日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川秀忠

江戸時代に整備された五街道の起点・日本橋。
そのすぐそばに、按針通りと呼ばれる小さな通りがあります。
按針とは、中国船や西洋船の航海士のことで、かつてこの地に徳川家康に仕えた航海しの屋敷がありました。
航海士の名は、三浦按針・・・本来の名をウィリアム・アダムスという青い目のサムライです。

三浦按針の謎に迫る -家康を支えたイギリス人臣下の実像

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1564年、第5次川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が戦っていた頃。
後の三浦按針・・・ウィリアム・アダムスは、イギリス南東部ののどかな港町ジリンガムで生まれます。
高貴な生まれではなかったものの、イギリスの一般民衆の識字率が低かった当時においても、アダムスは読み書きを身につけていたことからそれなりの教育を受けていたと考えられています。
そして、12歳の時に、船大工に弟子入り。
厳しく仕事を叩きこまれ、24歳でようやく独り立ちしました。
しかし、その矢先、船大工の職をあっさりと捨てて英国海軍に入隊しました。
当時、小国イギリスに大国スペインが侵略して来るという情報が・・・
エリザベス女王の名で、英国海軍に協力する船と船員を募集しました。
アダムスは、航海術も学んでいたので、海軍に入ったのではないか?と言われています。
当時のイギリスは、スコットランドや北アイルランドとは連合していない人口300万ほどの小国でした。
一方、スペインは、ポルトガルを併合した世界最強の大帝国でした。
そんな両国が対立したのには、当時のヨーロッパの宗教問題が大きく関係していました。
共にキリスト教でありながら、ローマ教皇を中心とするカトリックと、そこから分離した改革派のプロテスタントが反目しあっていたのです。
その為、プロテスタント推進政策を掲げるエリザベス1世と、カトリック原理主義をとるスペイン国王・フェリペ2世が激しく対立。
大艦隊をもってイギリスに進攻しようとするスペイン軍に対し、アダムスは祖国を守ろうとエリザベス女王の呼びかけに応じて英国海軍に入隊したのです。
当時の海軍の名簿によれば、アダムスは前線に弾薬などを届ける貨物補給線リチャード・ダフィールド号の船長として参戦。
大激戦の末、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を退けて勝利を収めました。

しかし、英国海軍は、本隊を残して解散!!
止む無くアダムスは、イギリス~モロッコ間の貿易を行うバーバリ商会に就職します。
バーバリ商会にはもう一つの顔がありました。
それは、海賊です。
バーバリ商会がモロッコに向かう経路は、スペイン船やポルトガル船の主要航路と重なっていて、遭遇すれば船を襲って略奪行為を行うのが常となっていました。
そして、襲撃した船の積み荷の1/3が、船員に分配されました。
また、アダムスは、バーバリ商会に入社した翌年に結婚、1男1女をもうけています。
そんなアダムスが、どうして極東の日本に来ることとなったのでしょうか?

1597年、バーバリ商会は、モロッコ貿易の許可証が失効したことを理由に解散。
33歳になっていたアダムスは、再び職を失います。

「私のささやかな知識を活かす場所を見つけた」byアダムス

それが、オランダが開拓したアジア航路でした。

当時のヨーロッパの状況は、アジア貿易を行っていたのはスペインとポルトガルだけでした。
彼らは、アジアへの行路などを秘密にしていました。
しかし、イギリスと友好国であったオランダが、1595年にアジアへの進出に成功します。
そこで、オランダ人としてもアジアで貿易ができることが示されていました。
アダムスは、オランダが始めたアジア貿易で培った航海術を活かしたいと考えたのです。
1598年、オランダの貿易会社がアジア遠征を企画します。
アダムスはイギリスに妻子を残して、オランダ・ロッテルダムに渡ります。

1598年6月27日、オランダ・ロッテルダムを出航!!
大西洋を渡り、南米対立南端のマゼラン海峡を抜け、太平洋を渡ってアジアに来る予定でしたが、その航海は惨憺たる有様でした。
航海当初は風に恵まれて順調だったものの、まもなくビタミンC不足が原因とされる壊血病や熱病が船内で蔓延。
多くの船員が命を落とし、アダムスがのっていたホープ号の船長も病死。
すると、船員の配置換えで、アダムスはリーフデ号に移りました。
その後も苦難は続き、嵐も重なって船は一隻、また一隻と姿を消していきました。
最後の一隻となったリーフデ号は、それでも懸命に航海を続行。
出航からおよそ1年8カ月が過ぎた1600年3月16日に豊臣政権化にあった豊後国・白杵にたどり着きます。
長旅を耐え抜いた船員は、アダムスを含めてわずか24人。
みな、衰弱しきっていたため、臼杵の民衆が船の積み荷を盗もうと乗り込んできても何も抵抗できませんでした。
翌日には、臼杵の役人がやってきて、盗人を取り締まり、リーフデ号を検分。
すると、その報告を受けた臼杵城主・太田一吉は、首をかしげます。
貿易にやってきた商業船かと思いきや、リーフデ号には多くの大砲や武器が積み込まれていたのです。
太田は急いで、リーフデ号の報告書を作成します。
豊臣政権の長崎代官・寺沢広高に送付。
アダムスたちには処遇が決まるまでそのまま待機するよう命じました。
待機している間に3人の船員が衰弱死してしまいました。
残りの21人は、港近くの一軒家を逗留場所として与えられました。

ウィリアム・アダムス ??家康に愛された男・三浦按針 (ちくま新書)

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半世紀前に来日していたイエズス会士・・・カトリックの宣教師たちは、豊後の臼杵にオランダ船が来航したことを知ると、臼杵城に向かい城主の太田一吉にこう進言しました。

「あの船は海賊船です
 船員たちは即刻処刑すべきです」byイエズス会士

臼杵城下の民衆にも、「やってきたのは極悪な海賊だ」と、吹聴して回り、アダムスたちに敵意が向くように仕向けます。
さらに、日本でのイエズス会の活動を統括していたイエズス会司祭、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、長崎代官・寺沢広高に、

「来航した船は海賊船であり、船員たちはポルトガル人とすべてのキリスト教徒の敵である」と言いました。

この時代は、まさしく宗教戦争の時代でした。
イエズス会士はカトリック、アダムスたちはプロテスタントでした。
プロテスタントはイエズス会士たちから見れば異端者でした。
改宗か、滅ぼさなければならない相手でした。
また、日本でのポルトガルの貿易の一部がイエズス会の活動資金になっていました。
もし、貿易独占が破られてしまえば大きな痛手だったのです。
イエズス会士たちにとってアダムスたちは、異端者であり、イギリス船などの来日を牽制するためにも排除しなければならないと考えていました。

そうした状況の中、アダムスたちの処遇をゆだねられたのが長崎代官から報告を受けた徳川家康でした。
この時、家康は59歳。
まだ豊臣政権の五大老でした。
しかし、2年前の秀吉の死後、急速に勢力を拡大。
豊臣家の居城である大坂城に強引に入城し、秀頼を差し置いて政の実権を握っていました。
来日から9日が過ぎた3月25日、家康からの指示が伝えられます。

「主だった船員2人で大坂に来るように」

選ばれたのが、ウィリアム・アダムスとオランダの商人ヤン・ヨーステンでした。
こうしてアダムスとヨーステンは、大坂城へ!!
そして、3月30日、自分たちの置かれれている状況すらわからないまま家康と対面しました。

「大王の宮殿は金箔が贅沢に使われた、非常に豪華なものだった」byアダムス

家康は、イギリスとオランダという見知らぬ国からやってきた二人に対し、身振り手振りで意思の疎通を図ろうとします。
上手くいかなかったため、ポルトガル語なら少しはわかるのではないかと、ポルトガル語が話せる家臣を呼んで通訳させることにしました。
アダムスたちの国が戦をしているのかと尋ねます。

「スペインとポルトガルとはしています
 しかし、他の国とはみな平和に付き合っています
 
 貿易によって日本にはない商品を、イギリスからもたらし、イギリスにはない商品を日本で購入したいのです」

次々と投げかけられる家康の質問に、片言のポルトガル語で懸命に答えるアダムスたち・・・
質疑応答は、真夜中まで続いたと言われ、政務に忙しい家康がこれほどの時間を費やしたことにアダムスたちに対する興味の深さが伺えます。

しかし、得体のしれない外国人に対する警戒心を解いたわけではなく、謁見後は牢屋に入れられてしまいました。
再び家康に呼ばれたのは2日後でした。
この日も家康は、アダムスたちを朝から晩まで質問攻めにしました。

「二度目の尋問後も牢屋に入れられた
 二度目の牢屋は前回よりも快適だった」

生きて帰れるかもしれない・・・と期待したアダムスたちでしたが、それから1カ月以上もお呼びがかからず、外の情報も一切入りません。

「はりつけにされて死ぬのだと、毎日のように思っていた」

この間、イエズス会士たちは、家康に
「リーフデ号の船員たちを活かしておけば、家康さまや日本の不利益になる」と、処刑を訴え続けていました。

「今のところ、彼らは余ばかりか、我が国の誰にも危害を加えていない
 そのため彼らを処刑するのは道理や正義に反する」by家康

と、退けます。
関ケ原の戦いの3か月ほど前のことでした。
アダムスたちに3度目の呼び出しがかかったのは、それから間もなくのこと。
牢屋に入れられてから41日目でした。
家康はこれまで同様、様々な質問をし、謁見が終わりに近づくとアダムスたちに

「仲間に会いたいか?」

と、たずねました。
当然、アダムスはうなずきます。
すると家康は、アダムスたちを開放し、堺へ向かわせました。
この時、家康は、リーフデ号とその船員たちを堺に移動させていました。
アダムスたちが涙を流して再会を喜んだのは言うまでもありません。
さらに家康は、船内にあったアダムスたちの所持品が盗難によって無くなっていることを知ると、現在の8億円相当の金銭を与えました。

三浦按針 その生涯と時代

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家康がアダムスたちを手厚く労ったのは・・・??
日本の統治にアダムスたちが必要だったからです。
家康は、日本の対外貿易におけるポルトガルの独占を快く思っていませんでした。
貿易の自由競争による輸入価格の低下を狙っていました。
日本の国内産業が潤うように・・・!!

そこで、アダムスたちを仲介して、ポルトガル以外の国とも貿易を行おうとしたのです。
当時の家康の政治基盤はまだ脆いものでした。
そこで武器の供給が非常に重要となっていました。
現に、リーフデ号には武器がぎっしりと積まれていました。
武器の供給源になることも期待していたのです。
後に大坂の陣ではアダムスたちを通じて武器を手に入れています。

1600年6月16日、徳川家康は、天下取りのライバルになりかねない会津の上杉景勝を討つため、大坂城を後にしました。
これに伴い、ウイリアム・アダムスたちを乗せたリーフデ号も浦賀に移動。
リーフデ号に積まれていた武器を、会津で使うためだったと言われていますが、会津討伐は中止に・・・。
アダムスたちはそれから2年間、家康からの命令が下されずほったらかしにされてしまいます。
彼はその間、日本語を習得。
政局が落ち着くと、アダムスは再び家康から呼び出されるようになり・・・

「小型船を一隻作ってくれぬか」by家康

船大工をしていたのは昔のこと・・・
アダムスは、依頼を受けるべきか悩みます。
造船を請け負うこととなったアダムスは、伊豆の伊東へ。
海に面し、木材を調達しやすい山にも近い伊東は、古くから造船が盛んでした。
船大工も多く、造船技術の伝授が狙いでした。
完成したのは、80トンほどの西洋式帆船
伊東まで見学にやってきた家康は、たいそうご満悦で、アダムスを褒め称え、今後は側近となって常に側にいるように命じました。
以来、アダムスは、好奇心旺盛な家康に西洋の学問や技術を教えるブレーンとなりました。
その蜜月関係は、家康が生体将軍に任命され、江戸幕府を開いてからも変わらず、アダムスに厚い信頼を寄せていました。

新しい妻を娶り、家族を作ったアダムスでしたが、イギリスに残した妻子を忘れることはできませんでした。
来日から5年が過ぎたある日、家康に帰国を願い出ますが・・・家康は機嫌を損ねてしまいました。
その後、アダムスは、家康からもう一隻船を作ってほしいと依頼され、120tの洋式船を作ります。
日本の海岸線沿いを測量し、海図も作成しました。
すると家康は、アダムスを日本に引き止めるという意味も含めて異例ともいえる褒美・・・それは旗本という身分を与えました。
大小の刀と三浦半島の逸見・・・約250万石が所領として与えられました。
そして、この地名にちなんで、三浦按針と呼ばれるようになりました。
三浦半島の航海士という意味で、江戸・日本橋にも屋敷を与えられたアダムスは、いつでも登城できるようにそこで過ごすことが多かったといいます。
江戸を闊歩する青い目のサムライ・・・人の目を引いたことでしょう。

アダムスは、航海士などの経歴と幅広い知識から家康の外交顧問を務めるようになりました。
時にはその発言が、日本の命運を左右したことも・・・
1611年、来日したスペイン使節のセバスチャン・ビスカイノが本国の鉱山技術を提供すると申し出ると、家康はその申し出に対し、キリスト布教の許可と江戸湾測量の許可を出しました。
それを知ったアダムスは、家康に・・・

「スペイン人が江戸湾を測量する目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するためです
 私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許しません」

そう止めても、

「今更断るのは面目が立たん、たとえ攻め込まれても、対抗する兵力は十分ある」

と納得しません。

「宣教師を送り込んで、その国の民衆をキリスト教に改宗させ、その後スペイン人がキリスト教徒と共謀して国を乗っ取るのが奴らの策略なのです」

アダムスは必死に訴えました。
これに心打たれた家康は、スペインとの外交に消極的となり、さらに、
1612年、家康が直轄地でのキリスト教禁止令を発布します。
この家康の決定には、アダムスの助言が大きくかかわっているといいます。
もしもアダムスが家康を諌めていなければ・・・南アメリカのインカ帝国のように日本もスペインの植民地となっていたかもしれません。
スペインとの外交には苦言を呈したアダムスでしたが、母国のイギリスにはアジア貿易の拠点・イギリス東インド会社に手紙を送り、日本との外交を働きかけました。
それが実を結んだのは、1613年。
徳川と豊臣の最終決戦・大坂の陣の前の年でした。
イギリス船・クローブ号が肥前国平戸に来航・・・日英貿易が始まったのです。

家康とウィリアム・アダムス

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アダムスは、イギリス船が来航したことによってイギリスに帰りたいという思いが再燃します。
そんな時、家康から呼び出しが・・・!!
決意を固めたアダムスは、所領を許された際の朱印状を差し出し、深々と頭を下げてこれまでの厚遇と感謝の意を述べ、所領をお返ししてイギリスに帰りたいという思いを伝えます。
すると家康は、
「貴殿のこれまでの行いと忠実な奉仕に鑑みると、その願いを拒否することは不当であろう」
と、帰国を認めました。

来日から13年目の1613年。
三浦按針ことウィリアム・アダムスは、徳川家康から帰国の許しを得たものの、結局本国イギリスに帰ることはありませんでした。
大きな要因だったと言われているのが、イギリス船クローブ号の総司令官を務めるジョン・セーリスとの不仲です。
イギリス使節でもあったセーリスは、家康との仲介役を務めるアダムスと共に過ごすことが多かったのですが、2人は馬が合わず、激しく口論が絶えませんでした。
その為、アダムスは、セーリスとの長旅は無理だと考え、

「もう少し現金を貯めてから帰国する」

そう言って、乗船を断わったのです。
アダムスは、日本では殿さまでしたが、イギリスでは一介の船乗りでした。
そしていつでも帰れるという安心感・・・。

日本にとどまったアダムスは、平戸に設立したイギリス商館で働きはじめ、琉球やシャムまで自ら足を運び貿易を行うようになります。
すると家康は、アダムスを呼び寄せてこう伝えます。

「航海などに出ず、我が国にとどまってくれぬか
 知行が不十分ならば加増しよう」

家康は、再びアダムスを手元に置きたいと考えていました。
しかし、新たな道を歩み始めていたアダムスは、丁重に辞退。
これが二人の最後の対面となりました。

大坂夏の陣で豊臣を滅ぼし、徳川政権を盤石なものにした家康が、1616年4月17日この世を去ったのです。
幕府の実権は、2代将軍秀忠が掌握・・・これがアダムスの運命を変えます。
秀忠は、家康の側近たちから距離をとり、独自の政治を始めました。
中でも違いが大きかったのが外交面でした。
家康がヨーロッパ諸国との貿易を奨励したのに対し、秀忠は、京都・大坂・堺で外国人が日本人に商品を売ることを禁止します。
それまで特に決まりのなかった外国人の居留地を、江戸から遠く離れた長崎と平戸に限定しました。
さらに、家康の朱印状があれば日本のどこでも入港が可能だったのに対し、秀忠は長崎と平戸に限定。

当然、アダムスは納得できず、幕府の高官に外交の重要性を訴えましたが、全く聞き入れてくれません。
秀忠とは会うこともままならず、ついには外交担当からも外されてしまいました。

失意のアダムスは、帰国の機会も得られないまま平戸で家康の死のわずか4年後・・・
1620年4月24日、ウィリアム・アダムス死去・・・青い目のサムライ・・・56歳でした。
アダムスの遺産は、現在の価値で4000万円ほどでした。
その半分をイギリスの妻子に、残りの半分を日本の子供たちに与えると遺言に残していました。

そしてこれ以降、日本は鎖国に突き進み、アダムスが開いたイギリスとの国交も閉ざされてしまいます。
家康との運命的な出会いを果たし、故郷から遠く離れた日本でサムライとなったウィリアム・アダムス。
その人生は、時代の荒波に翻弄された数奇なものでした。

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「偉大なる父親を持つ2代目は辛い」

よく言われることですが、それは徳が分けでも同じです。
江戸時代2代将軍・徳川秀忠・・・
父・家康のようなカリスマ性を持たず、目だった武功をあげることもできなかったため、ダメな2代目という烙印を押されてきました。

「秀忠はあまりに律儀すぎる
 人は律儀のみではならぬものだ」by家康

側近はこれを秀忠に伝え、殿もたまにはほらを吹かれた方がいいのでは・・・と、進言しました。
すると・・・

「父上だからホラを吹いても許されるのだ
 何事も成し遂げていない私がホラを吹いてどうする」by秀忠



1579年4月7日、徳川秀忠は、当時三河と遠江を支配していた家康の三男として浜松城で生まれました。
家康が38歳の時の子で、幼名は長松。
母は側室のお愛の方。
美人で聡明だったため、家康から深く寵愛されたといいます。
三男の秀忠が家康の後継者となったのは・・・??

もともと、家康の跡継ぎと目されていたのは正室・築山殿との間に生まれた長男の信康でした。
剛直で武勇に優れて、跡継ぎとして申し分なかったのですが・・・秀忠が生まれた年に、家康から切腹に処せられ、21歳の若さで死去。
家康が切腹を命じた理由については・・・当主の座を奪おうとしていた信康を、家康が先手を打って亡き者にしたと考えられています。
長男の信康が亡くなりましたが、秀忠の上にはまだ6歳上の次男・秀康がいました。
しかし、秀康は、家康が築山殿の次女に手を付けて産ませた子だったため、築山殿の目を気にする家康から愛情を注いでもらえず、3歳になるまで対面すら叶わなかったといいます。
そして、17歳の時、北関東の大名・結城氏に養子に出され・・・結城秀康です。

秀忠の幼少期は不明です。
しかし、戦国時代から江戸時代中期の人物列伝「名将言行録」によれば、ある日、秀忠が家臣による書物の朗読に耳を傾けていた時のこと・・・突然、巨大な牛が障子を突き破って部屋に飛び込んできました。
過信は慌てふためき悲鳴が上がりましたが、秀忠は顔色一つ変えず

「かまわぬ、読み続けよ」

家康に与する武将たちはこの話を聞いて、

「度量の大きさは家康公に勝るとも劣らない」

と、秀忠を褒め称えたといいます。


また、秀忠に大きな影響を与えたと言われているのが、乳母を務めた大姥局・・・
大姥局は、今川義元の人質になっていた頃の家康の世話役でした。
その人柄を高く評価していた家康が、秀忠の乳母にしようと浜松城に招いたといいます。
秀忠の乳母となったとき、大姥局はすでに50代半ばでした。
その役目は、乳を与えることではなくて教育係だったと言えます。
大変聡明で、慈悲深かったため、高く慕われました。
秀忠は、決して驕ることなく謙虚さを身につけていきます。

秀忠・・姉さん女房を娶る
1595年9月、17歳になった秀忠は、豊臣秀吉の肝いりで結婚。
妻となったのは、織田信長の姪で秀吉の寵愛を受けていた淀の方の妹・江です。
秀忠より6歳年上で、3度目の結婚、出産経験がありました。
酸いも甘いもかみ分けた姉さん女房のお江。
お江と結婚したことで、秀忠は秀吉と相婿・・・姉妹の夫同志となりました。
豊臣家と密接な関係となりました。
この結婚の2年前に、淀の方が秀吉の嫡男の秀頼を生んでいたため、秀吉は、秀忠を秀頼の補佐役にしようと考えていました。
徳川家と豊臣家を結びつけるキーマンとして大きな期待を寄せられていた秀忠・・・
しかし、この3年後、天下人・秀吉が62歳でこの世を去ると、状況は一変します。
父・家康が、天下取りへ・・・!!



秀忠・・・大失態をさらす
1600年9月、徳川家康の三男・秀忠は、わき目もふらず中山道を西へと急いでいました。
どうして・・・??
話しは2か月前に遡ります。
天下取りを目論む父・家康と、豊臣の世を守ろうとする石田三成の対立が激化、京都にある徳川方の伏見城を三成に与する反家康陣営(西軍)が襲撃。
三成蜂起の報せを遠征先の下野国で聞いた家康は、これに対抗するため自らは江戸を経由して東海道で、息子の秀忠には中山道で西へ向かうように命じます。
22歳の秀忠にとって、これが実質的な初陣でした。
その為、家康は精鋭が揃った3万8000の徳川本体を秀忠に預けました。
家康はこの戦いで、後継者である秀忠の存在を、広く世に示そうとしました。
秀忠が必ず活躍できるように万全の態勢を整えていました。

跡継ぎとしての重責を背負った秀忠は、父の期待に応えるべく、8月24日に宇都宮城を出立。
一方、家康は東軍の先鋒を出陣させたのち、江戸城で体制を整え、9月1日に出立。
東海道を進み、9月11日に清州城に入城します。
この時、石田三成が西軍の主力は美濃国の大垣城に入っていたため、東軍の先鋒たちは、家康の到着を待って大垣城に総攻撃をかけようとしていたのです。

家康は、「風邪を引いた」と嘘をついて、出陣しませんでした。

先に出立したはずの秀忠がまだ到着していなかったのです。
この時、秀忠は、清州城の春か手前、信濃の上田城付近にいました。
上田城主の真田昌幸が、次男の信繁(幸村)が共に西軍についたため、まずは上田城を落として西上しようと考えていました。
あくまでも家康の姪を受けて上田城を攻めていました。
3万8000の大軍を擁すれば、3000ほどの兵しかいない真田軍など簡単に攻略できると考えたのです。
しかし、ことは家康の思惑通りにはいきませんでした。
9月1日に中山道を外れて上田城に向かった秀忠は、その2日後、真田昌幸のもとに降伏を求める使者を派遣・・・
すると昌幸は「剃髪して降伏する」と泣きついてきたため、秀忠は昌幸たちの助命を約束します。
ところが・・・そのわずか2日後、

「あれは嘘じゃ、実は戦の仕度を整えておった
 兵糧の運び入れが済んだので、いつでも戦いに応じよう」by昌幸

まんまと騙された秀忠は、激怒して上田城を攻撃!!
当初は兵力で大きく勝る秀忠軍は優勢でした。
敵を引き付けてから一斉攻撃を仕掛ける真田軍の戦略によって形勢は逆転。
秀忠は次々と兵を討ち取られ、上田城を落とすことができませんでした。
この時が秀忠の初陣でした。
真田親子の方が一枚も二枚も上手でした。
しかし、それだけではなく、多くの精鋭が付き従っていた秀忠軍・・・
秀忠に統率力がなかったためか、一枚岩になれなかったのです。
それが、苦戦した原因でした。
そんな中、西軍との決戦が迫っているという知らせが届きます。
こうして9月11日、秀忠は中山道に戻り、西上を再開したのですが・・・真田軍の追撃を警戒しての進軍は、速度が出せず、しかも、途中の河川が増水し、渡るのに時間がかかってしまいます。
焦った秀忠は、「我だけでも先に進まねば・・・」と、わずかな兵のみで先を急ぎます。
しかし、秀忠がまだ信濃国をひた走っていた9月15日午前8時ごろ、美濃国の関ケ原において、東西両軍が激突!!
しかも、戦いは、先陣を切った家康の四男・松平忠吉の抜群の働きや、西軍・小早川秀秋の突然の寝返りなどによって、わずか半日足らずで東軍の勝利に終わってしまいました。
その為、秀忠は、天下分け目の大事な戦いに間に合わなかったのです。

勝利した家康は、近江国の大津状に入ったのですが、そこに秀忠がやってきたのは、戦いが終わって5日後の9月20日。
秀忠は家康に面会し、遅れた理由を説明して許しを乞おうとします。
しかし、秀忠への怒りが収まらない家康は、「気分が悪い」といって、面会を許しませんでした。

秀忠が家康に激怒されたのは、戦いに遅参しただけではありません。
先を急ぐあまり、軍勢を置き去りにしたこと・・・これも原因でした。
結果として東軍が買ったからよかったのですが、もし負けていれば、少数の兵しか連れてこなかった秀忠も討ち取られてしまうかもしれません。
秀忠は、そこまで考えて動く古語が出来なかったために「大将としての資質に欠ける」と激怒されたのです。

この後、家臣の弁明などによってなんとか許された秀忠・・・
家康は、「秀忠が跡継ぎでいいのか」と悩みます。
5人の重臣たちに、「どの子に家督を譲るべきか」と、相談したと言われています。
その結果・・・
無回答・・・・・1名
次男・秀康・・・1名
四男・忠吉・・・2名
三男・秀忠・・・秀忠付きの家老・大久保忠隣

だったのです。

どうして秀忠が跡継ぎとなったのでしょうか??
この時、秀忠を推した大久保忠隣が家康に進言した言葉が、秀忠を口径の座に留まらせました。

「天下を治めるためには武勇よりも文徳が大事
 後継者は知勇と文徳を兼ね備えた謙虚な人柄の秀忠様しかいない」by大久保忠隣

家康も納得し、秀忠を後継者としました。



秀忠・・・2代将軍になる
1603年2月、徳川家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
そして、そのわずか2年後、27歳の秀忠が家康の後を継いで将軍となりました。
このあまりにも早い将軍職の交代は、豊臣の世が終わり徳川家が政権を担っていくのだと天下に知らしめるためでした。
家康は大御所と呼ばれるようになります。
2年後には江戸城も秀忠に譲り、駿府城に移りました。
関ケ原の戦いに遅れたという大失態はあったものの、なんとか無事に家康の後を継ぐことができた秀忠・・・その後も幕府の実権を握っていたのは家康でした。

秀忠・・・家康の傀儡になる
1605年、徳川秀忠が2代将軍に就任。
先代の家康は、江戸を離れ駿府城に移ります。
ただ・・・隠居をしたわけではなく、駿府においても政を行い続けました。
この頃の江戸幕府には、将軍・秀忠のいる江戸と、大御所・家康のいる駿府という2つの政庁があったのです。

二頭政治、二元政治ともいわれますが、実際は、圧倒的に家康が上でした。
江戸幕府の実権は、駿府の家康が完全に掌握していました。

その政権運営は・・・?
秀忠のいる江戸城には、秀忠付きの家老・大久保忠隣の他、家康の腹心・本多正信など家康譜代の重臣たちを置きました。
家康の駿府城には、新参の官僚と僧侶・儒学者・豪商・外国人などで構成された政策集団を置きます。
そして、そこで家康たちが発案、検討した大名統制政策や、外交方針を、江戸城にいる秀忠と重臣たちに伝え、実行させたのです。

「今はただ父上の仰せのままに」by秀忠

秀忠は家康の性格やふるまいを研究していました。
秀忠は、家康になりきることで家臣たちの信頼を得ようとしました。

秀忠・・・汚名返上を狙う
関ケ原の戦いに間に合わなかったことが負い目となっていた秀忠でしたが、30代半ばでようやく汚名返上の好機が・・・
徳川家と豊臣家の最後の戦い・・・大坂の陣です。
莫大な資金力を有し、秀吉恩顧の大名たちもいまだ健在の豊臣家を危険視していた家康は、1614年10月11日秀吉の嫡男・秀頼のいる大坂城を攻めるため、20万の大軍を率いて駿府城を出立。
23日には二条城に入りました。
一方、秀忠は、江戸城を留守にする準備に手間取ってしまい、家康が二条城に入ったその日に、ようやく6万の兵と共に出陣、その際、家康の側近へ書状を送っています。

「私が到着するまでは、開戦を待ってほしいと父上に伝えてくれ」

関ケ原の二の舞だけは避けたかったのです。
その後も秀忠は、同様の書状を何度も送りつつ先を急ぎます。
秀忠は、馬廻役や歩兵に240人ほどの剣客自慢を選抜、

「遅れずについてきた者には褒美を与える」

といって先を急がせました。
最後まで遅れずについてきた者は30名ほどでした。

二条城でこれを知った家康は、

「人馬が疲弊すると、統率が取れなくなる
 無茶はするな」

と、秀忠の申し伝えましたが、従順な秀忠もこの時ばかりは父の言葉を黙殺。
わずか17日間で6万の兵を京都まで進めました。
そして、11月19日、大坂冬の陣開戦!!
20万ともいわれる徳川軍に対し、9万の兵しか持たない豊臣軍は、大量の鉄砲で応戦します。
家康はこれを予測し、大量の鉄盾を作らせていましたが・・・
秀忠は、「鉄の盾など必要ない」と、受け取りませんでした。
この大坂の陣が汚名返上のラストチャンス・・・!!
家康の庇護下にいると思われたくなかったため、鉄盾を受け取らなかったのです。

一進一退となった冬の陣・・・両者の和睦によって集結します。
しかし、翌年5月、大坂夏の陣!!
汚名返上を果たしたい秀忠は、激戦地を希望!!
家康が首を縦に振ることはありませんでした。
その理由は・・・??
跡継ぎの秀忠を危険にさらしたくはなかった
豊臣家との決着を自分の手で付けたかった
などといわれています。

激闘の末、徳川軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。
結局、秀忠はこの戦いでも目だった武功をあげることができなかったのです。
それから間もなくして秀忠の側近にこう伝えます。

「これからは何事も秀忠が決めよ
 わしに伺い立てする必要はない
 江戸で決めたことを駿府に伝えてくれればよい」

家康の引退宣言でした。



秀忠・・・豹変する
大坂夏の陣の翌年・・・1616年3月。
75歳の徳川家康は病の床にいました。
そして、2代将軍の秀忠を、枕元に呼びこう問いかけます。

「わしが死んだら天下はどうなると思うか」by家康

「乱れると思います」by秀忠

この答えを聞いた家康は、満足げに一言

「ざっと済みたり」・・・おそらく「そう思っていればよろしい」という意味ではないかと思われます。
再び天下が乱れることを覚悟していれば、本当に転嫁が乱れた際に慌てずに対処できるそういうふうに家康は考えていました。
翌月・・・4月17日、徳川家康は波乱の人生に幕を下ろしました。
そして、秀忠が名実ともに幕府の頂点に立ったのですが・・・家康の陰に隠れていた頃のダメな2代目から豹変・・・苛烈な大名統制をはじめました。
まず秀忠は、実弟の松平忠輝を改易・流罪に処します。
忠輝は、大坂夏の陣に遅参して、十分な働きが出来ずに怒った家康から謹慎を申し渡されていましたが、秀忠はそれでは生ぬるいとして忠輝の所領を取り潰し、伊勢国に流したのです。
不届き者は、身内でも許さないという見せしめでした。
さらに、関ケ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献した福島正則に対し、居城を無断で修築しただけで安芸・備後50万石を没収、正則には弁明の機会すら与えませんでした。
その後も秀忠の大名統制は続き、親藩や譜代の大名でもお構いなし、取り潰した大名家41家、没収した石高は439万石にのぼりました。

秀忠は、自分に家康のような才覚やカリスマ性が無いことをよくわかっていました。
そのため、父のようには諸大名と統制できないと考え、力で抑え込む方法を選んだのです。
秀忠には、家康にできないことができました。
家康は、いろんな人物に恩もあり大名統制に躊躇があったのです。
しかし、秀忠にはしがらみが一切なく、幕府のためと割り切って大鉈を振るうことができました。
秀忠の大名統制によって、将軍の権威は高まりゆるぎない幕府の基礎を作り上げました。



秀忠・・・幕府の安定を図る
苛烈な大名統制によって将軍の権威を高め、江戸幕府の基盤を堅固なものにした秀忠。
さらに秀忠は、将軍と一握りの側近によって行われていたそれまでの政治体制を改め、集団合議制を採用します。
これによって、将軍の才覚に左右されない安定した政治ができるようになり、幕府の寿命を大きく引き伸ばしました。
カリスマ性のない時分では、父のようなトップダウンは無理と考えたうえでの改革でしたが、それが功を奏したのです。
また、秀忠は中国船以外の外国船の入港地を平戸と長崎に限定します。
キリスト教の排除に力を注ぎましたが、これがのちの鎖国政策の基礎となりました。
秀忠は、戦国の世を生き抜いた名将、猛将をつねに近くにおいて、彼らの言葉に謙虚に耳を傾け、政について貪欲に学びました。
その性格は、実直で非常にまじめでした。
生誕の日に労われても・・・

「将軍たるものは、常に己を慎み、死ぬ瞬間まで政を行い続ける義務があるのだ」

その思いは、病になっても少しも変わらず・・・

「天下の主が長生きを望んで政をなおざりにするなど畜生にも劣る行為だ」

そう言って、通常通り政務を行いました。

1622年、徳川家光が3代将軍に就任。
秀忠は45歳で大御所となりましたが、家臣たちの希望もあってそのまま政を続けました。
しかし、50歳を過ぎた頃から胸に激しい痛みを感じるようになり、元々悪かった片目を失明。
それでも秀忠は、毎日身なりを整え政務を行っていましたが・・・
病状は悪化の一途をたどり、ついには薬も受け付けなくなってしまいます。
死期を悟った秀忠は、家臣たちに

「わが命は幾ばくも無いが、今一度東照宮を詣でてここまで天下の安寧を保っていたことを父上に伝えたい」

秀忠は、父・家康に認めてもらいたいと、ずっと思っていました。
幕政に参加していた天海僧正が、見舞いにやってきて秀忠に問いました。

「大御所様(秀忠)は家康公のように神号をお受けにならぬのですか」

「我はただ先代の業績を守ってきただけで何の功徳もなく、神号などとんでもない
 人はとかく上ばかりに目が行くが、己の分際を知らぬのが一番おそろしいこと」by秀忠

そう言って、神となることを辞退し、1632年1月24日、54歳でこの世を去りました。
何事につけ、父・家康を尊重し、傀儡将軍となることを受け入れ、家康の死後は幕府の基礎をしっかりと築いた徳川秀忠・・・
この2代将軍の実直さ、謙虚さ、賢さがあったからこそ江戸幕府は260年以上続いたと言って過言ではありません。

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栃木県日光市にある日光東照宮・・・
”みざる・いわざる・きかざる”の三猿や、”眠り猫”・・・日本一美しい門と称えられる陽明門など、絢爛豪華な社殿軍は、世界遺産に登録されています。
そんな日光東照宮に主祭神として祀られているのが徳川家康です。
家康が亡くなったのは、今から400年以上前の1616年4月の事。
死の直前に家康が残した遺言により、日光に東照宮が造営されることとなりました。

どうして日光だったのでしょうか??
どうして東照宮と呼ばれるのか・・・??
家康の人生最後に抱いた夢とは・・・??



1600年、関ケ原の戦いを制したのち、1603年、62歳で江戸幕府を樹立し、初代将軍となります。
そんな家康が残した言葉があります。

「人の一生は 重荷を負うて 遠き道をゆくがごとし」

この言葉通り、家康の人生は波乱万丈のものでした。

三河の戦国武将の家に生まれるも、8歳で駿河の今川家の人質に・・・
桶狭間の戦いでは、その今川家の一員として戦います。
織田信長に敗北し、僧侶に説得されなければ自害する所でした。
その後、信長と同盟関係を築き、参戦した三方ヶ原の戦いでは”甲斐の虎”武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされて討死寸前!!
命からがら敗走し、その7年後、信長の圧力によって妻を殺害し、長男を自害に追い込むことに・・・
さらに、豊臣秀吉が天下人となると、敵として戦った秀吉に忠誠を誓わされたうえ、故郷三河から遠く離れた関東への転封を命じられます。
数々の苦難を乗り越え、筆舌に尽くしがたい屈辱に耐え抜き、家康は59歳にしてようやく天下の座を射止めたのです。

隠居の真相は・・・??

1605年・・・家康が亡くなる11年前。
家康は苦労して手に入れた将軍の座をわずか2年で息子・秀忠に譲ります。
自身は江戸を離れ駿府にある駿河城で隠居してしまいます。

表向きは、息子・秀忠に将軍の座を譲って家康自身は隠居した形を取っていますが、実際はそうではなかったのです。
江戸幕府は世襲によって代々徳川家が治めていくことを世に広く知らしめるためでした。
関ケ原の戦いで、家康が勝利できたのは、豊臣恩顧の大名たちのおかげでした。
秀忠率いる徳川軍本隊は、関ケ原の戦いには間に合っていませんでした。
豊臣恩顧の大名たちは、家康の次は豊臣秀吉の息子・秀忠が将軍につくべきだと考えていました。
豊臣家には政権は返さないという意思表示でした。
隠居は形だけで、江戸にいた秀忠は将軍見習いという形で実権は駿府城の家康で、大御所政治でした。

ここから家康は、徳川家が政権を未来永劫になっていけるために動くことになります。
1607年、家康が亡くなる9年前・・・
大改修を終えた駿府城に入ります。
この時、66歳。

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家康は江戸を離れ、移住先に駿府を選んだ理由について・・・

①幼年期、今川家の人質として過ごした思い出があるから
人質時代、家康は今川家の家臣で僧侶の大源雪斎から様々な教えを受け、駿府での思い出は必ずしも嫌なものばかりではありませんでした。
②冬が温かく過ごしやすい気候だから
③うまいコメがとれるから

とされています。

④その立地も好都合!!
南西に大井川・安倍川が流れ、北東には箱根山と富士川があり要害堅固で安心なうえ、東海道に近いため江戸への参勤で通る大名が立ち寄りやすかったからです。

しかし、実は、駿府を選んだ一番の理由は全く別のところにありました。

⑤大坂の豊臣家をはじめとする西国の豊臣恩顧の大名の動きに目を光らせるためでした。
彼等がいつ打って出るかわからないので、そうなった場合、家康自身が駿府で応戦するつもりでした。
江戸幕府を盤石なものにしたいと考えていた家康にとって、秀吉の求心力がいまだ強く残り莫大な財産を持つ豊臣家の存在は、大きな脅威だったのです。

そんな中、浅野長政・池田輝政・加藤清正ら豊臣恩顧の重鎮たちが次々と死去・・・
これを好機とみた家康が動きます。

1614年7月、家康が亡くなる2年前・・・
家康は、秀頼が再建した京都・方広寺の鐘に彫られた銘文に対し、家康の名を分断して使用した上、豊臣家の安泰のみが謳われているのはけしからんと、問題視したのです。
そこで、豊臣家に対し、
①秀頼が江戸へ参勤
②秀頼が大坂城から退去する
か、もしくは
③淀の方が江戸で人質となる

その3つの内からいずれのうちかを選ぶように通達します。
しかし、豊臣側はすべてを拒否!!
それを聞いた家康は、豊臣家を討つ大義名分ができたと20万人の兵を使って冬の陣・夏の陣と二度にわたって大坂城を攻撃!!
秀頼と淀の方を自害に追い込み(1615年家康が亡くなる1年前)、家康はついに豊臣家を滅ぼしたのです。
全ては、徳川の未来のために・・・!!

家康は朝廷に働きかけ、慶長から元和に改元します。
元和偃武を宣言!!元和には和を始めるという願いが込められており、偃武には武をやめるという意味です。
家康は、戦乱の世は終わり、これから平和な時代が始まると宣言しました。
泰平の世を作ることこそ、徳川政権の安定につながると考えたのです。

応仁の乱以来、戦乱の世は150年続いていました。
家康はどうやって太平の世を築いた野でしょうか??
息子の秀忠に将軍の座を譲り駿府城に移った家康は、多くの側近を江戸から呼び寄せます。
その面々は多士済々で政治・経済・外交に長けた者から宗教や文化に精通したものまでもが集まってきたのです。
その中には、儒学者・林羅山、僧侶・金地院崇伝、南光坊天界そして、商人・茶屋四郎次郎、イギリス人貿易商・ウィリアム・アダムスなどがいたといいます。
家康は駿府で何をしようとしていたのでしょうか?
それは、長期にわって徳川家が政権を担えるように新たな制度を作ろうとしていました。
その為に、様々な規則を文章化し、法令を整備することで、トラブルを未然に防ごうとしたのです。
戦国時代までは、力で決まっていた・・・これからはルールを決めて、法律に従って裁きをしていく・・・
力の論理から法の論理へ大きく制度を変えていったのです。



1615年、家康が亡くなる1年前、武家諸法度では、幕府将軍と大名の主従関係を明確化しました。
その内容は・・・
文武の教養を高めることの奨励化が始まり、日常生活の規律を重んじ、法令を遵守することなど、領主としての自覚を促しました。
また、居城を修理する際は、幕府に届けることを義務付け、勝手に婚姻関係を結ぶことを禁じました。
大名らが結託して謀反を企てないかの防止策でした。
さらに、贅沢を戒めるため、江戸への参勤する際の作法まで規定、違反したものには減封や改易などの処分が下されました。

そして、天皇と公家に対しては、禁中並公家諸法度を発布。
第1条では、天皇は学問の修養に専念すべきとし、朝廷で行われる儀式、儀礼を滞りなく行うことを心掛けるべきとしました。
同様に、公家たちにも学問に精進するように求めました。
命令に背くなど、素行の悪い者は流罪に処すると宣告、他にも朝廷内での席順、礼服や日常の衣装、昇進に関する規定まで設けました。
また、奈良、京都、関東の大寺院などに対しては、個別に寺院法度を下し、彼らの既得権益の多くを剥奪しました。
こうして家康は、朝廷や寺院の力を弱め、武家に権力を集中させることで徳川政権を安定させようと考えたのです。

法令の整備以外にも、様々な策が講じられました。
この頃、家康は、全国の沿岸で大規模な埋め立て工事を行っています。
公共事業です。
戦乱の時代、兵士をはじめ多くの人々が、戦で生計を立てていました。
平和な時代になると、そのほとんどが仕事を失ってしまったのです。
失業と貧困こそが、秩序を憎み乱世を求める人間を生み出すと考えた家康は、彼等に仕事を与えることで治安の乱れを防ごうとしたのです。
また家康は、儒教の普及にも尽力。
儒教の教えは、秩序を尊び保守的なうえ、君主に対する忠義や親に対する孝行をとく道徳思想が幕藩体制を維持していくのに友好的だったからです。

一説に、徳川家康は、豊臣秀吉のことを
”太閤様は分不相応に散在し、奢り高い人物であったから権力の継承が上手くいかなかった”
と考えていました。

そんな秀吉に比べ、家康の暮らしぶりは実につつましいものでした。
好んで食べたのは、麦飯や焼き味噌など質素なもの・・・
家臣たちにも常々
”生命は食 呑食物が大事なり”と説き、暴飲暴食を戒めたのです。
体の鍛錬も怠りませんでした。
家康一番の趣味は鷹狩り・・・

”山野を走れば自然と足腰が鍛えられる
 気分転換にもなるし、蜀が進むし、夜は熟睡できる
 これこそ一番の摂生”

また、病を癒す薬にも精通していた家康は、薬剤書を愛読し、自らも薬を調合。
晩年を過ごした駿府城内では、薬草まで育てていました。
しかし、そんな健康オタクにも、確実に死の影が・・・

1616年1月21日、家康は亡くなる3か月前・・・
この日、家康は、駿河で鷹狩りを楽しんでいました。
そこへ、家康の側近で商人の茶屋四郎次郎が京都からやってきました。

「近頃上方では何か珍しいことはないか?」by家康

「京や大坂で、鯛を榧の油で揚げたものが大変流行っておりまして、某もいただきましたが、大変良い風味でした」by茶屋四郎次郎

丁度献上された鯛があったので、家康は早速調理させ、たっぷりと鯛の揚げ物を堪能したといいます。
ところがその夜の事・・・家康が激しい腹痛に見舞われます。
駿府城に戻り、一度は回復しますが、再び痛みがぶり返し、寝込むようになります。
すると、死期を悟ったかのように、家康は謹慎の者たちに自分が亡くなった後のことを話すようになります。

これを聞いた息子の秀忠は、急いで江戸から駿府へとやってきました。
就くや否や、家康の近臣の者たちにこう命じます。

「大御所様が、御自分が亡くなられた後のことを許されても、御心が他のことに向くようにお慰めしなさい」by秀忠

しかし、その場にいた側近で僧侶の南光坊天海は、

「優れた君主というのは、自らの死を悟り、死後のことを前々から言い残しておくもの
 さすがの大御所様も、もう回復されないでしょう」by天海

これを聞いた秀忠は、ただただ涙に暮れたのです。



体調が崩れて2か月ほどたった3月末・・・家康が亡くなる半年前。
薬を飲んでもすぐに嘔吐してしまうほど家康の病状は悪化。
それでも家康は、ゆかりのある外様大名を駿府に呼び寄せ、自分の命間長くないことを伝え、愛用の品を遺品として渡しました。
加賀・前田利常、仙台・伊達政宗は、家康から北陸と東北の治安を守るように託され、感激のあまり涙を流したといいます。
4月に入ると、側近の中でもひときわ信頼を置く本田正純や僧侶の金地院崇伝・南光坊天海らを枕元に呼び、自分が亡くなった後のことを事細かく指示。

そして亡くなる前日の4月16日、家康は秘蔵していた刀を持ってこさせ、駿府町奉行・彦坂正光にこう命じます。

「死罪と決まったものがいるならば、この刀で試し切りしてみよ」by家康

彦坂はすぐに刑場に出向き、その刀を使って罪人を切り捨て駿府城に持ち帰りました。
彦坂から刀を受け取った家康は、まだ血に染まっている刀を二度、三度ふり・・・

「この太刀の威力をもって、子々孫々までも鎮護せん」by家康

自分が亡くなった後、試し切りした刀の矛先を西へ向けて家康の像とともに飾るように指示しました。
西国には外様大名が配置されていたので、謀反を起こす危険性がありました。
その危険性を強力な武力をもって抑える・・・その考えが見て取れます。
西国大名が謀反を起こさないように・・・!!
家康は、刀の切れ味を試したうえで、その威力を借りてまでも太平の世、そして自ら築いた徳川政権を守りたかったのかもしれません。

その翌日・・・家康は、息を引き取りました・・・75歳でした。

家康の死因は・・・??
現在では、鯛の天ぷらの食中毒ではないのでは??といわれています。
揚げ物を食べて腹痛を起こしたことからも、家康の死因は胃がん、もしくはすい臓がんだったという説が有力です。

徳川家康が、駿府城で息を引き取る半月ほど前、病に伏せる家康は、側近の本田正純、金地院崇伝、南光坊天海の3人を呼び寄せ、遺言を託していました。
家康が亡くなったのち、遺体を久能山に埋葬し、徳川家の江戸での菩提寺であった増上寺で葬儀を執り行い、その後故郷の三河・岡崎にある菩提寺・大樹寺に位牌を納め、1周忌が過ぎたのち、今の日光に小さなお堂を立てそこへ改葬し自分を祀れと指示しました。

増上寺と大樹寺は、家康ゆかりの寺院なのでわかりますが・・・
どうして久能山と日光だったのでしょうか??
久能山は、東海道沿いにそびえる山で、当時要害堅固な山城がありました。
”東海道の見張り砦”の久能山に、自分を埋葬させることで西国の外様大名に睨みを利かせようとしました。
亡くなる直前試し切りした刀も、矛先を西へ向けて久能山に納めることになっていました。
家康の亡骸は、亡くなったその日のうちに、駿府城から久能山へと運び込まれました。
不可解なのは、どうして急いだのか??
しかも、その日は雨が降っていました。
それは、”家康は死後神になった”ということを信じ込ませるためです。
江戸幕府を造った徳川家康という偉大な人物を伝説化し、その威光を使って、徳川政権をゆるぎないものにしようとしたのです。
家康の祟りを意識づけたのです。
それを信じ込ませるためには、”家康は死と同時に神に昇華した”というふうに思わせる必要がありました。
駿府城に遺体を長時間置いておくと、神になったという話に信憑性が無くなるため、急いで久能山に運んだのです。

久能山を選んだもう一つの理由は・・・
埋葬の地である久能山から真っ直ぐ西に向かって線を引くと、三河の鳳来寺に行きつきます。
鳳来寺は、家康の母・於大の方が、この薬師如来に願掛けをし家康を授かったという逸話が伝わる寺です。
その鳳来寺からさらに西へ向かって線を伸ばすと、家康が誕生した岡崎に・・・
岡崎には松平時代からの菩提寺・大樹寺があり、家康は遺言で位牌を納めるよう指示していました。
埋葬の地・出生祈願の地。生誕の地が一直線に並んでおり、家康は生誕の地から真東の久能山に埋葬するよう指示していたということ・・・これが意味するところは・・・??
東は太陽が昇る方角で、古代から神の世界とされてきました。
家康は”神として再生”するために生誕地の岡崎を真東に位置する久能山を埋葬地として選びました。

家康が久能山に埋葬された翌月・・・家康の跡を継いだ久能山に社殿を築くよう命じました。
丁度この頃、ある問題が・・・
神となった家康の神号をどうするのか・・・?
豊臣秀吉が亡くなった際は、”豊国大明神”で、大明神は、当時の新党の主流派吉田神道の中で最高の神格でした。その秀吉の時に習い、家康の側近であった金地院崇伝は大明神とするのが妥当だと主張します。
しかし、もう一人の側近で天台宗の僧侶・南光坊天海は、

「大権現とすべきである」

と、天台宗系の山王一実神道にのっとり大権現として祀るべきだと反対しました。
当時、秀忠や多くの幕閣が大明神を支持しました。
しかし、天海の一言が状況を一変させます。

「豊臣大明神は豊臣家の滅亡を救えなかった」

天海は、家康の称号を大明神とすれば、秀吉と同格となるばかりか、近頃滅亡した豊臣家と同じように徳川家も滅びるかもしれない・・・不吉であると主張したのです。
結局、秀忠らが1か月ほど熟慮した結果、展開が主張した””大権現””とすることが決定します。
これを受けた朝廷は、幕府に対し「神号」4案を提案します。
それが、”日本大権現””威霊大権現””東光大権現””東照大権現”です。


一説に、秀忠と幕閣らは、天皇や朝廷の権威を尊重し、日本大権現、威霊大権現は遠慮・・・
家康が東国を中心に実質的な政権を運営したとして”東照大権現”を選んだとされていますが・・・
その裏には、こんな目論見もありました。
東照の字を別の読み方にすれば、アヅマテラス・・・皇室の祖神がアマテラス・・・「東の天照大御神」として祀ったのでは・・・??
幕府は、皇族の神「天照大御神」と同格の神として家康を祀ろうとした可能性があります。
あくまでも一つの説ですが、家康を皇族の神と同格にすることで、幕府は天皇と並ぶ権威を手に入れたかったのかもしれません。

徳川家康が、死の直前に残した不可解な遺言のもう一つの謎・・・
どうして家康は、1周忌後日光に改葬することを指示したのでしょうか?
そこにも、家康の大きな狙いがありました。

①敬愛する源頼朝が深く進攻していた霊場だったから
古くから修験道の聖地とされていた日光・・・
しかし、江戸時代初めの頃は荒れ果てていたため、家康は生前から天海に命じ整備させていました。
早い時期から神聖な地・日光に自分が祀られることを考えていたのかもしてません。
②鬼門の誓い方角の北に位置していたから
その鬼門に自ら鎮座しようとしたのです。
さらに、北を象徴するものは・・・北極星。
北極星はほとんど動かないことから、古代中国では宇宙全体を支配する神・天帝を意味しました。

家康は、神として再生した後、宇宙の神「天帝」となって江戸幕府を守るために日光の地に改葬するように命じたと思われます。
秀忠の命により、日光に造営された社殿は、家康の神号から「東照社」と名付けられ、その後、東照宮と呼ばれるようになります。
そして、最初の埋葬地・久能山の社も久能山東照宮として多くの信仰を集めることになります。
二つの東照宮の位置関係にも仕掛けがあります。
久能山東照宮の本殿は、南南西向きに建てられています。
参拝者は北北東に向かって拝むことになります。
そこで、久能山からまっずぐに線を引くと・・・途中富士山を通り、日光東照宮に・・・。
久能山東照宮で参拝すると、おのずと日光東照宮に拝むことになるのです。

さらに、家康は富士山を不死の山として篤く進行していたので・・・
富士山を越えた日光で、死をも超越した永遠の存在になろうとしたのかもしれません。
江戸幕府、徳川家、ひいては日本の未来を見守るために・・・!!

現在の日光東照宮は、三代将軍・家光の代に造営されたもので、家康の遺言では小さなお堂を発てるようにとのことでした。
しかし、家光は、600万人以上を動員し、2000億円もかけて江戸幕府の権威の象徴として絢爛豪華な社殿を作り上げました。
毎年、徳川将軍家は家康の命日4月17日に東照宮を参詣し、何十万人ものお供を連れて参詣しました。
これを、日光社参と呼びました。
皆が1年に一度、泰平の世を築いた家康の思いを思い出し、平和な日々をかみしめるための大切なイベントだったのかもしれません。

人々の意識の中で生き続けることで、死後も偉大な影響を与え続けた徳川家康・・・260年以上にわたって江戸幕府が存続し続けることができたのは、そんな家康のおかげだったのかもしれません。

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1615年5月、大坂城落城。関ケ原の戦いから15年、徳川家康は大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を確かなものにしました。
そして12か月後、75歳で生涯を終えます。
しかし、それはただの12カ月ではありませんでした。
家康の終活・・・それは武力で勝ち取った徳川の天下を戦のない時代に永続させる仕組みづくりでした。
しかし、死を間近にした家康を、最後まで悩ませることがありました。
それは、徳川一門を揺るがしかねないある人物の存在でした。
徳川260年の天下を確かなものにした家康最後の選択とは・・・??



1615年5月8日、大坂夏の陣。
燃え盛る大坂城で豊友秀頼が自刃したことを知った家康は、直ちに京都に向かいました。
夜遅く二条城に入った家康は、すぐさま戦後処理をはじめます。
徳川実記によれば、京都入り2日後の5月10日には諸大名を引見。
真田信繁を討ち取った孫・松平忠直らを褒めたといいます。
大坂夏の陣での諸大名への論功行賞です。
6日後の5月16日には、公家衆、仏教各宗派と僧侶と会見。
6月2日、豊臣家から没収した金銀が届くと、すぐに御所に参内し献上しています。
都に凱旋した天下人・家康。
多忙を極める日々の中、着々と新たな時代を進めていました。
それが法度の作成です。

1614年4月、駿府城・・・
禅僧の金地院崇伝に武家、公家、諸門跡の膨大な資料を集めさせていました。
大坂の陣の2か月は、それらの資料を基にした法案を吟味する時期でした。
崇伝は、法案を家康に文面にして見せるのではなく読み聞かせていました。
崇伝の説明を受け、家康が疑問を投げかける・・・
禅問答のようなやり取りを何度も行っていました。
そして、大坂夏の陣からおよそ3か月、将軍・秀忠の名で次々と新たな法令が矢継ぎ早に発布されていきます。

1615年閏6月13日、一国一城令
大名は領国に城を一つしか持ってはならないとされました。
この法令は、西国の外様大名の軍事力を大幅に削減することを狙ったものとされています。
豊前・小倉の細川忠興の場合、領国内の城の破却に直ちに取り掛かったことを、家康の側近に伝える用伏見城の息子に伝えています。
細川が破却し田代の数は7つ。
門司城などことごとく破却し、小倉城と中津城のみを残すこととなりました。
わずか数日で、400以上の城を破却。

7月7日、大名を統制する13箇条の法令「武家諸法度」が申し渡されました。
”文武弓馬の道 専ら相嗜むべき事”で始まるこの条文、第6条では城を修復する際は、幕府に届け出をすること、新たな城を築くことは禁止とされています。
これは、大名たちの武力を徹底的に削減するとともに、法令を守らない大名を処罰することで幕府の権威を高める仕組みになっていました。
この家康の狙いにまんまとはまってしまった大名がいました。
安芸広島藩藩主・福島正則です。
福島は、洪水で破損してしまった石垣を修理しただけでしたが、届け出がなかったため、許可なく城の改築をしたとして改易、おとり潰しとなってしまいました。
家康の死から3年後のことでした。
武家諸法度の発布後、家光までの間に改易された大名・・・外様51家、親藩・譜代34家。
徳川幕府は法の権威を高めることで、支配を確立したのでした。
さらに7月17日、朝廷と幕府の連絡役の公家が呼ばれ、17条に及ぶ朝廷を統制する法令「禁中並公家諸法度」が申し渡されました。
1条から12条までが皇室と公家が守るべき規定、”1条の天子が治めるべきものは第一に学問である”・・・これは、天皇の政治関与を禁じた規定として知られています。
また、7条の武家の官職は公家の官職とは別のものとするという規定・・・これは、武家の序列の証である朝廷の官職を将軍が自由に任免できることを意味していました。
元禄時代に書かれた”日本海山潮陸図”。
石高と領主の官職が記されていますが、本来一人のはずの出羽守が各地に9人もいます。
ここに、朝廷官位を利用した巧みな武家の統制術がありました。
諸大名の序列は石高ではなく、官位でした。
石高が高くても、官位が低いと下座に置かれました。
だからどうあっても高い官位が欲しい!!
武家諸法度で厳しく行動を規制するのがムチなら、官職はアメ。
その利用価値を家康は見抜いていました。
7月24日には、仏教の各宗派ごとに法令「諸宗寺院法度」が発布されます。
各派ごとに本寺末寺と言う制度を設け、本山である寺が末寺を統制する仕組みを作り上げ、その本山を幕府が管理する・・・
家康は、戦国時代に大名をも脅かした宗教勢力を徹底的に封じ込めようとしたのです。
こうして、大名、朝廷、宗教を統制するルールを作り終えた家康は、8月4日、京都を発ち、23日に駿府に帰りつきます。
そして、この地で大好きな鷹狩りを楽しむこととなります。



京都での法令づくりを終えてから2か月を経た10月、家康は江戸城にいました。
徳川実記によれば、この時家康は関東各地を巡り狩りを楽しんでいるように思われます。
しかし、その目的は違うところにありました。
9月、駿府滞在中、江戸から訪ねてきたある女性によって徳川家の将来にかかわる重大な報告を受けていたのです。
その女性とは、将軍・秀忠の長男で跡継ぎである竹千代の乳母・春日局でした。
春日局は、秀忠と正室の江が、病弱な竹千代を跡継ぎの座から外し、快活で両親の寵愛を受けている弟の国松に変えようとしていると訴えたのです。
春日局の報告を受けた家康は、すぐさま江戸に赴きます。

江戸城で竹千代と国松に面会した家康は、ある行動で竹千代が次期将軍であると秀忠と江に示します。
竹千代と国松を呼び寄せた家康は、身近に竹千代を呼び座らせます。
国松が並ぼうとすると、それはダメだと下がるように支持。
あくまで年長の竹千代が将軍跡継ぎで、国松は将軍を支える立場であることをわからせようとしたのです。
長幼の序という秩序を乱す危険性・・・
能力主義で兄弟の優秀なものを選ぶのは一つの考えです。
しかし、能力主義がもとで権力闘争、内紛から政治体制が自壊することを危惧していました。

1616年元旦・・・江戸城黒書院。
秀忠は将軍への最初の挨拶をまず竹千代に行わせました。
家康の意を察した秀忠は、家臣たちの前で跡継ぎは竹千代であることを示したのです。
将軍後継者と徳川一門をめぐる新たなルール作りに心を砕いていた家康・・・
実は、頭を悩ませる問題がもう一つありました。

9月、京都での法令発布を終え、駿府で休息をしていたとされる家康。
しかし、徳川実記には大事件があったと書かれています。
この日、家康は息子・上総之介忠輝を勘当していたのです。
松平忠輝は、家康の六男です。
将軍秀忠と13歳違いの23歳。
存命している家康の息子のうち2番目の年長者で、越後高田75万石を領する大大名でした。
当時、徳川一門では、2代将軍秀忠に次ぐ存在でした。
どうして勘当??
原因は、大坂夏の陣での出来事でした。
忠輝は、大坂に向かう自分の軍を抜こうとした将軍・秀忠の家臣2人を討ち取り、報告もしていなかったのです。
さらには、肝心の夏の陣では戦場に到着が遅れ、陣の最後尾で高みの見物をしていたと、様々な記録に残されています。
将軍を蔑ろにし、戦では何の成果もあげない・・・
報告を受けた家康は激怒、それが、感動という処分につながったのです。
しかし、当時、行軍中の追い抜きは無礼にあたるということで切り捨てが認められていました。
本当に家康は切り捨てが原因で勘当処分にしたのでしょうか?

そこにはもう一つの理由がありました。
伊達政宗の存在です。
政宗は、忠輝の舅で、忠輝を非常にかわいがっていました。
高田城普請の際にも、自ら駆けつけ世話を焼くほどの入れ込みようでした。
忠輝と政宗が連携することになれば、大きな力になりかねない・・・と考えていました。
忠輝は、仙台62万石の伊達政宗の娘・五郎八姫を娶っていました。
関ケ原の戦いの前年、伊達政宗との関係を深めようと家康が画策した政略結婚でしたが、それによって徳川家の中では秀忠を脅かす存在となっていたのです。

1613年、政宗は、大坂の陣の前年、家康の許しを得てスペインやメキシコとの貿易交渉に支倉常長を派遣していました。
ところが、スペインは貿易の条件としてキリスト教の布教許可を要求。
政宗は、領内の布教を容認する姿勢を示したと考えられます。
しかし、キリシタン禁教を進める幕府からすれば、そんな政宗のふるまいは徳川の方針に沿わない危険な人物でした。
しかも、使節を案内したソテロ神父は、ヨーロッパ各地で家康亡き後は政宗が日本の皇帝になると言いふらしていました。
徳川を脅かしかねない伊達政宗・・・
その伊達政宗に支えられ、将軍・秀忠を蔑ろにする忠輝・・
忠輝は徳川家一門最大のリスクとなっていたのです。

1616年正月、江戸では謀反の噂が・・・
江戸にいた大名・細川忠興が、国元の息子に送った手紙には・・・
「政宗のこと、色々と噂がある
 根も葉もない話とも、まこととも知れないが、内々に陣の用意をしておくように」
平戸のイギリス商館長コックスの日記・・・
「皇帝と政宗の後押しを受ける上総(忠輝)の間で戦争が起きるという噂がある」

勘当された忠輝が、政宗と兵を挙げるという噂が全国に広がっていました。
忠輝と政宗の婿と州との関係、キリスト教と政宗の親密な関係・・・
何かしでかすかもしれないと思わせるような政治状況は残っていました。

一方、家康には死期が迫っていました。
静岡県藤枝市田中城・・・家康が鷹狩りで訪れていました。
1616年1月21日、家康発病。
夕食二体の天ぷらを食べた後のことでした。
現在は胃がん説が有力視されています。
すぐさま駿府に戻ったものの、病状は一進一退を繰り返します。
秀忠をはじめとする一門が駆けつける中、謀反の噂が立っていた忠輝も駿府に向かっていました。
忠輝は、なんとか面会したいと願い、何度も嘆願を繰り返しましたが、家康は面会を許しませんでした。

忠輝と政宗を攻め滅ぼすか??それとも2人を徹底的に引き離すのか??

伊達政宗が、晩年に側近に語った懐旧談があります。
そこに、家康の選択が記されていました。
家康の死から16年後、秀忠が死の床で政宗に語った言葉です。

「権現様が駿河で病気になったとき、政宗をひどく悪く言って、私に江戸に戻って仙台攻めの支度をせよと命じられた」

政宗自身も語っています。

「家康公が病気と聞いて、駿府に向かおうとしていたら、将軍秀忠公が江戸で仙台攻めの用意をしているという知らせが次々と入ってきた
 身に覚えがないことなので、驚いた
 もし戦となれば幕府軍相手に勝ち目はない・・・!!」by政宗

家康は、政宗討伐を選んだように見えます。
しかし、そこにお勝の方から政宗に手紙が届きます。

「一刻も早く家康公と対面しないと為にならない」

駿府に行けば殺される!!という家臣たちの手を振り切り、政宗は駿府に向かいました。
2月22日到着。
病床の家康に会って聞かされた仙台攻めの理由とは・・・謀反の疑いでした。
政宗が、家康の病に乗じて大坂の豊臣方の残党と手を組んで謀反を起こすかもしれない・・・
そんな密告をした人物・・・その人物とは誰なのか・・・??
 


上総守・・・松平忠輝!!

忠輝は、「政宗は謀反の意思を持っているということを言ってきた」と話したのです。
それを家康は本当か心配になって仙台陣とか、お勝の文という形に動いていったのです。

もし、謀反する気ならば決して来ないだろう・・・

だが、駆けつけたことで、家康は政宗への疑いを説きました。
政宗自身の証言によると、毎日のように見舞いに訪れる政宗に、家康は将軍・秀忠の後見さえも命じたといいます。
忠輝が本当に政宗謀反を密告したのか、証拠はありません。
確かなのは、家康の言葉を聞いた政宗が、忠輝と縁を切り、二度と支えようとしなかった事です。
家康は、政宗と忠輝を殺すことなく2人の間を裂き、政宗を秀忠を支える側に回らせたのです。

1616年3月19日、家康は金銀を末の息子3人に分け与えます。
遺産の総額は、194万1600両・・・今の金額でおよそ1940億円となります。
4月2日、金地院崇伝らのブレーンを呼び、亡くなった後の埋葬、位牌などを支持します。

「一周忌が過ぎたら下野日光に小堂を建て、勧請せよ
 関八州の鎮守になろう」

この言葉が、家康の遺言となりました。

そして、4月17日、息を引き取ります。
享年75歳。
家康の死から3か月後、忠輝は、将軍・秀忠の命で改易、伊勢朝熊に蟄居させられました。
長野県諏訪市貞松院・・・伊勢に流されてから10年後、忠輝は諏訪にうつされ92歳で亡くなるまでこの寺で暮らしました。
25歳で流されてから67年・・・その頃、幕府は5代将軍・綱吉の時代になっていました。
家康が忠輝に残した遺品・・・笛・乃可勢。
信長、秀吉が秘蔵し、天下人の笛と呼ばれたものです。
死の床にあった家康は、忠輝の生母・おちゃあの局にこの笛を遺品として託したと言われています。

幕府のためには我が子であるけど廃嫡にしなければいけないかった
親として非常に忍びない・・・その愛情の証として送ったのではないかと思われます。

幼少の頃から笛の名手だったといわれる忠輝・・・
父・家康が死の前に思い起こしていたのは、その幼き日の息子の姿だったのかもしれません。

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静岡県伊東市・・・日本初の洋式帆船サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号の模型があります。
およそ400年前、この船を造り、貿易を夢見た男は・・・徳川家康です。
ヨーロッパの国々が押し寄せた大航海時代、家康は世界を股にかけた国際外交を推し進めました。
それは、開いたばかりの江戸幕府を盤石なものにするための一大事業でもありました。

当時、国内には外国商人たちと共にキリスト教宣教師たちも数多くいました。
家康は、彼らが各地で布教することを許し、キリスト教が広がることも黙認していました。
さらに、イギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問に抜擢。
そのネットワークを利用して最新の世界情勢まで手に入れていました。
ところが・・・
家康は、突如として禁教令を発し、キリスト教教会を破壊、日本で布教を進めていた宣教師たちを北外追放としました。
世界に開かれた国を目指していた家康・・・いったい何があったのでしょうか?

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鎖国時代にあったといわれる江戸時代、当初家康はどのような国の形を描いていたのでしょうか??
16世紀、世界は大きなうねりの中にありました。
大航海時代の始まりです。
ヨーロッパ各国は、莫大な富と市場を求めて海外に進出しました。
それはまず、スペインとポルトガルという二大強国の世界侵略から始まりました。
両国は競うように勢力範囲を広げていき、ヨーロッパから遠く離れたアジアでぶつかり合います。

1529年、争いを避けるためにある取り決めをします。
アジアに線を引き、世界を二分したのです。
線から東はスペイン、西はポルトガルの勢力範囲となりました。
その線が、モルッカ諸島の東側144度30分のところです。
そこに南北のラインを引っ張りました。
そのラインの北の方に日本がありました。
日本はどちら??両国が争います。
かつてマルコポーロが財宝に溢れた黄金の国ジパングとして紹介した日本。
ヨーロッパ人たちが、特に目をつけたのは銀でした。
中国地方の石見銀山など、世界有数の銀行山があったからです。
銀は当時、世界貿易における国際通貨のような役割を果たしていました。
しかも、日本の銀は良質で、産出量は一時世界の1/3にも達したと言われています。
世界史の激動が、まさに日本を飲み込もうとしていました。

その頃日本では、戦国大名たちが覇を競い、各地でし烈な戦いを繰り広げていました。
そこに登場したのが、ヨーロッパからもたらされた鉄砲でした。
鉄砲は、日本の戦に革命をもたらしていきます。
戦国大名たちは、先を争って鉄砲を手に入れました。
その鉄砲を持ち込んだのがポルトガル人でした。
そしてもうひとつ、日本に影響を与えたものが、キリスト教です。
伴天連と呼ばれた宣教師たちによる布教が各地で進められていきます。
その中心となったのが、イエズス会です。
キリスト教カトリック教会の男子修道会。
教皇の精鋭部隊ともいわれた一団で、彼らの目標は世界にキリスト教を広めること。
そのための手段は選びませんでした。
イエズス会の宣教師は、スペイン、ポルトガルの先兵として世界各地に送りこまれました。
そして、先住民にキリスト教を布教し、時に侵略の手助けをしていきました。
しかし、16世紀後半、この両国の覇権を脅かす国々が現れます。
オランダとイギリスです。
新旧二つの勢力は、宗教的にも対立していました。
スペイン・ポルトガルがカトリック、イギリス・オランダはプロテスタント。
当時、ヨーロッパのキリスト教国はカトリックとプロテスタントに分かれて戦争が繰り返されていました。
1568年、長くスペインの支配を受けていたオランダが独立戦争を開始。
さらに、1588年、イギリスがスペインの無敵艦隊を撃破。
世界は新たな時代を迎えようとしていました。
その頃、日本でも長かった戦国時代が終わろうとしていました。
天下人として君臨した豊臣秀吉の死、そのあと天下の実権を握ったのが徳川家康でした。
家康は、激動する世界を相手に、独自の外交政策を打ち出していきます。
東アジアでは、文禄・慶長の役の後始末が大きな課題でした。
豊臣秀吉は、中国・明の征服を目指し、朝鮮への侵略戦争を行いました。
その結果、明国や朝鮮との国交が断絶してしまっていました。
家康は、両国との貿易を復活させるため、関係修復に努めます。
その一方、スペインやポルトガルとの南蛮貿易にも積極的にかかわろうとしました。
当時、松浦、大村、鍋島、有馬、島津など、主に西国大名が南蛮貿易を独占していました。
そこで家康は、独自の貿易を求め、フィリピン・マニラに使者を送っています。
当時スペイン領だったマニラと、江戸湾の入り口浦賀。
さらに、スペイン領メキシコを結ぶ壮大な貿易ルートを開拓するためでした。
家康が宣教師を通じて、フィリピンのスペイン総督に送った親書にはこう記されています。

”マニラのスペイン人が、毎年江戸湾浦賀に来航し貿易をすればよい
 日本人も、メキシコに赴いて通商をしたい
 その抗かいようの帆船を作るために、造船技師や職人を派遣してほしい”

アダムスと家康

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1600年9月、関ケ原の戦いに勝利し、敵対勢力を一掃した家康。
その10日後、家康は、破れた毛利氏から日本最大の銀山・石見銀山を取り上げます。
その豊富な銀を背景に、さらに積極的な外交を進めていきます。

家康は、江戸幕府を開くと東南アジアにも目を向けました。
タイ、カンボジア、ベトナムなどと、朱印船貿易を開始。
まさに、家康の全方位外交でした。

関ケ原の戦いの5か月前・・・豊後・臼杵領内に浮かぶ黒島・・・
その沖合に一隻の西洋帆船が漂着しました。
オランダ船籍のリーフデ号。
そこに一人の男が乗船していました。
名は、ウィリアム・アダムス、世界一周航路の探索の途上、日本に漂着したイギリス人航海士です。
すぐに家康はアダムスを大坂城に呼び出しました。
直々に尋問するためです。

アダムスが妻に宛てた手紙によると・・・

”家康は自分をじっくり見つめた
 予想に反して、家康は非常に有効的な態度を取った”

家康はアダムスに尋ねます。

「どの国から来たのか?
 そして、こんな遠い日本に何故来たのか?」by家康

「我が国は、長い間アジアへ渡航する方法を模索していました
 貿易を通じて、アジアのすべての君主と友好関係を築くことを望んでいます」byアダムス

家康は、アダムスから、イギリスがポルトガル、スペインと敵対関係にあることや、アダムスたちの宗教、さらにはリーフデ号の公開など、色々なことを聞きだします。
尋問は深夜にまで及んだといいます。

家康は、一貫して宗教抜きで貿易を活性化したいと思っていました。
スペインとの文通の中でも

「貿易もいいがキリスト教の布教を許してください」byスペイン国王

「日本は神の国であり、仏の国でもある
 宗教抜きで貿易をしに来てほしい」by家康

そこにアダムスが現れて、
「そういう宗教観は全くなく、我々は日本に貿易に来た
 日本にとってもウィン・ウィンのシチュエーションでお互い豊かになるように商売をしたい」byアダムス

家康としては非常に魅力的な話でした。

静岡県伊東市に、サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号の復元模型があります。
実物の全長は35m、乗組員は80人から90人、日本初の洋式帆船として伝えられています。
家康の命を受けたアダムスが伊東で造船した船でした。
家康も、外洋船・・・強固な船を造りたいと考えていました。
和船では外洋に出られない・・・貿易にも使える、外洋にも出られるということで、アダムスに船を作らせました。
アダムスは、この船で畿内から江戸までを航海、沿岸に沿って測量も行いました。
この船を造った功績により、アダムスは家康から三浦半島に領地を与えられます。
さらに、旗本に取り立てられ、三浦按針と名乗るようになります。
一方、家康は新たな貿易パートナーを探していました。
当時の南蛮貿易で、鉄砲などの武器や銃弾の他に、輸入品の中で大きく占めていたのが中国産の生糸でした。
高級絹織物の原料として珍重されていました。
ところがその貿易は、ポルトガルとイエズス会にほぼ独占されていました。
その為、価格が高騰することもありました。
新しい貿易相手が加われば、彼らの間で自由競争となり、生糸の価格が抑えられる・・・
そうなれば、日本が潤うこととなる・・・!!と、家康は考えていました。

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そこで目をつけたのが、ポルトガルと敵対していたオランダでした。
オランダは、1602年に東インド会社を設立。
貿易で世界を席巻しようと各地へ船団を送っていました。
アジアでは、タイ南部に拠点を作り、そこを足掛かりにそれまでのポルトガルに代わりアジア貿易への影響力を拡大しつつありました。
家康は、オランダ人と同じプロテスタントだったアダムスを仲介役に起用、オランダとの交渉にあたらせました。
その結果、1609年7月、駿府城にオランダ使節団を招きます。
ところが、そこに妨害が入りました。
イエズス会です。
イエズス会の宣教師は、家康にこう進言しました。

「オランダ人は”反逆者”であり”海賊”であり、日本にとって重要な貿易を破壊するものである」

しかし、家康は、イエズス会の訴えを退けます。
家康は、オランダに朱印状を授けます。

オランダ船が日本へ渡航して来る時には、どこの港に着岸しても良い!!

早速オランダは、平戸に商館を設立します。
倉庫には、中国産生糸をはじめ、鉛、胡椒、象牙などが保管されていたといいます。
家康は、日本を世界に開いていきました。

家康は、将軍職を秀忠に譲ったのち、1607年以降、駿府を拠点に様々な外交政策を打ち出していきました。
1610年、家康は念願のスペイン領メキシコとの貿易のために行動を起こします。
サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号をメキシコに向けて出航させ、スペイン国王に親書を送ったのです。
そして、1611年5月、親書の返事を携えたスペイン王国の大使ビスカイノが家康に謁見。

登城の時、ビスカイノは日本の風習を無視し、スペインの流儀で城に向かいます。
ビスカイノは、当地駿河に約40人の従士を連れ、スペイン国王の紋章のある旗を掲げて到着しました。
全ての道において、マスケット銃及びトランペットを鳴り響かせました。
アダムスも控える中、謁見が始まりました。
ビスカイノにとって貿易の条件として日本でのキリスト教布教の許可は欠かせないものでした。
その上で、去らなく交換条件を突き付けます。

「オランダ人に、日本での交易を禁じ、以後、永久に許可しないこと」byビスカイノ

それまで黙っていた家康は、あざ笑うかのように・・・

「日本の国は、全ての異国にとって自由であり、皆に開かれている
 これについては、全ての他の国と同様、オランダ人を優遇するつもりである
 そして、オランダの王子が他国との戦争をしていても、私には関係がない」by家康

最後にビスカイノはあることを家康に願い出ます。

「江戸湾の測量をしたい」byビスカイノ

すると家康は、理由も聞かずにそれを許します。
これにアダムスは黙っていませんでした。
全てはスペインの策略であると家康に詰め寄ります。
スペイン側に残された資料によると、アダムスはこう進言した・・・

「江戸湾測量の目的は、大艦隊による軍事侵略の準備であります
 スペインはまず、宣教師を送り込み、国民をキリスト教に改宗せしめ、その後、彼等を使い共謀してその国を征服、スペイン王国の領土としていく・・・
 それが、スペインの常套手段なのです」byアダムス

その8か月後、ある事件が起きました。
1612年2月、西国大名の有馬晴信がかつての領地を取り戻すべく家康側近の家臣・岡本大八におよそ6000両の賄賂を送ったことが発覚したのです。
はじめは岡本の処刑と有馬の切腹で一件落着のはずでした。
しかし・・・思わぬ事実が・・・
実は、両者はキリシタンでした。
さらに周囲を調べていくと、なんと駿府城の中にまでキリシタンが大勢いたことが判明しました。
アダムスの言葉が現実となってきていました。

キリスト教を黙認するか??
排除するのか・・・??

ビジネス小説 もしも徳川家康が総理大臣になったら

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1612年3月21日、岡本大八は、駿府市中引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処せられました。
同じ日、家康は江戸、京都、駿府をはじめとする幕府直轄地に対して、教会の破壊と布教の禁止を命じました。
キリシタン禁教令です。
その2年後、禁教令は全国に広げられました。
宣教師や改修いないキリシタンは、マカオやマニラに次々と追放されていきました。
家康は、キリスト教の排除を選択したのです。
それは、布教と貿易を一体と見なしていたカトリック教会の排除に他なりませんでした。
スペインは、その後、日本との新たな貿易は実現是ず、ポルトガルは商人だけが行き来を許されました。
一方、オランダ、イギリス、東南アジアなどキリスト布教とは関係のない国々とはそれまで通り貿易が続けられました。
1616年4月17日、徳川家康死去。
享年75歳。
それからほどなくして、幕府の外交方針を大きく変えることが起きます。
8月、2代将軍秀忠が、それまで日本中どこにでも港に入れた外国船を、中国船以外は平戸・長崎だけに限定する二港制限令を打ち出したのです。
それは、幕府が貿易を独占するということでした。
それまでは、戦国大名は思い思いに南蛮貿易をしていました。
幕府としては、大名による個別の貿易は制限して、どうやって幕府が一手に貿易を独占していくかが外交戦略として必要になってきます。
平戸と長崎の二港は、幕府の直轄地になっているので、そこだけに来航を許す・・・
他の大名領に寄港してはならない!!

幕府は海外貿易の統制をゆるめませんでした。
秀忠以降、3代家光へとさらにその厳しさは増していきます。
キリスト教に対する弾圧も強化され、1622年、凄惨な事件が起きます。
幕府は、宣教師と信徒、そして彼等を匿っていた者たち55人を長崎西坂で処刑・・・元和の大殉教です。
こうして1641年、ヨーロッパとの貿易を長崎・出島のオランダ商館だけに制限する鎖国体制が完成しました。
家康の開国への夢は、ここに幕を閉じたのです。

一方、ウィリアム・アダムスは、幕府の外交方針に翻弄され、その運命に翳りが訪れていました。
二港制限令の撤回を求めて奔走しましたが、秀忠に会うこともかないませんでした。
アダムスはこう書き残しています。

「全てのことが、あまりにも大きく変わってしまった」byアダムス

やがてアダムスは、平戸で波乱に満ちた55年の生涯を閉じたのでした。

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