日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家光

愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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江戸時代の歴史の常識は・・・??
江戸幕府は三代将軍家光の頃に海外からの往来や通商を制限し、日本人の海外渡航と帰国を禁じました。
さらに、通商を許していたオランダとの貿易さえも、長崎の出島に限ったため、ここに鎖国が完成したといわれてきました。
実際は長崎の出島だけではなく、幕府の統制下で開かれた4つの窓口がありました。
①長崎・・・オランダ・明・清
②対馬・・・朝鮮
③薩摩・・・琉球
④松前・・・アイヌ
この4つの港で、日本は外国と貿易をしていたのです。
カトリック強国でないオランダ、中国、朝鮮、東南アジア諸国とは禁止していませんでした。
いわゆる鎖国言葉自体、家光の頃にはありませんでした。
鎖国という言葉はいつ生まれたのか・・・??
江戸時代の蘭学者・志筑忠雄の書いた「鎖国論」です。
鎖国論は、1801年に蘭学者・志筑忠雄によって書かれたもので、江戸時代後期に書かれたこの本で、鎖国という言葉が使われました。
1712年にドイツで出版されたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが書いた「廻国奇観」が元になっていて、出島にあったオランダ商館医師だったエンゲルベルト・ケンペルがペルシャを中心とするアジア諸国を巡った際の報告書です。
その14章に・・・
”最良の見識によって自国民の出国及び外国人の入国・交易を禁じ、国を閉ざしている日本王国”と紹介されています。
これがオランダ語に訳され「日本誌」に・・・日本に入ってくると、志筑が自分の意見を踏まえ、”日本人が全国を鎖して”と翻訳、「鎖国論」としました。
つまり、鎖国は、江戸時代後期にドイツの書籍の翻訳から生まれた言葉だったのです。
その後、鎖国という概念は、幕末にやってきた外国の使節を追い返すために利用され、開国の対語として使われるようになった=江戸時代の外交と、定着してしまったのです。


江戸時代の身分制度である士農工商・・・
①武士・・・支配階級
②農民・・・幕藩体制の財政基盤となる米を作る
③職人・・・大工など
④商人・・・不浄なものとされた銭を扱う
厳格な身分制度です。
しかし、近年では士農工商は、身分制度ではなかったといわれています。

現在の教科書に書かれている身分は三つ・・・武士、町人、百姓です。
武士は侍たち特権階級のことですが、町人と百姓は、住んでいるところによって呼び方が振り分けられていただけで、町に暮らしていれば町人、村に暮らしていれば百姓といった感じです。

百姓には農業だけでなく、漁業や林業の者も含まれていました。
百姓=”百せい”で、いろんな名字を持つ人という意味です。
その名字を持っていたものの大半が百姓だったので百姓=農民となりました。

武士、町人、百姓の身分関係は・・・町人は百姓と同等でした。
武士の身分は特権を持ち格差はありましたが、そこまで厳格ではありませんでした。
大名行列の際・・・人々は土下座をして通り過ぎるまで待つ??といわれますが、将軍や徳川御三家を除けば、庶民も顔をあげて見物のぞき見などもすることができました。

士農工商とは何だったのでしょうか?
その語源は、中国の「漢書」で、”士農工商四民有業”とあります。
本来は身分の違いを現したものではなく、民衆全体を指すものでした。
明治時代・・・江戸時代を厳しい身分制度があった悪しき時代とするために、政府は江戸時代に重んじられていた儒教の思想が階級社会と結びつきやすいと考え、士農工商を身分制度の言葉へと捻じ曲げてしまったのです。

士・・・古代中国の儒学では、何かを成し遂げる能力のある人という意味です。
日本では、武士に置き換えていました。
農・・・生活に欠かせない米を作る農民
と、観念をあてはめやすかったのです。
明治政府は士農工商を明治時代の身分制度に仕立て上げるとともに、四民平等を掲げることで新しい時代はいい時代だと強調したのです。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・徳川の世。
世界でも類を見ない長期安定政権が誕生したのはこの二人・・・
三代将軍・徳川家光と将軍を支えた会津藩主・保科正之が礎を築いたからでした。
実は、二人は異母兄弟でした。
そしてそこには兄弟の強い絆がりました。

徳川家康が関ケ原に勝利し、江戸に幕府を開いた翌年・・・
1604年二代将軍秀忠とお江の間に世継ぎ・・・竹千代・・・後の家光が生まれました。
それから7年後の1611年、江戸神田の浪人の家で幸松・・・後の保科正之が生まれました。
父は竹千代と同じ秀忠でしたが・・・どうして浪人の家で・・・??
幸松母・静は、江戸城に奉公にあがっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠に見初められ、子供を身籠ります。
本来ならばめでたい事でしたが、喜べない理由が・・・
正室・お江です。
お江はとても気位が高く嫉妬深い女性で、秀忠が側室を持つことを許しませんでした。
そのため、子ができたとなると何をするかわからない・・・
実家に戻された静は、お江から恨まれないように子を堕ろします。
しかし、再び秀忠によって戻された静は、またもや身籠ってしまいました。
そんな静を家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
こうして静は、親類の浪人宅で幸松を産んだのです。
しかし、お江に気を遣って、秀忠は幸松を子として認めませんでした。
将軍の子であることを隠して育った幸松は、母・静の慕っていた武田信玄の次女・見性院に育てられることとなります。
そして、幸松7歳の時、しかるべき武家に幸松を預けようと・・・見性院はある大名に白羽の矢を立てました。
信州高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で旧知の間柄。
さらに、正光の父・正直の後妻は徳川の妹で保科家は、徳川と姻戚関係にあったからと言われています。
が・・・この養子縁組の裏には秀忠が関係しているかと言われています。
つまり、幸松の教育を見性院に依頼したのは、秀忠側だったのでは・・・??
また、幸松が高遠藩に行った折には、高遠藩に5000石の加増が行われています。
おそらく幸松の養育費では・・・??と言われています。
ということで、父・秀忠の計らいで保科家の養子となり大切に育てられることとなりました。
秀忠にはこの時3人の子供がありました。
兄・竹千代、弟・国松は、母が同じお江でした。
そして静を母に持ったために将軍の子と名乗れなかった幸松・・・保科正之でした。
徳川家光と保科正之・・・この時お互いの存在を知りませんでした。

家光は、家康が長子相続を説き、20歳で3代将軍となりました。
家康が理想とした幕府を実現していく家光。
1632年秀忠が死去・・・将軍となった家光は、大名たちを江戸城に呼びつけました。
居並ぶのは、歴戦の強者たち・・・彼らを前に宣言します。
「余は、生まれながらの将軍である。
 貴殿らに対して、遠慮するものはない。
 今後皆、家臣同然として扱う。そのように心得よ。
 もし、不承知者がいるならば、国元へ帰って戦の準備をいたせ!!」by家光
家光が挑発的な態度を取ったのは・・・??
家康、秀忠は、関ケ原、大坂の陣を戦っています。
戦争を知らない世代の家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
そして、家光は、徳川政権を盤石なものにするために、いろいろな政策を立てていきます。
大名達の謀反を防ぐために監察官として柳生宗矩ら4人を「総目付」に任命。
大老、老中の設置・・・将軍をトップとする幕府のシステムを確立し、政治の安定を図ります。
諸制度の確立・・・
1635年武家諸法度改定・・・参勤交代を制度化。
江戸での滞在期間や交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの費用が莫大にかかり、財力を削がれて戦を構えることができなくなり、幕府が優位に立つことになりました。
家光は、危険分子を改易、政治の安定を図ろうとします。
その改易の数は、歴代将軍最高の49家でした。
武力や厳しい刑罰で統治する武断政治を推し進めていきます。
その頃の幸松は・・・養父である保科正光の選んだ優秀な家臣たちから手厚い教育を受け、幕府に仕える心構えを徹底的に教え込まれていました。
保科正光は、将来幸松が将軍になる可能性があるかも??と考えていました。
なので、彼を育ててきた保科家の発展も期待して、幸松を教育しました。
幸松もまた、いつしか自分が将軍の子であると理解するようになりました。
1631年・・・幸松が養子となって14年・・・養父・正光が亡くなります。
家督をついだ幸松は、正之は21歳で、高遠藩2代藩主となるのです。

家光が弟・保科正之の存在を知ったのは・・・
家光が目黒に鷹狩りに行った際、家光が身分を隠して休んだ寺が・・・成就院・・・。
この成就院は、正之の母・静が参っていた寺でした。
住職が話を始めました。
「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は将軍様の弟君であるのに・・・。
 それに相応しい扱いを受けていないんですよ。
 それが、不憫でしてね・・・」by住職
家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩藩主になっていることを知ったのです。

「余に、顔も知らぬ弟・・・それは一体、どんな男なのだ・・・。」by家光

2代将軍秀忠を同じ父に持ちながら、母が違うというだけで、互いの存在を知らずにいた二人・・・
家光は、ある儀式のために江戸城にやっている正之を一目見ようとふすまの陰に潜みます。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のために、末席だったのです。

「自分は将軍の弟だ!!という横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは、なんと殊勝な男よ」by家光

家光は、正之を取り立てるようになります。
しかし、そこには、家光の思惑がありました。
家光は、異母兄弟と知った保科正之を高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に。
片腕と重用するようになった正之に・・・
「忌諱を憚ること勿れ」と言ったと言います。
先輩の幕閣たちに遠慮しなくていい・・・ということでした。

更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は
「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」
保科家への恩義から辞退したと言われています。
感心した家光は、その信頼を厚くしていきます。
しかし、家光が正之を取り上げたもう一つの理由は・・・??
もう一人の弟・忠長の存在です。
家光にとって、同じ母・お江から生まれた弟・忠長は、兄弟というより将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉も不自由なところがあったので、両親の愛情は聡明な忠長へ・・・。
すると家臣たちも、「次期将軍は兄君ではなく弟君が相応しい」となっていきます。
両親の愛情を受けず、将軍の器でなしと噂された家光は、12歳の時、悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けてこなかった家光にとって、同じ思いをしてきた正之に共感を覚えていたのです。
一方、弟の忠長は・・・将軍の弟として駿府藩55万石の大大名となりました。
それでも相応しくないと思っていたようで・・・加増や大坂城城主を望んだりしていました。
謙虚で信頼できる身内・正之と思っていたようです。 
そして、忠長をけん制するという意味もありました。
将軍への夢を忘れられず、家光に対し憎悪の念を抱いていた忠長なのです。

家光にけん制された忠長は・・・精神的に追い詰められ、家臣たちを手打ちにするなど危行が目立つようになります。
この行動に怒った家光は、領地を取り上げて幽閉し、最終的には自害に追い込んでいます。
二人の溝は、最後まで埋まらなかったのです。

正之は兄・家光をどう思っていたのでしょうか?
支えなければ!!と思っていましたが、それは弟としてではなく、自らをわきまえ、家臣としてという思いが強かったようです。

保科正之が山形藩主となった翌年・・・1637年に九州で大事件が!!
島原の乱です!!
キリスト教勢力の拡大を畏れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の事件の鎮圧には、家光が最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役を任されたのは松平信綱でした。
正之は、家光から領地である山形に帰るように命じられます。
家臣たちは首をかしげましたが、正之には家光の意図が分かっていました。
「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」by正之
家康の遺訓に従った事でした。
東国の反乱に備え、保科正之を監視役としたのです。
1638年・・・島原の乱の終結直後、山形の隣にあった幕府直轄地・白岩郷で百姓一揆が起こりました。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人をすべて処刑します。
控えめで優しい性格の正之が下した判断にしては、非常に厳しいものでした。

各地で飢饉、一揆がおきていた時代でした。
なので、無秩序状態にさせないために、厳しい処分を下したのです。
しかも、幕府の直轄地であったので、家光の遺構が低下する可能性もはらんでいました。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さぬように鬼となったのです。
兄・家光は弟・正之を心から信用し、大事な役目を与え、正之はその期待に応えたのです。
島原の乱、白岩郷の一揆の鎮圧後、大きな乱や一揆は無くなり、徳川の世に繋がっていきます。
しかし、首謀者を処刑したことは、正之にとって、生涯の心の傷となりました。

「一揆が起きてからでは遅い。
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ。」by正之

1643年、保科正之33歳の時に、将軍家光から会津藩23万石への転封が命じられます。
これは、徳川御三家の一つ水戸藩(23万石)と肩を並べるほどの厚遇でした。
その会津藩は、大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で、領民は疲弊・・・
余所の藩へ逃げ出す者も出ていました。
正之はすぐさま領民のための改革を行っていきます。

藩政改革①社倉制
社倉制とは、藩のお金でコメを買い上げ備蓄しておき、凶作の際には領民に貸し出すという救済制度です。
領民は2割という当時としては低い利息で借りることができました。
しかし、正之は、この利息の利益を藩の蓄えにはせずに新しく米を買って、社倉の備蓄としました。
そのため、これ以降、会津藩では飢饉で一人の餓死者も出なかったといいます。

藩政改革②人命尊重
正之の母・静は、将軍秀忠の子を、一人目は堕胎させられ、二人目も堕胎させられるところでした。
そんな経緯で生まれてきた正之は・・・
「宿った命は、生きることをやめさせるべきではない」
とし、間引きを禁止しました。
さらに、領内で行き倒れになった人がいれば、医者に連れて行くように命令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

藩政改革③老養扶持
正之は、高齢者保護を行っています。
90歳以上全員に、一日5合分の米を毎年支給しました。
該当者が150人以上になりましたが、分け隔てなく与え、大いに喜ばれたといいます。
正之は、今の老齢年金のようなこともしていたのです。
領民の安定は政治の安定、政治の安定は領民の安定とし、勧農意識・・・主として農業を侵攻奨励し、実行しようとする考えを持っていました。
一揆の予防策として、実行したのです。
兄・家光に与えられた会津を豊かにするために邁進していく正之・・・家光が病に倒れてしまいます。
死を悟った家光は・・・??

1651年、3代将軍家光は、病に倒れます。
見まいに来た弟・保科正之に対し、愛用の萌黄色直垂と烏帽子を与え・・・
「今後、保科家は代々萌黄色の直垂を使ってよい。」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・この時、家光の子・家綱はまだ11歳でした。
正之に、家綱が将軍となった場合の後見人を任せるつもりだったのです。
老中などの幕閣から一段上げて・・・正之の格上げを図ったのです。
その後、家光の病状が悪化・・・
見舞いの最後は最も信頼の置く弟・保科正之でした。

起きることもままならない家光は・・・

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・汝に家綱の補佐を託す。」by家光
「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」by正之

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
保科正之は、兄との約束を守り、ほとんど会津に帰ることなく身命を投げ打って幕府の政治に専心します。
しかし・・・この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

4代将軍家綱の後見人となった正之・・・
しかし、正之は兄が推し進めてきた武断政治を否定するかのような政策を次々と打ち立てていきます。

武断政治からの脱却①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代からの裏切りに対する人質ということを踏襲したものでした。
しかし、幕藩体制が整った徳川政権においては無用と廃止します。

武断政治からの脱却②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際にも、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまう!!と、殉死を禁止しました。

武断政治からの脱却③末期養子の禁 緩和
大名は、生前に跡取りを決めて幕府に届ける必要性がありました。
そして、死の間際に養子をもらって跡取りにすること・・・末期養子は禁止されていました。
つまり、跡取りのいない藩主が急死するとその藩はおとり潰しとなっていました。
正之はこの禁を緩和し、50歳以下の大名の末期養子を認めます。
藩の取り潰しを減らしたのです。
正之は、家光の行った武断政治を否定するかのように次々と廃止していきます。
しかし、そこには理由がありました。
家光時代の幕府は、徳川と対立しそうな大名を次々と改易していました。
巷には浪人が溢れ、幕府に不満を抱く者たちが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人が増えないように政策を・・・文治政治へと変換していったのです。
家光の政治を否定したわけではなく、展開していく・・・戦の途絶えた時代を生き抜くための政治でした。
大名を上手に取り込むことは、国家統合に繋がり、徳川の平和につながる。。。
徳川ファーストを考えていたのです。
1657年1月18日江戸を、未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人ともいわれています。
火の手は風にあおられて、将軍のいる江戸城まで・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ちていきます。
この時、正之は、将軍を守るために西の丸に逃げるも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは、「上様を城の外へと避難させましょう!!」と言い出しました。

「西の丸も焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ぐらいで城を捨てては面目が立たない!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと、といたのです。
火事発生から2日後・・・ようやく鎮火。
正之は民のために動き出しました。
まず、被災者のためのおかゆの炊き出し。2種類のおかゆを用意し、老人や弱ったものには塩分の控えたものを、それ以外の人たちには濃いおかゆを配りました。
さらに、16万両という幕府の貯蔵金を町の復興に充てようとします。
これに対し、幕閣たちは金蔵が空になると反対します。

「このような時のために、金を蓄えておるのに・・・!!
 今使わずしていつ使うのだ!!」by正之

この判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は、復興をして行ったのです。
現場の最前線で、見事な陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男の正頼が避難先で病に侵されなくなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあっての私情を排し、町の復興を優先させたのです。
江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が反対したからです。
戦乱の終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。。。無用の長物をこのような時に、お金をかけてまで再建するべきではない。
保科正之は、民を思って町の再建を最優先にしました。

兄・家光に誓った徳川への忠誠を守り続ける保科正之・・・
その正之が、徳川のために最後に下した決断は・・・
保科正之が、常に大事にしていたのが、仁の心・・・すべてのものを、慈しみ思いやる心です。
そんな正之が、自らの政治理念を後世に伝えるために残したのが・・・
「会津家訓十五ヵ条」です。
兄を敬い弟を愛すべし・・・面々依怙贔屓すべからず・・・人としての心得をを解く中で、正之が最初に伝えたかったのが・・・
”大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
 若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず
 面々決して従うべからず”
兄・家光に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之でしたが、晩年病に伏し病状が悪化すると、幕府に隠居を申し出ます。
そして、4男正経に家督を譲ると・・・屋敷の裏で、おびただしい量の書類を焼きだしました。
それは、幕府の重要書類でした。
正之の功績が後世までに残ってしまうと、家綱時代の政策は保科正之がやったとわかってしまいます。
あくまでも政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのです。
正之は、最後まで、幕府と将軍のために動いた私利私欲のない男でした。

もし、二人が居なければ・・・武断政治が続いていたならば・・・江戸幕府はもっと早く終わったかもしれません。
1672年12月18日、保科正之は会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山の望む福島県猪苗代市・・・将軍の子として生まれながら、家臣として生きる道を選んだ男は、静かに眠っています。

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