日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:慶長の役

その日、京の都で歴史を揺るがす大事件が勃発しました。
戦国の覇者・織田信長が、明智光秀の襲撃を受け自刃!!
本能寺の変です。

島津の陣風 義久の深謀、義弘の胆力

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信長亡き後、いち早く後継者として名乗りを上げたのが羽柴秀吉です。
秀吉は、並み居る強敵を退け、畿内統一を果たし、天下人への階段を登り始めていました。
一方、畿内から遠く離れた九州では、薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津が、急速に領土を拡大!!
九州6カ国の守護職を兼ねた大友と二大勢力に分かれていました。
この時、鎌倉以来の名門・島津家を率いたのが、16代当主の義久。
政をよくする深謀遠慮の名将と知られる戦国大名でした。
その兄を支えたのが、義弘・歳久・家久の三人の弟たちでした。
いずれも武略に秀でた猛将でした。
この島津兄弟の名が天下にとどろいたのが、現在の宮崎県北部で行われた耳川の戦いです。
大友と雌雄を決した一大合戦です。
両軍合わせて7万の大激突!!
戦いは平地におびき出した大友の軍勢を島津の伏兵が銃撃!!
結果、大友軍は総崩れとなりました。

鉄砲を一人前の武士が扱えないと薩摩の武士ではない!!
そして、集団的に鉄砲が使える・・・
必ず平地におびき出して、雌雄を決する!!
そうなれば、鉄砲の威力は存分に発揮できます。
もうひとつ養成したのが忍び(狙撃手)でした。
相手の大将を殺して戦場を離脱できる忍びがいる・・・!!
敵の大将狙い、平地戦で圧倒的な優勢を占めるのです。

こうした4兄弟の活躍で、劣勢に立たされた大友は、起死回生の一手に打って出ました。
秀吉に助けを求めたのです。
そしてその結果・・・

1585年10月、関白に就任し、羽柴から豊臣となった秀吉は、九州に停戦命令を発令。
もし、勅命に従わなければ、必ずや成敗すると島津を牽制します。
この一方的な停戦命令に、どう対処すべきか??
当主・義久は重臣を集め、軍議を開きました。
この時、大勢を占めたのが「秀吉、おそるるに足らず」という意見でした。

島津家は、源頼朝以来の名門!!
それに比べ秀吉は、由来の分からぬ人物に過ぎない・・・!!
そんな人物を関白と認めるなど、笑止である!!

軍議の結果、静観することに決しました。
これが覆ったのが、大坂から戻った使者がもたらした報告でした。
秀吉は、停戦令に加え、九州の国分け案を提示しました。
国分けとは・・・??
領土を各大名に分け与えることです。
大友には北九州の国々を、島津には薩摩など三州に加えいくつかの国を分け与えるというものです。
秀吉は、九州を思うがままに分割しようとしたのです。
九州全土の制覇を目標にした島津にとって、この秀吉の国分け案など、受け入れられるわけがありませんでした。

1586年6月、島津軍、大友領へ侵攻開始。
島津勢は、停戦令を破り、ついに大友領へと進軍。
たとえ秀吉が襲来しようと、島津にこの時勝算がありました。
ゲリラ戦によって、泥沼の選挙区情勢に持って行けると考えていました。
島津をせん滅するのは、不可能に近いものがありました。
さらに、秀吉にはこの時期、畿内を留守にできない事情がありました。
徳川家康との対立です。
小牧長久手の戦いでは、家康に思わぬ敗北を喫しました。
この両者の戦いは、各地に飛び火し、長期戦の様相を呈していました。

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そしてそんなさ中・・・1585年11月・・・天正地震!!
地震は、中部地方と近畿を襲い、秀吉方の多くの城が崩壊しました。
長期化する家康との対立、そして大地震で壊れた城の復興など、秀吉が九州に攻め入る暇はありませんでした。

島津軍が大友領に攻め入ってから3か月後・・・
畿内を留守に出来ない秀吉に代わり、仙谷秀久や長宗我部元親など四国の軍勢が九州に派遣されました。
そして、末弟・島津家久が豊臣軍と激突!!
現在の大分県大分市で行われた戸次川の戦いです。
川を渡り進軍する豊臣軍に対し、島津の伏兵による鉄砲が火を噴きました。
この攻撃で、豊臣軍の名のある武将たちが戦士・・・
史料には、豊臣方の負けっぷりは表現のしようがないと書かれています。
この大勝利により、島津軍は大友の拠点・府内の占領に成功。
九州全土の制覇は目前にありました。
ところが・・・九州から遠く離れた畿内では、不測の事態が・・・!!
1586年10月、徳川家康が秀吉に謁見。
秀吉に、家康が屈したのです。
これで、秀吉に後顧の憂いは無くなりました。
次の狙いは島津!!
今度は、秀吉自ら九州へ向かうことに決したのです。

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1587年3月1日、豊臣秀吉、九州出陣!!
秀吉は、40カ国に動員を命じ、20万の大軍勢で九州に向かいます。
当時の記録には・・・
本願寺の僧侶、京や堺の豪商までお供に加え、まるで大唐まできり従えるかのような前代未聞の大軍勢であるとあります。
九州に上陸した秀吉は、高山右近や蒲生氏郷、前田利長など畿内周辺の大名を率いて肥後方面を南下。
一方、弟の秀長は、毛利輝元や宇喜多秀家、長宗我部元親など中国四国勢を率いて日向方面を進軍しました。
この日向方面で、両軍が激突したのが九州平定の分岐点となった高城合戦です。
島津方の城・高城は、小丸川を自然の障壁となし、東を日向灘・南北を台地に覆われた堅固な要塞です。

高城は、大分や熊本・鹿児島を結ぶ交通の要所・・・標高60メートルの台地の上に築かれた山城です。
4月6日、秀吉の弟・秀長率いる10万の豊臣軍が高城を包囲。
それに対し、籠城した島津方の兵は、わずか1300あまり・・・!!
ところが、高城は、三方を断崖絶壁に囲まれた難攻不落の城・・・!!
さらに、西に続く尾根には、堅固な防御施設・堀が施されていました。

鉄壁の高城を攻めあぐねる豊臣軍・・・!!
この城をどのように攻略すべきか・・・??
豊臣軍が目をつけたのが、城の南側にある根白坂と呼ばれる場所でした。
豊臣軍は、高城から2キロ離れた根白坂周辺にも陣を築きます。
島津軍本隊の襲撃に備え、豊臣軍はわずか10日ほどで巨大な堀や土塁を築き、堅固な陣を急造したと考えられます。

4月17日夜・・・豊臣軍の思惑通り、高城救援のため島津家当主・義久自らが出陣!!
弟・義弘や、家久が前線に向かい、根白坂の豊臣軍に用地をかけました。
高城を救援するためには、根白坂に築かれた豊臣軍陣地を突破する他ない!!

突撃する島津勢は、豊臣軍が築いた長大な堀の突破を試みます。
しかし、堀は深く、下りることすら容易ではない・・・!!
さらに・・・豊臣軍は、数千丁の鉄砲を用意し、雨あられの降るごとく一斉に掃射!!
これによって、島津の兵は、堀底でみな討ち捕らえられてしまいました。
豊臣軍の巨大な防御施設を前に突撃した島津兵のほとんどが戦死!!
その結果、島津勢は撤退するほかありませんでした。

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義久は、この敗戦からわずか4日後、豊臣軍に降伏を申し入れました。
高城が開城したのはその8日後のことです。
鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺・・・
1587年5月8日、泰平寺に対陣していた秀吉の前に、頭を丸め出家した島津家当主・義久が出頭しました。
義久は、正式に降伏を申し出たのです。
ところが・・・戦いは終わったわけではありませんでした。
降伏に異を唱えた弟・歳久が、居城・虎居城に籠城。
あくまでも秀吉に抵抗する姿勢を見せていました。
三方を河川に囲まれた虎居城・・・高城同様、断崖絶壁・堅固な防御施設のある山城です。
こうした難攻不落の城に籠城したのは虎居城の歳久だけではなく、兄・義弘も徹底抗戦を辞さない構えを取っていました。
さらに、各地に居城を持つ島津の重臣たちも、秀吉に抵抗する姿勢を崩しません。
当主・義久が降伏を示したにもかかわらず、あくまでも抵抗を続ける島津の武将達・・・
秀吉は島津をどう処分すべきか??

戦に勝利した秀吉・・・
しかし、秀吉を取り巻く状況は厳しいものでした。
この時、九州は梅雨の只中にありました。
長引く大雨でがけ崩れなどが頻発していました。
悪天候で、畿内から食料の海上輸送も滞り、病人が続出・・・連日、餓死者の出る有様でした。
島津を滅亡させるか、島津一国にするのか・・・??

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秀吉が降伏を申し出た当主・義久に与えた赦免状が残されています。
日付は天正15年5月9日!!
泰平寺での対面の翌日です。

”この度、関白秀吉様が薩摩まで出陣し、島津を討ち果たす目前に義久が一命を捨てて出頭したので赦免する
 然るうえは、薩摩一国を与える”

秀吉は、義久に薩摩一国を安堵することを選択しました。
さらに、秀吉は義久と同じく、降伏した末弟・家久の領土を安堵。
後に恭順した義弘も、大隅一国を安堵されました。
島津家は、兄弟の領地を併せ参加国を安堵される結果となりました。
しかし・・・島津四兄弟のうち居虎城の歳久だけ秀吉との対面を拒絶!!
そればかりか、歳久は秀吉の帰り道を狙い、輿に矢を放ちました。
秀吉にとって、九州平定は凱旋の帰還とは程遠い帰還でした。

秀吉の正妻・北政所に漏らした本音が書状に残されています。

”今回の九州出陣では、非常に苦労が多く、そのせいか白髪ばかりが多くなり、抜いても追いつかないほどになってしまった”

どうして、秀吉は島津に対して三カ国も安堵したのでしょうか?
そこには”唐入りの準備”がありました。
島津がもっている明国とのパイプ、これは捨てなくてもいいのではないか??
特に、義久は中華商人のネットワークを持っていました。
島津の交易における信用・信頼関係と情報力を見て秀吉は戦略を立てていました。

6月7日、博多に戻った秀吉は、国際貿易港・博多の復興に着手しました。
唐入り・・・大陸進出のための布石でした。
さらに、北政所宛の書状からは、秀吉の大陸侵攻の強い決意が読み取れます。

”高麗王に天皇のもとへ出仕せよと命じた
 これを高麗が拒否すれば、来年、軍勢をもって成敗する
 ゆくゆくは、唐国まで手に入れるつもりだ”

秀吉がその夢を実行に移すのは、九州平定から5年後・・・1592年文禄・慶長の役です。
しかし、7年に及んだ無謀な対外戦争は、泥沼化の一途をたどり、そして・・・秀吉の死によりようやく戦いは幕を閉じたのです。

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佐賀県唐津市・・・今から400年以上前、ここに戦国時代屈指の巨大な城がありました。
豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城です。
高層の店主がそびえたち、周囲には全国の大名たちが陣を構えました。
城郭都市の人口は、30万人に及んだといわれています。
城の巨大さは、秀吉の大陸侵攻への野心の大きさでした。

秀吉が起こした文禄・慶長の役・・・
中国の王朝・明の征服を目論み、朝鮮半島を戦火に巻き込んだ対外戦争は、7年も続きました。
この無謀な戦争を止めるべく、講和交渉を担ったのが小西行長でした。
行長は、日本と朝鮮・明との講和を早急に実現しようと奔走します。
しかし、積年のライバル加藤清正が立ちはだかりました。

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玄界灘を望む交通の要衝に築城された肥前名護屋城・・・
面積17万平方メートルに及ぶ、当時日本最大級の城でした。
秀吉は、ここを拠点に大陸侵攻への野望を実現しようとしました。
秀吉の野心が記録に現れるのは・・・
織田信長の死後、その後継者となった秀吉が周囲の大名を次々と従え、天下に号令をかけようとしていたその時です。

「日本のことは申すに及ばず 唐国まで仰せつけられ候 こころに候」

関東の雄・北条氏を滅亡させ、遂に天下統一を成し遂げた秀吉・・・ここから大陸侵攻の意思をあからさまにしていきます。
建国以来、200年となる朝鮮王朝を経由し、中国・明に攻め入ろうとする壮大な計画・・・当時は唐入りと呼ばれました。
肥前名護屋城は、その前線基地でした。
城跡からは、秀吉の対外戦争にかける意気込みが浮かび上がってきます。
大手口から城の本丸へと向かうと・・・本丸には、壮麗な建物が並び立ち、高僧の天守がそびえていました。
玄界灘、そして大陸に睨みを利かすかのような巨大なシンボル・・・さらに、この城には、当時最先端の防御の工夫がなされていました。
秀吉の居館があった山里口・・・複雑に門が組み合わさっています。
外枡形をより発達させた門で、敵の侵入を防ぐために、屈曲が連なっています。
この連続外枡形は、後の熊本城や姫路城に採用され、近正の城郭に大きな影響を与えたと思われます。

城の周囲には、商人たちが城下町を形成していました。
人口は、爆発的に急増し、その数2,30万に達したといわれています。
今日や大阪、堺の商人でにぎわっていました。

”肥前名護屋は、日本一の港町である”

それだけではありません。
城を中心とする半径3キロ圏内には、各地の大名が集結・・・
現在確認されているだけでも、150もの陣が築かれていました。
東北から九州まで、日本中の大名が集められたのです。

大名の陣には、能舞台だけでなく茶室まで整備されていました。
大名たちは秀吉の命令に従い、城の周囲に堅固な陣を築き、長期的な対陣を覚悟していました。
この肥前名護屋城を拠点に、総勢30万もの大軍勢が動員され、7年に及んだ大戦争・・・
文禄・慶長の役が始まるのです。

熊本県宇土市・・・かつてここに、小西行長の居城・宇土城がありました。
現在、城跡に残る石垣は、行長の後にこの地を治めた肥後熊本藩主・加藤清正時代のものです。
行長が作った石垣は、この石垣の中にパックされています。
行長の痕跡は、積年のライバル・清正によって、跡形もなく消え失せています。
宇土城の本丸に建立された小西行長像・・・キリシタン大名として知られていましたが、関ケ原の戦いで西軍に属し、時代の敗者となりました。

行長は、初め備前の戦国大名・宇喜多氏に仕えていたと考えられています。
その後、宇喜多氏が織田信長と手を結んだことで、当時、信長配下で中国方面の攻略を担っていた秀吉に仕えることになったといわれています。

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信長の書状に、当時の行長の活躍が記されています。

”毛利方の警護船200艘ばかり海上を上がってきたところ、行長が船で乗り出し敵を追い払った
 実に素晴らしい働きである”

当時、来日した宣教師・フロイスも、こう記録しています。

”行長は海の司令官である”

こうした海での活躍が、信長・秀吉に重んじられた理由だと思われます。
瀬戸内海の、毛利の海ではない海(大阪に近い方)に従わせること・・・
各港の海の民・海賊衆、いざとなったら戦に船を提供してくれる人々・・・行長は、司令官としてその方々を説得して、秀吉政権が上手く回るようにしました。

秀吉の信頼を得た行長は、肥後南部を領する大名に抜擢されます。
この頃、秀吉は、行長はじめ、加藤清正、黒田長政など、子飼いの武将などを九州に配置、唐入りの準備を着々と進めていました。
その中でも特に交渉力に優れた行長に、朝鮮との交渉を担わせることにしました。

1592年3月、行長は朝鮮とのかかわりが深い対馬の宗氏と共に事前工作に奔走します。
目的は、仮道入明・・・朝鮮に道を仮、明に攻め入ることでした。
秀吉の計画は、肥前名護屋城から軍船を仕立て、壱岐・対馬を経由し、朝鮮に上陸。
兵を進め、明に侵攻するというものでした。
それには、朝鮮の協力が必要だったのです。

しかし、長きにわたって明を宗主国としてきた朝鮮が、こうした要求を受け入れるはずがありませんでした。
秀吉は、あくまで強硬姿勢を貫きます。
朝鮮が異議を申し立てるようなことがあれば、対峙すべきである!!
武力で朝鮮に攻め入ることになるのか・・・??
行長は、難しい交渉を託されたのです。
そして結果は・・・朝鮮は、日本に対する協力を正式に拒否!!
4月12日、行長はおよそ2万からなる第1陣を率いて朝鮮・釜山に上陸・・・文禄の役です。
翌日、早くも釜山の城を攻め、これを陥落させることに成功します。
戦闘は、僅か半日ほどで終了しました。
この時、勝敗を左右したとされるのが、当時の日本の主力兵器・鉄砲でした。
戦に習熟した秀吉の軍勢は、200年の泰平を維持してきた朝鮮王朝にとって、大きな脅威となりました。
釜山を陥落させた行長は、破竹の勢いで進軍!!
その4日後、加藤清正率いる第2軍が上陸します。
両軍は競い合うように朝鮮王朝の首都・ハンソン(漢城)・・・ソウルを目指しました。
そして、上陸から1月足らずで・・・5月20日、行長率いる第1軍がハンソンに入城しました。
この時、行長は、朝鮮に対し降伏を促す書状を作成・・・無益な争いを避けるため、これを朝鮮軍に届けようとしました。
ところが・・・加藤清正の軍勢に行く手を阻まれ、書状を届けることができなかったのです。
同じ日本軍とはいえ、行長と清正の戦略は違っていました。
清正は、秀吉に命じられた通り朝鮮の武力制圧、明への侵攻を目指しました。
そんな清正にとって、朝鮮との交渉を目指す行長の行動は、許しがたいものでした。
2人が手紙で相談したやり取りは、1通も残っていません。

清正との対立によって、朝鮮との交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
そこで行長は、さらに北上を続け、明との国境に近い平壌まで進出!!
今度は、明との直接交渉に臨もうとしました。
しかし、そんな行長の思いとは裏腹に、明は朝鮮の援軍のために大軍勢を平壌に向かわせていました。

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文禄の役・・・
行長率いる第一軍に続き、総勢16万の日本の軍勢が海を渡り朝鮮全土に侵攻しました。
行長はじめ、加藤清正、黒田長政、小早川隆景など、武将たちは朝鮮各地に・・・それぞれの地域を制圧しようとしました。ところが、文禄の役は僅か2か月でほころびを見せ始めます。
陸では、郷土防衛のため、朝鮮の有力者が地元の人々を義兵として組織、各地でゲリラ戦を展開し、日本を苦しめました。
さらに、海では朝鮮水軍を率いるイ・スンシンが、日本の軍船を各地で撃沈!!
これにより、日本からの兵糧や軍事物資の輸送がままならなくなっていました。

1592年8月・・・明との直接交渉を模索していた行長は、朝鮮在陣の武将たちと軍議を開きます。
このまま民へ侵攻するのは難しい・・・そこで決議したのが、年内への明への侵攻の延期でした。
1593年1月、明・朝鮮の連合軍5万の大軍勢が、行長のいる平壌を襲ってきました。
その攻防戦を描いた屏風では・・・鉄砲を駆使し、大軍を退けようとする行長の軍勢が書かれています。
しかし、およそ7000という少ない行長軍は、連合軍の総攻撃を前に、ピョンヤン撤退を余儀なくされてしまいます。
勢いに乗じた明・朝鮮連合軍は、首都・ハンソンを目指し南下・・・そこを、小早川隆景らが迎撃・・・ピョクチェグァンの戦い。
今度は明軍を撤退させます。
戦線は膠着・・・ここに、講和の期は熟したとみた行長は、明との接触を試みます。
戦争は、始めたら終わらせなければならない・・・その時、相手の国との交渉を行い、戦争開始よりも利益を得ることが大切です。
行長としては、この戦争で何も日本側に利益がきていないことから、相手との落としどころを探りたいと思っていました。

3月、行長は、明の使節との会談が実現します。
その結果、明との一時的な停戦協定が結ばれ、明の勅使の日本への派遣が決定されました。
行長は、その後家臣を明に派遣し、自らは日本と朝鮮を行き来するなど三年にわたって明の勅使を迎える環境を整えることに力を尽くしました。
そして、最終的に秀吉が明の勅使を受け入れるための条件を3つにまとめます。

①朝鮮の王子を来日させ秀吉の臣とする
②日本と明の間で勘合貿易を行う
③朝鮮八道のうち四道は日本領とする

当時、朝鮮は八道と呼ばれる行政区に分けられていました。
秀吉が求めたのは、南四道・・・明との交渉にあたり、これが一番の問題でした。
この時、明は日本に対して、朝鮮からの全軍撤退を求めていました。
互いに折り合わない条件の中、明との講和をどう実現すべきか・・・苦悩する行長・・・!!

時間をかけて講和条件を詰めていく??
それとも、秀吉と明勅使との対面を優先して講和の既成事実を作る・・・??

1596年9月1日、秀吉と明の勅使の対面が実現します。
行長の努力が実ったのです。
行長は、講和条件についてはいったん棚上げし、対面を優先したのです。
勅使から秀吉に対し、明の皇帝の言葉が伝えられました。

”ここに特になんじを封じて日本国王と為す”

柵封といわれる措置です。
皇帝から国王として承認を受けることで、中国と朝貢貿易を行うことができました。
近年の研究では、莫大な貿易の利益を生む条件に、秀吉は満足したと考えられています。
こうして両者の対面はうまくいき、秀吉も上機嫌でした。
行長は、事前に明の勅使に対し、領土問題を口に出さぬようにくぎを刺していました。
ところが・・・面会を終えた明の勅使が宿所に戻った時、事件が起きます。
勅使歓待のために派遣された日本の高僧が秀吉のこんな言葉を伝えたのです。

「おのれに対して要求するものはなんでも正直に言うがよかろう」

この言葉を聞いた明の勅使は、思わず朝鮮に駐留する日本の軍勢の撤退を口にしてしまったのです。
後でそれを伝え聞いた秀吉は激怒!!

「彼が激怒したのは、講和を結ぶためには朝鮮国の半分だけでも入手する己の考えを忘れてはいなかったからである」byフロイス

ここに、行長の講和交渉は頓挫してしまいました。
1597年2月、秀吉は再び朝鮮出兵を命じます。

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14万余りの大軍勢が渡海し、およそ2年に及んだ慶長の役が始まりました。
今度の戦は、明に攻め入るためではなく、秀吉がこだわった南四道への侵略が目的となりました。
秀吉は容赦なく、「老若男女、僧俗に限らず、あまねくなで斬りにせよ!!」と言明しました。
これにたいし、明や朝鮮は事前に戦闘態勢を整え、日本軍を迎え撃ちます。
行長も、1万5000の兵を率いて出陣!!
戦闘の傍ら講和を模索し続けます。
しかし、郷土防衛に徹する朝鮮に、日本との講和など考える余地もありませんでした。

朝鮮側の資料に、行長の言葉が残されています。

「朝鮮は文禄の役のとがを私の責任にしているが、それは事実ではない
 私は秀吉の命に従っているだけである」

自ら望んでいない戦いを強いられた行長の本音が垣間見えます。
戦闘は激しさを増し、凄惨を極めます。
京都にある耳塚・・・日本軍が戦果として持ち帰った耳や鼻を埋めて供養した塚です。
日本軍は、朝鮮の兵士のみならず、民衆に至るまで武力で蹂躙・・・各地に深い傷跡を残していました。
泥沼化の一途をたどった慶長の役・・・1598年8月・・・秀吉の死去と共にようやく幕を閉じました。

大陸侵攻の前線基地として築かれた肥前名護屋城・・・!!
秀吉の野望のシンボルは、僅か7年でその役割を終え、人口30万を誇った城郭都市と共にやがて消え失せていきました。

文禄・慶長の役に動員された全国の大名は、新たに獲得した土地もなく、莫大な戦費ばかりを負担することとなりました。
その不満の矛先は、講和交渉に失敗し、戦を長引かせた小西行長や石田三成に向けられました。
一方、朝鮮に出兵することなく国内で実力を蓄えた徳川家康の権勢は増しました。

1600年9月15日、三成や行長は、反家康の軍勢を集め挙兵!!
東軍と西軍を二分した関ケ原の戦いです。
わずか半日で決した戦いは、行長が属した西軍の敗北となりました。

行長は、三成と同じく西軍の首謀者として捕らえられ、10月1日処刑・・・43年の短い生涯だったと伝えられています。
江戸時代以降、行長は家康に歯向かった大悪人として伝えられ、その実像は覆い隠されました。
1980年、没後380年を記念して、行長の銅像が建てられました。
しかし、落成後、すぐにトタンでおおわれいます。
当時、まだ大悪人のイメージがついていて、反行長派の破壊行為から銅像を守るために2年間もおおわれていました。
宇土の地域で神社仏閣を焼き払ったという誤った伝承があり、市民感情が非常に悪かったのです。
小西行長は、歴史に何を残したのか・・・??
その評価は、今でも問われています。

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「小西行長 講和への模索・・とめられなかった文禄・慶長の役・・」




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 小西行長・・・1555年、豪商の次男として生まれました。小さい頃から教会で、キリシタンの教義を学んだと言われています。
備前・宇喜多家に仕えていましたが、豊臣秀吉が織田軍中国方面司令官として備前に攻めてきたので・・・秀吉に属するようになりました。

yukinaga
秀吉に重用された行長・・・
1582年ごろには、物資の海上輸送について、責任のある立場にあったようです。
ぐんぐんと秀吉の信頼を勝ち取って・・・船奉行として水軍を率いるまでになりました。


文禄・慶長の役では、行長は秀でた統率力を示します。
第1軍の司令官として、1万の軍勢を率いて先鋒に立ちます。
計算もでき・・・部下からの信頼も厚かったようです。


しかし、キリシタンのため、戦いを好む性格ではなかったようで、講和を好み、極力犠牲者を出さない様に・・・日本軍の侵攻ルートを敵に知らせたり、女子供を逃がしたりしています。

関ケ原の合戦では、西軍の主力として6000の兵を与えられ戦いましたが、西軍が敗退。。。
行長は、伊吹山中で村人に捕えられ、家康側に引き渡されたのでした。


その村人は、関ヶ原の庄屋・林蔵主。
近くの山中で、落人に声をかけられた林蔵主・・・
その落人は小西摂津守と名乗ります。
「内府(家康)のもとに連れて行き、褒美をとれ」と言われます。
「とんでもない!!」
と、早く逃げるようにすすめると・・・

「自害するのはたやすいことだか、われはキリシタンである。
 キリシタンの法では、自害は禁じられているのだ。」by行長

やり取りの末に、林蔵主は説き伏せられ・・・やむを得ずその落人・小西行長をとらえ、自宅に隠しました。
その後、関ケ原領主の竹中重門(あ・・・半兵衛の息子ね。)の家老に事情を話し、ともに行長を護衛して、家康の陣営である草津の村越茂助の元へ連れて行きました。
茂助は行長に縄をかけ、林蔵主に金10両を与えたと言います。


行長が捕らえられた2日後に三成が,その翌日には安国寺恵瓊が捕らえられます。
3人は9月29日に大坂および堺の町を引き廻され,10月1日,京都の六条河原にて処刑された後,首は三条河原で晒されました。


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小早川秀秋・・・彼は、豊臣秀吉の正室・おねの甥で、幼い頃養子となりました。
10歳で丹波国亀山城10万石を与えられ・・・その後秀吉に実子・秀頼が生まれたので小早川隆景の養子に出され、その後継者となりました。

hideaki

出されたとはいえ、秀吉は秀秋をかわいがり、筑前国名島36万石の大名にしています。

慶長の役では、総大将として渡航。
しかし、この時戦略を巡って石田三成と対立し、軽挙に出てしまいました。
秀吉はこの事を怒り、秀秋を処罰しようとします。


が・・・家康がその場をとりなし秀秋を助けたのです。
そう・・・家康が恩を売ったのでした。

慶長5年7月、秀秋は西軍に属し、家康軍の武将・鳥居元忠らが守る山城国伏見城を攻撃します。
その一方で、秀秋は密使を送って家康側と通じ、伏見落城後は病気療養を理由にして、近江国高宮に陣を置いたのです。

9月14日、秀秋のもとに書状が届けられました。秀頼が15歳になるまで秀秋に関白職を委ねたい。。。
播磨国を加増するなどの条件を記した誓約書です。
三成と小西行長の連名で、秀秋に再度出馬を申し入れたのです。

拒否し続ければ、西軍に包囲されるかも???

秀秋はこの要請を承諾してしまいました。
再び家康と内通し、戦が始まれば東軍に寝返ると・・・内応していました。


9月15日、関ヶ原の決戦の火蓋が切られました。
東西両軍は攻防を重ねます。。。が・・・
正午近くになっても小早川軍は日和見を続け・・・行動を起こす気配が全くなし!!
そこで、西軍は狼煙をあげて秀秋に戦闘への参加を促します。

「あの小倅に謀られたか・・・??
 金吾の陣に向け、鉄砲を撃て!!」

と、命じました。
金吾???金吾とは、秀秋の通称で・・・「金吾中納言」から来た呼び名です。

その銃撃で秀秋は意を決し、正午過ぎ、小早川軍1万5000余りは東軍に寝返り、家康を勝利に導いたのです。

秀秋は戦功の恩賞として、備前岡山城主となったのです。
しかし、わずか1年でその生活も終わりを迎えることとなります。

諫言した家老・杉原紀伊守を殺すなどの乱行ぶりが伝えられ、さらに国政が乱れていきます。

家老の稲葉正成、平岡頼勝らも秀秋を見限って出て行ってしまいました。

若くして大封を与えられたプレッシャーから、関ケ原の合戦における自らの行動に対する悔恨からか、さまざまな要因も絡みノイローゼ気味に。。。

頼れるべき家臣もおらず、それも災いし。。。
関ケ原の合戦からわずか2年後、秀秋は21歳という若さで病死しました。

世間からは、裏切り者のレッテルを張られた哀れな最期でした。
なお・・・小早川家は子供が居なかったために断絶となっています。

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