日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家光

およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・徳川の世。
世界でも類を見ない長期安定政権が誕生したのはこの二人・・・
三代将軍・徳川家光と将軍を支えた会津藩主・保科正之が礎を築いたからでした。
実は、二人は異母兄弟でした。
そしてそこには兄弟の強い絆がりました。

徳川家康が関ケ原に勝利し、江戸に幕府を開いた翌年・・・
1604年二代将軍秀忠とお江の間に世継ぎ・・・竹千代・・・後の家光が生まれました。
それから7年後の1611年、江戸神田の浪人の家で幸松・・・後の保科正之が生まれました。
父は竹千代と同じ秀忠でしたが・・・どうして浪人の家で・・・??
幸松母・静は、江戸城に奉公にあがっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠に見初められ、子供を身籠ります。
本来ならばめでたい事でしたが、喜べない理由が・・・
正室・お江です。
お江はとても気位が高く嫉妬深い女性で、秀忠が側室を持つことを許しませんでした。
そのため、子ができたとなると何をするかわからない・・・
実家に戻された静は、お江から恨まれないように子を堕ろします。
しかし、再び秀忠によって戻された静は、またもや身籠ってしまいました。
そんな静を家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
こうして静は、親類の浪人宅で幸松を産んだのです。
しかし、お江に気を遣って、秀忠は幸松を子として認めませんでした。
将軍の子であることを隠して育った幸松は、母・静の慕っていた武田信玄の次女・見性院に育てられることとなります。
そして、幸松7歳の時、しかるべき武家に幸松を預けようと・・・見性院はある大名に白羽の矢を立てました。
信州高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で旧知の間柄。
さらに、正光の父・正直の後妻は徳川の妹で保科家は、徳川と姻戚関係にあったからと言われています。
が・・・この養子縁組の裏には秀忠が関係しているかと言われています。
つまり、幸松の教育を見性院に依頼したのは、秀忠側だったのでは・・・??
また、幸松が高遠藩に行った折には、高遠藩に5000石の加増が行われています。
おそらく幸松の養育費では・・・??と言われています。
ということで、父・秀忠の計らいで保科家の養子となり大切に育てられることとなりました。
秀忠にはこの時3人の子供がありました。
兄・竹千代、弟・国松は、母が同じお江でした。
そして静を母に持ったために将軍の子と名乗れなかった幸松・・・保科正之でした。
徳川家光と保科正之・・・この時お互いの存在を知りませんでした。

家光は、家康が長子相続を説き、20歳で3代将軍となりました。
家康が理想とした幕府を実現していく家光。
1632年秀忠が死去・・・将軍となった家光は、大名たちを江戸城に呼びつけました。
居並ぶのは、歴戦の強者たち・・・彼らを前に宣言します。
「余は、生まれながらの将軍である。
 貴殿らに対して、遠慮するものはない。
 今後皆、家臣同然として扱う。そのように心得よ。
 もし、不承知者がいるならば、国元へ帰って戦の準備をいたせ!!」by家光
家光が挑発的な態度を取ったのは・・・??
家康、秀忠は、関ケ原、大坂の陣を戦っています。
戦争を知らない世代の家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
そして、家光は、徳川政権を盤石なものにするために、いろいろな政策を立てていきます。
大名達の謀反を防ぐために監察官として柳生宗矩ら4人を「総目付」に任命。
大老、老中の設置・・・将軍をトップとする幕府のシステムを確立し、政治の安定を図ります。
諸制度の確立・・・
1635年武家諸法度改定・・・参勤交代を制度化。
江戸での滞在期間や交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの費用が莫大にかかり、財力を削がれて戦を構えることができなくなり、幕府が優位に立つことになりました。
家光は、危険分子を改易、政治の安定を図ろうとします。
その改易の数は、歴代将軍最高の49家でした。
武力や厳しい刑罰で統治する武断政治を推し進めていきます。
その頃の幸松は・・・養父である保科正光の選んだ優秀な家臣たちから手厚い教育を受け、幕府に仕える心構えを徹底的に教え込まれていました。
保科正光は、将来幸松が将軍になる可能性があるかも??と考えていました。
なので、彼を育ててきた保科家の発展も期待して、幸松を教育しました。
幸松もまた、いつしか自分が将軍の子であると理解するようになりました。
1631年・・・幸松が養子となって14年・・・養父・正光が亡くなります。
家督をついだ幸松は、正之は21歳で、高遠藩2代藩主となるのです。

家光が弟・保科正之の存在を知ったのは・・・
家光が目黒に鷹狩りに行った際、家光が身分を隠して休んだ寺が・・・成就院・・・。
この成就院は、正之の母・静が参っていた寺でした。
住職が話を始めました。
「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は将軍様の弟君であるのに・・・。
 それに相応しい扱いを受けていないんですよ。
 それが、不憫でしてね・・・」by住職
家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩藩主になっていることを知ったのです。

「余に、顔も知らぬ弟・・・それは一体、どんな男なのだ・・・。」by家光

2代将軍秀忠を同じ父に持ちながら、母が違うというだけで、互いの存在を知らずにいた二人・・・
家光は、ある儀式のために江戸城にやっている正之を一目見ようとふすまの陰に潜みます。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のために、末席だったのです。

「自分は将軍の弟だ!!という横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは、なんと殊勝な男よ」by家光

家光は、正之を取り立てるようになります。
しかし、そこには、家光の思惑がありました。
家光は、異母兄弟と知った保科正之を高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に。
片腕と重用するようになった正之に・・・
「忌諱を憚ること勿れ」と言ったと言います。
先輩の幕閣たちに遠慮しなくていい・・・ということでした。

更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は
「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」
保科家への恩義から辞退したと言われています。
感心した家光は、その信頼を厚くしていきます。
しかし、家光が正之を取り上げたもう一つの理由は・・・??
もう一人の弟・忠長の存在です。
家光にとって、同じ母・お江から生まれた弟・忠長は、兄弟というより将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉も不自由なところがあったので、両親の愛情は聡明な忠長へ・・・。
すると家臣たちも、「次期将軍は兄君ではなく弟君が相応しい」となっていきます。
両親の愛情を受けず、将軍の器でなしと噂された家光は、12歳の時、悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けてこなかった家光にとって、同じ思いをしてきた正之に共感を覚えていたのです。
一方、弟の忠長は・・・将軍の弟として駿府藩55万石の大大名となりました。
それでも相応しくないと思っていたようで・・・加増や大坂城城主を望んだりしていました。
謙虚で信頼できる身内・正之と思っていたようです。 
そして、忠長をけん制するという意味もありました。
将軍への夢を忘れられず、家光に対し憎悪の念を抱いていた忠長なのです。

家光にけん制された忠長は・・・精神的に追い詰められ、家臣たちを手打ちにするなど危行が目立つようになります。
この行動に怒った家光は、領地を取り上げて幽閉し、最終的には自害に追い込んでいます。
二人の溝は、最後まで埋まらなかったのです。

正之は兄・家光をどう思っていたのでしょうか?
支えなければ!!と思っていましたが、それは弟としてではなく、自らをわきまえ、家臣としてという思いが強かったようです。

保科正之が山形藩主となった翌年・・・1637年に九州で大事件が!!
島原の乱です!!
キリスト教勢力の拡大を畏れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の事件の鎮圧には、家光が最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役を任されたのは松平信綱でした。
正之は、家光から領地である山形に帰るように命じられます。
家臣たちは首をかしげましたが、正之には家光の意図が分かっていました。
「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」by正之
家康の遺訓に従った事でした。
東国の反乱に備え、保科正之を監視役としたのです。
1638年・・・島原の乱の終結直後、山形の隣にあった幕府直轄地・白岩郷で百姓一揆が起こりました。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人をすべて処刑します。
控えめで優しい性格の正之が下した判断にしては、非常に厳しいものでした。

各地で飢饉、一揆がおきていた時代でした。
なので、無秩序状態にさせないために、厳しい処分を下したのです。
しかも、幕府の直轄地であったので、家光の遺構が低下する可能性もはらんでいました。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さぬように鬼となったのです。
兄・家光は弟・正之を心から信用し、大事な役目を与え、正之はその期待に応えたのです。
島原の乱、白岩郷の一揆の鎮圧後、大きな乱や一揆は無くなり、徳川の世に繋がっていきます。
しかし、首謀者を処刑したことは、正之にとって、生涯の心の傷となりました。

「一揆が起きてからでは遅い。
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ。」by正之

1643年、保科正之33歳の時に、将軍家光から会津藩23万石への転封が命じられます。
これは、徳川御三家の一つ水戸藩(23万石)と肩を並べるほどの厚遇でした。
その会津藩は、大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で、領民は疲弊・・・
余所の藩へ逃げ出す者も出ていました。
正之はすぐさま領民のための改革を行っていきます。

藩政改革①社倉制
社倉制とは、藩のお金でコメを買い上げ備蓄しておき、凶作の際には領民に貸し出すという救済制度です。
領民は2割という当時としては低い利息で借りることができました。
しかし、正之は、この利息の利益を藩の蓄えにはせずに新しく米を買って、社倉の備蓄としました。
そのため、これ以降、会津藩では飢饉で一人の餓死者も出なかったといいます。

藩政改革②人命尊重
正之の母・静は、将軍秀忠の子を、一人目は堕胎させられ、二人目も堕胎させられるところでした。
そんな経緯で生まれてきた正之は・・・
「宿った命は、生きることをやめさせるべきではない」
とし、間引きを禁止しました。
さらに、領内で行き倒れになった人がいれば、医者に連れて行くように命令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

藩政改革③老養扶持
正之は、高齢者保護を行っています。
90歳以上全員に、一日5合分の米を毎年支給しました。
該当者が150人以上になりましたが、分け隔てなく与え、大いに喜ばれたといいます。
正之は、今の老齢年金のようなこともしていたのです。
領民の安定は政治の安定、政治の安定は領民の安定とし、勧農意識・・・主として農業を侵攻奨励し、実行しようとする考えを持っていました。
一揆の予防策として、実行したのです。
兄・家光に与えられた会津を豊かにするために邁進していく正之・・・家光が病に倒れてしまいます。
死を悟った家光は・・・??

1651年、3代将軍家光は、病に倒れます。
見まいに来た弟・保科正之に対し、愛用の萌黄色直垂と烏帽子を与え・・・
「今後、保科家は代々萌黄色の直垂を使ってよい。」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・この時、家光の子・家綱はまだ11歳でした。
正之に、家綱が将軍となった場合の後見人を任せるつもりだったのです。
老中などの幕閣から一段上げて・・・正之の格上げを図ったのです。
その後、家光の病状が悪化・・・
見舞いの最後は最も信頼の置く弟・保科正之でした。

起きることもままならない家光は・・・

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・汝に家綱の補佐を託す。」by家光
「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」by正之

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
保科正之は、兄との約束を守り、ほとんど会津に帰ることなく身命を投げ打って幕府の政治に専心します。
しかし・・・この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

4代将軍家綱の後見人となった正之・・・
しかし、正之は兄が推し進めてきた武断政治を否定するかのような政策を次々と打ち立てていきます。

武断政治からの脱却①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代からの裏切りに対する人質ということを踏襲したものでした。
しかし、幕藩体制が整った徳川政権においては無用と廃止します。

武断政治からの脱却②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際にも、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまう!!と、殉死を禁止しました。

武断政治からの脱却③末期養子の禁 緩和
大名は、生前に跡取りを決めて幕府に届ける必要性がありました。
そして、死の間際に養子をもらって跡取りにすること・・・末期養子は禁止されていました。
つまり、跡取りのいない藩主が急死するとその藩はおとり潰しとなっていました。
正之はこの禁を緩和し、50歳以下の大名の末期養子を認めます。
藩の取り潰しを減らしたのです。
正之は、家光の行った武断政治を否定するかのように次々と廃止していきます。
しかし、そこには理由がありました。
家光時代の幕府は、徳川と対立しそうな大名を次々と改易していました。
巷には浪人が溢れ、幕府に不満を抱く者たちが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人が増えないように政策を・・・文治政治へと変換していったのです。
家光の政治を否定したわけではなく、展開していく・・・戦の途絶えた時代を生き抜くための政治でした。
大名を上手に取り込むことは、国家統合に繋がり、徳川の平和につながる。。。
徳川ファーストを考えていたのです。
1657年1月18日江戸を、未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人ともいわれています。
火の手は風にあおられて、将軍のいる江戸城まで・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ちていきます。
この時、正之は、将軍を守るために西の丸に逃げるも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは、「上様を城の外へと避難させましょう!!」と言い出しました。

「西の丸も焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ぐらいで城を捨てては面目が立たない!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと、といたのです。
火事発生から2日後・・・ようやく鎮火。
正之は民のために動き出しました。
まず、被災者のためのおかゆの炊き出し。2種類のおかゆを用意し、老人や弱ったものには塩分の控えたものを、それ以外の人たちには濃いおかゆを配りました。
さらに、16万両という幕府の貯蔵金を町の復興に充てようとします。
これに対し、幕閣たちは金蔵が空になると反対します。

「このような時のために、金を蓄えておるのに・・・!!
 今使わずしていつ使うのだ!!」by正之

この判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は、復興をして行ったのです。
現場の最前線で、見事な陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男の正頼が避難先で病に侵されなくなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあっての私情を排し、町の復興を優先させたのです。
江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が反対したからです。
戦乱の終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。。。無用の長物をこのような時に、お金をかけてまで再建するべきではない。
保科正之は、民を思って町の再建を最優先にしました。

兄・家光に誓った徳川への忠誠を守り続ける保科正之・・・
その正之が、徳川のために最後に下した決断は・・・
保科正之が、常に大事にしていたのが、仁の心・・・すべてのものを、慈しみ思いやる心です。
そんな正之が、自らの政治理念を後世に伝えるために残したのが・・・
「会津家訓十五ヵ条」です。
兄を敬い弟を愛すべし・・・面々依怙贔屓すべからず・・・人としての心得をを解く中で、正之が最初に伝えたかったのが・・・
”大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
 若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず
 面々決して従うべからず”
兄・家光に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之でしたが、晩年病に伏し病状が悪化すると、幕府に隠居を申し出ます。
そして、4男正経に家督を譲ると・・・屋敷の裏で、おびただしい量の書類を焼きだしました。
それは、幕府の重要書類でした。
正之の功績が後世までに残ってしまうと、家綱時代の政策は保科正之がやったとわかってしまいます。
あくまでも政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのです。
正之は、最後まで、幕府と将軍のために動いた私利私欲のない男でした。

もし、二人が居なければ・・・武断政治が続いていたならば・・・江戸幕府はもっと早く終わったかもしれません。
1672年12月18日、保科正之は会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山の望む福島県猪苗代市・・・将軍の子として生まれながら、家臣として生きる道を選んだ男は、静かに眠っています。

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将軍の世継ぎを設けるため、将軍以外の男子の出入りが禁じられた空間・・・
政治の中心地に出現したこの空間・大奥で、徳川による平和な時代を願い辣腕を振るったのが春日局。
三代将軍家光に仕えた日本史上最も力を持った乳母・春日局です。

丹波国にある黒井城・・・春日局はこの城の主・斎藤利光の子として生まれました。
父の利光は武芸に優れ、明智光秀の重臣として手腕を振るっていました。
1582年6月、本能寺の変!!
明智光秀が、主君・織田信長に謀反を起こしたのです。
しかし光秀は、羽柴秀吉との戦いに敗れ命を落とし、利光もまた謀反人として捕まってしまいました。
利光は、市中引き回しの上打ち首・・・
その首は、京都粟田口に晒されました。
当時4歳だったお福は、1万石の姫から一転、謀反人の娘となってしまったのです。
父の僅かな友人や、母の親族を頼り、各地を流転する日々・・・
お福は母方の一族・稲葉家の養子となり苗字を変え、京都で身を隠しながら暮らしたといいます。

そんな生活から14年、お福に転機が・・・!!
同じく稲葉家の養子だった稲葉正成と結婚。
稲葉正成は、小早川秀秋の重臣で、関ケ原の合戦では秀秋を徳川方に寝返らせることに成功!!
武功を立てた男が夫だとなったのです。
が・・・正成が主君と対立し、牢人となってしまいました。
お福たちは正成の弟を頼り美濃へ・・・。
お福たちは乳飲み子を抱え、ひそやかに生きました。
お福が通ったとされる汾陽寺の参道は後にお局道と呼ばれました。
戦乱の世に翻弄される日々・・・ここに通ったお福の思いは・・・??

その頃、江戸では歴史が大きく動いていました。
1603年徳川幕府樹立!!
ほどなくして秀忠の正妻・お江が身ごもりました。
男子ならば・・・待望の世継ぎ!!
そのため、徳川家は乳母を探し始めました。
当時の乳母は・・・
御台所は子育てをしません。
子育てはすべて乳母の仕事でした。
女房集団のTOPが乳母で、次世代を養育する・・・乳母は、中世後期の社会において、憧れの職業だったのです。

日本で乳母という職業ができたのが平安時代・・・
枕草子には、乳母が女官たちの間で特別な存在であったことが記されています。
乳母には大きな権限が与えられていました。
そして武家の時代となっても、乳母は権威のある職業としてあり続けます。
流転の日々を送ったお福・・・
お福が乳母に採用された裏には、徳川家康の意向がありました。

「斎藤利光の娘なら、ただ者ではないだろう。。。」by家康

武勇で知られた父を持ち、偶然にも4人目の子を産んだばかりのお福に白羽の矢を立てたのです。
それは、大きなチャンス・・・夫と別れ、幼い子供を連れて江戸へと旅立っていきました。

江戸城に入ったお福の生活は・・・??
竹千代の乳母となったお福には4部屋・・・広さ40畳の住まいが用意されました。
貧乏生活から一転、お福は安定した暮らしを手に入れたのです。
さらに・・・天井裏には・・・部屋が隠されており、秘密の相談や女中を説教する時に使われたといわれています。
お城を支える女性たちをまとめるために、一生懸命努力していたようです。
お福は竹千代に乳を与え、我が子のように愛情を注ぎます。
後の将軍として期待を背負った竹千代・・・僅か4歳で優秀な守役がつき、帝王学を学びます。
そんな周囲の期待に反し、竹千代は病気がちな子供でした。
お福は竹千代の健康のために工夫を凝らします。
七色飯を用意し、食の細い竹千代に食べさせたといいます。

1606年、弟・国松誕生。
竹千代さまの弟・国松さまは聡明でした。
母・お江は、病弱な竹千代よりも、国松を可愛がったといいます。
武家社会の家督相続は・・・戦国時代は実力の時代だったから、実力のある者が天下の権を握る、国の舵をとるということが常識でした。
子供が何人いても、”誰が一番家を存続させるか”という基準で選ぶのが普通でした。

1614年大坂冬の陣・・・竹千代11歳。
翌年の夏の陣によって、豊臣家が滅び、ついに徳川の時代が到来します。
徳川の家督は誰が継ぐのか・・・??
秀忠は国松を跡継ぎにしようとしている・・・そんな噂が流れます。
12歳になった竹千代は追いつめられていきます。
”竹千代さまが自殺なされようとした”
跡継ぎ問題で混沌とする江戸城!!
竹千代のために乳母として何ができるのか・・・??

家康に直訴する??
しかし、直訴に失敗したらお福は終わりだ・・・!!
秀でたものが家を継ぐのは世の習い・・・??

徳川家康の駿府城・・・そこの姿を現したのは、江戸城にいるはずのお福でした。
彼女が目をつけたのが、当時はやっていた”伊勢参り”。
お伊勢参りに行くと偽って、手形を入手し、箱根を越え駿府へ・・・!!
女官の結びつきを利用し、家康の側室を懐柔・・・
お福は家康の面会にこぎつけました。

「竹千代さまが、将軍家のお世継ぎとして何が足りないというのでしょう。
 弟が兄に勝るなど許されぬ事・・・。
 それが将軍家で行われているとあっては、天下が乱れる恐れがあります。」byお福

お福は家康に長子相続を直訴したのです。
これに対し家康は・・・??

ある日家康が江戸城へ・・・竹千代と国松を呼び出します。
「竹千代殿、これへこれへ・・・」と、竹千代を近くに呼び寄せて、竹千代と共に近寄ろうとした国松に・・・
「国松は、元いたところに下がっておれ!!」
家康は、竹千代にのみ、自分の近くに寄ることを許したのです。
さらに家康は秀忠に訓戒する・・・
「嫡子を排し、庶子を立てん事は、天下が乱れることである!!」と。
そう、家督相続争いが起こると戦国争乱は終わらない・・・
家康自身は武断政治から文治政治への転換をしていたのでしょう。
それが、三代将軍の跡継ぎ問題となったのです。

この時期、武家諸法度、禁中並公家諸法度など作成、武力国家から法治国家への転換を図っていました。
お福が願っていた長子相続制度は、家康の願っていた国の姿に不可欠だったのです。
直訴から2年後の1617年・・・江戸城西の丸に移った竹千代・・・。
ここは、徳川家の家督を継ぐ者が住むことを許された場所でした。

その後竹千代は元服し、家光となります。
1623年、20歳で三代将軍となりました。
お福は乳母としての責務を果たしたのです。
しかし、彼女が城を去ることはありませんでした。
お江が亡くなると・・・お福は大奥総取締役に就任。
大奥の実権を握ることに・・・!!
男子禁制などの規律の遵守に側室探し、大奥の組織化と拡大に尽力します。
後の大奥の原型が、この時出来上がったのです。
お福は女官たちの待遇改善にも力を入れます。
すべての階級の女中たちに、合力金という名の衣装代を幕府に願います。

一方、お福は朝廷との交渉役も担っていました。
後水尾天皇天皇に拝謁し、春日局という称号を賜わります。
この”春日局”とは、天皇の子を産んだ女官たちに授けられた由緒ある称号で、一介の武士の娘に与えられるなど、前代未聞のことでした。

戦乱の世で、男たちに翻弄された娘が、江戸時代の始まりに権力者と肩を並べる力を手にしました。
そして・・・1643年、お福は65歳で、その激動の生涯を終えるのです。

乱世を生き抜いたお福の時世は・・・

西に入る 月を誘い 法を得て
         今日は火宅を 遁れぬるかな



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1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、22万の大軍勢で小田原城を包囲・・・
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を滅ぼしました。

この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利をもたらした徳川家康は、恩賞を期待していました。
ところが秀吉は・・・
「徳川殿には、北条氏の領地だった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の代わりに、関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しい土地は、政治的に力が弱まる・・・家康の力を削ぐため。。。
そして、ゆくゆくは東北も完全に手に入れる・・・そのためには、前線基地に家康を置く必要があったのです。
家康に大いに働いてもらおう・・・
家康にとっては、面白くない国替え・・・
関東を治めることを承諾した家康は、本拠をどこに置くか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。

小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・
鎌倉は、武家の都にはふさわしい・・・
江戸は辺鄙な田舎・・・。

家康に秀吉は・・・
「城は、江戸に置いたらどうじゃ?」と言いました。
家康は、その提案を受け入れます。
それは勝算があったから・・・。
それは、人間関係をリセットできること!!
家康自身が主導権を握れるということです。

1590年7月、49歳の家康は、8,000人の家臣を率いて、江戸へ向かいます。
その物々しさから、「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、江戸に到着!!

当時の江戸は・・・
”いかにも粗相で、茅葺の家百ばかり
 ここかしこも海に浸かった 葦の茂る野原”でした。
いくつもの川が流れ込む湿地帯で、平地が少なく、大手町あたりまで海でした。
町を造るためにやることはたくさんありました。
江戸城修築・運河開削・飲み水確保・住民誘致・土地格調・治水工事・・・。
家康は何から始めたのでしょうか・・・??

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは・・・朽ち果てた江戸城を立て直そうとしますが・・・町づくりを優先。
船で物資を運び込むことに・・・
江戸城に面した日比谷入江は浅すぎて、大きな船が入れません。
そこで、運河を作ることに・・・。

①運河開削
目を付けたのは、江戸前島・・・その付け根に運河を通そうとします。
船が通れるようになれば、江戸港との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、天下人秀吉の命に背く行為でした。
家康は、江戸入府に当たり、秀吉から・・・
「鎌倉の円覚寺の領地である前島には手をつけてはならない」と言われていました。
つまり、家康の領地ではなかったのです。

しかし家康は命令を無視して道三堀を作ります。
江戸時代、江戸に塩を運んだ商人たち・・・その産地が行徳で、行徳を運河で結びたい。。。
塩の調達は一刻をも左右する時代、軍用第一の品、領内一の宝とし、行徳塩を確保するためのルートが必要だったのです。
この開削工事は、少数の家臣たちで行われました。
秀吉が行っていた上方での普請に多くの者が使われていたからです。
本多正信は士気を上げるために毎朝4時に視察に来ました。

そのため、家臣たちは雨の日でも雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていきます。


②治水工事
家康が描く大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みません。
利根川をはじめとする川が度々氾濫するからです。
関東平野の治水工事を・・・!!

関東平野の治水を任されたのは、伊奈忠次でした。
治水先進国・甲斐で過ごしていた伊奈を抜擢!!
伊奈は関東八州の代官頭に任ぜられると、工事に取り掛かります。
最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!
そこで、中条堤と控堤を作ります。
まずは埼玉県熊谷市附近に作った中条堤で、利根川の氾濫を堰き止めます。
万が一中条堤から水があふれ出した場合は、いくつも作った控堤で勢いを弱め、江戸に入らないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の人々を使いました。
そして、控堤に領を作り、彼らを住まわせます。
土地のことを良く知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・この治水システムによって、江戸の町づくりが本格化していきます。

1603年、家康が江戸幕府初代征夷大将軍に就任。
江戸に幕府が開かれると工事は大規模なものに・・・!!
天下普請・・・国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・大名たちに普請を命じると、3万~4万人が集まります。
そこで・・・

③土地拡張

天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に置いて監視しようとします。
そのためには、大名屋敷が必要でした。
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江が迫っていて、屋敷を作る場所はほとんどありませんでした。
そこで、入り江の埋め立てという前代未聞の工事に・・・!!
埋め立てには、神田山を切り崩した土で作ったと言われています。
神田山は、千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、現在その痕跡はほとんど残っていません。
が・・・地形図には切り取られた跡がはっきりと残っています。
この時埋め立てられたのは、三十余町・・・北は追手町、南は新橋まで広がりました。
どうやって・・・??
発掘された地層は五層で、何度も埋め立てられてきたようです。
埋立地には、大名屋敷が建てられました。
後に大名小路と呼ばれ、江戸の名所になりました。
その運河に、最初に架けられたのが日本橋です。
近くを町割りを開始し、町人たちも住むようにしましたが・・・人が来ません。

④住民誘致
商業の中心地は大坂・・・西国で埋まった人々になっては江戸は東の彼方・・・田舎町なので、誰も移住したがりませんでした。
家康は、三河や駿河の身近な人々を移住させます。
そして、代償や特権を用意します。
伝馬役の馬込勘解由には、大伝馬町に土地を与えます。
家康恩顧の商人たちは、草分名主として名字帯刀が許されました。
年賀の大礼の際などには、将軍に拝謁することも許されました。
地代や労役を免除などの特権も与えられました。
これによって人々が集まってきたのです。
大いににぎわうようになっていく江戸・・・
佃島に来たのは、上方の佃村の漁師です。
彼らは、家康に、江戸前海での漁業権を与えられていました。

人々が集まるようになると・・・深刻な問題が・・・飲み水です。
埋め立てた土地では、井戸を掘っても海水しか出ません。
飲み水の確保が難しいのですが・・・

⑤飲み水確保
家康は、家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保を命じます。
水源を探し・・・満足する味の水は・・・??
赤坂溜池と、神田明神山岸の小川です。
すぐさま工事に取り掛かり、3か月で水路を完成!!
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々ののどを潤しました。

人口はさらに増加・・・水不足が・・・新しい水源は、井之頭池でした。
ここには、清水が滾々湧いていました。
神田上水を作り、江戸市中にひきこみます。
上水の維持管理費用は利用者持ちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを元に徴収されていました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末なものでした。
しかも、十数年間、修築工事は行われませんでした。
1604年、将軍に就任してから1年4か月後・・・諸大名に江戸城修築計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要とされたのが、石材です。
江戸周辺には、良質な石の産地はありませんでした。
家康は、島津家や浅野家など・・・西国の大名たちに石を運ぶ船を作るように命じます。
その数3,000艘!!すべて出来上がったのは、2年8か月後だったと言われています。
家康は、所領10万石につき100人持之石(約4トン)・1,120個を差し出すように、大名たちに命じました。
100万石なら4,500トン、採掘場所の伊豆から江戸に運ぶことになりました。
大量の石をどうやって切り出したのでしょうか?
大名達は、出来るだけ対岸近くに石丁場を設けました。
その数、およそ130カ所!!
一艘の船に乗せるのは、4トン×2が限界・・・100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかりました。
輸送中には多くの命が失われます。
たくさんの人々が命を懸けた石で、江戸城は修復されました。
設計したのは築城の名手・藤堂高虎。
そこへ自ら修正を加えます。

初期の江戸城は・・・
当時としては最大、最強の実践的な城でした。
天守は、大天守と小天守が連立(連立式天守)し、最も発達した天守・・・軍事的要素の強いものでした。
外枡形(西国)が5つもあり、鉄壁の江戸城でした。
天守の北側に、3つの馬出(東国)・・・東と西が融合した城だったのです。
まさに、戦国以来の城の集大成・・・。
豊臣方がいまだに強大な力を持っている中、万が一、江戸城が攻められたことを考えた鉄壁の城だったのです。

天守は五層六階建てで、大坂城をしのぐ55m、漆喰で塗られた純白の城・・・
高さは富士山と並ぶようだ・・・白く雪山のように見える・・・白亜の大天守は、徳川の世を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を造った家康は、たぐいまれなる先見の明と知恵がありました。


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