戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。
春日局の辞世の句の一つ・・・
西に入る 月を誘い 法をへて
今日ぞ火宅を 逃れけるかな
天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。
1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。
お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。
稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。
1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・
「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」
夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。
1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。
乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。
しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。
1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・
「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」
すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」
それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。
お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。
1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。
老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・
1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。
幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。
三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。
「上様が末永く健やかでおられますように・・・」
そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。
今日までは 乾く間もなく うらみわび
何しに迷う あけぼのの空
戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。
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