日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家康

およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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男たちを虜にし、江戸の文化と流行の発信地となった幕府公認の遊郭・吉原・・・そこは一日千両という大金の動く不夜城・・・男たちが一度は訪れたいと憧れた場所でした。
しかし、それは浅草日本堤に会った新吉原のこと・・・。
その始まり・・・「元吉原」は江戸時代を通じ商業の中心地であった日本橋人形町にありました。
元吉原が登場したのは今から400年前・・・

1590年7月、豊臣秀吉による小田原討伐が成功し、臣下であった徳川家康に関八州への国替えを命じます。
8月、家康は江戸へ・・・目の前に広がっていたのは、茅葺の粗末な家が100軒あるかないかという寂しい町と葦の湿地帯でした。
その状況に家臣たちは落胆しますが、家康は「思いのままに城下町をつくることができる」と思っていました。
秀吉が亡くなって天下を取った家康は、1603年江戸幕府を開きます。
本格的な江戸城造改築と町の整備拡大に・・・。
天下普請の大号令のもと、全国の大名に工事が振り分けられました。
大工などの職人たちも各地から集まり、江戸は男たちで溢れかえります。

そんな男たちを当て込んでできたのが遊女屋でした。
その遊女となったのは、北関東の貧しい農家の娘たちが殆どでした。
遊女屋の数は瞬く間に増えていきます。慶長年間には、京橋・鎌倉河岸・麹町・・・50軒以上!!
その状況に慌てたのが幕府でした。
慌てた理由は火事・・・!!
遊女屋には風呂があり、火を扱っていたので火事を起こす可能性があり、もしそうなればせっかく作った町が燃えてしまう・・・!!
幕府は遊女屋の場所替えを命じたり、遊女屋に属さない遊女100人余りを箱根の西に追い払います。



1605年、遊女屋を集め遊郭をつくるように幕府に嘆願したのは庄司甚右衛門でした。
一節には甚右衛門は、小田原北条氏に使える武士の子だったと言われています。
小田原城が落城した際に、主君と父を失い浪人に・・・
江戸に出たのち、生きていくために遊女屋の経営を始めたと言われています。
この時は遊郭設置は却下!!

1612年、再び幕府へ遊郭設置を嘆願!!
そこまでして甚右衛門が遊郭を作りたかった理由とは・・・??
ひとつは同業者が多くなり利益が低下したこと。
そこで新規参入ができないように、遊女屋を一カ所に集め、幕府公認にすることで利益が独占できると考えたのです。
もう一つは、江戸の町の治安の悪化でした。
遊女屋が無秩序に乱立し、問題が起きることを恐れたのです。
駿府では問題がたくさん起こっていたので、同じことが江戸で起きると遊女屋がすべて鳥潰しになってしまうのではないか?と考えたのです。
そこで甚右衛門は、3つの提案と共に幕府に願い出ました。

①引負横領の事
客を一晩以上泊めない

②人を勾引かし並に養子娘之事
幕府公認の遊郭をつくれば、人さらい人買いなどの悪質な業者から娘たちを守ることができる

③諸浪人悪党並に欠落者之事
悪人を一つにまとめておける・・・??

利益を独占するためと、治安の悪化を防いで遊女屋が廃止されないようにするためでした。

しかし、幕府が遊郭設置を認めたのは嘆願から5年・・・1617年でした。
どうして5年もかかったのか・・・??
甚右衛門が嘆願書を出したころは、幕府は豊臣方と対立している最中だったこと。
そして倫理的な問題・・・江戸時代を通じて、多くの城下町で遊郭を置くことは禁止されていました。
遊郭へ通うことは、武士の倫理において恥ずべきことだと考えていたのです。
生活の堕落を助長する・・・と!!

ではどうして遊郭を認めたのか??
当時はキリシタン商人による人身売買が横行していました。
多くの日本人女性が奴隷として海外に売られていたのです。
幕府の執拗なキリシタン弾圧は、キリシタン商人による人身売買を止めるためでもあったのです。
1614年全国にキリスト教禁教令を発布
1617年江戸の遊郭設置を許可
幕府が遊郭設置を認めたのは、人身売買から女性たちを守るためだったと考えられます。

江戸の市街地から最も離れた辺鄙な場所・・・人形町周囲に葦がしげる湿地帯に・・・
「自分達で湿地帯を埋めて作れ」と家康は言いました。
甚右衛門たち遊女屋の主人たちは、早速工事を開始!!
周囲を掘ってその土を板と葦を使って浮島のようなものを作ります。
これを轡と言い、それが郭になったと言われています。
1618年遊郭が完成。
周囲に葦が茂っていたことから葦原と名付けられました。
商売繁盛のために”吉”の字が当てられたのは後の事です。
こうして江戸唯一の幕府公認の遊郭・吉原が誕生しました。

その後、整地拡張を重ねていきます。
2町四方・・・47,500㎡・・・東京ドームと同じくらいの大きさで下。
その巨大遊郭の惣名主となったのは甚右衛門でした。
甚右衛門が最初に嘆願してから13年の月日が流れていました。

吉原は遊郭設置に際し、5つの条件を幕府から出されていました。
①吉原以外での商売の禁止
②長逗留(連泊)の禁止
③不審者の届け出
④服装を質素にする
 幕府はこの時贅沢を禁じたのです。
⑤建物を質素にする
 派手にして客を呼びたいところを庶民と同じ板葺きでした。
目も眩むような後の吉原とはかけ離れた地味な吉原・・・しかし、開業当時から遊女たちのランク付けはされていました。
「太夫←格子←端」です。
最上級の遊女は太夫です。
彼女たちはヘッドハンティングされてきた京都・島原などの太夫が殆どで、和解遊女たちの指導者的役割でもありました。
そんな太夫の1日の指名料は1両!!約10万円でした。
太夫の下は、格子、端と続き、格子が銀30匁(約6万円)、端は銀10~20匁(2~4万円)でした。
当時の大工の日給が銀1~3匁(2000~6000円)だったことを考えると、庶民たちが遊べるはずもなく、お客は上級武士でした。
そのため、遊女たちには相手ができるように和歌やお茶、お琴とたしなみが必要でした。
これは新吉原となっても受け継がれていきますが、遊郭の外に出ることができなかった新吉原とは違って・・・元吉原では遊郭の外へ遊山も許可されていました。
吉原の店には、幕府からある役目が・・・幕府の最高裁判所である評定所に奉行らが出席する式日には、吉原から太夫ら供給遊女を差し出すように命じられていたというのです。
他にも、三代将軍家光の姫君の尾張藩への輿入れを吉原の遊女たちがお供に・・・手伝ったと言われています。

幕府の名もしっかりこなし、順風満帆に見えたものの、強力なライバル・・・銭湯が現れます。

急速な発展を遂げた新興都市・江戸・・・日本橋人形町にある吉原・・・。
かなり繁盛していましたが、そんな吉原の人気に影を落とす強力なライバルは銭湯!!
当時の銭湯には湯女という女性がいて、入浴客の垢すりや髪すきなどの世話をしていました。
江戸の町に大工や職人が増えていくと、そんな男性を当て込んだサービスが始まったのです。
夕方4時ごろにいったん閉店すると、洗い場は一変し金屏風が立ちお座敷に早変わり・・・湯女たちは三味線で歌を歌い、春を売るようになったのです。
一説には湯女の料金は500~1,000文(1万2000円~2万円)でした。

吉原は、町から遠く、料金が高く、格式があって行きづらい・・・
湯女は、違法だが、町から近く、料金も安く、行きやすい・・・

そのため銭湯は下級武士や町民で大繁盛・・・
すると、遊女を銭湯に派遣して稼がせるという吉原の楼主が現れたのです。
しかし、これは吉原以外での営業禁止に反します。
幕府は楼主などを磔の刑に!!
さらに夜間営業や遊女の外出を禁止してしまいます。
店にとっては夜間営業の禁止は痛手でした。
営業時間が短くなったために売り上げが落ちてしまいます。

そんな吉原に追い打ちをかけたのが、アイドル並みの人気を誇った湯女・勝山です。
勝山がいた戦闘は、堀丹後守直寄の屋敷の前だったので、丹前風呂と呼ばれていました。
丹前風呂は、勝山を指名する客で大賑わい、順番待ちする間にのぼせる客が・・・!!
人気の秘密は美貌もさることながら、どんな客でも分け隔てなく接する気立てのよさでした。
装いも・・・外出するときは木刀を二本差すという男勝りの奇抜なスタイルで、束ねた髪を曲げて輪にし白い元結をした勝山曲げは、女性がこぞって真似をしました。
カリスマ的人気を誇った湯女・勝山・・・吉原に通っていた男たちも勝山目当てに丹前風呂に殺到!!
天下の吉原に閑古鳥が鳴き始めました。
遂に経営の危機に・・・!!

窮地に陥った吉原は、奥の手に出ます。丹前風呂の取り潰しを幕府に願い出ます。

吉原は、幕府に営業を認めてもらう代わりに運上金を納めていました。
吉原の経営が悪化すれば税金も減る・・・そうなれば、幕府も困るから嘆願も通ると思ったのです。
その思惑通り、幕府は丹前風呂をおとり潰しに、さらに湯女は一軒に三人までと厳格化しました。
その後、初山はヘッドハンティングされて吉原にやってきて、遊女のトップに上り詰めます。
遊女が花魁道中の独特の歩き方”外八文字”は、勝山が考案したと言われています。
吉原の人気は復活!!その遊び方も派手になっていきます。



しかし、再び危機が・・・1656年10月、吉原の楼主たちが幕府の評定所に呼び出されます。
奉行から命じられたのは・・・??
「吉原の移転」でした。
①江戸の人口が増大し、町が拡大しました。
かつては江戸のはずれだった日本橋人形町も町人の住む所となり、大名の屋敷も立ち並ぶようになっていました。
吉原が江戸の町に飲み込まれていったのです。
吉原が町の中心部に位置するようになったことで、風紀の乱れを警戒したのです。
②浪人対策 
当時幕府は体制を盤石にするために、犯行の恐れのある大名家を次々とおとり潰しにしていました。
三代将軍家光の頃には、69の大名家が取り潰されていました。
主君を失い、浪人となった者たちは、士官先を求めて江戸に流れてきました。
しかし、士官先などそうそうなく、幕府への不満を募らせていました。
そんな中、1651年・・・軍学者の由井正雪が幕府転覆計画を企てます。
世にいう慶安の変です。
由井正雪など浪人たちによる幕府転覆の陰謀事件で、事前に発覚したことで小説は自害し、一味は壊滅しました。
これ以後、幕府への反乱未遂事件は多発!!
幕府は浪人への対策をはじめました。
その一環として、反乱分子になりかねない浪人たちが集まりやすい吉原を、江戸城から遠ざけたかったのです。

江戸の町の治安のために移転させられることとなった吉原・・・
その事業の最高責任者に抜擢されたのが、北町奉行・石谷貞清でした。
石ケは各地の洪水被害調査や土木工事に携わったのち、1651年に江戸着た町奉行に赴任しました。
まず行ったのは、候補地を決めること・・・
石谷はいくつかの候補地を選定します。
絞り込みをある人物に依頼します。
幕府に仕えていた陰陽師・土御門泰重です。
当時は陰陽師の占いを信じていたので、幕府は吉原の移転先を陰陽師に決めさせることで吉原側を納得させようとしました。
そうして占ってみると・・・
「江戸城から見て丑寅の方角が吉ですな・・・!!」
丑寅・・・北東は鬼門と呼ばれ、鬼が出入りする穢れのある方角とされていました。
穢れのつきやすい遊郭は、そこに置いた方が良いというのです。
1656年10月、石谷は候補地を楼主たちに告げました。
「吉原を本所もしくは浅草日本堤のどちらかに移すよう命じる」
楼主たちは困惑します。
どちらも、町のはずれのはずれ、辺境の地だったからです。
幕府からの命令は絶対で、どちらかを選ぶしかない・・・
本所には、隅田川を渡すしかありませんが、当時、近くに橋はかかっていませんでした。
そこで、辺鄙な沼地ながらも地続きの浅草寺が近くにあった浅草日本堤を選びます。

とはいっても、引っ越しは大ごとで・・・楼主たちは重い腰を上げようとはしませんでした。
そこで、石谷は5つの特典をつけました。
①移転先は今までの1.5倍の土地を与える
②夜間営業を許可
③立ち退きの補償料1万500両(10億5000万円)を吉原に支払う
④違法営業中の銭湯200軒を取り潰す
⑤火災時の消火の役割を免除
どれも吉原にとっては至れり尽くせりの内容でした。
何より有難かったのは、夜間営業の再開と、銭湯の取り潰しでした。
1657年3月までに、吉原を浅草日本堤に移転します。

ところが・・・移転の準備をしようとしていた矢先に・・・明暦の大火!!
年が明けた1月18日午後二時ごろ・・・本郷丸山付近から出た火が瞬く間に江戸の町を飲み込んでいきました。
20日になってようやく鎮火したものの、江戸城を天守閣をはじめ町の大半が焼失・・・
10万の人が命を落としました。
吉原も全焼・・・126人の遊女が亡くなったといいます。
街の復興事業のために、資材や人件費が高騰したこともあって、吉原の移転は難しくなってしまいました。

幕府も復興事業で大忙し!!
このまま移転の話も立ち消えに・・・??

6月中には移転せよと日を切られ、言われてしまいました。
浅草日本堤は湿地帯・・・そのまま建物は立てられず整地は必要・・・
100軒以上立てなければならないが、それだけの人も財も残っていませんでした。
江戸が灰と化した後、4か月後に新たな場所に吉原をつくる・・・この無謀ともいえる計画に、石谷は・・・??
大火で大量に出た瓦礫を埋め立てに使おう!!
処理に困っていた瓦礫を活用できるのはもちろん、瓦礫に土を混ぜれば効率が上がると考えたのです。
陰陽師・土御門泰重は、全国にネットワークを持っており、大量の職人を動員することができました。
準備が整うと、工事を進めていきます。
その頃、吉原の遊女屋は・・・火事の被害が少なかった地域の民家を借りて仮宅営業を始めることに・・・。
1657年6月14日、吉原の遊女たちは、仮宅の浅草山谷に移ります。
1000人いたともいえる遊女の大移動は、人々の注目を浴びました。
こうして始まった仮宅営業は普段よりも値段を安くしたことで、男たちが殺到、大繁盛します。
わずか4か月で工事も終了!!8月14日、新しい吉原の営業が始まりました。
次第に、遊女たちの装いもあでやかになり、独自のイベントを立ち上げて行った吉原は、男が一度は行きたいという華やかな不夜城に・・・!!
この移転で、移転前を元吉原、移転先の浅草日本堤を新吉原と呼ぶようになったのです。

大火で焼失した町を復興する為に、全国からさらに大工や職人たちが集まってきました。
そんな男たちは遊女を一目見ようと吉原に殺到し、その華やかさにまたたくまに魅了されました。
そして吉原は、一日1000両という大金が落ちる一大歓楽街と発展し、様々な物語、文化を生み出していったのです。

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吉原 伝説の女たち

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江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活

世界でも有数の大都市東京・・・この都市の礎を築いたのが江戸幕府初代将軍・徳川家康です。
今から400年ほど前、葦が生い茂る寒村を大都市へと変貌させたのが家康です。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、2万もの大軍勢を率いて北条氏を攻めるべく小田原城を包囲します。いわゆる小田原攻めです。
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を攻め滅ぼします。
この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利した徳川家康は恩賞を期待していました。
が・・・「徳川殿には、北条の領地であった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江から関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しいところに行くということは、政治的力を弱めるため・・・
秀吉は東北も完全に手に入れようとも考えていて、その場合に前線基地に家康を配置して働いてもらおうとも考えていました。
家康にとっては面白くない国替えだったのです。
関東を治めることを承諾した家康・・・本拠をどこに置くのか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。
小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・鎌倉は武士の都に相応しい・・・江戸は・・・辺鄙な田舎・・・!!
思案する家康に秀吉は・・・
「城は江戸に置いたらどうじゃ?」
家康は意外にもその提案を受け入れます。
もちろんそこには勝算がありました。

人間関係をリセットできる!!
家康が主導権を握れるということです。
1590年7月、49歳の家康は8000の家臣で江戸に向かいます。
余りの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、遂に江戸に到着!!

当時の江戸について「岩淵夜話別集」には・・・
”いかにも粗相で 茅葺の家 百ばかり
 ここもかしこも 海に浸かった葦の茂る野原“と書かれています。
いくつもの川が流れる湿地帯で、平地が少なく、今の大手町辺りまで海でした。
そんなところで、町をつくるためにしなければならないことがたくさんありました。

江戸城修築・飲み水確保・土地拡張・運河開削・住民誘致・治水工事・・・

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは口々に言います。
「殿・・・何よりもまずあの朽ち果てた江戸城を修復しましょう」と。
しかし家康は、「城など後でよい。まずは町じゃ!!」
と、町を作るにあたっての大量の物資を船で運び入れることになりましたが・・・日比谷入江は浅すぎて大きな船が入れません。
そこで、家康は運河を作ることに・・・!!

①運河開削
目をつけたのは、江戸湊に半島状に突き出した江戸前島です。
その根元に運河を開削しようと考えました。
名付けて道三堀です。
船がここを通れるようになれば、江戸湊との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、秀吉の命に背く行為でした。
江戸入府に当たって家康は秀吉から言われていました。
「鎌倉の円覚寺の領地である江戸前島には、手を付けなてはならぬ!!」と。
江戸前島は、鎌倉時代から円覚寺の物で、家康の領地には含まれていませんでした。
しかし、家康は秀吉の命令を無視して道三堀を開削します。

道三堀を作り小名木川と新川を繋げば江戸と行徳を結ぶことができる!!
行徳は塩の産地でした。
戦国時代には塩の調達が一国の政策を左右したほど・・・家康も塩は軍用第一の品、領内いちばんの宝と考えていました。
つまり、行徳の塩を確保するためのルートだったのです。
道三堀の開拓作業は、少数の家臣たちで行いました。
同じ時期、秀吉が行っていた上方での普請に、多くのものを割いていたからです。
家康の知恵袋で工事の責任者だった本多正信は、指揮を上げるために毎朝4時に視察に来ました。
そのため、家臣たちは雨や雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていったのです。

家康が描く江戸の大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みませんでした。
当時関東平野では、利根川をはじめとする関東平野の川が度々氾濫!!
これが計画の妨げとなっていました。
江戸の町づくりには、関東平野の治水工事も必須でした。

②治水工事

関東平野の治水という大事業を任されたのは、家臣の中でも位の低い伊奈忠次でした。
もともと家康の家臣ではなく、はるか昔に徳川家に楯突いたことがあって諸国を放浪していました。
伊奈忠次は甲斐の国にいたことがあり・・・ここは当時の治水先進国でした。
ここでつぶさに見ていた伊奈・・・豊富な知識に抜擢する家康でした。
伊奈は関東八州の地方行政を統括する代官頭に任命されると、さっそく工事に取り掛かります。

最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!

採用したのが中条堤と控堤と呼ばれる堤防でした。
現在の埼玉県熊谷市付近に作った中条堤で利根川の氾濫をせき止めます。
万が一水があふれだした場合にも、下流にいくつも作った控堤で勢いをおとし、江戸に流れ込まないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の住人を使いました。
控堤の中に領という区割りを作って彼らを住まわせます。
土地のことをよく知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・工事はスムーズに進み、江戸の町づくりは本格化していきます。

1603年、家康は江戸幕府初代将軍に就任します。
江戸に幕府が開かれると、工事はより大規模なもの・・・天下普請となっていきます。
国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・
家康が大名たちに普請を命じると、3万~4万の人が集まります。
様々な事業をスタートさせます。

③土地拡張
天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に集め、監視下に置こうとします。
そのためには大名屋敷を作らなければ・・・!!
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江で城下に屋敷を作る場所はありませんでした。
そこで、家康は入り江の埋め立てという前代未聞の大工事を行うことに・・・!!
埋め立てには神田山を切り崩した土が使われたと言われています。
神田山は千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、その痕跡はほとんど残っていません。
が、地形図を見ると切り崩した後が残っています。

「慶長見聞集」によれば、この時埋められたのは三十余町・・・
北は大手町、南は新橋あたりまででした。
それほど大きな埋め立てをどのようにして行ったのでしょうか?
発掘調査によると・・・
地層は五層・・・何度も埋め立てられてきたことがわかります。
入江の底には溝があり・・・埋め立ての際に重要な役割を担っていました。
入江は干潮で潮が引いたとしてもところどころに水たまりができます。
溝はこの水を残らず出してしまうものでした。
潮が引くとき溝に海水を集めることで完全に排水・・・土を入れて埋め立てて行ったと思われます。
そこには予定通りに大名屋敷が建てられます。
後に大名小路と呼ばれ名所となります。

そんな架設された最初の橋は日本橋です。
町人地にすべく開拓を始めます。
町割りは京都に倣い碁盤目状・・・1町60間とし、中心には空地を設け共有スペースとしました。
通り沿いに建てられたのは町屋敷・・・主に店舗として利用されました。
そして奥には職人などが暮らす長屋が・・・しかし、困ったことに肝心な入居者がやってきません。

④住民誘致
当時の商業の中心は大坂でした。
西国で生まれ育った人々は、江戸は東の彼方の田舎町・・・移住したがりませんでした。
そこで家康は、まず三河や駿河など、身近な人々を江戸に移住させます。
そして、代償や特権を付与します。
家康恩顧の商人たちは、草創名主と呼ばれ名字帯刀を認められます。
年賀の大礼には登城し、将軍に拝謁されることも許されました。
地代や労役の免除も与えられ・・・この施策によって徐々に人が集まり始めます。
江戸は新たなビジネスチャンスの町だと魅力的にアピールすることができました。

家康が招いたのは商人たちだけではありません。
隅田川の河口に位置する佃島・・・その昔、砂が堆積してできた砂洲でした。
佃という地名は、家康が招いた上方佃島の漁師に基づきます。
以前家康が摂津・佃村の神社に参詣した際に、漁師たちが手厚くもてなしてくれました。
その礼にと褒美を与えると、漁師たちはお返しに白魚を献上。
家康はその美味しさが忘れられず、家康は漁師たちを佃島に住まわせたといいます。
江戸前海での漁業権を与え、漁民たちも御恩としてとった魚を献上する・・・残った魚は自由に販売することができました。
漁師たちの漁をしている姿を実際に見るという”将軍上覧”も行われました。
その背景には、従来の北条氏側の漁師たちを排除しよう・・・という狙いもありました。

江戸の町に人びとが集まるようになると、深刻な問題が・・・飲み水です。
入江を埋め立ててできた江戸の町では、井戸を掘っても海水の混ざった水しか出てこず、飲み水の確保が難しかったのです。

⑤飲み水確保
家康は家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保のために水源の探索を命じます。
大久保は自ら作った菓子を献上して家康をうならせていました。
菓子作りにはうまい水が必要・・・と考えた家康は菓子作りに長けた大久保なら水源の確保ができるに違いないとしたのです。

水源探しをし始めた大久保・・・
方々で味見をした結果、ついに満足する味を見つけます。
それが赤坂のため池と、神田明神山岸の小川でした。
大久保は家康に報告すると、すぐさま工事に取り掛かります。
そして、わずか3か月で水路を完成させます。
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々の喉を潤しました。
喜んだ家康は、大久保に主水という名を授与。
古代のみ水を管理していた役所のことです。
この時、水が濁ってはいけないと”もんど”を”もんと”と読むようにと言ったといいます。

しかし、江戸の開発が進むと人口が増加、再び水不足に・・・。
そこで新しく探したのが井の頭池・・・ここには清水が滾々とわいていました。
江戸にひく工事は寛永に完成・・・神田上水です。
発掘調査によると、上水の仕組みは、地中の石樋や木樋を通り、井戸の下まで流れるようになっていました。
人びとはその水をくみ上げて生活用水に利用していました。
上水の管理費は利用者もちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを基準にされました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末な建物でした。
しかも、十数年間大きな修復工事は行われませんでした。
1604年将軍に就任してから1年4か月後、家康は諸大名に江戸城修築の計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要視されたのは、石垣や堀に使う石材です。
しかし、江戸周辺にはいい石の産地がありませんでした。
家康は、30ほどの西国の大名たちに石を運ぶ船を造るように命じます。
その数3000艘・・・船が全て出来上がったのは2年8か月後のことでした。
家康の最後の大プロジェクトです!!
所領10万石につき百人持之石(約4トン)を1120個を差し出すように大名に命じます。
つまり、10万石の大名は、およそ4500トンを江戸に運ぶこととなります。
しかし、それだけ大量の石をどのようにして切り出したのでしょうか?
石の調達を命じられた大名たちは、出来るだけ海岸近くに石を切り出すための石丁場を作ります。
その数およそ130カ所・・・。
切り出された石は、大名たちの作った船で江戸に運ばれます。
しかし、1艘に乗る石は4トンが2つが限界でした。
100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかったのです。
輸送中には多くの命が失われました。
1606年5月、大風のために200余りの船が沈没・・・
たくさんの人々が命がけで運んだ石で、江戸城の修築は行われたのです。

設計に当たったのは、宇和島城や今治城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎です。
家康は高虎の設計に細かく意見し、修正を加えていきました。
しかし、残っている資料が少なく、謎のままでした。
ところが、2017年2月、初期の江戸城を描いた絵図が見つかったのです。
江戸城を描いた最も古い絵図のひとつ・・・「江戸始図」です。
1607年頃のものとされます。

家康の築いた江戸城は、当時としては最大で、最強の実践的な城であったことがわかりました。
最も注目すべき点は、戦の際、最後の砦となる天守の構造です。
大天守ひとつではなく・・・大天守、小天守×2が連立し、もっとも発達した天守でした。
これを連立式天守と呼びます。
家康の江戸城は、軍事的要素の強い城であったことがわかります。
同じく連立式で有名なのが姫路城ですが、比較にならないほどでした。
あの立派な姫路城の大天守が、江戸城の小天守ぐらいだったのです。
圧倒的な江戸城でした。

さらに・・・本丸の南側に外枡形が5つも連続して設けられていました。
外枡形とは、門の外を塀などで囲んだもので、門を突破した敵をここで攻撃します。
こうした外枡形が5つも存在し、鉄壁を誇っていました。
安土城、大坂城にもあり、西日本のお城の作り方でした。
天守の北側に3連続の馬出があり、この馬出は甲斐の武田、関東の北条の東日本で発達したものです。
西と東の融合が、家康の江戸城だったのです。
まさに戦国以来の城づくりの集大成でした。

家康がここまで実践的な城にこだわったのが、豊臣方が大坂で依然として強大な力を持っていたからです。
家康としては、豊臣の最後の戦いで江戸城が攻められるのではないか?と、万が一のことを考えていたのです。
鉄壁の城・・・江戸城!!
最強の城塞だっただけでなく、5層6階で高さは大坂城(36m)を凌ぐ55mでした。
しかも、漆喰が塗られ純白でした。
白亜の大天守は、徳川の時代を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を作った家康には類まれな先見の名と知恵がありました。

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2019年4月1日、平成に続く新たな元号が発表されました。
「令和」です。
令和は万葉集の梅の花の歌の序文が出典で、史上初、日本の古典から引用されました。
その新しい元号「令和」には、”人々が美しく、心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ”という意味がこめられ、梅の花の歌の序文から選ばれた背景には、”梅の花のように咲き誇る花を咲かせる日本でありたい”という思いが込められています。
こうした元号が使われているのは、現在日本だけ・・・。
改元回数は、247回です。
その歴史は飛鳥時代にまで遡ります。

かつて元号は、中国、朝鮮、ベトナムでも使われていました。
しかし、現在では使われていません。
中国は、1911年辛亥革命で清王朝が倒れた時に元号が廃止されています。
現在、その元号は法律によって内閣が決めることになっています。
日本の最初の元号は、何のためにどうやって、誰が決めたのでしょうか?
元号の始まりは古代中国・・・紀元前140年ごろ、前漢の7代皇帝武帝によって年を記録する方法として考案されました。
皇帝が国だけでなく時間をも支配するという・・・皇帝が変わるたびに元号が改められました。
中国から倭国と呼ばれていた日本では・・・埼玉県の稲荷山古墳から出土した5世紀の鉄剣には、辛亥年という文字が刻まれています。
これは西暦471年のことで、十干と十二支を組み合わせて60組の漢字で年を記録する方法が使われていました。
そんな日本で最初の元号が登場します。
それは日本の正史「日本書紀」にこう書かれています。
”天豊財重日足姫(皇極)天皇の四年を改め大化元年とす”
すなわち、最初の元号は大化・・・皇極天皇から孝徳天皇に代わる年に新たな政治体制を目指すべく、当時の先進国・中国の唐に倣い元号制度を採り入れたのです。
しかし、大化と残っているのは日本書紀だけ・・・
未だに木簡などは出土しておらず、使っていた形跡がありません。
そのため、大化は後の世に作りだされたものという見方もあります。

どうして「大化」の元号が使用されなかったのでしょうか?
そこには孝徳天皇とその甥で大化の改新で重要な役割を果たしたという中大兄皇子との関係がありました。
大化の改新は、天皇を中心とする国家をつくるのが目的でした。
主導的に働いた中大兄皇子と孝徳天皇の仲が悪くなってしまうので、大化はあまりシンパシーがなかったのでは?
もう一つ、外交上の理由がありました。
独自の元号を使うということは、独立国であることの証・・・
しかし、当時の日本はまだ、唐の影響下にあったため、独自の元号を使うのを憚ったのでは?
日本が独自の元号を公に使うようになったのはいつ・・・??
それは、大化からおよそ半世紀後・・・
701年文武天皇「大宝」に改元した時でした。
文武天皇は日本独自の法典を作るという長年の懸案を実現し、大宝律令を制定・・・。
そこには国号を「日本」とすると書かれており、公文書にはすべて「元号」を用いることと定められています。
律令は、政治、行政、経済など、国家の基本となる重要な法典・・・
そこに元号の使用が明記されたことは、まさに日本が独立国であるという体制が整ったということなのです。

元号に用いられる漢字の頻度数

第1位・・・・・「永」29回
第2位・・・・・「元」「天」27回
第4位・・・・・「治」21回
第5位・・・・・「応」20回

ひとつの元号が使われたの平均は5年間です。
どうして次々と改元されてきたのでしょうか?
改元を行う理由の一つが・・・天皇が代わる際の「代始改元」です。
桓武天皇が即位した際は延暦でした。
平安時代末期の後白河天皇は即位した際は保元と代わっています。
現在は一世一元制で、この代始改元だけですが、天皇一代の間に何回も改元されてきました。

そのきっかけの一つが祥瑞改元です。
祥瑞・・・めでたい事を示す現象や動物・・・大宝四年文武天皇の時、5月10日、藤原京の西に珍しい雲が発見されたことから慶雲と代わりました。
祥瑞改元の中で多いのは、めでたいと言われる珍しい亀が献上されたとき・・・
聖武天皇の時、二度あり、養老7年9月に白い亀が発見され神亀と改元、神亀6年には背中に”天王喜平知百年”と読める亀が天皇に献上されたことから天平と改元されました。
中国は、「天人相関説」があり、天(自然現象)と人(皇帝)の人格、功績には相関関係があるとされています。
珍しい現象(祥瑞)は、皇帝が天に認められた証として改元するのです。
めでたい事があれば改元する一方で、悪いことが起こった時も、その悪いことが続かないように改元しました。
それが災異改元です。
平安時代、醍醐天皇が治めていた延喜23年(923年)には、大規模な干ばつと伝染病が起きたことで改元・・・天皇の御代がこれで終わらず長く続くこと・・・延長と代わりました。
天養2年(1145年)には、ハレー彗星が出現!!
そこで天災などが起こらず久しく安泰が続くことを願って久安に改元されています。
現暦2年(1185年)には、京都を中心に大地震が発生し、多くの被害や死者があったことから文治と改元されました。
平安時代の人々は、改元という行為に呪術的な世直しの力があると信じていました。
人びとの願いが込められていたのです。
ちなみに、平安時代の堀河天皇は7回、室町時代の後花園天皇は8回も改元を行っています。
改元の多さは、良しにつけ悪しきにつけ、世の中を良くしたいという天皇の気持ちの表れだったのです。

暦仁=略人ということで、元号自体が不吉だとわずか2か月で改元されました。
明和は明和9年は迷惑年となると・・・まさにその年、明和の大火(1772年)が起き、改元することとなりました。

新しい元号はどうやって決められていたのでしょうか?
改元の機運が高まると、文章博士(勧申者)が元号を提案します。
主に中国の歴史書「史記」「漢書」「後漢書」四書五経「論語」「大学」「中庸」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」から字を選びます。
提案された元号を、陣儀(上級貴族の会議)で審議(難陳)され、天皇が裁可し、詔書の発布となります。
新しい元号の決め手のポイントは、どれだけいい漢字か?組み合わせはどうか?
良い元号は、呪術的な力を持っているとされていました。
平安時代後期(1069~1185)には、延久~文治まで43もの元号が生れています。
およそ2年半ごとに改元・・・それだけ世の中が不安定で救いを求めていた時代だったのです。

天皇の大きな権限の一つだった改元は、それを行う際に、盛大な儀式を行ったために莫大な費用が要りました。
そうした費用は、奈良・平安時代は朝廷が工面しましたが、鎌倉幕府、室町幕府と武家政権が作られると、改元費用を幕府に頼るようになりました。
幕府は本来朝廷に奉仕するためにある・・・幕府が出すものだ・・・と、幕府が負担することに・・・。
幕府が改元に費用を出す・・・それは、天下人の証となりました。
戦国時代に入ると・・・改元の主導権を巡り武家の間で争いが始まります。
それが、足利義昭と織田信長の戦いです。
永禄11年(1568年)、足利将軍家の牽制が衰える中、義昭は京を目指す信長の後ろ盾を得て、室町幕府15代将軍に・・・!!幕府の再建を図ります。
足利義昭が将軍代始を理由に、幕府が費用を持つという条件で朝廷へ改元を申し入れます。
これに待ったをかけたのが信長でした。
義昭が将軍となったからと言って軽減されてしまうと、改元によって室町幕府の再興を目指そうという義昭の思惑通りになるのを信長が嫌ったのです。
将軍の権威が復活してしまう・・・!!
この時は、信長の意見が取り入れられ、改元は見送られますが・・・
永禄13年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を討伐する為に出陣すると・・・
義昭はその隙を狙って改元の費用を増額する条件で改元を強行させ、元亀という元号を定めさせたのです。

これに不満を持っていた信長は、元亀3年(1572年)、信長自ら朝廷に対し改元を要請します。
破竹の勢いの信長の申し出に、朝廷は改元の準備に取り掛かりましたが、今度は義昭が抵抗!!
将軍として負担する改元の費用を一銭も払わないと拒否したのです。
怒り心頭の信長は、意見書を突き付けました。

「わずかな金も出さないとは、一体どういうことだ!!」

この改元をめぐる闘争を機に、信長と義昭の不仲は決定的となり・・・元亀4年(1573年)、信長は京都に進軍し、将軍義昭を追放・・・これによって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡しました。
すると信長は、改めて改元の申し入れを行い、新たな元号・天正が定められたのです。
まさに織田政権の誕生の元号であり、「天下を正しくする」ということで、信長も気に入ったと言われています。
信長にとって天正への改元は、まさしく天下人の証となったのでした。
その後、信長は、天下統一の手前で本能寺の変で命を落としますが、曽部永の時代に定められた天正は改元されることなく20年使われることとなります。

信長の亡き後天下人となったのが豊臣秀吉です。
秀吉は豊臣政権を築いた後も、当初、改元には直接関わることはありませんでした。
しかし・・・改元を必要とする事態が起こります。
文禄5年(1596年)、四国の伊予、九州の豊後で大きな地震が発生!!
さらに、京都を中心に大地震が発生し、秀吉が完成させたばかりの伏見城が倒壊するなど甚大な被害が起こります。
これに驚いた秀吉が、改元を申し入れると「慶長」と改元されます。
改元に当たっては、秀吉が選んだともいわれ、その文字には喜びが長く続くように・・・豊臣が長く続くように・・・とも言われています。
しかし、その願いが叶わず、慶長3年(1598年)秀吉は病に倒れ、京都の伏見城でなくなってしまいました。

秀吉の死後権力を握ることとなったのが徳川家康です。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで、豊臣政権の存続を願う西軍に勝利!!
自分も征夷大将軍の座につき、江戸幕府を開きます。
家康は幕府の権威を不動のものにするために改元を行いたかったのですが・・・実行できずにいました。
その障害となっていたのは秀吉の死後も大坂城にいた秀吉の嫡男・秀頼の存在でした。

秀頼がいる以上、自分の好き勝手には出来ない・・・
改元を目指す家康が、満を持して動きます。
慶長19年(1614年)大坂の陣・・・家康は二度にわたる戦いで、難攻不落と言われた大坂城の攻略に成功!!
豊臣秀頼を自害に追い込み、豊臣家は滅びました。
その直後、家康は京都に向かい改元を申し入れると、2か月後・・・元和に改元され、徳川が天下を掌握したことを世に知らしめたのです。
元和には、和の始まりという意味がこめられ、長く続いた混乱の世が終わり、平和な時代が到来したことを表明するものでした。
さらに、この改元にはもう一つ家康の狙いがありました。
慶長20年(1615年)、家康は朝廷や公家に対し「禁中並公家諸法度」を出します。
その中にはこんな一条が・・・
”改元に当たっては、歴代中国の元号も良いものがあれば採用するように”
元和は、すでに中国の唐で使われていたものでした。
家康は中国の古典から引用、未使用の元号を用いることを打ち破り、新しい選定方式を朝廷に押し付けたのです。
征夷大将軍としての権威を高めようとしました。

飛鳥時代から始まり、天皇の代替わりや国難に見舞われたときに元号の改元が行われてきました。
時がたち・・・時の天下人にとって権力の証となりました。
そうした元号と庶民たちとのかかわりは・・・??
平安や鎌倉は縁遠いものでしたが、室町以降・・・民衆にも広がり、江戸時代には完全に元号は庶民のものとなり、年貢の受取状、暦・・・元号を知っていて、語呂合わせすることもありました。
どうして全国津々浦々まで伝わったのでしょうか?
朝廷から京都所司代、幕府に知らされ、諸大名、直轄地代官→名主→領民と伝わっていきました。
伝達速度は、鹿児島や松前まで1か月ほどで伝わったといいます。

実際、改元するとなると幕府の許可がいるようになり、幕府の方で・・・幕府の教学を代々担う家・林大学頭が案を作って一つに絞って京都に送られてきます。
朝廷では形だけ「こちらが決めた」ということで、天皇が裁可することとなります。
江戸時代には、幕府が決めていたと言って過言ではありません。
太平の世が続いた江戸時代・・・
慶応3年(1867年)には大政奉還・・・
天皇を中心とする新政府が樹立され、明治へと改元されます。
新政府の議定であった岩倉具視は・・・
「これまで帝一代で何度も改元が行われてきたが、一世一元にしてはどうだろうか?」
一世一元とは、天皇一代に元号を一つというもので、天皇が代わる際の代始改元のみ行うということを意味しました。
こうして新しい天皇のもとで元号を決めることとなりました。
あくまで元号の最終決定は天皇にあるとして、3つほどの候補案から天皇が決めるということに・・・。
これを受け、議定である前福井藩主・松平春嶽が元号案を絞り込んで・・・その中から慶応4年(1868年)9月7日、夜・・・京都御所で天皇が選ぶこととなりました。
その驚きの方法とは・・・くじ引きでした。
朝廷では、大事なことを決める際、神の真意を問う意味でくじ引きが行われてきました。
それを踏襲したというのです。
明治を引き当て・・・慶応4年9月12日、全国へ改元の布告が行われました。
明治45年(1912年)7月・・・
明治天皇の様態が悪化・・・危篤状態に・・・
時の内閣総理大臣・西園寺公望は、密かに改元の準備を行いました。
この動きを察知して・・・新聞社が改元の取材合戦を繰り広げます。
そんな中、朝日新聞社の1年足らずの緒方竹虎は、枢密顧問官・三浦梧楼に狙いを定めます。
「三浦さん!!
 次の元号はもう決まっているんですよね?」
「お前だから教えるが・・・次の年号は「大正」だ」
これによって7月30日、明治天皇が法書した直後、新たな元号が大正であると一早く報道することができました。
この大スクープで名を馳せた緒方は、東京朝日新聞の主筆にまで上り詰め・・・昭和19年(1944年)政界に転じて福総理を歴任します。

新元号のスクープ合戦は激しさを増していきます。

大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が崩御・・・
その頃、新元号選定の担当だった内閣内政審議室長の自宅前には、記者たちが深夜まで張り込み、熾烈な取材合戦を繰り広げていました。
そんな中、極秘情報を手に入れたのが、東京日日新聞でした。
「大スクープです!!
 新しい元号がわかりました。
 光る文と書いて光文です!!」
号外が発行され、世紀のスクープ!!
その数時間後・・・午前11時ごろ宮内省が発表したのは「光文」ではなく「昭和」だったのです。
公文のスクープは歴史的誤報となり、編集局トップが辞任する事態となりました。
一節には当時の宮内省が情報が漏洩したことで昭和に急遽変更したともいわれていますが・・・??
果たしてその真相とは・・・??

この時、元号案の選定は宮内省で行われていました。
その中で・・・第一「昭和」、第二「神化」、第三「元化」の3つ・・・一方、時の内閣総理大臣・岩槻礼次郎は内郭案として独自選考を行っていました。
「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」・・・この中にあったのです。
宮内省案ではなく、内閣案の一つだったのです。
そして最終案「昭和」「元化」「同和」にも含まれていませんでした。
東京日日新聞は最終候補案の情報を掴むことができず、内閣案にあった元号を報道してしまったのです。

昭和という元号・・・書経の中の、”百姓昭明協和万邦”からきています。
明るく平和であることを願うという意味が込められていました。
昭和の”昭”の字は元号として使われるのは初めてのことでした。
なじみのない文字で、読めないのでは・・・??と、懸念されました。
昭和天皇が崩御されるまで64年続き、世界で最も長い元号となります。

しかし、途中で存続の危機となっていました。
昭和20年(1945年)太平洋戦争終結・・・
敗戦国となった日本は、戦前のあらゆる制度の変革に直面します。
翌年に公布された日本国憲法には、天皇は国の象徴として存続することは決まったものの、元号は・・・その法的根拠を失ってしまいました。
GHQは、元号の法制化に反対していました。
そんな中、これを機に元号を廃止するべきだという考えも出て来ました。
後に内閣総理大臣となった石橋湛山もその一人で、「元号を廃止し西暦に統一すべき」と主張。
また、憲政の神様と言われた衆議院議員の尾崎行雄は、「新日本か戦後に改元すべき」としていました。
国会では昭和は25年で元号廃止案を真剣に検討されました。
しかし・・・GHQが、撤退すると議論は立ち消えとなり、昭和は日本の元号として使われ続けることとなります。
昭和53年(1978年)元号法制化運動が起こります。
昭和54年(1979年)「元号法」が制定され、それ以後、この法律を元に内閣が元号の選考をおこなうことになったのです。
その元号法に基づき、初めて改元が行われたのが「平成」でした。
そして・・・令和はどのような時代として日本の歴史に刻まれることとなるのでしょうか?
梅の花が咲き誇るような、良い時代になってほしいものです。

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江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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