日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川慶喜

1909年10月26日、日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、視察に訪れていた満州のハルビン駅で、韓国の独立運動家によって射殺されました。
東京・日比谷公園で行われた国葬には、40万人が参列し、激動の時代をリードした稀代の政治家の死を悼んだのです。

「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
 その次はおかかである」

おかかとは・・・伊藤の妻・梅子の事です。
つまり、日本初の内閣総理大臣婦人・・・最初のファーストレディです。
明治という新たな時代で、日本の近代化を推し進めた伊藤博文が有難く思った妻・梅子とはどんな女性だったのでしょうか?

本州と九州を隔てる関門海峡に面した山口県下関市・・・
その中心街に鎮座する9世紀創建の亀山八幡宮は、天下人豊臣秀吉が、朝鮮出兵の戦勝祈願をしたことで知られています。
そして、その境内には、かつてお亀茶屋と呼ばれる茶屋がありました。
ここで、伊藤博文と梅子が劇的な出会いをします。

1865年、亀山八幡宮のお亀茶屋に、うら若き18歳の梅子の姿がありました。
貧しい町人の娘だった梅子は、家計を助けるためにお茶子として働いていたのです。
そんなある日のこと・・・一人の青年が息を切らして駆け込んできました。
追われていたのです。
梅子がとっさに指さしたのは、ゴミ溜め・・・男はためらうことなく、そのゴミ溜めに隠れました。
すると・・・

「男が来なかったか??」
「あっちに走っていきましたよ」

「もう大丈夫ですよ」
「助かった・・・恩に着る・・・」

そう言って男は、長州藩の伊藤春輔と名乗りました。
後の伊藤博文です。
どうして伊藤は命を狙われていたのでしょうか?
伊藤博文は、1841年、周防国・束荷村で生まれました。
生家は貧しい農家でしたが、14歳の時に父が長州藩に仕える足軽の身内になった事で、伊藤も足軽として召し抱えられました。
17歳で、吉田松陰の松下村塾に入門すると、過激な攘夷運動に身を投じていきます。
敵を知るために、23歳の時、盟友の井上聞多・・・後の井上馨らと共に、密航という形でイギリスへ留学。
しかし、ロンドンについた伊藤たちが目にしたのは、想像をはるかに超えた近代国家の姿でした。

「これでは勝ち目がない・・・」と悟った伊藤は、開国派に転じ、英語や西洋文化を懸命に学びます。
そして、帰国すると藩にも開国を勧め、馬関戦争ののちには、イギリスで身に着けた英語を駆使して講和会議の通訳を務めます。
さらに、松下村塾の先輩・高杉晋作らと共に、下関の開港を画策・・・これが、伊藤が命を狙われる原因になったのでは・・・??といわれています。

長州藩は、本藩と呼ばれる萩藩と、支藩と呼ばれる長府藩がありました。
その中で、下関の大部分が長府藩でした。
長府藩としては、本藩の高杉や伊藤が下関を開港しようとしたことに、怒ったのです。
すでに、四国に逃げていた高杉同様、伊藤も対馬に渡ろうとしていたのですが、長府藩士に見つかってしまい、逃げていたのです。
そんなこととはつゆ知らず伊藤を助けた梅子でしたが、事情を知った後も伊藤の身を案じ、隠れ家として知り合いの土蔵を紹介・・・
時折食事を届けるなど、何かと気にかけたといいます。

2人は、お互いに惹かれあうようになります。
しかし、時は、激動の幕末・・・!!
1865年7月、英語が話せる伊藤らを長崎に行かせ、イギリス人貿易商のグラバーから武器を買い付けることにしました。
それによって離れ離れになってしまいました。
8月下旬・・・伊藤が下関に戻ってくると、梅子の姿が茶屋から消えていたのです。
梅子は、下関の置屋ににいました。
父親の借金のかたとして身売りされ、小梅という名前で芸者見習いをしていたのです。
思いがけない事態に、伊藤は肩を落としました。
会って話がしたいと置屋に行っても、見習い中の梅子は稽古に忙しくそれすらなかなかかないません。
思い悩んだ末、伊藤は梅子を見受けすることを決意します。
お金を工面し、置屋の主人に伝えたところ・・・

「梅子を伊藤様の本妻にしていただけるのならば、嫁入り支度もして差し上げましょう
 しかし、側妻ということであれば、せっかくですがお断りさせていただきます」

すると伊藤は、答えに窮してしまいました。
伊藤博文には、すでに奥さんがいました。
結婚していたのです。
松下村塾の先輩で、入江九一の妹のすみと、1863年に結婚していました。
すみは、伊藤の両親が伊藤の了承を得ずに迎えた妻でした。
当時、伊藤は江戸やイギリスなどに行っていて、実家に帰れず、すみとはほとんど顔も合わせていなかったのです。
伊藤の母・琴子は、すみを大変かわいがっていました。
母の期待を裏切るわけにはいかなかったのです。

とはいえ、梅子に対する思いは断ち切れず、すみとの離婚を決意します。
長州藩の実力者であった木戸孝允に、母親の説得を頼み、梅子を見受けします。
そして梅子は、伊藤とすみの離婚がまとまるまでの間、商家に預けられましたが・・・
そこで、伊藤からお願いされます。

「文が出せんから、字を覚えてくれよ」

貧しい家で育った梅子は、幼いころに手習いをさせてもらえず、読み書きがほとんどできませんでした。
藩の仕事で各地を飛び回る伊藤は、その先々から梅子と文のやり取りをするため、読み書きの勉強をさせたのです。
最初、伊藤は、仮名文字を使っていましたが・・・だんだん漢字で書くようになります。
猛勉強によって、難しい漢字も読み書きできるようになっていきます。
後に梅子は伊藤の代筆までできるようになりました。

1866年4月に結婚。
梅子は晴れて伊藤の妻となりました。
そして、下関で二人の新婚生活が始まりました。
英語の話せる伊藤は、長州藩の仕事で大忙し・・・
結婚した年の7月には、長崎でイギリス人貿易商のグラバーから蒸気船を購入。
さらに、翌月には別の蒸気船購入のために上海に渡ってしまいます。
この時、梅子19歳・・・
一人寂しく留守を守っていたわけではありません。
伊藤の知り合いの長州藩士たちが、宿屋代わりとしてひっきりなしに泊りに来ていました。
新婚の梅子にとっては知らない人ばかり・・・
しかし、宿の女将のように藩士たちをもてなしました。

梅子は「不逞の輩が家に来ても、自分が追い払う」といつも伊藤に言っていました。

結婚した年の12月、長女・貞子を出産・・・
しかし、伊藤はなかなか家に帰ってきませんでした。
新たな日本を作るため、江戸幕府を倒すために、各地を飛び回って暗躍していました。
伊藤は、京都の偵察に向かう際、白い粉を包み「これを着物の襟に縫い込んでくれ」と梅子に頼みました。
白い粉は、致死量のモルヒネでした。
当時の京都は、新選組が長州藩などの志士たちを血眼になって探していたため、捕まった時にこれを飲んで自決する覚悟だったのです。
梅子は、そんな伊藤の覚悟を黙って受け入れ、白い粉の包みを襟に縫い込んだといいます。
命を懸けて日本を変えようとしている夫を、私が支えるのだ・・・!!

1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還し、250年続いた江戸時代が終焉・・・
それと共に、伊藤梅子の人生も大きく変わりだしました。
大政奉還の翌年、住み慣れた下関から神戸に・・・。
博文と名を改めた夫が、廃藩置県まえに県となった初代兵庫県知事に任命されたためでした。
明治時代の神戸は、外国人の来る大切な土地でした。
それに相応しい人物・・・英語のしゃべれる伊藤の大抜擢でした。
しかも、当時の県知事は5万石以下の大名と同格の扱いで、農民出身の伊藤にとっては大出世でした。
支えてきた梅子の苦労も報われました。
まもなく次女・生子も誕生・・・順風満帆でした。

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翌年の1869年8月・・・長女・貞子が病死・・・

しかし、深い悲しみに暮れる梅子の側に夫の姿はありませんでした。
この時、新政府の大蔵少輔に昇進して東京にいたのです。
多忙のため、訃報を聞いてもすぐに神戸には戻ることができませんでした。
その後、梅子は生子を連れて東京に移り、伊藤と共に暮らしていましたが・・・
今度は伊藤が、欧米使節団に選ばれて、日本を離れてしまいました。
また留守番・・・
しかし、梅子には大仕事が残っていました。
一人故郷の山口に戻り、伊藤の盟友である井上馨の兄の長男・勇吉(2歳)を伊藤家に引き取ったのです。
親代わりとなっていた勇吉の祖母が無くなる間際に梅子に勇吉を託したためでした。

周囲の人々も、梅子の器量を認めていたのです。
海の向こうで勇吉を受け取ることを知った伊藤は、梅子に手紙を送っています。

「そなたの子としてお生同様に何も隔てなく育ててください」

その言葉通り、梅子に大切に育てられた勇吉は、後に博邦と改名し、伊藤の立派な後継者となりました。
1年9か月に及ぶ視察を終えて、日本に帰国した伊藤は、貨幣制度の導入、鉄道の建設・・・日本の近代化を推し進める政策を次々と実施します。
それらの功績が評価され、1878年、内務卿に就任します。
政治のTOPに立った伊藤が、外務卿の井上馨と共に力を注いだのが欧化政策でした。
開国の際に、欧米諸国と結んだ不平等条約・・・改正するためには、日本が西洋に負けない文明国になる必要があると考えたのです。
その欧化政策の象徴と言われたのが、1883年、日比谷に建てられた鹿鳴館です。
ここに、欧米の要人たちを招き、華やかな舞踏会を開催して日本の近代化をアピールしようとしたのです。
要人たちをもてなすのは、政府高官の妻や娘たちの仕事でした。
梅子もその一人でしたが・・・当時は、慣れない西洋文化に戸惑うばかり・・・。
梅子たちは、西洋人たちの嘲笑の的になってしまいます。
笑い者にはなりたくないと、誰もが舞踏会への参加をしり込みする中、一人気を吐いたのが梅子でした。
梅子は、英語の猛勉強を開始しました。
目が悪くなりながらも、英語で手紙が書けるまでになります。
そして、もうひとつ梅子が取り組んだのが社交ダンスです。
婦人たちを説得して、70人も引っ張り出し、大苦戦しながらも夫たちのため、日本のために練習に励みました。
梅子は子供たちに常々こう言っていました。

「人間、これが大事と思うう時には、真剣にやらなければなりません」

何事にも真剣に取り組み、社交界の華として鹿鳴館外交の一端を担った梅子に思いがけない依頼が舞い込みます。
当時、宮中で働く女官たちはまだ和装のままでした。
洋装を取り入れることになると、その制作を貴族出身でもない梅子が任命されます。
鹿鳴館で海外の貴賓を見てきたことからの抜擢でした。
梅子は、試行錯誤を繰り返し、女官たちの服を作り上げるのです。
日本政府の欧化政策には、梅子をはじめとした女性たちの奮闘が欠かせませんでした。

1885年12月、欧米諸国に習い、日本に内閣制度が発足。
初代内閣総理大臣に任命されたのが、梅子の夫・伊藤博文でした。
これによって、梅子は日本初のファーストレディに・・・
国家の顔・・・梅子は常に身だしなみを整え、首相官邸にやってくる欧米諸国の要人たちと流暢な英語で会話をし、日本人らしい心配りで人々を感心させたといいます。
こうした内助の功から、梅子は”賢夫人”と呼ばれるようになりました。

この頃、梅子の英語の家庭教師をしていたのが後に津田塾大学を創設する津田梅子・・・
津田は、アメリカの友人に向けた手紙の中で、母としての伊藤梅子をほめています。

「伊藤夫人は、子供に対してとても良い母親で、子供たち母親の言うことをよく聞き素直です」

ところが・・・
津田梅子の手紙にはこんな続きがあります。

「父の過ちや不道徳があっても問題ありません」と。

梅子の夫・伊藤博文には、過ちや不道徳があったというのですが・・・??
伊藤は、衣食住には興味がなく、金銭にも無頓着で、好きなものといえば、酒とたばこ・・・
そして、何よりご執心だったのが、女性でした。
特に芸者が大好きで、行く先々で手を出して、全く隠そうとはしませんでした。
芸者と芝居小屋に行った際には、芝居そっちのけでいちゃついていたため、役者から怒鳴りつけられたこともあったとか・・・。
新聞にも格好の餌食にされ、”明治好色一代男”といわれ、掃いて捨てるほど浮気相手がいたため箒というあだ名までつけられました。
遂には、見かねた明治天皇から・・・
「少しつつしんだらどうか」と苦言を呈される始末・・・
しかし、伊藤は開き直ってこう言ったといいます。

「とやかく申す連中の中には、密かに囲い者などを置いている者もいますが、私は公に許された芸者と遊んでいるだけです」

公然と芸者遊びをする伊藤は、浮気相手を自宅にまで呼んでいたようです。
しかし、梅子はそんな夫に腹を立てることなく、芸者に対し、「ようこそいらっしゃいました」と笑顔で出迎え、芸者の食事や着替えまで用意してやり、時には悩みまで聞いてやり、母親が病気だと聞くと伊藤に早く返してあげるように頼んだといいます。

しかし、伊藤は優しく、自分にとっての一番の女性は梅子以外の何物でもないと細やかでした。
夫の浮気に対して寛容だった梅子でしたが、すべてを許したわけではありませんでした。
それは伊藤が住み込みで働いていた若い女中に子供を産ませた時の事・・・

「あの子の人生を台無しにするおつもりですか!?」

女遊びにも、最低限のルールがあると、烈火のごとく怒りました。
梅子は伊藤が女中に産ませた子供を引き取って、自分の子供と一緒に育てました。
伊藤としては頭の上がらない大きな女性でした。

夫を寛容な心で許し、何があっても支え続けてきた梅子には、意外な趣味がありました。
花札です。
夫の伊藤は、かけ事を好まなかったので、花札が大嫌い・・・
そこで、梅子は、伊藤が寝た後、近所に住んでいた西園寺公望や井上毅などを家に呼んでは花札に興じていたといいます。
時には、目を覚ました伊藤に見つかってしまい、怒られることもあったようです。
それでも梅子は、終生、花札をやめませんでした。
梅子なりのストレス解消法だったのかもしれません。

伊藤梅子と夫・博文の間に生まれた子供は、3人だったと言われていますが、成人したのは生子一人でした。
しかし、用事の博邦や、伊藤が他の女性に産ませた子供も引き取って育てていたため、40代の梅子は多くの子供や孫たちに囲まれて育ちました。
そんな中、1894年日清戦争勃発!!
1万3000人以上の犠牲を出しながらも、清国に勝利した日本は、台湾と遼東半島を手に入れます。
国民は大いに歓喜し、二度目の総理大臣を務めていた伊藤の人気も高まります。
しかし・・・その翌年、日本のやり方を快く思わないロシア・ドイツ・フランスが遼東半島の返還を要求します。
伊藤はこれを承諾し、遼東半島を返還しましたが、日清戦争の勝利に酔いしれていた国民は、これを弱腰外交とし、伊藤を裏切り者とする者まで現れました。
伊藤が三国干渉を受け入れたのは、これを拒否すれば西洋列強の三国と戦争になると判断してのことでしたが・・・
苦渋の決断をしたその思いを、伊藤は梅子に手紙で打ち明けています。

「再び戦を始めて、数万の人を殺すよりも、土地を返還した方がよい
 わからず屋が喧しく騒ぐだろうが、儂は日本のためにこうしたのだ」

伊藤の心のよりどころとなっていた梅子・・・伊藤もまたそんな梅子を気遣い、普段は金品の贈答を嫌って何を送られても受け取ろうとしませんでしたが、梅子が盆栽いじりを趣味にするようになると、「妻が喜ぶから・・・」と、盆栽だけは受け取ったといいます。

その後、伊藤は・・・
1898年第3次伊藤内閣発足
1900年第4次伊藤内閣発足
1905年12月、韓国統監府の初代統監に就任します。
当時、日本は韓国を実質的な支配下に置いていて、韓国統監府はその統治機関として漢城にありました。
当然現地の反日感情は強く、伊藤は死を覚悟して韓国渡り、教育の振興や宮中の改革など統治政策に尽力していきます。
これまで明治政府の樹立、大日本帝国憲法の制定、内閣制度の確立、初代韓国統監に就任・・・
日本という国を背負い大役を果たしてきた伊藤・・・その激動の時を、陰に日向に共に生きてきた梅子でしたが、すでに還暦を過ぎていました。

韓国統監を退いても、海を渡る伊藤を見送らなければなりませんでした。
1909年10月26日、伊藤は満州のハルビンに到着します。
ここで、ロシアの大蔵大臣と会談し、満州や韓国についての日本の方針を説明する予定でした。
しかし、伊藤がハルビン駅のホームで出迎えを受けていると・・・
3発の銃弾が伊藤を襲ったのです。
撃ったのは、日本の韓国支配に反対する韓国人独立運動家・・・
伊藤は撃たれた後も、意識はありましたが手当の甲斐なく死亡・・・69歳でした。

梅子のもとに、夫の死を知らせる電報が届いたのは、それから間もなくのことでした。
一瞬狼狽したものの、梅子の目から涙がこぼれることはありませんでした。
どうして・・・??
伊藤はかねてから梅子に言っていました。

「自分は畳の上では
 満足な死に方はできぬ
 敷居を跨いだ時から、これが永遠の別れになると思ってくれ」

2人が出会った時も、伊藤は命を狙われていました。
それからも、常に危険と隣り合わせ・・・
夫が家を出るたびに、これが今生の別れになるかもしれないと言い聞かせてきました。
その覚悟があったからこそ、夫との突然の別れに涙を流さなかったのです。
しかし、梅子は伊藤が無くなったその日、こんな歌を詠んでいます。

国のため
 光をそえて
  行きましし
君とし思へど
 悲しかりけり

梅子は心の中で泣いていたのです。
その後、梅子は伊藤と離れていた滄浪閣を離れ、娘である生子の嫁ぎ先に移り住み、1924年4月12日、多くの家族に見守られながら77歳で亡くなりました。
激動の時代を駆け抜け、近代日本を作った伊藤博文を支えてきた日本初のファーストレディ・伊藤梅子・・・

「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
 その次はおかかである」

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明治維新の立役者の一人・西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりのために邁進出来たのは、ある一人の男の存在があったからでした。
薩摩藩11代藩主・島津斉彬です。
斉彬が亡くなった際に、西郷は後を追って死のうとしたと言われています。
西郷がそこまで惚れ込んだ島津斉彬とは・・・??

1809年・・・薩摩藩10代藩主・斉興の嫡男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心な人で、乳母をおかずに自らの手で斉彬を育てました。
6歳の頃から中国の書物を越えに出して読むことや、絵画、和歌などを母に厳しく教えこまれた斉彬は、やがてこう呼ばれるようになります。
”二つビンタ”・・・ビンタとは、薩摩弁で頭の事・・・斉彬は、まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理できたというのです。
その噂を聞いた幕府の重役たちは、
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったなら幕府の老中となって活躍できたろうに・・・」
と、残念がったといいます。

斉彬は趣味も多彩、体格にも恵まれ、威風堂々としたものでした。
藩主になるべくして生まれた男・・・しかし、40歳を過ぎても藩主には慣れませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
というのも、斉興は19歳で藩主になったのですが、実権は父・重豪が握っており、斉興が名実ともに藩主になれたのは、重豪が亡くなってからのことでした。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実験を握った斉興でしたが、待っていたのは深刻な財政難でした。
原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも交流を深めるなど西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒・・・蘭癖と呼ばれるほどでした。
それは、薩摩藩の置かれた環境が強く影響しています。
薩摩藩は、現在の鹿児島県、宮崎県、沖縄県にひろくありました。
しかも、沖縄は、名目上琉球国王が支配する・・・藩の中に外国があり、貿易をしていました。
海外からの物資や情報、文化が薩摩藩に流入していました。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダや中国などの知識を吸収、画期的な開化政策を打ち出す一方で、金に糸目をつけずに新しいものや珍しいものを収集します。
さらに、藩校である造士館や天文館などを建設、藩の財政を圧迫していきました。
一時は500万両・・・今のお金で5000億円もの借金をしていました。
その莫大な借金を再建することが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球王国を隠れ蓑にした密貿易・・・抜け荷の拡大などで財政の立て直しを図っていくのです。

努力の甲斐あり、10年後には50万両もの備蓄ができるほどに持ち直します。
その功績を花道に、斉興は嫡男・斉彬に家督を譲っても良かったのですが、そうはしませんでした。
その原因もまた、重豪にありました
斉彬は幼い頃、重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響は、大きかったといいます。

斉彬は重豪の蘭癖を継承・・・多くの蘭学者たちを優遇し、洋書の翻訳をさせたり、自らオランダ文字で日記をつけたり蘭学に熱中・・・
曽祖父と同じ蘭癖と称されるようになるのです。
蘭癖は、藩の財政を揺るがすもの・・・そう考えていた父・斉興は、
「斉彬が藩主になったらまた藩の財政が悪化してしまう!!」
そう恐れたため、斉彬が30代半ばを過ぎてもなお、家督を譲らなかったのです。


nariakira父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖・・・
その証拠が、尚古集成館に残っています。

銀板写真・・・日本人が銀板写真に写っているのは、この島津斉彬だけです。
その外に、地球儀なども残っています。

19世紀半ば、イギリスやフランスなどの西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では東アジア最強と目されていた中国の清がイギリスに負け、開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にも、フランス船やイギリス船が度々来航・・・
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。

幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し、守りを固める様に命じますが・・・
斉興は少数の兵を短期間派遣しただけで、幕府には、指示通り兵を送ったと報告しました。
西欧列強が相手では、琉球を守るどころか薩摩藩自体も危ういと判断し、日本と西欧列強の差を縮めるべく、藩の軍事力を強化しようとしたのです。
その外に、武器の近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に、斉彬が・・・
「より近代化が必要!!」
しかし、藩の財政を第一に考える斉興は、これ以上の近代化は不要と一蹴・・・真っ向から対立していきます。

斉興が、藩主の座を譲らない理由は他にもありました。
朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩士は、通常ならば四位どまりなのですが、斉興は、財政再建をした功績によって、その上の従三位を与えられるのではないかと期待していました。
その為、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に藩主の座を譲る気などなかったのです。

30代半ばを過ぎても藩主になれない島津斉彬・・・
しかし、跡継ぎであることに変わりはなく、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が大きな波紋を呼びます。
参勤交代で江戸に滞在する時、留守中の薩摩のことは斉彬の弟の久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主就任を望む藩士の一部は弟の久光が藩主になるのでは??と勘繰ります。
しかも、それを陰で操るのが久光の母であり斉興の側室であるお遊羅の方だと考えるようになります。
そのさ中、斉彬の息子二人が病死・・・
斉彬の家臣達は、お遊羅の方の呪いではないかと噂をはじめます。
というのも、実際に呪符が見つかったからです。
しかし、これは、琉球にやってきた外国人を呪った父・斉興が作ったもの・・・??
全ては勘違いだったのですが、早合点した斉彬方の家臣達は、”このままでは、斉彬さまが呪い殺されてしまう!!”と、陰で操るお遊羅の方を暗殺しようと企てました。
ところが、これがお遊羅の方を寵愛する斉興の耳に入り、激怒!!
1849年、斉彬派を処罰します。
12人が切腹、38人が貼り付けや島流しの刑に処されるのです。
こうして、父との対立は深まっていくかに見えましたが・・・
このお家騒動が幕府の知る処となり、斉興は責任を取って、1851年隠居届を提出します。
斉彬は、ようやく11代藩主となるのです。
この時すでに43歳・・・!!

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薩摩藩士となった島津斉彬は、西洋列強に対抗するため、軍備の強化、近代化を推し進めていきます。
それは、鎖国体制の日本にあって、先駆的なものでした。

・洋式船の建造
当時、日本近海にやってきていた西欧列強の巨大な軍艦は、鉄製で蒸気によって動き、大砲を何本も装備していました。
たいして日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出ていたため、大きくても米を積む500石積の船しか作ることが出来ず、大砲も搭載できませんでした。
斉彬は、外圧に晒される今、日本も大型船を作る必要があると考えていました。
そんな中、浦賀に黒船が来航・・・幕閣たちも、ようやく西洋の軍艦の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃しませんでした。
幕府に大型船建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そしてすぐに、西洋風の大型船の製造に着手・・・
全長30m、砲16門を搭載する西洋式軍艦昇平丸を完成させたのです。
その後も、大型船の建造を続け、日本初の蒸気船も完成させています。

・鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る博物館・尚古集成館の敷地内にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・!!
反射炉跡が残っています。
反射炉とは、燃料を燃やして発生した熱を、天井に反射させて炉の中を高温に保つことで金属を溶かす施設・・・
これを使って、斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしたのです。
しかし、当時、こうした反射炉を作る知識は日本にはなく、完成までには大変な苦労がありました。
斉彬は、既に反射炉を作ることに成功していた佐賀藩から、オランダの書物を取り寄せ、それをもとに研究を開始します。
西洋式反射炉の建設に取り掛かります。
しかし、外国語の書物のみが頼りとあって、失敗を繰り返します。
そこで・・・耐火煉瓦は薩摩焼の技術を使って作り・・・何度も諦めかける家臣たちにこう声をかけます。

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せずますます研究すべし」

藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
あわせて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は、他にもガラス工場や、蒸気機関研究所などを建設、そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといわれています。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が、世界に認められたのです。

斉彬は幕府に対して日の丸を日本の船のしるしにするように提案します。
もともと、日本の船は帆が一つしかないなど、世界的にも特異な形であったため、外国船と間違われることはありませんでしたが、日本で洋式船を製造するとなると判断するのが難しいので、日本の船であると示す必要があると考えたのです。
日の丸は、古くから日本人が使っていたようですが、そのデザインは様々でした。
丸が三つ、五つも書いたデザインもあったのです。
この時、斉彬は白地に赤い丸ひとつを書いたサンプルを作成し、提案します。
幕府もそれを認め、1854年、日の丸を日本の船印に採用しました。

日本を守るために西洋式の軍艦や大砲を作るなど軍備の近代化を進める島津斉彬・・・
一方でこんな言葉を残しています。

「第一人和」

斉彬が一番大切に思っていたのは、人の和でした。
人の和は日本を守る城となる!!
人の和を生み出すためには、人々に豊かな暮らしを保証することだとも言っています。
斉彬は、軍備以外にも様々な産業を興しています。
国民の豊かな暮らしを目指し、近代化に取り組んだのです。

斉彬は、紡績、ガラス、出版、酒造りといった産業の育成にも力を入れました。
中でもガラスは、薩摩切子と呼ばれ、新しい工芸品を生み出します。
薩摩切子は、今でも日本を代表する工芸品で、高く評価されています。
斉彬は、外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼に対しても、外国人の好みに代えろと指示し、あでやかなものとなっています。
そして、パリ万博で高い評価を得て、大量の薩摩焼が海を渡ることとなります。

島津家の別邸・仙厳園・・・桜島を望むこの美しい庭園にも斉彬が残した遺産があります。
日本初のガス灯の実験が行われました。
斉彬は、城下をガス灯で照らそうと考えていたといいます。
研究と実験を重ね、西欧の技術を習得し、次々と産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・

「薩摩だけ強く豊になっても意味がない・・・」

そういって、持てる技術と知識を惜しみなく幕府や他の藩に教え、視察も喜んで受け入れたといいます。

斉彬は、日本が挙国一致体制で富国強兵策を・・・!!という考えでした。
それが、やがて明治政府によって実現され、斉彬の唱えた富国強兵を明治政府が展開していくこととなります。
斉彬が目指したもの・・・それは、まだ見ぬ維新という新しい日本の姿でした。

斉彬は、人材育成にも長けていました。
身分にとらわれず、優秀な若者を見出し、意見を求め、藩の政治に取り入りました。
斉彬はこう言っていました。

「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない
 偏屈な男こそ、国の宝である」

そう考える斉彬に取り立てられた若者たちの多くは、藩の中心人物に・・・そして、激動の時代、まさに非常事態に対応し、日本を背負う人物に大きく成長していきました。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬が、下級藩士だった西郷隆盛を初めて知ったのは、大量に届いた建白書によってでした。
当時、薩摩藩郡方書役助だった西郷が、農家や村を指導監督する中で、農民が思い年貢などに苦しみ困窮している状況を知ります。
そして、その改善策と共に、悪性を訴えた建白書を、斉彬に何度も提出・・・
斉彬はこれを高く評価し、そこで、藩主として江戸に赴く際に西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れていきます。
庭方役とは、何種の用事を藩邸の庭先で聞く役職のことです。
西郷を、諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、斉彬の信頼は厚いものでした。
この時、人脈や、政治的視野が広がり、西郷は明治維新の立役者となります。

1856年・・・時の将軍・・・第13代家定の婚礼が行われました。
花嫁は、島津斉彬の養女・篤姫です。
この結婚・・・斉彬が篤姫を政治利用したと言われていますが・・・その真相とは・・・??
当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発していました。
家定は体が弱く、世継ぎが見込めなかったため、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補の上がったのは、2人・・・
一人は紀州藩主・徳川慶福・・・慶福を推したのは、譜代大名・彦根藩主・井伊直弼で、南紀派と呼ばれていました。
もう一人は、一橋家当主・徳川(一橋)慶喜で、慶喜を押したのが、老中・阿部正弘ら一橋派でした。
斉彬は、この一橋派でした。
次期将軍を決めるのに大奥の意見が強く影響すると知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせ、大奥に入れることで慶喜擁立を有利にしようと工作したのではないか?といわれています。
しかし・・・この縁談話は、家定が将軍になる3年も前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を二度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
その為、幕府は次は武家から迎えたいと考えます。
そこで、候補に挙がったのが島津家でした。
というのも、良い前例がありました。
11代将軍・家斉が、正室に迎えたのが、茂姫・・・斉彬の曽祖父・重豪の娘でした。
その後、家斉は、将軍在位50年と歴代最長を記録し、正室、側室の間に53人もの子を設けました。
子供ができなかった家定も、島津家から妻を迎えれば死別せずに子宝に恵まれるのでは??と、考えたのです。

つまり。斉彬は、幕府からの要請を受け、篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしただけで、将軍後継問題とは関係がなかったのです。
どうして斉彬は篤姫を政治利用したと思われたのでしょうか?
黒船の来航や、江戸の大地震などで婚礼が先延ばしになり、将軍継承問題が盛り上がるころに輿入れとなったため、送り込んだという誤解が生まれたのです。
嫁いで1年後・・・待望の世継ぎは出来ませんでした。
斉彬が動いたのはこの時・・・信頼していた西郷隆盛を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にしました。
そして、次期将軍として慶喜の将軍擁立を画策。

1858年、南紀派の井伊直弼が大老に就任・・・
その権限によって、慶福が14代将軍となりました。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて京に向かうため、西郷にその準備を命じたのです。
その行動は、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍にしようとしたのではないかとも考えられますが??

「西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!」

斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点があったのです。

それから間もなく、斉彬が病に倒れます。
死期が近いことを悟った斉彬は、弟の久光らを枕元に呼び遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは、嫡男ではまだ幼いため、久光か、その長男の忠義のいずれかにするようにと・・・。

そして・・・1858年7月16日、島津斉彬死去・・・50歳で生涯を終えました。
明治という新しい時代を見ることなく・・・・・!!

日本の行く末を案じながら、その生涯を終えた島津斉彬・・・
しかし、その遺志は受け継がれ、日本を新しい時代へと導いて行きます。
島津家の家督は、弟の久光が辞退したため、その息子・忠義が相続しました。
久光は、後見役を務めました。
そして、久光は、斉彬の遺志を継ぎ、西郷たちと共に幕末から明治維新へかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、順聖院様御深志(斉彬)の遺志の実現でした。
それは、幕府、朝廷、藩という枠を超えた挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地にされないような国にすることです。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の目的を持っていたからこそ、薩摩藩士たちは分裂せずに明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
その一人、西郷隆盛は、新政府の中心人物として廃藩置県や警察制度の導入などに関わり、近代国家の礎を築きました。
そして、西郷同様下級武士から出世した大久保利通は、富国強兵を明治政府のスローガンとし、殖産興業政策を推進・・・富岡製糸場などの官営模範工場を日本各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。

斉彬は、近代日本のプランナーだったのです。
日本を強く豊かな国にすることを夢見て、実現に向けて邁進し、様々な功績を残した幕末の名君・・・島津斉彬・・・

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」by勝海舟

斉彬がいたからこそ、明治維新があった・・・そう言っても過言ではありません。

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時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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新紙幣・・・1万円の顔となった渋沢栄一・・・
明治時代、日本最初の銀行や、製造業、鉄道、ホテルなど500の会社を設立、日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
次々に会社を興した経済人としてのイメージが強い渋沢ですが、別の顔があります。
日本の社会福祉事業の創始者です。
完成して間もない鹿鳴館でチャリティーバザーを開催、貧しいに人々の救済に奔走します。
貧民は経済発展の邪魔だといわれる中、悪戦苦闘します。

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こちらは、渋沢栄一の風刺画です。
まるで千手観音のように色々なものに手を出していたというものです。
実業家としての渋沢栄一ではなく、福祉事業家としての渋沢栄一とは・・・??

1867年、一隻の大型汽船が日本からフランスへと向かっていました。
15代将軍慶喜の義弟・徳川昭武を長とするパリ万博使節団一行です。
その中に、28歳の渋沢栄一の姿がありました。
渋沢は、武蔵国の豪農の息子でしたが、その才覚を認められ、幕臣として随行を許されたのです。
到着したパリは、万博を契機に大きな経済発展を遂げていました。
日本が足元にも及ばないこの発展は、どのようにしてできたのでしょうか?
渋沢は、その源泉をパリで出会った一人の銀行家から学びます。
フリュリ・エラールは、渋沢を銀行や株式取引所に案内し、資本主義のシステムを教えます。
銀行や株式会社は、人々から集めたお金で投資、そこで得たもうけを人々に還元する・・・
この資本主義の仕組みを使えば、巨額の資金を調達でき、フランスの発展の原動力となっていたのです。
渋沢は、パリで髷を切り、決意します。

「銀行や株式会社などの資本主義のシステムを日本に作ろう」

渋沢がパリにいた頃・・・
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発!!
これに勝利した薩長を中心に明治政府が樹立しました。
帰国した渋沢は、1873年民間人の立場で日本人で初めて銀行(第一国立銀行)を設立。
国立とあるが、国の法律にのっとるというもので、あくまで民間の銀行でした。
かくして、渋沢は日本の資本主義の父として第一歩を歩み出したのでした。

一方、渋沢にはもう一つの顔がありました。
東京都板橋区の一角に建てられた銅像・・・渋沢栄一の銅像です。
こここそ、社会福祉事業家・渋沢栄一の原点でした。
渋沢が終生関わった東京養育院という福祉施設のあった場所です。

1872年鉄道開設。
東京は文明開化を迎え、大きく変貌を遂げようとしていました。
しかし、その一方で、繁栄から取り残され住む家を失った人々も街にあふれていました。

江戸幕府の瓦解により、100万都市といわれていた人口が50万人に・・・。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝るところにも困窮していました。
渋沢は、この現状を目の当たりにして、何とか方法はないか??助けることはできないか??と、強い問題意識を抱いていました。

1874年、渋沢にとって好機が・・・!!
東京府知事大久保一翁から依頼を受けます。
「七分積金の運用を引き受けてくれないか?」と。
七分積金とは90年前、松平定信の寛政の改革にさかのぼります。
その際に行われた政策の一つで、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収し、備蓄していたのです。
飢饉や災害が起こった時に御救い米として放出し、江戸庶民のセーフティーネットとなっていました。
さらに、松平定信は人足寄場を作っています。
浮浪人に大工やわらじづくりなど手に職をつけさせ社会復帰させる更生施設です。
江戸幕府が瓦解すると、七分積金は、そのまま東京都に引き継がれました。
この時七分積金の総額は、170万両・・・今の金額で170億円でした。
この江戸幕府の遺産に目をつけたのが、財政のひっ迫していた明治政府でした。
文明開化の時代、橋や道路の補修、連歌外建設・・・インフラ整備に流用しました。
元幕臣だった大久保東京府知事は、「七分積み金を困窮者の救済のために使ってくれ」と、渋沢に要請。
渋沢は早速、行動を起こします。
彼は、東京養育院という生活困窮者の救済施設を訪れます。
そこで愕然・・・子供も老人も、病人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれていました。

「頗る乱雑を極めている
 その実情を見て、全く情けなく感じた
 いかに無料で収容しているにしても、これではあまりにも気の毒だと考えた」

ホームレスのような人々を、収容するだけの施設・・・
「その人たちをどうするのか?」という目標もなければ、施設自体をどのように維持させていくのかも考えていませんでした。
「社会全体で事業として確立させなければいけない」と、福祉という活動に非常に強くのめり込んでいきます。
渋沢は、七分積み金を使って、養育院の改革に乗り出します。
近代的な診療施設を設置、職業訓練所を設け、草鞋つくりなどの技術を学ばせ手に職をつける職業訓練所を作り社会復帰を支援、子供達には学問所で学ばせ知識をつけさせます。
渋沢は、七分積み金の生みの親である松平定信を生涯進行していました。
松平が行った構成システムにあるべき社会の姿を見ていました。

渋沢の談話集「論語と算盤」・・・渋沢は、論語と算盤を結び付けて理想の社会を説こうとしました。
”論語と算盤は、はなはだ不釣り合いで大変にかけ離れたものであるけれども、富をなす根源は何かといえば、仁義、道徳。
 論語と算数というかけ離れたものを一致せしめることが、非常に重要だ”

日本初の銀行設立を皮切りに、渋沢は、近代化に必要な基幹産業を次々と立ち上げ、日本資本主義の父として華々しい活躍をしていきます。
その頃、その手腕を見込んでオファーが・・・
主演の席に招かれた渋沢栄一、招待したのは三菱の創業者岩崎弥太郎でした。
当時、岩崎は日本の流通業である海運業を独占し、経済界の大立者として権勢をふるっていました。

「君と僕が堅く手を握り合って、事業を経営すれば、日本の実業界を思う通に動かすことができる
 これから二人で大いに大いにやろうではないか」by弥太郎

「いや・・・独占事業は、欲に目のくらんだ利己主義だ」by栄一

市場の独占を狙う岩崎弥太郎、多くの株式会社が自由に市場に参入することが資本主義社会の原則だと思っていた渋沢。
渋沢は、岩崎の申し入れを断って席を立ちました。

1881年、東京府庁・・・渋沢は寝耳に水の知らせを受けます。
東京養育院の廃止案が東京府議会に提案されたのです。
1879年から養育院は、東京府の税金で運営されていました。

「貧民を救うために、多額の税金を使うことは止めろ」
「渋沢は、惰民製造の本尊だ
 渋沢が余計なおせっかいをするから惰民が増加する!!
 養育院にいる惰民はみな、一時に追い出せ」by田口卯吉

渋沢は、真っ向反対します。

「一国の首府にして、これ位な設備を置いて窮民を救助すると云うことは、絶対に必要である
 顧みざるはこれぞ暴涙の政になる」

渋沢は、議会に廃止案の撤回を働きかけますが、多くの議員は支持しました。
この頃、明治政府は富国強兵をスローガンに、産業の近代化を推し進めていました。
紡績や造船などの工業を発展させ、西欧列強に対抗する国にしようというのです。
富国強兵論者からすれば、東京養育院の維持費は無駄・・・それは弱者の切り捨てにつながりました。

「もしこの施設を欠けば、餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう
 将来を遂行すれば、廃止すべきものではない」

渋沢にとって養育院の廃止は、あり得ないことでした。
養育院の人々の命と生活を守り、そこからどう抜け出せばいいのか・・・??
困窮者を惰民と決め付ける議会と真っ向対決する渋沢・・・!!

①養育院を税金で維持??
社会福祉事業は、政府・自治体のバックアップが必要だ・・・
之を失うわけにはいかない・・・
幸い府議会には、懇意にしている議員がたくさんいる。
彼等に味方になってもらおう!!
しかし、養育院の人たちを惰民という人たちは、理解してくれるだろうか・・・??

②民間資金で運営継続
養育院はかけがえのない場所・・・
経済界で築き上げたネットワークを駆使し、民間企業から出資者を募るのはどうか・・・??
500もの企業に携わってきた私だ・・・必ず協力者がいるはずだ・・・!!
しかし、株式会社は営利が第一目的・・・利益の出ない養育院に理解を示してくれる人はいるだろうか・・・??

渋沢栄一の必死の訴えにもかかわらず、1884年には東京養育院の廃止が決定。
そこで渋沢は、こう啖呵を斬ります。
「府會がそれほどまでに無情であるならば、今後は養育院を独立せしめて経営するの策を、取らなければならぬ」

渋沢は、養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出ます。
民間資金で運営継続を選んだのです。

しかし、運営資金はどのように捻出するのでしょうか?
ここから渋沢の挑戦が始まりました。
まず、渋沢が目をつけたのは、完成したばかりの鹿鳴館です。
西洋流の社交の場として舞踏会などが催されていました。
そこで、渋沢は政府高官や財界の婦人たちに働きかけ、1884年日本初のチャリティーバザーを開催。
手袋、足袋、人形、絵画など・・・身の回りのもの3000もの品をオークションに出品。
売り上げは3日間で7500円・・・今の6800万円にも上ったと言われています。
さらに渋沢は、財界の篤志家を一人一人たずね、多くの経済人から寄付を仰ぎました。
寄付者の名簿の最初には、渋沢栄一の名が・・・
次に三井財閥の幹部、大倉財閥の設立者が名を連ねます。

渋沢は、寄付を集める時、必ず大きな袋を持ち歩き、それを差し出しました。
実業界の大物・渋沢に促されると、誰も寄付を断れません。
人々は陰でこのかばんを”泥棒袋”と呼んでいました。
中には、冗談交じりにボヤく人も・・・
「渋沢さんが、寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう
 渋沢さんに長生きされては、こちらの身代がもたないよ・・・」

福祉事業・慈善事業は、事業自体を長く永続させ、社会に定着させるためには、福祉事業を維持させるための資金を活用する集める方法を自分達で考えなければならない・・・
こうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用し、資金を増やしていきます。

東京養育院の資金・・・
1885年には3万5031円(2億9800万円)だったのが、1890年には11万8104円(8億8500万円)とまで増え、寄付の文化のなじみの浅い日本で、渋沢は社会福祉事業の資金を着実に増やしていったのです。
その後、養育院は拡大し、収容者も増えていき、東洋一の福祉施設となりました。

そして渋沢は、福祉活動の対象を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や、病気で苦しむ人たちにも広げ、医療や学術研究の施設の設立や運営に協力していきます。
さらに、当時はほとんどなかった保育所の構想も練っていきます。

”母親が安心してこの子を委託し、日が暮れるころには仕事が終わり、子を連れに来て伴って帰るというようなよいしっくみを作ったなら、非常に良いと思います”

ここには、一般の人々の普通の生活も福祉で支えようという思いが伺えます。
1909年70歳となった渋沢は、経済界から引退します。
しかし、社会福祉活動は、終生つづけました。

1929年、世界大恐慌・・・
日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われます。
国会では、貧困者を救う救護法が制定。
救護法とは、貧困者を救護することを国や自治体に初めて義務化したもので、後の生活保護法につながります。
しかし、法が制定されても、政府は予算がないことを理由に実施を延期します。
このまま貧困者の窮状を見逃してもいいのか・・・??
福祉活動家たちは、最後の頼みとして渋沢を頼ります。
救護法実現のための協力を仰ぎます。
この時、渋沢は91歳・・・病気と闘っていました。
活動家たちの話を聞くと・・・
「私はもうどれだけ生きられるかわからない
 私の命をみんなに与えていくのは本望だ」

そして、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替え、大蔵大臣にこう訴えかけます。
「私たちが一生懸命働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそみなさんに役立てていただきたいからでありました
 渋沢の最後のお願いです
 救護法を実施してください」

2年後の1932年、大蔵大臣は、予算を工面してようやく救護法を実施。
24万人もの人々が救護されました。
しかし、救護法実施を見ることなく、前年の1931年渋沢栄一逝去・・・92年の生涯でした。

東京都板橋区の一角にある銅像・・・
その隣にそびえたつ巨大な東京都健康長寿医療センター・・・
ここは、かつて渋沢が終生関わった東京養育院のあった場所です。
現在はお年寄りの医療や、リハビリで最先端の取り組みを行っています。
渋沢の思想を受け継いで・・・その場所は、日本有数の医療施設として人生100年の老後を支えています。

渋沢は晩年、各地で公演を活発に行い、日本の資本主義の在り方を訴えました。
それをまとめたのが、「論語と算盤」です。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する
 ただし、それに伴って、肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかというと、残念ながら”否”と答えざるを得ぬ
 仁義道徳と、生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります」


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今年、20年ぶりに日本の紙幣が一新されることとなりました。
1,000円札には日本近代医学の父・北里柴三郎
5,000円札には日本女子教育の先駆者・津田梅子
そして10,000円札に起用されることとなったのが、日本経済の父・渋沢栄一です。

時は幕末から明治へと移り変わる時代の大変革期・・・
そんな頃、近代化において数々の偉業を成し遂げたのが渋沢栄一です。
日本で初めての銀行を作るほか、色々な会社を作ります。
生涯に携わった数・・・500社余り・・・。
今も日本経済の屋台骨を背負っています。
しかし、具体的に何をしたのか・・・??
その真の姿とは・・・??

1867年、横浜港からフランスに向けて一隻の船が出航しました。
船に乗り込んでいたのは、パリ万国博覧会幕府使節団。。。そして、そのまま留学することになっていた慶喜の異母兄弟・徳川昭武でした。
この使節団一行に、庶務兼会計係として随行していたのが、幕臣・渋沢栄一、27歳でした。
将軍慶喜からその能力を買われて、直々に昭武のお供を命じられたのです。
その時の決意・・・
”彼の国の長所を探り 我が国のものとせねばならない”
幕府は黒船来航以来、欧米列強の国力の差を見せつけられていました。
そこで、幕府は、一刻も早く追いつかねばと、フランスでその国力の秘密を探らせ、慶喜に報告させることにしたのです。

4月11日、パリに到着した渋沢は、見るものすべてに圧倒されます。
整備された上下水道、黒煙をあげて疾走する蒸気機関車、そしてエレベーターや発電機など・・・最新の技術の数々・・・

「こんなものを作る費用は、どうやって集めているのだろうか?」

渋沢が探ったフランスの国力の秘密とは・・・??
大きなカルチャーショックを受けた渋沢が向かったのは、理髪店でした。
その誇りである髷を切り落としました。
渋沢は、先進文明に触れ、多くの知見を得たいと考えていました。
そのためには、いつまでも誓った文明文化の姿をするのではなく、郷に入れば郷に従え・・・
フランスの文化に染まり、溶け込むことでより良い情報が得られると考えたのです。
全ては、フランスの国力の秘密を探るためでした。

経済の仕組みを教えてくれたのが、銀行家フリューリ・エラール氏でした。

「国に豊かさをもたらしているのは、役人ではなく銀行と株式会社です。」

エラールが渋沢に教えた秘密は・・・資本主義の根幹となる銀行と株式会社の存在でした。
銀行が個人から資金を集め、まとめて貸し出す・・・大規模な事業を可能にし、会社もまた個人に株を買ってもらってそれを元手に商売をし、その利益を配当として還元する・・・
そうすることで、個人、企業、国も豊かになっていく・・・このシステムがフランスを支えているのだと。
それを円滑に行うためには、官尊民卑がないこと・・・。
そして、民間人が政府に従って行うのではなく、両者が対等の立場であることが大切だという事。
フランスの国力の秘密は、民間人が政府と協力して行う銀行と株式会社の仕組みにあったのです。
渋沢はこれを合本法と呼び、日本への導入を決意します。

こうしてフランスの豊かさを渋沢が掴み始めた頃・・・日本ではとんでもないことが起こってきました。
渋沢をフランスに送り込んだ将軍慶喜が大政奉還!!
徳川の世が突如終わりを告げたのです。

1840年、渋沢栄一は、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)に、農家の長男として生れます。
農家といっても渋沢家は裕福でした。
父親が詳細を発揮し、染め物などに使われる藍の葉の買い付けと河口で財をなしていました。
そんな父親から、幼い頃より熱心に学問を授けられました。
6,7歳のころから「三字経」・・・当時の農民は、農業に支障をきたすため、文字を読む必要はないとされていました。
しかし、よりよい生活をしていくためには、教養を身につけるべきだろ渋沢の父は考えていたのです。
父から様々な学問を学んだ渋沢が、驚くべき商才を発揮するのは、わずか13歳の時でした。
不在の父親に代わって藍の買い付けに行った時の事・・・
子ども相手だと見下していた農家に対し・・・
「何だこの藍は・・・肥料が足りない、別の物はないのか?」と、ベテランの目利きのような口ぶりで、周囲の大人を圧倒!!
次々と農家を口説き落とし、良質の藍の葉を手に入れたのです。
渋沢は、人を説得する際には信念を持って話をし、誠実な態度で信頼・信用を得ていました。
人をうまく巻き込む才能が渋沢にはあったのです。

そんな渋沢が17歳になった時、その後の人生を大きく決めることが・・・
村を治めていた代官から渋沢の家に呼び出しがあり、父親の代理で出向いたところ・・・
「500両を納めるよう申し渡す」
「500両と突然言われましても、年貢は毎年納めております
 すぐにはお答えできません」
「何をぬかすか、この若造が!!これは命令じゃ!!」
今のお金で5000万のお金を出すというような理不尽な命令をされても、農民だから逆らえない・・・。
渋沢にかつてない怒りがこみ上げてきました。

”その時に、始めて幕府の政事が善くないという感じが起こりました” 

全ての元凶は、代々受け継ぐというシステムを作った徳川だ・・・!!

当時は尊王攘夷論が流行っていた頃で、渋沢もその思想に傾倒し、江戸に留学、漢学者の塾に通い剣術などを学んだあと村に戻り、同じ考えを持った若者を募り、攘夷作戦を実行しようとします。
その作戦は・・・??
一気に蜂起し、近くの高崎城を占拠、その後横浜の外国人居留地を焼き打ちし、手当たり次第に外国人を斬り殺すというとんでもない過激なものでした。
世の中の不条理を排除していかなければよりよい社会にならないと思ったようです。
それは、自分たちの生活を守るという意識が強かったのです。

結局渋沢は、周囲の説得を受け・・・生き長らえて世の中を変えていこう・・・と計画を中止しましたが、時すでに遅し・・・!!
渋沢は、幕府に危険人物として手配されてしまいます。
このままでは捕まってしまう・・・絶対説明の危機・・・どうやって乗り越える・・・??

身に危険が起こった渋沢は、最早村を出るしかありませんでした。
江戸遊学中に出会った一人が渋沢に救いの手を伸べます。
八代将軍・徳川吉宗の流れをくむ御三卿の一橋家の用人・平岡円四郎です。
渋沢は平岡から思わぬ提案を受けます。

「捕縛されて牢屋で死ぬぐらいなら、いっそのこと一橋家に仕官してみては・・・??」

渋沢に与えられた道は、捕縛され処刑されるか、徳川家に仕官することだったのです。
渋沢が選んだのは・・・士官の道でした。
この時一橋家の当主は、水戸家から養子になっていた一橋(徳川)慶喜でした。
渋沢は尊王攘夷派から一転、慶喜の家臣になることで、処刑の危機を脱したのです。
その裏には・・・一橋家は、当時の幕政に対して批判的な考えを持っていました。
慶喜の実家である水戸徳川家は尊王攘夷派だったのです。
渋沢も、一橋家なら・・・と、選んだのかもしれません。
24歳のことでした。

一橋家は、京都御所を守る役割を担っていました。
一橋家には譜代の家臣が少なかったため、有能な家臣を求めていたのです。
その時、慶喜は平岡から渋沢の能力の高さを聞いていたのでした。
一橋家は家臣も少なく、軍備も弱かったので、渋沢が最初にした仕事は、農兵を集めることでした。
渋沢は、与えられた役割をきっちり果たしただけではなく、先々で見た情報から一橋家の財政改革案を出していきます。

・木綿の生産高と流通機能を高めさせた
・年貢米を領地内の酒造家に買わせた
・領地内に硝石を火薬にする製造所を作った

後に、日本経済の父となる商才が、慶喜に認められた瞬間でした。

徳川慶喜が、第15代将軍に就くことになりました。
渋沢は、遅かれ早かれ幕府が倒れることを考えていた渋沢にとって、慶喜の将軍就任はあってはならないことでした。
渋沢は、危うい状態にある幕府の将軍就任は、負担が大きいだけで意味がないと反対します。
そして、幕政を批判していた自分が、幕臣になることに抵抗があったのです。
慶喜が将軍となった事で、渋沢は未来に展望を見いだせず、悶々とした日々を過ごすことに・・・。
そんな渋沢に新しい命が下ります。
慶喜の弟・昭武の随行としてパリに赴くことでした。
フランスで経済を学ぶという新しい目標を見つけた渋沢・・・まさにそのさ中・・・
1867年10月、慶喜は将軍に就任してからわずか11か月後、まるで政権の座を放り出すかのように将軍の座を朝廷に帰してしまったのです。
翌1868年、フランスから帰国した渋沢は、慶喜が暮らす駿府へと向かいました。

「及ばずながらも、慶喜公に出来るかぎりの御奉公をしなければならぬ・・・」

余生は慶喜のために・・・渋沢は、駿府に妻と子を呼び寄せ、慶喜のもとで骨をうずめようと心に決めたのでした。
そして手始めに・・・パリで学んだ合本法を実践。
駿府領内の産業振興を図ることでした。
そのために渋沢は、商法会所という会社を設立します。
公の資金を領内の商人や農民に貸し出し、大規模な商売をはじめさせ、収益の一部を預けてもらうシステムです。
いまの銀行と商社を組み合わせたようなものでした。
まさにフランスで学んだ合本会社でした。
商法会所は大きな利益を得ていきます。
すると1869年東京の新政府から、税制の実務を取り仕切る租税正に抜擢されます。
断わるつもりでいた渋沢でしたが、いう事を聞かなければ慶喜が政府に反対していると思われ慶喜の立場が悪くなってしまうと思い直し、29歳で政府の役人に転身しました。
大蔵省で、次々と事業を立ち上げていくこととなります。

鉄道の整備、富岡製糸場の建設、郵便制度の整備・・・国の基礎となる重要な事業で、渋沢が取りまとめ役としてかかわった政策立案は、200にも及びました。
渋沢は、その剛腕ぶりが認められ、わずか3軟飯で大蔵省のナンバー2となるのです。

1872年、新政府は国立銀行条例を発布します。
これが渋沢栄一が次に行う大仕事でした。
日本を欧米列強のように富ませるためには、広く出資者を募り、新たな事業に投資するという銀行の設立が不可欠だったのです。
しかし、その頃、渋沢たち国の動きとは別に、巨大資本による銀行設立が進んでいました。
東京府兜町入り口に建てられた三井組ハウス・・・文明開化の象徴となって人々の話題をさらっていました。
その建物を建て、銀行の設立を目指していたのが、江戸一の大店、明治になっても政府のかねの流れを一手に引き受ける御用商人として莫大な利益を上げていた三井家・・・三井組でした。
渋沢は、この三井組による銀行設立に待ったをかけます。

”特定の財閥だけが富を独占したのでは、銀行を作る意味がないのではないか?”

利益を独占する銀行ではダメだ・・・
あまねく社会に資金を回し、経済を活性化し、その利益を国民に還元していく・・・これこそ真に国をとませることだ・・・!!
そこで、渋沢は、三井組による利益の独占を防ぐために、銀行設立に名乗りを上げていた小野組などから広く資金を募る合本会社による銀行の設立を画策します。
さらに、その新銀行に三井組ハウスを明け渡すように迫ったのです。
渋沢は、三井組ハウスの建物が欲しかったのではなく・・・三井組が三井組ハウスで銀行経営を行えば、独占の象徴になるため、引き離したのです。

当然三井組は断固拒否!!

結局三井組独自の銀行設立を認める代わりに、新銀行が三井組ハウスを使うという妥協案で決まります。
こうして1873年日本初の銀行「第一国立銀行」が設立!!

この銀行の主な業務は二つ・・・
お金を預けてもらい、その資金を事業に貸し出す事、そして紙幣(銀行券)の発行です。
紙幣の発行は、欧米列強を見習ってのことですが、それまで全国で流通する紙幣がなかったので、急に小判のようなお金だといっても信じません。
そこで渋沢は、その紙幣と「金」をいつでも交換できると定めました。
紙幣を信用させることで、流通させたのです。
これで最早国に対する自分の役目は終わった・・・と、渋沢は設立の直前に大蔵省を退官・・・銀行のお目付け役である総監役に就任、富の独占を監視することにします。

第一国立銀行設立の直後・・・予想もしない出来事が・・・。
全国で旧士族の反乱がおこり、社会は混乱状態に・・・
凶作で米の価格が急騰!!
紙幣の価値が急落してしまいました。
さらに、銀行の大口出資者だった小野組が倒産。
すると、紙幣を金に変えようと人が殺到します。
まだまだ紙幣の価値が確立されていないために、人々は信用できない紙幣を金に変えたのです。
外国の商人も、安く交換できる日本の金を求めたため、銀行から金の流失が進みました。
銀行の金庫にはもう金がない・・・破綻・・・?
この危機を、渋沢はどう乗り切るのか・・・??
渋沢は断腸の思いで提言します。
「銀行条例を改正し、金と紙幣の交換を廃止してほしい」
渋沢は、自らが携わった銀行条例に大きな欠陥があることに気付きました。
ルールを変えるべきではない??
銀行を残すことが一番だ!!と、紙幣と金の交換を停止することで、銀行からの資金の流失を防ぎました。
この苦肉の策が、新たなチャンスを招くこととなります。

金を保有していなくとも銀行を容易く設立することができる・・・と、日本全国で銀行設立ブームが起こります。
明治12年の時点で日本の銀行数は153!!
地方経済が活性化、鉄道や様々な地場産業が発達していきます。

銀行破たんの危機を乗り切った渋沢栄一は、民間会社の立ち上げに次々と関わっていきます。
その数およそ500社!!
ガス会社・・・東京瓦斯など
鉄道会社・・・日本鉄道(現東日本旅客鉄道)
         畿内電気鉄道(現京阪電気鉄道)など
製紙会社・・・王子製紙(現王子ホールディングス 日本製紙)など
保険会社・・・東京海上保険(現東京海上日動)など
ホテル・・・・帝国ホテルなど
ビール会社・・・大日本麦酒(現アサヒビール サッポロビール)など

その中で、渋沢が長くかかわった会社は、第一国立銀行をはじめ数社です。
どうして会社の経営に携わらなかったのでしょうか?
渋沢は、世の中に必要な事業を会社組織として設立し、事業が軌道に乗れば次の事業に手を差し伸べたのです。
しかし、経済の基盤を作るなら政治家になったほうが・・・??
渋沢は、官尊民卑を打ち破らなければと思っていました。
民の力を信じていたのです。
井上馨が総理大臣になる時、渋沢栄一に大蔵大臣を要請します。
が、渋沢は、頑なに断っています。

次々と会社を作り、経済を発展させていく渋沢・・・強力なライバルが現れます。
1878年8月、渋沢は、向島にある料亭に呼ばれます。
招待したのは、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎です。
土佐藩の藩営会社を引き継いで三菱商会を立ち上げた岩崎は、海運御湯をほぼ独占!!
台湾出兵、西南戦争で莫大な利益を得、海運王として名を馳せていました。
同じ実業家として次々と会社の立ち上げに関わっていた渋沢に興味を持ち、意見交換の場を設けたのです。

「君と僕が手を組めば、世界を牛耳ることができる・・・!!」by岩崎弥太郎

そして、この時、二人は日本経済の在り方を巡って大激論!!
合本主義を主張する渋沢に対し、岩崎は利益の独占を主張します。
世の中の繁栄、日本経済の発展を望むのは同じ二人でしたが、その手法が違っていました。
渋沢・・・個が協力し合う
岩崎・・・強いリーダーシップ
そして二人は、それぞれの手法で日本経済の発展に寄与していきます。

そんな渋沢が晩年、経済以外に次世代へと残した偉業の足跡が渋沢資料館に残されています。
「徳川慶喜公伝」
渋沢の恩人であり、主君であった徳川慶喜が、日本のために果たした役割を克明に書いた伝記・・・
次々と会社を立ち上げていた一方で、渋沢は慶喜本人への取材、資料の収集、編集方針の策定、伝記の出版にも力を注ぎました。
渋沢は幕末、危うい自分を救ってくれた慶喜に対して、強い恩義を感じていました。
その慶喜の伝記を編纂したかったのです。
渋沢が残した公伝により、慶喜が果たした役割が再評価されるようになります。

そしてもう一つの顔は・・・??
1879年、渋沢が院長として就任した施設が・・・明治維新の混乱による困窮者救済のために造られた日本で最も古い福祉施設の一つ「東京養育院」です。
捨て子、親のいない子・・・社会的弱者を預かっていました。
渋沢は運営資金の調達、学校の設置など、慈善事業の拡大にとり人で、長きにわたって院長を務めていました。

渋沢が行った世の中の繁栄と産業振興・・・その中で、貧富の差が生れてしまった・・・
日常の生活からドロップアウトしてしまう人々を、底辺から救い上げ、よりよい社会にするために、福祉に尽力したのです。
渋沢は自分が進める資本主義の負の側面とも向き合い、取り組んだのです。
そして・・・1923年9月1日、死者行方不明者10万人ともいわれる関東大震災・・・。
未曽有の被害を出しました・・・その際には、被災を免れた自宅を開放し、炊き出しを行い、被災者の救済に当たり、その人脈から海外からの支援金を募りました。

1930年・・・90歳の渋沢をたずね、福祉施設の代表ら20人がやってきました。
この時、渋沢は高齢の上に風邪を患っていました。
主治医も面会を許可しませんでしたが・・・渋沢は会うといって聞かず、面会が叶います。
彼等は渋沢に懇願します。
飢えと寒さに苦しむ20万人の貧しい人を救うための救護法が制定したにもかかわらず、予算が足らずに実行されていない・・・力を貸してほしいというものでした。

渋沢はこう答えます。
「どれだけお役に立つかわかりませんが、出来るだけのことを致しましょう 
 それが、私に与えられた最後の義務でしょうから・・・」
と、自ら交渉役を買って出・・・大蔵大臣と内務大臣に面会を申し出たのです。
木枯らしの吹く中、病での外出は命に係わると周囲の者が渋沢を止めようとすると・・・
「これで私が死んでも20万もの人々が救われれば、本望じゃありませんか。」
渋沢栄一が天寿を全うしたのはその翌年・・・1931年11月11日、91歳のことでした。
日本のために生き抜いた渋沢栄一
そして、渋沢の死後、救護法は実施されることになります。

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