日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家康

1560年5月、一つの合戦が時代を大きく変えました。桶狭間の戦いです。
尾張の織田信長が、東海の雄・今川義元を討ち果たしたのです。
この戦い、もう1人の武将の運命をも大きく変えました。
その人物とは・・・長きにわたる戦国時代を終わらせ、天下泰平の礎を築いた徳川家康です。
この頃家康は、大国・今川氏の傘下から離れて、現在の愛知県東部・三河国の統一を図っていました。
そんな若き家康に、絶体絶命の試練が訪れます。
家康の生涯三大危機のひとつに数えられる三河一向一揆です。
当時、三河一円に広がっていた一向宗勢力が、打倒・家康を唱えて一斉に蜂起したのです。
すると、家康を支えてきた家臣団までもが、家康をとるか、信仰をとるかで敵味方に分かれてしまったのです。
存亡の危機に面した家康・・・この苦難を如何にして乗り越えたのでしょうか??
その奇策とは・・・??

【ふるさと納税】 新米 20kg さがみのり (5kg×4袋) 上峰町 令和4年産 お米マイスター在籍 ふっくら ツヤツヤ 甘い ブレンド米

価格:10,000円
(2022/12/12 22:32時点)
感想(718件)



桶狭間の戦いが行われた1560年5月19日、松平元康・・・後の徳川家康は今川軍の先鋒として最前線である尾張の大高城まで進出していました。
ところがこの日、総大将・今川義元は新興勢力の織田信長に破れ、討ち死にしてしまいました。
同じ日の夕刻、この衝撃の報せが元康のもとに届けられました。
義元が討ち取られ、今川本体が総崩れになると、孤立無援となった大高城が織田軍に囲まれるのは時間の問題でした。
その日の夜・・・元康は大高城からの撤退を決断、一路三河国の岡崎城を目指します。
岡崎は、松平氏代々の本拠地です。
岡崎の地に生れ、幼いころ駿河の今川家に人質に出された元康・・・
「桶狭間の戦い」をきっかけに、10数年ぶりの帰郷を果たしました。
義元が討ち死にしたことで、織田・今川の大国のハザマとなった西三河・・・
元康は、岡崎城を拠点に西三河の統一を目指します。

岡崎城は、矢作川と乙川の二つの河川に囲まれた天然の要害です。
しかし、堅固な岡崎城を居城としたとはいえ、元康のような小勢力が生き延びるためには織田か、今川か・・・どちらかに与さなければなりません。
そして・・・元康は、桶狭間の戦いの翌年、その後の運命を決める決断をします。

「松平記」には・・・岡崎と尾張の間の戦いを停止する

元康は、織田との和睦を図ったのです。
どうして今川ではなく織田を選んだのでしょうか?
当時の松平家は、国衆という立場でした。
国衆は、自分を保護してくれる戦国大名を次々に選んでいきます。
ところが、今川家は上杉の南下により、東で武田・北条と三国同盟をし、家康まで手が回りませんでした。
切り捨てられた今川との関係より織田との関係の方が開けるのではないか??と考えました。

織田と和睦したことで、西に対する憂いの無くなった元康は東に向かいます。
東三河の今川方の重要拠点・牛久保城を攻めます。
将軍・足利義輝が、ある大名に送った手紙には、「今川氏真と三河岡崎の元康が戦になった」と記されています。
牛久保城周辺に砦を築き、城攻めを仕掛けた元康に対し、氏真は1万の大軍勢を率いて三河へ出陣!!
家康方の砦を攻撃しました。
砦に籠った兵は、数百だったと言われています。
知らせを受けた元康は、3千の援軍を率いて岡崎城を出陣!!
砦を包囲する今川軍を攻め、籠城していた兵の救出に成功します。
1万の今川方が、3千ばかりの元康を食い止めることが出来なかったのです。

【ふるさと納税】【お届け月が選べる】都城産宮崎牛 焼肉食べ比べ9種盛 - 牛肩ロース/カルビ/マルシン/トモサンカク/ザブトン/ショートリブ/内モモ/サーロイン/イチボ 焼き肉 ギフト 贈答用 期間限定 予約 送料無料 AE-3102【宮崎県都城市は令和2年度ふるさと納税日本一!】

価格:30,000円
(2022/12/12 22:32時点)
感想(303件)



1563年、元康は、名前を家康と改め、今川義元からもらった元の字を捨て、ここに今川からの完全な独立を宣言しました。
ところが・・・12月、三河統一に邁進する家康の前に、更なる敵が立ちはだかります。
若き日の家康、最大の苦難・「三河一向一揆」の始まりでした。

三河統一を目指し、今川方と戦う家康・・・
しかし、そこには第三の勢力が存在しました。
当時、一向宗と呼ばれた宗教勢力です。
武士・農民の区別なく、信仰で結びついた一向一揆は時には大名とも対立、徹底抗戦しました。
加賀国では守護大名を倒し、100年にわたる一揆勢の支配を実現・・・戦国大名に匹敵する武装集団でもありました。

戦国時代、全国各地に勢力を拡大した一向宗・・・
一向とは、一心に阿弥陀仏を念じることで、浄土真宗本願寺派の呼び名です。
飢饉や戦乱が続く乱世に生きる人々は、死と隣り合わせの中、来世に救いを求めました。
それは、家康の三河国にしても同じことでした。
当時、三河では家康の居城・岡崎城の周辺に、一向宗の寺院が勢力を拡大していました。

「信長公記」にも・・・三河の一向宗寺院は、川沿いの攻めにくい要害の地にある
経済的にも豊かで、人の多い港である・・・国中の半分が門徒となっていました。
三河一向宗は、武士たちの心を主従関係とは別の形で強くとらえ、勢いを増していました。
今川との戦いを続ける家康は、そんな一向宗と敵対することになります。

きっかけは、家康の家臣が一向宗寺院から強引に兵糧米を取り立てたことでした。
本願寺教団からすれば、不入の権で税の免除・警察権が及ばないという特権を得ていました。
しかし、家康は、戦争をつうけるために兵糧を課してしまったのです。
一向宗寺院との対立が深まる中、家康は一向宗門徒である家臣たちに一向宗から改宗し、反逆者に味方しない旨の起請文を出すことを命じました。
しかし、一向宗門徒の家臣たちは、「主君の恩は現世のみ、しかし、阿弥陀如来の大恩は未来永劫尽きることなどない」と、一揆方につきました。
家康の有力家臣たちも、家康側に残る者と一向一揆に参加する者に分かれました。
後に、家康の天下統一事業を支え懐刀と言われた本多正信も、一向一揆側に分かれたその一人です。
そして、1563年12月、ついに三河の一向宗門徒が一斉蜂起!!
堅固な寺院に籠城し、反家康の兵を挙げたのです。
兵の数は、家康方を上回っていました。
若き家康に最大の試練の時が訪れました。

1564年1月11日、一揆勢は岡崎城の南3キロにあった家康方の砦・上和田城に大軍勢で攻めかかりました。
知らせを受けた家康は、すぐに岡崎城を出陣!!
一揆勢に突入します。
大乱戦の中、家康に銃弾が命中!!
鎧が硬かったため、命拾いをしたといいます。
翌日も一揆勢の攻勢は続きます。
ところが、一揆勢の武士の中には、家康の姿を見ると逃げ出す者も多くいました。
一揆方に身を投じたとはいえ、主君と侵攻のハザマで苦悩していたのです。

【ふるさと納税】兵庫県神戸市の対象施設で使える楽天トラベルクーポン 寄付額100,000円 | 旅行 トラベル 旅行券 宿泊券 予約 チケット 温泉 ホテル 観光 楽天限定

価格:100,000円
(2022/12/12 22:33時点)
感想(0件)



1月15日、最大の激戦が小豆坂で行われました。
小豆坂は、岡崎城の南東3.5キロに位置する丘陵地にあります。
この時、一揆勢は、家康の別動隊と戦っていました。
そこを家康本隊が小豆坂を押し登って一気につきました。
挟み撃ちになった一揆勢は撤退せざるを得ませんでした。

2月になって、一揆方から和議の申し入れがありました。
この申し出をとりあえず受け入れた家康・・・
しかし、問題は和睦ののちの一揆勢の処分です。

反旗を翻した一揆勢を許すべきか??
それとも厳しく罰するべきか??

「家康十六将図」・・・家康に仕え、特に功績のあった16人の家臣です。
酒井忠次や井伊直政など、後に徳川四天王と称えられる名将が居並ぶ中、槍の半蔵と称えられた渡辺守綱、人質時代の家康のそばに仕えた蜂屋半之丞・・・この二人は、三河一向一揆の際、一向宗側に付き家康に敵対した門徒武士です。

1564年2月、一揆勢の主将格にあった蜂屋半之丞が家康方に和議を申し入れました。
一揆方は、参加者や首謀者たちの命を保障すること、そして一揆のきっかけとなった寺院については前々の通り不入の権を認めるということを出しました。
家康は、これらすべての条件を受け入れ、起請文を交わしたといいます。
反旗を翻した一揆勢を許すことを選択したのです。

これによって、一揆勢は正式に降伏・解散しました。
一揆に加わった武士たちは、許されたものの多くは家康のもとを去り三河国を離れました。
家康は、この時を待っていました。
一揆勢との和睦から2か月・・・家康は、一向宗寺院に対し一つの要求を突き付けました。
”宗旨を変えよ”と迫ったのです。
それに対し、寺側は前々の如くと起請文を交わしたと主張します。
ところが家康は、
「寺が立つ前は野原である
 前々の如く野原にせよ」と言い、
一向一揆の拠点となった四寺や道場を破却しました。

寄るべき寺院の無くなった僧侶は、三河から離れるほかありませんでした。
以後、20年に渡り、三河では一向宗の活動が禁じられました。
この戦いを乗り越えることによって、三河における家康優位の状況が出来上がってきました。
そして、家康のもとに三河国がまとまっていきました。
戦国大名・徳川家康の誕生でした。
西三河を完全に掌握した家康は、勢いに乗って東三河・奥三河を制圧!!
三河国の統一を成し遂げ、天下人への第一歩を踏み出しました。


↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

【ふるさと納税】【お届け月&パッケージが選べる!】都城産豚「高城の里」わくわく3.6kgセット - 切落としが真空パック・トレーから選べる 都城産豚肉 花盛しゃぶしゃぶ あっさり 小分け ランキング入賞 送料無料 17-8401 【宮崎県都城市は令和2年度ふるさと納税日本一!】

価格:17,000円
(2022/12/12 22:33時点)
感想(3842件)



江戸時代に整備された五街道の起点・日本橋。
そのすぐそばに、按針通りと呼ばれる小さな通りがあります。
按針とは、中国船や西洋船の航海士のことで、かつてこの地に徳川家康に仕えた航海しの屋敷がありました。
航海士の名は、三浦按針・・・本来の名をウィリアム・アダムスという青い目のサムライです。

三浦按針の謎に迫る -家康を支えたイギリス人臣下の実像

新品価格
¥2,860から
(2022/12/12 15:13時点)



1564年、第5次川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が戦っていた頃。
後の三浦按針・・・ウィリアム・アダムスは、イギリス南東部ののどかな港町ジリンガムで生まれます。
高貴な生まれではなかったものの、イギリスの一般民衆の識字率が低かった当時においても、アダムスは読み書きを身につけていたことからそれなりの教育を受けていたと考えられています。
そして、12歳の時に、船大工に弟子入り。
厳しく仕事を叩きこまれ、24歳でようやく独り立ちしました。
しかし、その矢先、船大工の職をあっさりと捨てて英国海軍に入隊しました。
当時、小国イギリスに大国スペインが侵略して来るという情報が・・・
エリザベス女王の名で、英国海軍に協力する船と船員を募集しました。
アダムスは、航海術も学んでいたので、海軍に入ったのではないか?と言われています。
当時のイギリスは、スコットランドや北アイルランドとは連合していない人口300万ほどの小国でした。
一方、スペインは、ポルトガルを併合した世界最強の大帝国でした。
そんな両国が対立したのには、当時のヨーロッパの宗教問題が大きく関係していました。
共にキリスト教でありながら、ローマ教皇を中心とするカトリックと、そこから分離した改革派のプロテスタントが反目しあっていたのです。
その為、プロテスタント推進政策を掲げるエリザベス1世と、カトリック原理主義をとるスペイン国王・フェリペ2世が激しく対立。
大艦隊をもってイギリスに進攻しようとするスペイン軍に対し、アダムスは祖国を守ろうとエリザベス女王の呼びかけに応じて英国海軍に入隊したのです。
当時の海軍の名簿によれば、アダムスは前線に弾薬などを届ける貨物補給線リチャード・ダフィールド号の船長として参戦。
大激戦の末、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を退けて勝利を収めました。

しかし、英国海軍は、本隊を残して解散!!
止む無くアダムスは、イギリス~モロッコ間の貿易を行うバーバリ商会に就職します。
バーバリ商会にはもう一つの顔がありました。
それは、海賊です。
バーバリ商会がモロッコに向かう経路は、スペイン船やポルトガル船の主要航路と重なっていて、遭遇すれば船を襲って略奪行為を行うのが常となっていました。
そして、襲撃した船の積み荷の1/3が、船員に分配されました。
また、アダムスは、バーバリ商会に入社した翌年に結婚、1男1女をもうけています。
そんなアダムスが、どうして極東の日本に来ることとなったのでしょうか?

1597年、バーバリ商会は、モロッコ貿易の許可証が失効したことを理由に解散。
33歳になっていたアダムスは、再び職を失います。

「私のささやかな知識を活かす場所を見つけた」byアダムス

それが、オランダが開拓したアジア航路でした。

当時のヨーロッパの状況は、アジア貿易を行っていたのはスペインとポルトガルだけでした。
彼らは、アジアへの行路などを秘密にしていました。
しかし、イギリスと友好国であったオランダが、1595年にアジアへの進出に成功します。
そこで、オランダ人としてもアジアで貿易ができることが示されていました。
アダムスは、オランダが始めたアジア貿易で培った航海術を活かしたいと考えたのです。
1598年、オランダの貿易会社がアジア遠征を企画します。
アダムスはイギリスに妻子を残して、オランダ・ロッテルダムに渡ります。

1598年6月27日、オランダ・ロッテルダムを出航!!
大西洋を渡り、南米対立南端のマゼラン海峡を抜け、太平洋を渡ってアジアに来る予定でしたが、その航海は惨憺たる有様でした。
航海当初は風に恵まれて順調だったものの、まもなくビタミンC不足が原因とされる壊血病や熱病が船内で蔓延。
多くの船員が命を落とし、アダムスがのっていたホープ号の船長も病死。
すると、船員の配置換えで、アダムスはリーフデ号に移りました。
その後も苦難は続き、嵐も重なって船は一隻、また一隻と姿を消していきました。
最後の一隻となったリーフデ号は、それでも懸命に航海を続行。
出航からおよそ1年8カ月が過ぎた1600年3月16日に豊臣政権化にあった豊後国・白杵にたどり着きます。
長旅を耐え抜いた船員は、アダムスを含めてわずか24人。
みな、衰弱しきっていたため、臼杵の民衆が船の積み荷を盗もうと乗り込んできても何も抵抗できませんでした。
翌日には、臼杵の役人がやってきて、盗人を取り締まり、リーフデ号を検分。
すると、その報告を受けた臼杵城主・太田一吉は、首をかしげます。
貿易にやってきた商業船かと思いきや、リーフデ号には多くの大砲や武器が積み込まれていたのです。
太田は急いで、リーフデ号の報告書を作成します。
豊臣政権の長崎代官・寺沢広高に送付。
アダムスたちには処遇が決まるまでそのまま待機するよう命じました。
待機している間に3人の船員が衰弱死してしまいました。
残りの21人は、港近くの一軒家を逗留場所として与えられました。

ウィリアム・アダムス ??家康に愛された男・三浦按針 (ちくま新書)

新品価格
¥1,012から
(2022/12/12 15:14時点)



半世紀前に来日していたイエズス会士・・・カトリックの宣教師たちは、豊後の臼杵にオランダ船が来航したことを知ると、臼杵城に向かい城主の太田一吉にこう進言しました。

「あの船は海賊船です
 船員たちは即刻処刑すべきです」byイエズス会士

臼杵城下の民衆にも、「やってきたのは極悪な海賊だ」と、吹聴して回り、アダムスたちに敵意が向くように仕向けます。
さらに、日本でのイエズス会の活動を統括していたイエズス会司祭、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、長崎代官・寺沢広高に、

「来航した船は海賊船であり、船員たちはポルトガル人とすべてのキリスト教徒の敵である」と言いました。

この時代は、まさしく宗教戦争の時代でした。
イエズス会士はカトリック、アダムスたちはプロテスタントでした。
プロテスタントはイエズス会士たちから見れば異端者でした。
改宗か、滅ぼさなければならない相手でした。
また、日本でのポルトガルの貿易の一部がイエズス会の活動資金になっていました。
もし、貿易独占が破られてしまえば大きな痛手だったのです。
イエズス会士たちにとってアダムスたちは、異端者であり、イギリス船などの来日を牽制するためにも排除しなければならないと考えていました。

そうした状況の中、アダムスたちの処遇をゆだねられたのが長崎代官から報告を受けた徳川家康でした。
この時、家康は59歳。
まだ豊臣政権の五大老でした。
しかし、2年前の秀吉の死後、急速に勢力を拡大。
豊臣家の居城である大坂城に強引に入城し、秀頼を差し置いて政の実権を握っていました。
来日から9日が過ぎた3月25日、家康からの指示が伝えられます。

「主だった船員2人で大坂に来るように」

選ばれたのが、ウィリアム・アダムスとオランダの商人ヤン・ヨーステンでした。
こうしてアダムスとヨーステンは、大坂城へ!!
そして、3月30日、自分たちの置かれれている状況すらわからないまま家康と対面しました。

「大王の宮殿は金箔が贅沢に使われた、非常に豪華なものだった」byアダムス

家康は、イギリスとオランダという見知らぬ国からやってきた二人に対し、身振り手振りで意思の疎通を図ろうとします。
上手くいかなかったため、ポルトガル語なら少しはわかるのではないかと、ポルトガル語が話せる家臣を呼んで通訳させることにしました。
アダムスたちの国が戦をしているのかと尋ねます。

「スペインとポルトガルとはしています
 しかし、他の国とはみな平和に付き合っています
 
 貿易によって日本にはない商品を、イギリスからもたらし、イギリスにはない商品を日本で購入したいのです」

次々と投げかけられる家康の質問に、片言のポルトガル語で懸命に答えるアダムスたち・・・
質疑応答は、真夜中まで続いたと言われ、政務に忙しい家康がこれほどの時間を費やしたことにアダムスたちに対する興味の深さが伺えます。

しかし、得体のしれない外国人に対する警戒心を解いたわけではなく、謁見後は牢屋に入れられてしまいました。
再び家康に呼ばれたのは2日後でした。
この日も家康は、アダムスたちを朝から晩まで質問攻めにしました。

「二度目の尋問後も牢屋に入れられた
 二度目の牢屋は前回よりも快適だった」

生きて帰れるかもしれない・・・と期待したアダムスたちでしたが、それから1カ月以上もお呼びがかからず、外の情報も一切入りません。

「はりつけにされて死ぬのだと、毎日のように思っていた」

この間、イエズス会士たちは、家康に
「リーフデ号の船員たちを活かしておけば、家康さまや日本の不利益になる」と、処刑を訴え続けていました。

「今のところ、彼らは余ばかりか、我が国の誰にも危害を加えていない
 そのため彼らを処刑するのは道理や正義に反する」by家康

と、退けます。
関ケ原の戦いの3か月ほど前のことでした。
アダムスたちに3度目の呼び出しがかかったのは、それから間もなくのこと。
牢屋に入れられてから41日目でした。
家康はこれまで同様、様々な質問をし、謁見が終わりに近づくとアダムスたちに

「仲間に会いたいか?」

と、たずねました。
当然、アダムスはうなずきます。
すると家康は、アダムスたちを開放し、堺へ向かわせました。
この時、家康は、リーフデ号とその船員たちを堺に移動させていました。
アダムスたちが涙を流して再会を喜んだのは言うまでもありません。
さらに家康は、船内にあったアダムスたちの所持品が盗難によって無くなっていることを知ると、現在の8億円相当の金銭を与えました。

三浦按針 その生涯と時代

新品価格
¥2,970から
(2022/12/12 15:15時点)



家康がアダムスたちを手厚く労ったのは・・・??
日本の統治にアダムスたちが必要だったからです。
家康は、日本の対外貿易におけるポルトガルの独占を快く思っていませんでした。
貿易の自由競争による輸入価格の低下を狙っていました。
日本の国内産業が潤うように・・・!!

そこで、アダムスたちを仲介して、ポルトガル以外の国とも貿易を行おうとしたのです。
当時の家康の政治基盤はまだ脆いものでした。
そこで武器の供給が非常に重要となっていました。
現に、リーフデ号には武器がぎっしりと積まれていました。
武器の供給源になることも期待していたのです。
後に大坂の陣ではアダムスたちを通じて武器を手に入れています。

1600年6月16日、徳川家康は、天下取りのライバルになりかねない会津の上杉景勝を討つため、大坂城を後にしました。
これに伴い、ウイリアム・アダムスたちを乗せたリーフデ号も浦賀に移動。
リーフデ号に積まれていた武器を、会津で使うためだったと言われていますが、会津討伐は中止に・・・。
アダムスたちはそれから2年間、家康からの命令が下されずほったらかしにされてしまいます。
彼はその間、日本語を習得。
政局が落ち着くと、アダムスは再び家康から呼び出されるようになり・・・

「小型船を一隻作ってくれぬか」by家康

船大工をしていたのは昔のこと・・・
アダムスは、依頼を受けるべきか悩みます。
造船を請け負うこととなったアダムスは、伊豆の伊東へ。
海に面し、木材を調達しやすい山にも近い伊東は、古くから造船が盛んでした。
船大工も多く、造船技術の伝授が狙いでした。
完成したのは、80トンほどの西洋式帆船
伊東まで見学にやってきた家康は、たいそうご満悦で、アダムスを褒め称え、今後は側近となって常に側にいるように命じました。
以来、アダムスは、好奇心旺盛な家康に西洋の学問や技術を教えるブレーンとなりました。
その蜜月関係は、家康が生体将軍に任命され、江戸幕府を開いてからも変わらず、アダムスに厚い信頼を寄せていました。

新しい妻を娶り、家族を作ったアダムスでしたが、イギリスに残した妻子を忘れることはできませんでした。
来日から5年が過ぎたある日、家康に帰国を願い出ますが・・・家康は機嫌を損ねてしまいました。
その後、アダムスは、家康からもう一隻船を作ってほしいと依頼され、120tの洋式船を作ります。
日本の海岸線沿いを測量し、海図も作成しました。
すると家康は、アダムスを日本に引き止めるという意味も含めて異例ともいえる褒美・・・それは旗本という身分を与えました。
大小の刀と三浦半島の逸見・・・約250万石が所領として与えられました。
そして、この地名にちなんで、三浦按針と呼ばれるようになりました。
三浦半島の航海士という意味で、江戸・日本橋にも屋敷を与えられたアダムスは、いつでも登城できるようにそこで過ごすことが多かったといいます。
江戸を闊歩する青い目のサムライ・・・人の目を引いたことでしょう。

アダムスは、航海士などの経歴と幅広い知識から家康の外交顧問を務めるようになりました。
時にはその発言が、日本の命運を左右したことも・・・
1611年、来日したスペイン使節のセバスチャン・ビスカイノが本国の鉱山技術を提供すると申し出ると、家康はその申し出に対し、キリスト布教の許可と江戸湾測量の許可を出しました。
それを知ったアダムスは、家康に・・・

「スペイン人が江戸湾を測量する目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するためです
 私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許しません」

そう止めても、

「今更断るのは面目が立たん、たとえ攻め込まれても、対抗する兵力は十分ある」

と納得しません。

「宣教師を送り込んで、その国の民衆をキリスト教に改宗させ、その後スペイン人がキリスト教徒と共謀して国を乗っ取るのが奴らの策略なのです」

アダムスは必死に訴えました。
これに心打たれた家康は、スペインとの外交に消極的となり、さらに、
1612年、家康が直轄地でのキリスト教禁止令を発布します。
この家康の決定には、アダムスの助言が大きくかかわっているといいます。
もしもアダムスが家康を諌めていなければ・・・南アメリカのインカ帝国のように日本もスペインの植民地となっていたかもしれません。
スペインとの外交には苦言を呈したアダムスでしたが、母国のイギリスにはアジア貿易の拠点・イギリス東インド会社に手紙を送り、日本との外交を働きかけました。
それが実を結んだのは、1613年。
徳川と豊臣の最終決戦・大坂の陣の前の年でした。
イギリス船・クローブ号が肥前国平戸に来航・・・日英貿易が始まったのです。

家康とウィリアム・アダムス

中古価格
¥1,406から
(2022/12/12 15:16時点)



アダムスは、イギリス船が来航したことによってイギリスに帰りたいという思いが再燃します。
そんな時、家康から呼び出しが・・・!!
決意を固めたアダムスは、所領を許された際の朱印状を差し出し、深々と頭を下げてこれまでの厚遇と感謝の意を述べ、所領をお返ししてイギリスに帰りたいという思いを伝えます。
すると家康は、
「貴殿のこれまでの行いと忠実な奉仕に鑑みると、その願いを拒否することは不当であろう」
と、帰国を認めました。

来日から13年目の1613年。
三浦按針ことウィリアム・アダムスは、徳川家康から帰国の許しを得たものの、結局本国イギリスに帰ることはありませんでした。
大きな要因だったと言われているのが、イギリス船クローブ号の総司令官を務めるジョン・セーリスとの不仲です。
イギリス使節でもあったセーリスは、家康との仲介役を務めるアダムスと共に過ごすことが多かったのですが、2人は馬が合わず、激しく口論が絶えませんでした。
その為、アダムスは、セーリスとの長旅は無理だと考え、

「もう少し現金を貯めてから帰国する」

そう言って、乗船を断わったのです。
アダムスは、日本では殿さまでしたが、イギリスでは一介の船乗りでした。
そしていつでも帰れるという安心感・・・。

日本にとどまったアダムスは、平戸に設立したイギリス商館で働きはじめ、琉球やシャムまで自ら足を運び貿易を行うようになります。
すると家康は、アダムスを呼び寄せてこう伝えます。

「航海などに出ず、我が国にとどまってくれぬか
 知行が不十分ならば加増しよう」

家康は、再びアダムスを手元に置きたいと考えていました。
しかし、新たな道を歩み始めていたアダムスは、丁重に辞退。
これが二人の最後の対面となりました。

大坂夏の陣で豊臣を滅ぼし、徳川政権を盤石なものにした家康が、1616年4月17日この世を去ったのです。
幕府の実権は、2代将軍秀忠が掌握・・・これがアダムスの運命を変えます。
秀忠は、家康の側近たちから距離をとり、独自の政治を始めました。
中でも違いが大きかったのが外交面でした。
家康がヨーロッパ諸国との貿易を奨励したのに対し、秀忠は、京都・大坂・堺で外国人が日本人に商品を売ることを禁止します。
それまで特に決まりのなかった外国人の居留地を、江戸から遠く離れた長崎と平戸に限定しました。
さらに、家康の朱印状があれば日本のどこでも入港が可能だったのに対し、秀忠は長崎と平戸に限定。

当然、アダムスは納得できず、幕府の高官に外交の重要性を訴えましたが、全く聞き入れてくれません。
秀忠とは会うこともままならず、ついには外交担当からも外されてしまいました。

失意のアダムスは、帰国の機会も得られないまま平戸で家康の死のわずか4年後・・・
1620年4月24日、ウィリアム・アダムス死去・・・青い目のサムライ・・・56歳でした。
アダムスの遺産は、現在の価値で4000万円ほどでした。
その半分をイギリスの妻子に、残りの半分を日本の子供たちに与えると遺言に残していました。

そしてこれ以降、日本は鎖国に突き進み、アダムスが開いたイギリスとの国交も閉ざされてしまいます。
家康との運命的な出会いを果たし、故郷から遠く離れた日本でサムライとなったウィリアム・アダムス。
その人生は、時代の荒波に翻弄された数奇なものでした。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

【ふるさと納税】レビューキャンペーン開催中 訳あり 牛タン 大暴れ盛り 1.4kg 厳選 牛肉 肉 牛 自家製酵素 熟成肉 焼肉 期間限定 送料無料 たんもと たんなか たん先 塩タン 真空パック 味付け肉 冷凍 肉コンシェルジュ お取り寄せグルメ 食品 BBQ 泉佐野市 肉の泉佐野

価格:19,000円
(2022/12/12 15:17時点)
感想(887件)



今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村



「偉大なる父親を持つ2代目は辛い」

よく言われることですが、それは徳が分けでも同じです。
江戸時代2代将軍・徳川秀忠・・・
父・家康のようなカリスマ性を持たず、目だった武功をあげることもできなかったため、ダメな2代目という烙印を押されてきました。

「秀忠はあまりに律儀すぎる
 人は律儀のみではならぬものだ」by家康

側近はこれを秀忠に伝え、殿もたまにはほらを吹かれた方がいいのでは・・・と、進言しました。
すると・・・

「父上だからホラを吹いても許されるのだ
 何事も成し遂げていない私がホラを吹いてどうする」by秀忠



1579年4月7日、徳川秀忠は、当時三河と遠江を支配していた家康の三男として浜松城で生まれました。
家康が38歳の時の子で、幼名は長松。
母は側室のお愛の方。
美人で聡明だったため、家康から深く寵愛されたといいます。
三男の秀忠が家康の後継者となったのは・・・??

もともと、家康の跡継ぎと目されていたのは正室・築山殿との間に生まれた長男の信康でした。
剛直で武勇に優れて、跡継ぎとして申し分なかったのですが・・・秀忠が生まれた年に、家康から切腹に処せられ、21歳の若さで死去。
家康が切腹を命じた理由については・・・当主の座を奪おうとしていた信康を、家康が先手を打って亡き者にしたと考えられています。
長男の信康が亡くなりましたが、秀忠の上にはまだ6歳上の次男・秀康がいました。
しかし、秀康は、家康が築山殿の次女に手を付けて産ませた子だったため、築山殿の目を気にする家康から愛情を注いでもらえず、3歳になるまで対面すら叶わなかったといいます。
そして、17歳の時、北関東の大名・結城氏に養子に出され・・・結城秀康です。

秀忠の幼少期は不明です。
しかし、戦国時代から江戸時代中期の人物列伝「名将言行録」によれば、ある日、秀忠が家臣による書物の朗読に耳を傾けていた時のこと・・・突然、巨大な牛が障子を突き破って部屋に飛び込んできました。
過信は慌てふためき悲鳴が上がりましたが、秀忠は顔色一つ変えず

「かまわぬ、読み続けよ」

家康に与する武将たちはこの話を聞いて、

「度量の大きさは家康公に勝るとも劣らない」

と、秀忠を褒め称えたといいます。


また、秀忠に大きな影響を与えたと言われているのが、乳母を務めた大姥局・・・
大姥局は、今川義元の人質になっていた頃の家康の世話役でした。
その人柄を高く評価していた家康が、秀忠の乳母にしようと浜松城に招いたといいます。
秀忠の乳母となったとき、大姥局はすでに50代半ばでした。
その役目は、乳を与えることではなくて教育係だったと言えます。
大変聡明で、慈悲深かったため、高く慕われました。
秀忠は、決して驕ることなく謙虚さを身につけていきます。

秀忠・・姉さん女房を娶る
1595年9月、17歳になった秀忠は、豊臣秀吉の肝いりで結婚。
妻となったのは、織田信長の姪で秀吉の寵愛を受けていた淀の方の妹・江です。
秀忠より6歳年上で、3度目の結婚、出産経験がありました。
酸いも甘いもかみ分けた姉さん女房のお江。
お江と結婚したことで、秀忠は秀吉と相婿・・・姉妹の夫同志となりました。
豊臣家と密接な関係となりました。
この結婚の2年前に、淀の方が秀吉の嫡男の秀頼を生んでいたため、秀吉は、秀忠を秀頼の補佐役にしようと考えていました。
徳川家と豊臣家を結びつけるキーマンとして大きな期待を寄せられていた秀忠・・・
しかし、この3年後、天下人・秀吉が62歳でこの世を去ると、状況は一変します。
父・家康が、天下取りへ・・・!!



秀忠・・・大失態をさらす
1600年9月、徳川家康の三男・秀忠は、わき目もふらず中山道を西へと急いでいました。
どうして・・・??
話しは2か月前に遡ります。
天下取りを目論む父・家康と、豊臣の世を守ろうとする石田三成の対立が激化、京都にある徳川方の伏見城を三成に与する反家康陣営(西軍)が襲撃。
三成蜂起の報せを遠征先の下野国で聞いた家康は、これに対抗するため自らは江戸を経由して東海道で、息子の秀忠には中山道で西へ向かうように命じます。
22歳の秀忠にとって、これが実質的な初陣でした。
その為、家康は精鋭が揃った3万8000の徳川本体を秀忠に預けました。
家康はこの戦いで、後継者である秀忠の存在を、広く世に示そうとしました。
秀忠が必ず活躍できるように万全の態勢を整えていました。

跡継ぎとしての重責を背負った秀忠は、父の期待に応えるべく、8月24日に宇都宮城を出立。
一方、家康は東軍の先鋒を出陣させたのち、江戸城で体制を整え、9月1日に出立。
東海道を進み、9月11日に清州城に入城します。
この時、石田三成が西軍の主力は美濃国の大垣城に入っていたため、東軍の先鋒たちは、家康の到着を待って大垣城に総攻撃をかけようとしていたのです。

家康は、「風邪を引いた」と嘘をついて、出陣しませんでした。

先に出立したはずの秀忠がまだ到着していなかったのです。
この時、秀忠は、清州城の春か手前、信濃の上田城付近にいました。
上田城主の真田昌幸が、次男の信繁(幸村)が共に西軍についたため、まずは上田城を落として西上しようと考えていました。
あくまでも家康の姪を受けて上田城を攻めていました。
3万8000の大軍を擁すれば、3000ほどの兵しかいない真田軍など簡単に攻略できると考えたのです。
しかし、ことは家康の思惑通りにはいきませんでした。
9月1日に中山道を外れて上田城に向かった秀忠は、その2日後、真田昌幸のもとに降伏を求める使者を派遣・・・
すると昌幸は「剃髪して降伏する」と泣きついてきたため、秀忠は昌幸たちの助命を約束します。
ところが・・・そのわずか2日後、

「あれは嘘じゃ、実は戦の仕度を整えておった
 兵糧の運び入れが済んだので、いつでも戦いに応じよう」by昌幸

まんまと騙された秀忠は、激怒して上田城を攻撃!!
当初は兵力で大きく勝る秀忠軍は優勢でした。
敵を引き付けてから一斉攻撃を仕掛ける真田軍の戦略によって形勢は逆転。
秀忠は次々と兵を討ち取られ、上田城を落とすことができませんでした。
この時が秀忠の初陣でした。
真田親子の方が一枚も二枚も上手でした。
しかし、それだけではなく、多くの精鋭が付き従っていた秀忠軍・・・
秀忠に統率力がなかったためか、一枚岩になれなかったのです。
それが、苦戦した原因でした。
そんな中、西軍との決戦が迫っているという知らせが届きます。
こうして9月11日、秀忠は中山道に戻り、西上を再開したのですが・・・真田軍の追撃を警戒しての進軍は、速度が出せず、しかも、途中の河川が増水し、渡るのに時間がかかってしまいます。
焦った秀忠は、「我だけでも先に進まねば・・・」と、わずかな兵のみで先を急ぎます。
しかし、秀忠がまだ信濃国をひた走っていた9月15日午前8時ごろ、美濃国の関ケ原において、東西両軍が激突!!
しかも、戦いは、先陣を切った家康の四男・松平忠吉の抜群の働きや、西軍・小早川秀秋の突然の寝返りなどによって、わずか半日足らずで東軍の勝利に終わってしまいました。
その為、秀忠は、天下分け目の大事な戦いに間に合わなかったのです。

勝利した家康は、近江国の大津状に入ったのですが、そこに秀忠がやってきたのは、戦いが終わって5日後の9月20日。
秀忠は家康に面会し、遅れた理由を説明して許しを乞おうとします。
しかし、秀忠への怒りが収まらない家康は、「気分が悪い」といって、面会を許しませんでした。

秀忠が家康に激怒されたのは、戦いに遅参しただけではありません。
先を急ぐあまり、軍勢を置き去りにしたこと・・・これも原因でした。
結果として東軍が買ったからよかったのですが、もし負けていれば、少数の兵しか連れてこなかった秀忠も討ち取られてしまうかもしれません。
秀忠は、そこまで考えて動く古語が出来なかったために「大将としての資質に欠ける」と激怒されたのです。

この後、家臣の弁明などによってなんとか許された秀忠・・・
家康は、「秀忠が跡継ぎでいいのか」と悩みます。
5人の重臣たちに、「どの子に家督を譲るべきか」と、相談したと言われています。
その結果・・・
無回答・・・・・1名
次男・秀康・・・1名
四男・忠吉・・・2名
三男・秀忠・・・秀忠付きの家老・大久保忠隣

だったのです。

どうして秀忠が跡継ぎとなったのでしょうか??
この時、秀忠を推した大久保忠隣が家康に進言した言葉が、秀忠を口径の座に留まらせました。

「天下を治めるためには武勇よりも文徳が大事
 後継者は知勇と文徳を兼ね備えた謙虚な人柄の秀忠様しかいない」by大久保忠隣

家康も納得し、秀忠を後継者としました。



秀忠・・・2代将軍になる
1603年2月、徳川家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
そして、そのわずか2年後、27歳の秀忠が家康の後を継いで将軍となりました。
このあまりにも早い将軍職の交代は、豊臣の世が終わり徳川家が政権を担っていくのだと天下に知らしめるためでした。
家康は大御所と呼ばれるようになります。
2年後には江戸城も秀忠に譲り、駿府城に移りました。
関ケ原の戦いに遅れたという大失態はあったものの、なんとか無事に家康の後を継ぐことができた秀忠・・・その後も幕府の実権を握っていたのは家康でした。

秀忠・・・家康の傀儡になる
1605年、徳川秀忠が2代将軍に就任。
先代の家康は、江戸を離れ駿府城に移ります。
ただ・・・隠居をしたわけではなく、駿府においても政を行い続けました。
この頃の江戸幕府には、将軍・秀忠のいる江戸と、大御所・家康のいる駿府という2つの政庁があったのです。

二頭政治、二元政治ともいわれますが、実際は、圧倒的に家康が上でした。
江戸幕府の実権は、駿府の家康が完全に掌握していました。

その政権運営は・・・?
秀忠のいる江戸城には、秀忠付きの家老・大久保忠隣の他、家康の腹心・本多正信など家康譜代の重臣たちを置きました。
家康の駿府城には、新参の官僚と僧侶・儒学者・豪商・外国人などで構成された政策集団を置きます。
そして、そこで家康たちが発案、検討した大名統制政策や、外交方針を、江戸城にいる秀忠と重臣たちに伝え、実行させたのです。

「今はただ父上の仰せのままに」by秀忠

秀忠は家康の性格やふるまいを研究していました。
秀忠は、家康になりきることで家臣たちの信頼を得ようとしました。

秀忠・・・汚名返上を狙う
関ケ原の戦いに間に合わなかったことが負い目となっていた秀忠でしたが、30代半ばでようやく汚名返上の好機が・・・
徳川家と豊臣家の最後の戦い・・・大坂の陣です。
莫大な資金力を有し、秀吉恩顧の大名たちもいまだ健在の豊臣家を危険視していた家康は、1614年10月11日秀吉の嫡男・秀頼のいる大坂城を攻めるため、20万の大軍を率いて駿府城を出立。
23日には二条城に入りました。
一方、秀忠は、江戸城を留守にする準備に手間取ってしまい、家康が二条城に入ったその日に、ようやく6万の兵と共に出陣、その際、家康の側近へ書状を送っています。

「私が到着するまでは、開戦を待ってほしいと父上に伝えてくれ」

関ケ原の二の舞だけは避けたかったのです。
その後も秀忠は、同様の書状を何度も送りつつ先を急ぎます。
秀忠は、馬廻役や歩兵に240人ほどの剣客自慢を選抜、

「遅れずについてきた者には褒美を与える」

といって先を急がせました。
最後まで遅れずについてきた者は30名ほどでした。

二条城でこれを知った家康は、

「人馬が疲弊すると、統率が取れなくなる
 無茶はするな」

と、秀忠の申し伝えましたが、従順な秀忠もこの時ばかりは父の言葉を黙殺。
わずか17日間で6万の兵を京都まで進めました。
そして、11月19日、大坂冬の陣開戦!!
20万ともいわれる徳川軍に対し、9万の兵しか持たない豊臣軍は、大量の鉄砲で応戦します。
家康はこれを予測し、大量の鉄盾を作らせていましたが・・・
秀忠は、「鉄の盾など必要ない」と、受け取りませんでした。
この大坂の陣が汚名返上のラストチャンス・・・!!
家康の庇護下にいると思われたくなかったため、鉄盾を受け取らなかったのです。

一進一退となった冬の陣・・・両者の和睦によって集結します。
しかし、翌年5月、大坂夏の陣!!
汚名返上を果たしたい秀忠は、激戦地を希望!!
家康が首を縦に振ることはありませんでした。
その理由は・・・??
跡継ぎの秀忠を危険にさらしたくはなかった
豊臣家との決着を自分の手で付けたかった
などといわれています。

激闘の末、徳川軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。
結局、秀忠はこの戦いでも目だった武功をあげることができなかったのです。
それから間もなくして秀忠の側近にこう伝えます。

「これからは何事も秀忠が決めよ
 わしに伺い立てする必要はない
 江戸で決めたことを駿府に伝えてくれればよい」

家康の引退宣言でした。



秀忠・・・豹変する
大坂夏の陣の翌年・・・1616年3月。
75歳の徳川家康は病の床にいました。
そして、2代将軍の秀忠を、枕元に呼びこう問いかけます。

「わしが死んだら天下はどうなると思うか」by家康

「乱れると思います」by秀忠

この答えを聞いた家康は、満足げに一言

「ざっと済みたり」・・・おそらく「そう思っていればよろしい」という意味ではないかと思われます。
再び天下が乱れることを覚悟していれば、本当に転嫁が乱れた際に慌てずに対処できるそういうふうに家康は考えていました。
翌月・・・4月17日、徳川家康は波乱の人生に幕を下ろしました。
そして、秀忠が名実ともに幕府の頂点に立ったのですが・・・家康の陰に隠れていた頃のダメな2代目から豹変・・・苛烈な大名統制をはじめました。
まず秀忠は、実弟の松平忠輝を改易・流罪に処します。
忠輝は、大坂夏の陣に遅参して、十分な働きが出来ずに怒った家康から謹慎を申し渡されていましたが、秀忠はそれでは生ぬるいとして忠輝の所領を取り潰し、伊勢国に流したのです。
不届き者は、身内でも許さないという見せしめでした。
さらに、関ケ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献した福島正則に対し、居城を無断で修築しただけで安芸・備後50万石を没収、正則には弁明の機会すら与えませんでした。
その後も秀忠の大名統制は続き、親藩や譜代の大名でもお構いなし、取り潰した大名家41家、没収した石高は439万石にのぼりました。

秀忠は、自分に家康のような才覚やカリスマ性が無いことをよくわかっていました。
そのため、父のようには諸大名と統制できないと考え、力で抑え込む方法を選んだのです。
秀忠には、家康にできないことができました。
家康は、いろんな人物に恩もあり大名統制に躊躇があったのです。
しかし、秀忠にはしがらみが一切なく、幕府のためと割り切って大鉈を振るうことができました。
秀忠の大名統制によって、将軍の権威は高まりゆるぎない幕府の基礎を作り上げました。



秀忠・・・幕府の安定を図る
苛烈な大名統制によって将軍の権威を高め、江戸幕府の基盤を堅固なものにした秀忠。
さらに秀忠は、将軍と一握りの側近によって行われていたそれまでの政治体制を改め、集団合議制を採用します。
これによって、将軍の才覚に左右されない安定した政治ができるようになり、幕府の寿命を大きく引き伸ばしました。
カリスマ性のない時分では、父のようなトップダウンは無理と考えたうえでの改革でしたが、それが功を奏したのです。
また、秀忠は中国船以外の外国船の入港地を平戸と長崎に限定します。
キリスト教の排除に力を注ぎましたが、これがのちの鎖国政策の基礎となりました。
秀忠は、戦国の世を生き抜いた名将、猛将をつねに近くにおいて、彼らの言葉に謙虚に耳を傾け、政について貪欲に学びました。
その性格は、実直で非常にまじめでした。
生誕の日に労われても・・・

「将軍たるものは、常に己を慎み、死ぬ瞬間まで政を行い続ける義務があるのだ」

その思いは、病になっても少しも変わらず・・・

「天下の主が長生きを望んで政をなおざりにするなど畜生にも劣る行為だ」

そう言って、通常通り政務を行いました。

1622年、徳川家光が3代将軍に就任。
秀忠は45歳で大御所となりましたが、家臣たちの希望もあってそのまま政を続けました。
しかし、50歳を過ぎた頃から胸に激しい痛みを感じるようになり、元々悪かった片目を失明。
それでも秀忠は、毎日身なりを整え政務を行っていましたが・・・
病状は悪化の一途をたどり、ついには薬も受け付けなくなってしまいます。
死期を悟った秀忠は、家臣たちに

「わが命は幾ばくも無いが、今一度東照宮を詣でてここまで天下の安寧を保っていたことを父上に伝えたい」

秀忠は、父・家康に認めてもらいたいと、ずっと思っていました。
幕政に参加していた天海僧正が、見舞いにやってきて秀忠に問いました。

「大御所様(秀忠)は家康公のように神号をお受けにならぬのですか」

「我はただ先代の業績を守ってきただけで何の功徳もなく、神号などとんでもない
 人はとかく上ばかりに目が行くが、己の分際を知らぬのが一番おそろしいこと」by秀忠

そう言って、神となることを辞退し、1632年1月24日、54歳でこの世を去りました。
何事につけ、父・家康を尊重し、傀儡将軍となることを受け入れ、家康の死後は幕府の基礎をしっかりと築いた徳川秀忠・・・
この2代将軍の実直さ、謙虚さ、賢さがあったからこそ江戸幕府は260年以上続いたと言って過言ではありません。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村



2020年5月、戦国史を揺るがす大発見がありました。
京都御苑の一角で、巨大な城の痕跡が400年ぶりに見つかったのです。
城の名は京都新城!!
当時の資料には登場するものの、その正体は幻とされていた城です。
さらに、金箔河原も出現。
五七の桐と呼ばれる紋様は、豊臣家を象徴するものです。
この城を築いたのは豊臣秀吉。
一代で天下人に上りつめ、戦国乱世に終止符を打った英雄です。
東西およそ400m、南北およそ800mに及ぶ壮大な城郭は、秀吉が無くなる1年前に築かれたことがわかっています。
秀吉が京都新城に込めた狙いとは・・・??



最晩年、病に侵されながら幼い秀頼を後継者と定めた秀吉・・・
徳川家康を信頼し、後事を託しました。
ところが!!秀吉の死後、家康は秀頼から転嫁を簒奪!!
豊臣家は敢え無く滅亡したとされてきました。
しかし、京都新城の発見によって、秀吉が秀頼と豊臣家を守るため周到な布石を打ってきた可能性が出てきました。
知略を駆使して戦国を駆け抜けた秀吉・・・
その最期の戦略、知られざる終活プラントは??

1582年6月2日、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により壮絶な死を遂げました。
本能寺の変です。
この時、織田家の有力家臣の中でいち早く抜きんでたものこそ羽柴秀吉でした。
逆心・光秀を討伐することに成功した秀吉・・・
卓越した軍略で、織田家筆頭・柴田勝家を破り、莫大な経済力で最大のライバル徳川家康を圧倒しました。
しかし、この時秀吉はすでに50歳近かったのです。
天下を掌握し、自らの覇権を維持するためには何をするべきか、盤石な政権を築くことが秀吉の課題でした。
大きな壁のひとつが、出自の問題でした。
九州の有力大名・島津氏は、秀吉の出自をこう記録しています。

”秀吉はまことに由来なき人物である”

農民出身の秀吉を、由緒のない低い身分の者とさげすんでいるのです。
そこで秀吉は、出自の問題を克服するため、朝廷の権威を利用しようとしました。

1584年10月、秀吉は、朝廷から従五位下(佐近衛権少将)に任じられました。
従五位下とは、殿上人として昇殿を許される最初の位です。
さらにその翌年、秀吉は異例の速さで昇進・・・関白にまで上り詰めました。
この時、朝廷から豊臣の氏を賜り、以降、豊臣秀吉と名乗ることとなります。
当時来日した宣教師は、その衝撃をこう記しています。

「秀吉が下賤な家柄から出世し、わずかばかりのうちに突然日本最高の名誉を手にしたことは、日本人すべてを驚嘆させずにはおかなかった」

さらに秀吉は、大名たちの統制をはかるために、独自の戦略に打って出ます。
秀吉の苗字である羽柴の姓を、有力大名に下賜する授姓という政策です。
徳川家康、毛利輝元、小早川隆景・・・いずれの大名も、羽柴と名乗っています。
一国以上もつ大名はほぼ全員が羽柴になって、羽柴姓だらけになる非常に珍しい体制となりました。
家制度、家柄を意識する日本社会の中でなかなかできることではありません。
秀吉は、自分自身が持っていなかったということもあってか、疑似的な一族意識、連帯感を持ちたかったのです。
そうせざるを得なかったのです。
しかし、秀吉にとって最大の問題は後継者問題でした。
秀吉と北政所の間には、実子がいませんでした。
その為秀吉は、信長をはじめ家康や前田利家など有力大名の子供を養子とし、家督相続に備えていました。
ところが・・・秀吉53差の時に淀殿が鶴松を出産。
これで後継者問題はひとまず落着しました。
その翌年・・・1590年7月、秀吉は小田原合戦で北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
この時点では、秀吉、豊臣家の天下は末永く安泰であるかに見えました。

実子・鶴松を正統な後継者とするため、秀吉はその下地作りを始めます。
有力大名の養子を他家へと転出させる一方、養子同志を婚姻させ、一族の結束を図りました。
ところが・・・そんな秀吉に火が気が襲いかかります。
1591年8月、鶴松死去。
秀吉の後継者問題は、再び暗礁に乗り上げます。
そこで秀吉は、自分の姉の子・甥の秀次を新たな養子としました。
血縁のある者が少なかった秀吉にとって、既に成人し、自らの天下統一を支えてきた武将は秀次しかいませんでした。
1591年12月、秀吉は秀次に関白職を譲ります。
正統な後継者としました。
養子となった秀次に、関白職のみならず聚楽第まで譲ります。
秀吉は、秀次に国内の政を任せると、海外制覇への野望を抱くようになります。
1592年4月、文禄・慶長の役が始まります。
総勢30万の軍勢が、朝鮮に侵攻しました。
鶴松が死んだことで、秀吉は動揺しました。
秀吉自身が大陸に行くということで、国内のことを誰かに任せなければなりませんでした。
そうなると、秀次を跡継ぎにとなりました。
自分が日本を留守にする間の総責任者として秀次を指名したのです。
しかし、1593年8月、秀吉が57歳の時に予想だにしない出来事が起こりました。
淀殿が再び懐妊し、拾・・・秀頼が生まれました。



秀吉の天下を受け継ぐ者はひとりだけ・・・!!
実子・秀頼か、関白・秀次か・・・??
果たして秀吉の選択は・・・??

当時の秀次側近の記録には、秀頼と秀次の娘が婚約を結ぶべきと秀吉が命じたとあります。
つまり、秀吉は、当初秀頼を関白・秀次の後継者とすることでこの問題を平和裏に解決しようとしていました。
秀頼が順調に成人を迎えるのか??
もちろん確証はありませんでした。
その期間は、秀次に安定して関白職を任せておけるようにしたいと思っていたようです。

1594年4月、秀吉に病魔が襲い掛かります。
病名は明らかではありませんが、当時の記録には・・・
秀吉は意識不明となり、小便を垂れ流したとあります。
同じ頃、秀吉の朝鮮侵略は膠着状態に陥り、出陣した将兵の間に厭戦気分が蔓延していました。
先の見えない対外戦争・・・自らの病・・・徐々に疑心暗鬼が生じた秀吉は、自らの後継者問題に残酷な決断を下すことになります。

1595年7月3日、奉行衆が秀次を詰問。
秀次とその家臣たちが、秀吉に対する謀反の談合をして、武具などを準備していたためだという・・・
その5日後には、秀次の関白職を剥奪し、高野山に追放。
そして・・・7月15日、秀次は切腹して果てました。
享年28歳とされています。

京都市にある秀次の菩提寺・瑞泉寺・・・
ここに、事件のあらましを記録した縁起絵が伝えられています。
京・三条河原で秀次の正室や側室34人、そして秀次の子供5人が次々と処刑されました。
秀吉は、秀頼の将来に禍根を残さぬように秀次の一族を抹殺しました。
さらにその矛先は、関白の政庁だった聚楽第にも向けられ、跡形もなく破壊しました。

事件後、秀吉は有力大名たちに起請文を提出させます。
第1条にはこうあります。
秀頼に対し、いささかも裏切るような心を持たず、お守り申し上げること。
非情な手段で秀次を排斥した秀吉は、こうして実子・秀頼を正統な後継者と定めたのです。

2020年5月、京都で戦国史に新たな光を当てる大発見がありました。
京都御苑の南東の一角で、秀吉が築いた城の堀跡の一部が見つかったのです。
地中深くから現れたのは、戦国時代に多く見られる自然石を積み上げた野面積の石垣です。
こうした石が、5,6段積み上げられ、その高さは2m以上あったと推定されます。
この城は、当時の記録に新城と記録されていることから京都新城と呼ばれています。
秀吉が後継者となる秀頼のために築いた城です。
さらに、堀跡からは、京都新城の性格をうかがわせる貴重な遺物が発見されました。
金箔瓦です。
金箔が施された瓦には、豊臣家を象徴する五七の桐と、天皇の象徴・菊の紋様が書かれていました。
京都新城は、豊臣の権威というだけではなく、公家の権威、両方兼ね備えたお城でした。
堀跡が発見されたのは、京都御苑の仙洞御所内の一角でした。
その後の調査で、堀の幅はおよそ20mあることがわかりました。
京都新城は、東西400m、南北800mにも及ぶ巨大な城郭だったと推測されています。

江戸時代初めに描かれた絵図・・・京都新城の北側は、公家屋敷に囲まれ、天皇の御所である内裏があったことがわかります。

京都新城とはどのような城だったのでしょうか??
京都市にある西本願寺に、戦国時代に築かれた貴重な建物が保存されています。
国宝・飛雲閣・・・桃山文化を代表する建築のひとつです。
池に面した三層に築かれた楼閣は、来客をもてなす場として使用されていました。
飛雲閣は、これまで聚楽第の遺構と考えられてきました。
しかし、その建築年代が聚楽第より新しい京都新城の年代に位置することから、最近の研究では飛雲閣が京都新城から移築されたものだと推定されています。

京都新城は、周囲を巨大な塀で囲み、塀の中に深い堀が築かれ、城内には庭園の池に面した公家屋敷風の建物などが立ち並んでいたとされています。
聚楽第の中心部とほぼ同じ大きさで、当時、洛中に作られたお城としては最大級でした。
豊臣政権の威信をかけて作られたお城でした。
秀吉が、秀頼の為この地に城を築き始めたのは、1598年4月。
亡くなるわずか1年前のことでした。



秀吉は、どうしてこの地に城を築いたのか??
京都新城の北側に当たる場所に、秀吉が城を築いた理由を紐解くものがありました。
土御門第跡・・・もともとは、藤原道長が屋敷を持っていた場所でした。
時の最高権力の所在したところが豊臣政権の本拠である・・・そんなメッセージが込められていました。
平安貴族を代表する道長の屋敷跡を取り込み、公家屋敷に隣接した場所に城を築いた秀吉。
それは、秀頼を公家と一体化させようとしたためではないかと思われます。
当時、秀頼の年齢は5歳・・・豊臣政権の頂点に君臨するにはあまりにも幼過ぎました。
秀吉は、秀頼を公家化することで、豊臣家を永続させようと目論んだのです。
最晩年の秀吉が築いた京都新城・・・果たしてそれは、秀頼を公家化しようとして築かれたのでしょうか??

1597年4月15日、秀吉は秀頼や家康などを伴い京都新城に入城。
この時、秀頼は朝廷から破格の待遇を受け、わずか6歳で家康に次ぐ位階・従二位権中納言を授けられました。
ところが・・・京都新城から伏見城に戻った秀吉は発病し、そのまま寝たきりの状態になったといいます。
幼い秀頼に、いかに豊臣家を継承させるべきか??
病床の秀吉は、最終的な決断を迫られました。
5月、秀吉は、大坂城の強化を命じます。
そして、秀頼の居城を京都新城ではなく、大坂城と定めたのです。
2003年の大坂城の発掘調査で見つかった全長240mに及ぶ障子堀の跡・・・堅固な大坂城の防御力をさらに高める目的で、秀吉が命令した普請の跡だとされています。
秀吉は、大坂城を改造するだけでなく、有力大名を家族ごと城内に人質として住まわせます。豊臣家を継ぐ秀頼には、朝廷の高い官位だけでなく、武家の棟梁としての働きを期待したのです。
7月15日、秀吉は、有力大名を集め、死後の政権運営を11箇条にまとめたものを披露します。
そこに記されたのは、秀頼を支える大名たちの役割です。
伏見城には徳川家康が居住し、大坂城は秀頼の居城であるから前田利家がお守り役としてすべてお世話願いたい。
秀吉は、特に徳川家康と前田利家に秀頼を盛り立ててくれるよう依頼しました。
そして、8月5日、秀吉は、家康たちにあて最後の遺言を書き残しました。

”かさねがさね秀頼のこと、頼み申し候
 何事もこの他に思い残すことなく候”

この13日後、豊臣秀吉死去。
享年62歳でした。
そののち、秀頼は新たな豊臣政権のTOPとして君臨。
幼い秀頼を石田三成などの五奉行や、徳川家康を筆頭とする五大老が補佐する体制が整えられました。
ところが、やがて徳川家康がその本性をあらわにします。
秀吉が生前に定めた御掟にはこうあります。

”諸大名間の縁組は上様の御意を得て決定すること”

家康はこの御掟に反し、諸大名との姻戚関係を独断で結びました。
さらに家康は、伏見城に居住という秀吉との約束を破り大坂城に入城し、そのまま居座るばかりか新たに天守まで築きました。
家康は専横を極めました。
それを激しく糾弾したのが五奉行の石田三成でした。
やがて二人の対立は、家康を盟主とする東軍と、三成の西軍に二分。
全国を巻き込む内乱へと発展しました。
そのさ中、1600年8月29日、西軍が京都新城の堀や石垣を破壊。
史料には、禁裏のご近所の故なりrとあります。
天皇の御所が、両軍の戦いに巻き込まれないよう配慮したといいます。
秀頼の退去後、京都新城には北政所が移り住んだと記録されています。
この時の破壊に、彼女がどうかかわったのか、真相は定かではありません。

その15日後・・・9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが勃発。
戦に勝利した徳川家康は、やがて征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
豊臣家が滅亡したのは、そのわずか12年後のことです。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村




このページのトップヘ