昭和の時代はお札の顔として親しまれ、”和を以て貴しとなす”で知られる憲法十七条、そして色で役人の身分を区別した冠位十二階など、日本の礎となる功績を数々残した聖徳太子・・・まさに、古代史最大の英雄です。
しかし、近年その聖徳太子を巡って様々な議論が巻き起こりました。
2017年、中学校では聖徳太子ではなく厩戸皇子の表記が優先されるとなりました。
聖徳太子がいなかったという虚構説まで・・・!!
私たちのよく知っている聖徳太子とは一体何だったのでしょうか?

飛鳥時代、古代日本の最大の転換点を生きた聖徳太子・・・その実像とは・・・??
聖徳太子に新しい光を当てる研究とは・・・??

太子について書かれている書物は、奈良時代に編纂された日本書紀など少ししか残っていません。
太子について書かれた書物・・・資料が極めて少ないために、謎に包まれています。
近年話題となったのが、聖徳太子虚構説です。
ひとりの有力な王族「厩戸王」はいたが、聖徳太子の功績は後世に作られたものだという説です。

憲法十七条も、奈良時代に日本書紀が編纂されたときに創作されつけ加えられたとされます。
しかし、それはありえない・・・??

第一条の和を以て貴しと為し・・・”以和爲貴、無忤爲宗”の無忤は、聖徳太子が生きた時代に近い中国南北朝時代の伝記が多いことがわかります。この文献を参考にして作られたものではないか??
南北朝時代の成実諭師・・・当時流行した「成実論」を勉強した人が良く使う単語なのです。
成実論は、中国の南北朝時代(5~6世紀)に流行した仏教書で・・・しかし、7世紀、唐の時代になった頃には否定され、重視されなくなっていました。
つまり、その後、奈良時代になって否定された文献を用いて憲法十七条を作ったとは考えにくいのです。
唐の時代には、批判されて、使われなくなった表現を使うというということは、虚構説の根拠の一部が崩れるのではないか・・・??

奈良県明日香村・・・
飛鳥時代に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺があります。
南北300m、東西200mの敷地に立ち並ぶ、壮麗な伽藍・・・
当時は朝鮮半島から最先端の技術を持つ工人を招いて作られた巨大な寺院でした。
飛鳥寺を建てたのは、蘇我馬子。
大臣として50年以上、4代の天皇に仕え、蘇我氏の黄金時代を築いた大豪族です。
馬子は聖徳太子と共に、仏教で国を治めることを目指しました。
その足掛かりとして飛鳥寺を建立したのです。
昭和32年、飛鳥寺の軒丸瓦が発見されました。
中央に5つの点があり、その周りには花伝が九つあるという特徴を持つ・・・これは、百済から来日した瓦職人のデザインです。
これと同じ文様の瓦は、聖徳太子が607年に建立したとされる斑鳩寺でも使われていたことがわかっています。
この二つの瓦は、同じ木型を使ったもので、文様が一致しています。
この文様が一致しているお云うことは、飛鳥寺と斑鳩寺が同じ職人たちの手によって作られていることを意味しています。
火災で一度消失し、今の法隆寺となった斑鳩寺・・・
建立された当時も、飛鳥寺に匹敵する寺院であったと推測できます。
斑鳩寺を造営した聖徳太子の非常に強い権力が表れています。
記録は、権力者の意向で改ざんされる余地がありますが、瓦は単なる建築材なので、権力者が改ざんする余地がないのです。
その時代の真実を証明する資料でした。

飛鳥時代、聖徳太子が政治の表舞台に立ったのは、二十歳を迎えようとしている頃でした。
592年、聖徳太子の叔母である推古天皇が即位。
その翌年、聖徳太子は推古天皇のもとで実務を行う皇太子となっています。
太子は、蘇我馬子と共に大和朝廷の中核を担い、新たな国づくりに着手することとなりました。

594年仏教興隆の詔・・・三宝(仏・法・僧)の功徳を広めようとしました。
飛鳥寺に倣い、大阪の難波に、自ら寺を・・・四天王寺を建立します。
聖徳太子の出発点は、馬子と協調して当時倭国と呼ばれた日本を仏教の力で治めようという新しい政治でした。
しかし、ちょうどその頃大陸では動乱の時代が始まろうとしていました。
581年、隋という王朝が誕生・・・
589年には南朝の陳を制圧し、中国に300年ぶりの統一王朝を樹立します。
隋の初代皇帝となったのは文帝でした。
文帝は律令を整備するなど統一王朝に相応しい中央集権化を推し進めていきます。
現在の中国の西安に大興城を築き、東西10キロ、南北9キロに及ぶ巨大な登城は、城内に54に区画された街並みが整然と広がり、かつてない威容を誇っていました。

文帝は、都の中に、国立寺院・大興善寺を築き、ここを仏教興隆の中心とし、多くの僧侶を集めました。
さらに、国内100カ所以上に釈迦の遺骨を納めたといわれる舎利塔を建立。
仏教の精神を隋全土に広めようとしたのです。
巨大帝国隋の存在に脅威を抱いた百済、新羅などの周辺諸国は、使節を送って外交関係を築こうとしました。
倭国は、中国と100年近く交流が途絶えていたので、この様子を静観していました。
こうした中、598年、高句麗が動き出します。
隋と高句麗は、国境線を巡って衝突!!
文帝は、陸海30万の軍勢で高句麗を反撃を開始。
この出来事が、倭国に大きな影響を与えました。
隋と高句麗の戦いのような「外圧」を感じる事件は、5世紀、6世紀にはなかったことでした。
外圧・・・それに押されるように、ついに600年、およそ100年ぶりとなる使者を送りました。
第1回遣隋使派遣!!
こうして巨大王朝隋との外交が始まることとなりました。

隋書によれば・・・
大興城に赴いた大使は、皇帝・文帝に謁見し、倭国の風習をこのように述べたといいます。

”天を以て兄と為し 日を以て弟と為す
 天未だ明けざる時 出でて政を聴き 跏趺して坐す”

倭国では、政を行うのは夜・・・そして日が上がれば政をせず休むというものでした。

”此れ太だ義理無し 是に於いて訓へて之を改め令む”

大変道理に合わないやりかただ
 こんなやり方は改めるべきだ

どの程度文明化されているのか?で、中国は諸国をランク分けしていました。
倭国は隋にかなり低いランクにされ・・・屈辱的、大きな間違いをしてしまったのです。

屈辱的な結果に終わった遣隋使外交・・・しかし、これが倭国の改革の原動力となっていくのです。

中国には「華夷秩序」という考え方があります。
中国を世界の中心=「中華」とし、他国を野蛮国=「夷狄」とする考え方です。
7世紀初めの時点で、隋は世界最強の国家でした。
そんな国と「何らかの関係を結ばなければ・・・」と、倭国も感じていました。

その後の倭国は・・・??
奈良時代の小墾田宮と考えられる遺跡で見つかった墨書土器には、墨で小墾(治)田宮と書かれています。
小墾田宮とは、推古天皇の603年、聖徳太子と蘇我馬子の政の拠点でした。
奈良時代には離宮として使われました。
小墾田宮の復元図によると、天皇の住居だけでなく、朝庭という庭が設けられていました。
これは、外国からの使節を迎える場として利用されました。

当時中国でも多く採用された構造で、それを意識して造られたと考えられます。
それまでの宮殿は、天皇の住まいとしての要素だけでした。
政治・儀式の場を兼ね備えた場所に変わって行ったのです。
都市計画のスタートラインに立った瞬間でした。
これを契機に聖徳太子は新しい政策を打ち出していきます。
603年12月 冠位十二階を制定
役人の服や冠を色分けし、十二の位階で区別したものです。
家柄重視から能力重視の身分制度へと変化したのです。
冠位十二階は、外交政策にも深くかかわっていました。
外交の場は一番の見せ場です。
どう中国に認知されているのか・・・??最重要事項でした。
中国の道徳律を理解しているという表明を削なければならなかったのです。
それが冠位十二階なのです。

色だけではなく、服装に着目すると・・・
この時取り入れられたのは、スカート型です。
これは、昔の中国の役人が朝廷に出仕する時の正装でした。
朝鮮半島ではズボン式が主流でした。
外構の場で倭国はスカートを着用することで、中国の文化を理解しているとアピールできたのです。
完璧な形で中国に対しなければいけない・・・朝鮮半島にも完璧な形で優越する立場でなければならない・・・!!
冠位十二階は、その目的が非常に大きかったのです。

605年斑鳩宮に移住
607年斑鳩寺を建立
斑鳩宮は、飛鳥の中心部から20キロ離れており、大和川流域付近で陸路だけでなく、船でも行きかうことができました。
どうして続けて宮を建てたのでしょうか?
交通の要衝に、二つの都をおき、使節に対する供応・滞留を目的とした・・・中国における洛陽や長安を意識したのではないか・・・??
聖徳太子は、二つの都を大河で結んだ中国に倣って土地開発をしたのでは・・・??と思われるのです。
更に太子は、二つの宮を結ぶ道を整備しました。
それは、太子道として現在も残されています。
この太子道にも聖徳太子のち密な計算が合ったと思われます。
太子道には正方位に対し22度西に傾くという特徴があります。
22度の傾斜とは、小墾田宮と斑鳩宮を最短距離の直線で結んだ角度でした。
他にも、22度に傾いた遺構がたくさんあります。
このことから、斑鳩宮を中心に、整然とした土地整備が行われていたのではないかと考えられます。
太子道によって最短距離で結ばれた二つの宮・・・
斑鳩宮は、難波まで大和川や陸路でつながり、港と飛鳥の中継地点にありました。
聖徳太子の土地開発に狙いは・・・外国からの使節、物資、情報をいち早く都へ届けるという外交政策だったのです。
1回目の遣隋使の時からこの計画はスタートし、中国の先進的なものに倣い、二つの都城を結ぶ道を作っているのです。
中国を意識した改革を、次々と推し進めた聖徳太子・・・
いよいよ満を持して2度目の遣隋使派遣に臨むこととなります。

第1回遣隋使の失敗から改革を進めた聖徳太子は、607年、2度目の遣唐使派遣に踏み切ります。
隋へ向かったのは、小野妹子を筆頭にし、僧侶数十人を伴った使節団でした。
妹子らは、文帝の跡を継いだ隋・第2代皇帝・煬帝と対面することになります。

隋書にその時の様子が詳しく書かれています。
煬帝に謁見した妹子らは、一つの書簡を手渡しました。
それはあの有名な一節から始まります。

”日亥出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す”

その文言を見た煬帝は・・・

「蛮夷の書 無礼なる有らば 復た以て聞する勿れ」

煬帝は、役人に対し、野蛮国が書いた書いたこんな無礼な書簡を二度と私に奏上するなといったのです。

煬帝は中国皇帝を表す”天子”を小国の倭国が用いたことに不快感を示したとされます。
この書簡から第2回遣隋使が倭国が隋に対等の関係を迫る対等外交・・・挑戦的な外交として知られてきました。

しかし、隋書をよく読むと、違う読み方が見えてきます。
「日出づる処の天子」の部分だけが注目されてきましたが、「隋書」には、使者の発言も記録されています。
使者が煬帝に向けた発言には・・・

「海西の菩薩天子 重ねて仏法を興すと聞く」・・・これは、妹子らが書簡を渡すときに煬帝に語った言葉です。
菩薩とは・・・釈迦の智慧を広め、悟りに向かい努力する聖人のことです。
妹子らは、煬帝を菩薩天子と称賛したのです。

「中国皇帝 煬帝は、菩薩のように素晴らしい天子であり、重ねて仏教を復興させている素晴らしい君主だ。
 そのために倭国は、その君主を拝むために使者を派遣して参りました。」と。

それから対等に・・・というのはかなり無理があるように感じられます。

使者が語った「重ねて仏法を興す」という言葉は、煬帝の父・文帝の時代に編纂された中国の書物に数多く書かれています。
倭国の使者の発言には、都に大寺院を建立し、隋全土に舎利塔を作り、仏教を国の礎にしようとした皇帝への畏敬の念が伺えます。

書簡の文言では不快にさせたものの、隋の国柄をきちんと学んできたことを倭国は最大限にアピールしました。
それが功を奏したのか・・・倭国に関心を示しました。
翌608年、隋が裴世清を倭国へ送ります。
倭国は大国隋からの使節を歓迎しました。
裴世清たちは、倭国の玄関口・難波の港に入り、太鼓、笛の演奏でもてなされました。
その後、斑鳩宮を通り、小墾田宮まで至ったと考えられます。
そして、煬帝からの国書が手渡されました。

「遠くの国から朝貢しに来たその真心をうれしく思い 裴世清を送る
 そして贈り物を授ける」

煬帝は遠路はるばるやってきた遣隋使の忠誠心を褒め称えました。
倭国が大国・隋から認められた時でした。
屈辱の第1回遣隋使から8年・・・聖徳太子の努力はようやくここに結んだのです。
その後も遣隋使は続き、618年、隋から唐に王朝が変わった後も、遣唐使へと引き継がれました。
飛鳥時代から奈良時代へ・・・
古代日本の礎となった中国との交流・・・遣隋使は、その扉を開いたのです。

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