榎本武揚・・・蝦夷地、現在の北海道で明治政府とは別の政府を作ろうとした人物です。
1867年、明治維新前夜・・・将軍・徳川慶喜は、大政奉還をします。
しかし、徳川家はいまだ大きな勢力でした。
その後、錦の御旗を掲げる新政府軍と旧幕府軍が激突・・・!!
朝敵となった慶喜は、戦いに負け江戸に帰って恭順します。
しかし、徹底抗戦を・・・!!それは、幕府海軍副総裁・榎本武揚でした。
「家臣は路頭に迷っている
その救済を願い出たが、許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by武揚
最強の軍艦・開陽丸に乗り込んだ榎本・・・目指すは蝦夷地でした。
榎本たちは五稜郭を占領!!
西洋列強の代表と交渉し、事実上の政権と認めさせます。
「我々は反逆者でも逆賊でもありません」by武揚
しかし・・・開陽丸を事故で失うと、形勢は逆転!!
やがて、蝦夷地に上陸した新政府軍との決戦に敗れました。
もはやこれまで・・・それを思いとどまらせたのは、仲間との思いでした。
かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]
明治維新のおよそ5年前・・・榎本武揚は、徳川幕府初の留学生として、念願の海外に出発しました。
1836年・・・榎本釜次郎は、江戸で旗本の子供として生まれました。
幼い釜次郎は、寺子屋でガキ大将・・・べらんめえ口調の江戸っ子でした。
そんな釜次郎に影響を与えたのが、父の円兵衛でした。
円兵衛は、幕府天文方に仕えて暦を研究・・・伊能忠敬の弟子として活躍しました。
そんな榎本家には、当時は珍しい地球儀がありました。
釜次郎は、広大な世界に思いをはせていました。
1851年、16歳で昌平坂学問所に入学。
釜次郎が特に力を入れて学んだのが外国語でした。
最先端の知識を得るためにオランダ語を習得、さらにアメリカから帰国したジョン万次郎の私塾にも通い、英語を学びました。
1853年、18歳の時、日本の運命を変える出来事が・・・
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れました・・・黒船来航です。
外国の脅威を感じた幕府は、海岸防備の強化を進めます。
幕府はその一環として蝦夷地の調査を決定!!
釜次郎は父の口添えもあり、調査に参加しました。
調査ルートは、函館から日本海側を通って宗谷岬へと北上、さらに樺太に回り、東回りで蝦夷を一周するというものでした。
19歳の釜次郎にとって、蝦夷の旅は驚きの連続でした。
箱館湾でみたのは、何隻もの巨大な軍艦・・・この年、日米和親条約が締結され、開港したばかりの箱館にはアメリカ、イギリス、フランスの軍艦が集まっていたのです。
そして、蝦夷の果てしない大空と、広い大地・・・その豊かさに圧倒されます。
靺鞨の山青一髪
我行 此に至り
漸く豪とするに
堪えたり
3年後、22歳の榎本が向かったのは、長崎の海軍伝習所でした。
近代海軍の設立を目指す幕府が、オランダの協力を得て作った学校です。
一期上には、後に軍艦奉行となる勝海舟もいました。
釜次郎は、数学や科学をはじめ、航海術、蒸気機関の動かし方など・・・伝習所に入って4年後、思いがけないチャンスが巡ってきます。
幕府は海軍力強化のため、初めて留学生を海外に派遣することにしました。
行先は、オランダ・・・榎本は、これに志願し、15人の留学生の一人に選ばれました。
1862年、27歳の時にオランダに出発。
オランダに到着したのは10か月後でした。
榎本はこの留学で、その後の人生を大きく変えるものと出会います。
国際法です。
榎本が、プロイセンとオーストリアの戦争で、和平協定が国際法に基づいて結ばれたことを知りました。
西洋列強といえど、国同士で守らなければならないルールがある・・・
これこそ、西洋の脅威にさらされている日本に必要だと考えたのです。
”万国海律全書”・・・ヨーロッパの国同士が、長年の経験をもとに取り決めた、海事に関する国際ルールの解説書です。
外国船同士の接触が多い港で、事故など国際問題になるような事態が起きた時、どのような権利や義務が発生するのかなどが記されています。
榎本は、オランダ人教師に頼み込んで、フランス語で書かれた本をすべてオランダ語に翻訳してもらい、何度も熱心に読み込みます。
榎本の熱心な勉強ぶりに感心した教師は、こんな言葉を送っています。
「あなたはこの本を読むために400時間かけた
私は最初、簡単に訳していたが、貴方の理解が深いことを知り、正確に訳すようになった」
榎本たち留学生たちにはもうひとつ重要な任務がありました。
幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を引き取って帰国することです。
開陽丸は、全長72m、排水量2590t、当時は世界的に見ても大きな蒸気軍艦でした。
さらに、榎本はこの船にクルップ砲と呼ばれる強力な大砲を装備させました。
こうして、開陽丸は完成!!
開陽丸の完成披露では、榎本たちはシャンパンで祝杯を挙げ飲み明かしたといいます。
無類の酒好きだった榎本は、留学中に飲んだビールを気に入り、開陽丸に積んで持ち帰ったといわれています。
1867年、航海術と国際法を学んだ榎本は開陽丸と共に5年ぶりに日本に帰国。
そして、幕府より開陽丸の艦長・軍艦頭に任命されます。
榎本武揚、32歳の時でした。
開陽丸と共に帰国した榎本・・・しかし、榎本が向かったのは蝦夷地、北海道でした。
オランダから帰国して3か月後の1867年、32歳の時に結婚します。
相手は、17歳の多津・・・榎本と共にオランダへ留学した仲間の妹でした。
仕事も、私生活も、順調だった榎本・・・しかし、それは長くは続きませんでした。
結婚から半年後の、1867年11月・・・将軍・徳川慶喜が大政奉還をしました。
12月には、朝廷が王政復古の大号令を発します。
幕府を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制を作るという・・・!!
さらに、徳川慶喜から内大臣の地位を奪い、徳川領400万石を朝廷に返上することが決定しました。
ここに、260年続いた徳川幕府が終わりを告げます。
明治新政府が設立されました。
しかし、徳川家の処分を巡り、旧幕府軍と新政府軍が対立!!
京の郊外で、一触即発となりました。
この時榎本は、京に上る将軍を警護するため、軍艦に乗って、江戸から兵庫の港に来ていました。
榎本が家族に宛てた手紙には、もしも戦になっても勝つ自信があったことが記されています。
”我が方の兵力はおよそ3倍、勝利は十分である”
1868年1月3日、榎本の予感は当たり、戦の火ぶたが切られました。
鳥羽伏見で新政府軍と旧幕府軍が激突!!
これが、およそ1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりでした。
兵力では圧倒的に有利だった旧幕府軍・・・しかし、旧幕府軍は敗走してしまいます。
新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は朝敵と扱われることに大きく動揺したのです。
その場を去る兵士たちが続出しました。
翌日未明・・・1868年1月4日、榎本のいる兵庫港でも戦いが始まりました。
兵庫沖から新政府軍の船が出航しようとしたところを、榎本率いる開陽丸がクルップ砲で砲撃!!
1隻を撃沈して、他の船も追い払いました。
海上では、榎本たち旧幕府軍が圧勝でした。
しかし、陸上の敗戦がひびき、旧幕府軍は劣勢になっていきます。
2日後・・・榎本たちは戦況を立て直すために大坂城に入城。
徳川慶喜が出席する中、今後の戦略を話し合いました。
兵力に勝る旧幕府軍・・・結論は、徹底抗戦でした。
しかし・・・その夜、慶喜は密かに側近と共に開陽丸に乗り込み、江戸に逃亡!!
置いてきぼりを食った榎本は、こうつぶやきました。
「将軍たち重臣の無策に、ますます驚き失望した
徳川家の命運これまでと、血の涙が止まらなかった」by武揚
榎本たちは、大坂城に残された兵と共に、別の軍艦に乗り込み、江戸へ帰りました。
その中には、幕府の命を受けて京都の治安を守っていた新撰組の面々もいました。
その後、改めて会議が開かれましたが、意見は真っ二つ!!
明治政府に従う恭順派と、あくまで戦い続ける徹底抗戦派!!
恭順派には慶喜や、軍の全権を担う勝海舟が・・・抗戦派には、榎本や陸軍奉行並の小栗忠順がいました。
榎本は、恭順を支持する慶喜にこう言い放ちます。
「慶喜さまは、腰が抜けたのか!!
いまさら恭順とはどういうことか!!」by武揚
しかし、榎本の意見が取り入れられることはありませんでした。
それからおよそ1か月・・・慶喜は新政府軍に恭順の意を示し、上野・寛永寺に蟄居。
その後の一切を、勝海舟に託しました。
その間、新政府軍は東に進軍!!江戸総攻撃は目前に迫っていました。
3月13日、勝は、新政府軍の責任者・西郷隆盛に直談判します。
武装解除の条件をのみ、江戸城を引き渡すことで総攻撃を回避しました。
いわゆる無血開城です。
定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]
翌月、榎本は勝の自宅を訪問・・・相談をしています。
それは、蝦夷地の開拓でした。
徳川宗家は、明治政府の処分によって駿河への移封が決まり、石高が1/6に減らされていました。
「生活に困窮する幕臣を救うため、蝦夷地を開拓できないだろうか」by武揚
「するべきではない」by海舟
旧幕府の了承が得られないのなら、実力行使しかない!!
榎本の胸中は決まりました。
徳川宗家が駿河にうつされたのを見届けて、8月20日未明、開陽丸に向かいました。
榎本は、旧幕臣ら1600名を連れて、無断で開陽丸を出航します。
家族を残しての旅立ちでした。
出発直前、榎本は新政府軍に対して通告文を送っています。
”王政復古と称しながら、薩摩・長州などの強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収し、幕臣や旗本らを窮地に陥れたのは、真の王政ではない
家臣は路頭に迷っている
その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する”
さらに、勝に対しても謝罪の手紙を送っています。
”あなたを煩わせてしまい、申し訳ない”
開陽丸の進路は、北!!
目指すは旧幕府軍の拠点・仙台でした。
ところが、榎本たちが仙台に到着して間もなく、仙台藩も新政府に降伏してしまいます。
そんな中、心強い味方と再会します。
新撰組の土方歳三や、旧幕府の陸軍です。
新政府軍と交戦の末、北上していました。
そして榎本は、土方たちを加えた仲間に、こういいました。
「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by武揚
1868年10月12日、榎本は、2800人ほどの仲間と共に、開陽丸をはじめ8隻の船で蝦夷地へ出発しました。
この時、32歳でした。
1868年10月20日、蝦夷地上陸!!
一行は、警備の厳しい函館港を避け、北側の鷲ノ木から上陸します。
榎本はまず明治政府の拠点となっていた五稜郭にあって嘆願書を送りました。
上陸は戦闘ではなく開拓のためである・・・これを許可してほしいとおいう内容でした。
しかし、明治政府は嘆願書を無視、武力衝突へと発展します。
榎本の軍は函館へと南下、10月26日、五稜郭を占領します。
ここでも榎本は、古くから蝦夷の南部を治める松前藩に手紙を送ります。
共存共栄を図りたいという趣旨のものでした。
しかし、明治政府の統治下にあった松前藩は、榎本の使者を斬り、返答しませんでした。
ここに至り榎本は、松前城に攻撃を開始!!
土方歳三率いる陸軍部隊が一斉攻撃を浴びせ、わずか1日で松前城は陥落しました。
戦いのさ中、榎本が最も重要視したのは外交でした。
明治政府軍と戦うには、西洋列強が干渉せず、中立を保つことが不可欠だったからです。
榎本は、函館に在留していた各国領事に、自らの立場を表明します。
”我々は、反逆者でも逆賊でもありません
祖国の地で、誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちなのです”
オランダ留学時代に身に着けた語学と国際法を武器に、榎本はイギリスやフランスなど各国の代表と交渉・・・
榎本は、自分たちを事実上の政権として彼等に認めさせ、中立を認めさせました。
これが後に、蝦夷政権と呼ばれるものです。
諸外国が明治政府に味方して、榎本たちを攻撃すれば、榎本の構想が一気に崩れてしまう・・・!!
榎本としては、味方にならなくてもいいから、局外中立だけは守ってほしいと・・・
外国との交渉が重要で、それが蝦夷政権を樹立できた要因でした。
その後も、陸軍部隊は着々と蝦夷地を進軍していきます。
土方歳三たちの活躍を聞いた榎本は、軽い気持ちでこういいました。
「蝦夷地上陸以来、陸軍ばかりが活躍して、海軍兵たちの不満が募っている
気休めに、江差まで連れて行って、大砲の2.3発でも撃たせてやろう」by武揚
この一言が、運命を大きく変えることになります。
1868年11月15日・・・榎本は、江差方面で戦う陸上部隊を支援するため、軍艦・開陽丸を移動させます。
そこへ、運悪く猛吹雪が襲い、船が座礁・・・!!
岩場に挟まった開陽丸は、船底が破れ沈没しました。
沈みゆく船を、榎本と共に見ていた兵が、この時の心境を書き残しています。
「暗夜に灯火を失ったようだ」
丁度その頃、東北地方の反政府勢力を平定した明治政府軍が、青森に集まってきていました。
冬が過ぎ、春になったら一気に攻撃を仕掛けようと準備を整えていました。
一方、榎本は、冬の間に政権の体制を整えていきます。
アメリカに習い、投票で新政府の役職を決めています。
明治政府に20年以上も先駆けて行われた日本初の選挙です。
1868年12月15日、33歳の時・・・そこで榎本は、総裁に選出されます。
蝦夷は、独立国への道を着々と歩んでいるように見えました。
しかし・・・12月28日、榎本たちを事実上の政権と認めていた諸外国が、中立の立場を撤回、明治政府支持に回りました。
榎本たちの最大の戦力だった開陽丸を失ったことが、諸外国の態度を変えさせました。
これによって、榎本たちは頼れるものを失い、明治政府軍と武力を持って戦うしか無くなるのです。
1869年1月、榎本は、東京にいる妻と家族に手紙を送ります。
”もはや、この世でお目にかかれるかどうかわからない
自分への評価は、死後、棺の蓋を閉めた後にわかる”
1869年4月、明治政府軍が蝦夷地に上陸。
8000の大軍で、函館を目指して進軍します。
対する旧幕府軍は、3200!!
防衛線は次々突破されてしまいます。
5月11日、箱館戦争開始!!
明治政府は函館を総攻撃します。
この日、激しい戦闘を繰り広げてきた土方歳三が、敵の銃弾に斃れました。
もはや、榎本たちの敗戦は明らかでした。
明治政府軍に降伏を促されて拒否、死を覚悟し、明治政府に手紙と共にある書物を送りました。
留学時代から肌身離さず持ち歩いていた”海律全書”です。
”この万国海律全書は、皇国無二の書である
もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである”
これからの日本のために、この本を役立ててほしい・・・という願いでした。
これを受け取った明治政府軍の総指揮官・黒田清隆は、榎本の志に胸をうたれ、酒とマグロを送ったといいます。
その夜、榎本は切腹を覚悟!!
短刀を手にしました。
しかし、気配を察した部下が駆けつけ、短刀を素手でつかんで・・・
「ここで死ぬべきではありません!!」
榎本は、部下の指が切れ、血が流れているのを見て思いとどまったといいます。
翌朝、榎本は、これまで共に戦ってきた仲間に感謝を述べ、降伏する旨を伝えました。
1869年5月18日、箱館戦争終結!!
榎本34歳の時でした。
箱館で敗北した榎本は、滅びゆく幕府と運命を共にしようと考えていました。
しかし、そのわずか3年後、榎本は政府から北海道の開拓を任されます。
箱館戦争の首謀者として捕らえられた榎本は、東京の牢獄に入りました。
榎本は、家族に宛てて、手紙を何通も送っていますが、中身は意外なものでした。
オランダ留学でみにつけた様々な知識や技術が延々と書かれていました。
石鹸やろうそくの作り方、ブランデーの蒸留方法、卵の人工ふ化器の作り方が、詳細な絵図と共に書かれています。
自分の死後、日本の産業のために役立ててほしいという言葉が添えられていました。
そんな榎本に救いの手を差し伸べたのが、政府高官の黒田清隆でした。
箱館戦争では、薩摩の軍人として榎本と戦いました。
黒田は、その時榎本の海律全書の翻訳を福沢諭吉に依頼しました。
しかし、福沢は数ページを訳すと黒田に
「本当にこの本を訳すことができるのは、榎本以外にはいない
榎本に頼めないようでは、国家のために残念である」by諭吉
明治政府では、榎本を厳罰に処すべしという声が大きかったのです。
しかし、黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ、粘り強く嘆願しました。
「榎本こそ、欧米と対等に渡り合える人物・・・殺すべきではない!!」
遂には、
「この通りだ、私の頭に免じてくれ」と、丸坊主に剃り上げました。
黒田は、3年間、嘆願を続けます。
その甲斐もあり、政府は榎本の赦免を決定します。
江戸無血開城の深層 NHK英雄たちの選択 [ 磯田道史 ]
その頃、岩倉使節団が欧米に向かう頃でした。
榎本の処罰がどうなるか、諸外国からみられていました。
もし、処刑になれば、日本は立ち遅れた国家だと思われてしまう懸念がありました。
榎本は、欧米の文化を体験した数少ない武人・・・
明治政府は、有能な人材を手に入れたのです。
黒田はこの頃、北海道開拓の責任者でした。
榎本を良く知る黒田は、牢獄にいるときから釈放されたら開拓の手伝いをしてほしいと誘っていました。
榎本は、自分は徳川家に仕える者で、明治政府に仕える気はないと断り続けていました。
しかし、数か月後、考えを変え、これを受け入れます。
”君恩 いまだ報いず 今日にあう”
主君の恩に、未だ報いられず、今日を迎えている・・・
その”君恩”の横にルビをうって、国為と書いています。
「君恩」は徳川幕府を指します。
オランダ留学は、徳川幕府のお金で学んできました。
形は違えど、幕末は徳川幕府のため、明治以降は近代日本発展のため、人々のために役に立つようなことを学んできたことの中から、お返ししなくてはいけない・・・!!
1872年、榎本は37歳で釈放されます。
その後、政府の役人として、北海道開拓に尽力・・・かつて蝦夷地を探索した知識で次々と農場を開墾、そして日本最大級の炭田を発見し、石炭を輸送するための鉄道も建設します。
1873年、38歳で長男誕生。
子供は金八と名付けました。
自分の幼名・釜次郎の釜から取ったものです。
開拓に従事したのち、榎本は外交官として海外を飛び回りました。
家族と過ごす時間は少なかったものの、多くの手紙のやり取りをしています。
榎本は、明治政府で大臣にまで上り詰めたが、晩年まで旧幕臣の援助を忘れませんでした。
俸禄を失い、暮らしに困る旧幕臣の子供たちのために、1885年、50歳の時に徳川育英会・・・奨学金制度を設立。
箱館戦争の時に、榎本の切腹を止め、指が不自由になった部下を、自分が設立した会社に招きました。
そして、1908年10月26日、73歳の生涯を閉じました。
亡くなる前、榎本はある場所を訪ねています。
箱館山にある碧血碑・・・箱館戦争の死者・800名を弔うため、榎本たちが建立しました。
碧血とは、”忠義を貫き亡くなった者が流した血”です。
石碑の裏にはこう書かれています。
”山上に石を立て、もってその志を表す”
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しかし、徳川家はいまだ大きな勢力でした。
その後、錦の御旗を掲げる新政府軍と旧幕府軍が激突・・・!!
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しかし、徹底抗戦を・・・!!それは、幕府海軍副総裁・榎本武揚でした。
「家臣は路頭に迷っている
その救済を願い出たが、許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by武揚
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榎本たちは五稜郭を占領!!
西洋列強の代表と交渉し、事実上の政権と認めさせます。
「我々は反逆者でも逆賊でもありません」by武揚
しかし・・・開陽丸を事故で失うと、形勢は逆転!!
やがて、蝦夷地に上陸した新政府軍との決戦に敗れました。
もはやこれまで・・・それを思いとどまらせたのは、仲間との思いでした。
かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]
明治維新のおよそ5年前・・・榎本武揚は、徳川幕府初の留学生として、念願の海外に出発しました。
1836年・・・榎本釜次郎は、江戸で旗本の子供として生まれました。
幼い釜次郎は、寺子屋でガキ大将・・・べらんめえ口調の江戸っ子でした。
そんな釜次郎に影響を与えたのが、父の円兵衛でした。
円兵衛は、幕府天文方に仕えて暦を研究・・・伊能忠敬の弟子として活躍しました。
そんな榎本家には、当時は珍しい地球儀がありました。
釜次郎は、広大な世界に思いをはせていました。
1851年、16歳で昌平坂学問所に入学。
釜次郎が特に力を入れて学んだのが外国語でした。
最先端の知識を得るためにオランダ語を習得、さらにアメリカから帰国したジョン万次郎の私塾にも通い、英語を学びました。
1853年、18歳の時、日本の運命を変える出来事が・・・
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れました・・・黒船来航です。
外国の脅威を感じた幕府は、海岸防備の強化を進めます。
幕府はその一環として蝦夷地の調査を決定!!
釜次郎は父の口添えもあり、調査に参加しました。
調査ルートは、函館から日本海側を通って宗谷岬へと北上、さらに樺太に回り、東回りで蝦夷を一周するというものでした。
19歳の釜次郎にとって、蝦夷の旅は驚きの連続でした。
箱館湾でみたのは、何隻もの巨大な軍艦・・・この年、日米和親条約が締結され、開港したばかりの箱館にはアメリカ、イギリス、フランスの軍艦が集まっていたのです。
そして、蝦夷の果てしない大空と、広い大地・・・その豊かさに圧倒されます。
靺鞨の山青一髪
我行 此に至り
漸く豪とするに
堪えたり
3年後、22歳の榎本が向かったのは、長崎の海軍伝習所でした。
近代海軍の設立を目指す幕府が、オランダの協力を得て作った学校です。
一期上には、後に軍艦奉行となる勝海舟もいました。
釜次郎は、数学や科学をはじめ、航海術、蒸気機関の動かし方など・・・伝習所に入って4年後、思いがけないチャンスが巡ってきます。
幕府は海軍力強化のため、初めて留学生を海外に派遣することにしました。
行先は、オランダ・・・榎本は、これに志願し、15人の留学生の一人に選ばれました。
1862年、27歳の時にオランダに出発。
オランダに到着したのは10か月後でした。
榎本はこの留学で、その後の人生を大きく変えるものと出会います。
国際法です。
榎本が、プロイセンとオーストリアの戦争で、和平協定が国際法に基づいて結ばれたことを知りました。
西洋列強といえど、国同士で守らなければならないルールがある・・・
これこそ、西洋の脅威にさらされている日本に必要だと考えたのです。
”万国海律全書”・・・ヨーロッパの国同士が、長年の経験をもとに取り決めた、海事に関する国際ルールの解説書です。
外国船同士の接触が多い港で、事故など国際問題になるような事態が起きた時、どのような権利や義務が発生するのかなどが記されています。
榎本は、オランダ人教師に頼み込んで、フランス語で書かれた本をすべてオランダ語に翻訳してもらい、何度も熱心に読み込みます。
榎本の熱心な勉強ぶりに感心した教師は、こんな言葉を送っています。
「あなたはこの本を読むために400時間かけた
私は最初、簡単に訳していたが、貴方の理解が深いことを知り、正確に訳すようになった」
榎本たち留学生たちにはもうひとつ重要な任務がありました。
幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を引き取って帰国することです。
開陽丸は、全長72m、排水量2590t、当時は世界的に見ても大きな蒸気軍艦でした。
さらに、榎本はこの船にクルップ砲と呼ばれる強力な大砲を装備させました。
こうして、開陽丸は完成!!
開陽丸の完成披露では、榎本たちはシャンパンで祝杯を挙げ飲み明かしたといいます。
無類の酒好きだった榎本は、留学中に飲んだビールを気に入り、開陽丸に積んで持ち帰ったといわれています。
1867年、航海術と国際法を学んだ榎本は開陽丸と共に5年ぶりに日本に帰国。
そして、幕府より開陽丸の艦長・軍艦頭に任命されます。
榎本武揚、32歳の時でした。
開陽丸と共に帰国した榎本・・・しかし、榎本が向かったのは蝦夷地、北海道でした。
オランダから帰国して3か月後の1867年、32歳の時に結婚します。
相手は、17歳の多津・・・榎本と共にオランダへ留学した仲間の妹でした。
仕事も、私生活も、順調だった榎本・・・しかし、それは長くは続きませんでした。
結婚から半年後の、1867年11月・・・将軍・徳川慶喜が大政奉還をしました。
12月には、朝廷が王政復古の大号令を発します。
幕府を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制を作るという・・・!!
さらに、徳川慶喜から内大臣の地位を奪い、徳川領400万石を朝廷に返上することが決定しました。
ここに、260年続いた徳川幕府が終わりを告げます。
明治新政府が設立されました。
しかし、徳川家の処分を巡り、旧幕府軍と新政府軍が対立!!
京の郊外で、一触即発となりました。
この時榎本は、京に上る将軍を警護するため、軍艦に乗って、江戸から兵庫の港に来ていました。
榎本が家族に宛てた手紙には、もしも戦になっても勝つ自信があったことが記されています。
”我が方の兵力はおよそ3倍、勝利は十分である”
1868年1月3日、榎本の予感は当たり、戦の火ぶたが切られました。
鳥羽伏見で新政府軍と旧幕府軍が激突!!
これが、およそ1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりでした。
兵力では圧倒的に有利だった旧幕府軍・・・しかし、旧幕府軍は敗走してしまいます。
新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は朝敵と扱われることに大きく動揺したのです。
その場を去る兵士たちが続出しました。
翌日未明・・・1868年1月4日、榎本のいる兵庫港でも戦いが始まりました。
兵庫沖から新政府軍の船が出航しようとしたところを、榎本率いる開陽丸がクルップ砲で砲撃!!
1隻を撃沈して、他の船も追い払いました。
海上では、榎本たち旧幕府軍が圧勝でした。
しかし、陸上の敗戦がひびき、旧幕府軍は劣勢になっていきます。
2日後・・・榎本たちは戦況を立て直すために大坂城に入城。
徳川慶喜が出席する中、今後の戦略を話し合いました。
兵力に勝る旧幕府軍・・・結論は、徹底抗戦でした。
しかし・・・その夜、慶喜は密かに側近と共に開陽丸に乗り込み、江戸に逃亡!!
置いてきぼりを食った榎本は、こうつぶやきました。
「将軍たち重臣の無策に、ますます驚き失望した
徳川家の命運これまでと、血の涙が止まらなかった」by武揚
榎本たちは、大坂城に残された兵と共に、別の軍艦に乗り込み、江戸へ帰りました。
その中には、幕府の命を受けて京都の治安を守っていた新撰組の面々もいました。
その後、改めて会議が開かれましたが、意見は真っ二つ!!
明治政府に従う恭順派と、あくまで戦い続ける徹底抗戦派!!
恭順派には慶喜や、軍の全権を担う勝海舟が・・・抗戦派には、榎本や陸軍奉行並の小栗忠順がいました。
榎本は、恭順を支持する慶喜にこう言い放ちます。
「慶喜さまは、腰が抜けたのか!!
いまさら恭順とはどういうことか!!」by武揚
しかし、榎本の意見が取り入れられることはありませんでした。
それからおよそ1か月・・・慶喜は新政府軍に恭順の意を示し、上野・寛永寺に蟄居。
その後の一切を、勝海舟に託しました。
その間、新政府軍は東に進軍!!江戸総攻撃は目前に迫っていました。
3月13日、勝は、新政府軍の責任者・西郷隆盛に直談判します。
武装解除の条件をのみ、江戸城を引き渡すことで総攻撃を回避しました。
いわゆる無血開城です。
定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]
翌月、榎本は勝の自宅を訪問・・・相談をしています。
それは、蝦夷地の開拓でした。
徳川宗家は、明治政府の処分によって駿河への移封が決まり、石高が1/6に減らされていました。
「生活に困窮する幕臣を救うため、蝦夷地を開拓できないだろうか」by武揚
「するべきではない」by海舟
旧幕府の了承が得られないのなら、実力行使しかない!!
榎本の胸中は決まりました。
徳川宗家が駿河にうつされたのを見届けて、8月20日未明、開陽丸に向かいました。
榎本は、旧幕臣ら1600名を連れて、無断で開陽丸を出航します。
家族を残しての旅立ちでした。
出発直前、榎本は新政府軍に対して通告文を送っています。
”王政復古と称しながら、薩摩・長州などの強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収し、幕臣や旗本らを窮地に陥れたのは、真の王政ではない
家臣は路頭に迷っている
その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する”
さらに、勝に対しても謝罪の手紙を送っています。
”あなたを煩わせてしまい、申し訳ない”
開陽丸の進路は、北!!
目指すは旧幕府軍の拠点・仙台でした。
ところが、榎本たちが仙台に到着して間もなく、仙台藩も新政府に降伏してしまいます。
そんな中、心強い味方と再会します。
新撰組の土方歳三や、旧幕府の陸軍です。
新政府軍と交戦の末、北上していました。
そして榎本は、土方たちを加えた仲間に、こういいました。
「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by武揚
1868年10月12日、榎本は、2800人ほどの仲間と共に、開陽丸をはじめ8隻の船で蝦夷地へ出発しました。
この時、32歳でした。
1868年10月20日、蝦夷地上陸!!
一行は、警備の厳しい函館港を避け、北側の鷲ノ木から上陸します。
榎本はまず明治政府の拠点となっていた五稜郭にあって嘆願書を送りました。
上陸は戦闘ではなく開拓のためである・・・これを許可してほしいとおいう内容でした。
しかし、明治政府は嘆願書を無視、武力衝突へと発展します。
榎本の軍は函館へと南下、10月26日、五稜郭を占領します。
ここでも榎本は、古くから蝦夷の南部を治める松前藩に手紙を送ります。
共存共栄を図りたいという趣旨のものでした。
しかし、明治政府の統治下にあった松前藩は、榎本の使者を斬り、返答しませんでした。
ここに至り榎本は、松前城に攻撃を開始!!
土方歳三率いる陸軍部隊が一斉攻撃を浴びせ、わずか1日で松前城は陥落しました。
戦いのさ中、榎本が最も重要視したのは外交でした。
明治政府軍と戦うには、西洋列強が干渉せず、中立を保つことが不可欠だったからです。
榎本は、函館に在留していた各国領事に、自らの立場を表明します。
”我々は、反逆者でも逆賊でもありません
祖国の地で、誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちなのです”
オランダ留学時代に身に着けた語学と国際法を武器に、榎本はイギリスやフランスなど各国の代表と交渉・・・
榎本は、自分たちを事実上の政権として彼等に認めさせ、中立を認めさせました。
これが後に、蝦夷政権と呼ばれるものです。
諸外国が明治政府に味方して、榎本たちを攻撃すれば、榎本の構想が一気に崩れてしまう・・・!!
榎本としては、味方にならなくてもいいから、局外中立だけは守ってほしいと・・・
外国との交渉が重要で、それが蝦夷政権を樹立できた要因でした。
その後も、陸軍部隊は着々と蝦夷地を進軍していきます。
土方歳三たちの活躍を聞いた榎本は、軽い気持ちでこういいました。
「蝦夷地上陸以来、陸軍ばかりが活躍して、海軍兵たちの不満が募っている
気休めに、江差まで連れて行って、大砲の2.3発でも撃たせてやろう」by武揚
この一言が、運命を大きく変えることになります。
1868年11月15日・・・榎本は、江差方面で戦う陸上部隊を支援するため、軍艦・開陽丸を移動させます。
そこへ、運悪く猛吹雪が襲い、船が座礁・・・!!
岩場に挟まった開陽丸は、船底が破れ沈没しました。
沈みゆく船を、榎本と共に見ていた兵が、この時の心境を書き残しています。
「暗夜に灯火を失ったようだ」
丁度その頃、東北地方の反政府勢力を平定した明治政府軍が、青森に集まってきていました。
冬が過ぎ、春になったら一気に攻撃を仕掛けようと準備を整えていました。
一方、榎本は、冬の間に政権の体制を整えていきます。
アメリカに習い、投票で新政府の役職を決めています。
明治政府に20年以上も先駆けて行われた日本初の選挙です。
1868年12月15日、33歳の時・・・そこで榎本は、総裁に選出されます。
蝦夷は、独立国への道を着々と歩んでいるように見えました。
しかし・・・12月28日、榎本たちを事実上の政権と認めていた諸外国が、中立の立場を撤回、明治政府支持に回りました。
榎本たちの最大の戦力だった開陽丸を失ったことが、諸外国の態度を変えさせました。
これによって、榎本たちは頼れるものを失い、明治政府軍と武力を持って戦うしか無くなるのです。
1869年1月、榎本は、東京にいる妻と家族に手紙を送ります。
”もはや、この世でお目にかかれるかどうかわからない
自分への評価は、死後、棺の蓋を閉めた後にわかる”
1869年4月、明治政府軍が蝦夷地に上陸。
8000の大軍で、函館を目指して進軍します。
対する旧幕府軍は、3200!!
防衛線は次々突破されてしまいます。
5月11日、箱館戦争開始!!
明治政府は函館を総攻撃します。
この日、激しい戦闘を繰り広げてきた土方歳三が、敵の銃弾に斃れました。
もはや、榎本たちの敗戦は明らかでした。
明治政府軍に降伏を促されて拒否、死を覚悟し、明治政府に手紙と共にある書物を送りました。
留学時代から肌身離さず持ち歩いていた”海律全書”です。
”この万国海律全書は、皇国無二の書である
もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである”
これからの日本のために、この本を役立ててほしい・・・という願いでした。
これを受け取った明治政府軍の総指揮官・黒田清隆は、榎本の志に胸をうたれ、酒とマグロを送ったといいます。
その夜、榎本は切腹を覚悟!!
短刀を手にしました。
しかし、気配を察した部下が駆けつけ、短刀を素手でつかんで・・・
「ここで死ぬべきではありません!!」
榎本は、部下の指が切れ、血が流れているのを見て思いとどまったといいます。
翌朝、榎本は、これまで共に戦ってきた仲間に感謝を述べ、降伏する旨を伝えました。
1869年5月18日、箱館戦争終結!!
榎本34歳の時でした。
箱館で敗北した榎本は、滅びゆく幕府と運命を共にしようと考えていました。
しかし、そのわずか3年後、榎本は政府から北海道の開拓を任されます。
箱館戦争の首謀者として捕らえられた榎本は、東京の牢獄に入りました。
榎本は、家族に宛てて、手紙を何通も送っていますが、中身は意外なものでした。
オランダ留学でみにつけた様々な知識や技術が延々と書かれていました。
石鹸やろうそくの作り方、ブランデーの蒸留方法、卵の人工ふ化器の作り方が、詳細な絵図と共に書かれています。
自分の死後、日本の産業のために役立ててほしいという言葉が添えられていました。
そんな榎本に救いの手を差し伸べたのが、政府高官の黒田清隆でした。
箱館戦争では、薩摩の軍人として榎本と戦いました。
黒田は、その時榎本の海律全書の翻訳を福沢諭吉に依頼しました。
しかし、福沢は数ページを訳すと黒田に
「本当にこの本を訳すことができるのは、榎本以外にはいない
榎本に頼めないようでは、国家のために残念である」by諭吉
明治政府では、榎本を厳罰に処すべしという声が大きかったのです。
しかし、黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ、粘り強く嘆願しました。
「榎本こそ、欧米と対等に渡り合える人物・・・殺すべきではない!!」
遂には、
「この通りだ、私の頭に免じてくれ」と、丸坊主に剃り上げました。
黒田は、3年間、嘆願を続けます。
その甲斐もあり、政府は榎本の赦免を決定します。
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その頃、岩倉使節団が欧米に向かう頃でした。
榎本の処罰がどうなるか、諸外国からみられていました。
もし、処刑になれば、日本は立ち遅れた国家だと思われてしまう懸念がありました。
榎本は、欧米の文化を体験した数少ない武人・・・
明治政府は、有能な人材を手に入れたのです。
黒田はこの頃、北海道開拓の責任者でした。
榎本を良く知る黒田は、牢獄にいるときから釈放されたら開拓の手伝いをしてほしいと誘っていました。
榎本は、自分は徳川家に仕える者で、明治政府に仕える気はないと断り続けていました。
しかし、数か月後、考えを変え、これを受け入れます。
”君恩 いまだ報いず 今日にあう”
主君の恩に、未だ報いられず、今日を迎えている・・・
その”君恩”の横にルビをうって、国為と書いています。
「君恩」は徳川幕府を指します。
オランダ留学は、徳川幕府のお金で学んできました。
形は違えど、幕末は徳川幕府のため、明治以降は近代日本発展のため、人々のために役に立つようなことを学んできたことの中から、お返ししなくてはいけない・・・!!
1872年、榎本は37歳で釈放されます。
その後、政府の役人として、北海道開拓に尽力・・・かつて蝦夷地を探索した知識で次々と農場を開墾、そして日本最大級の炭田を発見し、石炭を輸送するための鉄道も建設します。
1873年、38歳で長男誕生。
子供は金八と名付けました。
自分の幼名・釜次郎の釜から取ったものです。
開拓に従事したのち、榎本は外交官として海外を飛び回りました。
家族と過ごす時間は少なかったものの、多くの手紙のやり取りをしています。
榎本は、明治政府で大臣にまで上り詰めたが、晩年まで旧幕臣の援助を忘れませんでした。
俸禄を失い、暮らしに困る旧幕臣の子供たちのために、1885年、50歳の時に徳川育英会・・・奨学金制度を設立。
箱館戦争の時に、榎本の切腹を止め、指が不自由になった部下を、自分が設立した会社に招きました。
そして、1908年10月26日、73歳の生涯を閉じました。
亡くなる前、榎本はある場所を訪ねています。
箱館山にある碧血碑・・・箱館戦争の死者・800名を弔うため、榎本たちが建立しました。
碧血とは、”忠義を貫き亡くなった者が流した血”です。
石碑の裏にはこう書かれています。
”山上に石を立て、もってその志を表す”
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