日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川家達

1867年10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。
大政奉還です。
これにより、およそ260年続いた江戸幕府が終焉・・・
その後、新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで激突!!
朝敵とされた慶喜は、謹慎の身となります。
遠くフランスでこの報せを聞いた男がいました。
後に銀行や鉄道会社など様々な企業の設立の携わる日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一です。
渋沢にとって慶喜は、一橋家当主の頃から仕えてきた主君でした。
水戸徳川家に生まれ、最後の将軍として激動の人生を送ってきた慶喜は、その第二の人生をどう過ごしたのでしょうか?

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政治についての発言をしなかった慶喜が、自宅に招き入れ、やがて自らの人生を語った人物が・・・渋沢栄一です。
渋沢は、慶喜が最も信頼した人物であり、明治維新以降の慶喜の最大の理解者でした。

江戸が東京に変わり、明治へと改元された2か月後の1868年11月。
将軍慶喜の名代としてパリ万国博博覧会に派遣され、そのまま留学していた慶喜の弟・徳川昭武とこれに随行していた渋沢栄一たちが、ヨーロッパ各国を歴訪後帰国しました。
しかし、日本は混乱の中・・・
いまだ、新政府軍と旧幕府軍との内戦が、東北地方を中心に続いていました。
渋沢がすぐさま向かったのが駿府・・・主君であった徳川慶喜がいたからです。

恭順の意を示し、水戸で謹慎していた慶喜は、1868年7月、50人ほどの従者を連れて、駿府にある徳川家の菩提寺・宝台院にうつっていたのです。
その暮らしぶりに渋沢は驚きます。
6畳ほどの薄暗い部屋で・・・座布団も引かずにひどく汚れた畳の上にじかにお座りに・・・
将軍時代とは雲泥の差でした。
大政奉還後、官位を剥奪され、徳川宗家の所領は、かつての1/10ほどの駿河府中藩(のちの静岡藩)の70万石
に削られ、一大名に格下げ・・・
当主は、田安徳川家から養子に入った6歳の家達でした。
慶喜は、その家族の一員・・・養父として宗家の席に置かれることとなり、家達の家禄の中から分けてもらったお金で暮らしていました。

慶喜が、渋沢に対してこの時大政奉還をはじめとした政治的発言を拒んだ理由は・・・??
戊辰戦争のさ中、慶喜の動向次第で事態が大きく変わると考えた新政府側が、慶喜を監視していました。
自らを律し、質素な生活に身を置く慶喜。。。
そんな慶喜をそばで支えたいと、家族を連れて駿府に移り住んだ渋沢。
そして、フランスで学んだ経営学を活かし、日本初の株式会社「商法会所」を設立。
駿河府中藩の財政を任されるとともに、徳川家の金銭面のやりくりに奔走するのです。

1869年9月・・・慶喜の謹慎が突然解かれます。
そこには、新政府の思惑がありました。
1869年5月、箱館五稜郭に立てこもっていた榎本武揚率いる旧幕府軍がついに降伏・・・戊辰戦争がようやく終結します。
こうして内戦を終わらせた新政府軍でしたが、新たな問題が浮上します。
全国での政治、外国との交渉・・・新しい政府を支えるだけの人材が圧倒的に不足していました。
旧幕臣たちは、主君である慶喜への忠誠心がまだあったのです。
行政を円滑に進めるため、旧幕府側の実務に長けた人物を取り込みたいと考えていた新政府は、彼らのかつての主君である慶喜を蔑ろにしたままでは協力を得られないと考え、慶喜の謹慎を解いたのです。
この時、新政府が欲した旧幕府側の有望な人材の一人が、経済に通じていた渋沢栄一でした。

「慶喜公に対して、朝廷の政府に仕官することは、二君に仕える要で心苦しい限りでした」

しかし、渋沢が新政府への出仕を断わると、慶喜が有能な人材を隠匿していると疑われると説得されたため、民部省租税正として新政府に加わることに・・・。
一方、謹慎が解かれた慶喜は、江戸時代に代官が暮らしていた屋敷にうつり、東京から呼び寄せた正室・美賀子と、2人の側室と共に暮らし始めました。
その後、2人の側室との間に10男11女が授かりますが、慶喜の子育ては独特でした。

庶民の家に里子に出しました。
それは、里子に出す方が元気に育つと思ったからです。
どんな環境に置かれても逞しく育ってほしい・・・激動の半生から得た教訓でした。
こうして謹慎が解けた慶喜は、代わらず政治的な言動は避け、基本的には静岡でひっそりと暮らすのです。

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そんな中、新しい時代の波が慶喜に・・・
1871年7月、これまでの藩を廃止し、新たに県を置く廃藩置県が強行されたのです。
県知事という新たな役職には、新政府から役人が派遣されることとなり、静岡藩を治めていた家達は、華族の地位と家禄を保障され、東京に住むこととなったのです。

静岡に残された慶喜の生活費は、徳川宗家・家達からの送金によって賄われました。
ただし、毎月決まって送金されたわけではなく、数カ月おきに2千円(現在の価値・4千万円)ほどが為替で送金されたといいます。
それでも相当数の従者を抱えていた慶喜家の家計は逼迫・・・これを助けたのが渋沢でした。
慶喜の持ち金を、株に投資して増やすなどしたといいます。

1872年、慶喜は従四位に叙されました。
名誉を回復しつつあった慶喜・・・
1880年、将軍時代と同じ正二位に、さらに東京徳川宗家からの送金も、毎月千円と増え、暮らしも安定していきます。
そんな中、慶喜は周囲の者たちから東京にのぼり帝に叙位のお礼に参られてはいかがか・・・と進言されます。
しかし、慶喜は
「朝敵となった私が、帝にお目にかかるなど恐れ多いこと」
そう言って、明治天皇との謁見をかたくなに拒み、静岡でひっそりと暮らし続けるのです。

そして、見つけた生きる道が・・・趣味人。
最初に没頭したのが油絵です。
西洋の絵葉書を見ながら、風景画を描いていたといいます。
その後、釣りや弓術、狩猟など、慶喜の趣味は多岐にわたりました。
好奇心が強く、新しいものに目がなかった慶喜は、当時1台300円もする自転車をわざわざ東京から取り寄せ、運動のためにと市中を走っていたとか・・・。
その姿を見た人々は、慶喜を”けいきさま”とよんで親しんだといいます。
どうして慶喜は趣味に生きる道を選んだのでしょうか??
ひとつは、趣味に没頭している方が新政府からあらぬ疑いをかけられない・・・
もうひとつは、助かった命・・・趣味に没頭できる今の状況をありがたいと実感していたのです。

命あることの喜びをかみしめながら、趣味に没頭していった慶喜・・・
将軍時代に味わうことのなかった平穏な日々が過ぎていき・・・49歳になった慶喜に、更なる嬉しい知らせが届きます。
将軍時代より上の従一位に叙せられたのです。
しかし、名誉回復が実現していく中で、度重なる不幸にも見舞われました。
1893年1月26日、母・吉子重篤・・・慶喜は、急いで上京するも、間に合いませんでした。
9月には長女鏡子が20歳の若さでこの世を去り、翌年には妻・美賀子が帰らぬ人となりました。

ビリヤード、蓄音機、珈琲・・・

家族を失った悲しみを癒してくれた趣味の中で、慶喜が最ものめりこんだのが写真でした。
慶喜は、旧幕臣で写真師だった徳田孝吉を自宅に呼び、本格的な撮影技術を学ぶのです。
当時、まだフィルムはなく、板ガラスを取りつけ30分以内に撮影・・・現像処理も30分以内に行わなければならず、度々失敗していたとか・・・
しかし、自ら薬品を買ってきて配合し、現像するほど熱中しました。

「難しいからやめられないのだ」

写真三昧の生活を送る慶喜・・・

その様子を見ていた渋沢は後にこう語っています。

「写真を研究しては、徹夜されることもしばしばで、にわかに上達され、静岡の風光明媚な場所はおおむね慶喜公のレンズに収められました。
人物の撮影も深く極められ、取られた写真を良く一族の方に分け与えておられました。
慶喜が残した写真からは、穏やかさと優しさが伝わってきます。

東京・北区にある渋沢資料館・・・ここに、渋沢栄一が25年もの歳月をかけ作り上げたものが保管されています。
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が日本のために果たした役割を克明に記した「徳川慶喜公伝」です。
渋沢は、常々こう言っていました。

「徳川慶喜公の御伝記の完全なものを、私が終生の事業として作り上げたい
 この御伝記編纂が、私に対する天の使命である」

その強い思いには理由がありました。

幕末、武蔵国の血洗村(現・深谷市)の豪農の家に生まれた渋沢は、当時の血気盛んな若者同様に尊王攘夷思想に傾倒。
江戸に出ると、幕府の腐敗をどうにかせねばという思いを強くし、1863年討幕のクーデターを企てる者の失敗。
幕府に追われることを恐れ、京都に逃げます。
そこで、縁あって渋沢を武士として救ってくれたのが当時、御所を警護する禁裏御守衛総督の慶喜でした。
その時のことを晩年こう振り返っています。

一橋徳川家の仕官したことで、私は命拾いしました
危うかった自分を救ってくれた慶喜公に対し、どうして強い恩義を感じずにいられますでしょうか

慶喜への恩を少しでも返したい・・・そう思っていた渋沢は、1893年、幕臣時代からの旧友である福地源一郎の協力を得て、慶喜の伝記編纂を企画します。
しかし・・・

「世間に知られるのは好ましくない」by慶喜

慶喜本人に拒絶されてしまいます。
それでも渋沢は、諦めずに慶喜を説得。

「慶喜公の存命中は、絶対に公表いたしません
 しかし、伝記編纂は今から始めておかないと、失われてしまう史料もあります
 ですから、直ちに作業を開始いたします
 さもないと、真相が明らかにならぬまま、後世に誤った事実が伝えられる恐れがあります」

流石の慶喜公も折れ、死後、相当期間を置いてから出版するのなら・・・と承諾してもらいました。
しかしまた問題が・・・福地が代議士となり多忙になったことで作業は滞ってしまいます。
その後、福地は病で亡くなり、編纂作業は暗礁に乗り上げてしまうのです。
しかし、その間に、慶喜の状況もまた大きく変わっていました。

1897年11月、長く中央から距離を置いていた慶喜が東京に移り住むことを決めます。
この時、60歳・・・
どうして慶喜は東京移住を決めたのでしょうか??

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渋沢が残した伝記にいくつかの理由がありました。

①明治天皇の・・・朝恩に浴することの謝意を表するため参朝を実現すること
  還暦を機に、慶喜は東京に出て明治天皇に今までの感謝の気持ちを伝えたいという気持ちに変わった
②子女たちが結婚などで東京に住むようになり心寂しく思っていたこと
  この時、最後まで静岡の家に残っていた九男と十男までもが東京の学習院に編入・・・
  その為、慶喜は深い寂しさを覚え、子供たちのいる東京に行ってもいいと思うようになっていました
③60歳を迎え、病気に冒された時の医療看護の便を考えての事
  慶喜は数年前から健康面での不安を感じていたこともあって、医療や看護の整った東京に引っ越したのです。

渋沢は、慶喜が住居を移した東京巣鴨に良く訪ねて行ったとか。
慶喜を飛鳥山の自宅で開いた茶席に招いたり、自分が設立に加わった洲崎養魚場や製紙工場の見学に誘うなど、2人の関係をより深めていきました。
その一方で、慶喜に爵位が授与されるよう時の総理大臣・桂太郎に働きかけるなど、慶喜の更なる名誉回復に尽力。。。
願いが叶うまでそう長い時間はかかりませんでした。 

徳川慶喜が東京にうつってから間もなくの事・・・1898年3月2日

「朝敵となった私がお目にかかることは恐れ多い」

と言って、静岡時代、かたくなに拒んでいた明治天皇との謁見が実現します。
酒を酌み交わし語り合った時の帝とかつての将軍・・・大政奉還から30年の時が経っていました。
この謁見ののち、天皇は維新の元勲・伊藤博文にこういったといいます。

「伊藤、今日でやっと今までの罪滅ぼしが出来たよ
 慶喜の天下を取ってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮世のことで仕方がないといって帰った」

慶喜にとっても、この謁見は大きな意味を持っていました。
明治天皇に謁見したことで、慶喜の朝敵の汚名が完全に消されたのです。

1902年6月、特例として天皇から慶喜に対して爵位としては最高位の公爵が授与され、華族に列せられました。
渋沢栄一が、総理大臣の桂太郎や明治政府の元老・伊藤博文、山県有朋らを訪問し、嘆願していたことが受爵につながったのです。
しかし、その一方で、こんな見方もあります。
実はこの時、同じ特例としてもう一人爵位を授かった人物がいます。
幕末、慶喜の江戸幕府を追い詰めた討幕派のリーダー・西郷隆盛の嫡男・西郷寅太郎です。
西郷も西南戦争で朝敵とされていました。
西郷の復権は、薩摩派の人々にとって政治的な課題でした。
慶喜への公爵授与、西郷隆盛の長男への侯爵授与・・・二人の爵位の授与は、慶喜と西郷隆盛の朝敵の汚名を消し去るための政治ショーの側面がありました。

明治政府が抱えていた課題の一つが、維新の功労者でありながら政府に反旗を翻す西南戦争を起こしたことで朝敵となって死んだ西郷隆盛の名誉回復でした。
これを実現するため、西郷の嫡男へ爵位を与えたい明治政府は、慶喜にも爵位を与えることで朝敵にも爵位を授与する大義名分を作ったのです。
理由はさておき、公爵となった慶喜は、さらに貴族院の終身議員として議席を与えられるなど、完全なる名誉回復を果たしました。
慶喜は徳川宗家の家達から全面的に支援してもらっていましたが、経済的に自立できるようになりました。

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慶喜が、名誉を完全に回復したことで変わったことが他にもあります。
交流範囲の広がりです。
能楽、囲碁、写真という趣味を通じて、華族社会の中で新たなネットワークを構築していきます。
特に、当時華族の中で流行していた写真を通じ、強いつながりができました。
東京千代田区にある日本カメラ博物館にそのつながりを示す貴重な資料が保管されています。

1902年~1908年まで発行されていた「華影」
これには徳川慶喜の写真が掲載されています。
写真は芸術という機運が盛り上がってきた中で、華族の写真愛好家たちが結成した”華栄会”によって刊行されたものです。
慶喜も会員の一人でした。
写真集は、公にすることを目的とせず、限られた人たちの間で回覧・・・
写真家の小川一真や洋画家の黒田清輝による批評と採点が加えられることで技術向上を図り、慶喜も家族たちと優劣を競いながら、写真を楽しんだといいます。

名誉を回復したことで、頑なだった慶喜の口もほぐれていきます。
1907年、渋沢は、頓挫していた慶喜の伝記編纂を再スタートさせます。
慶喜を中心とした歴史を語る会”昔夢会”を発足。
慶喜に直接語ってもらうことにしました。
慶喜は、編纂員たちの質問に答えるだけでなく、粗稿に目を通し、修正すべき点があれば付箋に意見を付けて返すなど、積極的に伝記の編纂に協力しました。
どうして協力的になったのでしょうか?

それもまた、慶喜を取り巻く環境の変化が大きく関係しています。
この頃、旧幕府を擁護する本が次々と出されました。
慶喜は、大政奉還が近代天皇制国家の発展につながったというゆるぎない自信を持てるようになったのです。
名誉回復が叶い、世間的な慶喜への評価も変わってきたことで、自らの過去と向き合う精神的余裕と自信が生まれたのです。
そうして開かれた第1回昔夢会は、慶喜の伝記編纂場だった渋沢の歌舞伎町の事務所で行われました。
慶喜は、幼い頃の思い出から、とつとつと語り始めます。
時代を追って話は進み、やがて渋沢が知りたかった政権を返上すると決めた時の事へ・・・
慶喜は、江戸幕府を終わらせることにしたのは、幕府を守ろうとする佐幕派と、倒し、天皇を中心とする討幕派が争う国が乱れていたのをなんとか終息したかったからといいます。
そして、大政奉還を決めたことを京都・二条城で諸藩の代表者に告げた際には、

「未曽有の御英断、誠に感服に堪えず」

と、称賛する者たちがいる一方で、不満を持った者も多くいたこと。
江戸から入れ代わり立ち代わり老中たちが現れては責められたことを振り返りました。
こうして、自らが堅い口をつぐんでいたことで、偏っていた歴史の断片を慶喜は少しづつ修正していきました。

東京・文京区春日・・・かつてここに徳川慶喜の終の棲家がりました。
その敷地、およそ3000坪・・・。
巣鴨から小石川小日向第六天町邸に移った慶喜は、1910年12月10日・・・七男・慶久に家督を譲ると、74歳で二度目の隠居生活に入ります。
3年後の1913年9月9日・・・この小石川邸で、第26回昔夢会が開かれました。
その2か月後、九男の誠に男爵が授与されたお礼を述べるため、風邪気味だったにもかかわらず皇居に参上した慶喜は、無理がたたったためか、肺炎にかかってしまいます。
そしてそのまま・・・11月22日、回復することなく、波乱に満ちた77年の生涯に幕を下ろしたのです。

慶喜の電気が完成したのは、それから4年後・・・1917年「徳川慶喜公伝」
74歳になっていた渋沢は、実に25年を費やした伝記を手に、慶喜が眠る東京谷中の墓地に報告に行きました。

徳川慶喜は、その最期・・・病床で苦しい中、医師にこういったといいます。

「衰弱は覚えますが、苦しみは去りました」

この苦しみとは、鳥羽伏見の戦いで張られた”賊軍のレッテル”に対するものだったのではといわれています。
長くまとわりついていたその苦しみが、公爵や勲章の授与などによって回復され、去っていったのだと・・・。
最後まで慶喜に仕え、働いた渋沢栄一は、完成させた徳川慶喜公伝の中で、慶喜のことをこう讃えています。

”侮辱されても 国のために命をもって顧みざる 偉大なる精神の持ち主”

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「謎の将軍 徳川慶喜」

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世紀のロイヤルウエディング・・・それは、今から156年前の幕末・・・孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の結婚でした。
華麗な花嫁行列は、注目の的となりました。

1861年10月20日、花嫁行列が、京から江戸へと出発!!
16歳で降嫁した和宮でした。
総勢2万5000、長さは50キロに及ぶ史上まれにみる豪華な花嫁行列で、江戸に入るまで25日かかりました。
幕府予算の2年分と言われる莫大な費用を投じた世紀のロイヤルウエディングでした。
しかし、花嫁・和宮の心は晴れやかではありませんでした。

住みなれし 都路出でて けふいくひ
           いそぐもつらき 東路のたび

見知らぬ江戸の大奥での暮らしは、苦難の連続でした。
14代将軍家茂の愛に包まれて頑なだった和宮は人を愛することに目覚め大人へと成長していきます。
が、突然の夫の死、幕府存続の危機・・・次々と歴史の荒波が襲い掛かります。
朝廷と徳川の板挟みに苦しむ和宮は、自らの手で運命を切り開いていきます。

「私も、徳川家の滅亡を見ながら生き残るわけにはいかないので、きっと覚悟を決めましょう。」

悲劇の皇女・和宮・・・その姿は、自らの運命に立ち向かった勇敢な女性でした。
気高くたくましく成長するプリンセス・和宮!!

1862年2月、江戸城内で和宮と徳川家茂の婚礼が行われました。
朝廷と幕府の期待を背負って江戸にやってきた和宮、行った先は大奥でした。
大奥では1000人以上の女性が働き、200年の伝統と細かいしきたりがありました。
そこに君臨していたのは、前将軍の正室・天璋院篤姫でした。
薩摩藩から嫁ぎ、夫亡き後も大奥に留まっていました。
和宮より11歳年上の姑でした。

和宮と篤姫は、共に朝廷と徳川のプライドをかけてたいりつすることになってしまいます。
どうして対立してしまったのでしょうか?

1846年孝明天皇の妹として生まれた和宮。
幼いころから皇族としての教育を受け、和歌を学ぶなど何不自由ない生活を送っていました。
損な和宮に家茂との結婚の要請が来たのは、1860年、和宮が15歳の時でした。
幕府と朝廷の政略結婚でした。
きっかけは、ペリー来航でした。外国嫌いの孝明天皇が反対しているにもかかわらず、幕府は圧力に屈し開国に同意してしまいます。
そのため、幕府への批判が日本中でおこります。
そこで、幕府が目をつけたのが、朝廷の権威でした。
天皇の妹・和宮と将軍。家茂を結婚させることで、政権の安定を図ろうとしたのです。
しかし、和宮にとっては受け入れがたい話でした。
それは・・・和宮が6歳の時に11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約していたからです。
さらに、忌まれてから1回も京を出たことのなかった和宮に、江戸へ行くことは恐怖そのものでした。

”夷人が大勢おる関東へ参るなど、とても恐ろしくてできませぬ”

しかし、兄・孝明天皇は、幕府に外国船を打ち払わせるために、和宮に婚姻を勧めます。
それでも首を縦に振らない和宮・・・孝明天皇は、
「関東との縁談を断って、もし有栖川宮と婚姻しても、私が拒むから尼になるがよい。」by孝明天皇
和宮は、止む無く家茂との結婚を受け入れます。

「天下泰平のため まことにいやいやながら 仕方なくお受けするのでございます。」by和宮

1861年16歳の時、和宮江戸へ・・・!!
嫁ぐにあたって、条件を出していました。

”江戸城に入った後も、身の回りはすべて御所風を守ること”
江戸城に入った後も、和宮が慣れ親しんだ御所の習慣を通すと要求したのです。
大奥に入った後、女官は日記に書いています。
”御風違”と書いています。
そしてこのことが、和宮と篤姫が対立する原因となっていきます。

対立は些細なことから始まりました。
嫁入りの際、篤姫の元へ和宮から来た目録・・・そのあて名は”天璋院”・・・呼び捨てで書かれていました。
和宮からすれば、自分より身分の低い篤姫を呼び捨てにするのは当然です。
しかし、篤姫も大奥のしきたりに従わせようとします。
二人が初めて対面した時・・・和宮が座敷に来た時、篤姫は上座に座り敷物に座っていました。
それに対し、和宮は下座で畳の上に直に座らされたのです。
これを見た女官は、朝廷に訴えの手紙を送っています。

”和宮さまは、無念の思いに耐えられないご様子で、私共もお慰めする言葉も見つかりませんでした。”

二人の対立は、和宮の女官280人VS篤姫の女中260人を巻き込み、大奥を二分する戦いに発展します。
そのすさまじさは、大奥のみならず、江戸城内でも噂になります。
幕臣だった勝海舟は、後に語っています。

「和宮と天璋院は、はじめは大層仲が悪かった
 お付きのせいだよ
 あっちでもすればこっちでもするというふうに、競ってそれはひどかった」by海舟

結局、和宮と篤姫との交流は無くなってしまうのでした。
しかし、和宮も逃げ出すつもりはありません。

惜しましな 君(天皇)と民とのためならは 
               身は武蔵野(関東)の 露と消ゆとも

自らの命を惜しまず、天皇と民の為ならば、武蔵野の露と消えても構わない・・・と!!

不慣れな江戸で姑との交流もなく、孤独な生活を送る和宮・・・
そんな毎日に潤いを与えてくれたのは、不本意ながら結婚相手の家茂でした。
和宮と同じ年の若き将軍は、家臣に

「私は和宮を本当に大切に思いたい。
 そうすれば、幕府と朝廷も自然と上手くいくはず。
 表だけ飾るのではなく、心から親しい間柄でいたいのだ。」by家茂

家茂は、自分が将軍であるにもかかわらず、和宮を宮様と呼び、皇女として扱いました。
そんな家茂の気遣いや気さくな人柄は、次第に和宮の心を開いていきます。
結婚から2か月後・・・家茂の乗馬を見学し、そのまま一夜を共にします。
その翌日も、家茂は突然大奥に訪れます。
それは、金魚を和宮に見せるためでした。

和宮が和歌を送ると・・・自ら鼈甲のかんざしを持ってくる家茂。
こうしたやり取りが、二人の間で自然に繰り返されるようになって・・・。
そして、天璋院篤姫との関係も変わってきました。
浜離宮恩賜庭園で語られているのは・・・
和宮、篤姫、家茂が庭に降りようとすると、なぜか家茂の履物だけ踏み石の下に置かれていました。
それを見た和宮は、ぽんとおり、自分の履物を下ろして家茂の履物を石の上に起きました。
かつての和宮では考えられないことでした。
これ以降、篤姫と和宮のいざこざはピタリとやんだといいます。
大奥での暮らしになれ、周囲の人間とも交流し、大人の対応ができるようになってきた和宮・・・

1863年、京では反幕府勢力が台頭!!
家茂はそれを抑え込むため自ら京に向かいます。
和宮18歳の時でした。
以後も緊迫した事態が続いたので、家茂は頻繁に江戸と京を往復します。
無理を重ね、脚気を患ってしまいました。
和宮は家茂の無事を願ってお百度参りをします。
1865年、再び西に向かう前に、家茂は和宮にどんな京土産がいいか尋ねています。

「西陣の織物が欲しゅうございます」

和宮は家茂を送り出します。
しかし・・・1866年7月、和宮にもたらされたのは、家茂の訃報でした。
享年21歳。
夫の亡骸と共に届いたのは、土産に欲しいと頼んでいた西陣織でした。

空蝉の唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ

結婚して4年・・・そのうち夫婦が一緒に暮らすことができたのは、僅か2年余りでした。

最愛の夫を亡くした和宮・・・この時、21歳でした。
朝廷と幕府の結びつきを強めるためのこの結婚・・・いまやその意味を失い、和宮が江戸に留まる理由が無くなりました。

それからわずか1年後・・・大政奉還により幕府は消滅!!
朝敵となった徳川家は滅亡の危機にさらされます。
生まれ育った天皇家と嫁ぎ先の将軍家・・・両家の板挟みにあう和宮。
この時、江戸を離れて京に戻ることもできました。
しかし、和宮は江戸に残り、徳川家存続のために必死の奔走を始めたのです。
どうして徳川家のために命をかけたのでしょうか?

亡き家茂の跡を継いで将軍となったのは慶喜でした。
1867年京の二条城・・・ここで、慶喜は大政奉還を表明しました。
夫・家茂が命がけで守ろうとした徳川家は、あっけなくその幕を閉じたのです。
1868年、和宮23の時に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を西郷率いる新政府軍が撃破!!
さらに錦の御旗を掲げて徳川を朝敵とし、江戸城へ進軍を始めました。
江戸へ逃げかえった慶喜は、新政府軍に恭順の意を示し、和宮を通じて和平を模索します。
しかし、何の相談もなしに幕府を終わらせ泣きついてきた慶喜に、和宮は憤慨し、面会を拒否します。
この時、和宮と慶喜を仲介したのが天璋院篤姫でした。

同じ大奥にいながら交流のなかった和宮と篤姫・・・。
しかし、家茂亡き後、二人の間は深まっていました。
篤姫もまた、結婚してすぐに夫を亡くすという経験をしていたからです。
和宮を保護しようという気持ちが高くなっていたのです。
和宮も、その気持ちが解るので、天璋院を頼るという心境になったのです。

江戸城にいた旧幕府上層部は、徹底抗戦と時代の流れを読めない者ばかり・・・。
慶喜から事態の解決を頼まれた和宮と篤姫・・・徳川の命運は、土壇場でこの二人に託されました。

この頃の和宮の日記には・・・
朝廷の味方をすれば徳川家から不義となり、徳川家のために義を通せば兄に対して不貞になる
本当にどうすればいいのか
それでも、後世まで清き名を残したい
と書かれています。

そこには、かつて江戸に嫌々嫁いできたか弱い皇女の姿はありませんでした。
自分の家族ともいうべき徳川家を守る母の姿でした。
和宮は新政府軍に謝罪し、寛大な処置を求めます。

何卒 私へのお慈悲とおぼし召され どうか徳川家をおとり潰しにならぬようお願い申し上げます。
徳川家が滅ぶようなことがあれば、私も生きていくわけには参りません。

しかし、新政府軍の進撃は止まらない・・・
江戸城総攻撃は3月15日に決まります。
100万人が暮らす江戸に、戦火の危機が迫りました。
すでに慶喜は江戸城を去り、ほとんどのものはなすすべなく・・・かろうじて勝海舟らが動いていました。
主なき城に取り残されたのは、数百人の大奥の女性たち・・・
城中に不安な空気が・・・そんな中、和宮は訴えます。

「朝廷から寛大な処置がもらえるよう謹んで行動するように
 万一、心得違いの者がいれば、徳川家もこれ限りになります」by和宮

3月11日、江戸城総攻撃まであと4日・・・
既に江戸は、新政府軍によって包囲されていました。
ここで、和宮と篤姫は最後の手に打って出ます。
篤姫は同じ薩摩出身の西郷隆盛に手紙を・・・和宮は新政府軍総督に直接手紙を書きます。

「どうか・・・私の心中をお察しください。
 江戸へ軍勢を進めるのは今しばらくご猶予くださるようお願い申し上げます。」by和宮

1868年4月11日、和宮の願いは届きます。
新政府軍との和平が成立・・・江戸は一切戦火に見舞われることなく新政府に明け渡されました。
そして、徳川宗家の存続も約束されたのです。

和宮の懸命の嘆願に寄って平和の訪れた江戸・・・一方徳川宗家は、静岡に移されました。
隠居した慶喜の跡を継いだのは、かつて家茂が跡継ぎに指名していた徳川家達6歳でした。
和宮は家達が静岡に引っ越すまで東京と言う名を変えた江戸で暮らし見守りました。
この時期の和宮の日記には、家達の名が頻繁に出てきています。
我が子同然だったようです。
24歳の和宮は、8年ぶりに京に戻ります。
京では聖護院に住み、泉涌寺や孝明天皇や光格天皇の墓所に・・・お墓参りをなさっていたようです。
祇園祭を見物し、嵐山で紅葉狩りをし、気ままに過ごします。
しかし、いつも気にかけていたのは家茂のことでした。

「京に住むことになれば安心ですが、来春の家茂さまの年季には、江戸に戻りたいと思っています。」by和宮

1874年29歳の時に再び東京へ・
そして、家茂のいる増上寺の見える場所を住まいとします。
この頃、和宮が読んだ歌が残っています。

玉敷の みやこもひなも へたてなき
         年を迎うる 御代のゆたけさ

都も田舎も隔てなく、年を迎えられる この時代の豊かさよ

1877年9月2日、和宮は療養中の箱根でその生涯を閉じます。
享年32歳でした。
亡骸は、和宮の遺言により、増上寺に眠る最愛の夫・家茂の隣に葬られました。
和宮の市からおよそ80年後の1958年、墓地の改装が行われることとなり、和宮の墓が掘り起こされました。
棺を開けると、和宮は一枚のガラス版を抱きかかえていました。
それは、生前の家茂を映した写真でした。
幕末の動乱の中、世紀のロイヤルウエディングをあげて波乱の生涯を閉じた和宮・・・
あれから150年余り・・・和宮と家茂は今も仲睦まじく、寄り添うように眠っています。

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今からおよそ150年前、東京の礎を築いていた江戸の街は危機に瀕していました。
1868年・・・新政府軍VS旧幕府軍との戦い・・・戊辰戦争です。
100万人が暮らす江戸が戦火の海になる可能性がありました。
その危機を救ったのが、勝海舟と西郷隆盛の会談・・・男たちの英断によって江戸は救われ、近代国家の道へ・・・!!
しかし、その成功への道筋には、大奥の二人の女性の命がけの選択がありました。
天皇家から徳川家に降嫁した皇女・和宮と、その姑として大奥に君臨した天璋院篤姫でした。
この時・・・将軍は朝敵とされ、男の政治が機能しなくなり、大奥には女性たちが取り残されていたのです。


1861年10月20日京都・・・日本史上かつてない婚礼が行われようとしていました。
京から江戸へと向かう降嫁の行列・・・花嫁は仁孝天皇第八皇女・和宮です。
輿入れの行列は豪華絢爛・・・警護まで含めると総勢およそ3万人!!
行列の長さは50㎞に及び、全部通過するのに4日間かかったと言われています。
その輿入れの道中には、歌碑が残されています。

「住み馴れし 都路出でて けふいくひ
          いそぐもつらき 東路のたび」

和宮は当初、この婚礼を望んでいませんでした。

1853年、ペリーが来航し、武力で開国をせまりました。
対応を迫られた幕府は、朝廷の勅許を得ることなく・・・
1858年安政の五ヵ国条約を締結。開国に踏み切りました。
これに対し、尊王攘夷派が激しく反発!!
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺!!
徳川幕府の権威は大きく失墜してしまいました。
権威回復のために、天皇の威光を利用しようとします。
そうして考え出されたのが、公武合体論です。

そのシンボルとして画策されたのが、第14代将軍・徳川家茂と皇女の婚礼だったのです。
そして白羽の矢が立ったのが・・・当時14歳だった皇女・和宮でした。
すでに婚約者がいた和宮・・・尼になると固辞します。
が・・・政治に興味のあった孝明天皇は幕府に交換条件を出します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
幕府は攘夷を約束し、孝明天皇は和宮降嫁を内諾します。
兄から強く諭された和宮は、この政略結婚を受け入れるほかありませんでした。

輿入れの道は、公武合体に反対する反幕府派の襲撃に備え、東海道を避け、警護をしやすい中山道が選ばれました。

行く先々での祝賀ムードに・・・

「惜しましな 君と民とのためならは
       身は武蔵野の 露と消ゆとも」

京を出発して25日目・・・1861年11月15日、ついに江戸に到着!!

和宮は将軍の正室・御台所として大奥に入ります。
大奥・・・常に1000人以上の女性が暮らし、250年の細かいしきたりと歴史がありました。
公武合体の使命を背負い、大奥に入った和宮に立ちはだかったのが、当時大奥の頂点に立っていた天璋院篤姫です。
篤姫は薩摩に生まれます。
名は於一(おかつ)。実家は薩摩藩島津家の貧しい分家でしたが、藩主・島津斉彬から忍耐力や才能を見込まれ養女となりました。
篤姫は幕政に対する発言力を強めようとした斉彬ために、第13代将軍家定に嫁ぎました。
その輿入れには、嫁入り道具の調達をした西郷隆盛もいました。
夫亡きあとも、次の将軍となった家茂の養母として大奥を取り仕切っていた篤姫が姑となります。

女官によると・・・二人は御風違い(作法やしきたりの違い)を感じています。
女の園・大奥で、朝廷と武家・・・それぞれの歴史と文化を背負って向き合うこととなるのです。

幕末の京都・・・天誅の名のもとに尊王攘夷派が暗躍!!
役人が次々と暗殺され・・・不穏な空気が・・・。
1863年2月、孝明天皇を命を受け、大軍を率いて上洛。
結婚の条件だった攘夷実行を迫られるのでした。
篤姫は心配し・・・
「京でのご滞在が長くなり、心配しております。
よく後先を考え、何事もうかつになさいませんようにお気を付けください。」
妻・和宮も身を案じ・・・
「京の都はいかがでございましょう。
 お慣れではない土地ゆえ 寒さもひとしおお厳しく思われることと存じます。
 ずいぶんとずいぶんとご用心なされますように。」

しかし、緊迫した状況の中で、家茂は体調が悪化していきます。
1866年7月将軍・家茂急逝・・・。 
和宮のもとには家茂の亡骸とともにお土産の京の西陣織が・・・。
「空蝉に 唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ」

家茂亡き後、英明と謳われた慶喜を将軍に選びます。
江戸を離れ、京で様々な政治工作を行っていた慶喜は。。。
大政奉還・・・徳川幕府の幕を下ろしました。
薩摩藩の西郷隆盛らはこれを機に徳川家排除を画策、新政府を樹立したのです。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発!
新政府軍は圧勝しました。
戦いに敗れた慶喜は、兵を残したまま江戸を離脱、船で江戸へ敗走!!
朝廷からは慶喜の追討令が発令します。
錦の御旗で官軍となった新政府軍・・・。
江戸城に戻った慶喜・・・朝敵となった慶喜が、救いを求めたのは篤姫と和宮でした。

和宮は、攘夷が果たされず・・・京へ帰る・・・??
篤姫は徳川家に嫁いだ以上、家を残さなければ!!
戦いは避けられない・・・新政府軍と一戦交える・・・??

二人で命を懸けて江戸城に留まり和平を目指す??

江戸城総攻撃目前・・・絶体絶命の中、二人がとった選択とは??

1868年2月15日、江戸進軍開始!!
各地の藩の多くは武力抵抗せず、新政府軍は兵力を温存したまま江戸へ!!
江戸城総攻撃は3月15日に決定!!
4日後に迫った3月11日、和宮と篤姫は江戸城に残り・・・和平を目指して動いていたのです。
和宮が最後の望みをかけて書いた「和宮哀訴状」手紙の相手は、先鋒隊総督で公家の岩倉具定・・・幼馴染でした。
和宮は江戸を戦火から守るためになんとか進軍を止めてほしいと強く訴えます。

時を同じくして篤姫は3mに及ぶ嘆願書を・・・相手は、新政府軍の参謀として実権を握る西郷隆盛でした。
西郷はこの手紙を読んで涙を流したと伝えられています。
総攻撃目前の3月13日から14日にかけて西郷と勝が会談し、総攻撃は中止と決定されました。
この決定を受け篤姫は幕臣たちに通達を出します。
「江戸城総攻撃は見合わせになったが、もし不心得者がいると徳川家の一大事になる。
 これまでの努力も無に帰すので、心得違いなく静謐を保つように。」
大奥からの異例の通達でした。

1868年4月11日、江戸城明け渡し

大奥の歴史にも幕が下りました。

新政府軍が城を引き取りに行ったとき、大奥は美しく整えられていました。
明治を迎えた後も、篤姫と和宮は徳川家を残すことに力を合わせます。
徳川御三卿田安家の跡取り・亀之助が徳川宗家を継げるように嘆願し、徳川宗家16代当主・徳川家達となります。
篤姫は東京・千駄ヶ谷で家達を養育し・・・
1883年篤姫逝去・・・享年49。薩摩に帰ることなく、徳川の女としてその生涯を閉じたのでした。

一方和宮は・・・1877年に享年32歳でなくなります。
遺言のより、その遺体は亡き夫の傍らに葬られました。

女たちの江戸城無血開城・・・和宮と篤姫は命がけの選択で時代の始末をつけ、大都市・東京の繁栄の道をつないだのです。


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1867年に大政奉還となり、家康が開いて以来、264年続いた徳川幕府が終わりを告げました。

その後は一体どうなったのでしょうか?
15代将軍徳川慶喜は、静岡でひっそりと暮らしましたが・・・
16































1914年、16代目当主・徳川家達さんが、首相候補として浮上します。
この人、御三卿のひとつ田安家の出身で、大政奉還の翌年6歳の時に、維新政府から”徳川本家相続”の沙汰を受けました。

15代当主が朝敵となったので、後継者として選ばれたのでした。
以来、「上様」「16代様」と呼ばれていました。
162




























首相候補にあがった時、家達は貴族院議長をしていました。
人望も厚かったようで・・・次期首相の選定に難航していた時に最有力候補として名前が挙がったのでした。

しかし、これを辞退し・・・結局大隈重信が首相になり・・・第2次大隈内閣が成立しました。
家達はその後、外交官として活躍したり、日本赤十字社の社長として活躍しました。

享年78歳でした。


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