の前へ・・・。

「今日は忠吉殿の初陣であるから、戦を学ぶため敵陣を見にいくだけじゃ。」by直政

が・・・鉄砲隊に号令をかけ、自ら敵陣へ・・・!!

直政は抜け駆けしてしまったのです。
これは重大な軍法違反でした。

「先手の差越しは、軍法に背く。
 行ったものは成敗する。」by家康

直政としては、徳川が先陣を切ったという既成事実が欲しかったようです。
徳川の力で戦いに勝った!!と。。。

直政の抜け駆けによって火ぶたが切られた関ケ原の戦い・・・。
一進一退の攻防の中、西軍の二人の武将が寝返ります。
一人は吉川広家!!
南宮山にいた毛利軍3万を足止めにしました。
もう一人は松尾山に陣取っていた小早川秀秋。
戦が始まって4時間後、味方である西軍にいきなり襲い掛かりました。
これをきっかけに一気に東軍優勢!!
この二人の行動の裏には、直政の影が・・・
事前に盟友・黒田長政を通じて寝返るように説得していました。

戦いが始まってから6時間後、東軍勝利が確定!!
ところが、直政を悲劇が襲います。
西軍の島津義弘の軍勢が、家康の本陣に突撃してきたのです。
敵中突破を図る”島津の退き口”です。
殆どの武将たちが島津に道をあける中、直政は・・・徳川の名に傷がつくと追撃・・・
直政は鉄砲で撃たれ、重傷を負ってしまいました。
怪我を負いながら家康の陣に戻った直政は、真っ先に松平忠吉の手柄を報告したと言います。
軍旗違反のリスクを犯しながら、忠吉に殊勲の機会を作り、命がけで徳川のために戦い抜いた直政に、労をねぎらう家康。。。

戦が終わっても、直政には多くの仕事が残っていました。
関ケ原の戦いでの西軍の武将たちの処遇です。
他の家臣たちが厳しい態度で臨む中、直政は敵として戦った武将たちの話を聞き、家康との交渉に粘り強く接します。
西軍の総大将・毛利輝元は、全ての所領を没収されるはずでしたが、120万石から30万石の減俸で済みました。
石田三成に対しても、処刑される直前まで手厚く面倒を見ました。
遺恨を残さないことが、徳川の安泰をもたらすと考えていたのです。
そして、直政自身は、近江国・佐和山18万石(彦根)を拝領。
その場所は、江戸に本拠を置く徳川に代わって、西国大名を見張る重要な拠点でした。
家康はその役目を全幅の信頼を置く直政に任せます。

が・・・2年後、直政は、関ケ原の傷が元で、42歳でその生涯を終えることとなるのです。
直政の死後、井伊家は、譜代大名筆頭となり、桜田門外の変でおなじみの井伊直弼をはじめ、大老を5人も排出。
直政は、徳川になくてはならない井伊家の礎を築いたのです。

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め賭るに非ざるなり」by直政

家康への義を尽くし、筆頭家臣にまで上り詰めた直政の人生は苦難の連続でした。
しかし、ひるむことなく突き進むチャレンジ精神こそが、名将と呼ばれる所以なのではないでしょうか?


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1600年9月15日関ケ原・・・この時、西軍に相対する東軍は、内部崩壊の危機に面していました。
その危機に立ち向かったのが、徳川四天王のひとり・・・井伊直政・・・おんな城主・次郎法師に育てられた虎松です。

徳川家康に仕え、外交交渉人としての才能を発揮し、戦場では赤鬼と呼ばれた勇ましさ・・・
その直政に徳川の命運が・・・??
徳川主力の遅参、先鋒は豊臣恩顧の福島正則・・・
前線で戦える徳川勢は井伊直政のみ!!
もしここで福島正則が先陣を切れば・・・戦は豊臣のものとなってしまう・・・
徳川のために・・・抜け駆けをして先陣を切るか??
それは同士打ちの危機でもありました。

山深く急峻な岩肌に囲まれた奥三河の地・・・
ここに、1300年の歴史を誇る鳳来寺があります。
井伊直政は、7歳から13歳までの7年間、命を狙われ・・・ここで過ごしていました。
直政は1561年、井伊谷の領主の子に生まれました。
当時の井伊家は、大国今川家に従っていましたが、直政が1歳の時に、父・井伊直親が敵対する徳川家康に内通したとして殺されてしまいます。
直政の後見となったおんな城主・次郎法師は、今川家によって領主の座を追われ、直政は殺生禁断の地である鳳来寺に匿われたのです。
耐えること・・・我慢することを学んだ直政・・・行く末の見えない中、自らの力と才覚で、運命を切り開いていきます。
1574年、今川家の勢力が衰え始めると、直政は、鳳来寺を出て母親の再婚先である浜松家の豪族・松下家に身を寄せます。
この時、浜松を支配していたのが・・・新興勢力の徳川家康でした。
1575年、直政は、鷹狩りに出た家康を路上で待ちます。
若者の面構えの立派さに目を止めた家康、自分のために殺された井伊当主の遺児と不憫に思い、召し抱えます。
急速に勢力を広げ始めた徳川家に仕えたことから、新しい人生が始まります。

この時、家康の軍団を支えていたのは、古くからの三河の武将たち・・・
後に徳川四天王と呼ばれる直政以外の人物(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政)は皆、徳川家と縁の深い、三河武士でした。
結束の固さを誇る家臣団に突然ほうり込まれた異質な存在の直政。
常に家康のために、命を顧みない行動に出ます。
如何なるときも、家康の近くに控え、身を挺して主君を守る・・・最大の危機、伊賀越えでも、大きな働きをしたといいます。
そんな直政を、家康は寵愛しました。
しかし、直政は、武勇だけの若者ではなく・・・
1582年甲斐国若神子の戦いで、3か月に及ぶ戦いの徳川軍と北条軍。
和睦の使者として、21歳の直政が抜擢されます。
交渉にあたって直政の覚書には・・・
北条氏政の誓紙を差し出すこと。
徳川方家臣の妻子を返すこと。

若い直政の和睦締結の条書を見ると、細心なところに注意書きがいっています。
相手にいちいち了解をとる・・・
一を聞いて十がわからないと、使者は務まりません。
そんな能力を持っていることを家康は見抜いていたのです。

難しい和平交渉をまとめ上げた直政は、更なる重要任務・武田家の旧臣を徳川の家臣にという役を任されます。
直政は、主を失ったものたちの領土を安堵する取次を務め、たくさんの書状を送ります。
まさに文武両道・・・単なる武闘派ではなく、いかに戦わないで相手を屈服させるか??
その技術、能力・・・交渉役の資質があったようです。
家康は、忠誠を誓った武田旧臣数百人を直政に付け、”赤備え”を井伊が身に着けるようにいいます。
井伊の赤備えの誕生でした。

戦国時代の軍隊の力は、上杉武田がNo,1!!
その中でも、赤備えはとくに有名で、格好のいいブランド・・・責任の重い甲冑でした。
他の家臣たちは、直政に嫉妬します。
徳川四天王のひとり榊原康政は、武田の勇猛な家臣たちが直政に付けられたことを激怒、直政と刺し違えるとまで言ったといいます。
直政は、赤備えに相応しい結果を残さなければなりませんでした。
新しい直政の軍団の活躍の場は・・・1584年小牧長久手の戦いです。
信長亡き後の天下の覇権を家康と秀吉が争った大事な戦いで、23歳の直政は、自ら敵武者と組み合い、首をとるという危険を冒しています。
味方は直政をたしなめます。
「軍に将たるもの みづから手を下すべきにあらず」と。
それでも直政の激しい戦いぶりは収まりませんでした。その武勇は、赤鬼と恐れられたのです。
並みいる徳川家臣の中、際立った存在となっていく直政。。。
1590年天下人となった秀吉に家康が関東に国替えになった時、上野国に与えられた直政の所領は12万石。
四天王の本多忠勝・榊原康政が10万石、酒井忠次は隠居・・・まぎれもなく、徳川家の家臣筆頭となるのです。
時に29歳の若さでした。
やがて直政は、関ケ原の戦いで重大な決断をすることになります。

1600年9月15日早朝・・・
美濃国・関ケ原に東西両陣営15万を越える軍勢が集結しました。
笹尾山の石田三成から天満山の宇喜多秀家、松尾山の小早川秀秋、更に離れた南宮山の毛利勢まで鶴翼の陣の西軍・・・
東軍は桃配山に総大将の徳川家康、その前に軍勢の多い福島正則、藤堂、細川、黒田の陣が並んでいました。
井伊直政はその一角に布陣、近くには、直政の娘婿の松平忠吉がいました。
直政は初陣の忠吉の後見も兼ねていました。
しかし、この時家康は大きな誤算に・・・家康の焦りと怒り・・・それが、直政の選択に決定的な影響を与えます。

東軍は、もともと会津の上杉景勝を成敗する豊臣家による討伐軍だったので、豊臣家臣の大名が大半を占めていました。
その軍勢が下野の小山に向かった頃・・・三成らが挙兵!!
直政は軍をすぐに西に向けるべきだと強く進言!!
「時は既に至れり!!」
直政の固い決意を聞き入れた家康は西に向かう軍勢を二つに分けます。
東海道を進むのは、福島正則ら豊臣恩顧の大名が中心で・・・
秀忠が中心の徳川本隊は中山道を進みます。
家康は一旦、江戸に留まり、直政は家康の名代として東海軍を率います。
家康も江戸を出発しますが・・・上田で真田と戦っていた徳川本隊3万8000は、戦いに間に合いません。
家康の誤算・・・それは、徳川の主力本隊のないまま豊臣恩顧の大名の手を借りて決戦に臨まなければならなかったのです。

本隊は来ないけれど、機は熟している・・・
豊臣の大名たちが暴走してしまう・・・戦うしかない・・・!!
徳川主力軍がないまま戦うことになった徳川軍・・・
先鋒は、豊臣大名の中でも有力な福島正則となります。
もしこのまま福島正則が先陣まで果たせば・・・戦の全ては豊臣の手によってなされたものとなってしまう・・・!!
例え東軍が勝ったとしても、本当の徳川の勝利にはならない・・・
東軍で最前線にいる徳川勢は、井伊直政と松平忠吉の6000の兵のみ・・・
直政と忠吉が福島正則を出し抜いて先陣を切らなければ、徳川のメンツが立たない・・・。
しかし、戦場で先陣を横取りする抜け駆けは、軍法によって厳しく戒められていました。
家康が会津征伐の時の軍令には・・・
”先手を差し越し、軍法を背くの上は成敗すべき事”とあります。

先鋒は福島正則・・・
当時の武将たちは一番槍の高名や、誰が最初に乗り込むのか?大事な評価でした。
先陣争いで、味方同士が戦うケースも沢山ありました。
なので、先陣争いをして意思疎通が乱れてしまえば西軍に乗ぜる隙を与えてしまう・・・。

直政の選択は・・・抜け駆け??軍法を守る・・・??

直政は抜け駆けを決意!!
その日関ケ原は、朝から深い霧に包まれその霧が薄まっても両軍が様子見を続けて膠着状態でした。
直政は家臣に自らの陣を任せ・・・少数の兵を連れて動く!!
娘婿の忠吉の供をし、先陣・福島正則の陣の脇を抜けようとします。
これを福島正則の軍の可児才蔵が見咎めます。

「これは抜け駆けではない!!
 初陣の忠吉殿にお供をしての物見である!!」by直政

才蔵は道をあけます。
直政は忠吉と共に前進!!
偶然西軍に遭遇したという形で、敵陣に一番槍を仕掛けたのです。
1600年9月15日午前8時・・・関ケ原の激戦は、徳川勢の先陣のもと、開始されたのでした。

戦を仕掛けたのは徳川家の者がやったという証拠が残りました。
しかし、徳川氏の公子を一人無駄に殺してしまう可能性もあったのです。

直政たちの抜け駆けを知ると悔しがる福島勢は一斉射撃!!
東西両軍は激しくぶつかり合いました。
そして数時間後・・・西軍・小早川勢の裏切り、毛利勢の戦闘不参加によって東軍勝利の体制が決します。
石田三成ら主だった西軍の武将は退却・・・直政は忠吉と疲れた人馬を休ませていました。
そこへ・・・突如500騎ほどの軍勢が・・・!!
あれは味方か・・・??
敵と見るや、馬を駆り、軍勢を追撃にかかります。
忠吉も後を追います。
敵軍は、正面突破して戦場を離脱しようとする薩摩・島津義弘勢でした。
島津勢は必死の抵抗!!
多くの死傷者を出す井伊!!
敵と与して傷を負ってしまった忠吉。
直政は敵にわき腹と右腕を撃たれ馬から落ちます。
島津勢もほとんどの兵を失って薩摩に帰っていきました。

殆どの東軍の武将たちは、島津に抵抗して命をとられたら無駄死にだと思って道をあける中・・・
それも承知の島津が正面突破の中、徳川の意地を・・・!!という直政の思いが命知らずの行動に出させたのです。
その命知らずの行動が、家康からも認められ、三河武士達からも認めてもらう。。。
関ケ原の時にも、自分が島津を追いかけなければ・・・!!と、追撃したのです。
戦いは終わり、直政は傷を負ったまま家康のもとに参上・・・
家康は自らの作った薬で労い、直政の抜け駆けの罪を問うことはありませんでした。
先陣を奪われた福島正則も、あえてことを荒立てようとはしませんでした。
関ヶ原の戦後、直政は傷がいえる間もなく仕事に忙殺されます。
生き残った西軍大名との外交交渉・・・戦後処理を任されました。
島津、毛利に対しても穏便に処理するように・・・
戦場を離れれば、敵味方共に直政は信頼されていました。
毛利家当主・輝元は、直政の取りなしに深い感謝の状を送っています。
直政は関ケ原の功績で、近江・佐和山城を与えられ、18万石の領主となりました。
しかし、翌年、佐和山で没します。
関ケ原の傷の悪化が原因とされています。
まだ、40歳の若さでした。
家康は、直政を開国の元勲と称え、その後、井伊家は近くの彦根城へと移ります。
譜代一の家格となり、江戸時代の大老10人のうちの5人を輩出。。。
260年にわたる徳川政権を支え続けるのです。

死の2週間前、子供に宛てたものには・・・

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め睹るに非ざるなり」

とあります。

成功と失敗、賢いか愚かかはあらかじめわかることはない。
だからこそ、ひたすら行動するしかないのだ。。。



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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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今年の大河ドラマの舞台は、群雄割拠した戦国時代。
主人公は、戦に明け暮れ力こそ正義の時代にひときわ異彩を放ったおんな城主です。
史料には・・・

”次郎法師は女にこそあれ
    井伊家惣領に生まれ候”

とあります。

女性の身でありながら当主となり、後に直虎と名乗ったともいわれている次郎法師。
しかし、次郎法師がとうしぃとなったのは、井伊家の長い歴史の中で最大の苦難の時代でもありました。
次々と命を落とす井伊家の男たち・・・。
度重なる軍役で農村は荒廃し、領地経営は破たん寸前でした。
そんな次郎法師を追いつめたのが、主家である今川家の無理難題です。
借金を棒引きにする”徳政令”施行の命令でした。
この命令の裏には、今川氏の恐るべし意図が隠されていました。

一歩間違えば。井伊家を滅ぼしかねない徳政令・・・
果たして受け入れるか否か・・・??

静岡県浜松市にある井伊谷が、井伊家の領地でした。
起源は古く、家は平安時代に始まると言われています。
井伊家の居城は井伊谷城・・・
戦国時代でも古い形態を持つ城であったことがわかっています。
沢山堀を巡らせるような後の時代の城ではなく、要塞化していない城・・・
領主と領民が隔絶した存在ではなく、領主が地域に溶け込んでいる姿が見出せます。
当時の井伊家は、三か国(三河・遠江・駿河)を有する戦国大名・今川氏の支配下にあり、付き従う国衆でした。
その惣領の家に生まれ、幼いころに出家したと言われる次郎法師。
女性の身でありながら、どうして当主に選ばれることになったのでしょうか???

以外にも、戦国時代には女性が活躍していました。
今川氏の実権を握り女戦国大名と呼ばれた寿桂尼、美濃岩村城おんな城主となり戦に身を投じた岩村御前、筑前立花氏の家督を継いで一国一城の主となった誾千代・・・
男勝りの女性が数多いました。

当時来日した宣教師によると・・・
ヨーロッパでは財産は夫婦間で共有する。
日本では別々に財産を所有し、時には妻が夫に高い利子で貸し付ける・・・と書いています。

江戸時代に作られた封建的な女性のイメージと、戦国の女性は違っています。
戦国時代の女性は経済力を持っていました。
実家からの持参金(敷金)です。
当時の資料には、女性商人の姿も・・・女性の活躍する時代だったのです。
とはいえ、次郎法師が領主となったのは、井伊家が危機に直面したから・・・
きっかけは桶狭間の戦いです。
1560年5月、今川義元が2万5000の大軍を率いて尾張へ侵攻!!
迎える織田軍は2000!!
ところが合戦は、信長の奇襲攻撃によって今川が敗北し、義元は戦死してしまいました。
今川の敗戦は、井伊家にも甚大な被害をもたらします。
当主・直盛討死!!
さらに、井伊家家臣、領民も200人以上討死したと思われます。
その後も合戦で・・・跡継ぎの男子が次々と討死・・・
桶狭間で討ち死にした直盛のあと当主となった直親は、徳川(松平)との内通を疑われ殺害され、直平も急死・・・
家督を継ぐべき男子は、直親の子・・・3歳の直政(虎松)のみとなりました。
この危機的状況を打開するために白羽の矢が立ったのが直盛の娘・次郎法師でした。

史料によると・・・
次郎法師は井伊直親が殺害されたのち、井伊家の領主となった。
とあります。
井伊家存亡の危機に当主となった次郎法師。
それは苦難の始まりでした。

今川家から見ると、国境に近い井伊谷は、武田方・松平(徳川)方に裏切るかわからない存在・・・
井伊家から見ると、四方八方から誘いがくる・・・疑いの目を受ける・・・そんな厳しい状況でした。
女性であるということで、中継ぎ・・・という目で見られ八な次郎法師が、どう戦ったのでしょう?

そんな井伊・・・領地経営は、困難を極めていました。
原因は度重なる軍役。。。
桶狭間の敗北以降、今川の領国内が不安定となり、争いが絶えなかったのです。
戦となれば徴集される井伊谷の男たち・・・男性の多くが失われ、年貢が滞り、田畑を担保に商人に借金する者が少なくありませんでした。
そんな中・・・今川氏から思わぬ命令が・・・!!

1566年、次郎法師に主家である今川氏真から命令が届きました。
それは・・・井伊谷に徳政令を施行せよというものでした。
徳政令とは・・・債権、債務の破棄を命じる法令で。。。借金棒引き命令です。
度重なる貧困にあえぐ領民にとって、徳政令の施行が救いになるのは事実・・・
しかし、徳政令は諸刃の剣!!
領民たちの借金は棒引きになるものの、銭主(商人・寺院など)の損害は計り知れない・・・
商人や寺院は、井伊家にとって領地経営に資金を援助してくれるなくてはならない存在・・・
徳政令は彼らの離反を招きかねない!!

そこには今川の隠された意図がありました。
井伊谷の秩序を壊し・・・今川が井伊谷を自分のものにしたかったのです。
井伊氏の支配を終わりにしようとしたのです。
どうして・・・配下であるのに??
今川は、桶狭間の戦いで三河を家康に奪われていました。
国境を接している井伊が徳川に下れば、信仰を許し、今川の領国は崩壊しかねません。

徳政令を受け入れるか?否か・・・??

圧力に屈して徳政令を受け入れたら、商人たちに大損させ・・・再びお金を借りることができなくなる・・・
そうすれば、領国経営ができなくなる・・・
徳政令を凍結すれば・・・??

徳川家康も、武田信玄も、今川の領国を虎視眈々と狙っていました。
特に、家康にとっての井伊は・・・遠江侵攻の手がかりになるのでぜひ欲しい・・・。
今川氏真が周辺大名への対応に追われているのは次郎法師にとっては好都合。
今川は徐々に焦り始めていました。
徳政令を凍結すれば・・・徳政一揆になる??
そうなると、井伊の存続が・・・!!
例えば・・・正長の徳政一揆・・・この一揆を皮切りに、一揆は頻発し・・・
それがひいては室町幕府の弱体化、崩壊につながった・・・。

さらに戦国時代の百姓には、郷中明と呼ばれることがあり・・・
村単位で逃亡し、他の国に逃げ込めば・・・領国経営は立ちいかない・・・

徳政令を施行するのか?しないのか??

徳政令が出される理由は・・・戦乱、天災、代替わり・・・井伊谷徳政の場合、特に桶狭間の影響が・・・
領国の混乱で、今川氏真は立て直しに必死でした。
今川氏真は、義元が討死し、弔い合戦もしなければなりませんでした。
氏真が戦争をしようとすればするほど人々の負担が増えてしまっていました。
相手の国を侵略して自分たちの領地が増えるわけではない・・・
骨折り損のくたびれ儲けだったのです。
次郎法師にとっては・・・氏真が人気を取って戦争をやられてはまずい!!と思っていたのです。
地域を大事にしなければ・・・!!

今川氏から井伊家に突き付けられた徳政令・・・次郎法師は・・・??

今川氏の命令にもかかわらず、次郎法師は自らの判断で「徳政令を凍結」しました。
龍潭寺には・・・
「天下一同の徳政ならびに私徳政、一切許容あるべからず候」
龍潭寺の債権や事業には一切徳政令の効力が及ばない事を次郎法師が保証しています。
戦国時代の寺院は、在地で大きな力を持っていました。
井伊谷の龍潭寺も、広大な農地を持ち、金銭の貸し付けを行っていました。
こうした力を背景に、龍潭寺は井伊家に大きな影響力をもっていました。
事実、次郎法師が領主となるときも、龍潭寺の意向が大きく反映されていました。

次郎法師は、徳政令を先まわしにしている間に、寺社勢力や商人の損害を最小限に食い止めようとしたのです。
さらにこの頃、今川の領国内では混乱が・・・
家康や信玄になびく国衆の反乱が起きていたのです。
徳政令を凍結したのは、こうした政治的混迷の行く末を見極めるため、時間を稼いだのです。
しかし、これに黙っていられないのは、徳政令を待ち望んでいる農民・・・領民たちです。
史料によると、井伊家を飛び越え、今川に・・・本百姓から訴訟の申し立てがったと書かれています。

1568年、圧力に耐えきれなくなって・・・井伊谷に徳政令が施行されました。
結果、2年にわたって徳政令を凍結した次郎法師・・・そして書状には、直虎という名が残されていました。
徳政令施行後、次郎法師は絵洋酒の座を奪われてしまいます。
今川の家臣がその権限を奪ったのですが・・・
この2年の間に情勢は大きく変わっていました。

大事件・・・
家康は信玄と大井川を挟んで、駿河は武田、遠江は徳川という約束がなされました。
つまり、今川の領国に侵攻することが決まったのです。
徳政令施行後のわずか1か月後、家康は井伊谷からの遠江に侵攻・・・
この時、導いたのは井伊家の旧家臣を含む井伊谷3人衆・・・という武将でした。

1569年5月、今川氏滅亡!!
徳政令施行後、わずか半年のことでした。
2年にわたって徳政令を拒んだ次郎法師・・・
それは、井伊家の歴史の礎となったのです。


2016年12月、新資料が発見され、直虎が今川家家臣の男子という説が出てきました。
大河ドラマの主人公が次郎法師と名乗り、井伊谷を支配していたのは間違いありません。
この次郎法師が後に直虎と男のような署名や花押を押したりしたのか??
それとも直虎は今川から派遣された者なのか??

次郎法師の名が再び現れるのは・・・徳政令から7年後の1575年。
次郎法師は小袖を仕立てたとされています。
その人物こそ、天塩のかけて育てた虎松・・・後の井伊直政です。
次郎法師の小袖を着て、家康に仕えることとなった直政。
今川に奪われていた井伊谷を取り戻すことに成功!!

以降、家康配下の武将として活躍していく直政。
1582年6月2日本能寺の変!!
この時、堺に見物に来ていた家康に同行していたのが直政。
堺から領国三河への逃避行!!
それは家康最大の危難”伊賀越え”でした。
直政は、家康を守護し、帰郷に成功!!
その後も、家康の天下統一事業を支え、徳川四天王のひとりとなるのです。

次郎法師は・・・龍潭寺で静かに余生を過ごしました。
本能寺の変から3か月後・・・直政の無事の帰還を見届けると息を引き取ったのでした。
次郎法師が守った井伊は、徳川家譜代の筆頭となり、彦根城・35万石の城主となりました。
江戸幕府260年、5人もの大老を輩出したのは井伊家を置いて他にはありません。


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