戦国の覇者・織田信長が、明智光秀の襲撃を受け自刃!!
本能寺の変です。
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信長亡き後、いち早く後継者として名乗りを上げたのが羽柴秀吉です。
秀吉は、並み居る強敵を退け、畿内統一を果たし、天下人への階段を登り始めていました。
一方、畿内から遠く離れた九州では、薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津が、急速に領土を拡大!!
九州6カ国の守護職を兼ねた大友と二大勢力に分かれていました。
この時、鎌倉以来の名門・島津家を率いたのが、16代当主の義久。
政をよくする深謀遠慮の名将と知られる戦国大名でした。
その兄を支えたのが、義弘・歳久・家久の三人の弟たちでした。
いずれも武略に秀でた猛将でした。
この島津兄弟の名が天下にとどろいたのが、現在の宮崎県北部で行われた耳川の戦いです。
大友と雌雄を決した一大合戦です。
両軍合わせて7万の大激突!!
戦いは平地におびき出した大友の軍勢を島津の伏兵が銃撃!!
結果、大友軍は総崩れとなりました。
鉄砲を一人前の武士が扱えないと薩摩の武士ではない!!
そして、集団的に鉄砲が使える・・・
必ず平地におびき出して、雌雄を決する!!
そうなれば、鉄砲の威力は存分に発揮できます。
もうひとつ養成したのが忍び(狙撃手)でした。
相手の大将を殺して戦場を離脱できる忍びがいる・・・!!
敵の大将狙い、平地戦で圧倒的な優勢を占めるのです。
こうした4兄弟の活躍で、劣勢に立たされた大友は、起死回生の一手に打って出ました。
秀吉に助けを求めたのです。
そしてその結果・・・
1585年10月、関白に就任し、羽柴から豊臣となった秀吉は、九州に停戦命令を発令。
もし、勅命に従わなければ、必ずや成敗すると島津を牽制します。
この一方的な停戦命令に、どう対処すべきか??
当主・義久は重臣を集め、軍議を開きました。
この時、大勢を占めたのが「秀吉、おそるるに足らず」という意見でした。
島津家は、源頼朝以来の名門!!
それに比べ秀吉は、由来の分からぬ人物に過ぎない・・・!!
そんな人物を関白と認めるなど、笑止である!!
軍議の結果、静観することに決しました。
これが覆ったのが、大坂から戻った使者がもたらした報告でした。
秀吉は、停戦令に加え、九州の国分け案を提示しました。
国分けとは・・・??
領土を各大名に分け与えることです。
大友には北九州の国々を、島津には薩摩など三州に加えいくつかの国を分け与えるというものです。
秀吉は、九州を思うがままに分割しようとしたのです。
九州全土の制覇を目標にした島津にとって、この秀吉の国分け案など、受け入れられるわけがありませんでした。
1586年6月、島津軍、大友領へ侵攻開始。
島津勢は、停戦令を破り、ついに大友領へと進軍。
たとえ秀吉が襲来しようと、島津にこの時勝算がありました。
ゲリラ戦によって、泥沼の選挙区情勢に持って行けると考えていました。
島津をせん滅するのは、不可能に近いものがありました。
さらに、秀吉にはこの時期、畿内を留守にできない事情がありました。
徳川家康との対立です。
小牧長久手の戦いでは、家康に思わぬ敗北を喫しました。
この両者の戦いは、各地に飛び火し、長期戦の様相を呈していました。
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そしてそんなさ中・・・1585年11月・・・天正地震!!
地震は、中部地方と近畿を襲い、秀吉方の多くの城が崩壊しました。
長期化する家康との対立、そして大地震で壊れた城の復興など、秀吉が九州に攻め入る暇はありませんでした。
島津軍が大友領に攻め入ってから3か月後・・・
畿内を留守に出来ない秀吉に代わり、仙谷秀久や長宗我部元親など四国の軍勢が九州に派遣されました。
そして、末弟・島津家久が豊臣軍と激突!!
現在の大分県大分市で行われた戸次川の戦いです。
川を渡り進軍する豊臣軍に対し、島津の伏兵による鉄砲が火を噴きました。
この攻撃で、豊臣軍の名のある武将たちが戦士・・・
史料には、豊臣方の負けっぷりは表現のしようがないと書かれています。
この大勝利により、島津軍は大友の拠点・府内の占領に成功。
九州全土の制覇は目前にありました。
ところが・・・九州から遠く離れた畿内では、不測の事態が・・・!!
1586年10月、徳川家康が秀吉に謁見。
秀吉に、家康が屈したのです。
これで、秀吉に後顧の憂いは無くなりました。
次の狙いは島津!!
今度は、秀吉自ら九州へ向かうことに決したのです。
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1587年3月1日、豊臣秀吉、九州出陣!!
秀吉は、40カ国に動員を命じ、20万の大軍勢で九州に向かいます。
当時の記録には・・・
本願寺の僧侶、京や堺の豪商までお供に加え、まるで大唐まできり従えるかのような前代未聞の大軍勢であるとあります。
九州に上陸した秀吉は、高山右近や蒲生氏郷、前田利長など畿内周辺の大名を率いて肥後方面を南下。
一方、弟の秀長は、毛利輝元や宇喜多秀家、長宗我部元親など中国四国勢を率いて日向方面を進軍しました。
この日向方面で、両軍が激突したのが九州平定の分岐点となった高城合戦です。
島津方の城・高城は、小丸川を自然の障壁となし、東を日向灘・南北を台地に覆われた堅固な要塞です。
高城は、大分や熊本・鹿児島を結ぶ交通の要所・・・標高60メートルの台地の上に築かれた山城です。
4月6日、秀吉の弟・秀長率いる10万の豊臣軍が高城を包囲。
それに対し、籠城した島津方の兵は、わずか1300あまり・・・!!
ところが、高城は、三方を断崖絶壁に囲まれた難攻不落の城・・・!!
さらに、西に続く尾根には、堅固な防御施設・堀が施されていました。
鉄壁の高城を攻めあぐねる豊臣軍・・・!!
この城をどのように攻略すべきか・・・??
豊臣軍が目をつけたのが、城の南側にある根白坂と呼ばれる場所でした。
豊臣軍は、高城から2キロ離れた根白坂周辺にも陣を築きます。
島津軍本隊の襲撃に備え、豊臣軍はわずか10日ほどで巨大な堀や土塁を築き、堅固な陣を急造したと考えられます。
4月17日夜・・・豊臣軍の思惑通り、高城救援のため島津家当主・義久自らが出陣!!
弟・義弘や、家久が前線に向かい、根白坂の豊臣軍に用地をかけました。
高城を救援するためには、根白坂に築かれた豊臣軍陣地を突破する他ない!!
突撃する島津勢は、豊臣軍が築いた長大な堀の突破を試みます。
しかし、堀は深く、下りることすら容易ではない・・・!!
さらに・・・豊臣軍は、数千丁の鉄砲を用意し、雨あられの降るごとく一斉に掃射!!
これによって、島津の兵は、堀底でみな討ち捕らえられてしまいました。
豊臣軍の巨大な防御施設を前に突撃した島津兵のほとんどが戦死!!
その結果、島津勢は撤退するほかありませんでした。
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義久は、この敗戦からわずか4日後、豊臣軍に降伏を申し入れました。
高城が開城したのはその8日後のことです。
鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺・・・
1587年5月8日、泰平寺に対陣していた秀吉の前に、頭を丸め出家した島津家当主・義久が出頭しました。
義久は、正式に降伏を申し出たのです。
ところが・・・戦いは終わったわけではありませんでした。
降伏に異を唱えた弟・歳久が、居城・虎居城に籠城。
あくまでも秀吉に抵抗する姿勢を見せていました。
三方を河川に囲まれた虎居城・・・高城同様、断崖絶壁・堅固な防御施設のある山城です。
こうした難攻不落の城に籠城したのは虎居城の歳久だけではなく、兄・義弘も徹底抗戦を辞さない構えを取っていました。
さらに、各地に居城を持つ島津の重臣たちも、秀吉に抵抗する姿勢を崩しません。
当主・義久が降伏を示したにもかかわらず、あくまでも抵抗を続ける島津の武将達・・・
秀吉は島津をどう処分すべきか??
戦に勝利した秀吉・・・
しかし、秀吉を取り巻く状況は厳しいものでした。
この時、九州は梅雨の只中にありました。
長引く大雨でがけ崩れなどが頻発していました。
悪天候で、畿内から食料の海上輸送も滞り、病人が続出・・・連日、餓死者の出る有様でした。
島津を滅亡させるか、島津一国にするのか・・・??
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秀吉が降伏を申し出た当主・義久に与えた赦免状が残されています。
日付は天正15年5月9日!!
泰平寺での対面の翌日です。
”この度、関白秀吉様が薩摩まで出陣し、島津を討ち果たす目前に義久が一命を捨てて出頭したので赦免する
然るうえは、薩摩一国を与える”
秀吉は、義久に薩摩一国を安堵することを選択しました。
さらに、秀吉は義久と同じく、降伏した末弟・家久の領土を安堵。
後に恭順した義弘も、大隅一国を安堵されました。
島津家は、兄弟の領地を併せ参加国を安堵される結果となりました。
しかし・・・島津四兄弟のうち居虎城の歳久だけ秀吉との対面を拒絶!!
そればかりか、歳久は秀吉の帰り道を狙い、輿に矢を放ちました。
秀吉にとって、九州平定は凱旋の帰還とは程遠い帰還でした。
秀吉の正妻・北政所に漏らした本音が書状に残されています。
”今回の九州出陣では、非常に苦労が多く、そのせいか白髪ばかりが多くなり、抜いても追いつかないほどになってしまった”
どうして、秀吉は島津に対して三カ国も安堵したのでしょうか?
そこには”唐入りの準備”がありました。
島津がもっている明国とのパイプ、これは捨てなくてもいいのではないか??
特に、義久は中華商人のネットワークを持っていました。
島津の交易における信用・信頼関係と情報力を見て秀吉は戦略を立てていました。
6月7日、博多に戻った秀吉は、国際貿易港・博多の復興に着手しました。
唐入り・・・大陸進出のための布石でした。
さらに、北政所宛の書状からは、秀吉の大陸侵攻の強い決意が読み取れます。
”高麗王に天皇のもとへ出仕せよと命じた
これを高麗が拒否すれば、来年、軍勢をもって成敗する
ゆくゆくは、唐国まで手に入れるつもりだ”
秀吉がその夢を実行に移すのは、九州平定から5年後・・・1592年文禄・慶長の役です。
しかし、7年に及んだ無謀な対外戦争は、泥沼化の一途をたどり、そして・・・秀吉の死によりようやく戦いは幕を閉じたのです。
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