日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川慶喜

榎本武揚・・・蝦夷地、現在の北海道で明治政府とは別の政府を作ろうとした人物です。
1867年、明治維新前夜・・・将軍・徳川慶喜は、大政奉還をします。
しかし、徳川家はいまだ大きな勢力でした。
その後、錦の御旗を掲げる新政府軍と旧幕府軍が激突・・・!!
朝敵となった慶喜は、戦いに負け江戸に帰って恭順します。
しかし、徹底抗戦を・・・!!それは、幕府海軍副総裁・榎本武揚でした。

「家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが、許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by武揚

最強の軍艦・開陽丸に乗り込んだ榎本・・・目指すは蝦夷地でした。
榎本たちは五稜郭を占領!!
西洋列強の代表と交渉し、事実上の政権と認めさせます。

「我々は反逆者でも逆賊でもありません」by武揚

しかし・・・開陽丸を事故で失うと、形勢は逆転!!
やがて、蝦夷地に上陸した新政府軍との決戦に敗れました。
もはやこれまで・・・それを思いとどまらせたのは、仲間との思いでした。

かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]
かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]

明治維新のおよそ5年前・・・榎本武揚は、徳川幕府初の留学生として、念願の海外に出発しました。

1836年・・・榎本釜次郎は、江戸で旗本の子供として生まれました。
幼い釜次郎は、寺子屋でガキ大将・・・べらんめえ口調の江戸っ子でした。
そんな釜次郎に影響を与えたのが、父の円兵衛でした。
円兵衛は、幕府天文方に仕えて暦を研究・・・伊能忠敬の弟子として活躍しました。
そんな榎本家には、当時は珍しい地球儀がありました。
釜次郎は、広大な世界に思いをはせていました。

1851年、16歳で昌平坂学問所に入学。
釜次郎が特に力を入れて学んだのが外国語でした。
最先端の知識を得るためにオランダ語を習得、さらにアメリカから帰国したジョン万次郎の私塾にも通い、英語を学びました。

1853年、18歳の時、日本の運命を変える出来事が・・・
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れました・・・黒船来航です。
外国の脅威を感じた幕府は、海岸防備の強化を進めます。
幕府はその一環として蝦夷地の調査を決定!!
釜次郎は父の口添えもあり、調査に参加しました。
調査ルートは、函館から日本海側を通って宗谷岬へと北上、さらに樺太に回り、東回りで蝦夷を一周するというものでした。
19歳の釜次郎にとって、蝦夷の旅は驚きの連続でした。
箱館湾でみたのは、何隻もの巨大な軍艦・・・この年、日米和親条約が締結され、開港したばかりの箱館にはアメリカ、イギリス、フランスの軍艦が集まっていたのです。
そして、蝦夷の果てしない大空と、広い大地・・・その豊かさに圧倒されます。

靺鞨の山青一髪 
我行 此に至り
漸く豪とするに
堪えたり

3年後、22歳の榎本が向かったのは、長崎の海軍伝習所でした。
近代海軍の設立を目指す幕府が、オランダの協力を得て作った学校です。
一期上には、後に軍艦奉行となる勝海舟もいました。
釜次郎は、数学や科学をはじめ、航海術、蒸気機関の動かし方など・・・伝習所に入って4年後、思いがけないチャンスが巡ってきます。
幕府は海軍力強化のため、初めて留学生を海外に派遣することにしました。
行先は、オランダ・・・榎本は、これに志願し、15人の留学生の一人に選ばれました。

1862年、27歳の時にオランダに出発。
オランダに到着したのは10か月後でした。
榎本はこの留学で、その後の人生を大きく変えるものと出会います。
国際法です。
榎本が、プロイセンとオーストリアの戦争で、和平協定が国際法に基づいて結ばれたことを知りました。
西洋列強といえど、国同士で守らなければならないルールがある・・・
これこそ、西洋の脅威にさらされている日本に必要だと考えたのです。

”万国海律全書”・・・ヨーロッパの国同士が、長年の経験をもとに取り決めた、海事に関する国際ルールの解説書です。
外国船同士の接触が多い港で、事故など国際問題になるような事態が起きた時、どのような権利や義務が発生するのかなどが記されています。
榎本は、オランダ人教師に頼み込んで、フランス語で書かれた本をすべてオランダ語に翻訳してもらい、何度も熱心に読み込みます。
榎本の熱心な勉強ぶりに感心した教師は、こんな言葉を送っています。

「あなたはこの本を読むために400時間かけた
 私は最初、簡単に訳していたが、貴方の理解が深いことを知り、正確に訳すようになった」

榎本たち留学生たちにはもうひとつ重要な任務がありました。
幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を引き取って帰国することです。
開陽丸は、全長72m、排水量2590t、当時は世界的に見ても大きな蒸気軍艦でした。
さらに、榎本はこの船にクルップ砲と呼ばれる強力な大砲を装備させました。
こうして、開陽丸は完成!!
開陽丸の完成披露では、榎本たちはシャンパンで祝杯を挙げ飲み明かしたといいます。
無類の酒好きだった榎本は、留学中に飲んだビールを気に入り、開陽丸に積んで持ち帰ったといわれています。

1867年、航海術と国際法を学んだ榎本は開陽丸と共に5年ぶりに日本に帰国。
そして、幕府より開陽丸の艦長・軍艦頭に任命されます。
榎本武揚、32歳の時でした。

開陽丸と共に帰国した榎本・・・しかし、榎本が向かったのは蝦夷地、北海道でした。
オランダから帰国して3か月後の1867年、32歳の時に結婚します。
相手は、17歳の多津・・・榎本と共にオランダへ留学した仲間の妹でした。
仕事も、私生活も、順調だった榎本・・・しかし、それは長くは続きませんでした。
結婚から半年後の、1867年11月・・・将軍・徳川慶喜が大政奉還をしました。
12月には、朝廷が王政復古の大号令を発します。
幕府を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制を作るという・・・!!
さらに、徳川慶喜から内大臣の地位を奪い、徳川領400万石を朝廷に返上することが決定しました。
ここに、260年続いた徳川幕府が終わりを告げます。
明治新政府が設立されました。
しかし、徳川家の処分を巡り、旧幕府軍と新政府軍が対立!!
京の郊外で、一触即発となりました。
この時榎本は、京に上る将軍を警護するため、軍艦に乗って、江戸から兵庫の港に来ていました。
榎本が家族に宛てた手紙には、もしも戦になっても勝つ自信があったことが記されています。

”我が方の兵力はおよそ3倍、勝利は十分である”

1868年1月3日、榎本の予感は当たり、戦の火ぶたが切られました。
鳥羽伏見で新政府軍と旧幕府軍が激突!!
これが、およそ1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりでした。
兵力では圧倒的に有利だった旧幕府軍・・・しかし、旧幕府軍は敗走してしまいます。
新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は朝敵と扱われることに大きく動揺したのです。
その場を去る兵士たちが続出しました。

翌日未明・・・1868年1月4日、榎本のいる兵庫港でも戦いが始まりました。
兵庫沖から新政府軍の船が出航しようとしたところを、榎本率いる開陽丸がクルップ砲で砲撃!!
1隻を撃沈して、他の船も追い払いました。
海上では、榎本たち旧幕府軍が圧勝でした。
しかし、陸上の敗戦がひびき、旧幕府軍は劣勢になっていきます。
2日後・・・榎本たちは戦況を立て直すために大坂城に入城。
徳川慶喜が出席する中、今後の戦略を話し合いました。
兵力に勝る旧幕府軍・・・結論は、徹底抗戦でした。
しかし・・・その夜、慶喜は密かに側近と共に開陽丸に乗り込み、江戸に逃亡!!
置いてきぼりを食った榎本は、こうつぶやきました。

「将軍たち重臣の無策に、ますます驚き失望した
 徳川家の命運これまでと、血の涙が止まらなかった」by武揚

榎本たちは、大坂城に残された兵と共に、別の軍艦に乗り込み、江戸へ帰りました。
その中には、幕府の命を受けて京都の治安を守っていた新撰組の面々もいました。
その後、改めて会議が開かれましたが、意見は真っ二つ!!
明治政府に従う恭順派と、あくまで戦い続ける徹底抗戦派!!
恭順派には慶喜や、軍の全権を担う勝海舟が・・・抗戦派には、榎本や陸軍奉行並の小栗忠順がいました。
榎本は、恭順を支持する慶喜にこう言い放ちます。

「慶喜さまは、腰が抜けたのか!!
 いまさら恭順とはどういうことか!!」by武揚

しかし、榎本の意見が取り入れられることはありませんでした。
それからおよそ1か月・・・慶喜は新政府軍に恭順の意を示し、上野・寛永寺に蟄居。
その後の一切を、勝海舟に託しました。
その間、新政府軍は東に進軍!!江戸総攻撃は目前に迫っていました。
3月13日、勝は、新政府軍の責任者・西郷隆盛に直談判します。
武装解除の条件をのみ、江戸城を引き渡すことで総攻撃を回避しました。
いわゆる無血開城です。

定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]
定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]

翌月、榎本は勝の自宅を訪問・・・相談をしています。
それは、蝦夷地の開拓でした。
徳川宗家は、明治政府の処分によって駿河への移封が決まり、石高が1/6に減らされていました。

「生活に困窮する幕臣を救うため、蝦夷地を開拓できないだろうか」by武揚

「するべきではない」by海舟

旧幕府の了承が得られないのなら、実力行使しかない!!
榎本の胸中は決まりました。
徳川宗家が駿河にうつされたのを見届けて、8月20日未明、開陽丸に向かいました。
榎本は、旧幕臣ら1600名を連れて、無断で開陽丸を出航します。
家族を残しての旅立ちでした。
出発直前、榎本は新政府軍に対して通告文を送っています。

”王政復古と称しながら、薩摩・長州などの強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収し、幕臣や旗本らを窮地に陥れたのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する”

さらに、勝に対しても謝罪の手紙を送っています。

”あなたを煩わせてしまい、申し訳ない”

開陽丸の進路は、北!!
目指すは旧幕府軍の拠点・仙台でした。
ところが、榎本たちが仙台に到着して間もなく、仙台藩も新政府に降伏してしまいます。
そんな中、心強い味方と再会します。
新撰組の土方歳三や、旧幕府の陸軍です。
新政府軍と交戦の末、北上していました。
そして榎本は、土方たちを加えた仲間に、こういいました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by武揚

1868年10月12日、榎本は、2800人ほどの仲間と共に、開陽丸をはじめ8隻の船で蝦夷地へ出発しました。
この時、32歳でした。

1868年10月20日、蝦夷地上陸!!
一行は、警備の厳しい函館港を避け、北側の鷲ノ木から上陸します。
榎本はまず明治政府の拠点となっていた五稜郭にあって嘆願書を送りました。
上陸は戦闘ではなく開拓のためである・・・これを許可してほしいとおいう内容でした。
しかし、明治政府は嘆願書を無視、武力衝突へと発展します。
榎本の軍は函館へと南下、10月26日、五稜郭を占領します。
ここでも榎本は、古くから蝦夷の南部を治める松前藩に手紙を送ります。
共存共栄を図りたいという趣旨のものでした。
しかし、明治政府の統治下にあった松前藩は、榎本の使者を斬り、返答しませんでした。

ここに至り榎本は、松前城に攻撃を開始!!
土方歳三率いる陸軍部隊が一斉攻撃を浴びせ、わずか1日で松前城は陥落しました。
戦いのさ中、榎本が最も重要視したのは外交でした。
明治政府軍と戦うには、西洋列強が干渉せず、中立を保つことが不可欠だったからです。
榎本は、函館に在留していた各国領事に、自らの立場を表明します。

”我々は、反逆者でも逆賊でもありません
 祖国の地で、誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちなのです”

オランダ留学時代に身に着けた語学と国際法を武器に、榎本はイギリスやフランスなど各国の代表と交渉・・・
榎本は、自分たちを事実上の政権として彼等に認めさせ、中立を認めさせました。
これが後に、蝦夷政権と呼ばれるものです。
諸外国が明治政府に味方して、榎本たちを攻撃すれば、榎本の構想が一気に崩れてしまう・・・!!
榎本としては、味方にならなくてもいいから、局外中立だけは守ってほしいと・・・
外国との交渉が重要で、それが蝦夷政権を樹立できた要因でした。

その後も、陸軍部隊は着々と蝦夷地を進軍していきます。
土方歳三たちの活躍を聞いた榎本は、軽い気持ちでこういいました。

「蝦夷地上陸以来、陸軍ばかりが活躍して、海軍兵たちの不満が募っている
 気休めに、江差まで連れて行って、大砲の2.3発でも撃たせてやろう」by武揚

この一言が、運命を大きく変えることになります。

1868年11月15日・・・榎本は、江差方面で戦う陸上部隊を支援するため、軍艦・開陽丸を移動させます。
そこへ、運悪く猛吹雪が襲い、船が座礁・・・!!
岩場に挟まった開陽丸は、船底が破れ沈没しました。
沈みゆく船を、榎本と共に見ていた兵が、この時の心境を書き残しています。

「暗夜に灯火を失ったようだ」

丁度その頃、東北地方の反政府勢力を平定した明治政府軍が、青森に集まってきていました。
冬が過ぎ、春になったら一気に攻撃を仕掛けようと準備を整えていました。
一方、榎本は、冬の間に政権の体制を整えていきます。
アメリカに習い、投票で新政府の役職を決めています。
明治政府に20年以上も先駆けて行われた日本初の選挙です。

1868年12月15日、33歳の時・・・そこで榎本は、総裁に選出されます。
蝦夷は、独立国への道を着々と歩んでいるように見えました。
しかし・・・12月28日、榎本たちを事実上の政権と認めていた諸外国が、中立の立場を撤回、明治政府支持に回りました。
榎本たちの最大の戦力だった開陽丸を失ったことが、諸外国の態度を変えさせました。
これによって、榎本たちは頼れるものを失い、明治政府軍と武力を持って戦うしか無くなるのです。

1869年1月、榎本は、東京にいる妻と家族に手紙を送ります。

”もはや、この世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺の蓋を閉めた後にわかる”

1869年4月、明治政府軍が蝦夷地に上陸。
8000の大軍で、函館を目指して進軍します。
対する旧幕府軍は、3200!!
防衛線は次々突破されてしまいます。
5月11日、箱館戦争開始!!
明治政府は函館を総攻撃します。
この日、激しい戦闘を繰り広げてきた土方歳三が、敵の銃弾に斃れました。
もはや、榎本たちの敗戦は明らかでした。
明治政府軍に降伏を促されて拒否、死を覚悟し、明治政府に手紙と共にある書物を送りました。
留学時代から肌身離さず持ち歩いていた”海律全書”です。

”この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである”

これからの日本のために、この本を役立ててほしい・・・という願いでした。
これを受け取った明治政府軍の総指揮官・黒田清隆は、榎本の志に胸をうたれ、酒とマグロを送ったといいます。
その夜、榎本は切腹を覚悟!!
短刀を手にしました。
しかし、気配を察した部下が駆けつけ、短刀を素手でつかんで・・・

「ここで死ぬべきではありません!!」

榎本は、部下の指が切れ、血が流れているのを見て思いとどまったといいます。
翌朝、榎本は、これまで共に戦ってきた仲間に感謝を述べ、降伏する旨を伝えました。

1869年5月18日、箱館戦争終結!!

榎本34歳の時でした。

箱館で敗北した榎本は、滅びゆく幕府と運命を共にしようと考えていました。
しかし、そのわずか3年後、榎本は政府から北海道の開拓を任されます。

箱館戦争の首謀者として捕らえられた榎本は、東京の牢獄に入りました。
榎本は、家族に宛てて、手紙を何通も送っていますが、中身は意外なものでした。
オランダ留学でみにつけた様々な知識や技術が延々と書かれていました。
石鹸やろうそくの作り方、ブランデーの蒸留方法、卵の人工ふ化器の作り方が、詳細な絵図と共に書かれています。
自分の死後、日本の産業のために役立ててほしいという言葉が添えられていました。
そんな榎本に救いの手を差し伸べたのが、政府高官の黒田清隆でした。
箱館戦争では、薩摩の軍人として榎本と戦いました。
黒田は、その時榎本の海律全書の翻訳を福沢諭吉に依頼しました。
しかし、福沢は数ページを訳すと黒田に

「本当にこの本を訳すことができるのは、榎本以外にはいない
 榎本に頼めないようでは、国家のために残念である」by諭吉

明治政府では、榎本を厳罰に処すべしという声が大きかったのです。
しかし、黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ、粘り強く嘆願しました。

「榎本こそ、欧米と対等に渡り合える人物・・・殺すべきではない!!」

遂には、
「この通りだ、私の頭に免じてくれ」と、丸坊主に剃り上げました。
黒田は、3年間、嘆願を続けます。
その甲斐もあり、政府は榎本の赦免を決定します。

江戸無血開城の深層 NHK英雄たちの選択 [ 磯田道史 ]
江戸無血開城の深層 NHK英雄たちの選択 [ 磯田道史 ]

その頃、岩倉使節団が欧米に向かう頃でした。
榎本の処罰がどうなるか、諸外国からみられていました。
もし、処刑になれば、日本は立ち遅れた国家だと思われてしまう懸念がありました。
榎本は、欧米の文化を体験した数少ない武人・・・
明治政府は、有能な人材を手に入れたのです。
黒田はこの頃、北海道開拓の責任者でした。
榎本を良く知る黒田は、牢獄にいるときから釈放されたら開拓の手伝いをしてほしいと誘っていました。
榎本は、自分は徳川家に仕える者で、明治政府に仕える気はないと断り続けていました。
しかし、数か月後、考えを変え、これを受け入れます。

”君恩 いまだ報いず 今日にあう”

主君の恩に、未だ報いられず、今日を迎えている・・・
その”君恩”の横にルビをうって、国為と書いています。
「君恩」は徳川幕府を指します。
オランダ留学は、徳川幕府のお金で学んできました。
形は違えど、幕末は徳川幕府のため、明治以降は近代日本発展のため、人々のために役に立つようなことを学んできたことの中から、お返ししなくてはいけない・・・!!

1872年、榎本は37歳で釈放されます。
その後、政府の役人として、北海道開拓に尽力・・・かつて蝦夷地を探索した知識で次々と農場を開墾、そして日本最大級の炭田を発見し、石炭を輸送するための鉄道も建設します。

1873年、38歳で長男誕生。
子供は金八と名付けました。
自分の幼名・釜次郎の釜から取ったものです。
開拓に従事したのち、榎本は外交官として海外を飛び回りました。
家族と過ごす時間は少なかったものの、多くの手紙のやり取りをしています。

榎本は、明治政府で大臣にまで上り詰めたが、晩年まで旧幕臣の援助を忘れませんでした。
俸禄を失い、暮らしに困る旧幕臣の子供たちのために、1885年、50歳の時に徳川育英会・・・奨学金制度を設立。
箱館戦争の時に、榎本の切腹を止め、指が不自由になった部下を、自分が設立した会社に招きました。
そして、1908年10月26日、73歳の生涯を閉じました。

亡くなる前、榎本はある場所を訪ねています。
箱館山にある碧血碑・・・箱館戦争の死者・800名を弔うため、榎本たちが建立しました。
碧血とは、”忠義を貫き亡くなった者が流した血”です。
石碑の裏にはこう書かれています。

”山上に石を立て、もってその志を表す”

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1867年、フランス・パリ・・・画期的なイベントが開催されました。
パリ万国博覧会です。
世界中の国々が特産品や最先端技術を展示する一大イベント・・・
初参加の日本は、徳川幕府使節団を派遣します。
代表を務めたのは、将軍・慶喜の弟・昭武でした。
慶喜自ら昭武を自分の名代に選び、フランスでの外交を託したのです。
慶喜が昭武に送ったものが残されています。
無精が戦の時に身に着ける陣羽織です。
その壮麗な造り・・・昭武のフランスでの活躍を願う慶喜の気持ちが伝わってきます。
使節団が託されたのは、華やかな万博外交だけではありませんでした。
徳川慶喜から直々に幕府の命運を握る密命を帯びていました。

600万ドル借款計画・・・フランスより借り入れた資金で、武器や軍艦を購入し、薩長を討とうという計画です。
しかし、使節団は予想外の事態に・・・

1867年、フランス・パリで開催された画期的なイベント・パリ万国博覧会
世界中の国々が特産品や最先端の技術を展示する一大イベントです。
参加国は42か国。7か月の開催期間中に、世界中から1500万人もの来場者がありました。
パリ万博は、フランスをはじめ各国から最先端の工業力のお披露目の場でした。
中でも異彩を放った展示場は、日本の茶屋でした。
万博に初参加した異国・日本は、ひときわ注目を浴びました。
日本から来た芸者が煙草をのみ、茶を振る舞う・・・エキゾチックな女性たちの姿は観光客に人気を博し、一日の来場者は1300人を超えたといいます。
パリ万博には、徳川幕府使節団が派遣されました。
代表は、将軍・徳川慶喜の弟・昭武、15歳。
さらに、慶喜の出身地水戸の藩士たち、幕臣たちと、総勢33人が派遣されました。
当時28歳だった渋沢栄一も会計係兼書記として参加しています。
彼等は、徳川慶喜の命を受け、幕府の行く末を担う密命を帯びていました。

1866年、第二次長州征討で、幕府は長州藩に事実上の敗北を喫します。
敗因は、長州側との圧倒的な武力の差でした。
イギリスと友好関係にあった薩摩が、長州にイギリスの武器を提供していました。
薩長に対抗するため、軍事力増強に迫られます。
その陣頭指揮にあたったのが、外国奉行や勘定奉行の要職を歴任した小栗上野介です。
小栗は、数年前から軍事力増強の計画を着々と進めていました。
神奈川県横須賀にあるアメリカ海軍・横須賀基地・・・小栗が幕府海軍の拠点としてここに世界有数の大造船所を計画したのです。
小栗が作らせた第1号ドック・・・全長136m、今もアメリカ軍の施設として使われています。
当時の設計図には、3つのドック、製鉄所の建設など示されています。
建設費は、フランスからの借款240万ドルでした。
さらに、幕府陸軍の強化にも乗り出します。
フランスから軍事顧問団を呼び、組織、兵器の近代化を進めます。
小栗の対薩長計画を支援したのは、駐日フランス公使のレオン・ロッシュでした。
その背景には、フランスの危機的状況がありました。
当時、フランスで蚕の疫病が蔓延、生糸の生産量が80%減少していました。
ヨーロッパの絹工場の中心地だったフランスは、大打撃を受けます。
フランスの生糸の生産が80%壊滅、新しい供給国を探さなければならなかったのです。
ロッシュは、リヨン・・・フランスの絹産業の中心地の出身でした。
幕府と接近し、日本に生糸の安定的な供給を要望しました。
当時、日本の生糸は、良質なことで欧米から高い評価を受けていました。
ロッシュは、日本の生糸の独占輸入を目論み、幕府を支援したのです。
幕府の再興を目指す小栗と、生糸の独占を目論むロッシュの思惑が密かに更なる計画を練ります。
この計画について、勝海舟が書き残しています。
小栗は、フランスの協力を得て、薩長を討つ計画を進めていました。

小栗は、政治の背景に軍事力があることをわかっていました。
軍事力を背景にして、国家の利益を追求する・・・幕府も取り入れた方がいいのではないか?と考えていました。
1866年8月、小栗上野介、フランスと契約。

その内容は、
”フランスより600万ドルを借款し、その資金を使って武器や軍艦を買い付ける”というものでした。
600万ドル借款すると、どれだけ軍備が増強できるのでしょうか?
当時の軍監はおよそ9万ドル、600万ドルあれば66隻購入できます。
対する当時の薩摩郡の軍監は6隻・・・武力で薩摩藩を圧倒することができます。
さらに契約書には、窓口としてフランスに新たな会社を設立すると書かれていました。
小栗とロッシュに計画は、フランスに会社を設立し、ここで投資を募り、600万ドルを集め、幕府に貸し付けます。
幕府はこの資金で、フランスから武器や軍艦を購入、一方、フランスには、生糸の独占輸入の権利を与えるといったものでした。
その計画はその後、軍制改革を進める15代将軍・徳川慶喜に引き継がれることとなります。

慶喜は、イギリスが薩摩や長州を支援していると知っていました。
「夷(フランス)をもって夷(イギリス)を制す」と、フランスに傾倒していきます。
駐日公使レオン・ロッシュは、外務大臣にこう報告しています。

「日本政府の保護のもとに置かれる会社の有利は絶大なものがあるから、フランスにとっての日本はイギリスにとっての清、言い換えればフランスの市場となるだろう」byロッシュ

英仏の経済戦争を背景に進められる小栗の幕府再生計画・・・しかし、この段階では、あくまでも契約にすぎません。
そして、パリ万博使節団に出された密命こそが、パリで600万f¥ドルの借款を具体的に成立させることだったのです。

渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]
渋沢栄一 才能を活かし、お金を活かし、人を活かす 実業の父が教える「人生繁栄の法則」 (知的生きかた文庫) [ 大下 英治 ]

1867年3月、徳川幕府使節団、パリに到着。
万博参加の主な目的は、
①倒幕の動きが盛んになる中、日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示す
②600万ドルの借款の成立

使節団はまず、ナポレオン3世に謁見、沿道は東洋からやってきた一行を一目見ようと見物人で埋め尽くされました。
衣冠束帯に身を包んだ昭武は、各国の国王や貴族から大いに注目されたといいます。
意気揚々と万博会場に向かう使節団、そこで一行は、驚くべき事態に直面します。
日本の展示スペースに、堂々と薩摩の紋が掲げられていたのです。
そこには、薩摩の展示品が所狭しと並べられていました。
さらに、幕府が巨費を投じて制作した等身大の武者人形の前に、あたかも薩摩藩の展示物かのように薩摩の紋が置かれていました。
日本に割り当てられたスペースの1/3が薩摩のスペースとなっていたのです。
さらに、薩摩藩は、フランスの要人に配る勲章を用意していました。
そこには、”薩摩琉球国”と記されています。
薩摩藩は、あたかも幕府から独立した国であるかのように万博に参加していました。
幕府使節団は、薩摩藩に猛抗議し、侃々諤々の議論を繰り広げます。
交渉の場にいた書記官・田辺太一は、その顛末を記しています。
田辺たちの必死の交渉により、薩摩側から次のような譲歩を勝ち取ります。

”薩摩藩は琉球島王の呼称を削り、日本の国旗を掲げる”

しかし、薩摩藩は藩をどのように名乗るかにおいて、次のように主張しました。
薩摩藩は「グーベルマン太守薩摩」と名乗る・・・使節団は、グーベルマンを藩という意味と解釈し、これならば薩摩藩は独立国とは思われないだろうと申し出を受け入れます。
しかし、これが致命的な失策となりました。
会談の数日後、フランスの新聞は一斉にこう書きたてました。

”徳川将軍は日本の皇帝ではなく薩摩や他の大名と同等である”

グーベルマンは英語でガバメント=政府という意味でした。
つまり、薩摩藩は、独立した政府であり幕府は日本を統治していないと受け止められたのです。
日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示すという万博参加の第一の目的は大きく揺らぎます。
それはまた秘密の任務・600万ドル借款計画を困難にする者でもありました。
日本には、幕府とさらに薩摩太守政府もあると・・・”日本は一元的に幕府が支配している国ではない”と位置付けてしまったのです。
凍死する人にとって、「どこが一番優良なのか?」と、リスクになります。
600万ドル借款計画にとって、非常に由々しき問題でした。

イギリスに興味深い文書が残されていました。
当時、イギリス外務省に送られた報告書には・・・
”もし600万ドルの借款とフランスの貿易独占会社が成功すれば、イギリスに有害な結果となる”
報告者の名は、アレキサンダー・シーボルト!!
アレキサンダー・シーボルトは、長崎に来日したフォン・シーボルトの息子です。
日本のイギリス公使館で通訳として働いていたシーボルトは、フランス語も堪能であったため、幕府使節団の通訳を務めていました。
イギリスは、使節団にスパイを送り込み、そこで得た情報を薩摩藩に伝えていたのです。
小栗の600万ドル借款計画は、薩摩藩とイギリスの妨害を前に、その成立が難しくなりました。

開国の先覚者 小栗上野介 (PP選書) [ 蜷川新 ]
開国の先覚者 小栗上野介 (PP選書) [ 蜷川新 ]

薩摩藩の妨害工策により暗雲が立ち込めた600万ドル借款計画・・・そこに追い打ちをかける事態が・・・!!
横浜居留地で発行されていた英字新聞”ジャパンタイムズ”に極秘だった600万ドル借款計画が暴露されたのです。

”フランスは日本と生糸の独占契約を計画している”

この情報は、イギリス本国に伝わり、英国議会で問題となりました。

”フランスが計画している日本の生糸の独占は、自由な貿易を阻害する”

1860年、英仏通商条約締結

互いに自由な貿易を保証していました。
イギリスは直ちにフランスに抗議します。
この頃、フランスは外交政策の転換期にありました。
前年の1866年、フランスはメキシコ遠征に失敗し、撤退を開始していました。
これによって、フランスは対外政策を切り替え、各国との協調を重視するムスティエ外務大臣が新たに就任。
ムスティエ外務大臣は、在日フランス公使レオン・ロッシュに訓令を発します。

「貴下が仏国貿易のために独占権を制定せんとしたる行為に対し、駐仏イギリス大使は直接予のもとに来てこの不満を訴えた
 競争国に非難の口実を与えないように留意することが、いかに我が国の利益に重大であるかを改めて言うを要せざるべし」byムスティエ

600万ドル借款のために不可欠だった日本の生糸の独占にストップがかかったのです。
そして、パリの幕府使節団から、江戸に驚くべき報告がもたらされます。

”600万ドルの借款はにわかに相破れ候”

600万ドル借款計画は、完全に暗礁に乗り上げました。
報告された3か月前、1867年4月・・・交渉の難航を察知したロッシュは、意見書を作成し、軍制改革を推し進める将軍・慶喜に進言します。
そこには、600万ドル借款の起死回生の一手が書かれていました。
生糸の独占の権利を与える代わりに蝦夷地の鉱山開発権をフランスに与えようというのです。

予想だにしない提案を受けた慶喜・・・
1856年8月、幕府は箱館の鉱山資源を調査、見込みアリと情報を得ていました。

フランスに蝦夷地の鉱山開発権を与える??与えない??どうする??

1867年5月、徳川慶喜はひとりの幕臣・栗本鋤雲を呼び出します。
鋤雲は、小栗上野介の盟友で、フランス語に堪能は幕府きってのフランス通でした。
慶喜が鋤雲に指示した内容は・・・
①日本の政治的主権者は徳川将軍にあるとフランスや欧州諸国に認識させよ
②新たに蝦夷地鉱山開発権を提案して、600万ドル借款を成立させよ
でした。

慶喜は、蝦夷地の鉱山開発権を与えるを選択したのです。

1867年8月、鋤雲は、パリに到着。
早速問題の解決に乗り出します。
この時、徳川昭武一行は、パリを離れ、各国訪問の旅に出ていました。
一行は、スイス→オランダ→ベルギー→イタリア→イギリスを訪問、各国の首脳たちと会い友好関係を築いていきます。
各国で王族と同等のもてなしを受け、イギリスの新聞は昭武を”プリンス徳川”と報じました。
使節団からの報告によれば、博覧会場の誹謗は、煙のように消え、昭武の名が世に称され、尊崇されるようになったのです。
ヨーロッパ各国は、日本の政治的主権者は徳川将軍にあると認識を改めたのです。
一方で、鋤雲は、幾度となくフランス外務省を訪れます。
蝦夷地の鉱山開発権を新たに提案し、600万ドル借款の交渉を行ったのです。
しかし、結果ははかばかしくなく・・・

”御借銀 蝦夷地など 小生にお任せ候御用向 未だ混沌未分 三か月の淹留”

フランスは、鉱山の専門家です。
銅や銀の埋蔵量がどのくらいあるのか、そこまで調べたかったのです。
細かい資料がないから信頼できない・・・
1868年1月2日、幕府使節団一行と、鋤雲に、幕府から2か月遅れで知らせが届きます。

1867年10月14日、大政奉還・・・将軍・慶喜が、政権の返上を天皇に申し出たのです。
さらに、情勢は大きく動きます。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦い・・・旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍は、京都近郊で激突!!
しかし、最新鋭の武器を有する新政府軍は、旧幕府軍を圧倒!!
江戸幕府は終焉を迎えたのです。
600万ドル借款契約の計画者・小栗上野介は江戸を離れ、知行地・上州権田村で静かな生活を送ります。
しかし・・・新政府軍に反逆の疑いありとされ、非業の死を遂げました。

今からおよそ150年前、パリを舞台に密かに繰り広げられた600万ドル借款計画・・・鋤雲たちの必死の努力もむなしく、計画は日の目を見ませんでした。
しかし、国際政治の現場を目の当りにした鋤雲や使節団は、その苦い経験を後の時代に伝えていくことになります。

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文庫 富と幸せを生む知恵 ドラッカーも心酔した名実業家の信条「青淵百話」 (実業之日本社文庫) [ 渋沢 栄一 ]
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江戸幕府15歳将軍・徳川慶喜・・・在任期間はわずか1年足らずで、歴代で最も短かったものの260年に及んだ江戸時代最後の将軍です。

1837年9月29日・・・
江戸・水戸藩上屋敷でひとりの男の子が生まれました。
後の慶喜です。
父親は、水戸徳川家九代当主斉昭、母親は有栖川宮家の吉子でした。
父・斉昭の教育方針により、慶喜は生後7か月で水戸にうつされ、これ以後、天皇を尊ぶ尊王学など英才教育を受けて育ちます。
そんな慶喜に、斉昭は大きな期待を寄せ、こう語ったといいます。

「天晴な名将となるか さもなくば 手に余るようになる」

1847年、慶喜が10歳の時、大きな転機が訪れます。
一橋家から養子の申し出が来たのです。
東寺の一橋家は、11代将軍家斉、12代将軍家慶を輩出した最も将軍職に近い家柄で、慶喜は将軍後見職などの幕府要職を歴任することになり、26歳の時朝廷の対応に当たるため京都に赴き、幕府の代表として幕末混乱期の政局に手腕を発揮しました。

14代将軍・家茂が亡くなると・・・
1866年12月5日、京都にいた慶喜がそのまま15代将軍となります。
就任当時の幕府は、度重なる政策の失敗で、指導力を失い、存続の危機に瀕していました。
弱体化した幕府を強化するため、慶喜がまず行ったのが、軍事改革です。
特に海軍力に力を入れ、国内最大級となる開陽丸など、海外から軍艦を購入し配備しました。
さらに、暗礁に乗り上げていた外交問題にも着手します。
兵庫の開港を求める欧米列強に対し、朝廷は京都に近いという理由から強く反対し続けていましたが・・・慶喜は朝廷を説得して将軍就任わずか半年で開港の勅許を得ます。
各国の大使はそんな慶喜の手腕を高く評価しました。

就任から次々と成果を上げていく慶喜でしたが、この後、わずか半年ほどの間に3度の大きな決断を迫られることになります。
最初の決断は、将軍就任からおよど10か月後の1867年10月14日、大政奉還です。
当時、国内には、幕府政治に疑問を抱き、武力で討幕を目指す(武力討幕)者がいました。
最も積極的だったのが、薩摩藩です。
下級武士名から、反の実権を握っていた大久保利通や西郷隆盛は同じ討幕派の長州藩と手を結び、イギリスから武器を購入するなどして倒幕に向けての準備を着々と進めていました。
一方、同じ討幕でも平和的に政権を移そうと考えていたのが山内容堂率いる土佐藩です。
彼等が掲げたのが、大政奉還論でした。
①幕府は政権を朝廷に返上
②議会を設置
  徳川慶喜も諸侯の一員として参画
といった武力に頼らない討幕を目指したのです。
そんな中、1867年6月22日、京都で土佐の後藤象二郎・坂本龍馬と、薩摩の大久保・西郷らとの間で話し合いがもたれます。
強硬姿勢を崩さない薩摩に対し、挙兵を思いとどまらせようとする土佐・・・
話し合いは、平行線のまま終わるかに見えました。
しかし、一転、大政奉還で合意に至ったのです。
薩摩藩は、どうして態度を変えたのでしょうか?

10月3日、慶喜に土佐藩から大政奉還の建白書が出されます。
しかし、その裏で、薩摩の大久保らも動いていました。
あくまでも武力討伐にこだわる彼等は、公家の岩倉具視と組み、朝廷から慶喜討伐の密書を出してもらう用画策。
すると、10月14日、朝廷は、薩長の藩主に慶喜の討伐を命ずるという「討幕の密勅」を出したのです。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を討て!!
待ちに待ったこの日に、薩摩藩の指揮は一気に上がりました。
しかし、同じ日・・・慶喜は、周囲の予想を裏切り、自らあっさりと大政奉還をしてしまうのです。

「このままに持ち堪えんとすれば無理ばかり多くなり、罪責はますます増加
 遂には奪わるるにも至るべきは必然と見切り申候」

慶喜の中では、幕藩体制の維持は不可能と考えていました。
内乱や外国の介入を阻止するために、大政奉還が一番いい方法だと考えたのです。
朝廷はずっと政治を担っていなかったので、慶喜に頼ざらるをを得ないとも考えていました。

大政奉還からわずか2か月後の12月9日・・・慶喜は、再び大きな決断に迫られます。
武力討伐の中止を余儀なくされた大久保らは、新しい体制となってもなお慶喜が主導権を握るのではと脅威を感じていました。
そこで、古い政治体制をすべて打ち壊すしかないとして・・・
12月9日明け方・・・西郷の指揮のもと、薩摩藩を中心とする兵が、御所の門を完全封鎖し、明治天皇が臨席する中で討幕派主導のクーデターが起きます。
世にいう王政復古のクーデターです。
徳川幕府の廃絶と、新政府の樹立が宣言され、政権運営は新たに創設された三職(総裁・参与・議定)によって行われることが決定しました。
総裁は、今の総理大臣に当たり、議会を統括する役職で、有栖川宮熾仁親王が就任。
議定は上院議員で、皇族や公家、藩主から。
参与は下院議員で、下級の公家や藩士から選ばれました。
しかし、この新政府メンバーに、慶喜の名はありませんでした。

王政復古のクーデターが決行されたその日の夕方、京都御所で新政府による初めての会議が行われました。
議題は、慶喜の処遇です。
この時、新政府内は、旧幕府の徹底排除を求める討幕派と、旧幕府との融合を主張する公議政体派に分裂し、会議は紛糾します。
慶喜に対して最も厳しい条件を突き付けたのは、討幕派の大久保らでした。

「慶喜公からは、内大臣の官位を剥奪し、徳川家の領地800万石を没収し、それを新政府の資金に当てましょう。」

これにたいし、公議政体派の山内容堂が反対の意を唱えます。

「大政奉還という大英断を下した慶喜公こそ、新政府に必要な人物!!
 相応の役職に、迎え入れるべきだ!!」

領地没収に関しても、徳川家だけというのは不公平だと反論し、話し合いは夜中まで続きました。
しかし、最終的には、討幕派が押し切り、慶喜の官位剥奪、領地没収が決定してしまいました。
政権を返上し、諸侯の一人となった慶喜でしたが、元将軍であり、徳川家の当主としての求心力は健在・・・!!
さらに、反幕府派の中からも、大政奉還を好意的にとらえる勢力が現れ始めます。
多くの公卿たちも同調し始めたことで、慶喜を擁護する勢力が勢いを増していきます。
そんな中、旧幕府を支持する会津藩と桑名藩が、御所に向けて出兵!!
討幕派を一掃すべしという声をあげました。

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王政復古から3日後の12月12日・・・
慶喜は、家臣たちの暴発を避けるために、会津、桑名の軍勢を引き連れて京都から大阪城に移ります。
経済的にも軍事的にも重要な大坂を抑えることで、新政府にプレッシャーを与えようと考えたのです。
この選択が、自分自身の運命を大きく帰ることとも知らずに・・・!!

翌日、倒幕派の大久保と岩倉との間で、慶喜の処遇について話し合いがもたれ・・・
岩倉は、二つの案を提示します。
①強硬案・・・薩長の軍事力を背景に、このまま強硬路線を貫くというもの
②妥協案・・・慶喜が、官位剥奪と領地没収を飲むなら、議定職への就任を認めるというもの
強硬な姿勢を貫く大久保らは、新政府内で孤立しつつあり、妥協案で合意するしかありませんでした。
その後の合議の末、慶喜は

①内大臣を辞して”前内大臣”と称す
②領地没収の撤回
③議定職就任

慶喜の思惑通り、新政府に迎え入れられることとなりました。

王政復古のクーデターのおよそ1か月後・・・慶喜は最後の決断を迫られます。
大久保や西郷ら討幕派の勢いは、この頃風前の灯となっていました。
同盟を組む長州藩でさえも、薩摩の行動は理解しがたいと離れて行ってしまったからです。
孤立を深めていく中で、大久保は覚悟を決めます。
「もはや、薩摩一国となっても一戦交えるまでだ!!」
そんな中、慶喜の議定職就任が決定した翌日の1867年12月25日・・・
旧幕府から市中取り締まりを命じられていた庄内藩が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が勃発します。
薩摩浪士たちが江戸で、強盗や放火を繰り返し、幕府を挑発していたことに対する報復でした。
藩邸を襲われた薩摩は、一気に戦闘態勢に!!
一方、焼討事件を知らされた大坂城でも、会津・桑名の藩士たちが武力行使を訴えます。
慶喜が、暴発を抑えようと必死になるものの・・・
薩摩を倒すべきという声が上がり、機運の高まりはもはや慶喜にも抑えられなくなっていました。


「いかようにも勝手にせよ・・・」

慶喜は、薩摩討伐を決意し、署名します。
五か条の「討薩の表」には、こう記されていました。

”王政復古以来、朝廷のふるまいは、薩摩藩の陰謀によるものである
 薩摩の引き渡しを求める”

あくまで薩摩藩を相手に戦うことが目的でした。

1868年1月2日・・・江戸から脱走した薩摩藩士の捕縛を命じられていた開陽丸の艦長・榎本武揚は、4隻の軍艦と共に大坂湾にいました。
すると、脱走した藩士を乗せた薩摩藩の艦船3隻を発見し、ここに戦いの火ぶたが切られます。
日本初の洋式海戦の勃発(阿波沖の海戦)です。
旧幕府軍・開陽の圧倒的な勝利の前に、薩摩の2隻は敗走・・・1隻は逃げきれずに自沈しました。
旧幕府軍は、海上戦で圧勝・・・慶喜が行ってきた軍事力強化がここで実を結んだのです。
海上戦が始まったこの日、陸上では、旧幕府軍が”討薩の表”を朝廷に提出するため大坂城から京を目指し北上していました。
二手に分かれた軍勢は、3日、鳥羽と伏見に到着します。
一方、薩長両藩も、鳥羽と伏見に布陣し・・・旧幕府軍を待ち伏せていました。

1868年1月3日、午後5時・・・4日間に及ぶ戦いが始まります。
鳥羽で旧幕府軍が隊列を組み強行突破を仕掛けると、新政府軍の銃砲が一斉に火を噴きました。
不意を突かれた旧幕府軍は大混乱に陥り、容赦なく浴びせられる銃弾に、歩兵は次々と倒れていきました。
鳥羽から聞こえた銃声を合図に、伏見でも戦闘が始まりましたが、戦況はこちらも同様新政府軍が優勢となりました。
新政府軍の方は、指揮官たちの巧みな戦術のもと、着実に作戦を遂行していたのですが、一方の旧幕府軍は、精鋭部隊のほとんどが江戸にいて、各部隊の命令系統はバラバラ・・・
兵の中には農民もいるなど、寄せ集めの軍隊だったのです。
翌4日になっても、旧幕府軍の劣勢は変わらず、後退を余儀なくされていきます。

鳥羽伏見の戦いのおよそ3か月前・・・
討幕派が集まって、密議が重ねられていました。
岩倉具視が中心となって、幕府軍と武力衝突が起きた際の、戦局を有利に運ぶためにはどうすればいいか??作戦が練られていました。
彼等が、切り札としたのは”錦の御旗”でした。
鎌倉時代に、朝敵を退治する戦で使われた朝廷の軍隊を象徴する旗で、その後は使われなくなり文献にしか残っていなかったのですが・・・
岩倉は、これを復活させ利用しようと提案したのです。
大久保は、早速、錦の布を買いに行かせ、それを長州藩士に渡し、西陣織の職人によって極秘裏に作成されました。

鳥羽伏見の戦いが始まって3日目・・・
新政府軍が掲げた”錦の御旗”が前線に翻りました。
これにより、慶喜は天皇に歯向かう朝敵となってしまったのです。
御旗の効果は絶大でした。
朝敵となることを恐れた諸藩は、次々と新政府側に寝返っていきました。
慶喜は、前線で戦う兵士の士気を高めるため、大坂城でこう演説します。

「たとえ、千騎が一騎馬になろうとも、決して退くな!!
 大坂が破れても江戸がある!!
 屈してはならぬ!!」by慶喜

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、慶喜はわずかの供を連れて大坂城を脱出・・・
この日、城で慶喜に拝謁した軍艦奉行の浅野氏祐は、直筆として1枚の紙を渡されたといいます。
そこには、慶喜と共に帰還する者の名と共に、戦場に残す者たちの名があり、それは、主戦論を強硬に唱えていた重臣たちでした。
慶喜は、なんと彼等に戦の責任を取らせることにして、大坂城から逃げたのです。
兵を鼓舞したすぐ後に、どうして大坂城を脱出したのでしょうか?

「これ以上、大坂城に滞在すると、ますます過激論者を刺激してしまう
 自分さえいなくなれば、激論も沈静するであろう
 私は江戸に戻って恭順の姿勢を貫き、朝命に従うつもりだ」

鳥羽伏見の戦いを早期に集結させるために江戸にもどると説明しています。
しかし、実際は、錦の御旗が出て、自分が朝敵になった事が大きかったのです。

1868年1月6日、午後9時・・・慶喜は、わずかな供を連れて大坂城の裏門から抜け出しました。
その際、慶喜はお小姓を装い、城門の衛兵の目をくらましたと言われています。
そして、八軒屋の船着場から、小舟で川を下り、沖に向かったのですが・・・
闇夜でもあり、大坂から離れた西宮周辺に停泊していた徳川家の軍艦を見つけることはできませんでした。
そこで、アメリカ大使に依頼し、夜が明けるまで軍艦に乗船させてもらうことにしました。
翌朝、慶喜一行は、開陽に乗り込んだのですが・・・館長の榎本武明が、大坂城に行っていて船にいなかったため、乗組員たちに出航は無理だと言われてしまいます。
しかし、慶喜は、半ば強引に説き伏せ、江戸に向かわせました。

大坂城脱出から5日ご・・・開陽は、品川港に到着・・・
江戸にもどった慶喜は、恭順の姿勢を示すために、もう一度戦を仕掛けようという声をかたくなに拒否しました。
そして、自ら徳川の霊廟である上野の寛永寺に入り、謹慎のみとなることで政治の表舞台から去っていきました。
その後、謹慎場所を水戸へと移し、
1868年7月19日、戊辰戦争による治安悪化を理由に駿府へと向かいます。
謹慎場所は、徳川家ゆかりの宝台院でした。
この時、慶喜の元を尋ねた旧幕臣の渋沢栄一は、将軍の時とあまりにもかけ離れたその暮らしぶりに涙したといいます。
1869年9月28日、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の終結を受け、慶喜の謹慎はようやく解かれます。
この時、32歳でした。

この後、一市民として、狩猟や釣りなどから洋画や刺しゅう、自転車を買ったり、カメラを使ったり・・・様々な趣味に没頭しました。
1913年11月22日、慶喜は76年に及ぶ波乱に人生を終えました。
歴代の将軍が眠る寛永寺でも、増上寺でもなく、自らが購入した谷中墓地で静かに眠りについたのです。
一市民として・・・!!


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第2回です。
今回から吉沢亮くん登場ですよ~~!!

9歳になった栄一は、お父さんの仕事のお手伝いを始めていました。

tuke5











目利きな父親と一緒に、各地の藍農家をまわり、藍葉を買い付けるのも仕事でした。
躾に、仕事に厳しい父も、栄一に仕事を教えるのは楽しいようです。

tuke2















村では、五穀豊穣と悪疫退散のために、祭りが催されます。
お千代もまつりに合わせて、新しい着物を作ってもらえると喜んでいました。

血洗島の渋沢家には、この地域一帯を納めている岡部藩の代官が時々やってきました。
そんな時は、精一杯のおもてなしで迎えることが常でした。
代官からお話がありました。

「この度、若殿の御乗出しが決まった
 ついでは、道を整えねばならぬ
 六月吉日の前後十日、この村より人足を百人と御用金二千両を用意するようにとのお申し付けだ」

「恐れながら、お代官様・・・
 その頃と申しますと、この村は一年のうちで一番人手が足りぬ時期で・・・
 毎年、他の村より人手を借りるほど・・・
 御用金の方は、なんとか用立てます。
 何卒今少し、人足の数を減らしてはいただけませんかと・・・」by市郎右衛門

「そうか・・・その方、不服と申すのか・・・!!」

「不服など、もってのほか・・・
 ただ・・・六月は、お蚕様も繭になり、藍の買取も一番忙しい時にて・・・
 どうか、この地の百姓のためにも、百を八十に、九十にも減らしてはいただけませんか・・・」by市郎右衛門

「たわけおって!!
 その方、百姓の分際で口が過ぎるぞ・・・!!」byお代官様

「ははっ!!」by市郎右衛門

「いいか、お上が百人出せといったら、百人出すんだ!!」byお代官様


何か言いだしそうな栄一に口止めする母・・・
井戸に向かって叫びます。

「承服できん!!
 承服できっこないに!!
 なんでとっさまが・・・村のみんなに慕われているとっさまが・・・
 あんなに頭を低くしなきゃなんねえに!!」by栄一

村人に慕われている父が、頭を下げて・・・悔しかったのです。

人も足りない・・・お金も足りない・・・みんなが楽しみにしていた祭りは諦めないといけないのか・・・??

「俺は嫌だに!! 
 俺は獅子が舞いてえ!!
 祭りをしてくれ!!
 そんじゃあ、今年の五穀豊穣はどうするんだに!!」
 悪疫退散は・・・祭りをして村の悪いものを追い出さねえと、なんねえ・・・!!
 だって、おいちゃんも、村の祭りは大事だといったじゃねえか・・・!!
 大事とわかっててやんねえのは、”義を見てせざるは勇無きなり”だ!!」by栄一

父に頭をはたかれてしまいました。

「なんもわかんねえモンが、えらそうなこと言うな!!
 みんなも悪いな・・・
 お代官様からの申しつけだが、ちと来てくれ・・・」by市郎右衛門

村のみんなも、栄一の気持ちを痛いほどわかってくれていました。
でも・・・祭りは無くなってしまったのです。
不条理を感じる栄一でした。

その頃、江戸城の一橋邸・・・
七郎麻呂は、将軍・家慶の慶の字を賜わり、徳川慶喜となりました。
そして・・・暇を持て余していたのです。

その頃、水戸・・・
慶喜の父・斉昭は、幕府の命により、隠居生活を送っていました。
そして、慶喜に望みをかけていたのです。

6月・・・血洗島で一番忙しい季節がやってきました。
しかし、お代官様の命令通り、男たちは人足にとられ、女たちで桑や藍葉の刈り取りです。

「よし!!」と、働く栄一!!

時期を逃すと、葉に含まれる色素が変化するので、急いで刈り取らなければならないのです。
お蚕様も、繭になる時期でした。

忙しいので、人足仕事から帰ってきた男たちも、まだまだ働きます。
松明をともしてまでも働く・・・そんな日が、何日も続きました。

tuke3















刈り取りが終わり、人足仕事も終わり・・・市郎右衛門が足を洗おうとしたとき・・・
どこからともなく笛の音が聞こえてきました。
それは獅子でした。

tuke4















「何やってんだ・・・!!」by市郎右衛門

「五穀豊穣!!悪疫退散だに!!」by栄一

それは、栄一と喜作でした。

そこへ、父・市郎右衛門、村人たちも・・・ささやかな祭りの始まりでした。

それから数年が経ち・・・栄一は、立派な青年になっていました。

tuke1















栄一と喜作はともに剣を学び、読書に明け暮れる日々を送っていたのです。

将軍は、自分の子よりも、聡明な慶喜を気に入り、次の将軍は・・・??
と噂されるようになっていました。

そこへ・・・ペリーがやってくると長崎奉行から阿部正弘に知らせが届いたのです。

一生懸命働いていた栄一は、父に江戸に連れて行ってもらえることになり、嬉しそうです~~!!

「江戸だ~~!!江戸だ~~!!江戸~~!!」by栄一

ということで、少年から青年になりましたね~~!!
私は、この少年→青年には、トラウマがあって・・・( ̄▽ ̄;)
もちろんそれは、八代将軍吉宗です。
あの伝説の、”包帯とったら西田敏行事件”ですΣ( ̄ロ ̄|||)
ツッコミどころ満載でしたが、あの作品はとっても好きだったから~~( ̄▽ ̄;)!!
今回は、同じようにかぶってましたけど・・・( ̄▽ ̄;)スッと代わりましたね。
獅子舞も良い感じでした。

今回は、第2回です。
第2回ですが、視聴率とかなんだかんだといろいろと言う人もいるようです。
私は女ですが・・・男尊女卑なのか・・・大河ドラマは男性の主人公が好きです。
やっぱり、血湧き肉躍る作品が好きだからです。
なので、ダイナミックに戦国時代を描いてくれた作品は大好きです。
ちなみに、女性が主役なものでは「八重の桜」が好きかな??

おまけに、イケメンで推している作品は??と思ってしまうきらいがあります。
言わずもがな・・・あのイケメン大河「花燃ゆ」ですよ・・・Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

そしてそれは「龍馬伝」だったとしても・・・
もともと坂本龍馬さんはあまり好きではない(っていうか、新撰組派)なので思い入れがないし、もともとの龍馬も、福山雅治さんも飄々している感じがするのでなんだかなあ・・・って思っちゃうんです。
「龍馬伝」で言うなら、同じイケメンでも泥にまみれた佐藤健さんの岡田以蔵が良かったですね。
そんな感じの好みです。

おまけに、皆さんにあまり評価の高くない「平清盛」は大好きです。
きっと、昔の人はお風呂にもあまり入らないし、画面が暗いとか埃っぽいと言われたけど、事実、江戸時代でさえコンクリートもないから埃っぽかったんですよ??
と思ってみたりして・・・変かな??

そして今回の「青天を衝け」、2回までですが、見てみて良い感じだと思いました。
今回、栄一が井戸に向かって叫ぶシーンは良かったです。
昔、腹が立ったら、井戸に向かって叫ぶ・・・こんな事良くしましたよね??
SNSで叫べないしな・・・
でも、今の人は、井戸なんて見たことないだろうからやったことももちろんないでしょう。
そんな若い子も観てほしい大河ドラマなんですよね。

話はそれますが、私が子供の頃に読んだ子供向けの本「ガラスのうさぎ」は、原作者さんが映画化、アニメ化、漫画化を嫌っていました。
でも、最近、映画になったように思います。
どうしてか??それは、最近の子が字で読んでも、防空壕とか、かまどとか・・・映像化しないとわからないものが多すぎるからというのが理由でした。

時代劇をテレビで見なくなって久しい・・・あ、「鬼滅の刃」は時代劇かしら??
そうね・・・アニメの方でやっているのかもしれませんね。

話は長くなりましたが、渋沢栄一、今はまだ若造で、お話も朝ドラのようですが、その活躍、実績はすごいですよ!!
起業家、福祉活動・・・人たらしで魅力的な人です。
そりゃあ、お札になる人です!!
ネタはそこらへんに転がっているんだから~~!!
尻上がりに面白くなると思っています!!

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1909年10月26日、日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、視察に訪れていた満州のハルビン駅で、韓国の独立運動家によって射殺されました。
東京・日比谷公園で行われた国葬には、40万人が参列し、激動の時代をリードした稀代の政治家の死を悼んだのです。

「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
 その次はおかかである」

おかかとは・・・伊藤の妻・梅子の事です。
つまり、日本初の内閣総理大臣婦人・・・最初のファーストレディです。
明治という新たな時代で、日本の近代化を推し進めた伊藤博文が有難く思った妻・梅子とはどんな女性だったのでしょうか?

本州と九州を隔てる関門海峡に面した山口県下関市・・・
その中心街に鎮座する9世紀創建の亀山八幡宮は、天下人豊臣秀吉が、朝鮮出兵の戦勝祈願をしたことで知られています。
そして、その境内には、かつてお亀茶屋と呼ばれる茶屋がありました。
ここで、伊藤博文と梅子が劇的な出会いをします。

1865年、亀山八幡宮のお亀茶屋に、うら若き18歳の梅子の姿がありました。
貧しい町人の娘だった梅子は、家計を助けるためにお茶子として働いていたのです。
そんなある日のこと・・・一人の青年が息を切らして駆け込んできました。
追われていたのです。
梅子がとっさに指さしたのは、ゴミ溜め・・・男はためらうことなく、そのゴミ溜めに隠れました。
すると・・・

「男が来なかったか??」
「あっちに走っていきましたよ」

「もう大丈夫ですよ」
「助かった・・・恩に着る・・・」

そう言って男は、長州藩の伊藤春輔と名乗りました。
後の伊藤博文です。
どうして伊藤は命を狙われていたのでしょうか?
伊藤博文は、1841年、周防国・束荷村で生まれました。
生家は貧しい農家でしたが、14歳の時に父が長州藩に仕える足軽の身内になった事で、伊藤も足軽として召し抱えられました。
17歳で、吉田松陰の松下村塾に入門すると、過激な攘夷運動に身を投じていきます。
敵を知るために、23歳の時、盟友の井上聞多・・・後の井上馨らと共に、密航という形でイギリスへ留学。
しかし、ロンドンについた伊藤たちが目にしたのは、想像をはるかに超えた近代国家の姿でした。

「これでは勝ち目がない・・・」と悟った伊藤は、開国派に転じ、英語や西洋文化を懸命に学びます。
そして、帰国すると藩にも開国を勧め、馬関戦争ののちには、イギリスで身に着けた英語を駆使して講和会議の通訳を務めます。
さらに、松下村塾の先輩・高杉晋作らと共に、下関の開港を画策・・・これが、伊藤が命を狙われる原因になったのでは・・・??といわれています。

長州藩は、本藩と呼ばれる萩藩と、支藩と呼ばれる長府藩がありました。
その中で、下関の大部分が長府藩でした。
長府藩としては、本藩の高杉や伊藤が下関を開港しようとしたことに、怒ったのです。
すでに、四国に逃げていた高杉同様、伊藤も対馬に渡ろうとしていたのですが、長府藩士に見つかってしまい、逃げていたのです。
そんなこととはつゆ知らず伊藤を助けた梅子でしたが、事情を知った後も伊藤の身を案じ、隠れ家として知り合いの土蔵を紹介・・・
時折食事を届けるなど、何かと気にかけたといいます。

2人は、お互いに惹かれあうようになります。
しかし、時は、激動の幕末・・・!!
1865年7月、英語が話せる伊藤らを長崎に行かせ、イギリス人貿易商のグラバーから武器を買い付けることにしました。
それによって離れ離れになってしまいました。
8月下旬・・・伊藤が下関に戻ってくると、梅子の姿が茶屋から消えていたのです。
梅子は、下関の置屋ににいました。
父親の借金のかたとして身売りされ、小梅という名前で芸者見習いをしていたのです。
思いがけない事態に、伊藤は肩を落としました。
会って話がしたいと置屋に行っても、見習い中の梅子は稽古に忙しくそれすらなかなかかないません。
思い悩んだ末、伊藤は梅子を見受けすることを決意します。
お金を工面し、置屋の主人に伝えたところ・・・

「梅子を伊藤様の本妻にしていただけるのならば、嫁入り支度もして差し上げましょう
 しかし、側妻ということであれば、せっかくですがお断りさせていただきます」

すると伊藤は、答えに窮してしまいました。
伊藤博文には、すでに奥さんがいました。
結婚していたのです。
松下村塾の先輩で、入江九一の妹のすみと、1863年に結婚していました。
すみは、伊藤の両親が伊藤の了承を得ずに迎えた妻でした。
当時、伊藤は江戸やイギリスなどに行っていて、実家に帰れず、すみとはほとんど顔も合わせていなかったのです。
伊藤の母・琴子は、すみを大変かわいがっていました。
母の期待を裏切るわけにはいかなかったのです。

とはいえ、梅子に対する思いは断ち切れず、すみとの離婚を決意します。
長州藩の実力者であった木戸孝允に、母親の説得を頼み、梅子を見受けします。
そして梅子は、伊藤とすみの離婚がまとまるまでの間、商家に預けられましたが・・・
そこで、伊藤からお願いされます。

「文が出せんから、字を覚えてくれよ」

貧しい家で育った梅子は、幼いころに手習いをさせてもらえず、読み書きがほとんどできませんでした。
藩の仕事で各地を飛び回る伊藤は、その先々から梅子と文のやり取りをするため、読み書きの勉強をさせたのです。
最初、伊藤は、仮名文字を使っていましたが・・・だんだん漢字で書くようになります。
猛勉強によって、難しい漢字も読み書きできるようになっていきます。
後に梅子は伊藤の代筆までできるようになりました。

1866年4月に結婚。
梅子は晴れて伊藤の妻となりました。
そして、下関で二人の新婚生活が始まりました。
英語の話せる伊藤は、長州藩の仕事で大忙し・・・
結婚した年の7月には、長崎でイギリス人貿易商のグラバーから蒸気船を購入。
さらに、翌月には別の蒸気船購入のために上海に渡ってしまいます。
この時、梅子19歳・・・
一人寂しく留守を守っていたわけではありません。
伊藤の知り合いの長州藩士たちが、宿屋代わりとしてひっきりなしに泊りに来ていました。
新婚の梅子にとっては知らない人ばかり・・・
しかし、宿の女将のように藩士たちをもてなしました。

梅子は「不逞の輩が家に来ても、自分が追い払う」といつも伊藤に言っていました。

結婚した年の12月、長女・貞子を出産・・・
しかし、伊藤はなかなか家に帰ってきませんでした。
新たな日本を作るため、江戸幕府を倒すために、各地を飛び回って暗躍していました。
伊藤は、京都の偵察に向かう際、白い粉を包み「これを着物の襟に縫い込んでくれ」と梅子に頼みました。
白い粉は、致死量のモルヒネでした。
当時の京都は、新選組が長州藩などの志士たちを血眼になって探していたため、捕まった時にこれを飲んで自決する覚悟だったのです。
梅子は、そんな伊藤の覚悟を黙って受け入れ、白い粉の包みを襟に縫い込んだといいます。
命を懸けて日本を変えようとしている夫を、私が支えるのだ・・・!!

1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還し、250年続いた江戸時代が終焉・・・
それと共に、伊藤梅子の人生も大きく変わりだしました。
大政奉還の翌年、住み慣れた下関から神戸に・・・。
博文と名を改めた夫が、廃藩置県まえに県となった初代兵庫県知事に任命されたためでした。
明治時代の神戸は、外国人の来る大切な土地でした。
それに相応しい人物・・・英語のしゃべれる伊藤の大抜擢でした。
しかも、当時の県知事は5万石以下の大名と同格の扱いで、農民出身の伊藤にとっては大出世でした。
支えてきた梅子の苦労も報われました。
まもなく次女・生子も誕生・・・順風満帆でした。

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翌年の1869年8月・・・長女・貞子が病死・・・

しかし、深い悲しみに暮れる梅子の側に夫の姿はありませんでした。
この時、新政府の大蔵少輔に昇進して東京にいたのです。
多忙のため、訃報を聞いてもすぐに神戸には戻ることができませんでした。
その後、梅子は生子を連れて東京に移り、伊藤と共に暮らしていましたが・・・
今度は伊藤が、欧米使節団に選ばれて、日本を離れてしまいました。
また留守番・・・
しかし、梅子には大仕事が残っていました。
一人故郷の山口に戻り、伊藤の盟友である井上馨の兄の長男・勇吉(2歳)を伊藤家に引き取ったのです。
親代わりとなっていた勇吉の祖母が無くなる間際に梅子に勇吉を託したためでした。

周囲の人々も、梅子の器量を認めていたのです。
海の向こうで勇吉を受け取ることを知った伊藤は、梅子に手紙を送っています。

「そなたの子としてお生同様に何も隔てなく育ててください」

その言葉通り、梅子に大切に育てられた勇吉は、後に博邦と改名し、伊藤の立派な後継者となりました。
1年9か月に及ぶ視察を終えて、日本に帰国した伊藤は、貨幣制度の導入、鉄道の建設・・・日本の近代化を推し進める政策を次々と実施します。
それらの功績が評価され、1878年、内務卿に就任します。
政治のTOPに立った伊藤が、外務卿の井上馨と共に力を注いだのが欧化政策でした。
開国の際に、欧米諸国と結んだ不平等条約・・・改正するためには、日本が西洋に負けない文明国になる必要があると考えたのです。
その欧化政策の象徴と言われたのが、1883年、日比谷に建てられた鹿鳴館です。
ここに、欧米の要人たちを招き、華やかな舞踏会を開催して日本の近代化をアピールしようとしたのです。
要人たちをもてなすのは、政府高官の妻や娘たちの仕事でした。
梅子もその一人でしたが・・・当時は、慣れない西洋文化に戸惑うばかり・・・。
梅子たちは、西洋人たちの嘲笑の的になってしまいます。
笑い者にはなりたくないと、誰もが舞踏会への参加をしり込みする中、一人気を吐いたのが梅子でした。
梅子は、英語の猛勉強を開始しました。
目が悪くなりながらも、英語で手紙が書けるまでになります。
そして、もうひとつ梅子が取り組んだのが社交ダンスです。
婦人たちを説得して、70人も引っ張り出し、大苦戦しながらも夫たちのため、日本のために練習に励みました。
梅子は子供たちに常々こう言っていました。

「人間、これが大事と思うう時には、真剣にやらなければなりません」

何事にも真剣に取り組み、社交界の華として鹿鳴館外交の一端を担った梅子に思いがけない依頼が舞い込みます。
当時、宮中で働く女官たちはまだ和装のままでした。
洋装を取り入れることになると、その制作を貴族出身でもない梅子が任命されます。
鹿鳴館で海外の貴賓を見てきたことからの抜擢でした。
梅子は、試行錯誤を繰り返し、女官たちの服を作り上げるのです。
日本政府の欧化政策には、梅子をはじめとした女性たちの奮闘が欠かせませんでした。

1885年12月、欧米諸国に習い、日本に内閣制度が発足。
初代内閣総理大臣に任命されたのが、梅子の夫・伊藤博文でした。
これによって、梅子は日本初のファーストレディに・・・
国家の顔・・・梅子は常に身だしなみを整え、首相官邸にやってくる欧米諸国の要人たちと流暢な英語で会話をし、日本人らしい心配りで人々を感心させたといいます。
こうした内助の功から、梅子は”賢夫人”と呼ばれるようになりました。

この頃、梅子の英語の家庭教師をしていたのが後に津田塾大学を創設する津田梅子・・・
津田は、アメリカの友人に向けた手紙の中で、母としての伊藤梅子をほめています。

「伊藤夫人は、子供に対してとても良い母親で、子供たち母親の言うことをよく聞き素直です」

ところが・・・
津田梅子の手紙にはこんな続きがあります。

「父の過ちや不道徳があっても問題ありません」と。

梅子の夫・伊藤博文には、過ちや不道徳があったというのですが・・・??
伊藤は、衣食住には興味がなく、金銭にも無頓着で、好きなものといえば、酒とたばこ・・・
そして、何よりご執心だったのが、女性でした。
特に芸者が大好きで、行く先々で手を出して、全く隠そうとはしませんでした。
芸者と芝居小屋に行った際には、芝居そっちのけでいちゃついていたため、役者から怒鳴りつけられたこともあったとか・・・。
新聞にも格好の餌食にされ、”明治好色一代男”といわれ、掃いて捨てるほど浮気相手がいたため箒というあだ名までつけられました。
遂には、見かねた明治天皇から・・・
「少しつつしんだらどうか」と苦言を呈される始末・・・
しかし、伊藤は開き直ってこう言ったといいます。

「とやかく申す連中の中には、密かに囲い者などを置いている者もいますが、私は公に許された芸者と遊んでいるだけです」

公然と芸者遊びをする伊藤は、浮気相手を自宅にまで呼んでいたようです。
しかし、梅子はそんな夫に腹を立てることなく、芸者に対し、「ようこそいらっしゃいました」と笑顔で出迎え、芸者の食事や着替えまで用意してやり、時には悩みまで聞いてやり、母親が病気だと聞くと伊藤に早く返してあげるように頼んだといいます。

しかし、伊藤は優しく、自分にとっての一番の女性は梅子以外の何物でもないと細やかでした。
夫の浮気に対して寛容だった梅子でしたが、すべてを許したわけではありませんでした。
それは伊藤が住み込みで働いていた若い女中に子供を産ませた時の事・・・

「あの子の人生を台無しにするおつもりですか!?」

女遊びにも、最低限のルールがあると、烈火のごとく怒りました。
梅子は伊藤が女中に産ませた子供を引き取って、自分の子供と一緒に育てました。
伊藤としては頭の上がらない大きな女性でした。

夫を寛容な心で許し、何があっても支え続けてきた梅子には、意外な趣味がありました。
花札です。
夫の伊藤は、かけ事を好まなかったので、花札が大嫌い・・・
そこで、梅子は、伊藤が寝た後、近所に住んでいた西園寺公望や井上毅などを家に呼んでは花札に興じていたといいます。
時には、目を覚ました伊藤に見つかってしまい、怒られることもあったようです。
それでも梅子は、終生、花札をやめませんでした。
梅子なりのストレス解消法だったのかもしれません。

伊藤梅子と夫・博文の間に生まれた子供は、3人だったと言われていますが、成人したのは生子一人でした。
しかし、用事の博邦や、伊藤が他の女性に産ませた子供も引き取って育てていたため、40代の梅子は多くの子供や孫たちに囲まれて育ちました。
そんな中、1894年日清戦争勃発!!
1万3000人以上の犠牲を出しながらも、清国に勝利した日本は、台湾と遼東半島を手に入れます。
国民は大いに歓喜し、二度目の総理大臣を務めていた伊藤の人気も高まります。
しかし・・・その翌年、日本のやり方を快く思わないロシア・ドイツ・フランスが遼東半島の返還を要求します。
伊藤はこれを承諾し、遼東半島を返還しましたが、日清戦争の勝利に酔いしれていた国民は、これを弱腰外交とし、伊藤を裏切り者とする者まで現れました。
伊藤が三国干渉を受け入れたのは、これを拒否すれば西洋列強の三国と戦争になると判断してのことでしたが・・・
苦渋の決断をしたその思いを、伊藤は梅子に手紙で打ち明けています。

「再び戦を始めて、数万の人を殺すよりも、土地を返還した方がよい
 わからず屋が喧しく騒ぐだろうが、儂は日本のためにこうしたのだ」

伊藤の心のよりどころとなっていた梅子・・・伊藤もまたそんな梅子を気遣い、普段は金品の贈答を嫌って何を送られても受け取ろうとしませんでしたが、梅子が盆栽いじりを趣味にするようになると、「妻が喜ぶから・・・」と、盆栽だけは受け取ったといいます。

その後、伊藤は・・・
1898年第3次伊藤内閣発足
1900年第4次伊藤内閣発足
1905年12月、韓国統監府の初代統監に就任します。
当時、日本は韓国を実質的な支配下に置いていて、韓国統監府はその統治機関として漢城にありました。
当然現地の反日感情は強く、伊藤は死を覚悟して韓国渡り、教育の振興や宮中の改革など統治政策に尽力していきます。
これまで明治政府の樹立、大日本帝国憲法の制定、内閣制度の確立、初代韓国統監に就任・・・
日本という国を背負い大役を果たしてきた伊藤・・・その激動の時を、陰に日向に共に生きてきた梅子でしたが、すでに還暦を過ぎていました。

韓国統監を退いても、海を渡る伊藤を見送らなければなりませんでした。
1909年10月26日、伊藤は満州のハルビンに到着します。
ここで、ロシアの大蔵大臣と会談し、満州や韓国についての日本の方針を説明する予定でした。
しかし、伊藤がハルビン駅のホームで出迎えを受けていると・・・
3発の銃弾が伊藤を襲ったのです。
撃ったのは、日本の韓国支配に反対する韓国人独立運動家・・・
伊藤は撃たれた後も、意識はありましたが手当の甲斐なく死亡・・・69歳でした。

梅子のもとに、夫の死を知らせる電報が届いたのは、それから間もなくのことでした。
一瞬狼狽したものの、梅子の目から涙がこぼれることはありませんでした。
どうして・・・??
伊藤はかねてから梅子に言っていました。

「自分は畳の上では
 満足な死に方はできぬ
 敷居を跨いだ時から、これが永遠の別れになると思ってくれ」

2人が出会った時も、伊藤は命を狙われていました。
それからも、常に危険と隣り合わせ・・・
夫が家を出るたびに、これが今生の別れになるかもしれないと言い聞かせてきました。
その覚悟があったからこそ、夫との突然の別れに涙を流さなかったのです。
しかし、梅子は伊藤が無くなったその日、こんな歌を詠んでいます。

国のため
 光をそえて
  行きましし
君とし思へど
 悲しかりけり

梅子は心の中で泣いていたのです。
その後、梅子は伊藤と離れていた滄浪閣を離れ、娘である生子の嫁ぎ先に移り住み、1924年4月12日、多くの家族に見守られながら77歳で亡くなりました。
激動の時代を駆け抜け、近代日本を作った伊藤博文を支えてきた日本初のファーストレディ・伊藤梅子・・・

「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
 その次はおかかである」

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