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「国民が、国家に対して”万歳”と呼ぶ言葉を覚えたのも、確かこの時代から始まったように記憶している。」By.永井荷風。

1889年2月11日、日本で大日本帝国憲法が発布され人々はお祭り騒ぎとなりました。

「憲法発布」を「絹布法被」と間違え、天皇から豪華な贈り物を頂ける・・・というデマまでありました。

しかし、明治維新からそれまでの20年、長く険しい道のりでした。
なぜなら、日本が国家の骨組みは何かを探す、大漂流時代だったからです。


新しい国のかたちを探して海外へ出た「岩倉使節団」。

庶民の間でも白熱した憲法談義が盛んでした。
私擬憲法は、50以上、庶民も国家づくりに夢を描きました。
国家が近かった時代、誰もが近代国家にならなければ!!と、思いつめていました。
それが、脱亜入欧の第一歩だったからです。

「憲法がないと、西洋に認められない!!」
アジアで初めて憲法を生み出そうという気概がありました。
体裁を整えて猿まねをするのではなく、自分たちで・・・!!


1853年ペリー来航に対し、幕府は対応しきれなかった。。。このままでは駄目だ!!
と、近代化とぺーりー来航が、憲法のきっかけとなりました。
そして、この憲法こそが、”国のかたち”だったのです。

1868年の明治元年、京都御所では五箇条の御誓文が高らかに宣言されました。

第1条「広く会議を起こし万機公論に決すべし」

しかし、開かれた国家ビジョンは見当たらず・・・

1871年11月12日、横浜から船が・・・欧米14か国を回る新政府の切れ者が46人出発しました。
代表は「岩倉具視」
目的は、不平等条約の改正と、政治経済・教育などの視察でした。

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そこには、31歳の伊藤博文もいました。
伊藤は、この旅で近代国家のビジョン、とりわけ憲法の大切さを知ることになるのです。

1871年12月6日、アメリカのサンフランシスコに着きます。
初めて西欧の文化を目の当たりにします。

1872年1月21日に、ワシントンで民主主義の心臓部となる議会を見学、議論の飛び交う議会に衝撃を受けるも・・・

「議員を公選し、法律を多数決で決めるのは、一見実に公平に見える。
 しかし、上下院の議員全員が、最高の秀才たちではありえないから、大議論ののちに多数決で決めれば、上策が採用にならず、下策がとられることが多い。
 これからは、全て共和政治の残念なところだ。」

と、分析しています。


使節団はその後、イギリスを経てヨーロッパ大陸へ。

フランスは、パリコミューンの混乱が冷めやらず混乱の中、自由と権利を与えすぎた民衆の恐ろしさを実感します。

3つの大国を巡って1年、憲法を見いだせないままドイツへ・・・。
オットー・フォン・ビスマルクとの出会いに衝撃を受けます。
このビスマルク、出遅れた新興国ドイツを率いて、フランスとの戦争に次々と勝利していました。
そのビスマルクの語った国際政治の本質とは・・・?

「国と国との関係は、”万国公法”という国際ルールに基づいている。
 しかし、そんな約束事は絵空事にすぎない。
 大国は自分に利益がある場合は”万国公法”に従うが、ひとたび不利と見ればたちまち軍事にモノを言わせてくる。」


この”万国公法”とは、19世紀後半に尊重された国際ルールです。
そこには、国際紛争が発生した際の取り決めや、和平交渉のやり方が書いてありました。
日本はこれを近代国家の証と考えていました。

しかし、ビスマルクはこれを一笑し、植民地化の進む中、”万国公法”=ザル法にすぎないと言ったのです。

「国際社会で小国が主権を守るためには、国家を強くしなくてはならない。」
そのためにはまず・・・
「国民意識」を養わなくてはならない。
近代国家に相応しい国民を作るためには憲法がやはり必要だ!!
日本の憲法作りはここからスタートしました。
ビスマルクの言葉に目を覚ましたのです。

そして、その憲法の必要性をベルギーで見出します。
ベルギーは、世界で初めて立憲君主制の成文憲法を制定した国です。
こんな小さな国が、大国に挟まれながらも独立国としてやっていけているのは憲法があるからだ!!

日本にはまだ、国民という意識がまだない。。。
しかし、ベルギーは、主君と国民が一体となっている!!

憲法の重要性を確信して帰国した彼らを待っていたのは、新政府の分裂でした。
朝鮮との外交問題を政治の中心課題とした西郷・板垣に対し、岩倉らは国力の充実こそが最優先・・・。
と、対立し、日本各地で反乱がおきます。反乱を起こしたのは、江戸時代の特権階級、特権を無くした武士達でした。

政府はかろうじて鎮圧したものの、憲法起草にかかる余裕がありません。
そんな政府をしり目に、庶民の間に広まった思わぬ動きがありました。

仕掛け人は、西郷と共に新政府を離れた板垣退助でした。
1874年板垣退助は、民選議員設立建白書を政府に提出。
国民が、政府に参加できる議会の設立を、政府に要求しました。
武力でなく、言葉の力とそれを支持するものの数で、政治を動かそうとしました。

自由民権運動の始まりでした。

さらに、自由民権運動は、人形芝居にもなりました。
そう、国民たちが憲法づくりを始めたのです。
当時の人は目的意識が強く、明治元年から5年、アメリカに渡った留学生だけで、官民併せて500人以上いました。具体的な国づくりを自分たちで考え始めます。

時は、憲法創作時代へ。。。
先刻で書かれた私擬憲法、その数55。
最も革新的だったのが、高知の「東洋大日本国々憲案」。
これは、板垣退助と一緒に自由民権運動をしていた植木枝盛の手によるものです。

その特徴は第72条、自由権利を侵害された場合、国民は政府の転覆を図り、新政府を建設できる武力による革命が出来る権利を主張しています。


さらに注目される憲法は、日本帝国憲法、通称五日市憲法です。
驚いたのは、その見識の高さ。
様々な国民の権利が204条にわたって成文化されています。
例えば・・・
教育は父兄にとって免れない責任とする=子供の教育の権利を主張しています。

昭和43年に発見された五日市憲法。
書いたのは、五日市の小学校教諭、千葉卓三郎。
千葉は、宮城県生まれ、幕臣として戊辰戦争に参加。負けた後、医学、政治学、宗教と学び、五日市へ。。。
五日市は、自由民権運動が根付いた地域でした。

そして、五日市の中心的存在へ・・・。
明治14年五日市憲法が生まれました。
そこには、
「日本国憲法第11条・国民は、全ての基本的人権の享受を妨げられない。」と、似たようなことが書かれています。

全国各地で私擬憲法が作られました。
日の目を見ることはありませんでしたが。。。


当時の最大の関心は、政治でした。
そして、それぞれの村には、”知”を受け止めて発信できる人がいました。
リーダーたちも凄いが、民も考えて・・・手をのばせば届く政治でした。
幕府が倒れるという激動を見てきた国民にとっては、政治が近かったのです。

明治14年の政変で、この”私擬憲法ブーム”がそらされてしまいました。
西郷、木戸、大久保がいなくなり、まとめることが出来なくなってしまった政府。

そんな中、明治政府の中心人物となった伊藤博文が、自由民権運動を抑え込むために、10年後の国会開設を約束しました。しかし、憲法はまとまっていません・・・。

国会開設に必要な憲法。しかし、憲法の起草は固まっておらず・・・
1882年伊藤は憲法調査の為に渡米します。

ベルリンでは・・・ビスマルクが議会の猛反対にあっていました。
これを見て悩む伊藤。。。
「ある国の憲法をそのまま翻訳するのは難しいことではない。
 しかし、その国の実態と共にこれを見なければ、本当の政治体制を知ることは出来ない。」


日本にあった憲法を探し始めました。
そして、ウィーン大学の法学者、ローレンツ・フォン・シュタインの講義に夢中になりました。
国家の運営の中での憲法の役割は・・・
国家とは、人格を持つもので、
人間は自我・意思・行動で生きているが、
国家は君主・立法・行政で生きています。

そして、立法の根本原理が憲法で、安定した国家運営は行政によって成り立っているというものでした。

つまり、どんなに良い憲法を作っても、政治運営がうまくいかなければ、意味がないということ。
よい政治運営を求めるならば、”行政”を固めることが必要だということです。

1年半後に帰国した伊藤は、1885年12月22日内閣制度を制定。
行政を先に行い、自ら初代内閣総理大臣となりました。
立法と行政は、国家の両輪だということに気づいたのです。

日本初の国家ビジョンが出来ました。
4年後に開かれる国会。しかし、未だに憲法はありません。

1888年夏、伊藤は別荘で憲法の起草にかかります。
たたき台を作ったのは、井上毅。
「夏島草案」からは、伊藤の執念が読み取れます。

伊藤の執念①
井上毅のたたき台にはなく、伊藤が付け加えた条文があります。
「天皇ハ諸大臣ノ輔弼ヲ以テ大政ヲ施行ス」
内閣が天皇を補佐して責任を負うとして、行政の強化を図りました。
このことで井上毅と対立。井上毅は、行政の独立は強すぎるとしたのです。
これは修正され、
「国務各大臣ハ、天皇ヲ輔弼シ、其ノ責ニ任ス」=第55条となりました。


伊藤の執念②
1888年6月草案について枢密院で最終審議。
明治天皇の下、議長は伊藤。白熱したのは・・・
第二章臣民の権利義務について・・・でした。
森有礼は、臣民の権利義務など書く必要はない!!
しかし、伊藤は・・・
憲法創設の精神は、第一に君権を制限し、第二に市民の権利を保護することにある。
そうしなければ、君主専制国になってしまう。
臣民が如何なる権利をもち、如何なる義務を持つか明記することは、憲法の骨子なのです。
と主張し、そのまま残されました。

兵役の義務・納税の義務と一緒に、制限されてはいたものの、法の下の言論・集会・結社の自由が明記されました。

1889年2月11日大日本帝国憲法発布。
日本は近代国家へと踏み出します。

伊藤の意気込みは、「憲法を絵に描いた餅にはしない!!」ということ。
アジアの国にはまだ憲法のない時代。アジアを背負った大実験だったのです。


伊藤は、最初は行政重視だったが、いずれは民中心の政治へとシフトしていきたかったようです。

1907年の憲法改革で・・・
”統帥権”の独立を防ごうとしたと言われています。
そう、あの統帥権です。。。

統帥権を、内閣のコントロールの下に置こうとしていました。


大日本帝国憲法というと、昭和の戦争との関係が非難されます。
しかし、憲法の名に値する憲法で、帝国憲法下でも、民主政治が行われていたといっても過言ではありません。


政治が近かった時代のお話です。はたして今の世の中は、政治が近くにあるのでしょうか?

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