日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:恭仁京

今からおよそ1300年前の奈良時代、日本は疫病の大流行・・・パンデミックに襲われていました。
天然痘です。
強烈なウィルスは、飛沫感染、接触感染で一緒に広まって、国民のおよそ1/3が死亡したといわれています。
平城京は死の街とかしました。
完了8人のうち5人が死亡する異常事態となりました。
聖武天皇は、復興のため、国民の負担を減らす様々な政策を打ち出します。
その一方で、仏によって疫病から守られる国を作るため、大仏造立や国分寺建立を推し進めます。
その問題は、この巨大事業の財源をどう作り出すかでした。
この時、政権を担っていた橘諸兄は、財源確保のために大きな選択を迫られます。
律令国家の根幹である原則を捨てるか否か・・・??

パンデミックに痛めつけられた日本をどう復興させるのか・・・??

古代の群像・橘諸兄【電子書籍】[ 川村 一彦 ]
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732年元旦・・・
平城宮の大極殿で、かつてない儀式が執り行われました。
玉座に座るのは、聖武天皇です。
天皇として初めて中国皇帝と同様の冕冠をかぶったのです。
天皇の権威の大きさを形として人々に示したのです。

あおによし 奈良の都は 咲く花の
           におうがごとく 今 盛りなり

大陸の先進国・唐に習って、初めて本格的な法体系律令制を敷いてからおよそ30年・・・
人口は増大し、国力は充実、律令国家・日本のTOPとして聖武天皇は得意の絶頂にいました。
しかし、そのわずか3年後の735年、九州大宰府で天然痘が発生!!
大陸の党や新羅への使節が、感染源と考えられています。
当時の記録・続日本紀によると、疫病は大宰府から九州全域に広がり、さらに長門を経て紀伊・大倭・伊賀・若狭・駿河・伊豆各国に蔓延していきます。
その報告が平城京に送られると、それに伴う人の往来が疫病を広げることになりました。
第1波はは治まったものの、第2波が襲い、天然痘は735年から737年にかけて全国に広がりました。
ある研究によると、天然痘による死者は100万人から150万人、国民の1/3が失われたとされています。
朝廷は、疫病対策を全国に出しました。

・生水は飲むな
・体を温めよ
・ニラやネギを煮て食べよ

さらに、聖武天皇は、天皇家の聖地・吉野に行幸し、天然痘退散を祈祷したといわれています。
天然痘の蔓延の中、人々はどのようにして暮らしていたのでしょうか?
出土品から伺えます。
呪符木簡が出土しているのをはじめ・・・
天然痘は、人々の生活様式を変えました。
天然痘が流行る前、貴族の邸宅では大皿が使われていました。
大皿に料理を盛りつけ、取り分けていたのです。
しかし、天然痘の後になると、大きな食器は見受けられなくなります。
小型の食器がたくさん使われることになります。
ここに食器を使うことで、天然痘の感染を防止する意味合いがありました。
天然痘を経験したことで、衛生意識が変わり、生活のスタイルを変えていったのです。

さらに・・・灯明皿も出土しています。
皿に油を入れ、灯心を置き、明かりをつけます。
このような皿をたくさん並べて僧侶がお経を読む年頭供養がなされました。
現代も、東大寺で万灯供養会が行われています。
奈良時代の人もまた、多くの明かりをともすことで天然痘の再発防止を願ったのです。

しかし、疫病はやみませんでした。
天然痘は、貴族たちをも襲い、当時、聖武天皇のもとで政権を担っていた藤原四兄弟全員が737年に死去。
見舞いに行って感染したとみられています。
遂には、当時の閣僚である公暁8人のうち5人が死亡という異常事態となりました。
聖武天皇は・・・
「三川に祈り神を祭ったが、効果はなかった
 朕の不徳がこの災いを招いてしまった」といっています。

天然痘による壊滅的な被害と政権中枢の消滅・・・聖武天皇は、即位以来最大の危機に直面していました。

聖武天皇が造った都 難波宮・恭仁宮・紫香楽宮 (歴史文化ライブラリー) [ 小笠原好彦 ]
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737年秋・・・天然痘は収束に向かいつつありました。
聖武天皇は、藤原四兄弟の死で中枢不在となった政権を立て直すべく、人事を行いました。
この時、大納言に抜擢され、新たに政権を担ったのが、橘諸兄でした。
橘諸兄は、皇族出身で、光明皇后の父違いの兄であり、聖武天皇が兄とも慕う存在でした。
橘諸兄を讃えた歌が残されています。

立花は実さへ 花さへ その葉さへ
           枝に霜降れどいや常葉の木

大いなる信任を背に、橘諸兄は天然痘で疲弊した国力の回復に乗り出します。

①農民の負担軽減
当時、豪族などが農民に種もみを貸し、最大10割の利子をつけて返済させていました。
橘諸兄はこれを禁じ、種もみの貸し付けは国が低い利率で行うことで、農民の負担軽減を図りました。
貴族や豪族の貸し出しを禁止し、国からの借り入れに一本化します。
農民の負担を軽減し、国の税収を確保したのです。

②国防より国力回復を優先
当時、日本は新羅と緊張関係にあり、有事に備えて国家の軍事組織・軍団が全ての国に置かれていました。
軍団の兵士には、農民が徴用されていましたが、諸兄は、軍事上重要な地点以外は兵士徴用を廃止します。
対外関係よりも、疲弊している国内を元に戻すことを優先したのです。
兵士は租税を免除されますが、農民に戻れば租税を負担しなければなりません。
労働人口を増やし、余った租税を確実に確保したのです。

③行政のスリム化
当時、地方の行政組織は、国→郡→郷→里の4つに区分されていましたが、諸兄は里を廃止し、行政の簡素化を図りました。
また、地方行政は、朝廷から派遣された国司と地方官の郡司の二重構造でしたが、そこにもメスを入れます。
郡司の定員を削減し、国司の裁量を大きくしました。
郡司の力を削いでいくことによって、国司が直接全国各地を押さえられるように・・・
二重の複雑な支配体制から、一重のスリムで目の行き届く体系に変化させていきました。
聖武天皇と橘諸兄の推し進める政策により、国力は徐々に回復していきました。

しかし・・・パンデミックがおさまって3年後の740年10月・・・聖武天皇は不思議な行動に。

”朕 思うところにより しばらく関東へと赴く
 やむを得ぬ事情がある”

多くの臣下と共に、平城京を後にし、東国へと旅立ったのです。
そして、伊勢・美濃・近江など、壬申の乱の際の天武天皇の進軍コースをたどります。
2か月後、平城京の北およそ10キロの地点で立ち止まり、新たな都・恭仁京の造営を宣言しました。
これまで天皇のこの行動は、九州で巧妙皇后の甥である有力貴族・藤原広嗣が反乱を起こしたことがきっかけといわれてきました。
しかし、近年の発掘調査で新たな発見がありました。
恭仁京遷都の数日前に天皇が立ち寄った場所から、床面積250㎡の宮殿跡が見つかったのです。
この建物は、広嗣の反乱の数か月前には建造が始まっていたと考えられます。
恭仁京への遷都は、以前から計画していた可能性が出てきました。

平城京の嫌な出来事から、どうにか避けたい・・・忌み避けるという気持ちが聖武天皇にはありました。
新しいところに移りたいという考えが・・・恭仁京に移るということを相談に乗り、積極的に推進したのが橘諸兄でした。
恭仁京は、橘諸兄の本貫地でした。

聖武天皇の構想は、恭仁京の造営だけにとどまらず、全国各地に国分寺の造営を命じます。

”国土に仏の経を流布させれば、四天王が擁護して一切の災いを取り除き、憂愁や疫病も除去する”

仏の力で国を守る「鎮護国家」を目指したのです。

しかし、恭仁京の造営や、国分寺の造営は、莫大な費用と労働力が必要で、人々に新たな負担を強いるものでした。

新都造営と国分寺建立・・・その財源を確保するため、橘諸兄はある政策を考えていました。
土地制度の改革です。
天然痘大流行の90年前・・・蘇我入鹿暗殺で始まった大化の改新。
この改革で掲げられた理念の一つが、
”王族や豪族たちによる土地・人民の所有を廃止する”
でした。
全ての土地と人民は、国家のものとする・・・と定めたのです。
そしておよそ50年後の大宝元年・・・班田収授法が制定されます。
農民ひとりひとりに田を支給して税を徴収するという律令国家の財政の根幹制度でした。
しかし、人口が増加すると、支給する田が不足・・・
およそ20年後、三世一身法を導入、新たに開墾した土地は、三代に限り私有できるとして農地の増加を図ります。
しかし、3代後に国に土地を取られてしまうため、農民には不評で農地の増加ははかばかしくありませんでした。
税収を増やしようがなかったのです。

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天然痘の問題で国民が3割近くなくなっている・・・税収が上がらない・・・経済的に逼迫した状況で、それを解決するのが、橘諸兄の至上命題でした。

聖武天皇が推し進めようとしている巨大事業を実現するには、農地増加による税収の増加が不可欠でした。
その為には、開国する者に強力な開発意欲が必要でした。
開墾した土地には所有を認めるという制度を導入すれば、おのずと農地が増え、そこからの税収も増えるはず・・・
しかし、それは、土地と人民は国家のものという大化の改新以来の国づくりの考え方を捨てることを意味していました。

国家の原則を変えない??それともそれとも変える??

743年墾田永年私財法・・・新たに開墾した土地は、永久に自分のものにしていいというものでした。
橘諸兄は、聖武天皇に進言し、”国家の原則を変える”を選んだのです。
従来、この法令で土地の私有を認めたことが、律令体制崩壊の一員となったとされてきました。
しかし、もっと積極的な意味があったと考えられています。
私有といっても、国がその土地を支配できなくなるわけではありません。
国は、確実な租税がとれればいいのです。
私有を認めることで、くにのざいせいは逆に潤いました。
古代国家の基盤を安定させた非常に重要な政策でした。

墾田永年私財法が発令して数か月後、743年7月に聖武天皇は恭仁京の離宮として造営された紫香楽宮に行幸。
この地に、巨大な廬舎那仏を造立する計画を打ち出します。

”仏教の威力と霊力によって、天地が萬代まで安泰になり、生けるものすべてが栄えんことを望む”

この行幸に、橘諸兄は同行していません。
一説には、諸兄は大仏造立の詔に関与しておらず、大仏造立には積極的ではなかったといいます。
それには訳がありました。
後に廬舎那仏は、奈良の大仏として平城京で造営されますが、大仏と大仏殿の建造費は、今の勝ちにして4657億円だといわれています。

疫病の大流行から、経済的にも立ち直りつつある状況で、国費を大きく消耗する大事業”大仏造立”について橘諸兄は疑問に思い、大変だと、困ったことだと考えていました。
橘諸兄の思いをよそに、紫香楽宮では大仏造立の準備が進められていきました。

しかし、745年4月、異変が起きます。
紫香楽宮の周囲で山火事が頻発、大仏づくりに不満を抱く者たちの方かといわれています。
混乱の解決を求める貴族達から閉胸教に戻ろうという声が出始めます。
さらに・・・推定M7.9の大地震が起き、地震は畿内一帯に大きな被害をもたらしました。
この地震を天の意思と感じた聖武天皇は決断を下します。
平城京に戻ることを決めたのです。

”大仏を紫香楽でなく平城京に戻って作ってはどうですか”by橘諸兄

”平城京で大仏を造る”と進言して、聖武天皇の説得に橘諸兄は成功しました。

745年5月、聖武天皇は平城京に戻り、平城京は再び都となりました。
聖武天皇が目指す大仏造立は、都の東のはずれで再開されました。
そして・・・752年4月・・・大仏開眼供養会・・・日本書紀が記す仏教伝来の年から200年、盛大に行われました。
1万人もの僧侶が見守る中、高さ16mの大仏に命が吹き込まれました。
それはまさに、仏によって全ての災いから守られる国家の実現でした。

しかし、一方で、都や大仏の大規模な建設工事に動員された農民の負担が激増・・・
平城京内では、浮浪者や餓死者が後を絶たなかったといいます。
大仏の開眼法要の4年後、聖武天皇は55年の生涯を閉じます。
翌年の757年、橘諸兄もこの世を去りました。
理想のために、民の力を使い尽くす聖武天皇に橘諸兄は如何なる思いを抱いていたのでしょう。
それを語るものは何も残っていません。

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今も広く慕われている古都・奈良・・・
この奈良を、仏都としたのが聖武天皇です。

天皇の最大の謎は・・・
即位から16年後、平城京を飛び出して・・・遷都をしようとしたのです。
そこから3つの都をさまよい続けます。
どうしてこのようなことをしたのでしょうか??
最近の発掘から想像されます。

奈良時代の政治の中枢は平城宮・・・ある法則によって作られていました。
注目したのは、大極殿に上がるために作られたスロープでした。
高御蔵を中心とした3つの同心円と、後殿を中心とする1つの円・・・
この4つの円を中心に長さ、角度が決められていました。

これは、キトラ古墳の石室の天井に書かれていました。
星の運行を示す3つの円と太陽の円・・・同心円の中心には北極星・・・天の北極を表していました。
天皇を中心として秩序ある国家を作ろうとしたのです。
地上を支配する為政者・・・万物の中心・・・724年この場所で即位したのは聖武天皇でした。

当時、日本が目標としたのは、唐の都・長安でした。
唐の皇帝のような絶対的権力を・・・!!
律令を制定し、大極殿を中心に・・・唐の長安をモデルに平城京を築こうとした聖武天皇。。。

しかし、それを許さない勢力がいました。
その代表が長屋王でした。
長屋王は、皇位継承第一位だったといっても過言ではない人物で、平城京内に広大な屋敷を構え、天皇に並ぶほどの経済力を持っていました。
大きな発言力も持っていました。

一方聖武天皇は、身内にも配慮しなければならない状態にありました。
母・宮子と妻・光明皇后は、藤原氏発展の礎を築いた藤原不比等。
藤原氏のごり押しによって擁立された聖武天皇は、その意向をないがしろにすることはできませんでした。
さらに問題は役人たちにも・・・
勤務評価を見てみると・・・役人515人のうち、平城京を本貫(出身地)とする者は115人・・・1/5でした。
他の者は・・・平城京の外で独自の私有地を持って、支配していたのです。
私地・私民をもって、中央政府の言うことを聞かない存在・・・
軍隊も、彼らの私兵に頼らなければならない存在でした。
天皇によるリーダーシップがなかなか取れない状況だったのです。

追い打ちをかける様に・・・
天然痘の大流行!!
九州の大宰府で発生した天然痘は、735年から2年間日本全国で猛威を振るいます。
この災難を自らの責任と受け止める聖武天皇。。。
天然痘は貴族をも襲い・・・藤原四兄弟が死去。。。
そして・・・天地の災異が続くのは、政治が悪いからである・・・
740年9月、有力貴族・藤原広嗣が大宰府で蜂起!!
聖武天皇は即位以来最大の危機に・・・!!

10月・・・藤原広嗣と討伐軍が戦いを繰り広げている中・・・
聖武天皇は大胆な行動にでます。

”朕 思うところにより しばらく関東へと赴くやむを得ぬ事情がある”

多くの臣下とともに平城京を飛び出した聖武天皇・・・
向ったのは・・・反乱が鎮圧された後も東国を行幸、2か月後・・・平城京の10キロ北で立ち止まり、恭仁京の造営を宣言しました。
これまでこの天皇の行動は、天然痘や反乱からの逃亡とされてきましたが、近年行われた発掘によると。。。

恭仁京から天皇が滞在していた場所から、床面積250㎡の巨大な宮殿跡が見つかったのです。
調査によると、反乱がおこる前から造営されていたようで・・・
恭仁京への遷都は、以前から計画されていたようだったのです。

”平城京に居るものは、すぐに恭仁京へ出発せよ
 その他の血に居る者も、急ぎ追うようにせよ”

聖武天皇は、貴族たちを本貫から引き離し、新都への移住によって支配を強化しようとしたのです。

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新都・恭仁京・・・それまでの都とは違っていました。
京の中央を木津川が流れていました。
平城京は、近くに川が無く、物資を陸路で運搬していました。


その為、増えつつあった人口を支えきれなくなっていたのです。
流通の便を図ろうとしたのです。





さらに・・・難波京や紫香楽宮を建設・・・。
難波京は外交貿易の拠点、紫香楽には巨大な廬舎那仏を建て仏都に・・・
”三宝(仏法僧)の威力 霊力によって動植物栄えんことを望む”
仏教の力で国を治める鎮護国家で、天災や政治不安に対応しようとしたのでした。

これは唐をまねたものです。
恭仁京は洛陽を参考に作られ、紫香楽宮は龍門石窟の影響を受けました。

着々と新しい都が造営され・・・廬舎那仏も出来てきましたが・・・
複数の都の問題が、火種となりました。
何処を首都にする・・・??

744年2月・・・大仏建立の陣頭指揮のために聖武天皇は紫香楽宮へ・・・。
ここに首都を移すというと・・・意見の相違が出てきました。
先の天皇は・・・難波京を宣言、一方貴族たちは、恭仁京派と難波京派が拮抗。。。

さらに745年4月、聖武天皇に試練が・・・
紫香楽宮で、反対派による放火とみられる火事が頻発し・・・
ついに、平城京に戻ろうという声が貴族たちから起こるのでした。


平城京に戻る・・・??
この頃・・・大仏建立のために、恭仁京の建設は途中でストップしていました。
反対に加え、財政の圧迫・・・

あくまで三都維持・・・??
日本が唐と並ぶためには必要だ!!
我が権力を絶対的なものにする為に・・・!!

マグニチュード7.9の大地震が・・・美濃国から近畿一円にかけて被害が・・・!!
この地震を天の意志とし・・・平城京に戻ることを選択します。
5月5日、紫香楽宮を出発し・・・民衆は万歳の声をあげて喜びました。

三都造営の挫折・・・この挫折で学び・・・
仏都構想は平城京で行われることになりました。
大仏が作られ始めたのです。

宮城県にある金華山・・・この地で日本で初めて金が算出!!
聖武天皇は歓喜し、大仏作りは順調に進んでいきます。
752年・・・仏教伝来から200年、大仏の開眼法要が盛大に行われました。
1万人の僧侶が見守る中・・・大仏に命が吹きこまれたのです。

しかし・・・三都造営の目的はなんだったのか??
それは、都市民の増加によって食糧の調達をどうするのかということだったはず・・・。
飢饉、物価の高騰・・・聖武天皇の死から30年後・・・
784年桓武天皇によって、平城京から長岡京へと移されるのです。

長岡は大きな河川が集まる土地でした。
平城京は70年余りで政治の役割を終えたのでした。
しかし・・・その後も鎮護国家の理想は生き続けます。

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