日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川慶喜

時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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新紙幣・・・1万円の顔となった渋沢栄一・・・
明治時代、日本最初の銀行や、製造業、鉄道、ホテルなど500の会社を設立、日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
次々に会社を興した経済人としてのイメージが強い渋沢ですが、別の顔があります。
日本の社会福祉事業の創始者です。
完成して間もない鹿鳴館でチャリティーバザーを開催、貧しいに人々の救済に奔走します。
貧民は経済発展の邪魔だといわれる中、悪戦苦闘します。

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こちらは、渋沢栄一の風刺画です。
まるで千手観音のように色々なものに手を出していたというものです。
実業家としての渋沢栄一ではなく、福祉事業家としての渋沢栄一とは・・・??

1867年、一隻の大型汽船が日本からフランスへと向かっていました。
15代将軍慶喜の義弟・徳川昭武を長とするパリ万博使節団一行です。
その中に、28歳の渋沢栄一の姿がありました。
渋沢は、武蔵国の豪農の息子でしたが、その才覚を認められ、幕臣として随行を許されたのです。
到着したパリは、万博を契機に大きな経済発展を遂げていました。
日本が足元にも及ばないこの発展は、どのようにしてできたのでしょうか?
渋沢は、その源泉をパリで出会った一人の銀行家から学びます。
フリュリ・エラールは、渋沢を銀行や株式取引所に案内し、資本主義のシステムを教えます。
銀行や株式会社は、人々から集めたお金で投資、そこで得たもうけを人々に還元する・・・
この資本主義の仕組みを使えば、巨額の資金を調達でき、フランスの発展の原動力となっていたのです。
渋沢は、パリで髷を切り、決意します。

「銀行や株式会社などの資本主義のシステムを日本に作ろう」

渋沢がパリにいた頃・・・
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発!!
これに勝利した薩長を中心に明治政府が樹立しました。
帰国した渋沢は、1873年民間人の立場で日本人で初めて銀行(第一国立銀行)を設立。
国立とあるが、国の法律にのっとるというもので、あくまで民間の銀行でした。
かくして、渋沢は日本の資本主義の父として第一歩を歩み出したのでした。

一方、渋沢にはもう一つの顔がありました。
東京都板橋区の一角に建てられた銅像・・・渋沢栄一の銅像です。
こここそ、社会福祉事業家・渋沢栄一の原点でした。
渋沢が終生関わった東京養育院という福祉施設のあった場所です。

1872年鉄道開設。
東京は文明開化を迎え、大きく変貌を遂げようとしていました。
しかし、その一方で、繁栄から取り残され住む家を失った人々も街にあふれていました。

江戸幕府の瓦解により、100万都市といわれていた人口が50万人に・・・。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝るところにも困窮していました。
渋沢は、この現状を目の当たりにして、何とか方法はないか??助けることはできないか??と、強い問題意識を抱いていました。

1874年、渋沢にとって好機が・・・!!
東京府知事大久保一翁から依頼を受けます。
「七分積金の運用を引き受けてくれないか?」と。
七分積金とは90年前、松平定信の寛政の改革にさかのぼります。
その際に行われた政策の一つで、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収し、備蓄していたのです。
飢饉や災害が起こった時に御救い米として放出し、江戸庶民のセーフティーネットとなっていました。
さらに、松平定信は人足寄場を作っています。
浮浪人に大工やわらじづくりなど手に職をつけさせ社会復帰させる更生施設です。
江戸幕府が瓦解すると、七分積金は、そのまま東京都に引き継がれました。
この時七分積金の総額は、170万両・・・今の金額で170億円でした。
この江戸幕府の遺産に目をつけたのが、財政のひっ迫していた明治政府でした。
文明開化の時代、橋や道路の補修、連歌外建設・・・インフラ整備に流用しました。
元幕臣だった大久保東京府知事は、「七分積み金を困窮者の救済のために使ってくれ」と、渋沢に要請。
渋沢は早速、行動を起こします。
彼は、東京養育院という生活困窮者の救済施設を訪れます。
そこで愕然・・・子供も老人も、病人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれていました。

「頗る乱雑を極めている
 その実情を見て、全く情けなく感じた
 いかに無料で収容しているにしても、これではあまりにも気の毒だと考えた」

ホームレスのような人々を、収容するだけの施設・・・
「その人たちをどうするのか?」という目標もなければ、施設自体をどのように維持させていくのかも考えていませんでした。
「社会全体で事業として確立させなければいけない」と、福祉という活動に非常に強くのめり込んでいきます。
渋沢は、七分積み金を使って、養育院の改革に乗り出します。
近代的な診療施設を設置、職業訓練所を設け、草鞋つくりなどの技術を学ばせ手に職をつける職業訓練所を作り社会復帰を支援、子供達には学問所で学ばせ知識をつけさせます。
渋沢は、七分積み金の生みの親である松平定信を生涯進行していました。
松平が行った構成システムにあるべき社会の姿を見ていました。

渋沢の談話集「論語と算盤」・・・渋沢は、論語と算盤を結び付けて理想の社会を説こうとしました。
”論語と算盤は、はなはだ不釣り合いで大変にかけ離れたものであるけれども、富をなす根源は何かといえば、仁義、道徳。
 論語と算数というかけ離れたものを一致せしめることが、非常に重要だ”

日本初の銀行設立を皮切りに、渋沢は、近代化に必要な基幹産業を次々と立ち上げ、日本資本主義の父として華々しい活躍をしていきます。
その頃、その手腕を見込んでオファーが・・・
主演の席に招かれた渋沢栄一、招待したのは三菱の創業者岩崎弥太郎でした。
当時、岩崎は日本の流通業である海運業を独占し、経済界の大立者として権勢をふるっていました。

「君と僕が堅く手を握り合って、事業を経営すれば、日本の実業界を思う通に動かすことができる
 これから二人で大いに大いにやろうではないか」by弥太郎

「いや・・・独占事業は、欲に目のくらんだ利己主義だ」by栄一

市場の独占を狙う岩崎弥太郎、多くの株式会社が自由に市場に参入することが資本主義社会の原則だと思っていた渋沢。
渋沢は、岩崎の申し入れを断って席を立ちました。

1881年、東京府庁・・・渋沢は寝耳に水の知らせを受けます。
東京養育院の廃止案が東京府議会に提案されたのです。
1879年から養育院は、東京府の税金で運営されていました。

「貧民を救うために、多額の税金を使うことは止めろ」
「渋沢は、惰民製造の本尊だ
 渋沢が余計なおせっかいをするから惰民が増加する!!
 養育院にいる惰民はみな、一時に追い出せ」by田口卯吉

渋沢は、真っ向反対します。

「一国の首府にして、これ位な設備を置いて窮民を救助すると云うことは、絶対に必要である
 顧みざるはこれぞ暴涙の政になる」

渋沢は、議会に廃止案の撤回を働きかけますが、多くの議員は支持しました。
この頃、明治政府は富国強兵をスローガンに、産業の近代化を推し進めていました。
紡績や造船などの工業を発展させ、西欧列強に対抗する国にしようというのです。
富国強兵論者からすれば、東京養育院の維持費は無駄・・・それは弱者の切り捨てにつながりました。

「もしこの施設を欠けば、餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう
 将来を遂行すれば、廃止すべきものではない」

渋沢にとって養育院の廃止は、あり得ないことでした。
養育院の人々の命と生活を守り、そこからどう抜け出せばいいのか・・・??
困窮者を惰民と決め付ける議会と真っ向対決する渋沢・・・!!

①養育院を税金で維持??
社会福祉事業は、政府・自治体のバックアップが必要だ・・・
之を失うわけにはいかない・・・
幸い府議会には、懇意にしている議員がたくさんいる。
彼等に味方になってもらおう!!
しかし、養育院の人たちを惰民という人たちは、理解してくれるだろうか・・・??

②民間資金で運営継続
養育院はかけがえのない場所・・・
経済界で築き上げたネットワークを駆使し、民間企業から出資者を募るのはどうか・・・??
500もの企業に携わってきた私だ・・・必ず協力者がいるはずだ・・・!!
しかし、株式会社は営利が第一目的・・・利益の出ない養育院に理解を示してくれる人はいるだろうか・・・??

渋沢栄一の必死の訴えにもかかわらず、1884年には東京養育院の廃止が決定。
そこで渋沢は、こう啖呵を斬ります。
「府會がそれほどまでに無情であるならば、今後は養育院を独立せしめて経営するの策を、取らなければならぬ」

渋沢は、養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出ます。
民間資金で運営継続を選んだのです。

しかし、運営資金はどのように捻出するのでしょうか?
ここから渋沢の挑戦が始まりました。
まず、渋沢が目をつけたのは、完成したばかりの鹿鳴館です。
西洋流の社交の場として舞踏会などが催されていました。
そこで、渋沢は政府高官や財界の婦人たちに働きかけ、1884年日本初のチャリティーバザーを開催。
手袋、足袋、人形、絵画など・・・身の回りのもの3000もの品をオークションに出品。
売り上げは3日間で7500円・・・今の6800万円にも上ったと言われています。
さらに渋沢は、財界の篤志家を一人一人たずね、多くの経済人から寄付を仰ぎました。
寄付者の名簿の最初には、渋沢栄一の名が・・・
次に三井財閥の幹部、大倉財閥の設立者が名を連ねます。

渋沢は、寄付を集める時、必ず大きな袋を持ち歩き、それを差し出しました。
実業界の大物・渋沢に促されると、誰も寄付を断れません。
人々は陰でこのかばんを”泥棒袋”と呼んでいました。
中には、冗談交じりにボヤく人も・・・
「渋沢さんが、寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう
 渋沢さんに長生きされては、こちらの身代がもたないよ・・・」

福祉事業・慈善事業は、事業自体を長く永続させ、社会に定着させるためには、福祉事業を維持させるための資金を活用する集める方法を自分達で考えなければならない・・・
こうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用し、資金を増やしていきます。

東京養育院の資金・・・
1885年には3万5031円(2億9800万円)だったのが、1890年には11万8104円(8億8500万円)とまで増え、寄付の文化のなじみの浅い日本で、渋沢は社会福祉事業の資金を着実に増やしていったのです。
その後、養育院は拡大し、収容者も増えていき、東洋一の福祉施設となりました。

そして渋沢は、福祉活動の対象を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や、病気で苦しむ人たちにも広げ、医療や学術研究の施設の設立や運営に協力していきます。
さらに、当時はほとんどなかった保育所の構想も練っていきます。

”母親が安心してこの子を委託し、日が暮れるころには仕事が終わり、子を連れに来て伴って帰るというようなよいしっくみを作ったなら、非常に良いと思います”

ここには、一般の人々の普通の生活も福祉で支えようという思いが伺えます。
1909年70歳となった渋沢は、経済界から引退します。
しかし、社会福祉活動は、終生つづけました。

1929年、世界大恐慌・・・
日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われます。
国会では、貧困者を救う救護法が制定。
救護法とは、貧困者を救護することを国や自治体に初めて義務化したもので、後の生活保護法につながります。
しかし、法が制定されても、政府は予算がないことを理由に実施を延期します。
このまま貧困者の窮状を見逃してもいいのか・・・??
福祉活動家たちは、最後の頼みとして渋沢を頼ります。
救護法実現のための協力を仰ぎます。
この時、渋沢は91歳・・・病気と闘っていました。
活動家たちの話を聞くと・・・
「私はもうどれだけ生きられるかわからない
 私の命をみんなに与えていくのは本望だ」

そして、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替え、大蔵大臣にこう訴えかけます。
「私たちが一生懸命働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそみなさんに役立てていただきたいからでありました
 渋沢の最後のお願いです
 救護法を実施してください」

2年後の1932年、大蔵大臣は、予算を工面してようやく救護法を実施。
24万人もの人々が救護されました。
しかし、救護法実施を見ることなく、前年の1931年渋沢栄一逝去・・・92年の生涯でした。

東京都板橋区の一角にある銅像・・・
その隣にそびえたつ巨大な東京都健康長寿医療センター・・・
ここは、かつて渋沢が終生関わった東京養育院のあった場所です。
現在はお年寄りの医療や、リハビリで最先端の取り組みを行っています。
渋沢の思想を受け継いで・・・その場所は、日本有数の医療施設として人生100年の老後を支えています。

渋沢は晩年、各地で公演を活発に行い、日本の資本主義の在り方を訴えました。
それをまとめたのが、「論語と算盤」です。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する
 ただし、それに伴って、肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかというと、残念ながら”否”と答えざるを得ぬ
 仁義道徳と、生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります」


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今年、20年ぶりに日本の紙幣が一新されることとなりました。
1,000円札には日本近代医学の父・北里柴三郎
5,000円札には日本女子教育の先駆者・津田梅子
そして10,000円札に起用されることとなったのが、日本経済の父・渋沢栄一です。

時は幕末から明治へと移り変わる時代の大変革期・・・
そんな頃、近代化において数々の偉業を成し遂げたのが渋沢栄一です。
日本で初めての銀行を作るほか、色々な会社を作ります。
生涯に携わった数・・・500社余り・・・。
今も日本経済の屋台骨を背負っています。
しかし、具体的に何をしたのか・・・??
その真の姿とは・・・??

1867年、横浜港からフランスに向けて一隻の船が出航しました。
船に乗り込んでいたのは、パリ万国博覧会幕府使節団。。。そして、そのまま留学することになっていた慶喜の異母兄弟・徳川昭武でした。
この使節団一行に、庶務兼会計係として随行していたのが、幕臣・渋沢栄一、27歳でした。
将軍慶喜からその能力を買われて、直々に昭武のお供を命じられたのです。
その時の決意・・・
”彼の国の長所を探り 我が国のものとせねばならない”
幕府は黒船来航以来、欧米列強の国力の差を見せつけられていました。
そこで、幕府は、一刻も早く追いつかねばと、フランスでその国力の秘密を探らせ、慶喜に報告させることにしたのです。

4月11日、パリに到着した渋沢は、見るものすべてに圧倒されます。
整備された上下水道、黒煙をあげて疾走する蒸気機関車、そしてエレベーターや発電機など・・・最新の技術の数々・・・

「こんなものを作る費用は、どうやって集めているのだろうか?」

渋沢が探ったフランスの国力の秘密とは・・・??
大きなカルチャーショックを受けた渋沢が向かったのは、理髪店でした。
その誇りである髷を切り落としました。
渋沢は、先進文明に触れ、多くの知見を得たいと考えていました。
そのためには、いつまでも誓った文明文化の姿をするのではなく、郷に入れば郷に従え・・・
フランスの文化に染まり、溶け込むことでより良い情報が得られると考えたのです。
全ては、フランスの国力の秘密を探るためでした。

経済の仕組みを教えてくれたのが、銀行家フリューリ・エラール氏でした。

「国に豊かさをもたらしているのは、役人ではなく銀行と株式会社です。」

エラールが渋沢に教えた秘密は・・・資本主義の根幹となる銀行と株式会社の存在でした。
銀行が個人から資金を集め、まとめて貸し出す・・・大規模な事業を可能にし、会社もまた個人に株を買ってもらってそれを元手に商売をし、その利益を配当として還元する・・・
そうすることで、個人、企業、国も豊かになっていく・・・このシステムがフランスを支えているのだと。
それを円滑に行うためには、官尊民卑がないこと・・・。
そして、民間人が政府に従って行うのではなく、両者が対等の立場であることが大切だという事。
フランスの国力の秘密は、民間人が政府と協力して行う銀行と株式会社の仕組みにあったのです。
渋沢はこれを合本法と呼び、日本への導入を決意します。

こうしてフランスの豊かさを渋沢が掴み始めた頃・・・日本ではとんでもないことが起こってきました。
渋沢をフランスに送り込んだ将軍慶喜が大政奉還!!
徳川の世が突如終わりを告げたのです。

1840年、渋沢栄一は、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)に、農家の長男として生れます。
農家といっても渋沢家は裕福でした。
父親が詳細を発揮し、染め物などに使われる藍の葉の買い付けと河口で財をなしていました。
そんな父親から、幼い頃より熱心に学問を授けられました。
6,7歳のころから「三字経」・・・当時の農民は、農業に支障をきたすため、文字を読む必要はないとされていました。
しかし、よりよい生活をしていくためには、教養を身につけるべきだろ渋沢の父は考えていたのです。
父から様々な学問を学んだ渋沢が、驚くべき商才を発揮するのは、わずか13歳の時でした。
不在の父親に代わって藍の買い付けに行った時の事・・・
子ども相手だと見下していた農家に対し・・・
「何だこの藍は・・・肥料が足りない、別の物はないのか?」と、ベテランの目利きのような口ぶりで、周囲の大人を圧倒!!
次々と農家を口説き落とし、良質の藍の葉を手に入れたのです。
渋沢は、人を説得する際には信念を持って話をし、誠実な態度で信頼・信用を得ていました。
人をうまく巻き込む才能が渋沢にはあったのです。

そんな渋沢が17歳になった時、その後の人生を大きく決めることが・・・
村を治めていた代官から渋沢の家に呼び出しがあり、父親の代理で出向いたところ・・・
「500両を納めるよう申し渡す」
「500両と突然言われましても、年貢は毎年納めております
 すぐにはお答えできません」
「何をぬかすか、この若造が!!これは命令じゃ!!」
今のお金で5000万のお金を出すというような理不尽な命令をされても、農民だから逆らえない・・・。
渋沢にかつてない怒りがこみ上げてきました。

”その時に、始めて幕府の政事が善くないという感じが起こりました” 

全ての元凶は、代々受け継ぐというシステムを作った徳川だ・・・!!

当時は尊王攘夷論が流行っていた頃で、渋沢もその思想に傾倒し、江戸に留学、漢学者の塾に通い剣術などを学んだあと村に戻り、同じ考えを持った若者を募り、攘夷作戦を実行しようとします。
その作戦は・・・??
一気に蜂起し、近くの高崎城を占拠、その後横浜の外国人居留地を焼き打ちし、手当たり次第に外国人を斬り殺すというとんでもない過激なものでした。
世の中の不条理を排除していかなければよりよい社会にならないと思ったようです。
それは、自分たちの生活を守るという意識が強かったのです。

結局渋沢は、周囲の説得を受け・・・生き長らえて世の中を変えていこう・・・と計画を中止しましたが、時すでに遅し・・・!!
渋沢は、幕府に危険人物として手配されてしまいます。
このままでは捕まってしまう・・・絶対説明の危機・・・どうやって乗り越える・・・??

身に危険が起こった渋沢は、最早村を出るしかありませんでした。
江戸遊学中に出会った一人が渋沢に救いの手を伸べます。
八代将軍・徳川吉宗の流れをくむ御三卿の一橋家の用人・平岡円四郎です。
渋沢は平岡から思わぬ提案を受けます。

「捕縛されて牢屋で死ぬぐらいなら、いっそのこと一橋家に仕官してみては・・・??」

渋沢に与えられた道は、捕縛され処刑されるか、徳川家に仕官することだったのです。
渋沢が選んだのは・・・士官の道でした。
この時一橋家の当主は、水戸家から養子になっていた一橋(徳川)慶喜でした。
渋沢は尊王攘夷派から一転、慶喜の家臣になることで、処刑の危機を脱したのです。
その裏には・・・一橋家は、当時の幕政に対して批判的な考えを持っていました。
慶喜の実家である水戸徳川家は尊王攘夷派だったのです。
渋沢も、一橋家なら・・・と、選んだのかもしれません。
24歳のことでした。

一橋家は、京都御所を守る役割を担っていました。
一橋家には譜代の家臣が少なかったため、有能な家臣を求めていたのです。
その時、慶喜は平岡から渋沢の能力の高さを聞いていたのでした。
一橋家は家臣も少なく、軍備も弱かったので、渋沢が最初にした仕事は、農兵を集めることでした。
渋沢は、与えられた役割をきっちり果たしただけではなく、先々で見た情報から一橋家の財政改革案を出していきます。

・木綿の生産高と流通機能を高めさせた
・年貢米を領地内の酒造家に買わせた
・領地内に硝石を火薬にする製造所を作った

後に、日本経済の父となる商才が、慶喜に認められた瞬間でした。

徳川慶喜が、第15代将軍に就くことになりました。
渋沢は、遅かれ早かれ幕府が倒れることを考えていた渋沢にとって、慶喜の将軍就任はあってはならないことでした。
渋沢は、危うい状態にある幕府の将軍就任は、負担が大きいだけで意味がないと反対します。
そして、幕政を批判していた自分が、幕臣になることに抵抗があったのです。
慶喜が将軍となった事で、渋沢は未来に展望を見いだせず、悶々とした日々を過ごすことに・・・。
そんな渋沢に新しい命が下ります。
慶喜の弟・昭武の随行としてパリに赴くことでした。
フランスで経済を学ぶという新しい目標を見つけた渋沢・・・まさにそのさ中・・・
1867年10月、慶喜は将軍に就任してからわずか11か月後、まるで政権の座を放り出すかのように将軍の座を朝廷に帰してしまったのです。
翌1868年、フランスから帰国した渋沢は、慶喜が暮らす駿府へと向かいました。

「及ばずながらも、慶喜公に出来るかぎりの御奉公をしなければならぬ・・・」

余生は慶喜のために・・・渋沢は、駿府に妻と子を呼び寄せ、慶喜のもとで骨をうずめようと心に決めたのでした。
そして手始めに・・・パリで学んだ合本法を実践。
駿府領内の産業振興を図ることでした。
そのために渋沢は、商法会所という会社を設立します。
公の資金を領内の商人や農民に貸し出し、大規模な商売をはじめさせ、収益の一部を預けてもらうシステムです。
いまの銀行と商社を組み合わせたようなものでした。
まさにフランスで学んだ合本会社でした。
商法会所は大きな利益を得ていきます。
すると1869年東京の新政府から、税制の実務を取り仕切る租税正に抜擢されます。
断わるつもりでいた渋沢でしたが、いう事を聞かなければ慶喜が政府に反対していると思われ慶喜の立場が悪くなってしまうと思い直し、29歳で政府の役人に転身しました。
大蔵省で、次々と事業を立ち上げていくこととなります。

鉄道の整備、富岡製糸場の建設、郵便制度の整備・・・国の基礎となる重要な事業で、渋沢が取りまとめ役としてかかわった政策立案は、200にも及びました。
渋沢は、その剛腕ぶりが認められ、わずか3軟飯で大蔵省のナンバー2となるのです。

1872年、新政府は国立銀行条例を発布します。
これが渋沢栄一が次に行う大仕事でした。
日本を欧米列強のように富ませるためには、広く出資者を募り、新たな事業に投資するという銀行の設立が不可欠だったのです。
しかし、その頃、渋沢たち国の動きとは別に、巨大資本による銀行設立が進んでいました。
東京府兜町入り口に建てられた三井組ハウス・・・文明開化の象徴となって人々の話題をさらっていました。
その建物を建て、銀行の設立を目指していたのが、江戸一の大店、明治になっても政府のかねの流れを一手に引き受ける御用商人として莫大な利益を上げていた三井家・・・三井組でした。
渋沢は、この三井組による銀行設立に待ったをかけます。

”特定の財閥だけが富を独占したのでは、銀行を作る意味がないのではないか?”

利益を独占する銀行ではダメだ・・・
あまねく社会に資金を回し、経済を活性化し、その利益を国民に還元していく・・・これこそ真に国をとませることだ・・・!!
そこで、渋沢は、三井組による利益の独占を防ぐために、銀行設立に名乗りを上げていた小野組などから広く資金を募る合本会社による銀行の設立を画策します。
さらに、その新銀行に三井組ハウスを明け渡すように迫ったのです。
渋沢は、三井組ハウスの建物が欲しかったのではなく・・・三井組が三井組ハウスで銀行経営を行えば、独占の象徴になるため、引き離したのです。

当然三井組は断固拒否!!

結局三井組独自の銀行設立を認める代わりに、新銀行が三井組ハウスを使うという妥協案で決まります。
こうして1873年日本初の銀行「第一国立銀行」が設立!!

この銀行の主な業務は二つ・・・
お金を預けてもらい、その資金を事業に貸し出す事、そして紙幣(銀行券)の発行です。
紙幣の発行は、欧米列強を見習ってのことですが、それまで全国で流通する紙幣がなかったので、急に小判のようなお金だといっても信じません。
そこで渋沢は、その紙幣と「金」をいつでも交換できると定めました。
紙幣を信用させることで、流通させたのです。
これで最早国に対する自分の役目は終わった・・・と、渋沢は設立の直前に大蔵省を退官・・・銀行のお目付け役である総監役に就任、富の独占を監視することにします。

第一国立銀行設立の直後・・・予想もしない出来事が・・・。
全国で旧士族の反乱がおこり、社会は混乱状態に・・・
凶作で米の価格が急騰!!
紙幣の価値が急落してしまいました。
さらに、銀行の大口出資者だった小野組が倒産。
すると、紙幣を金に変えようと人が殺到します。
まだまだ紙幣の価値が確立されていないために、人々は信用できない紙幣を金に変えたのです。
外国の商人も、安く交換できる日本の金を求めたため、銀行から金の流失が進みました。
銀行の金庫にはもう金がない・・・破綻・・・?
この危機を、渋沢はどう乗り切るのか・・・??
渋沢は断腸の思いで提言します。
「銀行条例を改正し、金と紙幣の交換を廃止してほしい」
渋沢は、自らが携わった銀行条例に大きな欠陥があることに気付きました。
ルールを変えるべきではない??
銀行を残すことが一番だ!!と、紙幣と金の交換を停止することで、銀行からの資金の流失を防ぎました。
この苦肉の策が、新たなチャンスを招くこととなります。

金を保有していなくとも銀行を容易く設立することができる・・・と、日本全国で銀行設立ブームが起こります。
明治12年の時点で日本の銀行数は153!!
地方経済が活性化、鉄道や様々な地場産業が発達していきます。

銀行破たんの危機を乗り切った渋沢栄一は、民間会社の立ち上げに次々と関わっていきます。
その数およそ500社!!
ガス会社・・・東京瓦斯など
鉄道会社・・・日本鉄道(現東日本旅客鉄道)
         畿内電気鉄道(現京阪電気鉄道)など
製紙会社・・・王子製紙(現王子ホールディングス 日本製紙)など
保険会社・・・東京海上保険(現東京海上日動)など
ホテル・・・・帝国ホテルなど
ビール会社・・・大日本麦酒(現アサヒビール サッポロビール)など

その中で、渋沢が長くかかわった会社は、第一国立銀行をはじめ数社です。
どうして会社の経営に携わらなかったのでしょうか?
渋沢は、世の中に必要な事業を会社組織として設立し、事業が軌道に乗れば次の事業に手を差し伸べたのです。
しかし、経済の基盤を作るなら政治家になったほうが・・・??
渋沢は、官尊民卑を打ち破らなければと思っていました。
民の力を信じていたのです。
井上馨が総理大臣になる時、渋沢栄一に大蔵大臣を要請します。
が、渋沢は、頑なに断っています。

次々と会社を作り、経済を発展させていく渋沢・・・強力なライバルが現れます。
1878年8月、渋沢は、向島にある料亭に呼ばれます。
招待したのは、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎です。
土佐藩の藩営会社を引き継いで三菱商会を立ち上げた岩崎は、海運御湯をほぼ独占!!
台湾出兵、西南戦争で莫大な利益を得、海運王として名を馳せていました。
同じ実業家として次々と会社の立ち上げに関わっていた渋沢に興味を持ち、意見交換の場を設けたのです。

「君と僕が手を組めば、世界を牛耳ることができる・・・!!」by岩崎弥太郎

そして、この時、二人は日本経済の在り方を巡って大激論!!
合本主義を主張する渋沢に対し、岩崎は利益の独占を主張します。
世の中の繁栄、日本経済の発展を望むのは同じ二人でしたが、その手法が違っていました。
渋沢・・・個が協力し合う
岩崎・・・強いリーダーシップ
そして二人は、それぞれの手法で日本経済の発展に寄与していきます。

そんな渋沢が晩年、経済以外に次世代へと残した偉業の足跡が渋沢資料館に残されています。
「徳川慶喜公伝」
渋沢の恩人であり、主君であった徳川慶喜が、日本のために果たした役割を克明に書いた伝記・・・
次々と会社を立ち上げていた一方で、渋沢は慶喜本人への取材、資料の収集、編集方針の策定、伝記の出版にも力を注ぎました。
渋沢は幕末、危うい自分を救ってくれた慶喜に対して、強い恩義を感じていました。
その慶喜の伝記を編纂したかったのです。
渋沢が残した公伝により、慶喜が果たした役割が再評価されるようになります。

そしてもう一つの顔は・・・??
1879年、渋沢が院長として就任した施設が・・・明治維新の混乱による困窮者救済のために造られた日本で最も古い福祉施設の一つ「東京養育院」です。
捨て子、親のいない子・・・社会的弱者を預かっていました。
渋沢は運営資金の調達、学校の設置など、慈善事業の拡大にとり人で、長きにわたって院長を務めていました。

渋沢が行った世の中の繁栄と産業振興・・・その中で、貧富の差が生れてしまった・・・
日常の生活からドロップアウトしてしまう人々を、底辺から救い上げ、よりよい社会にするために、福祉に尽力したのです。
渋沢は自分が進める資本主義の負の側面とも向き合い、取り組んだのです。
そして・・・1923年9月1日、死者行方不明者10万人ともいわれる関東大震災・・・。
未曽有の被害を出しました・・・その際には、被災を免れた自宅を開放し、炊き出しを行い、被災者の救済に当たり、その人脈から海外からの支援金を募りました。

1930年・・・90歳の渋沢をたずね、福祉施設の代表ら20人がやってきました。
この時、渋沢は高齢の上に風邪を患っていました。
主治医も面会を許可しませんでしたが・・・渋沢は会うといって聞かず、面会が叶います。
彼等は渋沢に懇願します。
飢えと寒さに苦しむ20万人の貧しい人を救うための救護法が制定したにもかかわらず、予算が足らずに実行されていない・・・力を貸してほしいというものでした。

渋沢はこう答えます。
「どれだけお役に立つかわかりませんが、出来るだけのことを致しましょう 
 それが、私に与えられた最後の義務でしょうから・・・」
と、自ら交渉役を買って出・・・大蔵大臣と内務大臣に面会を申し出たのです。
木枯らしの吹く中、病での外出は命に係わると周囲の者が渋沢を止めようとすると・・・
「これで私が死んでも20万もの人々が救われれば、本望じゃありませんか。」
渋沢栄一が天寿を全うしたのはその翌年・・・1931年11月11日、91歳のことでした。
日本のために生き抜いた渋沢栄一
そして、渋沢の死後、救護法は実施されることになります。

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世紀のロイヤルウエディング・・・それは、今から156年前の幕末・・・孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の結婚でした。
華麗な花嫁行列は、注目の的となりました。

1861年10月20日、花嫁行列が、京から江戸へと出発!!
16歳で降嫁した和宮でした。
総勢2万5000、長さは50キロに及ぶ史上まれにみる豪華な花嫁行列で、江戸に入るまで25日かかりました。
幕府予算の2年分と言われる莫大な費用を投じた世紀のロイヤルウエディングでした。
しかし、花嫁・和宮の心は晴れやかではありませんでした。

住みなれし 都路出でて けふいくひ
           いそぐもつらき 東路のたび

見知らぬ江戸の大奥での暮らしは、苦難の連続でした。
14代将軍家茂の愛に包まれて頑なだった和宮は人を愛することに目覚め大人へと成長していきます。
が、突然の夫の死、幕府存続の危機・・・次々と歴史の荒波が襲い掛かります。
朝廷と徳川の板挟みに苦しむ和宮は、自らの手で運命を切り開いていきます。

「私も、徳川家の滅亡を見ながら生き残るわけにはいかないので、きっと覚悟を決めましょう。」

悲劇の皇女・和宮・・・その姿は、自らの運命に立ち向かった勇敢な女性でした。
気高くたくましく成長するプリンセス・和宮!!

1862年2月、江戸城内で和宮と徳川家茂の婚礼が行われました。
朝廷と幕府の期待を背負って江戸にやってきた和宮、行った先は大奥でした。
大奥では1000人以上の女性が働き、200年の伝統と細かいしきたりがありました。
そこに君臨していたのは、前将軍の正室・天璋院篤姫でした。
薩摩藩から嫁ぎ、夫亡き後も大奥に留まっていました。
和宮より11歳年上の姑でした。

和宮と篤姫は、共に朝廷と徳川のプライドをかけてたいりつすることになってしまいます。
どうして対立してしまったのでしょうか?

1846年孝明天皇の妹として生まれた和宮。
幼いころから皇族としての教育を受け、和歌を学ぶなど何不自由ない生活を送っていました。
損な和宮に家茂との結婚の要請が来たのは、1860年、和宮が15歳の時でした。
幕府と朝廷の政略結婚でした。
きっかけは、ペリー来航でした。外国嫌いの孝明天皇が反対しているにもかかわらず、幕府は圧力に屈し開国に同意してしまいます。
そのため、幕府への批判が日本中でおこります。
そこで、幕府が目をつけたのが、朝廷の権威でした。
天皇の妹・和宮と将軍。家茂を結婚させることで、政権の安定を図ろうとしたのです。
しかし、和宮にとっては受け入れがたい話でした。
それは・・・和宮が6歳の時に11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約していたからです。
さらに、忌まれてから1回も京を出たことのなかった和宮に、江戸へ行くことは恐怖そのものでした。

”夷人が大勢おる関東へ参るなど、とても恐ろしくてできませぬ”

しかし、兄・孝明天皇は、幕府に外国船を打ち払わせるために、和宮に婚姻を勧めます。
それでも首を縦に振らない和宮・・・孝明天皇は、
「関東との縁談を断って、もし有栖川宮と婚姻しても、私が拒むから尼になるがよい。」by孝明天皇
和宮は、止む無く家茂との結婚を受け入れます。

「天下泰平のため まことにいやいやながら 仕方なくお受けするのでございます。」by和宮

1861年16歳の時、和宮江戸へ・・・!!
嫁ぐにあたって、条件を出していました。

”江戸城に入った後も、身の回りはすべて御所風を守ること”
江戸城に入った後も、和宮が慣れ親しんだ御所の習慣を通すと要求したのです。
大奥に入った後、女官は日記に書いています。
”御風違”と書いています。
そしてこのことが、和宮と篤姫が対立する原因となっていきます。

対立は些細なことから始まりました。
嫁入りの際、篤姫の元へ和宮から来た目録・・・そのあて名は”天璋院”・・・呼び捨てで書かれていました。
和宮からすれば、自分より身分の低い篤姫を呼び捨てにするのは当然です。
しかし、篤姫も大奥のしきたりに従わせようとします。
二人が初めて対面した時・・・和宮が座敷に来た時、篤姫は上座に座り敷物に座っていました。
それに対し、和宮は下座で畳の上に直に座らされたのです。
これを見た女官は、朝廷に訴えの手紙を送っています。

”和宮さまは、無念の思いに耐えられないご様子で、私共もお慰めする言葉も見つかりませんでした。”

二人の対立は、和宮の女官280人VS篤姫の女中260人を巻き込み、大奥を二分する戦いに発展します。
そのすさまじさは、大奥のみならず、江戸城内でも噂になります。
幕臣だった勝海舟は、後に語っています。

「和宮と天璋院は、はじめは大層仲が悪かった
 お付きのせいだよ
 あっちでもすればこっちでもするというふうに、競ってそれはひどかった」by海舟

結局、和宮と篤姫との交流は無くなってしまうのでした。
しかし、和宮も逃げ出すつもりはありません。

惜しましな 君(天皇)と民とのためならは 
               身は武蔵野(関東)の 露と消ゆとも

自らの命を惜しまず、天皇と民の為ならば、武蔵野の露と消えても構わない・・・と!!

不慣れな江戸で姑との交流もなく、孤独な生活を送る和宮・・・
そんな毎日に潤いを与えてくれたのは、不本意ながら結婚相手の家茂でした。
和宮と同じ年の若き将軍は、家臣に

「私は和宮を本当に大切に思いたい。
 そうすれば、幕府と朝廷も自然と上手くいくはず。
 表だけ飾るのではなく、心から親しい間柄でいたいのだ。」by家茂

家茂は、自分が将軍であるにもかかわらず、和宮を宮様と呼び、皇女として扱いました。
そんな家茂の気遣いや気さくな人柄は、次第に和宮の心を開いていきます。
結婚から2か月後・・・家茂の乗馬を見学し、そのまま一夜を共にします。
その翌日も、家茂は突然大奥に訪れます。
それは、金魚を和宮に見せるためでした。

和宮が和歌を送ると・・・自ら鼈甲のかんざしを持ってくる家茂。
こうしたやり取りが、二人の間で自然に繰り返されるようになって・・・。
そして、天璋院篤姫との関係も変わってきました。
浜離宮恩賜庭園で語られているのは・・・
和宮、篤姫、家茂が庭に降りようとすると、なぜか家茂の履物だけ踏み石の下に置かれていました。
それを見た和宮は、ぽんとおり、自分の履物を下ろして家茂の履物を石の上に起きました。
かつての和宮では考えられないことでした。
これ以降、篤姫と和宮のいざこざはピタリとやんだといいます。
大奥での暮らしになれ、周囲の人間とも交流し、大人の対応ができるようになってきた和宮・・・

1863年、京では反幕府勢力が台頭!!
家茂はそれを抑え込むため自ら京に向かいます。
和宮18歳の時でした。
以後も緊迫した事態が続いたので、家茂は頻繁に江戸と京を往復します。
無理を重ね、脚気を患ってしまいました。
和宮は家茂の無事を願ってお百度参りをします。
1865年、再び西に向かう前に、家茂は和宮にどんな京土産がいいか尋ねています。

「西陣の織物が欲しゅうございます」

和宮は家茂を送り出します。
しかし・・・1866年7月、和宮にもたらされたのは、家茂の訃報でした。
享年21歳。
夫の亡骸と共に届いたのは、土産に欲しいと頼んでいた西陣織でした。

空蝉の唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ

結婚して4年・・・そのうち夫婦が一緒に暮らすことができたのは、僅か2年余りでした。

最愛の夫を亡くした和宮・・・この時、21歳でした。
朝廷と幕府の結びつきを強めるためのこの結婚・・・いまやその意味を失い、和宮が江戸に留まる理由が無くなりました。

それからわずか1年後・・・大政奉還により幕府は消滅!!
朝敵となった徳川家は滅亡の危機にさらされます。
生まれ育った天皇家と嫁ぎ先の将軍家・・・両家の板挟みにあう和宮。
この時、江戸を離れて京に戻ることもできました。
しかし、和宮は江戸に残り、徳川家存続のために必死の奔走を始めたのです。
どうして徳川家のために命をかけたのでしょうか?

亡き家茂の跡を継いで将軍となったのは慶喜でした。
1867年京の二条城・・・ここで、慶喜は大政奉還を表明しました。
夫・家茂が命がけで守ろうとした徳川家は、あっけなくその幕を閉じたのです。
1868年、和宮23の時に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を西郷率いる新政府軍が撃破!!
さらに錦の御旗を掲げて徳川を朝敵とし、江戸城へ進軍を始めました。
江戸へ逃げかえった慶喜は、新政府軍に恭順の意を示し、和宮を通じて和平を模索します。
しかし、何の相談もなしに幕府を終わらせ泣きついてきた慶喜に、和宮は憤慨し、面会を拒否します。
この時、和宮と慶喜を仲介したのが天璋院篤姫でした。

同じ大奥にいながら交流のなかった和宮と篤姫・・・。
しかし、家茂亡き後、二人の間は深まっていました。
篤姫もまた、結婚してすぐに夫を亡くすという経験をしていたからです。
和宮を保護しようという気持ちが高くなっていたのです。
和宮も、その気持ちが解るので、天璋院を頼るという心境になったのです。

江戸城にいた旧幕府上層部は、徹底抗戦と時代の流れを読めない者ばかり・・・。
慶喜から事態の解決を頼まれた和宮と篤姫・・・徳川の命運は、土壇場でこの二人に託されました。

この頃の和宮の日記には・・・
朝廷の味方をすれば徳川家から不義となり、徳川家のために義を通せば兄に対して不貞になる
本当にどうすればいいのか
それでも、後世まで清き名を残したい
と書かれています。

そこには、かつて江戸に嫌々嫁いできたか弱い皇女の姿はありませんでした。
自分の家族ともいうべき徳川家を守る母の姿でした。
和宮は新政府軍に謝罪し、寛大な処置を求めます。

何卒 私へのお慈悲とおぼし召され どうか徳川家をおとり潰しにならぬようお願い申し上げます。
徳川家が滅ぶようなことがあれば、私も生きていくわけには参りません。

しかし、新政府軍の進撃は止まらない・・・
江戸城総攻撃は3月15日に決まります。
100万人が暮らす江戸に、戦火の危機が迫りました。
すでに慶喜は江戸城を去り、ほとんどのものはなすすべなく・・・かろうじて勝海舟らが動いていました。
主なき城に取り残されたのは、数百人の大奥の女性たち・・・
城中に不安な空気が・・・そんな中、和宮は訴えます。

「朝廷から寛大な処置がもらえるよう謹んで行動するように
 万一、心得違いの者がいれば、徳川家もこれ限りになります」by和宮

3月11日、江戸城総攻撃まであと4日・・・
既に江戸は、新政府軍によって包囲されていました。
ここで、和宮と篤姫は最後の手に打って出ます。
篤姫は同じ薩摩出身の西郷隆盛に手紙を・・・和宮は新政府軍総督に直接手紙を書きます。

「どうか・・・私の心中をお察しください。
 江戸へ軍勢を進めるのは今しばらくご猶予くださるようお願い申し上げます。」by和宮

1868年4月11日、和宮の願いは届きます。
新政府軍との和平が成立・・・江戸は一切戦火に見舞われることなく新政府に明け渡されました。
そして、徳川宗家の存続も約束されたのです。

和宮の懸命の嘆願に寄って平和の訪れた江戸・・・一方徳川宗家は、静岡に移されました。
隠居した慶喜の跡を継いだのは、かつて家茂が跡継ぎに指名していた徳川家達6歳でした。
和宮は家達が静岡に引っ越すまで東京と言う名を変えた江戸で暮らし見守りました。
この時期の和宮の日記には、家達の名が頻繁に出てきています。
我が子同然だったようです。
24歳の和宮は、8年ぶりに京に戻ります。
京では聖護院に住み、泉涌寺や孝明天皇や光格天皇の墓所に・・・お墓参りをなさっていたようです。
祇園祭を見物し、嵐山で紅葉狩りをし、気ままに過ごします。
しかし、いつも気にかけていたのは家茂のことでした。

「京に住むことになれば安心ですが、来春の家茂さまの年季には、江戸に戻りたいと思っています。」by和宮

1874年29歳の時に再び東京へ・
そして、家茂のいる増上寺の見える場所を住まいとします。
この頃、和宮が読んだ歌が残っています。

玉敷の みやこもひなも へたてなき
         年を迎うる 御代のゆたけさ

都も田舎も隔てなく、年を迎えられる この時代の豊かさよ

1877年9月2日、和宮は療養中の箱根でその生涯を閉じます。
享年32歳でした。
亡骸は、和宮の遺言により、増上寺に眠る最愛の夫・家茂の隣に葬られました。
和宮の市からおよそ80年後の1958年、墓地の改装が行われることとなり、和宮の墓が掘り起こされました。
棺を開けると、和宮は一枚のガラス版を抱きかかえていました。
それは、生前の家茂を映した写真でした。
幕末の動乱の中、世紀のロイヤルウエディングをあげて波乱の生涯を閉じた和宮・・・
あれから150年余り・・・和宮と家茂は今も仲睦まじく、寄り添うように眠っています。

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いよいよドキドキの江戸無血開城です!!

1868年4月、西郷吉之助率いる新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜を大将とする旧幕府軍を打ち破りました。
吉之助は家臣たちを残して逃げ出した慶喜を追い、5万の大軍と共に江戸へと向かいます。
江戸総攻撃の日は、3月15日と決まりました。

ということで、前回、幾島と再会した吉之助は、なんと篤姫に会いに大奥へ!!
これじゃあ、山岡鉄舟の説得も、勝海舟との会談も、必要なしよね??

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吉之助が懐かしいだとか、篤姫が「頭を下げねばならぬのは私の方じゃ・・・
 西郷、頼みを聞いてくれ。」
その頼みとは・・・??慶喜の助命嘆願ではなく・・・
「慶喜殿の首ひとつで、この戦を終わらせてくれ・・・!!」でした。

思考回路停止だよ・・・全く・・・。
長州征討に当たっては、当主に責任を負わせたら家臣が黙っていない!!ということで、家老の首3つで勘弁してもらったんです。
そして、白旗を揚げて当主の助命嘆願をした会津は許してもらえず、吉之助たちが松平容保の首を!!と言ったもんだから、あそこまで戦争になったわけです。
だって、松平容保は、会津戦争の頃はもう当主ではなかったし、戦争をしたくなかったのに・・・
つまり、殿の首ひとつで勘弁してほしいなんて、当時の人は言わないんです!!
慶喜の命は、家臣の命すべてよりきっと重かったはず・・・。
そんな赤穂浪士的な感じだったんですよ・・・それなのに・・・
徳川家存続をあんなに望んでいた篤姫の口からこんな事を言わせるなんて・・・最低だよ・・・。

実際の篤姫&和宮は、吉之助や新政府軍に手紙を書いて江戸を守るために頑張ります。
そこんところ、お忘れなく!!
実際に会うなんて、恐れ多い・・・!!
そして、この手紙に西郷は涙したとも・・・

自分も自害する覚悟だと頭を下げる篤姫。
嘘かくなよな・・・
「どうか・・・徳川家だけは救ってほしい・・・」by篤姫
って、その慶喜の首が徳川家なんだよ!!

don4














・・・それなのに、慶喜の首案件はあっさり却下!!
完膚なきまでに叩くんだそうだ!!

嘘ばっかりの内容に、もう・・・見たくなくなっちゃった・・・。

そんな聞き入れてくれない西郷に、「私も命をかけて戦うのみです!!」という篤姫ですが、どんなにして戦うのか??そんなこんなは全くしてくれません。
幾島のゲホゲホ血を吐くのも、必要ないわい!!
憐れみを誘ってんのか??と思っちゃう。
血を吐いても頑張るって”言うこと”が頑張るんじゃなくって、頑張っているところ・・・例えば、〇〇に文を書いたとかそういうのを見たいんだと!!

「よ・・・西郷どん!!」by海舟
なんの緊張感もなく会談が始まったの・・・??

don















西郷どんに江戸を戦で火の海にするのは止めてほしいとサラっという勝さん。
いや・・・勝さんも火の海にしても慶喜を守ろうとしたんじゃん・・・。
条件も、山岡鉄舟で根回し済みなんじゃないの??
スラスラと降伏条件を話し出す勝さん・・・
それって交渉じゃないよね・・・??
話の分かる勝さんで、慶喜の心も、吉之助の心も汲んだ話し方だわ・・・
この時点で勝海舟は緊張な感じで吉之助と対峙すると思っていたのに、どうしてこう負け犬な感じに仕上がっちゃったんだろ・・・??
もっと、交渉バトルしてほしいのに~~!!

「西郷どんが背負う新しい日本って何だい・・・??」by勝

なんて、フラットに聞く勝さんですが・・・
この時点で、西郷どんにはそんな新しい日本の構想なんてのはありませんよ・・・きっと。

「民を見捨てることは、おいはできもはん!!」by吉之助

と、前半、くどいほど民を思っていたことを、今頃思い出した西郷どんなのでした。
いや・・・民を救うためなら戦争しないからね・・・??

「わかりもした・・・明日の総攻撃は取りやめじゃ・・・!!」by吉之助

「ほんとにいいのかい・・・??」by勝

と、涙ぐむ勝海舟・・・。
西郷どんびいきの男・・・と、自ら西郷好き好き光線を発する勝海舟。
慶喜に会いに行けばいい・・・と、慶喜の首を狙っている男に言うという・・・最低の幕臣だ・・・。
今、自分が幕臣だから慶喜の命だけは・・・みたいなことを言ったのに、その舌の根も乾かないうちにそんなこと言う??
自分達のケンカは自分たちでけりをつけろと、サシで勝負しろって言い出しました。
まさに8933かヤンキーの様です。
泣くなよ~~~!!!
「江戸が焼けないで良かった。
 おかげで今年も上野の桜が見られる・・・。
 西郷どん、ありがとよ。
 こうなったら、上野におめえさんの銅像とやらでも建ててもらわねえと・・・!!」by勝

don3















はああ???なんじゃこの展開・・・!!??
銅像の未来予知・・・ありえへんわ・・・。
この一言、要る??蛇足ってもんでしょ??
で・・・これで終わり??無血開城!!??

こんな勝さん見たくない・・・。
本当に見たい勝さんはこちら

で・・・勝海舟の通り、慶喜に会う吉之助。
護衛もないのか??慶喜・・・??

don2
















この姿・・・もう心は決まっている格好ですが・・・。
「俺を殺しに来たんだろう・・・」と言い出します。
それ・・・死に装束ですよね??慶喜さん・・・??
で・・・早く殺せとか、なんだとか、おバカな話です。

どうして逃げたのか?と聞く吉之助に・・・「おれは・・・ロッシュ殿から逃げたのだ・・・」by慶喜

は??

フランス軍12万軍と、銃5万丁を援助するって言われたんだって・・・。
その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと言われたらしい。。。
薩摩からはイギリス軍も参戦し、日本の中でフランスとイギリスが戦って勝った方が乗っ取るから、乗っ取られないように逃げたのだと言い出しました。

あ~、さいですか・・・。

史実は、勝さんが手配して、イギリスに亡命でもする??って話でしたけど・・・??

吉之助は、慶喜が恐ろしかったらしい・・・
「ようやくわかりもした・・・徳川慶喜様ではなく、ヒー様こそがあなたなのでございもすな?」by吉之助

あ??何言っとんじゃ・・・言いたいことが全く理解できません。
おまけに、徳川に生まれたことが不幸だなんて恐れ多い事を言う始末・・・。
??ヒー様が本当の慶喜ってことは、品川宿で飲んで遊んでいるバカだってことを言いたいのか・・・??

「もう・・・よかでごわす
 徳川将軍としてのお覚悟、この牛男、しかと見せていただきもした。
 ヒー様、よくぞ逃げて日本をお守りいただきもした。」by吉之助

だから・・・何のこと??
”徳川将軍としての覚悟”って、どの部分??なんなの??全く解らないわ・・・
っていうか、脚本家先生の言いたいことが、こっちに全く伝わってこないのよ・・・。
ま、フランス精鋭部隊12万軍って言われた時点で「ウソこけ・・・」って思っちゃうから真実味全くなし!!

で・・・殺す、殺すって言ってた慶喜を殺さなかった西郷・・・
木戸が怒ってますが、当たり前でしょう。
史実ではイケイケどんどんの大久保ももう、戦争反対派だしな・・・。

江戸は江戸も徳川家も助かったと、勝と山岡に礼を言う慶喜。
「苦労を掛けたな・・・」by慶喜
「いや・・・一番苦労したのは私たちじゃござんせんよ・・・西郷です!!
 あの男がやってくれやした!!」by勝

やめて~~~!!

勝さん、そんなこと言わないよ・・・
で、何やったって言うんだよ、西郷吉之助!!
敵だろ??なに敵の事褒めてんねん!!天晴なこと、いつしたんだよ!!

1868年4月11日、江戸城明け渡しの日・・・。

城明け渡しでは・・・
またもや篤姫&幾島にあって・・・慶喜の命をとらなかったことを、「西郷さん・・・相変わらず本当に人がよろしいわ・・・」と、幾島に言わす・・・この展開・・・最悪。
「そなたが勝ったのです。そなたの決めたことには逆らえません。」by篤姫
いやいや・・・そんなこと言いません。
徳川の家を守ってくれたことに感謝する篤姫。

「西郷・・・礼を言います。」だって・・・。
徳川が260年かけた書物を差し出す篤姫。
こんだけしかないんか??と言いたくなるしょぼい量です。
西郷の作る国が見たくなった・・・と、ホンワカな3人ですが・・・こんな笑って応対できひんやろ・・・??

もう・・・なんでもええわ・・・。

どこにもいない西郷を、「先生、先生」と探すみんな・・・吉之助は・・・
二宮尊徳の書を胸に寝ていました。
あ・・・キンチョー感ないわ・・・。
で・・・放っていくなよ、みんな・・・。

こうして後の世に言う江戸無血開城は終わったのです。
う~ん・・・全く違うから江戸無血開城って言わないで・・・

しかし、新たな騒乱が起きようとしていました。
上野寛永寺には、彰義隊が・・・やりたくない戦いが始まりました。
って・・・やりたかったんだろ??新政府軍!!
え~!!
会津や米沢、庄内、仙台が徹底抗戦だって。
榎本武揚も軍艦で脱走!!
って・・・会津は、さっきも書いたけど、恭順の意を示してたんだよ・・・
でも、振り上げたこぶしを慶喜に振り下ろすつもりが慶喜が隠居しちゃったから会津に振り下ろしたかったんでしょ??
やりたかったのは、新政府軍の方じゃないの・・・!!
どうしてそうなるかな・・・!!??

そして、そして、いきなり大村益次郎登場。
いきなりだよ・・・「以後お見知りおきを・・・」って、そんないきなり出てきて戦略言い出しても説得力なし!!

「そうか・・・あの大村が出てきたか」by勝

この一言で、大物感を出すという作戦かっ??
「せっかく江戸で血を流させずに済んだってのによ・・・
 お前さん、これからも戦い続ける気かい??」by勝

なんで西郷と酒酌み交わしてんねん・・・??

「死んじゃいけねえよ・・・西郷どん、西郷どん、龍馬が言った新しい国を作ってくれ」by勝

・・・

きっと、勝さんはそんな人じゃない・・・。

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