日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家康

”退く戦は攻める戦より難しい”

戦国時代、撤退戦は武将たちを死の間際に追い込みました。
乱世に幕を引いた天下人・徳川家康も例外ではありません。
生涯で幾度も危険な撤退戦を経験した家康・・・
その中で、今まであまり語られてこなかった戦があります。

”金ヶ崎の退き口”です。

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織田信長が、朝倉氏討伐のために越前へ出兵。
信長と同盟関係にあった家康も、この戦に参陣しました。
戦いを優勢に進めていた織田軍でしたが、浅井長政の裏切りにより形勢が逆転。
信長は、撤退せざるを得なくなりました。
軍の殿・・・つまり、最後尾を任されたのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉でした。
しかし、この時、最も厳しい状況にあったのが、敵中深くまで攻め込んでいた家康でした。
家康の家臣はこう記しています。

”信長は、家康を前線に残したまま、何の連絡もなく退却した”

家康は、信長が撤退したことを知らされておらず、最前線に取り残されてしまったのです。
家康は、いかにしてこのピンチを生き抜いたのでしょうか??
信長、秀吉、家康・・・
戦国の三英傑を窮地に追い詰めた金ヶ崎の退き口・・・
この戦いに徳川家康の視点から迫ります。

1560年、桶狭間の戦いで、織田信長が東海の雄・今川義元を討ち果たしました。
これを機に、今川家中の一武将だった家康は、生まれ故郷の三河に帰り、独立を果たします。
この時、19歳でした。
まもなく、尾張の織田信長と同盟を締結。
西からの脅威を無くした家康は、三河を統一し、版図を拡大させていきます。

1570年、29歳の家康に、同盟相手の信長から書状が送られてきました。
それは、天下静謐のため、各地の領主に上洛を命じるものでした。
家康はこの命令に従って、上洛。
将軍・足利義昭の前で、馬揃えを披露しました。
その盛大さに、多くの見物人が集まったと記録されています。
しかし、華やかな式典の裏で、信長はある作戦を実行しようとしていました。

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1570年4月20日早朝、信長は、3万ともわれる大軍勢で都を出陣!!
その中には、家康率いる徳川勢もありました。
都の西岸を北上した軍は、4月22日、若狭国の熊川城に到達。
この時、家康は城下の得法寺に泊まったといわれています。

この時信長は、3万もの大軍を動員して何をしようとしていたのでしょうか?
信長が、毛利元就に送った書状にはこうあります。

”若狭の武藤と申す者が悪逆を企てているので、成敗しなさいと将軍から命令された”

足利義昭から、若狭国衆・武藤氏の討伐を命じられたと言います。
しかし、4月23日、熊川を出た信長は、武藤氏の西ではなく北へ軍勢を向けました。
その先は越前・・・戦国大名・朝倉氏が支配する地です。
従来、この信長の出兵は、朝倉の当主・朝倉義景が上洛命令に従わなかったためと考えられていました。
しかし、近年違った解釈があります。
信長が、最初から越前攻めを考えていたかは非常に難しい所です。
若狭国は、朝倉方と将軍・信長方で二分されていました。
言うことを聞かない武藤氏が、越前の朝倉に援助を求めたとわかってきました。
それなら懲らしめないといけないと、若狭から越前に入って行ったのでは??

朝倉義景が、反将軍派の後ろ盾になっていたと知り、信長は越前に軍を向けたのです。
4月23日、信長は若狭と越前の国境にある国吉城に入城。
その2日後に、越前の敦賀に進軍を始めます。
狙うは金ヶ崎城と手筒山城・・・2つの山城です。

信長はまず手筒山城への総攻撃を指示、家康率いる徳川勢も、南側から力攻めを行います。
結果、手筒山城はわずか半日で落城。
この時織田軍は、1300人以上を討ち取ったと記録されています。
翌日、信長は金ヶ崎城を包囲。
ここで手柄を立てたとされるのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉です。
城に乗り込んだ木下藤吉郎は、降参すれば命を奪うことはないと説いて開城させました。
越前と畿内を結ぶ要衝・敦賀の全域を易々と占領したのです。

信長は、すぐさま越前のさらに奥へと軍勢を進ませます。
その先鋒を務めたとされるのが、徳川家康!!
4月27日、家康らの先陣は、越前の南北を分ける木ノ目峠に達したと考えられています。
朝倉氏の本拠地・一乗谷まではおよそ50キロ・・・家康は峠を越え、一気に一乗谷へと流れ込もうとしていました。

しかし、その時、信長に驚くべき知らせがもたらされていました。
北近江を治める浅井長政が、朝倉川についたというのです。
長政は、信長の妹婿でもある同盟相手です。
もし裏切った浅井が近江から北上してくれば、信長は朝倉・浅井に挟み撃ちにされます。
一国の猶予も許されない絶体絶命の状況・・・
ここで信長は、”是非に及ばず”と言い捨てました。
後に本能寺の変でも口にする言葉です。
そして、撤退を決断!!
わずかの馬廻りだけを従え、都へ一目散に駆け出しました。
朝倉の追っ手をふさぐ殿は、木下藤吉郎らに託されました。
この時、越前の最も奥まで攻め込んでいた家康は、いかなる状況にあったのでしょうか?
家康の家臣が記した”三河物語”にはこうあります。

”信長は家康を捨て置き、何の連絡もなく宵の口に退却した
 家康はそれを知らず、夜が明けてから木下藤吉郎に知らされ、退却することになった”

危険な最前線に取り残されてしまった家康・・・
ここから決死の撤退戦をすることになります。

信長が退却したことを知らされた家康は、すぐさま兵を集め撤退を始めました。
目指すは、木下藤吉郎ら殿の軍勢が残る金ヶ崎城。
朝倉から奪ったばかりの城です。
この山城は、今は周囲を埋め立てられていますが、当時は三方を海に囲まれた天然の要害でした。
敦賀湾に突き出た金ヶ崎城は、朝倉の追撃を防ぐのに最適の城であったように思われます。
しかし、撤退する家康が、この城に入ったという記録はありません。

その理由の一端が、航空レーザー測量によって見えてきました。
赤色立体図には、細かな地形が視覚化されています。
そこには金ヶ崎城の意外な姿がありました。
それは、朝倉時代に整備された遺構が驚くほど少なかったことです。
南北朝時代に作られたものを、そのまま利用したのではないかと思われます。
南北朝時代の城の遺構は多く確認されましたが、戦国時代の最新の防衛設備は極めて少なかったのです。
山を削って平地を作ったように見える場所・・・それまでは曲輪かと思われていましたが、調査の結果は古墳でした。
朝倉時代のものではなく、新たに確認された古墳です。
城の遺構と思われていたのは、1000年以上前に築かれた前方後円墳でした。
朝倉は、こうした空間に手を付けず、城としての大規模な整備を行っていなかったのです。
実は当時、敦賀では金ヶ崎城のふもとにあった氣比社・・・現在の気比神宮が強い力を持っていました。
氣比社にとって、金ヶ崎城にある山並みは、神が降臨したとされる聖地でした。
朝倉は、こうした事情に配慮したとも考えられます。
金ヶ崎城は、天然の要害であるけれど、自分から反撃するということが籠城するとできない場所でありました。
徳川家康も、ここで残って何かをしようとは思わずに、脱出できる間に脱出して、追撃をかわしながら安全な場所に行く・・・と、考えたと思われます。
金ヶ崎城では、朝倉の追撃を食い止められない・・・
家康は、この城を横目にさらに西に向かいます。
木下藤吉郎ら殿の軍勢も金ヶ崎城を出て西に向かったと考えられます。
背後には、朝倉の追撃軍が迫っていました。
一体どこまで逃げれば助かるのか・・・??

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この時家康が目指したのは、越前と若狭の国境と考えられます。
そこには、国吉城という城があります。
国吉城とはどんな城だったのでしょうか??
登りにくく、ここに山城が無ければ登ろうとは思わない登りたくない山です。
山頂までは急峻な斜面が続き、敵の侵入を防ぎます。
さらに、本丸の手前には、高度な守りの設備も築かれていました。
”連郭曲輪群”があり、5つの階段状の曲輪が並んでいます。
それぞれの曲輪の間には、切岸が築かれています。
攻めよせる敵に、およそ10メートルのがけの上から鉄砲や弓矢で攻撃を浴びせるのです。
本丸までにはこうしたがけが5つ続いていました。
まさに、難攻不落!!
北側は、若狭湾が一望でき、大池もある・・・非常に、防御にも適した立地にある城山でした。
堅い守りを誇る国吉城・・・朝倉氏は、これまで何度もこの城を攻略しようとしていました。
しかし、その度に激しい反撃にあい、失敗。
朝倉義景は、この城について語っています。

”国吉城は、城の守りが固く、自由に攻め寄せられず
 攻めても有利にならない”

国吉城は、家康が逃げ込むのにうってつけの城でした。
織田軍全体の中でも、国吉城に帰れば、国吉城まで撤退すればというところがありました。
朝倉にしてみると、国吉城まで逃げられてしまうと、今まで攻めても落ちない城・・・
そこまで逃げられたら追いかけるのに諦める・・・!!

金ヶ崎城から国吉城まではおよそ10キロ・・・
金ヶ崎の退き口での家康の撤退戦は、この10キロを逃げ切れるかどうかだったのです。
しかし、その道のりは過酷なものでした。
朝倉の記録には、こう記されています。

”親は子を捨て、郎党は主人を知らず、我一番にとひ引き行く
 進むときは鉄壁をも砕く程の猛勢も、退く時は波の声も敵の寄ると恐れをなし
 後より味方の落来るを 敵の追うかと心得て 同士討ちする族もあり”

敵は朝倉の追撃だけではありませんでした。
朝倉や浅井の息がかかった一揆勢が、家康のいく手を遮っていたともいわれています。
そんな中、家康を守る三河武士は、決死の戦いを続けました。
徳川勢の最後尾にいた弓の名手、内藤正成は、6本の矢で6人を倒す、百発百中の腕前を発揮。
槍の半造と呼ばれた渡辺盛綱は、数十人を突き伏せ、一揆勢を退却させたと記録されています。
壮絶を極めた戦いの末、若狭へ入った徳川軍・・・
しかし、国吉城を目前にして、家康は難しい選択を迫られることになります。

若狭国の国吉城へ向け、およそ10キロの道を戦い続ける徳川軍・・・
ようやく国境を越えてまもなく、家康が目にしたのは味方のピンチでした。
殿として撤退していた木下藤吉郎の軍が、敵に囲まれていたのです。

木下藤吉郎の軍が、敵兵に四方から取り囲まれ、全滅寸前になっていた

そんな窮地に陥っている木下藤吉郎を目の当たりにした家康・・・どうする??

木下藤吉郎が、朝倉軍に囲まれたと伝えられる黒浜は、国吉城まで2キロ足らず・・・
家康は信長の家臣ではないのだから、かまわず城へ行くのが当然だと思われます。
しかし・・・見方を見捨てたとなれば、信長はどう思うのか??
浅井に裏切られた怒りにまかせて、どんな仕置きをされてもおかしくはない・・・!!
救援に行き、信長の覚えをよくしておくべきか??

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国吉城の手前で敵に囲まれた木下藤吉郎の軍勢・・・ 
それを見た家康は、こういったと伝わっています。

「ここで木下藤吉郎が討たれれば、再び信長殿に合わす顔がない」

家康は、木下藤吉郎を救援に行く選択をしました。
朝倉軍に突撃した家康は、水から鉄砲を放ち、木下藤吉郎を救出。
命拾いした木下藤吉郎は

「お陰を被りかたじけない次第」

と、家康に感謝を伝えたと言います。
こうして、危険な撤退戦を生き抜いた家康は、何とか国吉城に到達。
朝倉軍は、ここで追撃をあきらめたと考えられています。

数日後、家康は木下藤吉郎とともに都に帰還。
信長は、殿をやり遂げた木下藤吉郎をほめ、黄金数十枚を与えました。
しかし、家康に褒美があったという記録はありません。

金ヶ崎の退き口からわずか2か月後、家康は再び信長の求めに応じ出陣。
浅井・朝倉との姉川の戦いです。
ここで家康は、朝倉軍を一手に引き受け、さらに窮地に陥った織田軍を救い、勝利に導きます。
同盟締結から信長が死ぬまでのおよそ20年・・・
家康は信長を助けつづけるのです。

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家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

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東京・日本橋・・・その中で、350年以上もの歴史を持つ老舗が日本橋三越本店です。
平成28年5月には、我が国の歴史を象徴する百貨店として、国の重要文化財に指定されました。
その前身こそが、三井越後屋です。

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日本橋は、徳川家康が江戸に入府後、最初に区画整理を行った場所です。
1604年には、五街道の拠点と定められ、道路が整備されました。
交通網が発達したことで、江戸の町には多く人が集まってくるようになりました。
天下普請によって、江戸城築城などの公共事業で職人たちがたくさん江戸に入ってきました。
そして、参勤交代によって全国の大名とその家臣たちが暮らすようになり、江戸の人口は急激に増加しました。
しかし、江戸は新興都市だったため、食料、衣類も生産力が低く、人口増加に対して供給が追い付きません。
その為、人々の暮らしを支える日用品は、それまで経済の中心だった大坂や京都などの上方からの下りものが頼りでした。
上方商人が、続々と江戸へ進出し、活躍します。
彼らは上方を本拠地とし、江戸に支店を持っていたことから「江戸店持ちの上方商人」と言われました。

三井越後屋の創業者・三井高利もそのひとりでした。
伊勢国松坂で商いを営む家に生まれた高利は、たぐいまれな商才を発揮し、家業を拡張していきます。
そして、1673年、新規開拓を目指し江戸に進出。
江戸随一の呉服街だった日本橋本町に小さな呉服棚「三井越後屋」を開きます。
この時、高利52歳!!

伊勢を本拠にし、江戸に新たな店舗を開いた三井高利でしたが、なじみの客もおらず悩んでいました。
そんな三井越後屋が江戸で始めた画期的な商法とは・・・??

①店先売り・・・店頭販売です。
当時の商いは、訪問販売が普通でした。
商人が客の屋敷まで商品を持参して販売する”屋敷売り”や、注文を取った後で商品を届ける”見世物商い”を行っていました。
江戸に得意先がなかった越後屋は、お客さんの方から店に来てもらいそこで買い物をしてもらおうと考えたのです。
この斬新さが目を引き、通りがかりの人を次々と引き込んでいきました。

暮れの押し迫った江戸の町・・・忙しく走り回る商人の姿が・・・??
江戸時代は一般的につけ払いでした。
商人たちはその代金を回収するため、家々を回っていました。
支払いは盆と正月の二節季払いか、年末のみの極月払いでした。
場合によっては貸し倒れになったり、資金の回転も悪くなっていました。
当時は掛け値で、実際の販売価格よりも値段を高くつけておいて、客が値引き交渉で値を下げていくのが習わしでした。
しかし、越後屋はその常識をも覆します。

②現金掛け値なし
定価制にして現金で払います。
その代わり、安く買えるというものでした。
当時では、呉服の知識、交渉力がなければ、呉服を買いづらかったのです。
それを決めることで、誰でも呉服が帰るようになりました。
掛け値なしの定価売りは、当時の世界の商業市場からしても画期的なことでした。
定価をつけて売ったことで、越後屋はお客に正直、越後屋で買うとお得という噂が広まり、時には順番待ちになるほど客が押し寄せました。

「新法を工夫すること」by高利

その言葉通り、越後屋はさらに確信的な新商法を生み出していきます。

③切り売り
当時、高級な呉服を買うのは、中流以上の武士がほとんどでした。
呉服棚では、呉服一反売りをするのが当たり前でした。
そんな中、越後屋は客の求めに応じて、どんな長さでも切って売る切り売り販売を始めます。
切り売りは、手間がかかるうえに儲けが少ないと、呉服棚は及び腰・・・
それを敢えて行ったのです。
良い生地を好きな分だけ買えるとあって、今まで手が出せなかった庶民にまで客層を広めることに成功しました。
さらに越後屋は、オーダーメイドシステムを導入。
当時、呉服棚は生地を販売するだけで、仕立ては客自身が仕立て屋に発注しなければなりませんでした。
そこで越後屋は、胆物を買ってもらえれば仕立てまで責任を持ち、出来上がったものを客に納めたのです。
まさに、現代の呉服店の走りでした。
こうして従来のやり方を廃した斬新な商法で、三井越後屋は大繁盛となりました。

常識にとらわれない新商法で、江戸の人々を取り込んでいく三井越後屋。
当然、その成功を妬む商人たちも少なくありませんでした。
三井の「商売記」によると、わざと厠を越後屋の台所に向けて作ったり、新商法を差し止めるべく幕府に訴訟を起こしたりする者までいました。
さらには、浪人を雇って夜中に火薬を仕掛けて店を奉公人もろとも全滅させるという脅迫状がまかれたとも伝えられています。
こうした様々な嫌がらせを受けても、着実に業績を伸ばしていった越後屋・・・
江戸に店を開いて10年目・・・同じ日本橋の駿河町に移転し、店を拡大します。
客はますます増えて行きました。
その4年後には、幕府の御用商人となります。
幕府という絶大な後ろ盾が就いたことで、エスカレートしていた嫌がらせは治まりました。

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やがて、他の呉服棚も、こぞって現金掛け値なし、店先売り商法を真似し始めます。

「まねされることは利益」by高利

対従者が増えることが、越後屋の名が高まるので返って利益になるというものでした。
これによって、同業者同士の競争は激化!!
宝永年間には、ライバルだった大黒屋との安売り競争に突入します。
越後屋は薄利多売に徹し、大黒屋を圧倒しました。
それまでの商人は、毎年同じように仕入れるのが当たり前でした。
高利は、それに対して安く仕入れられるものがあれば大量に仕入れて、その値段に合わせて定価を細かく調整しました。
それによって薄利多売を進めることができたのです。
その後、恵比寿屋と亀屋が新装開店、この時は客をとられないようにとすぐにその近くに支店を設け、安売りで対応しました。
越後屋は、見事ピンチをチャンスに変えたのです。

「一に富士 二には三井を ほめてゆき」

江戸の中心地・日本橋を訪れた人々は、まず正面に見える雄大なふじの姿を褒め、その後三井越後屋を讃えました。
こんな川柳が詠まれるほど、越後屋は大きくなりました。
しかし、繁盛の秘密は、現金掛け値なし、店先売りといった斬新な商法だけでなく、働く人にもありました。
そこには巧みな人材育成がありました。
江戸時代のはじめ、商店の多くは家族経営による小規模なものでした。
しかし、呉服棚は仕入れから販売までを手掛けるため、多くの働き手が必要でした。
越後屋も、奉公人を多く雇い入れ、住み込みで働かせていました。
奉公人の大半は、上方の出身で、江戸本店だけで最大1000人以上!!
その修行の道は大変で・・・13歳ぐらいで奉公に上がり、お仕着せと呼ばれる揃いの着物が与えられます。
子供と称される彼らは、住み込みで様々な雑務をこなしながら、ソロバンや符牒を学んでいきます。
符牒家茂とは、その店だけで使える暗号のようなものです。
17歳になると元服、手代になり、営業職の第一線で働くようになります。
手代といっても多くの階級に分かれていて、その後、20代後半で名目役手代という役付きになります。
支配になるとようやく住み込みではなく、家持ちで結婚できるようになります。
ここまで来るのに25,6年・・・40歳ごろまでかかりました。
しかし、この長い住み込みの修行に絶えられず、5人に2人は手代になる前に辞めてしまいました。

そこで、三井越後屋は少しでも離職者を減らそうと、様々な福利厚生を用意しました。

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奉公人対策①福利厚生
人を大事にした越後屋は、奉公人の健康管理にも配慮。
健康診断はもちろん、針や灸、温泉での湯治まで・・・
伊勢参りや芝居見物など、四季折々の慰労を実施します。

さらに、奉公人を引き止めるため・・・
奉公人対策②ボーナス
住み込みの時には、着るものも食事も支給されるので、給料は存在しません。
そこで越後屋は、褒美・・・ボーナスを配りました。
さらに、元手金と呼ばれる退職金も支給しました。
元手金は、長く勤めれば長く勤めるほど多くもらえるようになっていました。
優秀な奉公人が越後屋を辞めて自分の商売に専念しようとするのを出来るだけ防ごうとしたのです。
越後屋は、独立後も彼らを重役として経営に参加させました。
今でいう取地小屋締役の地位に当たる元締めです。
これが出世クラスの頂点で、長年経験を積んだ手代から選ばれました。
この頃には奉公人は60歳・・・
なんとも長い道のりですが、努力と才覚次第で誰でも経営の実権を握ることができました。

越後屋には査定表もあり、販売成績などを記録していました。
これによって褒美の額も決まったといいます。
今と全く変わりませんでした。

三井越後屋では、客へのサービスを徹底させるため、様々な規則を設けていました。

・子供はすぐに煙草を出し、火入れや茶を用意すること
・客の目の前には立たないこと
・手隙の際は売り場で行儀よく待機すること

こうした接客サービスには、創業者・三井高利の母の影響があったといわれています。

高利の父は松坂に居を構え、酒や味噌を扱う商いをしていました。
しかし、あまり商売熱心ではなく、もっぱら連歌や俳句などの趣味に没頭していました。
その為、店を切り盛りし、実質的に支えていたのは商才に長けていた母の殊法でした。
酒や味噌を買いに来た客には、自らお茶や煙草を出し、時には食事まで振る舞うなどサービス精神にあふれていました。
30両もの大金が入った財布を見つけた際には、すぐに人を走らせて届けさせたといいます。
客を大事にし、真摯に接する・・・そんな母の商いを高利は小さい頃からずっと見てきたのです。

高利は商人についてこう言っています。

「成功すると勤勉を忘れつぶれてしまう」by高利

高利は気配りのできる真面目な男でした。
珍味があれば、わずかでも奉公人全員に分け与えたのです。
商売以外の道楽は不要と、事業に打ち込み、人を知ることを好みました。
この人を知るという精神こそが、越後屋のモットー。
奉公人たちもみな、客がやってきて腰掛けるまでに、その出身地、性格までわかったといいます。

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三井高利と同時代に生きた井原西鶴・・・
実在の商人たちをモデルにした世界初の経済小説「日本永代蔵」の中で、高利を”大商人の手本””世の重宝”と絶賛!!
倹約と勤勉、そして、人を大事にした高利は、一代でその資産をおよそ7万2000両(720億円)にまで増やしました。
それは、幕府の1年分の歳入の6%の当たる大金でした。

看板は、商いの顔でした。
江戸で看板が商いの顔として大きく発展したのは、町の大半を焼き尽くした明暦の大火の後のことでした。
消失した店舗を再建する際に、今に続く様々な看板が登場しました。
通行人にすぐに気付いてもらえるように店先に突き出た建看板、四方に文字の書ける箱看板、夜間でも目立つように提灯看板、立掛看板・・・看板を終うとお店は終わりでした。
どの店もこぞって看板を出すようになると、少しでも目立つようにと個性が出てきます。
その代表が、判じ物看板・・・絵解きなぞなぞです。
こうした看板は、ダジャレ好きな江戸っ子に大人気でした。

江戸随一の大店となった三井越後屋。
その宣伝方法とは??
引き札です。
客を引き込むというのがその名の由来です。
今でいうところのチラシでした。
最大の利点は、様々な情報を文字にして書けることでした。

・呉服はすべて掛け値なしの正札で販売いたします
・安い価格の為、値引きできません
・現金でお支払いいただき、掛け売りも配達も致しません

これを江戸中の長屋に配りました。
効果は絶大!!
元手はかかりましたが、大儲けに寄与しました。
やがて芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両と言われるほどの活気を見せました。

さらに越後屋は、ビジュアルメディアも活用します。
錦絵です。
版元に金を払って人気の美人画を描かせます。
艶やかさを競う美女たちの後ろには越後屋が・・・
身にまとう着物はもちろん越後屋のもの・・・店だけでなく、商品も宣伝します。
ライバル店からも同様の錦絵が出されるほど大きな宣伝効果を生みました。

客に貸し出す傘・・・店の名前入りの傘でした。
暖簾印の入った番傘をお客さんに貸し出していました。
お客にとっても三井の傘は、今でいう高級ブランドの紙袋のようなものでした。

「よく節約をしなさい」
「堅実な商売をしなさい」

大店になってからも、常に自分たちを律する高利。
幕府御用を務めていると、幕府よりになってしまうが、三井はあくまでも商人であり、奢らずに商売の道を勉強しなければならない!!

1742年、江戸が大水害に見舞われました。
その際、越後屋は100両ほどの資金を出し、難民救済のために1000人分の握り飯を配ったといいます。
世のため人のため、その精神で越後屋は大きな信用を得て行ったのです。

「商いのもとは養生にあり」

高利はその言葉通り、73歳まで生き、11男5女をもうけました。
そして、高利の教えを受け継いだ子孫たちによって、三井越後屋は江戸時代を通し、大きな発展を遂げていったのです。

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今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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およそ100年続いた下剋上の世に終止符を打ったのは、関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢が相まみえた天下分け目の合戦です。勝ったのは東軍・・・勝因は、西軍の4人の武将達による裏切りがありました。
最も西軍に痛手を与え、得をしたのは・・・??

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明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の戦いの布陣図を見せたところ・・・即座にこう答えました。

「勝ったのは西軍であろう」

西軍は、石田三成が北側の笹尾山に、他の武将達はその周囲に布陣・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上から牽制・・・平地に追い込んで、一網打尽にしようと考えていました。
一方、東軍は、大将の家康以外ほとんどが平地に布陣。
誰の目にも、東軍不利という状況で戦は始まりました。

しかし、この圧倒的な不利な状況が覆ります!!

①松尾山・小早川秀秋(1万5000)
②三成のそば・島津義弘
③家康のそば・吉川広家
④吉川の後ろ・毛利秀元

ここに、西軍大将である毛利輝元はいませんでした。
この時輝元は、大坂城に居たのです。
この4人がなぜ、どんな形で裏切って・・・関ケ原の戦いを左右したのでしょうか??

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時
野外の雨もあがり、霧が立ち込める中、15万もの兵たちが睨み合っていました。
そして、午前8時、ついに天下分け目の火蓋が切られます!!
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早くこの膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に陣を敷く小早川秀秋に攻撃を仕掛けるよう合図します。
しかし、小早川は動きません。
再三の出撃命令にもかかわらず、一向に動こうとしない小早川に三成は苛立ちます。
この時、小早川にいら立っていた男がもう一人いました。
東軍の大将・徳川家康です。
実は、小早川は戦の前からすでに徳川家康と内通し、東軍に寝返るよう説得されていました。
家康は、開戦から4時間後の正午・・・小早川軍に向かって鉄砲を撃ち込ませます。
世にいう”家康の問鉄砲”です。
小早川はこれに怯み、寝返りを決断!!
味方である西軍に襲い掛かったと言われています。

関ケ原の形地から、小早川の布陣する松尾山に発砲したとして・・・その距離1.5キロ!!
有効射程距離はたかだか100mなので、玉は届きそうにありません。
では、小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
当時の大筒では・・・??
実験では、撃ってから5秒後に聞こえましたが・・・大筒の音は聞こえますが、かなり小さいです。
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っているので、聞こえそうにもありません。
問鉄砲が後世の創作だとすると、どうして小早川は寝返りを決断するのに4時間もかかったのでしょうか?
実は、石田三成からも勝った暁には関白の地位と上方で二カ国を加増すると褒賞が約束されていました。
秀秋は、東軍西軍、どちらにつくのか最後まで迷っていた・・・悩んでいたのです。
悩む小早川は、戦局を伺っていたため、4時間もの間動かなかったのです。

そもそも、小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
裏切りの理由その①秀吉への恨み
豊臣秀吉の正室・ねねの甥である小早川秀秋は、3歳の時跡継ぎがいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられます。
ところが、秀吉の側室・淀の方が男子・・・後の秀頼を授かると状況は一変します。
13歳で有力大名・小早川隆景の元へ養子に出されてしまいます。
さらに、秀吉からこんな仕打ちを・・・
秀吉のもう一人の養子であった秀次が、謀反を企てた嫌疑をかけられたことと、それに加担したと噂され、秀秋も当時の領地・丹波亀山10万石を没収されてしまいます。
謀反自体、秀吉のでっち上げかも・・・??
自分を疎んじた秀吉を、小早川は恨んでいたのかもしれません。

裏切りの理由その②三成への憎しみ
丹波亀山を没収された小早川でしたが、その後養父の隆景から領地の一部である九州の筑前国などを受け継ぎました。
そして、15歳の時、秀吉の命令で朝鮮出兵!!
ところが、帰国すると突如越前への減封・転封を命じられたのです。
一説には、五奉行であった石田三成が秀吉に、朝鮮における小早川の失敗を大袈裟に報告したからではないか??と言われています。

開戦から4時間後、1万5000の軍を率いる小早川秀秋が、東軍へと寝返りました。
近くにいた脇坂弾正、朽木元網、小川祐忠、赤座直保・・・それぞれの武将達が、小早川に便乗するように次々と寝返っていきました。
すぐさま西軍は大混乱に陥り、東軍の勝利が確定しました。

「関ヶ原の戦い」



②島津義弘
小早川秀秋が加わったことによって優勢に転じ始めた東軍・・・
家康は、この機を逃さず全軍に総攻撃を命じます。
これに焦った石田三成は、開戦からずっと傍観している島津義弘に出陣を求めました。
ところが・・・島津もまた動かなかったのです。

裏切りの理由その①
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の連合軍を破るなど、勇名を轟かせていた島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参戦したのはわずか1500の兵だけでした。
それは、この時、義弘の兄・義久との対立・・・島津家が二分していたからです。
この時、島津家の実質的な決定権は、兄・義久にありました。
義久は義弘が弟にもかかわらず、”関ケ原には参加しない”と兵を送りませんでした。
本隊は関ケ原にはいかず、義弘の家臣たちが行っていたのです。
”鬼の島津”こと島津義弘66歳!!
百戦錬磨の武将ですが、1500の兵で戦っても勝ち目はない・・・とみて動かなかったのです。

裏切りの理由その②
戦わなかった理由は、合戦前日のある出来事にもありました。
西軍は大垣城に・・・東軍は中山道の宿場町・美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで戦いを繰り広げました。
しかし・・・結果は、西軍の大勝!!
兵たちの指揮は大いに上がりました。
そこで島津義弘は、石田三成にこう提案します。

「勢いをそのままに夜襲をかけてはどうか?」by義弘

「夜襲はかけぬ!!」by三成

この時、三成は家康の東軍は大坂に向かっているかもしれないという情報を掴んでいました。
それを何としても阻止しようと、先回りしたかったのです。
その結果、関ケ原で東軍を待ち構えることになります。
もうひとつ・・・島津軍があまりにも少なかった・・・。
三成としては、あまりにも頼りない・・・!!と思っていました。
自分が軽んじられていると感じた島津義弘・・・
その前の、墨俣の戦いの時も島津軍は三成に置いてきぼりにされていました。
三成に対する不信感がぬぐえませんでした。

小早川軍の寝返りと、島津軍の不戦!!
これによって午後2時、西軍は総崩れとなりました。
主力が次々と敗走するとともに、多くの武将達が討ち死にに・・・!!
これを見た島津義弘は、「さて・・・我らもいかにここから脱出するか」
その大脱出劇が伝説の、島津の退き口です。

関ケ原は、3つの街道が交わる交通の要衝です。
西への逃走ルートは3つ!!
①北国街道を通る北西ルート
ところが、このルートは、敗走して行く西軍とそれを追う東軍の黒田長政や細川忠興の兵で溢れていました。

②中山道を通る南西ルート
東軍に寝返った小早川軍が占拠。

③伊勢街道へと向かう南東ルート
前線まで移動してきていた家康の徳川本体が待ち受けていました。
井伊直政、本多忠勝といった東軍の猛者たち相手に、1500の兵では討ち死にも同然!!

しかし、鬼の島津は、敵中突破!!

少ない軍勢で、如何にして敵中を突破して関ケ原から脱出したのでしょうか??
島津軍は、笹尾山あたりから南東に進み、徳川本体のわきを通って伊勢街道へと向かいました。
穿ち抜けという島津軍独特の先鋒で、キリで穴を穿つように敵の一点を集中攻撃!!
大将の義弘を通過させたところで、捨てがまり戦法に切り替えます。
狙撃部隊が残って敵を足止めし、その間に本体を先に!!
これを何度も繰り返して、距離を稼いだのです。
島津義弘は、こうして井伊直政や本多忠勝らを振り切って関ケ原を脱出しました。
捨てがまりによって、合戦前に1500の兵だったものが関ケ原を脱出した時には100人も残っていなかったと言われています。

③毛利輝元
中国地方の半分ほどを治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな戦果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後も、豊臣政権を支える五大老を家康と共に務めていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大勝に就任したのは、反家康ののろしを上げた三成に要請されたからでした。

関ヶ原



7月半ば、輝元は、大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀吉の跡継ぎ・豊臣秀頼の補佐を輝元に任せ、決戦の際には、共に出陣させようと考えていました。
関ケ原の戦いは、秀吉の家臣同士の戦い・・・
恩顧の意識が強いうちに、秀頼という息子が出てくることで心理作戦をとろうとしたのです。

合戦間近の9月、三成は輝元に出陣を要請します。
しかし、本人は大坂城にとどまったまま・・・
代わりにやってきたのは、輝元の養子の毛利秀元率いる1万5000の軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原にやってこなかったのでしょうか??
その理由は様々言われています。

①秀頼の母・淀の方が幼い我が子の参戦を拒んだため、補佐役の輝元も出陣出来なかった
②大阪城内に、家康と内通していると噂される増田長盛の軍がおり、その動向を見守っていたから

これらの説に従えば、輝元は秀頼を守るために大坂城にとどまったということになります。
しかし、「家康を気にして関ケ原で戦う気がなかった」ようなのです。
それは、家康に宛ててこんな手紙を送っていたからです。

”三成殿の謀 当方とは関係ない”

と伝え、自身は戦わないという姿勢を見せた輝元・・・その真意とは??
どっちが勝ったとしても毛利家が生き残る可能性を持っておきたかったのです。

この時、輝元は自国の領土拡大のために動いていました。
家康方について関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちの領地に攻め入っていたのです。
東西両軍との関係を保ちながら、自らの野望を叶える・・・毛利輝元、戦略家でした。

岐阜県関ケ原町にある標高104mの桃配山。
東軍の大将・徳川家康が、最初に陣を敷いた場所です。
家康は、この周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは、標高420mの南宮山です。
西軍の多くの武将達が、ここに陣を構えていました。
長曾我部守親・安国寺恵瓊・長束正家・・・そして大将毛利輝元の養子・毛利秀元です。
兵の数を併せると、およそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、最初に戦を仕掛ける先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長宗我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って背後から家康に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の、吉川広家の軍が動こうとしません。
後ろにいた武将が、その理由を問いただすと・・・

「霧が立ち込めて敵の姿が見えない・・・!!」

確かに、前日の雨で周囲は深い霧に包まれていました。
しかし、それから数時間経ち、スッキリと霧が晴れた後も吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、毛利軍のすぐ後ろにいた長曾我部守親です。

「何故早く出陣せんのじゃ!!」

苛立つのも当然のこと・・・吉川が動かないのは大問題でした。
先駆けは吉川家だったのです。
つまり、吉川が動かなければ、後ろの毛利や長宗我部たちも動くことが出来なかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのは、毛利秀元でした。
家臣である吉川の為、言い訳をします。

「今ちょうど兵に弁当を食べさせているところじゃ」

毛利秀元の役職が宰相だったことから、”宰相殿の空弁当”と呼ばれるエピソードです。

吉川広家が動かなかったことで出陣出来なかった兵・・・およそ3万!!
西軍にとってはかなりの痛手でした。
吉川広家の裏切りの理由とは・・・??
吉川広家は、西軍大将・毛利輝元と同じく毛利元就の孫に当たります。
二人はいとこ同士でした。
吉川家は、父の時代から家臣として本家の毛利家を献身的に支えてきました。
その一方で、吉川は家康に近い黒田長政とも通じており、2人が交わした書状には

「行動を共にしていこう」とあります。

早々に東軍有利と見た吉川は、
輝元に東軍につくように進言しようとしていました。
ところがその矢先、輝元は三成らによって西軍大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍についた吉川でしたが、決戦を前に黒田長政の父・官兵衛からこんな書状を受け取ります。

「上方の大名もみな家康公に味方します
 あなたの判断が第一」

東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決意します。
家康に約束します。
この密約が、すでに戦の前にかわされていたことは、家康が構えていた陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは、南宮山の頂上付近です。
家康の陣がある桃配山とは峰続きなので、背後から3万の兵で攻められたらひとたまりもありません。
そんな無防備な布陣が出来たのも、背後を気にせず動けた吉川の寝返りがあったのです。

吉川広家は、家康との間にで、もし東軍が勝った場合、毛利手元への寛大な処遇を取り付けていました。
西軍を裏切ったのは、毛利本家を思ってのことでした。
輝元に大坂城に留まることを強く進言したのは広家・・・全ては毛利を守るためでした。
小早川が昼時迄動かなかったのは、吉川が南宮山の西軍を足止めしているという情報を手に入れていました。
東軍の勝利が確定したので動かなかったのです。

・毛利輝元を大坂城に留まらせる
・西軍3万の軍勢を足止め
・小早川秀秋に寝返りの決断をさせる

裏切り者の中では、最も西軍にダメージを与えたと言っても過言ではありません。

真の裏切り者は吉川広家でした。
こうして関ケ原の戦いはわずか半日で終結。
東軍が勝利を収めました。

西軍を裏切った4人の武将達・・・その後は・・・??

天下分け目の決戦を制し、大坂城に入った徳川家康・・・
東軍の武将達に褒賞を与えるとともに西軍方の処遇も決定します。
戦況を大きく変えた小早川秀秋は筑前30万石から岡山55万石に加増。
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さで亡くなります。西軍の武将の呪いだと噂されました。
戦は傍観していたものの、家康軍に突っ込み逃げて行った島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲のとりなしによって中止。
義弘の隠居を条件に、領地を安堵しました。
西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもあってお咎めなしと思われていましたが、家康が下した処分は・・・身分・所領全てを没収する改易。
家康は、その領地の一部を吉川広家に与えようと考えていました。
これを聞いた吉川は、家康に毛利家の存続を直談判。
自分への褒賞も辞退しました。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石と大きく減封されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川広家には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも勝っていた西軍でしたが、最後は多くの裏切りによって負けてしまいました。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは大名たちにとって裁量が試されるときでもありました。

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「徳川家康 ─決戦!関ヶ原─」



戦国最強の武将は誰か??
歴史通の間で評価が高いのは、浪人まで身を落としながらも大名に返り咲いた復活の名将・立花宗茂です。

・二人の父
復活の名将・立花宗茂に大きな影響を与えたと言われているのが、高橋紹運と、戸次鑑連(立花道雪)です。
共に、北九州の大部分を支配していた戦国大名・大友宗麟を支えた重臣でした。
どうして宗茂は二人の父を持つことになったのでしょうか?

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1567年、立花宗茂は、豊後国に生れます。
幼名は千熊丸・・・そこから何度も名を改め、宗茂と名乗るようになったのは40歳を超えてからのことでした。
その宗茂の実の父が高橋紹運です。
高橋紹運は、知略を以て知られた人物で、大友宗麟からも信任の厚い人でした。
そして、最後まで主家である大友家を支えた忠義の人物として知られています。

1581年、15歳になった宗茂は、大友氏に反旗を翻した秋月勢の討伐戦に参加します。
敵将のひとりを討ち取るなど、勝利に貢献したといいます。
これが宗茂の初陣ともいわれ、益荒男ぶりを遺憾なく発揮していました。

高橋紹運と双璧をなす大友家の重臣・立花道雪が、紹運に・・・
「そなたの子をわしにくれぬか」と、申し出ます。
男子がおらず、既に還暦を過ぎてきた道雪は、武勇に優れた宗茂に家督を継がせたい・・・そして、それによって両家の結びつきを強くして主君である大友宗麟をいっそう盛り立てていこうと考えたのです。
しかし、宗茂は大事な跡取り・・・
道雪が、熱心に頼んでくるとその思いに心が動かされた紹運は、宗茂を養子に出すことにしました。
高橋家の家督は、宗茂の弟に継がせることにしたのです。

宗茂が道雪のもとに行く前日・・・紹運は、宗茂に言葉をかけます。

「これからは、わしを夢にも親と思ってはならぬ
 敵味方に分かれることがあれば、お前は先鋒になってわしを討て
 少しでも迷いを見せたら、道雪さまはそれを許しはしない
 道雪さまから親子の縁を切られるようなことになっても、おめおめと帰ってきたりせず、潔く自害するが良い」

そして、自分と戦う時や自害する際にはこれを使えと、「長光の剣」を与えました。
宗茂はこの剣を、終生大切にしていたといいます。
一方、宗茂を譲り受けた道雪は、この時69歳。
35歳の時に落雷を受けた影響で歩行が困難でしたが、輿で戦場に乗り込み負け知らず!!
大友家臣団きっての猛将で、ついたあだ名は「鬼道雪」。
しかし、男子に恵まれなかったため、筑前国にある居城と家督は一人娘の誾千代に譲っていました。
誾千代の誾という字には、慎ましやかという意味が込められています。
非常に男勝りでプライドの高い性格でした。

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1581年、宗茂(15歳)は誾千代(13歳)と結婚、道雪の婿養子となりました。
厳しい道雪に鍛えられた宗茂は、その期待に応えていきます。
1582年、反大友勢の鎮圧に道雪と共に参戦。
敵軍に囲まれて苦戦していた道雪を助け、敵方の城を攻め落とすという活躍を見せました。
その甲冑から、宗茂の身長は180㎝という大柄で屈強だということが想像されます。
心身ともにひとかどの武将に成長した宗茂でしたが、全てが順調というわけではありませんでした。
この頃、主家である大友氏は、島津氏や竜造寺氏に押され、筑後国を失うなどかつての勢いはなく、宗茂の2人の父の奮闘によって、なんとか持ちこたえているような状況でした。

1584年、筑後国の奪回戦に、立花道雪と高橋紹運が参戦。
宗茂は1000の兵で立花城の守備を任されました。
道雪の不在を狙って押し寄せてきたおよそ8000の反大友勢を紀州などを用いて撃退しました。
しかし、翌年、筑後国の戦いを優勢に進めていた道雪が病に倒れそのまま亡くなってしまいました。
それを好機と見た大友氏最大のライバル島津氏が、5万ともいわれる軍を率いて筑前国に侵攻。
もはや、自分のみでは島津軍の侵攻を止められないと悟った大友宗麟は、天下人に大きく近づいていた豊臣秀吉に臣従を誓い、援軍を要請しました。
そして、宗茂の実父・高橋紹運は援軍が到着するまでの時間を稼ぐため、筑前国にある居城・岩屋城で島津軍を迎え撃ちました。

とはいえ・・・紹運の兵はわずか700・・・到底勝ち目はありませんでしたが、紹運は一歩も引かずに徹底抗戦を貫きました。
結果は、紹運を含む全員が討死!!
それでも島津軍に死傷者およそ4500人という甚大なダメージを与えたのです。
まさに武士の鑑だった高橋紹運・・・しかし、秀吉の援軍はまだ到着していません。
島津軍の矛先は、岩屋城からわずか4里・・・およそ16キロ離れた宗茂の守る立花城に向けられました。

二人の父を失った宗茂・・・しかし、悲しみに暮れる暇もなく、
1586年8月、宗茂の居城である立花城が島津軍に包囲されてしまいました。
宗茂軍が籠った立花城は、標高376mの立花山の山頂に築かれた堅固な山城でした。
その城で、宗茂は徹底抗戦の構えを崩さず、島津軍が降伏を迫っても応じませんでした。
すると島津軍は、豊臣秀吉の援軍が迫る中、立花城の攻略に時間を割くのは得策ではないと撤退を開始しました。
これを見た宗茂は、
「今が勝機!打って出る!!」
と、島津軍を追撃します。
怒涛の勢いで討ち取り、その数は一説に1000人以上。
さらに、島津方の城となっていた高鳥居城を攻め落とし、父・紹運が最後まで戦いぬいた岩屋城を奪回しました。
時を前後して、秀吉が送った援軍が続々と九州に上陸。
1587年3月には、秀吉自身も豊前国に入りました。

宗茂の奮闘を伝え聞いた秀吉は、いたく感心したと言われ・・・
その武勇を讃えた文書にはこう記されています。

”宗茂は九州の一物である”

秀吉は、総勢25万ともいわれる大軍を二つに分け、東西それぞれのルートで島津の本拠地である薩摩を目指すことに・・・。
秀吉は、西側ルートの指揮を執りその先鋒を任されたのが宗茂でした。
すると宗茂は、竹迫城、宇土城、出水城、大口城といった島津方の重要拠点を次々と攻略。
追い詰められた島津氏は、もはや勝ち目はないと降伏し、九州は秀吉の手によって平定されたのです。

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そして、1587年6月、宗茂は秀吉から
「その忠義鎮西一 その剛勇また鎮西一」
と、讃えられ、筑後国柳川13万2000石を拝領します。
21歳にして大友氏から独立し、豊臣家の直臣大名に取り立てられたのです。

13万2000石の大名となった宗茂は、立花城から柳川城に居城を移します。
宗茂はこの地で領国経営に力をつくしたと言われ、宗茂が農業用水の確保のために作った運河は、今も残り、立花宗茂の名をとって花宗川と呼ばれています。

家臣や農民からも慕われる良き殿様・宗茂・・・しかし、一つ問題がありました。
誾千代と別居・・・
誾千代が移り住んだ館は、柳川城から500mほどの位置にあり、別居の理由は今もはっきりとわかっていません。
子供がいなかったこともあって、2人は不仲だったともいわれていますが・・・
当時は、誾千代を当主と仰ぐ勢力もあったようです。
立花家内の勢力争いを解消するために城を出たのではないか?と言われています。
夫婦といううよりも、立花家を守る同志!!
二人はそんな関係だったのかもしれません。

立花宗茂 天下無双
豊臣秀吉から武勇を絶賛され、13万2000石の大名に取り立てられた立花宗茂。
主君となった秀吉のために、次々と武功をあげていきます。
宗茂が大名となった1587年の7月、肥後国で大規模な一揆が起きました。
秀吉はすぐに鎮圧隊を送りましたが、必死に抗戦する一揆勢は手ごわく、苦戦を強いられます。
すると宗茂は、1200あまりの兵を率いて肥後に入り、鉄砲隊を駆使して戦況を打破、時には1日に13度も戦い一揆勢が戦勝していた城を次々と落とし、およそ650の首を討ち取ったといいます。
一揆勢が降伏したのは、それから間もなくのことでした。

比類なき強さを再び見せつけた宗茂は、一揆鎮圧の翌年、従五位下侍従を授かり、豊臣姓を下賜されます。
そして1590年、宗茂は小田原攻めで集められた諸大名の前で秀吉からこう称賛されます。
「東の本多忠勝 西の立花宗茂 天下無双」
徳川四天王の一人である本多忠勝は、勇猛果敢で知られた猛将でした。
その忠勝と並び称されたのは、宗茂にとってこの上ない名誉でした。

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1592年、文禄の役・・・
3000あまりの兵を率いる宗茂は、明の軍と激突した碧蹄館の戦いで先鋒を務めます。
多くの将兵を討ち取って、日本軍の勝利に貢献します。
主将を務めていた小早川隆景から「立花の三千は他家の一万の軍勢に匹敵する」と、称賛されました。
二度目の朝鮮出兵・・・慶長の役でも、宗茂は落城寸前だった日本勢の城・蔚山城に駆けつけ、籠城していた加藤清正を救うなど活躍を見せました。

ところが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵は中止。
宗茂の運命も大きく揺さぶられることになります。
帰国した宗茂たち諸大名を待っていたのは、五奉行筆頭の石田三成と、五大老筆頭の徳川家康の対立でした。
秀吉の嫡男・秀頼を支え豊臣家を守ろうとする三成に対し、家康は天下取りの野心をたぎらせ勢力拡大していました。
1600年、石田三成は、五大老のひとり・毛利輝元を総大将に担いで家康を討つべく挙兵!!
すると、家康は、秀吉から天下無双と称賛された宗茂を東軍に勧誘します。
一説には、東軍勝利の暁には宗茂の所領を50万石に加増するという破格の条件を出したと言われています。
しかし、宗茂は、西軍に着きました。
柳川家臣団から東軍につくべきという声が上がり、三成との確執があった加藤清正からも西軍への参加を思いとどまるように言われますが・・・宗茂の決意が揺らぐことはありませんでした。
自分を大名に取り立ててくれた秀吉への恩顧に報いるため、西軍についたと考えられます。
また、毛利やその一族である小早川家は、朝鮮出兵で宗茂と同じ隊で戦っていました。
近しい関係だったので、行動を共にしたとも考えられます。

しかし・・・天下分け目の関ケ原に宗茂の姿はありませんでした。
1600年9月7日(関ケ原の戦いの8日前)
宗茂は、西軍から東軍に寝返った大名大津城主・京極高次を討つため、その居城である近江国の大津状を包囲。
大津は琵琶湖に面した交通の要衝だったため、寝返りに早急に対処する必要があり、その任を宗茂が任されたのです。
戦いは、鉄砲隊を使った宗茂が終始優勢・・・しかし、京極の軍勢を粘りを見せなかなか降伏せず、ようやく9月15日に城を明け渡しました。
9月15日・・・その日こそ、関ケ原の戦いが始まった日でした。
しかも、戦いはわずか半日で西軍の大敗に終わったのです。

納得できない宗茂は、大坂城に向かい西軍の総大将・毛利輝元に訴えます。

「大坂城に籠って徹底抗戦すべし!!」by宗茂

しかし、すでに家康と和睦交渉を始めていた輝元はそれを認めませんでした。
止む無く宗茂は領国・柳川に向けて撤退を開始。
するとその道中で西軍として戦った島津軍に遭遇します。
島津軍は、九州の覇権をかけて闘ったかつての敵で、宗茂の実父の仇でした。
家臣たちは、仇を討つ機会だと息を巻きます。

「敗軍を討つのは武門の恥」by宗茂

逆に、島津軍の護衛を申し出て、共に九州に帰りました。
宗茂の男気に島津義弘が感服したのは言うまでもありません。

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10月、柳川城に帰還。
すでに、この時家康の命を受けた鍋島直茂・加藤清正・黒田官兵衛たちが、柳川侵攻の気配を見せていました。
一説に、誾千代は、女官たちと共に武装し敵襲に備えていたといいます。
まもなく、鍋島軍3万が、柳川の領内に進攻。
立花軍の兵力はその1/10ほどしかなく、死力を尽くして戦うも、宗茂は将兵たちを失って行きました。
戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛は、これ以上の戦いは無益だと、宗茂を説得。
宗茂はそれを受け入れて、柳川城を明け渡しました。
宗茂を慕う領民たちは、「柳川を見捨てないでほしい」と懇願しますが、宗茂は、
「皆を戦に巻き込みたくない故降伏したのじゃ」・・・領民を巻き添えにしたくない宗茂の苦渋の決断でした。

関ケ原の戦いの後、改易された大名は88家・・・立花家もその一つで、所領も城も失った宗茂は、34歳にして浪人となってしまいました。
加藤清正や前田利長は、その器量を惜しみ仕官話を持ち掛けます。
しかし、宗茂はそれに応じることはありませんでした。
大名への復帰・・・立花家の再興を諦めていなかったからです。
その為宗茂は、加藤清正が治める肥後国に妻や家臣たちを預けます。
20人ほどの側近と京にのぼり、浪人生活を開始します。
当時の家康は、伏見城で政務を行うことが多かったので、近くにいてお家再興の機会をうかがっていたのです。
しかし、貧しい生活が続き・・・1602年10月、誾千代が死去。

立花宗茂 大名復帰
1606年9月・・・千載一遇のチャンスが・・・!!
家臣に宛てた手紙には・・・
”将軍様に召し出され候 まずもって当分 心安くこれあり”
これ以上家臣たちに苦労をかけずに済むという安堵の言葉でした。
そして宗茂は、2代将軍・秀忠と謁見、陸奥国棚倉に1万石を拝領・家臣として取り立てられます。
1万石は、大名と呼ばれる最低限の所領で、しかも柳川から遠く離れた東北の地でしたが、宗茂は6年ぶりの大名復帰を果たしました。

どうして将軍・秀忠は宗茂を召し抱えたのでしょうか?
「徳川実記」には、秀忠は武勇の誉れ高い宗茂を、将軍になった暁には召し抱えたいとかねてから考えていたと書かれています。
家康も健在だったことから、家康の意向を抜きには考えられません。
一説によると、家康は宗茂を高く評価しており、若い秀忠の相談役にしようと考えていたようです。
当時は大坂城に豊臣秀頼が健在でした。
宗茂を豊臣方に取られると大きな痛手となるので、先んじて召し抱えたのです。

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関ケ原の戦いで西軍についたため、改易されて浪人になるも徳川秀忠のもとで大名に復帰した立花宗茂・・・
大名復帰の4年後には、江戸御留守番に就任しました。
将軍の警護が主な仕事だったと考えられています。
それに伴い、宗茂の所領は3万石に加増、幕府内での地位も高まっていきました。
そして、大名復帰から8年がたった1614年・・・徳川が豊臣との最後の戦い・大坂の陣に臨むことになります。

立花宗茂 柳川に戻る
大坂の陣で、かつての主君・豊臣家を敵に回すことになった宗茂・・・

「秀吉さまへの恩は、関ケ原で返した」by宗茂

徳川家に仕えて8年・・・もはや、迷いはありませんでした。
この時、48歳。宗茂は、大坂の陣で重要な役を担います。
秀忠のそばにあって、軍事の指南役を担っていました。
2度に渡った大坂の陣・・・それは最終決戦・夏の陣の時のこと。
秀忠が宗茂に尋ねます。

「本陣をもっと前方に置くべきではないか」by秀忠
「敵は必死に攻めてくるため、本陣は後方にひくべきです」by宗茂

これには多くの者が異を唱え、結局本陣は動かしませんでした。
いざ戦いが始まると、豊臣軍の圧力に押され、本陣を1キロほど後方に下げることになりました。
重臣たちは、宗茂殿が正しかったと、自分たちの見通しの甘さを認め、さらに本陣を下げようとします。
ところが宗茂は、
「先ほどの戦闘で敵は力を使い果たし、動きが緩慢になっております
 もはや、本陣を下げる必要はなく、このまま戦うべきです」by宗茂

すると、またしても宗茂の読みが的中・・・
敵はそれ以上攻め込むことが出来ず、至近距離から徳川軍の攻撃を受けた豊臣軍は、総崩れとなりました。

あまたの激戦を制し、勝ち方をよく知っていた宗茂は、軍師としてもまた天下無双!!
これを聞いた家康は、
「今後も宗茂とは懇意にすべし」と、秀忠に命じました。
その家康が、大坂夏の陣の翌年、駿府城で病に伏すと、秀忠は見舞いのために江戸城を留守にしましたが、その間、江戸城大手門の警備を任されたのは宗茂でした。
通常は譜代大名が務める任務で、家康の言葉通り、秀忠が宗茂を重用していたことが伺えます。

そして、1620年、54歳になっていた宗茂は・・・宿願を果たします。
立花家が改易されたのち、柳川には田中家が入っていましたが、跡継ぎがいなかったことで取り潰しに・・・
代わって宗茂が20年の時を超えて旧領に復帰したのです。
柳川藩10万9000石の大名に返り咲いた宗茂は、肥後国の加藤清正のもとに預けていたかつての家臣たちを柳川に呼び戻しました。
歓喜の再会・・・
関ケ原の戦いで失った旧領を回復したのは、立花宗茂ただひとりでした。

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立花宗茂が最後の勇士を見せたのは、1637年の島原の乱。
宗茂はすでに70歳を超えていたといいます。
3代将軍・家光の命を受けて参戦!!
幕府軍の総大将・松平信綱の補佐役を務め、敵の夜襲を的確に予想し、兵糧攻めを指示したり、往年の実力を見せつけ、一揆勢が立てこもる原城での戦いに一番乗りを果たした際には、武神が再来したと称賛されたといいます。
そして、76歳・・・波乱の生涯に幕を閉じました。
宗茂のかつての領地・福岡県柳川市に鎮座する三柱神社・・・
ここには、天下無双の名将・宗茂と、義理の父・立花道雪、妻・誾千代が御祭神として祀られています。
その為、復活の社とされ、現在も宗茂にあやかろうとする人々の厚い崇敬を集めています。

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