日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家茂

和宮様御留新装版 (講談社文庫) [ 有吉佐和子 ]

価格:864円
(2018/10/26 08:19時点)
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世紀のロイヤルウエディング・・・それは、今から156年前の幕末・・・孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の結婚でした。
華麗な花嫁行列は、注目の的となりました。

1861年10月20日、花嫁行列が、京から江戸へと出発!!
16歳で降嫁した和宮でした。
総勢2万5000、長さは50キロに及ぶ史上まれにみる豪華な花嫁行列で、江戸に入るまで25日かかりました。
幕府予算の2年分と言われる莫大な費用を投じた世紀のロイヤルウエディングでした。
しかし、花嫁・和宮の心は晴れやかではありませんでした。

住みなれし 都路出でて けふいくひ
           いそぐもつらき 東路のたび

見知らぬ江戸の大奥での暮らしは、苦難の連続でした。
14代将軍家茂の愛に包まれて頑なだった和宮は人を愛することに目覚め大人へと成長していきます。
が、突然の夫の死、幕府存続の危機・・・次々と歴史の荒波が襲い掛かります。
朝廷と徳川の板挟みに苦しむ和宮は、自らの手で運命を切り開いていきます。

「私も、徳川家の滅亡を見ながら生き残るわけにはいかないので、きっと覚悟を決めましょう。」

悲劇の皇女・和宮・・・その姿は、自らの運命に立ち向かった勇敢な女性でした。
気高くたくましく成長するプリンセス・和宮!!

1862年2月、江戸城内で和宮と徳川家茂の婚礼が行われました。
朝廷と幕府の期待を背負って江戸にやってきた和宮、行った先は大奥でした。
大奥では1000人以上の女性が働き、200年の伝統と細かいしきたりがありました。
そこに君臨していたのは、前将軍の正室・天璋院篤姫でした。
薩摩藩から嫁ぎ、夫亡き後も大奥に留まっていました。
和宮より11歳年上の姑でした。

和宮と篤姫は、共に朝廷と徳川のプライドをかけてたいりつすることになってしまいます。
どうして対立してしまったのでしょうか?

1846年孝明天皇の妹として生まれた和宮。
幼いころから皇族としての教育を受け、和歌を学ぶなど何不自由ない生活を送っていました。
損な和宮に家茂との結婚の要請が来たのは、1860年、和宮が15歳の時でした。
幕府と朝廷の政略結婚でした。
きっかけは、ペリー来航でした。外国嫌いの孝明天皇が反対しているにもかかわらず、幕府は圧力に屈し開国に同意してしまいます。
そのため、幕府への批判が日本中でおこります。
そこで、幕府が目をつけたのが、朝廷の権威でした。
天皇の妹・和宮と将軍。家茂を結婚させることで、政権の安定を図ろうとしたのです。
しかし、和宮にとっては受け入れがたい話でした。
それは・・・和宮が6歳の時に11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約していたからです。
さらに、忌まれてから1回も京を出たことのなかった和宮に、江戸へ行くことは恐怖そのものでした。

”夷人が大勢おる関東へ参るなど、とても恐ろしくてできませぬ”

しかし、兄・孝明天皇は、幕府に外国船を打ち払わせるために、和宮に婚姻を勧めます。
それでも首を縦に振らない和宮・・・孝明天皇は、
「関東との縁談を断って、もし有栖川宮と婚姻しても、私が拒むから尼になるがよい。」by孝明天皇
和宮は、止む無く家茂との結婚を受け入れます。

「天下泰平のため まことにいやいやながら 仕方なくお受けするのでございます。」by和宮

1861年16歳の時、和宮江戸へ・・・!!
嫁ぐにあたって、条件を出していました。

”江戸城に入った後も、身の回りはすべて御所風を守ること”
江戸城に入った後も、和宮が慣れ親しんだ御所の習慣を通すと要求したのです。
大奥に入った後、女官は日記に書いています。
”御風違”と書いています。
そしてこのことが、和宮と篤姫が対立する原因となっていきます。

対立は些細なことから始まりました。
嫁入りの際、篤姫の元へ和宮から来た目録・・・そのあて名は”天璋院”・・・呼び捨てで書かれていました。
和宮からすれば、自分より身分の低い篤姫を呼び捨てにするのは当然です。
しかし、篤姫も大奥のしきたりに従わせようとします。
二人が初めて対面した時・・・和宮が座敷に来た時、篤姫は上座に座り敷物に座っていました。
それに対し、和宮は下座で畳の上に直に座らされたのです。
これを見た女官は、朝廷に訴えの手紙を送っています。

”和宮さまは、無念の思いに耐えられないご様子で、私共もお慰めする言葉も見つかりませんでした。”

二人の対立は、和宮の女官280人VS篤姫の女中260人を巻き込み、大奥を二分する戦いに発展します。
そのすさまじさは、大奥のみならず、江戸城内でも噂になります。
幕臣だった勝海舟は、後に語っています。

「和宮と天璋院は、はじめは大層仲が悪かった
 お付きのせいだよ
 あっちでもすればこっちでもするというふうに、競ってそれはひどかった」by海舟

結局、和宮と篤姫との交流は無くなってしまうのでした。
しかし、和宮も逃げ出すつもりはありません。

惜しましな 君(天皇)と民とのためならは 
               身は武蔵野(関東)の 露と消ゆとも

自らの命を惜しまず、天皇と民の為ならば、武蔵野の露と消えても構わない・・・と!!

不慣れな江戸で姑との交流もなく、孤独な生活を送る和宮・・・
そんな毎日に潤いを与えてくれたのは、不本意ながら結婚相手の家茂でした。
和宮と同じ年の若き将軍は、家臣に

「私は和宮を本当に大切に思いたい。
 そうすれば、幕府と朝廷も自然と上手くいくはず。
 表だけ飾るのではなく、心から親しい間柄でいたいのだ。」by家茂

家茂は、自分が将軍であるにもかかわらず、和宮を宮様と呼び、皇女として扱いました。
そんな家茂の気遣いや気さくな人柄は、次第に和宮の心を開いていきます。
結婚から2か月後・・・家茂の乗馬を見学し、そのまま一夜を共にします。
その翌日も、家茂は突然大奥に訪れます。
それは、金魚を和宮に見せるためでした。

和宮が和歌を送ると・・・自ら鼈甲のかんざしを持ってくる家茂。
こうしたやり取りが、二人の間で自然に繰り返されるようになって・・・。
そして、天璋院篤姫との関係も変わってきました。
浜離宮恩賜庭園で語られているのは・・・
和宮、篤姫、家茂が庭に降りようとすると、なぜか家茂の履物だけ踏み石の下に置かれていました。
それを見た和宮は、ぽんとおり、自分の履物を下ろして家茂の履物を石の上に起きました。
かつての和宮では考えられないことでした。
これ以降、篤姫と和宮のいざこざはピタリとやんだといいます。
大奥での暮らしになれ、周囲の人間とも交流し、大人の対応ができるようになってきた和宮・・・

1863年、京では反幕府勢力が台頭!!
家茂はそれを抑え込むため自ら京に向かいます。
和宮18歳の時でした。
以後も緊迫した事態が続いたので、家茂は頻繁に江戸と京を往復します。
無理を重ね、脚気を患ってしまいました。
和宮は家茂の無事を願ってお百度参りをします。
1865年、再び西に向かう前に、家茂は和宮にどんな京土産がいいか尋ねています。

「西陣の織物が欲しゅうございます」

和宮は家茂を送り出します。
しかし・・・1866年7月、和宮にもたらされたのは、家茂の訃報でした。
享年21歳。
夫の亡骸と共に届いたのは、土産に欲しいと頼んでいた西陣織でした。

空蝉の唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ

結婚して4年・・・そのうち夫婦が一緒に暮らすことができたのは、僅か2年余りでした。

最愛の夫を亡くした和宮・・・この時、21歳でした。
朝廷と幕府の結びつきを強めるためのこの結婚・・・いまやその意味を失い、和宮が江戸に留まる理由が無くなりました。

それからわずか1年後・・・大政奉還により幕府は消滅!!
朝敵となった徳川家は滅亡の危機にさらされます。
生まれ育った天皇家と嫁ぎ先の将軍家・・・両家の板挟みにあう和宮。
この時、江戸を離れて京に戻ることもできました。
しかし、和宮は江戸に残り、徳川家存続のために必死の奔走を始めたのです。
どうして徳川家のために命をかけたのでしょうか?

亡き家茂の跡を継いで将軍となったのは慶喜でした。
1867年京の二条城・・・ここで、慶喜は大政奉還を表明しました。
夫・家茂が命がけで守ろうとした徳川家は、あっけなくその幕を閉じたのです。
1868年、和宮23の時に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を西郷率いる新政府軍が撃破!!
さらに錦の御旗を掲げて徳川を朝敵とし、江戸城へ進軍を始めました。
江戸へ逃げかえった慶喜は、新政府軍に恭順の意を示し、和宮を通じて和平を模索します。
しかし、何の相談もなしに幕府を終わらせ泣きついてきた慶喜に、和宮は憤慨し、面会を拒否します。
この時、和宮と慶喜を仲介したのが天璋院篤姫でした。

同じ大奥にいながら交流のなかった和宮と篤姫・・・。
しかし、家茂亡き後、二人の間は深まっていました。
篤姫もまた、結婚してすぐに夫を亡くすという経験をしていたからです。
和宮を保護しようという気持ちが高くなっていたのです。
和宮も、その気持ちが解るので、天璋院を頼るという心境になったのです。

江戸城にいた旧幕府上層部は、徹底抗戦と時代の流れを読めない者ばかり・・・。
慶喜から事態の解決を頼まれた和宮と篤姫・・・徳川の命運は、土壇場でこの二人に託されました。

この頃の和宮の日記には・・・
朝廷の味方をすれば徳川家から不義となり、徳川家のために義を通せば兄に対して不貞になる
本当にどうすればいいのか
それでも、後世まで清き名を残したい
と書かれています。

そこには、かつて江戸に嫌々嫁いできたか弱い皇女の姿はありませんでした。
自分の家族ともいうべき徳川家を守る母の姿でした。
和宮は新政府軍に謝罪し、寛大な処置を求めます。

何卒 私へのお慈悲とおぼし召され どうか徳川家をおとり潰しにならぬようお願い申し上げます。
徳川家が滅ぶようなことがあれば、私も生きていくわけには参りません。

しかし、新政府軍の進撃は止まらない・・・
江戸城総攻撃は3月15日に決まります。
100万人が暮らす江戸に、戦火の危機が迫りました。
すでに慶喜は江戸城を去り、ほとんどのものはなすすべなく・・・かろうじて勝海舟らが動いていました。
主なき城に取り残されたのは、数百人の大奥の女性たち・・・
城中に不安な空気が・・・そんな中、和宮は訴えます。

「朝廷から寛大な処置がもらえるよう謹んで行動するように
 万一、心得違いの者がいれば、徳川家もこれ限りになります」by和宮

3月11日、江戸城総攻撃まであと4日・・・
既に江戸は、新政府軍によって包囲されていました。
ここで、和宮と篤姫は最後の手に打って出ます。
篤姫は同じ薩摩出身の西郷隆盛に手紙を・・・和宮は新政府軍総督に直接手紙を書きます。

「どうか・・・私の心中をお察しください。
 江戸へ軍勢を進めるのは今しばらくご猶予くださるようお願い申し上げます。」by和宮

1868年4月11日、和宮の願いは届きます。
新政府軍との和平が成立・・・江戸は一切戦火に見舞われることなく新政府に明け渡されました。
そして、徳川宗家の存続も約束されたのです。

和宮の懸命の嘆願に寄って平和の訪れた江戸・・・一方徳川宗家は、静岡に移されました。
隠居した慶喜の跡を継いだのは、かつて家茂が跡継ぎに指名していた徳川家達6歳でした。
和宮は家達が静岡に引っ越すまで東京と言う名を変えた江戸で暮らし見守りました。
この時期の和宮の日記には、家達の名が頻繁に出てきています。
我が子同然だったようです。
24歳の和宮は、8年ぶりに京に戻ります。
京では聖護院に住み、泉涌寺や孝明天皇や光格天皇の墓所に・・・お墓参りをなさっていたようです。
祇園祭を見物し、嵐山で紅葉狩りをし、気ままに過ごします。
しかし、いつも気にかけていたのは家茂のことでした。

「京に住むことになれば安心ですが、来春の家茂さまの年季には、江戸に戻りたいと思っています。」by和宮

1874年29歳の時に再び東京へ・
そして、家茂のいる増上寺の見える場所を住まいとします。
この頃、和宮が読んだ歌が残っています。

玉敷の みやこもひなも へたてなき
         年を迎うる 御代のゆたけさ

都も田舎も隔てなく、年を迎えられる この時代の豊かさよ

1877年9月2日、和宮は療養中の箱根でその生涯を閉じます。
享年32歳でした。
亡骸は、和宮の遺言により、増上寺に眠る最愛の夫・家茂の隣に葬られました。
和宮の市からおよそ80年後の1958年、墓地の改装が行われることとなり、和宮の墓が掘り起こされました。
棺を開けると、和宮は一枚のガラス版を抱きかかえていました。
それは、生前の家茂を映した写真でした。
幕末の動乱の中、世紀のロイヤルウエディングをあげて波乱の生涯を閉じた和宮・・・
あれから150年余り・・・和宮と家茂は今も仲睦まじく、寄り添うように眠っています。

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今年9月3日、秋篠宮家長女・眞子内親王のご婚約内定に、日本中がお祝いムードに包まれました。
お相手は大学時代の同級生。
自由恋愛の末、内親王自らがお相手を選ばれたことで注目を浴びました。

今から100年ほど前の文久元年10月20日・・・
京都から絢爛豪華な婚礼行列が出発しました。
花嫁は時の孝明天皇の妹・和宮親子。。。嫁ぐ相手は、徳川幕府14代将軍徳川家茂です。
当時、1853年の黒船来航に端を発した攘夷運動によって、日本中が混乱!!
失墜した幕府の権威を朝廷の力をもって回復するという公武合体が進められました。
その象徴として、皇女和宮が家茂に嫁ぐこととなったのです。
天皇の娘である皇女が武家である徳川との前代未聞の結婚・・・。
中山道を進む花嫁行列は50km。
一つの宿場を通るのに、4日かったといいます。
その人数は、道中の警護も含めると、3万人、総費用は740億円といわれています。

和宮一行が江戸に着いたのは、10日20日に京都を出発してから11月5日・・・。
その翌年・・・1862年2月11日に婚儀が行われました。
慣れない江戸での暮らしにかたくなな態度の和宮でしたが、優しい家茂に次第に心を開き、二人は仲睦まじく家茂が亡くなるまで幸せに暮らしました。 

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江戸時代末期・・・1860年3月3日、季節外れの雪が舞う江戸城桜田門の前で、前代未聞の事件が起こりました。
桜田門外の変です。
暗殺されたのは、幕閣・大老・井伊直弼!!
戦国の世を生き抜いた井伊直虎、徳川四天王の井伊直政の末裔です。

事件を起こしたのは、水戸浪士ら18人!!
対して直弼は60人もの大行列を従えていました。
僅か3分・・・どうして直弼はあっけなく殺されてしまったのでしょうか??

井伊直弼が大老に任ぜられたのは1858年のこと・・・44歳の時でした。
直弼は、幕府が直面していた2つの問題を直ちに解決しなければなえいませんでした。
一つは跡継ぎが居なかった13代将軍・家定の後継者を誰れにするかと言う事・・・
この時、一橋派(一橋慶喜を推す)と南紀派(徳川慶福)に対立していました。
南紀派だった井伊直弼は、一橋派だった徳川斉昭を押さえ、慶福を第14代将軍徳川家茂としました。

もう一つはアメリカとの通商条約・・・
1853年の黒船来航以来、アメリカは日本に条約締結を強く求めていました。
直弼は、アヘン戦争以降、清が西洋列強に侵食されていることに鑑み・・・日本が植民地化されないためには、条約調印も止む負えないと考えていました。

しかし・・・開国を望んでいなかった朝廷は、条約調印を許可する勅許を出そうとしません。
そこで、直弼は、1858年6月・・・朝廷の勅許なしに、日米修好通商条約調印を断行!!
これに怒ったのが、将軍継承問題で対立していた前水戸藩主・徳川斉昭でした。
攘夷派の大名たちを引き連れて、江戸城に押しかけてきました。

「直弼を切腹させるまでは、城から出ぬ!!」

しかし、大名がさだめられた日以外に登城するのはご法度・・・
直弼は、禁を破った斉昭に、水戸城内の一室に永蟄居を申し付けたのです。
この厳しい沙汰に水戸藩は黙っていません。
井伊直弼打倒のために、朝廷に働きかけます。
すると、朝廷は幕府の勝手な調印を非難するとともに、戊午の密勅を下しました。
幕府の家臣である水戸藩に、直接勅書が下されることは、前代未聞の事でした。
幕藩体制が崩れてしまう・・・
直弼は、国家の争乱を防ぐために、弾圧を開始しました。
勅書を手配した水戸浪士、攘夷派、反幕思想を持つ者、公家などを、次々と牢へ・・・安政の大獄です。
処罰されたのは75人・・・8人が切腹や死罪となりました。
人々は直弼の政治を恐怖政治と恐れました。

すべては幕府の威信を守るため・・・これが、周囲から大きな恨みを買う原因となっていきます。
1859年12月、直弼は水戸に下した勅を返納せよという新しい勅書を朝廷に出させます。
流石の水戸も、朝廷の決定なら・・・と、勅書の返納を決めましたが・・・しかし、水戸藩の過激派が大反発!!
「朝廷をないがしろにし、外国に媚び諂う幕府のあやまちを我々が正す!!」
と、脱藩し、幕府に鉄槌を下すべく、江戸へと向かいました。

1860年3月1日・・・事件発生2日前・・・
江戸に潜入した水戸浪士たちは、日本橋の待合茶屋で計画を練ります。
襲撃部隊は、総指揮者の関鉄之助、見届け役は岡部三十郎・薩摩浪人有村次左衛門など総勢18名。
狙うは大老・井伊直弼の首一つ!!

3月3日は井伊直弼は確実に登城する!!
彦根藩邸から60人を引き連れて、500m離れた桜田門へ・・・
その日は朝から、季節外れの雪が降っていました。

1860年3月3日午前7時ごろ・・・
水戸浪士ら18名は、愛宕神社に集結!!
雪が降りしきる中、江戸城・桜田門へ向かいます。
桜田門付近は、登城の大名行列を見物しに来た人々で賑わっていました。
見物客に交じって井伊直弼を待つ水戸浪士たち・・・。

午前9時ごろ・・・
直弼の行列がやってきました。
桜田門まであとわずか・・・
一発の銃声を合図に、襲撃犯たちは一斉に斬りかかりました。

井伊直弼死亡・・・46歳・・・大老になって2年後の事でした。
犯行時間はたったの3分でした。

どうしていとも簡単に暗殺されてしまったのでしょうか??

①プライドと信念
事件の3日前・・・直弼は水戸藩と親しい間柄の吉井藩主・松平信和から、忠告を受けていました。
「水戸浪士が不穏な動きをしております。
 身の危険がある故、早急に警護を増やしてはいかがか・・・??」by信和
「諸侯の警護の数は、幕府が定めるところ。
 大老自らそれを破っては、他の者に示しがつかぬ。。。」by直弼

直弼には、幕府の秩序を守り抜くという信念がありました。

事件当日早朝にも・・・
「水戸浪士が襲撃を計画しています故、十分注意されよ」と文が・・・

直弼はこれも無視、誰にも相談することなく登城したのです。
過去に、大名行列が襲撃され、藩主が殺される例などありませんでした。

②天気
お供の者たちは、雨合羽を着て、柄袋で刀を覆っていました。
柄袋をほどいて、かじかんだ手で刀を抜くのは難しく、反撃が遅れ斬られてしまった・・・。

この事件で襲撃側の死者は1人でしたが、彦根藩側は8人の死者、深手は多数出したのです。
知らせを受けて来た彦根藩士たちは、死傷者を運び、主君の遺体を駕籠に乗せると、急いで藩邸に戻っていきました。
藩邸ですぐに、直弼を検死・・・
「太ももから腰にかけて銃弾が貫通している・・・!!」
右太ももから腰に・・・銃弾が貫通していました。

天寧寺にある供養塔には、直弼の遺品が埋められています。
しかし、一つだけ埋められなかったもの・・・
それは、桜田門外の変の時に駕籠に敷いていた座布団でした。
その座布団の血の跡から、斬られたのではなく、銃によるものでは・・・??
事件の時に聞こえた銃声は一発・・・。
これまで総指揮者である関鉄之助が襲撃の合図のために撃ったとされてきましたが・・・
しかし、その一発が直弼の致命傷になったのか・・・??


関の位置からでは、普通に撃てば上から下に貫通するはず・・・
もう一人拳銃を持っているものがいました。
襲撃者の記録には、鉄砲所持・関鉄之助、森五六郎とあります。
森五六郎は、書状をもって、一番に乗り込んだ男です。
駕籠の前でひれ伏している五六郎なら、右太ももから腰に貫通するのもわかります。
検死報告と同じ角度になるのです。
しかし、事件後、五六郎を一時預かっていた臼杵藩の家臣の記録によると、森自身は発砲を否定しているのです。
誰が直弼を撃ったのか・・・??
近年、森が持っていた拳銃が発見されました。
森五六郎は、書状を出した瞬間、刀で切りかかったのではなく、直弼に向かって発砲したという証言もあります。

明治まで生き延びた海後磋磯之介の記録によると・・・
直弼の駕籠の近くにいる森五六郎は、「直訴状差し上げ、駕籠に訴えると見せかけて短銃発砲」と書かれてあります。
森は、銃を発砲する役割も担っていたのです。
より確実に、直弼暗殺を成功させるため、至近距離から駕籠を襲撃したのです。
周到に計画を練っていたことが伺えます。
襲撃者の多くは逃亡を断念し、直弼を撃った森五六郎は取り調べの際・・・この拳銃は行方不明となっていました。

井伊直弼を撃った短銃のグリップは、高級木材・紫檀でできていて、全体的に桜の文様が・・・
贅を尽くしたこの拳銃・・・似たようなものがあります。
アメリカコルト社の51ネイビー(コルトM1851)です。
51ネイビーは、ペリーが来航した際に持ってきた拳銃で、日米和親条約が結ばれた際に、幕府高官に送られました。
その拳銃が桜田門外の変で使用された・・・??
拳銃は複製されたようで・・・水戸藩・斉昭の指示によるものでした。
斉昭は、開国に当たって直弼と対立しているときに、水戸藩内に武器の製造工場である「神勢館」を設立していました。
当時の日本では、水戸藩の製造技術は特に優れたものでした。

事件後幕府は、厳しい尋問を行いました。
その時、執拗に問いただしたのが、徳川斉昭の関与です。
ことごとく直弼と対立していた斉昭・・・その結果、永蟄居の憂き目にあった斉昭・・・。
直弼を恨んでの仕業ではないか??と疑われたようです。

しかし、斉昭は、攘夷を目指していたものの、過激に推し進めようとする浪士は認めていませんでした。
なので、斉昭が黒幕だったとは思いにくいのです。
水戸藩では武器の製造が盛んにおこなわれていたので、水戸藩士なら入手しやすかったようです。

江戸城桜田門の前で暗殺された井伊直弼・・・
その亡骸は、彦根藩士たちによって藩邸に運ばれましたが、胴体だけでした。
討ち取られた首はどこへ・・・??
浪士たちは品川から船で京へ運ぶ予定でした。
しかし、首を取った薩摩浪士・有村次左衛門は傷を負っていたので、ある大名屋敷の前で力尽きてしまいました。
この首を預かってほしい・・・そう言うと、自害!!
まもなく噂を聞きつけた井伊家家臣が引き取りにやってきました。

証文と引き換えに首を持って行ったのですが・・・
そこには「井伊家家臣 加田九郎太の首」と書かれていました。

井伊家の菩提寺・豪徳寺に直弼は葬られました。
墓石によると亡くなった日は、閏3月28日とあり、暗殺された3月3日ではありません。
事件のあった年は、暦のずれを直すために、3月が2回ありました。
閏3月28日は・・・事件から2か月ほどたった時の事です。
どうして実際の死亡日と2か月も違うのでしょうか?

それは、直弼が世継ぎを決めずに亡くなっていたからです。
世嗣を決めずに藩主が死んだ場合、お家断絶になるのが決まりでした。
藩主が襲われて命を落としたというのはもっと悪い事・・・
彦根藩の失態による藩の取り潰しから免れるために隠蔽工作をしていたのです。

さらに・・・死んだはずの直弼からの手紙を幕府に提出しています。
3月3日の登城欠席届を・・・
「暴漢に襲われ応戦したが、負傷したため登城できず帰宅した」
直弼が生きていたかのように取り繕ったのです。
直弼が負傷したとしてしまったために、屋敷には見舞いの者が・・・
家臣たちは、直弼の首と胴体を縫い合わせ、布団に寝かせ、ケガで臥せっているかのように見せかけます。
しかし、直接寝所に見舞わせることなく、玄関で終わらせます。
江戸城外で、多くの者が見ている中でのこの事件・・・
幕府は知らなかったのでしょうか??

彦根藩の隠蔽工作には、幕府も関与していたようです。
江戸城近くで、大老がいとも簡単に殺された。。。
それは、幕府の権威失墜につながります。
幕府は権威が揺らぐのを恐れて、隠蔽に加担したのです。
もし、彦根藩をとり潰せば、その原因を作った水戸藩に対しても何か処分をしなければならなくなる・・・
出来るだけ穏便に治めたかったようです。
襲われたけれど、後にその傷が元で亡くなったと・・・。

隠蔽工作で時間を稼いだ彦根藩は、直弼の子・直憲で相続願を提出。
幕府がこれを認めたことで、なんとか彦根藩はお家断絶を免れることができました。

直弼は、勅許なしで条約を締結、それに反対する者を弾圧・・・
多くの敵を作ってしまいましたが、そこにはいつも強い信念がありました。
「幕府の権威を取り戻し守る!!」
暗殺される5年前、家臣に宛てた手紙には・・・
「恐ろしさのあまり、薄氷を踏む思いである」
その手紙と共に極秘の手紙が・・・
そこには自身の戒名を書いた一片の句が・・・
すべて覚悟の上の事だったのです。

井伊直弼が暗殺された事件は、広く知られることとなり、幕府の権威は失墜・・・長く続いた太平の世は終わりをつげ、動乱の時代の幕開けとなったのです。 



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>幕末の魁、維新の殿 徳川斉昭の攘夷

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>幕末nippon 日米修好通商条約の光と闇 尊王攘夷への道 黄昏の大君の都

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今からおよそ150年前、東京の礎を築いていた江戸の街は危機に瀕していました。
1868年・・・新政府軍VS旧幕府軍との戦い・・・戊辰戦争です。
100万人が暮らす江戸が戦火の海になる可能性がありました。
その危機を救ったのが、勝海舟と西郷隆盛の会談・・・男たちの英断によって江戸は救われ、近代国家の道へ・・・!!
しかし、その成功への道筋には、大奥の二人の女性の命がけの選択がありました。
天皇家から徳川家に降嫁した皇女・和宮と、その姑として大奥に君臨した天璋院篤姫でした。
この時・・・将軍は朝敵とされ、男の政治が機能しなくなり、大奥には女性たちが取り残されていたのです。


1861年10月20日京都・・・日本史上かつてない婚礼が行われようとしていました。
京から江戸へと向かう降嫁の行列・・・花嫁は仁孝天皇第八皇女・和宮です。
輿入れの行列は豪華絢爛・・・警護まで含めると総勢およそ3万人!!
行列の長さは50㎞に及び、全部通過するのに4日間かかったと言われています。
その輿入れの道中には、歌碑が残されています。

「住み馴れし 都路出でて けふいくひ
          いそぐもつらき 東路のたび」

和宮は当初、この婚礼を望んでいませんでした。

1853年、ペリーが来航し、武力で開国をせまりました。
対応を迫られた幕府は、朝廷の勅許を得ることなく・・・
1858年安政の五ヵ国条約を締結。開国に踏み切りました。
これに対し、尊王攘夷派が激しく反発!!
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺!!
徳川幕府の権威は大きく失墜してしまいました。
権威回復のために、天皇の威光を利用しようとします。
そうして考え出されたのが、公武合体論です。

そのシンボルとして画策されたのが、第14代将軍・徳川家茂と皇女の婚礼だったのです。
そして白羽の矢が立ったのが・・・当時14歳だった皇女・和宮でした。
すでに婚約者がいた和宮・・・尼になると固辞します。
が・・・政治に興味のあった孝明天皇は幕府に交換条件を出します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
幕府は攘夷を約束し、孝明天皇は和宮降嫁を内諾します。
兄から強く諭された和宮は、この政略結婚を受け入れるほかありませんでした。

輿入れの道は、公武合体に反対する反幕府派の襲撃に備え、東海道を避け、警護をしやすい中山道が選ばれました。

行く先々での祝賀ムードに・・・

「惜しましな 君と民とのためならは
       身は武蔵野の 露と消ゆとも」

京を出発して25日目・・・1861年11月15日、ついに江戸に到着!!

和宮は将軍の正室・御台所として大奥に入ります。
大奥・・・常に1000人以上の女性が暮らし、250年の細かいしきたりと歴史がありました。
公武合体の使命を背負い、大奥に入った和宮に立ちはだかったのが、当時大奥の頂点に立っていた天璋院篤姫です。
篤姫は薩摩に生まれます。
名は於一(おかつ)。実家は薩摩藩島津家の貧しい分家でしたが、藩主・島津斉彬から忍耐力や才能を見込まれ養女となりました。
篤姫は幕政に対する発言力を強めようとした斉彬ために、第13代将軍家定に嫁ぎました。
その輿入れには、嫁入り道具の調達をした西郷隆盛もいました。
夫亡きあとも、次の将軍となった家茂の養母として大奥を取り仕切っていた篤姫が姑となります。

女官によると・・・二人は御風違い(作法やしきたりの違い)を感じています。
女の園・大奥で、朝廷と武家・・・それぞれの歴史と文化を背負って向き合うこととなるのです。

幕末の京都・・・天誅の名のもとに尊王攘夷派が暗躍!!
役人が次々と暗殺され・・・不穏な空気が・・・。
1863年2月、孝明天皇を命を受け、大軍を率いて上洛。
結婚の条件だった攘夷実行を迫られるのでした。
篤姫は心配し・・・
「京でのご滞在が長くなり、心配しております。
よく後先を考え、何事もうかつになさいませんようにお気を付けください。」
妻・和宮も身を案じ・・・
「京の都はいかがでございましょう。
 お慣れではない土地ゆえ 寒さもひとしおお厳しく思われることと存じます。
 ずいぶんとずいぶんとご用心なされますように。」

しかし、緊迫した状況の中で、家茂は体調が悪化していきます。
1866年7月将軍・家茂急逝・・・。 
和宮のもとには家茂の亡骸とともにお土産の京の西陣織が・・・。
「空蝉に 唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ」

家茂亡き後、英明と謳われた慶喜を将軍に選びます。
江戸を離れ、京で様々な政治工作を行っていた慶喜は。。。
大政奉還・・・徳川幕府の幕を下ろしました。
薩摩藩の西郷隆盛らはこれを機に徳川家排除を画策、新政府を樹立したのです。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発!
新政府軍は圧勝しました。
戦いに敗れた慶喜は、兵を残したまま江戸を離脱、船で江戸へ敗走!!
朝廷からは慶喜の追討令が発令します。
錦の御旗で官軍となった新政府軍・・・。
江戸城に戻った慶喜・・・朝敵となった慶喜が、救いを求めたのは篤姫と和宮でした。

和宮は、攘夷が果たされず・・・京へ帰る・・・??
篤姫は徳川家に嫁いだ以上、家を残さなければ!!
戦いは避けられない・・・新政府軍と一戦交える・・・??

二人で命を懸けて江戸城に留まり和平を目指す??

江戸城総攻撃目前・・・絶体絶命の中、二人がとった選択とは??

1868年2月15日、江戸進軍開始!!
各地の藩の多くは武力抵抗せず、新政府軍は兵力を温存したまま江戸へ!!
江戸城総攻撃は3月15日に決定!!
4日後に迫った3月11日、和宮と篤姫は江戸城に残り・・・和平を目指して動いていたのです。
和宮が最後の望みをかけて書いた「和宮哀訴状」手紙の相手は、先鋒隊総督で公家の岩倉具定・・・幼馴染でした。
和宮は江戸を戦火から守るためになんとか進軍を止めてほしいと強く訴えます。

時を同じくして篤姫は3mに及ぶ嘆願書を・・・相手は、新政府軍の参謀として実権を握る西郷隆盛でした。
西郷はこの手紙を読んで涙を流したと伝えられています。
総攻撃目前の3月13日から14日にかけて西郷と勝が会談し、総攻撃は中止と決定されました。
この決定を受け篤姫は幕臣たちに通達を出します。
「江戸城総攻撃は見合わせになったが、もし不心得者がいると徳川家の一大事になる。
 これまでの努力も無に帰すので、心得違いなく静謐を保つように。」
大奥からの異例の通達でした。

1868年4月11日、江戸城明け渡し

大奥の歴史にも幕が下りました。

新政府軍が城を引き取りに行ったとき、大奥は美しく整えられていました。
明治を迎えた後も、篤姫と和宮は徳川家を残すことに力を合わせます。
徳川御三卿田安家の跡取り・亀之助が徳川宗家を継げるように嘆願し、徳川宗家16代当主・徳川家達となります。
篤姫は東京・千駄ヶ谷で家達を養育し・・・
1883年篤姫逝去・・・享年49。薩摩に帰ることなく、徳川の女としてその生涯を閉じたのでした。

一方和宮は・・・1877年に享年32歳でなくなります。
遺言のより、その遺体は亡き夫の傍らに葬られました。

女たちの江戸城無血開城・・・和宮と篤姫は命がけの選択で時代の始末をつけ、大都市・東京の繁栄の道をつないだのです。


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新選組局長近藤勇―士道に殉じたその実像

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1864年6月5日・・・幕末の日本を揺るがす大事件が勃発します。
世にいう池田屋事件です。
新選組の目的は、過激な浪士の放火テロの阻止でした。
激しい戦闘の末に、新選組が鎮圧します。
これによって、局長・近藤勇は京都を大火から救った英雄に・・・新選組の名は天下に轟くのです。
しかし、この騒動で多くの長州人がなくなり・・・長州の恨みを買うことになります。
その後、池田屋事件の抗議に始まり長州藩は京都に兵を進め、軍事衝突が・・・!!
戊辰戦争の終結まで動乱の時代となるのでした。

近藤勇は”剣=武”のイメージが強いですが、自分の言葉をしっかりと人に伝えることのできる”政治家”でした。

そんな近藤勇が育ったのは、江戸郊外にある多摩。
裕福な農家が多く、近藤は農家の三男でした。
15歳で剣術をはじめます。
三男では家を継ぐことができないので、剣で生きていこうとしたのです。
多摩地方は治安維持のために剣術を学ぶものも多く、剣で食べていくことができました。
近藤は道場主の養子となり、28歳で道場を継ぎ、各地を回りました。
東京・町田にある小島家でも剣術を教えていました。
そこには近藤の稽古着が残っています。
背中には、妻に縫わせた髑髏が・・・。

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戦いで倒れ、野に屍をさらすことになる・・・そうなっても構わないという覚悟の現れです。
その頃道場には、新選組の主なメンバーとなる沖田総司・土方歳三などが集まってきていました。
後に近藤と行動を共にした永倉新八は・・・
稽古が終わると、国事を愁い議論を交わしていたそうです。


当時江戸幕府は、欧米列強諸国の圧力に屈し、開国を約束。。。
これに対し、京都では攘夷の命令が下されました。

防衛の最前線である薩摩・長州は単独で攘夷を決行し、幕府に開国撤回を要求します。
幕府は、諸外国と攘夷派の板挟みにあい、政治は混乱を極めました。
当時の日本の若者の多くは、攘夷に傾いていたようです。
じっとしてはいられない!!という雰囲気が、下層・下級武士・郷士に広がっていきました。

自分達の力を生かせないか???と思っていたところにチャンスが回ってきました。
幕府の浪士募集の知らせです。
任務は京都に向かう14代将軍家茂を護衛するという。
将軍の京都行きは、天皇の攘夷命令を直に受けるためのものでした。
この頃京都では、天誅が流行っていました。
治安が乱れていたのです。
要人の暗殺や放火が頻繁に起こり、それを取り締まる役人にも迫ってきました。

近藤たちの心を動かしたのは・・・
「尽忠報国之志」があれば、身分は問わないというところでした。

幕府に召し抱えられるわけではなく、給与も支給されないが、将軍の先駆けとなって攘夷を実行できる!!

京都についた近藤たちは、市中の見回りをしていた会津藩・松平容保のお預かりとなります。
そこで、会津の精鋭部隊の名前である”新選組”を許されるのです。
新選組は期待に応え、不逞浪士たちを取り締まっていきます。
京都市壬生で・・・100人の隊士たちが生活していました。
休んでいる時は隊旗を振り回して遊んでいた隊士たちも、出番となれば覚悟の上で屯所から出ていきました。
無給で命がけで働く新選組・・・しかし、京都の人は決して温かくはありませんでした。
みすぼらしい恰好を、”壬ぼろ”と揶揄し、無礼、暴言もありました。
そんなことは気にしない近藤。。。

京都の老舗の茶屋で行われた幕府や各藩の代表が集まる会合で・・・
近藤は・・・
「長州や薩摩は単独で攘夷を行っているが、徳川将軍の元一つになって攘夷を行うべきである」
と、進言しています。
この主張に誰もが感心したといいます。

あるとき、幕府の閣僚に呼び出された近藤。。。
新選組の隊士全員を、幕府の臣下に取り立てたいという話・・・
しかし、近藤は断ります。
攘夷をなさないうちに給与をもらう身分となってしまったら・・・気が緩む者も出てくると考えたのです。

現実的には攘夷ではなくなっていきます。
薩摩藩が開国に・・・
そして近藤の希望が打ち砕かれた日・・・それは、天皇に呼び出されていた家茂が、攘夷の気概を見せることもなく、近藤たちを残して江戸に帰ってしまったのです。
近藤は、京都に居ても攘夷は出来ないと悟ってしまいました。。。
隊士を結束させていた攘夷という目的を失ってしまったのです。

1864年、近藤は新選組の解散を決意し、上申書を提出します。
京都には攘夷のために来たのであり、果たせないならば解散させてほしい・・・。
池田屋事件の1か月前のことでした。

つまり・・・池田屋事件までは、攘夷をやるために市中警備をやっていたようです。
近藤の攘夷も、長州の攘夷も全く一緒で・・・
違うのは攘夷を行う主体者・・・つまり征夷大将軍である徳川家茂と天皇の違いなのです。
どうして家茂なのか???
近藤勇の出身地・・・多摩が幕府の領地だったことに大きく関係しているでしょう。
天領は税金が安く、農民が豊かでした。
農民でも剣術ができる・・・そして天領の百姓としての自負もあったのです。

京都についたときは1963年2月・・・
この時、天皇に働きかけていたのは長州藩でした。
町の中では、脱藩した過激派浪士が暗殺・放火を行ってる状態でした。
新選組の最初の任務は、この過激派浪士を取り締まることだったのです。
ところが・・・8月18日・・・八・一八の政変によって、長州藩が京都を追放されてしまいました。
長州藩の人間は、京都への立ち入りを禁止されてしまいます。
そこで、長州藩は非合法に藩士を潜伏させ・・・潜伏浪士に暗殺や放火を命じたのです。
新選組の対象は、潜伏志士だったのです。
より過激に・・・より過激に・・・

池田屋事件・・・事件の発端は、この池田屋で放火テロの密談が行われている・・・という疑惑でした。
1964年6月・・・京都に長州藩士が集まってきているという情報が・・・!!
この時期、長州藩士は京都に入ることを許されていませんでした。
手引きをしたのは???
6月5日早朝・・・古高俊太郎を捕縛。
古高の家を捜索すると、武器弾薬がずらり!!
追及するため拷問にかけられる古高。。。
これによって放火を白状します。

”御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致し長州へ”と。。。
300人もの長州藩士が潜伏している???
緊急事態に会津藩に応援を依頼します。
午後7時会津藩が来る前に、単独で出発!!
鴨川を挟んで右と左・・・近藤と土方に分かれての捜索となりました。
午後10時・・・池田屋にたどり着いた近藤。。。
周りに見張りの隊士を置くと、切り込めるのはわずか4人。。。

翌日から祇園祭が・・・近藤の選択肢は???
援軍を待つ?それとも4人ですぐ突入??

腕に覚えのある近藤たち・・・負けるとは思っていなかったようです。

・・・突入します!!

2階には10人以上の浪士たちがいました。
ちゃんちゃんばらばら・・・乱戦になります。
そして、沖田総司が結核による吐血で戦線離脱・・・。
藤堂平助も頭を負傷。
近藤と永倉だけになってしまいました。

と・・・その時、土方隊登場!!
残った浪士たちは観念して降伏したのでした・
翌日まで残党狩りが行われ・・・新選組は朝廷から感謝状が贈られ、近藤勇は英雄となり、新選組の名は天下に轟いたのでした。

まさに命がけの選択だったのです。

しかし・・・攘夷とは違う目的で勝利してしまった近藤・・・違う方向へ流れて行ってしまう??
近藤勇の本心は何処にあったのでしょう。。。

ここで、新選組の方向性が変わってしまいました。
後戻りできない・・・幕府側について、長州と戦う位置に固定されてしまったのです。
近藤勇は、池田屋事件の後は、”攘夷”という言葉を使わなくなります。
もっぱら長州征伐を推すようになるのです。
しかし、これは近藤だけではなく、世の中が攘夷を語れなくなってしまったのです。
天皇自身が諸外国を許してしまったのがこの頃で、そこで攘夷を叫び続けることは、政治家・近藤勇としては非現実的な事だったのです。

その後の日本にはどのような影響を与えたのでしょうか?
池田屋事件の抗議を名目に、長州藩は、京都に兵を進めます。
遂に武力衝突・・・禁門の変が起こります。
新選組は会津藩の精鋭部隊として活躍!!
しかし、3年後・・・薩摩が長州と手を組んだことで形勢は逆転・・・。
王政復古のクーデターで薩長が実権を握ると、幕府を討伐するように命を出します。
これによって幕府は・・・新選組は朝敵・逆賊となったのです。

天皇を味方につけ、最新式の兵器で戦う新政府軍は、次第に幕府軍を追い詰めていきます。
新選組は敗走を続け・・・
池田屋事件が発端となった戦いは、全国各地に飛び火し、事件から5年間続きました。
恨みが重なっていくうえで、池田屋事件が大きなファクターだったことは否めません。

徳川が降伏を決めたあとも、闘い続けます。
しかし・・・千葉県流山市で新政府軍に囲まれてしまいました。
切腹を決意するも、代表として名乗り出ます。

1868年4月26日・・・新政府軍は近藤を斬首・・・。
近藤の首は、京都の三条河原に晒されたのでした。
忠義をつくし、国に報いようとして闘った近藤の罪は天皇に逆らった・・・逆賊の汚名でした。


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