日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川慶喜

戊辰戦争最大の悲劇・・・会津戦争。
新政府軍の猛攻を受け、鶴ヶ城は開城・・・民間人も多く巻き込まれ、戦死者は2000人を超えました。
この時、会津藩を率いたのが松平容保。
義を重んじ、幕府に殉じた藩主というイメージが先行する中、その実像は意外なほど知られていません。容保が幕末についてほとんど語らなかったからです。

容保の運命を大きく変えたのが、京都守護職への就任でした。
京に乗り込み、一橋慶喜らと共に政治の実権を握りました。
しかし、変革の嵐はあまりにも激しく・・・
幕府を揺るがす薩長の台頭、思いもよらない長州征討での敗北、そして・・・朝敵とされた鳥羽・伏見の戦い!!
容保を次々と襲った究極の選択がそこにはありました。
その悲劇の真相とは・・??



会津若松市鶴ヶ城・・・松平家23万石の居城です。
天守閣にある博物館に資料が残されています。
描かれているのは、会津から遠く離れた浦賀湾・・・江戸後期、イギリスの帆船が通商を求めて来日した様子を描いたものです。
中央には巨大な異国船・・・その周囲を取り囲むように小舟が・・・
よく見ると、小舟には会津の旗印が・・・!!
実は江戸ののど元にあたる浦賀の警備を会津藩が引き受けていたのです。

江戸時代、泰平の世ということもあり、各藩、武備には力を入れていませんでした。
しかし、会津藩は日ごろ地元でも軍事訓練を続けていました。
だから、会津藩に白羽の矢が当たったのです。

会津藩は、親藩の中でも特に最前線で徳川将軍家を守ることを期待され代々それに応えてきました。
藩祖・保科正之定めた「家訓」
十五条の最初にはこうあります。

”大君の義 一心大切に忠勤を存ずべし”

将軍に絶対の忠誠を誓うことが歴代藩主に課せられた使命でした。
第9代藩主・松平容保は、18歳の若さで藩主の座を引き継ぎます。
高須松平家に生まれ、会津に養子に入った容保が、まず教えられたのがこの家訓でした。
この教えを胸に、容保は時代の荒波に立ち向かっていきます。

時は幕末・・・京では尊王攘夷の火が燃え盛っていました。
導火線に火をつけたのが長州藩・・・
その狙いは、幕府の開国政策の阻止でした。
藩士を京に送り込み、異国排斥を訴え、朝廷の有力公家たちを味方につけていきます。

長州に呼応するように、過激な攘夷派の浪士が続々と京に集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に、テロを繰り返します。
この事態に幕府が頼ったのが、会津藩でした。
新たに設けた京都守護職に容保の就任を命じました。
その任務は、京に千人規模の軍隊を駐屯させ、治安を守るというものでした。
当然、巨額の費用も見込まれます。
家臣たちは、”薪を負うて火を救う”ようなものだと反対の声をあげました。
都での動乱に巻き込まれることを逡巡しながらも、容保は幕府の要請に応えることを決めました。

「我が会津藩は、徳川宗家と存亡を共に存亡すべし定められている
 君臣、ただ京の地を以て死所となすべきである」by容保

1862年12月、会津藩上洛。
容保は会津藩兵を率いて京に到着しました。
御所からおよそ2キロ・・・金戒光明寺は京都守護職の本陣が置かれた寺です。
容保が使った部屋が当時の姿に復元されています。
ここで容保は、京の治安回復の指揮を執りました。

1863年3月・・・この広間で容保と対面したのが、新撰組局長・近藤勇でした。
後に新撰組になる若い浪士たちと容保が初めてであったのもこの寺の境内でのことでした。
土方歳三や沖田総司らの腕前に期待を寄せた容保は、彼等を京の治安維持に用いました。
会津藩御預新撰組は、攘夷派の取り締まりに大いに力を振るいました。
守護職・会津によって、京の治安が回復に向かったことを誰より喜んだのは・・・時の孝明天皇その人です。
初めて謁見した際、天皇は容保の功績を称して、緋色の衣を下賜しました。

katamori

この時の陣羽織がそれです。
容保は大いに感激し、守護職の任務への思いを新たにしました。

しかし、その一方で、長州藩の動きは過激さを増していきます。

1863年5月、長州藩が下関海峡で外国船を砲撃。
長州藩は、攘夷派の公家と共に、更なる計画に動き出しました。

孝明天皇を神武天皇陵へ行幸させ、攘夷戦争の御前会議を開く
というものでした。




この計画が実現すれば、天皇の名のもとに外国へ宣戦布告するにも等しい・・・!!
対外戦争の危機が寸前に迫ったその時・・・!!
容保のもとに外様の大藩・薩摩からの報せが届きました。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに、会津藩の協力を求めてきたのです。
容保はすぐに決断、会津藩士に薩摩と行動を共にすることを命じました。
そして、事態を知らされた孝明天皇からの極秘命令が容保に届きます。

”会津の兵力を以て、国家の害を除くべし”

1863年8月18日、政変の幕が切って落とされました。
会津藩兵が御所の門を封鎖し、長州に与した公家の参内を阻止、彼らを排除した朝議でその処分が決められました。
朝廷を牛耳っていた攘夷派公家たちは官位を剥奪、御所警備を解かれた長州藩と共に西国へと落ち延びていきました。
尊王攘夷派は、都から一掃されたのです。

事件のあと、孝明天皇から容保に下された直筆の和歌・・・
自分の意をくんで攘夷派追放に働いてくれた容保の忠誠に対し、天皇はこう詠んでいます。

武士と心合わして いわおをも貫きてまし 世世のおもひで

天皇と武士が心を合わして、国の難局に当たっていくことを望んだ孝明天皇・・・
容保もまた、朝廷と幕府が一体となって政治を行う公武合体の実現を自らの使命としていくのです。


1864年7月、失地回復を目論んだ長州藩が、京に進軍!!
御所を舞台に激しい戦いが繰り広げられました。
禁門の変です。
この時容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜らと共に出陣し、長州藩を撃退しました。
この結果、権力を掌握したのが一会桑・・・
容保と慶喜に桑名の松平定敬を加えた体制でした。
一会桑が目指したのは、江戸の幕府と京の朝廷をつなぐことです。
幕府が独断で政治決定を行う幕府専制から、朝廷の意思を組んで幕府が政治を行う公武合体への転換を図ろうとしました。

一方、禁門の変で御所に向けて発砲した長州に、孝明天皇は激怒。
7月23日、幕府に対し朝廷長州を討つべしと、長州征討の勅令を下しました。
この時、容保は江戸に書簡を送っています。
それは、将軍直々の上洛の要請です。
将軍・家茂を上洛させ、その後も京に常駐させることで、朝廷との意思統一を図り、公武合体を推し進めようという狙いでした。
ところが、容保の意図を阻止したのは、江戸の幕閣でした。

”容保公は単に京都守護職に過ぎない
 将軍の進退について、口を出すべきにあらず”

容保や会津藩は、朝廷と幕府が強調する・・・それが前提として幕府は存続できるという考えでした。
禁門の変みたいな重大な事件が起きれば、将軍自身が征夷大将軍として出陣をして、京都に行って将軍の誠意を見せる、朝廷の信頼を得るという考え方でした。
対して江戸の幕閣は、過去2度、将軍は上洛したが、朝廷や諸藩に振り回されて将軍の権威が失墜したと考えていました。
ここで、上洛をするということに対して非常に及び腰で、現状認識、危機感といううえで差がありました。

結局、家茂の上洛は持ち越され・・・代わりに征長総督に任命された尾張藩・徳川慶勝のもと、35藩・総勢15万の大軍が進発します。



1864年、第一次長州征討!!
全軍は、11月11日までに5つの攻め口に着陣。
1週間後に総攻撃を決しました。
ところが、ここで思わぬ動きを見せたのが薩摩藩でした。
薩摩は会津と共に長州排除に動いたものの、その後、一会桑によって政治の中枢から遠ざけられていました。
長州征討が成功し、一会桑の勢力がさらに強固になるのは好ましいことではなかったのです。
11月、征長軍参謀にあった西郷隆盛は、単身・岩国を訪れ、長州藩との交渉に臨みました。

”長州藩は速やかに禁門の変を主導した三家老を処分
 その首級を届けるべし”

過酷な処分のように聞こえますが、西郷は裏ではこの要求さえのめば攻撃を中止させ、その後も寛大な処分に動くことを長州に約束していました。
長州はこれを受諾、三家老を処刑し、恭順の意を示しました。
ここに、征長軍は、戦うことなく解兵することとなりました。

この時期、容保の元には、京都守護職をやめ、会津に戻ってくることを願う国元からの要請が度々寄せられていました。
しかし、長州征討が一段落した後も、容保はこう返答しています。

「自分が京にいるからこそ、薩長も好き勝手が出来ない
 引き上げた場合、どのような事変が生じるかわからない」by容保

第一次長州出兵は、三家老の首を長州藩が出して、一応終息しています。
しかし、問題はそれで終わっていません。
長州藩に対する朝敵としての具体的な処分を、京都で決めないといけません。
中途半端なところで帰っても、孝明天皇の信頼に応えることもできないし、幕府に対する責任を果たすことができない!!
京で自分が果たすべき使命がまだある・・・!!
容保は、守護職留任を決断しました。

1864年12月、長州で一大事変が勃発しました。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが決起、恭順派との内戦に勝利し、藩の主導権を握ります。
彼等は、藩内の武装を強化、表面上は幕府に恭順するが、いざとなれば戦争をも辞さないという方針でした。
この動きを察知した幕府は、
”長州藩内に容易ならざる企てがある
 御所からの要請もあったので、討伐のため将軍自ら出陣する”

朝廷にとっては寝耳に水でした。
天皇は軍事行動など命じていなかったからです。
急遽、説明のため参内を命じられた容保たちは、苦しい弁明を展開することになります。

「征伐」=将軍が大坂へ上る「進発」の意味に過ぎない

容保の言い訳の背景には、幕閣の計画を敢えて利用しようという狙いがありました。
容保たちから見れば、将軍を江戸から引っ張り出す千載一遇のチャンスでした。
将軍を上洛させて、長期間滞在させることで、朝廷と幕府が一体化、長州処分を執行することで、朝廷と幕府の権威が維持できる・・・!!

結局、朝廷も幕府の追討令を追認・・・
1865年5月、将軍・家茂は、江戸を進発し、大坂城に入りました。
11月、広島に目付が派遣され、長州の陰謀を糾問。
これに対し、長州側は、陰謀など事実無根だと弁明しました。
藩内への立ち入り調査も拒否され、使者は引き下がざるを得ませんでした。

どうにも不審な長州の態度に、老中が急遽状況。
一会桑との間で、対応が話し合われることとなりました。
この時、長州の軍事討伐にこだわった老中は失脚し、その顔触れは穏健派に代わっていました。
長州の態度にはあいまいな部分があるが、再度詰問すれば、紛糾し戦の恐れがある・・・
戦争を避けるためには、藩主親子の謹慎や、領地の削減など、寛大な処分にとどめるべき??

これに反発したのが一橋慶喜でした。
道理を曲げて寛大な処分を下すことに断固として反対しました。
反逆者への処分がうやむやになるようでは、幕府と朝廷の権威失墜を天下に示すことになる・・・!!
いざとなれば戦う覚悟で再度使者を送り、疑惑を徹底究明すべきだ・・・!!

果たして、容保はどちらに与すべきか・・・??

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容保の選択を伝える記述が越前藩の記録に残っていました。

”長州問題を巡って、一橋と老中は一旦決裂したが、その後、会津と桑名がとりなしたことで、両者は再協議することになった
 会議が物別れに終わると、容保が動いていた
 慶喜に直談判!!老中との再協議を説得した”

容保の選択は、長州に対する寛大な処分でした。
改めて開かれた会談で、長州処分最終案は・・・
・藩主父子の隠退
・領地10万石の削減
・朝敵の名は除く
でした。

1866年2月、長州藩に処分案を伝達、返答期限は5月29日に・・・!!

しかしこの時、容保の知らないところで歴史は大きく動いていました。
1866年1月・・・薩長同盟締結

”長州の朝敵の汚名を晴らすため、薩摩はいかようにも尽力する
 一会桑が邪魔立てするようならば、決戦に及ぶ”

長州は、処分を断固拒否し、徹底抗戦の意思を固め、薩摩もその支援を確約していたのです。
当然返答期限に長州の返事が届くことはありませんでした。
幕府の面目をつぶされたことに、慶喜は激怒。
6月7日、孝明天皇から一橋慶喜に長州征討の勅許が下ります。
開戦に踏み切りました!!
もはや、容保に止める術はありませんでした。
1866年6月、第2に長州征討の戦端が開かれました。
薩摩の援助で入手した最新式の武器が、幕府軍を圧倒していきます。
実はこの戦いには、精強を誇る会津藩兵が導入されていません。
容保は、この戦が、長州と会津の私戦と受け取られることを危惧し、出兵に踏み込めませんでした。
しかし、その後、会津兵を欠いた幕府は、各地で連戦連敗・・・
戦局を変えるべく、遂に出陣を決意します。
しかし、予期せぬ事態が待ち受けていました。
1866年7月20日、将軍・家茂が大坂で病死。
後を託された慶喜は、容保の必死の説得にも応じず、戦を続けることを断念・・・
第2次長州征討は、幕府の敗北に終わりました。
そして、更なる事態が容保を襲います。
1866年12月25日、孝明天皇崩御。
これをきっかけに、まるで崖を転がり落ちるかのように容保は窮地に追い込まれていきました。



1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦い
会津は、徳川慶喜擁する旧幕府方として、薩長を中心とする新政府軍と戦火を交えました。
火力の差は歴然でした。
そして・・・新政府軍が、戦場に錦の御旗を掲げると・・・
朝敵に名指しされた慶喜は戦意喪失、海路を江戸へと帰ってしまいました。
傍らには、容保の姿もありました。

容保の小姓の手記「浅羽忠之助遺録」
容保の会津藩主就任以来そのそば近くに仕えた小姓です。
家臣に一言も告げず、戦場を離脱した容保に対し、忠之助はこう記しています。

「このような苦戦になり、死傷者も多く出ている
 それをお見捨てになって、お立ち退きとはあってはならない」

決死の逃避行の末、江戸にたどり着いた忠之助は、主君に拝謁し、そのことを諫言しました。
容保は、ただこう返したといいます。

「誠に失策の至りであった」

1868年閏4月、会津戦争
朝敵とされた会津は、新政府軍の猛攻に晒されました。
2500発もの砲弾を撃ち込まれ、鶴ヶ城は開城。
老人や女性、子供にまで多くの犠牲者を出し、会津戦争は終結しました。
鶴ヶ城のほど近くにある御薬園・・・
降伏ののち、死罪を免れた容保は、明治に入ってから数年間、この地で過ごしました。
公武合体の実現をひたむきに追い求め、夢破れた容保・・・

家訓十五箇条が会津藩の憲法でした。
「大君」は、将軍家であるとともに、帝・皇室であると考えていました。
帝と武家が、手を取り合って平和な国を作っていこうと・・・
これが、激しい時代の中で、全く逆の立場に立たされたのです。
自分は戦争責任者・・・
会津の罪もない人たちに大変な塗炭の苦しみを味あわせてしまった・・・
このことを、何より悔いていました。

会津戦争から25年・・・1893年、松平容保死去。
容保は59歳で没しました。
その亡骸は、会津の山中で、静かに眠っています。

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長い日本の歴史では、それまでの世の中をひっくり返す大変革がいくつかありました。

天皇中心の体制を固めた大化の改新
武士が政権を作った鎌倉幕府
武士の世を終わらせ近代国家へと生まれ変わった明治維新・・・。

明治維新は、世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命と言われています。
戊辰戦争の戦死者数は約8500人・・・明治10年の西南戦争を含めても約3万人です。
18世紀にはじまるフランス革命の犠牲者はおよそ40万人、アメリカ南北戦争は60万人と言われています。
どうして、日本では犠牲を抑えることができたのでしょうか?

そのヒントは、敗者とされた者たちです。
激動の中、敢えて困難な道を選んだ侍たちの歴史です。

ペリー来航に始まった幕末の動乱・・・
1868年、動乱はついに日本の運命をかけた武力衝突に・・・!!
鳥羽伏見の戦いです。
徳川の世か、新政府の世か、その争いは1年5カ月に及び、戊辰戦争と呼ばれました。
旧幕府軍を率いたのは、徳川慶喜・・・西郷隆盛らの新政府軍の前に敗走。
大坂城に退却し、そこに温存していた巨大な兵力で反撃に出るはずでした。
しかし、その直前・・・慶喜が密かに逃亡・・・旧幕府は総崩れとなりました。

①もしも徳川慶喜が大坂城で戦っていたら??

幕末、幕府は諸外国の圧力に屈して国を開きました。
それまで絶大だった幕府の権威は揺らぎ、乱世となりました。
その中で、天皇を中心とした新たな国家体制を望む声が日増しに高まっていました。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など薩摩・長州の一部は公家の岩倉具視と連携し、密かに倒幕に動き出します。
この動きにいち早く反応したのが、将軍・慶喜でした。
1867年慶喜は討幕派に対して先手を打ちます。
政権を朝廷に返上・・・大政奉還です。

慶喜は幕府がだんだん斜陽化していくのを見ていて、このままの体制では駄目かもしれないと考えていました。
それならば、自分が将軍になった後に、即幕府を廃止してしまえば討幕派の目標は失われる・・・
そこで、新しい政府を作れば、自分が中心に改めてなり、そして日本をリードする考えでした。

大政奉還によって倒すべき幕府を失った西郷と大久保・・・
しかし、徳川を排除した政権実現のためにある計画を実行します。
12月9日、早朝・・・
薩摩兵らが天皇の住む御所を封鎖、王政復古のクーデターです。
慶喜らを中枢から排除し、天皇のもとで新たなメンバーが政治を行う新政府樹立を宣言。
当然ながら、旧幕府側は激怒!!
慶喜は、大坂城に移動・・・1万5000の旧幕府軍を従え、情勢を見守ることにしました。

1868年1月2日、旧幕府軍1万が大坂城から京へ出発!!
目的は、天皇に薩摩の討伐を願い出るためです。
旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見、二手に分かれて北上。
京の御所を目指しました。

1月3日、旧幕府軍はその途中で、新政府軍に行く手を阻まれます。
新政府軍の兵は5000!!旧幕府軍は1万!!
そこには倍の兵力がありました。

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しかし敗北・・・
敗北の原因①突然の戦闘開始
1月3日、午後5時・・・新政府軍が鳥羽伏見の戦いの火蓋を切ったとき、旧幕府軍は大混乱に陥りました。
何故なら、旧幕府軍の目的は、あくまでも天皇に薩摩討伐を願い出る為だったからです。
その為、京への登城への途中で戦いになることを想定せず、銃に弾を込めていませんでした。
そして、伏見でも・・・賭場で鳴り響いた銃声が呼び水になって戦闘が始まりました。
伏見には、土方歳三率いる新撰組もいましたが、猛烈な火力に晒されました。
虚を突かれた旧幕府軍は、じりじりと後退します。

敗北の原因②錦の御旗
1月5日早朝・・・戦場に錦の御旗が翻りました。
これで、新政府軍が官軍で、旧幕府軍が賊軍であることが示されました。
士気をくじかれた旧幕府軍は、敗走をかさね、大坂へ撤退していきます。
鳥羽伏見の戦いを決定づけた錦の御旗・・・
仁和寺には、実際に戦場で掲げられたといわれる旗が大切に保管されています。

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御所にあった布をもらう・・・下賜されるのがこの御旗の価値です。

錦の御旗を最初に掲げたとき、旗を知る者はほとんどいませんでした。
幕府の兵隊が、「この旗はどこの藩のものか?」と、敵に聞きました。
新政府軍「これは錦の御旗だ、我々は皇軍だ」
旧幕府軍「わしらは賊か?」
噂が噂を呼んで、じわじわと賊軍となっていきました。
旗ひとつで戦局が変わる・・・如何なる軍事力でもこれには抗えなかったのです。

新政府側に錦の御旗が翻ったという知らせは、大坂城の徳川慶喜のもとにも届いていました。

「朝廷に対して刃向かう意思はつゆばかりもないのに、何かの誤りで賊名を背負うことになってしまった」by慶喜

朝敵とされたことにショックを受けた慶喜・・・そこには彼の生い立ちが深く関係していました。

1837年、慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族での母との間に・・・水戸藩に生れます。
水戸藩は、天皇を尊ぶ尊王思想の筆頭格でした。
そこで育てられた慶喜は、幼いころから聡明で知られ、徳川の御三卿・一橋家の跡取りになります(1847年11歳)。
1864年、28歳の時、御所の治安維持を任されます。
29歳の時、14代将軍家茂が病死・・・慶喜は、15代将軍となりました。
しかし、家臣たちには慶喜の考えが日によって変わることを揶揄され、”二心殿”と呼ばれました。
1868年1月5日、錦の御旗が翻った日・・・旧幕府軍は大坂方面へ後退・・・
大坂城にいた慶喜のもとで立て直しを図る・・・!!
慶喜は家臣たちを前に檄を飛ばしました。

「この大坂城が、たとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか!!
 予がここで死んでも、忠義の家臣たちが志を継いでくれるだろう」by慶喜

慶喜の言葉に家臣たちは再び奮い立ちました。
大坂湾では、最新鋭の軍監・開陽丸をはじめとする旧幕府軍が、薩摩藩の艦隊を撃退!!
いよいよ反撃開始!!と誰もが確信しました。

ところが・・・1月6日夜・・・慶喜は、密かに開陽丸で江戸へ・・・!!
大坂城に残る家臣のほとんどには、何も告げずに・・・
慶喜の側近は、「なぜですか」と尋ねました。

「あの調子でやらなければ、兵が奮い立たないからだ 方便だよ」by慶喜

その後、大坂城は陥落。
旧幕府軍も瓦解しました。
こうして、戊辰戦争の初戦・・・鳥羽・伏見の戦いは集結しました。

もしも、慶喜が大坂城で戦っていたら??

鳥羽伏見の戦いは勝てたかもしれない。
でも、外国勢力の介入や、内戦の長期化を避けるため、慶喜は大坂城から逃げたのでは・・・??
悪評を背負っても、混乱が起きない道を選んだのです。

鳥羽伏見の戦いを放棄し、江戸に戻った徳川慶喜は、新政府に恭順するとしました。
しかし、新政府には西郷隆盛はじめ、なにがなんでも徳川家を攻撃し、慶喜の命を奪うべし!という人がたくさんいました。
果たして・・・慶喜の運命は・・・??
1868年1月18日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、錦の御旗を掲げ、京を出発。
東海道、東山道、北陸道の三方向から進軍し、途中にある藩を次々新政府軍に加えて江戸へ向かいました。
一方、江戸では、旧幕臣の多くが徹底抗戦を訴えていました。

”新政府軍の進軍に、江戸は殺気立ち、鎮撫するのは非常に困難である”

新政府軍と旧幕府軍との全面戦争・・・そうなれば、100万都市・江戸が火の海になる!!

江戸城に戻った徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居・・・新政府に恭順の意を示しました。

「追討使を差し向けられる事態に至ったのは、全く慶喜一身の不束より生じたことである」by慶喜

しかし、
「慶喜の首を引き抜かねばおかれぬ」by西郷隆盛

西郷隆盛率いる新政府軍は、進軍を続行。
慶喜はこの時、徳川の命運を陸軍総裁の勝海舟に一任しました。
西郷は、江戸総攻撃を3月15日に行うことに決定。
両軍の武力衝突は、何としても回避したい・・・そう考えた勝は、西郷に書状を送ります。
3月6日・・・総攻撃の9日前でした。

「我が徳川が恭順を守るのは、徳川とて国家の一員であるゆえ
 今は、兄弟相争う時ではない」

それに対し西郷は、旧幕府側に降伏の条件を示しました。

・徳川慶喜の備前藩へのお預け
・江戸城明け渡し
・軍艦・軍器全ての引き渡し
・徳川家臣の処罰

慶喜の命こそは奪われないが、徳川宗家の存続は危ぶまれる・・・
勝には、到底飲めないものでした。
最悪の事態も想定していた勝・・・恐るべき戦略を練っていました。
その内容は日記に残されています。
島津家が書き残した”勝海舟日記”・・・
江戸総攻撃5日前の3月10日の日記に、勝はこう記しています。

”我も先に市街を焼いて、一戦焦土と化す!!”

新政府軍が来る前に、水から江戸に火を放つという江戸焦土作戦です。
はったり・・・??交渉材料だったようです。
勝海舟は、交渉能力に長けていました。

3月13に理、勝、西郷と直談判!!
西郷が提示した条件に対し、勝はこう訴えました。

・徳川慶喜は水戸で謹慎
・江戸城は明け渡す
・軍艦・軍器の必要数を残して引き渡す
・徳川家臣の寛大な処罰(処刑なし)

もしこの交渉が決裂すれば、江戸がし焦土になる作戦があると伝えていたのかもしれません。
勝と話し合った西郷は、態度を一変させます。

”色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします”by西郷隆盛

江戸剃ぷ攻撃は中止、予定日である3月15日の1日前の出来事でした。

その1か月後、勝は江戸城を新政府軍に明け渡しました。
無血開城でした。

江戸総攻撃が起きていたら・・・??
新政府軍の江戸決戦は失敗したのではないか??
結局、明治維新後の日本の近代化が出来たのは、江戸時代の蓄積、土台があったからです。
一切なくなってしまっていたら・・・近代化は50年ぐらい遅れていただろうと思われます。
軍事的に負けても、江戸城攻撃を回避できた・・・それは勝海舟の勝利だったのかもしれません。

「西郷と最後まで闘った男」



江戸城無血開城の後も、新政府軍と旧幕府軍との戦いは終わりません。
会津をはじめ、北陸や東北で多くの犠牲者を出しながら、戦線は北上・・・
戊辰戦争最後の舞台は、北の大地・箱館でした。

旧幕府軍のリーダーとして新政府軍と戦った榎本武揚と土方歳三・・・二人の侍は、戦いの先に何を見たのでしょうか?
1868年4月以降・・・戦いは北へうつっていきました。
東北や越後では、最新の武器を備えた新政府軍が旧幕府に味方する諸藩を圧倒・・・
劣勢に立たされた旧幕府軍の頼みの綱は、世界有数の強さを誇った軍艦・開陽丸を中心とする海軍でした。
開陽丸を指揮するのは、海軍副総裁・榎本武揚です。

やがて、仙台と、土方歳三率いる新撰組も合流。
総勢3000人となった榎本の艦隊は、蝦夷地と呼ばれた北海道へと向かいます。
そこには、榎本の大きな野望がありました。

1836年、榎本武揚は江戸に旗本の子として生まれました。
幼いころから学問好きで、昌平坂学問所に・・・若くしてオランダ語、英語、フランス語を習得。
19歳の頃には、蝦夷地の海洋調査に随行。
箱館にも足を踏み入れていました。
1862年、27歳の時、オランダに留学。
5年の間、西洋の知識を吸収します。
中でも力を注いだのが、海の国際法でした。
その詳細な解説書「万国海律全書」は、生涯、榎本の座右の書となりました。
1867年、幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を発注すると、それに乗って帰国・・・この時、32歳、幕府の若きエリートでした。

一方、土方歳三は、1835年、武蔵国の多摩の農家に生れます。
武士に憧れ、剣術の修行に励む中で、生涯の盟友・近藤勇と出会います。
1863年、29歳の時、近藤と共に上京。
新撰組を結成、藤方は副長となります。
寄せ集めの新撰組を、武士以上に武士を目指すと考えた土方は・・・
武士道に叛いたもの、組を抜けようとしたものは、切腹など、隊士らに鉄の掟を課しました。
ついた異名は、鬼の副長!!

1868年、34歳の時に戊辰戦争勃発。
旧幕府軍は劣勢になり、配送をかさねる中・・・盟友・近藤勇が新政府軍に処刑されてしまいます。
もはやこれまでか・・・

「このまま終わっては、地下の近藤とまみえることができようか!!」by土方歳三

土方は、あくまで新政府軍の戦う道を模索していました。

同じく幕臣だった榎本武揚・・・しかし、土方とは違い、この戦いの先を見据えていました。

「薩摩長州など強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収したのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by榎本武揚

1868年9月、榎本と土方は仙台で合流。
仙台城で旧幕府軍会議が行われます。 
榎本は、土方ら旧幕府軍に自分の最終目的を伝えました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by榎本武揚

徳川家に仕える家臣やその家族は、30万人・・・!!
しかし、新政府は、徳川家の収入を400万石から70万石に削減してしまいます。
収入が1/6以下では、彼等を養いきれない・・・!!
路頭に迷う家臣たちを集め、蝦夷を開拓しながら北方警備にもあたる・・・
それが榎本の戦いの後の野望でした。

10月12日、総勢3000人を乗せた榎本艦隊は、仙台から函館へ出航!!
土方はその時の心境を友人への手紙に記しています。

”到底勝算があるにあらず
 我ら闘こうて快く死せんのみなり”

10月20日、蝦夷・鷲の木に上陸
1週間足らずで現地の新政府軍を破り、函館を制圧!!
榎本たちは、五稜郭を拠点としました。

新政府軍と戦ううえで、榎本が最も大切にしたのは外交でした。
箱館に在留する諸外国の領事に榎本はこう説明しています。

”我々は、反逆者でも逆賊でもない
 祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちである”

榎本たちが暴徒と見なされ、諸外国が新政府軍に味方をしたら・・・勝ち目はない!!
そこで榎本は、中立を守るように諸外国と交渉をかさねます。
そして、遂に、
「榎本たちは略奪者ではない
 しっかりと組織された軍隊を備えた政府である」
榎本は、自分たちを事実上の政権と認めさせることができたのです。
諸外国は、中立の立場を表明しました。

諸外国としては、勝ち馬に乗るつもりでした。
しかし、なかなか見極めきれなかったのです。
旧幕府側の圧倒的に近代化された海軍力が、ミリタリーバランスを保っていたのです。
そのミリタリーバランスが、諸外国を揃って中立で見守る立場に置いたのです。
榎本の外交を成功させた強大な海軍力・・・これが、旧幕府軍の生命線でした。

榎本海軍の切り札・開陽丸・・・!!
飛距離4キロのクルップ砲!!
開陽丸には、操船に長けた船員がたくさんいました。
それが、開陽丸の強さの源でした。
最大500人の兵を乗せることができました。

榎本艦隊は開陽丸を持っている・・・それが抑止力にもなっていました。
簡単に新政府軍も攻撃できなかったのです。

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1868年11月、旧幕府軍松前城を攻撃!!
土方を隊長とする旧幕府陸軍は、蝦夷地の南部を治めていた松前藩を攻略・・・北へ逃げる敵を追って江差へ・・・!!
榎本は、土方たちを海から援護しようと開陽丸の出撃を決断します。
ただ・・・それは・・・

「江差までつれて行って、大砲の2,3発でも撃たせてやろう」by榎本武揚

土方率いる義陸軍ばかりが活躍していたため、海軍にも功績を与えようという榎本の海運への計らいだったのです。
しかし、この判断が悲劇を生みます。
11月15日夜・・・江差沖に停泊中の開陽丸は、暴風雨に襲われました。
激しい波で、岸へ押し流され座礁・・・!!
大砲を撃ち、その反動で岸から離れようとするも沈没してしまいました。
榎本は、土方たちと共に沈みゆく開陽丸を見つめていました。

”暗夜に灯火を失ったようだ”

土方歳三嘆きの末・・・この松の下で、榎本と共に開陽丸を見ていた土方があることをしました。
真偽は定かではありません・・・が・・・
土方が何度もたたいたのでこぶが出来て曲がった・・・と。

1868年12月15日、榎本たち旧幕府軍は、蝦夷地の全域を制圧、各国の領事にその領有を宣言します。
さらに、日本初の選挙を実施、榎本が総裁に、土方が陸軍奉行並に選ばれました。
ところが、それから2週間もたたない12月28日・・・
榎本に衝撃的な知らせが舞い込みます。
諸外国が中立の撤回を布告したのです。
開陽丸が沈んでしまったことで、局外中立を保っていた諸外国からすれば軍事力に大きな違いが出てくる・・・榎本政権の行き先を見切ったのです。

このすぐ後、アメリカは新政府軍に細心の軍監を譲渡しました。
甲鉄と命名された協力な軍監です。
これで、旧幕府軍と新政府軍の海軍力は逆転してしまいました。

1869年4月9日・・・新政府軍が総勢7000人で攻撃開始。
上陸後、三方向に分かれて箱館に進軍しました。
迎え撃つ旧幕府軍にとって、開陽丸の不在はあまりにも大きかった・・・
甲鉄で、新政府軍が制海権を握ります。
旧幕府軍は、陸軍の攻撃に加えて、海からの艦砲射撃に晒されます。
しかし、海から遠い山の中に陣取る土方の部隊は違いました。
狭い一本道を見下ろす場所に銃を置き、登ってくる敵を待ち受けます。
やがて、新政府軍の兵が・・・1日に3万5000発もの銃弾を浴びせ、新政府軍を撃退したのです。
その夜、土方は、兵士に酒をついで回り、労をねぎらいました。

「少ない兵力で、大軍相手に良く守っていてくれている
 たくさん褒美を与えたいが、酔って軍規を乱すと困るので、今日はいっぱいで我慢してくれ」by土方歳三

しかし・・・その他の地域では、旧幕府軍は敗北続き・・・遂には、土方を含む全員が箱館へと撤退していました。

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5月11日・・・新政府軍は、函館へ大攻勢をかけます。
その結果、台場を守る新撰組が孤立してしまいます。
土方は、周りが止めるのも振り切って救援に向かいます。
一本木関門に到着すると、逃げようとする見方に檄を飛ばしました。

「俺はここで指揮を執る!!
 突撃せよ!!」by土方歳三

しかし、その直後・・・一発の銃声と共に崩れ落ちました。
銃弾は、腹部に命中・・・土方歳三35年の生涯でした。

武士を貫いて死んだ土方の死は、近世から近代への転換とも受け取れます。

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榎本武揚もまた、死を覚悟していました。
妻に手紙を送っています。

”もはやこの世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺のふたをしめた後にわかる”

新政府軍の軍監甲鉄は、五稜郭へ繰返し砲撃!!
五稜郭が作られた時代、
海から2キロ以上離れた五稜郭には大砲の玉は届かないはずでした。
しかし、甲鉄の玉の飛距離は4キロ・・・
海から球が届くほど進化していました。

5月13日、新政府軍は榎本に投降を求めます。
榎本はこれを拒否!!
死を覚悟し、新政府軍の大将に宛ててある書物を送りました。
オランダ留学以来、榎本が肌身離さず持っていた「万国海律全書」です。

「この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである」by榎本武揚

将来、日本が外国と交渉する際に、この本を役立ててほしい・・・そう願いました。
そして、武士らしく、自決のために短刀を手にしました。
しかし・・・刀を素手で掴んだ部下が、懸命に説得します。

5月18日、榎本は降伏・・・その日のうちに五稜郭を手放しました。
1年5カ月にも及ぶ戊辰戦争は、こうして終わりました。

しかし・・・戦いの行方を決定づけた開陽丸の沈没・・・。
②もしも開陽丸が沈まなかったら??
新政府軍に甲鉄が与えられなかったかもしれません。
そして、旧幕府軍は、開陽丸などの軍監がある!!
開陽丸には絶大な威力がありました。
しかし、榎本は、勝っても喜べませんでした。
何故なら、豊富な物量を誇る新政府軍にいずれは屈することになると読んでいたからです。

すると道は一つ・・・どこで負けるのか・・・??
北方警備、蝦夷地の開拓などを任されるような形で新政府と交渉したかったのでは??
旧幕臣たちの居場所を作りたかったのです。

彼等はどうして敗北を自ら受け入れたのでしょうか?
いかにどう負けるのか・・・??
家族や知人を救うため、負け方を探ってきた戦いでした。
今の時代をどう未来につなぐのか??最善の選択をしたのです。
そこには、日本ならではの負け方の美意識がありました。
その美意識が、犠牲の少ない革命につながったのです。

徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、政治の表舞台から去り、77歳で人生の幕を閉じました。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた
 私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」by慶喜

榎本武揚は、北海道開拓を進める新政府軍に重用され、後に外交でも活躍します。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部が登用されていきました。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し、開拓に汗を流した者の多くは、旧幕臣や戊辰戦争で負けた藩の貧しい侍たちでした。
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名をすすごうと積極的に開拓に参加。
有珠に赴いた彼等は、現在の伊達市の礎を築きました。

そして、1874年、屯田兵制度が始まります。
兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは東北の侍たちが中心でした。

箱館山には榎本が仲間と建てた石碑が残っています。
”碧血碑”・・・箱館戦争で戦った旧幕府の戦友たち800人を弔うものです。

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戊辰戦争の新視点 上: 世界・政治

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1867年10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。
大政奉還です。
これにより、およそ260年続いた江戸幕府が終焉・・・
その後、新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで激突!!
朝敵とされた慶喜は、謹慎の身となります。
遠くフランスでこの報せを聞いた男がいました。
後に銀行や鉄道会社など様々な企業の設立の携わる日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一です。
渋沢にとって慶喜は、一橋家当主の頃から仕えてきた主君でした。
水戸徳川家に生まれ、最後の将軍として激動の人生を送ってきた慶喜は、その第二の人生をどう過ごしたのでしょうか?

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政治についての発言をしなかった慶喜が、自宅に招き入れ、やがて自らの人生を語った人物が・・・渋沢栄一です。
渋沢は、慶喜が最も信頼した人物であり、明治維新以降の慶喜の最大の理解者でした。

江戸が東京に変わり、明治へと改元された2か月後の1868年11月。
将軍慶喜の名代としてパリ万国博博覧会に派遣され、そのまま留学していた慶喜の弟・徳川昭武とこれに随行していた渋沢栄一たちが、ヨーロッパ各国を歴訪後帰国しました。
しかし、日本は混乱の中・・・
いまだ、新政府軍と旧幕府軍との内戦が、東北地方を中心に続いていました。
渋沢がすぐさま向かったのが駿府・・・主君であった徳川慶喜がいたからです。

恭順の意を示し、水戸で謹慎していた慶喜は、1868年7月、50人ほどの従者を連れて、駿府にある徳川家の菩提寺・宝台院にうつっていたのです。
その暮らしぶりに渋沢は驚きます。
6畳ほどの薄暗い部屋で・・・座布団も引かずにひどく汚れた畳の上にじかにお座りに・・・
将軍時代とは雲泥の差でした。
大政奉還後、官位を剥奪され、徳川宗家の所領は、かつての1/10ほどの駿河府中藩(のちの静岡藩)の70万石
に削られ、一大名に格下げ・・・
当主は、田安徳川家から養子に入った6歳の家達でした。
慶喜は、その家族の一員・・・養父として宗家の席に置かれることとなり、家達の家禄の中から分けてもらったお金で暮らしていました。

慶喜が、渋沢に対してこの時大政奉還をはじめとした政治的発言を拒んだ理由は・・・??
戊辰戦争のさ中、慶喜の動向次第で事態が大きく変わると考えた新政府側が、慶喜を監視していました。
自らを律し、質素な生活に身を置く慶喜。。。
そんな慶喜をそばで支えたいと、家族を連れて駿府に移り住んだ渋沢。
そして、フランスで学んだ経営学を活かし、日本初の株式会社「商法会所」を設立。
駿河府中藩の財政を任されるとともに、徳川家の金銭面のやりくりに奔走するのです。

1869年9月・・・慶喜の謹慎が突然解かれます。
そこには、新政府の思惑がありました。
1869年5月、箱館五稜郭に立てこもっていた榎本武揚率いる旧幕府軍がついに降伏・・・戊辰戦争がようやく終結します。
こうして内戦を終わらせた新政府軍でしたが、新たな問題が浮上します。
全国での政治、外国との交渉・・・新しい政府を支えるだけの人材が圧倒的に不足していました。
旧幕臣たちは、主君である慶喜への忠誠心がまだあったのです。
行政を円滑に進めるため、旧幕府側の実務に長けた人物を取り込みたいと考えていた新政府は、彼らのかつての主君である慶喜を蔑ろにしたままでは協力を得られないと考え、慶喜の謹慎を解いたのです。
この時、新政府が欲した旧幕府側の有望な人材の一人が、経済に通じていた渋沢栄一でした。

「慶喜公に対して、朝廷の政府に仕官することは、二君に仕える要で心苦しい限りでした」

しかし、渋沢が新政府への出仕を断わると、慶喜が有能な人材を隠匿していると疑われると説得されたため、民部省租税正として新政府に加わることに・・・。
一方、謹慎が解かれた慶喜は、江戸時代に代官が暮らしていた屋敷にうつり、東京から呼び寄せた正室・美賀子と、2人の側室と共に暮らし始めました。
その後、2人の側室との間に10男11女が授かりますが、慶喜の子育ては独特でした。

庶民の家に里子に出しました。
それは、里子に出す方が元気に育つと思ったからです。
どんな環境に置かれても逞しく育ってほしい・・・激動の半生から得た教訓でした。
こうして謹慎が解けた慶喜は、代わらず政治的な言動は避け、基本的には静岡でひっそりと暮らすのです。

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そんな中、新しい時代の波が慶喜に・・・
1871年7月、これまでの藩を廃止し、新たに県を置く廃藩置県が強行されたのです。
県知事という新たな役職には、新政府から役人が派遣されることとなり、静岡藩を治めていた家達は、華族の地位と家禄を保障され、東京に住むこととなったのです。

静岡に残された慶喜の生活費は、徳川宗家・家達からの送金によって賄われました。
ただし、毎月決まって送金されたわけではなく、数カ月おきに2千円(現在の価値・4千万円)ほどが為替で送金されたといいます。
それでも相当数の従者を抱えていた慶喜家の家計は逼迫・・・これを助けたのが渋沢でした。
慶喜の持ち金を、株に投資して増やすなどしたといいます。

1872年、慶喜は従四位に叙されました。
名誉を回復しつつあった慶喜・・・
1880年、将軍時代と同じ正二位に、さらに東京徳川宗家からの送金も、毎月千円と増え、暮らしも安定していきます。
そんな中、慶喜は周囲の者たちから東京にのぼり帝に叙位のお礼に参られてはいかがか・・・と進言されます。
しかし、慶喜は
「朝敵となった私が、帝にお目にかかるなど恐れ多いこと」
そう言って、明治天皇との謁見をかたくなに拒み、静岡でひっそりと暮らし続けるのです。

そして、見つけた生きる道が・・・趣味人。
最初に没頭したのが油絵です。
西洋の絵葉書を見ながら、風景画を描いていたといいます。
その後、釣りや弓術、狩猟など、慶喜の趣味は多岐にわたりました。
好奇心が強く、新しいものに目がなかった慶喜は、当時1台300円もする自転車をわざわざ東京から取り寄せ、運動のためにと市中を走っていたとか・・・。
その姿を見た人々は、慶喜を”けいきさま”とよんで親しんだといいます。
どうして慶喜は趣味に生きる道を選んだのでしょうか??
ひとつは、趣味に没頭している方が新政府からあらぬ疑いをかけられない・・・
もうひとつは、助かった命・・・趣味に没頭できる今の状況をありがたいと実感していたのです。

命あることの喜びをかみしめながら、趣味に没頭していった慶喜・・・
将軍時代に味わうことのなかった平穏な日々が過ぎていき・・・49歳になった慶喜に、更なる嬉しい知らせが届きます。
将軍時代より上の従一位に叙せられたのです。
しかし、名誉回復が実現していく中で、度重なる不幸にも見舞われました。
1893年1月26日、母・吉子重篤・・・慶喜は、急いで上京するも、間に合いませんでした。
9月には長女鏡子が20歳の若さでこの世を去り、翌年には妻・美賀子が帰らぬ人となりました。

ビリヤード、蓄音機、珈琲・・・

家族を失った悲しみを癒してくれた趣味の中で、慶喜が最ものめりこんだのが写真でした。
慶喜は、旧幕臣で写真師だった徳田孝吉を自宅に呼び、本格的な撮影技術を学ぶのです。
当時、まだフィルムはなく、板ガラスを取りつけ30分以内に撮影・・・現像処理も30分以内に行わなければならず、度々失敗していたとか・・・
しかし、自ら薬品を買ってきて配合し、現像するほど熱中しました。

「難しいからやめられないのだ」

写真三昧の生活を送る慶喜・・・

その様子を見ていた渋沢は後にこう語っています。

「写真を研究しては、徹夜されることもしばしばで、にわかに上達され、静岡の風光明媚な場所はおおむね慶喜公のレンズに収められました。
人物の撮影も深く極められ、取られた写真を良く一族の方に分け与えておられました。
慶喜が残した写真からは、穏やかさと優しさが伝わってきます。

東京・北区にある渋沢資料館・・・ここに、渋沢栄一が25年もの歳月をかけ作り上げたものが保管されています。
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が日本のために果たした役割を克明に記した「徳川慶喜公伝」です。
渋沢は、常々こう言っていました。

「徳川慶喜公の御伝記の完全なものを、私が終生の事業として作り上げたい
 この御伝記編纂が、私に対する天の使命である」

その強い思いには理由がありました。

幕末、武蔵国の血洗村(現・深谷市)の豪農の家に生まれた渋沢は、当時の血気盛んな若者同様に尊王攘夷思想に傾倒。
江戸に出ると、幕府の腐敗をどうにかせねばという思いを強くし、1863年討幕のクーデターを企てる者の失敗。
幕府に追われることを恐れ、京都に逃げます。
そこで、縁あって渋沢を武士として救ってくれたのが当時、御所を警護する禁裏御守衛総督の慶喜でした。
その時のことを晩年こう振り返っています。

一橋徳川家の仕官したことで、私は命拾いしました
危うかった自分を救ってくれた慶喜公に対し、どうして強い恩義を感じずにいられますでしょうか

慶喜への恩を少しでも返したい・・・そう思っていた渋沢は、1893年、幕臣時代からの旧友である福地源一郎の協力を得て、慶喜の伝記編纂を企画します。
しかし・・・

「世間に知られるのは好ましくない」by慶喜

慶喜本人に拒絶されてしまいます。
それでも渋沢は、諦めずに慶喜を説得。

「慶喜公の存命中は、絶対に公表いたしません
 しかし、伝記編纂は今から始めておかないと、失われてしまう史料もあります
 ですから、直ちに作業を開始いたします
 さもないと、真相が明らかにならぬまま、後世に誤った事実が伝えられる恐れがあります」

流石の慶喜公も折れ、死後、相当期間を置いてから出版するのなら・・・と承諾してもらいました。
しかしまた問題が・・・福地が代議士となり多忙になったことで作業は滞ってしまいます。
その後、福地は病で亡くなり、編纂作業は暗礁に乗り上げてしまうのです。
しかし、その間に、慶喜の状況もまた大きく変わっていました。

1897年11月、長く中央から距離を置いていた慶喜が東京に移り住むことを決めます。
この時、60歳・・・
どうして慶喜は東京移住を決めたのでしょうか??

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渋沢が残した伝記にいくつかの理由がありました。

①明治天皇の・・・朝恩に浴することの謝意を表するため参朝を実現すること
  還暦を機に、慶喜は東京に出て明治天皇に今までの感謝の気持ちを伝えたいという気持ちに変わった
②子女たちが結婚などで東京に住むようになり心寂しく思っていたこと
  この時、最後まで静岡の家に残っていた九男と十男までもが東京の学習院に編入・・・
  その為、慶喜は深い寂しさを覚え、子供たちのいる東京に行ってもいいと思うようになっていました
③60歳を迎え、病気に冒された時の医療看護の便を考えての事
  慶喜は数年前から健康面での不安を感じていたこともあって、医療や看護の整った東京に引っ越したのです。

渋沢は、慶喜が住居を移した東京巣鴨に良く訪ねて行ったとか。
慶喜を飛鳥山の自宅で開いた茶席に招いたり、自分が設立に加わった洲崎養魚場や製紙工場の見学に誘うなど、2人の関係をより深めていきました。
その一方で、慶喜に爵位が授与されるよう時の総理大臣・桂太郎に働きかけるなど、慶喜の更なる名誉回復に尽力。。。
願いが叶うまでそう長い時間はかかりませんでした。 

徳川慶喜が東京にうつってから間もなくの事・・・1898年3月2日

「朝敵となった私がお目にかかることは恐れ多い」

と言って、静岡時代、かたくなに拒んでいた明治天皇との謁見が実現します。
酒を酌み交わし語り合った時の帝とかつての将軍・・・大政奉還から30年の時が経っていました。
この謁見ののち、天皇は維新の元勲・伊藤博文にこういったといいます。

「伊藤、今日でやっと今までの罪滅ぼしが出来たよ
 慶喜の天下を取ってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮世のことで仕方がないといって帰った」

慶喜にとっても、この謁見は大きな意味を持っていました。
明治天皇に謁見したことで、慶喜の朝敵の汚名が完全に消されたのです。

1902年6月、特例として天皇から慶喜に対して爵位としては最高位の公爵が授与され、華族に列せられました。
渋沢栄一が、総理大臣の桂太郎や明治政府の元老・伊藤博文、山県有朋らを訪問し、嘆願していたことが受爵につながったのです。
しかし、その一方で、こんな見方もあります。
実はこの時、同じ特例としてもう一人爵位を授かった人物がいます。
幕末、慶喜の江戸幕府を追い詰めた討幕派のリーダー・西郷隆盛の嫡男・西郷寅太郎です。
西郷も西南戦争で朝敵とされていました。
西郷の復権は、薩摩派の人々にとって政治的な課題でした。
慶喜への公爵授与、西郷隆盛の長男への侯爵授与・・・二人の爵位の授与は、慶喜と西郷隆盛の朝敵の汚名を消し去るための政治ショーの側面がありました。

明治政府が抱えていた課題の一つが、維新の功労者でありながら政府に反旗を翻す西南戦争を起こしたことで朝敵となって死んだ西郷隆盛の名誉回復でした。
これを実現するため、西郷の嫡男へ爵位を与えたい明治政府は、慶喜にも爵位を与えることで朝敵にも爵位を授与する大義名分を作ったのです。
理由はさておき、公爵となった慶喜は、さらに貴族院の終身議員として議席を与えられるなど、完全なる名誉回復を果たしました。
慶喜は徳川宗家の家達から全面的に支援してもらっていましたが、経済的に自立できるようになりました。

その後の慶喜: 大正まで生きた将軍 (ちくま文庫)

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慶喜が、名誉を完全に回復したことで変わったことが他にもあります。
交流範囲の広がりです。
能楽、囲碁、写真という趣味を通じて、華族社会の中で新たなネットワークを構築していきます。
特に、当時華族の中で流行していた写真を通じ、強いつながりができました。
東京千代田区にある日本カメラ博物館にそのつながりを示す貴重な資料が保管されています。

1902年~1908年まで発行されていた「華影」
これには徳川慶喜の写真が掲載されています。
写真は芸術という機運が盛り上がってきた中で、華族の写真愛好家たちが結成した”華栄会”によって刊行されたものです。
慶喜も会員の一人でした。
写真集は、公にすることを目的とせず、限られた人たちの間で回覧・・・
写真家の小川一真や洋画家の黒田清輝による批評と採点が加えられることで技術向上を図り、慶喜も家族たちと優劣を競いながら、写真を楽しんだといいます。

名誉を回復したことで、頑なだった慶喜の口もほぐれていきます。
1907年、渋沢は、頓挫していた慶喜の伝記編纂を再スタートさせます。
慶喜を中心とした歴史を語る会”昔夢会”を発足。
慶喜に直接語ってもらうことにしました。
慶喜は、編纂員たちの質問に答えるだけでなく、粗稿に目を通し、修正すべき点があれば付箋に意見を付けて返すなど、積極的に伝記の編纂に協力しました。
どうして協力的になったのでしょうか?

それもまた、慶喜を取り巻く環境の変化が大きく関係しています。
この頃、旧幕府を擁護する本が次々と出されました。
慶喜は、大政奉還が近代天皇制国家の発展につながったというゆるぎない自信を持てるようになったのです。
名誉回復が叶い、世間的な慶喜への評価も変わってきたことで、自らの過去と向き合う精神的余裕と自信が生まれたのです。
そうして開かれた第1回昔夢会は、慶喜の伝記編纂場だった渋沢の歌舞伎町の事務所で行われました。
慶喜は、幼い頃の思い出から、とつとつと語り始めます。
時代を追って話は進み、やがて渋沢が知りたかった政権を返上すると決めた時の事へ・・・
慶喜は、江戸幕府を終わらせることにしたのは、幕府を守ろうとする佐幕派と、倒し、天皇を中心とする討幕派が争う国が乱れていたのをなんとか終息したかったからといいます。
そして、大政奉還を決めたことを京都・二条城で諸藩の代表者に告げた際には、

「未曽有の御英断、誠に感服に堪えず」

と、称賛する者たちがいる一方で、不満を持った者も多くいたこと。
江戸から入れ代わり立ち代わり老中たちが現れては責められたことを振り返りました。
こうして、自らが堅い口をつぐんでいたことで、偏っていた歴史の断片を慶喜は少しづつ修正していきました。

東京・文京区春日・・・かつてここに徳川慶喜の終の棲家がりました。
その敷地、およそ3000坪・・・。
巣鴨から小石川小日向第六天町邸に移った慶喜は、1910年12月10日・・・七男・慶久に家督を譲ると、74歳で二度目の隠居生活に入ります。
3年後の1913年9月9日・・・この小石川邸で、第26回昔夢会が開かれました。
その2か月後、九男の誠に男爵が授与されたお礼を述べるため、風邪気味だったにもかかわらず皇居に参上した慶喜は、無理がたたったためか、肺炎にかかってしまいます。
そしてそのまま・・・11月22日、回復することなく、波乱に満ちた77年の生涯に幕を下ろしたのです。

慶喜の電気が完成したのは、それから4年後・・・1917年「徳川慶喜公伝」
74歳になっていた渋沢は、実に25年を費やした伝記を手に、慶喜が眠る東京谷中の墓地に報告に行きました。

徳川慶喜は、その最期・・・病床で苦しい中、医師にこういったといいます。

「衰弱は覚えますが、苦しみは去りました」

この苦しみとは、鳥羽伏見の戦いで張られた”賊軍のレッテル”に対するものだったのではといわれています。
長くまとわりついていたその苦しみが、公爵や勲章の授与などによって回復され、去っていったのだと・・・。
最後まで慶喜に仕え、働いた渋沢栄一は、完成させた徳川慶喜公伝の中で、慶喜のことをこう讃えています。

”侮辱されても 国のために命をもって顧みざる 偉大なる精神の持ち主”

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「謎の将軍 徳川慶喜」

東京・上野・・・西郷さんの像でお馴染みの上野公園は、動物園だけでなく、美術館や音楽ホールが連なり、全国の人々に親しまれる文化の薫り高い一帯です。
しかし、150年前、ここには全く違う景色がありました。

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感想(1件)



1868年5月15日、この上野の山で西郷さんが戦争を起こし、全てが焼き払われました。
明治維新の動乱の中で、唯一江戸で行われた戦い・・・新政府軍と旧幕府軍と彰義隊がぶつかった上野戦争です。
この年の1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は旧幕府軍に圧勝、勢いに乗って、江戸に軍を進めました。
そして、西郷と勝海舟の会談の結果、江戸城の無血開城が決まります。
しかし、城が明け渡されたとはいえ、これで西郷たち新政府が江戸を手中に収めたわけではありませんでした。
次々と江戸から脱走する旧幕臣たち・・・
江戸の周囲では新政府に対しゲリラ戦が行われていました。
中でも西郷を悩ませたのが、上野の山に立てこもった彰義隊でした。
彼等がいる限り、江戸は新政府のものにはならない・・・西郷は、ギリギリの選択に迫られていました。
江戸を火の海にする危険を冒しても彰義隊を討滅するのか・・・??
西郷隆盛の苦渋の選択とは・・・??

江戸城明け渡しから1か月後の1868年4月・・・
江戸に駐留していた西郷隆盛は、思わぬ事態に頭を抱えていました。
”御用中雑記”・・・将軍・徳川慶喜の側近の日記によると・・・
江戸城明け渡し後、水戸で処分を受けるのを待っている慶喜の動向が書かれています。
4月15日、江戸より新聞が届いた・・・
慶喜は新聞を取ったり、使いを送ったりして江戸の様子を調べさせていました。
慶喜は何を調べていたのでしょうか??
彰義隊がどんな動きをするのか?気が気でなかったのです。
暴発してしまえば、江戸城無血開城はおじゃんとなってしまう!!
この時点で、徳川家がどの所領をもらえるのか??決まっていませんでした。
彰義隊の行動如何でZEROとなる??処罰される・・・??

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さらに慶喜は、彰義隊の暴発を押さえようと、家臣に軍用金65両を持たせ送り込んでいました。
この頃、江戸は混乱のさ中にありました。
4月11日、徳川将軍家の居城が無抵抗のまま新政府軍に明け渡されました。
慶喜は、江戸を出て実家の水戸に移り、謹慎します。
一度は計画されていた江戸城総攻撃!!それは、新政府側の西郷と旧幕府側の勝海舟の行動によって回避されました。
新政府が提示した降伏条件は慶喜の水戸謹慎と江戸城明け渡し、そして幕府が所用する武器・軍艦の引き渡しなどです。
しかし、開城の直前、新政府に反発する旧幕臣・大鳥圭介らが歩兵部隊を率い、武器を手に脱走!!
さらに、旧幕府歓待を率いる榎本武揚は、新政府への軍監引き渡しを拒み、江戸湾を脱走!!館山沖で新政府を威嚇していました。
西郷が勝に言い渡した降伏条件は守られなかったのです。

榎本の場合は、彼が手塩にかけて育成した旧幕府艦隊・・・お金も時間も労力もつぎ込んだ艦隊を、やすやすと薩長に引き渡すことはできない!!
徳川家の行く末がはっきりしていなかったので、全部を引き渡すと条件闘争ができない!!ということもありました。

江戸を脱出した大鳥だけでなく、他の旧幕府勢力も、江戸近くで次々と蜂起!!
新政府軍は関東各地で対応を余儀なくされました。
さらに、東北では奥羽の諸藩が新政府との対立を深めていました。
結果、江戸は手薄となって市中の治安維持もままならなくなっていました。
江戸城は手にしたものの、新政府軍は江戸で孤立していたのです。
さらに、西郷たちを悩ませていたのは、彰義隊の存在でした。

無血開城から遡ること2か月・・・浅草の本願寺で、100名以上の旧幕臣で会合を開きました。
彼等は、その場で彰義隊を結成し、その目的をこう表明しました。
「慶喜公は、朝廷に対して恭順一筋
 裁きを待つお考えである
 一同、この現状を見逃すことはできない
 その為、死を決して盟約を結び、冤罪であると訴えるしかない!!」

漸将軍・慶喜は、鳥羽・伏見の戦いによって、朝敵の汚名を着せられていました。
慶喜は、上野の寛永寺で謹慎し、ひたすら恭順の姿勢を貫いていました。
この状況を打開するために、彼らは立ち上がったのです。
この彰義隊のリーダーである頭取に、慶喜の側近だった渋沢成一郎が選ばれました。
そして、副頭取には旧幕臣・天野八郎が就任しました。
その後、彰義隊は拠点を上野・寛永寺に定めます。
関東各地のみならず、江戸にまで旧幕府側が勢力を伸ばす危険な状態・・・
西郷は頭を悩ませていました。

彰義隊の拠点となった上野の山・・・当時、この山全体が、徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の境内でした。
寛永寺は、3代将軍・家光の時代に創建、最盛期には大伽藍と付属する支院36が立ち並ぶ、江戸随一の寺として栄えました。

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鳥羽・伏見の戦いで破れ逃げ帰った徳川慶喜は、この寛永寺の支院の一つに入って謹慎していました。
寛永寺には、慶喜監禁の部屋が残っています。
”葵の間”床の間のついた書院造・・・10畳と8畳の二間続きの部屋です。
2月12日から4月11日まで、水戸に隠居されるまで、ここで謹慎していました。
将軍がここにいて、徳川の世が明治に変わっていくことに納得がいかないという人たちが・・・幕府恩顧の者たちが、上野に集結してどんどん数が膨れていきました。

慶喜を警護する為に結成された彰義隊は、旧幕臣を中心に参加者が続々と集まり、遂には4000人に達したといいます。
江戸で存在を無視できないほどの大勢力を築いた彰義隊・・・
この状況を利用しようとしたのが、徳川方の代表・勝海舟です。
勝は西郷に、彰義隊に市中取締役を命じ、江戸の治安維持にあたらせることを提案します。
治安が悪化する江戸を、新政府軍の力だけで取り締まるのは不可能・・・
西郷は、その提案を受け入れざるをえませんでした。
さらに、勝の要求はエスカレート・・・
水戸で謹慎する慶喜を、江戸に戻すこと・さらに、江戸城を徳川家に返すことまで要求しました。
このことは、西郷を窮地に陥れます。
降伏条件が守られないことを甘んじている西郷に対し、新政府軍の要人たちから弱腰との声が上がり始めたのです。
佐賀藩士・江藤新平は、手紙にこう記しています。

”官軍の中には、勝らに騙される人がおり、憤慨に堪えない”

巻き返しを図る旧幕府側の圧力・・・新政府強硬派からの圧力・・・
西郷は、のっぴきならない状況に追い込まれていました。

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この頃、京都から江戸にある男が送り込まれていました。
長州藩士・大村益次郎・・・長州に攻め寄せた幕府軍を、散々に打ち破った西洋流の兵学者です。
新政府内での強硬派が西郷の融和策に業を煮やし派遣・・・これは、彰義隊の武力鎮圧を期しての人選でした。
一方の西郷は、4月から江戸と京都を頻繁に行き来していました。
西郷は新政府の首脳陣と連日会議を行います。
徳川家の最終処分を決定するためです。
4月25日、新政府内部で徳川家の処分方針が決定しました。
徳川家を駿河国に移す・・・旗本の領地を含め800万石を一気に70万石まで削減するというものでした。
このことが発表されれば、旧幕臣たちの反発は必至の厳しい処分でした。

5月に入ると大村は彰義隊討滅に向け動き出します。
彰義隊に与えられていた市中取締役の役目を奪ったのです。
これ以降、江戸で事件が頻発します。
彰義隊士による新政府軍兵士の殺傷事件が起こるのです。
佐賀藩士、鳥取藩士、西郷の直属の部下である薩摩藩士も犠牲となりました。

彰義隊の扱いをどうするのか??軍議が開かれました。
大村は、彰義隊の殲滅を強硬に主張、早期の決着に自信を見せました。
一方、西郷と共に徳川方との折衝に当たってきた参謀たちは、兵力の不足を理由に大反対をします。
双方の意見を聞きながら、西郷は選択に迫られました。

彰義隊を討滅・・・??
あくまで戦を回避・・・??

いかに混乱を起こさず、徳川家処分を発表するのか・・・??
江戸と日本全体の行く末を案じながら、西郷は苦悩していました。

西郷の決断は・・・??

「大村には、勝てる清算があるに違いない
 勝てさえするならよかろう」

大村の意見に同意し、彰義隊討滅に同意しました。

5月14日、指揮権を持った大村は、彰義隊に宣戦布告を行いました。
その布告の中で大村は、官兵を暗殺し、官軍と偽り、民の財産を略奪する彰義隊は、国家の乱賊であると決めつけました。

1868年5月15日、降りしきる雨の中、新政府軍による上野攻めが始まりました。
この時、寛永寺に立てこもっていた彰義隊の人数は1000人程度。
大村による事前の宣戦布告が功を奏し、戦う意思のない者たちは寛永寺から大挙していました。
布陣を見ると・・・
彰義隊隊士たちは、寛永寺の8つの門に分かれ、新政府軍の侵攻に備えました。
さらに、現在西郷隆盛の立つ山王台に、大砲を据え、新政府軍に向けていました。
一方、新政府軍の数は1万以上、とはいえ、実際に上野の山の攻撃に当たったのはその一部に過ぎなかったといわれています。
谷中方面には長州を中心とする部隊、最も激戦と予想され黒門を攻めるのは西郷率いる薩摩兵を中心とした部隊・・・そして、谷を挟んだ本郷台には差が藩を中心とする大砲部隊の陣地が置かれました。

午前7時ごろ、戦いの火蓋が切られました。
現在も残る黒門・・・激しい戦闘を物語る無数の弾痕が・・・!!
午前中は、高台で地の利のある彰義隊が優勢に戦いを進めました。
しかし、正午・・・本郷の台地から佐賀藩が誇る最新鋭の大砲アームストロング砲が撃ち込まれました。

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この砲撃をきっかけに、彰義隊が乱れ始めます。
この機をとらえた西郷は、黒門への突撃を命じます。
上野戦争を描いた錦絵には、新政府軍の一斉射撃が高台の彰義隊を狙い撃ちにします。
黒門前は、敵味方入り乱れての大乱戦・・・
濛々と煙を上げる寛永寺の伽藍・・・次々と撃たれていく彰義隊士・・・
自害するものも・・・
午後5時ごろ、戦いは新政府側の勝利で幕を閉じ、江戸で行われた唯一の戦争はわずか半日で集結しました。

新政府軍大勝利の秘密は何だったのでしょうか?
これまで佐賀藩のアームストロング砲の威力によってもたらされたといわれてきました。
しかし、勝利の理由はそれだけではない??
アームストロング砲の特性は、射程距離が長い、命中精度が高い・・・それは、旧来の大砲よりも格段に性能が良かったのですが、上野に持ってきた大砲は、6ポンドで口径が2.5インチ・・・6センチぐらいでした。
旧来の大砲に比べて、弾が小さいのです。
火薬の量も少なく、破壊力そのものでいうとそんなに際立っていないのです。

新政府側の勝因は、アームストロング砲だけでなく、旧式の大砲を使ったその戦術にあったのでは・・・??
加賀藩邸の方に13門集中的に配備、当時、砲列を敷くというのは事例的に多くありませんでした。
集中的に火砲を運用して、攻撃を支援するというのは、大村益次郎の先験的な戦術でした。

戦いののちにとられた写真・・・彰義隊と運命を共にするかのように寛永寺の大伽藍は灰塵に帰しました。
彰義隊の生き残りは、散り散りになりながらも、関東各地や東北に逃れます。
後に会津や箱館の戦いに身を投じた者たちもいました。
新政府軍の勝利は、人々の心に新しい時代の到来を印象付けました。

彰義隊を味方としていた人びとは、賊と呼ぶようになります。
新政府軍に罪を追及される恐れがあるからです。
上野戦争の大勝利の直後、新政府は徳川家の駿河移封と70万石への減俸を発表・・・
しかし、もはや江戸に反発する者はいませんでした。

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幕末、その男は様々な姿で写真に納まりました。
ある時は紋付・羽織袴で、銃と刀を両脇に勇ましい武士の姿・・・
ある時は高貴な衣冠の装束・・・伝統を重んじる公家のよう・・・
またある時は、フランス式の軍服に身を包み革新的なリーダーを気取る・・・

江戸時代最後の将軍・徳川慶喜・・・いったい慶喜とはどのような人物だったのでしょうか?

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当時の人々は、ミステリアスな慶喜のことを”二心殿”と呼びました。
海外列強が日本に押し寄せ、攘夷の風が吹き荒れた動乱の時代、英邁の誉れ高かった慶喜は将軍候補として期待され、政治の表舞台に登場しました。
しかし、力強く開国を唱えたと思ったら、攘夷と意見を翻す・・・
国の行く末を決める会議を暴言を吐いてぶち壊す・・・!!
二心殿の言動は、しばしば周りを混乱させました。
そんな慶喜に迫られた最大の選択・・・それは、将軍になるべきか、ならざるべきか・・・!!

当時すでに幕府は弱体化し、朝廷や雄藩に振り回されるばかりでした。
将軍となって、この舵取りを担うことは果たして得策なのか・・・??
慶喜はどうして将軍となり、自ら幕府に終止符を打ったのか・・・??

茨城県水戸市・・・徳川御三家の一つ水戸家の城下町だったこの地に、慶喜が書いた書”楽水”が残されています。
七郎麻呂と呼ばれていた頃の書です。
”楽水”とは、中国の孔子の言葉です。
論語の中で「知者は水を楽しむ」という一節があり、知識が豊かな人は水のように変幻時代に形を変える・・・書いた本人は意識していなかったかもしれませんが、慶喜の変幻自在ともいえる政治手法を6歳の段階で暗示しています。

慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族出身の登美宮吉子との間に生れました。
徳川と皇族、二つの血筋を受け継いだ子供でした。
しかし、7男だったため、藩主となる道はほとんど閉ざされていました。
通常では、他の大名家に養子に出されるところでしたが、父・斉昭はその才能に期待し、水戸に置いていました。
そんな中、幕府からある意向が伝えられます。
慶喜を、御三卿・一橋家の養子に欲しいというのです。
家康の子供たちで作られた御三家に対し、御三卿とは八代将軍吉宗が子供や孫に作らせた3つの家・・・将軍に跡継ぎがいないときに宗家を絶やさないためでした。
1847年、慶喜は10歳で一橋家の当主となります。
しかし、一橋家には城もなく、家臣も幕府からの出向で賄われていました。
独立した大名ではなく、あくまで将軍家の家族・・・政治的実権を持たない存在でした。

慶喜の運命が大きく変わったのが6年後・・・
1853年、ペリー来航し、強大な軍事力を背景に、日本に開国と通商を迫りました。
この時の将軍・徳川家定は、ひどく内気で病弱・・・緊急事態に適切な判断は出来ないとみられていました。
その為、この国難を担う次期将軍の必要性が叫ばれました。
幕閣や譜代大名の多くは、家定の従兄弟で、血統的にも近い紀州藩主・徳川慶福を押しました。
しかし、慶福はこの時10歳に満たず、政治手腕に疑問がありました。
一方、越前藩の松平春嶽、薩摩藩の島津斉彬ら有力大名は、当時17歳となっていた慶喜の擁立に動きました。
しかし、水戸徳川家出身の慶喜は、宗家の血縁とは遠く、正当性が弱かったのです。
しかも、父・斉昭は、幕府の政治に対して強硬意見を繰り返し、幕閣や大奥とも折り合いが悪い・・・慶喜が将軍になればうるさく口を挟むのではないかと警戒されました。
不利な状況の中で、どうやって慶喜を将軍候補として推していったのでしょうか?

尾張徳川家に残っている「慶喜公御言行私記」・・・
慶喜を推す大名たちは、慶喜の日々の行動を記した文書を配り、支持を集めました。
これを書いたのは、慶喜の側近・平岡円四郎と考えられています。
平岡は、慶喜が一橋家に入ったときに、推薦され家臣となった人物です。
慶喜が最も信用した側近でした。
書かれたエピソードには、慶喜を将軍につけたいという平岡の強い思いが感じ取れます。

その人柄を知らしめると共に、東照宮・神孫という・・・慶喜こそ将軍に相応しいというイメージを広げていきます。
慶喜自身はどう思っていたのでしょうか??
当時、父・斉昭に宛てた手紙によると・・・

”天下を取ることほど気骨の折れることはありません
 天下を取った後仕損じるよりは、天下を取らない方が大いに勝るのではないでしょうか”

しかし、そんな思いとは裏腹に、慶喜を推す勢力と慶福を推す勢力の対立は一層深まっていきました。

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大老・井伊直弼が就任すると、事態は大きく動きます。
将軍家の血筋を重んじた井伊は、慶福の就任を強く後押しします。
さらに、将軍・家定の希望もあり、跡継ぎは慶福に・・・後の14代将軍・家茂です。
次期将軍候補から外れた慶喜・・・しかし、この構想を通じて慶喜に対する期待はますます高まっていくのです。

将軍継嗣問題のあと、幕府の危機が深まる中で慶喜は政治の表舞台に登場することになります。
1858年、幕府は列強の圧力に屈し、アメリカはじめ5か国と・・・安政五カ国条約締結。
新たに4つの港を順番に開き自由に交易することを認めました。
開国に舵を切ったのです。
しかし、これに激怒したのが孝明天皇でした。
外国嫌いの天皇は、勅許をえることなく結ばれた条約を決して認めようとはしませんでした。
そうした中、天皇を尊び、外敵を排除しようとする尊王攘夷の動きが高まり、一部の志士が過激な行動に出ます。
1860年3月3日、江戸城桜田門外で、井伊直弼暗殺。
将軍のおひざ元で大老が襲撃されるという前代未聞の事件・・・幕府の弱体化が白日の下にさらされました。
これを機に、英邁の誉れ高い慶喜に幕府の立て直しが期待されたのです。
その結果、薩摩藩などの後押しによって、慶喜は将軍・家茂を補佐する将軍後見職に就任することになりました。
しかし、前途多難!!
当時、京都では強硬な攘夷を唱える長州藩が公家たちと結びついていました。
長州藩の武力に力を得た朝廷は、将軍・家茂に条約の破棄、攘夷の実行を約束させようと考え、三条実美を孝明天皇の勅使として江戸に派遣しました。
勅使を受け入れ、攘夷を実行すべきか?
このまま開国路線を続けるべきか??
幕府で議論が紛糾する中、慶喜は語りました。

「世界ではすでに多くの国が交流している
 独り日本のみ鎖国のしきたりを守るべきではない
 むしろ、自ら進んで外国と交わりを結ぶべきだ」by慶喜

朝廷にもはっきりと意見が言えるリーダーかと思われました。
しかし、その2週間後・・・改めて開国の覚悟を聞かれると

「しばらく明言はやめて、老中たちが開国というのを待とう」by慶喜

すっかり弱気な発言に、慶喜の本心はどこにあったのでしょうか?
そこには、母が皇族出身ということが考えられます。
慶喜は、徳川家よりも朝廷の方に比重がかかっていた人物だったのでは??
縁の深い、血縁的にも深い人である・・・
一方で、慶喜はクレバーなので、もう攘夷が出来ない、開国は避けられないと思っていました。
心の中では開国すべきと思いながら、天皇の願いを蔑ろにはできない・・・
結局、幕府は攘夷の実行を約束してしまいます。
朝廷の圧力に屈し、列強の脅威にもさらされるという八方ふさがりの状況でした。

そんな幕府にとって、起死回生のチャンスとなったのは・・・
1863年、八月十八日の政権です。
長州藩の過激な動向に目を見張らせていた会津藩と薩摩藩が、御所の門を藩兵で固め、長州藩とそれに組する公家たちを京都から追放したのです。
むやみに攘夷を主張し、外交を妨害してきた長州藩はいない・・・
朝廷を説得する好機でした。
ここで動いたのが、薩摩藩で国父として実権を握る島津久光でした。
久光は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体の実現を目指します。
久光の建議で、慶喜を含む有力諸侯が参与というポストに任命され、朝廷との話し合いがもたれました。
参与たちは、このまま開国を続ける考えを示し、話しはまとまりかけました。
しかし・・・またもや慶喜が混乱を巻き起こします。
既に開いていた箱館、横浜、長崎の3つの港のうち、横浜を閉鎖し、朝廷が要求する攘夷の一歩を踏み出すことを主張したのです。
それだけではなく、その後開かれた宴席で、慶喜は先に酔いました。
そして、朝廷の実力者・中川宮に向かって、目の前の島津久光らを罵倒したのです。

「この者たちは、天下の代愚物、天下の大奸物であります
 何故この者たちを信用されるか?
 後見職である自分と一緒にしないでほしい」by慶喜

久光たちは怒り、結局、参与会議は解散となりました。
この騒動をきっかけに、久光は慶喜に強い不信感を抱くようになります。

運命の将軍 徳川慶喜 ? 敗者の明治維新

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”一橋卿の御心底 大いに六ヶ敷”

ころころと考えを変える慶喜・・・人々はそんな彼を皮肉を込めて”二心殿”と呼びました。

参与会議の解散後、慶喜は驚きの行動に出ました。
将軍後見職を一方的に辞退し、新設された”禁裏御守衛総督摂海防禦指揮”に就任しました。
禁裏とは、天皇の暮らす御所、摂海とは大坂湾・・・その警備を担う役職でした。
このポストは、聖慮・・・つまり、将軍ではなく天皇の意向に基づいて任命されました。
京都にとどまり、朝廷への接近を強める慶喜・・・江戸の幕閣はその行動を疑い、将軍・家茂の命で何度も江戸に呼び戻そうとしました。
しかし、慶喜は断ります。
将軍の命令を拒否して、京都に残る・・・
体感的に、自分は天皇、朝廷上層部と引っ付いた方がいいだろうと感じていました。

京都で慶喜は獅子奮迅の活躍を見せます。
1864年7月、前年に京都を追放された長州藩が兵を引き連れ上洛しました。
退去の呼びかけにも応じず、戦闘が始まりました。
禁裏御守衛総督・一橋慶喜は、自ら先頭に立って薩摩、会津の軍事支援のもと、長州を退けることに成功しました。
この活躍で慶喜は孝明天皇の厚い信頼を得ることになります。
そして、天皇の意を受けて、長州への処罰の実行を主張しました。
そこで、幕府は長州藩を朝敵と見なし、諸藩からなる征討軍を送ります(第1次長州征討)。
この時、参謀を務めた薩摩藩の西郷隆盛は、長州と取引し、家老3人を自害させるなどの条件で事態を収束させます。

微笑む慶喜: 写真で読み解く晩年の慶喜

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しかし、長州への甘い処分に、一部の幕臣や会津藩は納得しませんでした。
その不満を抑えきれず、1866年第2次長州征討。
これに、今度は薩摩が反発!!
薩摩は出兵を拒否し、長州と密かに通じるようになります。
国を二分するかもしれない内戦の事態でした。
この局面をどう打開すればいいのか・・・??
悩む慶喜に、急報が届きます。
1866年7月20日、将軍・家茂死去。
もはや、難局を乗り越えられるのは慶喜しかいない・・・!!
老中たちは、慶喜に将軍になることを要請します。

迷う慶喜・・・!!

将軍就任の要請に、慶喜はどう答えたのでしょうか?
慶喜が朝廷に送った手紙の写しが残っています。

”徳川宗家の相続につきましては、国家の大事には代えがたく、承知いたします
 ただ、将軍職に関しましては、私は薄力非才、失態の恐れもあり、お断りいたしたく申し上げます”

将軍職を断わり、徳川宗家の相続だけを引き受ける・・・誰も想像できない選択でした。
徳川宗家を相続することが、自動的に将軍職を継ぐことだと・・・家康以来そうなってきました。
それが初めて実は違うんだと、別のものなんだと示されたのです。

それだけではありません。
徳川宗家を継ぐにあたり、慶喜は自らの思い通りに幕政改革をするという条件を取り付けます。
前代未聞の将軍空位という中、慶喜は幕府の立て直しを進めます。
フランスに習った軍制改革を導入、旗本御家人から石高に応じて人や資金を出させ、新たな歩兵部隊を編成、フランス式の軍事教練を受けさせました。
慶喜のもとで幕府軍は着実に強化されていきました。

長州藩の木戸孝允は、後にこう語っています。

「いまや、江戸幕府の政治体制は一新され、その軍事力は目を見張るものがある
 一橋の大胆にして思慮深い計略は、決して侮るべきではない
 実に、家康の再生を見るようだ」

その一方、慶喜は幕府の精鋭軍を率いて長州との戦争に自ら出陣することを表明。
長く続いた戦いに決着をつけようとしました。
しかし・・・ここで、慶喜はまたもや心変わりをしてしまいます。
先発した幕府軍が敗北を喫したという報告を聞くと、急遽出陣を中止・・・
そして、周囲の十分な同意を得ることなく長州と和解し、休戦に持ち込みました。
突然の休戦に、共に長州征討を推進してきた会津藩や幕臣は納得できず、怒りをあらわにしました。
慶喜は孤立を深めていきます。

頭がいいので、変わり身が早い・・・先が読めてしまう・・・
しかし、人の心はもう一つ読めないところがるのです。

そうした中、1866年12月5日、慶喜はあれほど固辞していた将軍に・・・第15代将軍に就任。
この時30歳。
何故このタイミングで受諾したのか??
諸説あります。
①最初から将軍になるつもりで自分に味方する勢力を見極めていたのか?
②孝明天皇の願いを断わり切れなかった?
いずれにせよ、慶喜は第15代将軍として日本のかじ取りをする覚悟を決めたのです。

将軍宣下のわずか20日後・・・孝明天皇が突然この世を去りました(12月25日)。
常に後ろ盾になってくれた天皇の死・・・しかし、それは攘夷という天皇の願いから解放されるということを意味していました。
慶喜は、ようやく開国という本来の考えのために動き出します。
当時、通商条約で定められた港のうち、兵庫だけが開港されていませんでした。
孝明天皇が京都に近い兵庫の開港を断固拒否していたためです。
慶喜は、国際条約を守り、兵庫開港を実現することは日本の将来の為と信じました。

慶喜は、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光など有力諸侯とこの問題を協議しました。
この時、諸侯たちも兵庫開港に反対ではありませんでした。
貿易の利益で藩が潤うことを期待していたからです。
しかし、まだ大勢いた攘夷論者を恐れ、積極的に賛成する者はいませんでした。
慶喜は違いました。
夜を徹して熱弁を振るい、遂に諸侯たちを説得しました。
そして、朝廷に強く働きかけて、
1867年5月、兵庫開港の勅許がおります。
慶喜の決断によって、安政の条約締結以降揺れていた日本の開国への道は決定的となりました。

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慶喜のすごいところは、攘夷主義者がものすごく多いことを知っていました。
しかし、あえてそれを無視して、この機会に一気に開国体制に持って行こうと決断して、それを実行したのです。
慶喜の、幕末史におけるもっとも重要な役割の一つです。

政局の主導権を握りつつあった慶喜に対して、薩摩藩や長州藩は畏れ、警戒しました。
そして、倒幕のクーデター計画を練ります。
ところが、慶喜が先手を打ちます。
1867年10月、大政奉還です。
幕府に委任されてきた政権を天皇に返納する・・・
慶喜は、264年続いた幕府を終わらせたのです。
それでも、新たな政府が出来れば、慶喜は要職に就くことが見込まれました。
慶喜の名声は依然高く、本人もそれを確信していたと言われています。
ところが、薩摩・長州は許しませんでした。
王政復古のクーデターを断行し、天皇を頂点とする新政府を樹立、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では旧幕府軍を賊軍として征討。
慶喜を新政府から徹底的に排除しました。
慶喜は、死罪は免れたものの、全ての官位を奪われ、謹慎を命じられます。
最後の将軍・・・激動の幕末は終わりました。

明治になり、謹慎をとかれた慶喜は、静岡や東京で長い隠居生活を送りました。
溢れる才能・・・写真や油彩画など様々な趣味に傾けました。
前半生とは正反対の悠々自適の日々・・・
名誉回復を計られ、明治35年に最高の爵位・公爵に叙せられました。
自らを追いやった西郷たちよりも長生きし、大正2年、77歳でこの世を去りました。

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