日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:戦国時代

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仙台藩初代藩主・伊達政宗

1636年・・・江戸幕府開府から33年・・・。
戦国大名として名を馳せた伊達政宗は死の床で・・・
「少年の頃から、旅田に死地を逃れてきたが、今のように畳の上で死ねるとは思わなかった」といったといいます。
政宗70歳・・・人生50年というには長寿でした。
長生きには工夫がありました。
1567年政宗は、出羽国米沢城で戦国大名・伊達輝宗の嫡男として生まれました。
幼い頃、重度の天然痘を患い・・・一命はとりとめたもののあばた顔・・・右目の視力を失います。
戦乱の世を左目のみで生き抜くというハンデを背負った政宗。。。
独眼竜の裏には、病に負けたという忸怩たる思いがありました。

政宗は18歳で家督を相続すると奥州を制圧し、その名を轟かせます。
1600年関ケ原の戦いでは徳川方につき勝利。
62万石を拝領し、仙台藩の礎を築きました。
そうして迎えた太平の世・・・政宗は考えていました。
この国を守り、維持していくために必要なのは、武力ではなく健康で長生きすることだ・・・と。

そして健康オタクへとなっていきます。
そんな政宗の健康法とは・・・??

健康法①運動
剣術、馬術はもちろん、川狩りが大好きでした。

健康法②清潔好き
大の潔癖症で、運動後汗をかくと身体を拭くという習慣がありました。
家臣たちにも身を清める心がけを・・・と、行水を奨励していました。
風邪や食中毒の予防対策が取れていたと思われます。

塩分に気を付けた食事をし、ゴマ、大豆をとることを心がけていました。
グルメでもあり、自分で料理を作って研究もしていました。
すんだ餅もその一つで、伊勢の赤福をまねて作らせたともいわれています。
日ごろから大量に水を取り・・・デトックス効果が期待されていました。

健康法③睡眠
昼寝をしていたようで、座ってではなく必ず布団を敷いて横になっていました。

健康法④推脈
極めつけが・・・独眼竜推脈・・・推脈は、現代の心電図を取り血圧を測る行為と同じで、政宗の診断は的確だったようです。
普段と違う脈が現れるとすぐに主治医たちを集め、カンファレンス・・・治療方針を立て、病気に備えていました。
病を未然に防いでいたようです。

しかし、そんな政宗にも死が・・・
1636年5月・・・仙台藩主として参勤交代で江戸へ・・・
その途中で立ち寄った日光東照宮で倒れてしまいました。
それでも病を押して江戸まで行き、ときの将軍・家光に拝謁します。
しかし、家光は・・・様子のおかしかった政宗の・・・仙台藩江戸屋敷へ奥医師を派遣。
すると、
「腹の張りがひどく、疲労していて食欲もなく、病状は大変悪いようでございます。」
5月24日政宗は、静かにその波乱に満ちた生涯を終えたのでした。
健康オタク政宗の死の原因は、喫煙でした。
タバコが日本に入ってきたのは戦国時代。
南蛮貿易の際に、万能薬という触れ込みでヨーロッパから伝わりました。
身体にいいと、大名からあっという間に庶民にまで流行します。
当然健康に気を遣う政宗も、1日3回、3服から5服・・・
タバコは吸い続けると、肺がん、食道がん、胃がん・・・政宗はタバコと共に、酒も。。。
喫煙と酒を同時に取ることで、食道がんや胃がんの発病率を高めていたのです。

みぞおちの痛みや吐き気に襲われていたという政宗・・・死の予兆があったのです。
政宗は、腹部の腫脹によって胸の下が117センチも腫れあがっていたといいます。
原因はタバコによる胃がんだったのです。
健康のためにと思っていたタバコによる大誤算でした。

仙台藩初代藩主・伊達政宗
病歴:なし
死因:胃がん
没年齢:70歳

でした。


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 関ケ原の合戦の後・・・土佐を治めることになったのは山内一豊。
もともと一豊は尾張出身です。
父・盛豊は岩倉織田氏の家老で、尾張黒田城主でした。
信長の岩倉城攻めで盛豊は討ち死に。。。
一豊は母と共に城を逃れ・・・その後、10年以上尾張・美濃・近江・・・転々としました。

結局信長に召し抱えられるようになります。
妻の千代は、浅井家家臣の若宮喜助の娘でした。

千代は一豊に尽くし・・・良妻でした。
結婚した当初は貧乏で・・ボロ布を継ぎはぎして縫い合わせた着物を身に着けていました。
これが「千代紙」のいわれの始まりです。

へそくりで一豊に名馬を与えたのは有名な話。
関ケ原の合戦で、一豊は東軍に参加。
当時、妻子は人質のように大坂にいて・・・戦いになったら敵側に取り残されるような形になってしまいました。
それは千代も同じこと。。。

千代は、大坂の情勢を手紙に認め、西軍から届けられた寝返りを求める書状と共に家臣に渡します。
また、密書をこよりにして笠の緒を作り笠をかぶらせます。

この文箱を受け取った一豊は、密書を一読し焼き捨て・・・
文箱の封を切ることなく家康に差し出しました。

これで三成の動きを知った家康は、関ヶ原の合戦へと向かいます。
笠の緒には、そうするように指示があったといわれています。

さらに小山本営の軍議で「掛川城を家康に明け渡し、兵糧も提供したい」と申し出て・・・
それがきっかけとなって、ほかの大名たちも城を差し出したといわれています。
これに感激した家康。信頼を深める一豊。。。
これらの功績によって、土佐24万石を与えられます。
が、土佐は幕末になっても主人は長宗我部氏・・・
地侍達の抵抗に遭います。
が・・・何とか制圧し、子孫は代々土佐藩主として幕末まで続くのでした。

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シリーズ日本のインパクト第1弾です。

戦国時代、強き者だけが残る下剋上の日本に・・・
衝撃の鉄砲伝来です。
1543年種子島にもたらされました。
しかし、新兵器は、1年後に複製、大量生産を行い、一大軍事大国となるのでした。
大量の鉄砲は、戦いを・・・武士の常識を変えていきます。

まず・・・鉄砲を使うと、死傷者の数が爆発的に増えます。
弓は修練が要りますが、鉄砲はそうではないので、民衆が鉄砲を手にして参加できるようになりました。
そしてお城も、鉄砲に対してどう戦うのか?というふうに造られるようになったのです。

1543年種子島に漂着したポルトガル人が伝えました。
と、思われてきました。
しかし、最近、鉄砲を伝えたのは・・・
ポルトガル人と一緒にいた中国人だとも言われています。

”鉄砲記”には、その名を”五峯”としています。
日本に鉄砲を伝えたのは、倭寇だというのです。
超大国の明、海禁政策を行っていて、国が貿易を独占していました。
しかし、15世紀後半に貿易が衰えてきます。
その中、密貿易を活発に行ってくるようになったのが、倭寇なのです。
彼等は武力で東アジアを支配するようになります。
莫大な利益を得ていきます。
そして、もっとも成功した倭寇のリーダーが”五峯=王直”でした。

この頃大航海時代となり、ポルトガルがアジアに侵攻。
1511年マラッカを占領。
陶磁器、生糸を求めて、明への進出を図りますが・・・
当時の明は、朝貢貿易・・・周辺国が、中国皇帝に貢物をして返礼を受けるという貿易でした。
威信は保ちたいけどお金は払いたくない明。。。
明との貿易交渉に失敗し、マラッカから先に進めなくなったので・・・倭寇を利用しようとなったのです。

王直の船にポルトガル人が乗って、密貿易で金を儲けようとしたのです。
そしてこのタイミング???
時はまさに戦国時代・・・激しい戦いが繰りひろげられていました。
種子島時尭は、鉄砲の利用価値に気付き、2丁を金・2000両で・・・現在の1億円で購入します。
この鉄砲が多きなインパクトとなっていくのでした。

日本人で初めて鉄砲を手に入れた種子島時尭。
時尭が戦国の世を変えていきます。

「これと同じものを作ってみよ!!」

銃身、カラクリ、ネジ・・・

命じられたのは種子島の刀鍛冶。。。

1年後・・・国産鉄砲が完成しました。

種子島には砂鉄がありました。
そこには製鉄のベースがあり・・・鉄砲を作るにはいい土地でした。
噂が広まり・・・戦国大名たちはこぞって手に入れようとします。
島津貴久、織田信長、上杉謙信・・・

そこにいち早く目を付けたのは、東洋のベニス・・・堺の商人たち・・・会合衆でした。
どうすれば鉄砲を大量生産できるのか???
それは、部品互換方式。
部品を同一規格で分業し・・・最後に組み立てて完成させることにしました。
当時世界では、ひとりの作り手が、一つ一つ作り上げていく時代でした。
世界に先駆けた分業大量生産だったのです。

その産業基盤は古くからあり・・・畿内では、産業革命が早くから起こっていたのです。
大量生産によって、鉄砲大国となっていく日本。
1550年代に30万丁・・・ヨーロッパの保有数を上回っていた。。。
ヨーロッパへ逆輸出されたともいいます。

まさにモノづくり日本だったのです。

30年がたち・・・戦国時代の戦を変える決定的な戦いが起こります。

1570年の石山合戦です。
天下布武の信長に立ちはだかったのは、本願寺・顕如。
天下統一を阻む一番の強敵でした。
石山本願寺を攻めた信長・・・苦戦して10年もかかります。
その原因は・・・大量の鉄砲の銃弾だったのです。

数千丁の鉄砲をもっていたと思われる石山本願寺。。。
信長も足を撃たれたとか・・・。
どうして本願寺が大量の鉄砲を扱うことができたのでしょうか?
そこには謎の傭兵集団が・・・
雑賀衆。。。
それまでの常識を覆し・・・個人の技量には頼らない鉄砲の連射。。。
鉄砲を取り換えて、取り換えて・・・チームワークで連射をしていました。
これを利用して弾幕を張っていたと思われます。
そして・・・徹底的なゲリラ戦法を使っていました。
隠れて狙撃し、撃ったら逃げる・・・名誉を重んじる武士には出来ない芸当でした。
雑賀衆は・・・武士ではなく、漁業や農業を行っている民衆でした。

紀州は・・・守護大名の力の弱い惣国でした。
小さな独立国家が多かったのです。
雑賀衆はその、自衛組織だったのです。

雑賀衆に煮え湯を飲まされた信長・・・
石山本願寺を落とすことは出来ずに・・・和平を結ぶこととなります。
雑賀衆の戦法は、信長に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
これ以後・・・鉄砲足軽隊の比率が大きくなっていきます。
信長は・・・天下統一へと突き進んでいったのでした。
兵農分離も進んでいきます。

鉄砲に対抗するために、城の造りも変化していきます。
今のお城の形となったのです。
難攻不落と言われたのが大坂城。
大坂の陣はこの城が舞台となりました。城VS鉄砲の究極の戦いとなったのです。
堀の幅が10mから20mへ。。。
3重の堀となります。
石垣には、屏風折れ。
櫓や壁には狭間が作られ・・・城壁や門も鉄板で覆います。
秀吉の大坂城は、鉄砲を想定して作られており、世界的にも屈指の要塞でした。

徳川家康は・・・
大筒鉄砲を近江で作ります。射程距離は1㎞以上。
2㎞まで届く鉄砲さえ製造させています。
生きているうちに豊臣を倒す!!
でも、大筒の玉をどのようにして命中させる???
鉄砲を改良します。
弾道計算を重ね、鉄砲を作り上げていきます。

冬の陣の火蓋が!!!
徳川側は、城から800m離れた備前島から大筒鉄砲で攻撃!!
城の中枢部に着弾させ。。。
さらに大砲を・・・!!!昼夜構わず撃ち込まれます。

豊臣方は、怖れをなし講和に・・・夏の陣でなすすべなく徳川の勝利となるのでした。
鉄砲伝来から70年・・・戦乱の世は終焉を迎えたのでした。
鉄砲が戦国を終焉させ・・・新しい徳川的な秩序を作りだしたのです。

太平の世となって・・・
しかし、鉄砲保有数は世界トップレベルでした。
どうして戦乱のタネとならなかったのでしょうか?
3代将軍家光は・・・軍役を細かく定めています。
5万石では150丁、10万石では350丁。。。
既定に満たないものは処罰されます。

民衆も鉄砲所持を認められ・・・鑑札が発行されます。
世界初の銃規制でした。
狩り・害虫駆除に使われ・・・戦いに使われることはありませんでした。
平和を求める気持ちが強かったのです。
喧嘩両成敗・・・つまり紛争を武力で解決してはならない・・・
圧倒的な武力を誇示する江戸幕府の中。。。武器がシンボル化していきます。

戦国のすさまじい時代を潜り抜けてきたからこそ!!という英知だったのかも知れません。

今回は雑賀衆が出てくることもあって、和歌山市出身の津本陽さんが出ていました。
84歳でもとってもお元気そうでした。

和歌浦出身の津本陽さんも雑賀衆???
その近くで生まれた私も雑賀衆の末裔かもしれません。
が・・・一番速かった時でさえ・・・50mを10秒以上かかる私は、すぐに死んじゃうんだろうな。。。

いつも3月の末には(雑賀)孫一まつりがおこなわれ。。。
コスプレ・・・甲冑をつけた人たちが、町中を練り歩いてくれます。

ホント、この頃が一番和歌山に活気があったかも???


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ピンチをチャンスに変え、人生を謳歌した男・・・伊達政宗です。

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野望を胸に、武将たちがしのぎを削った戦国時代・・・
漆黒の鎧に身を包み、東北の覇者となった独眼竜・・・伊達政宗。
乱世の終わりに天下を夢見た最後の戦国武将です。

「人生楽しまずしてなんという。。。」

その心の強さはどこから来たのでしょうか???

当時の武将は派手な甲冑をのぞむ中・・・
シンプルな黒漆五枚胴具足を使っていました。

19歳・・・戦場からの手紙。
伊達政宗は、1567年出羽国・米沢に生まれます。
跡取りとなる男子は宝。。。
梵天丸と呼ばれ、大事に・・・大きな期待を背負って育ちました。
しかし・・・5歳の時疱瘡に・・・当時、死の病と言われた天然痘でした。
命は取り留めたものの・・・右目は光を失ってしまいました。

”伊達家の跡取りには相応しくない”

運に恵まれた健康な跡取りを・・・
そして母までも疎んじるようになります。

しかし、父・輝宗は、政宗に武道や兵法、学問などを熱心に教えました。
11歳で元服の時には・・・伊達藤次郎政宗と名付けました。
政宗は、室町時代9代当主・・・中興の祖の名前でした。
18歳の時に父から家督を譲られ伊達家17代当主となります。

そして期待を込めて父から手紙が・・・!!

「若いときは暴言や失言をし、戦い方も誤りがちである。
 しかし、世間の声は気にするな。
 わしとおまえは共にある。
 決して臆せず覚悟を決めて進め
 そうすれば、異を唱える者はいなくなる。」

と。。。

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1585年政宗19歳・・・当主となって初の戦いが!!
伊達VS大内の戦いです。
女子供・・・犬までも斬り殺す。。。
関東を手に入れると豪語しています。
この手紙で・・・政宗の強さ、恐さが噂となって広まります。
周りに対して脅しをかけたのです。
派手なパフォーマンスでした。

周囲の見る目が変わり始めます。
隣国城主・畠山義継は、領地の半分を差し出すことで恭順を示します。
しかし、政宗はこれを認めず、領地はすべて没収、子供を人質として差し出すように命じます。
容赦のない政宗。。。これに対し畠山は???
父・輝宗を人質に拉致し逃走。

国境での争いとなり・・・
政宗は、父を巻き添えにして殺してしまったのでした。
父・輝宗・・・討死・・・享年42歳でした。

強引に相手を追い詰めた結果でした。
励ましてくれた父を巻き添えにしてしまった政宗。。。
これ以降、戦い方がガラッと変わり、諜略を使うようになり・・・東国の覇者へと上り詰めるのでした。


鳥をかたどったサイン

1589年・・・政宗は既に東国の覇者となっていました。
23歳で東北の半分近くを!!
そして・・・関東・・・天下へ!!

しかし、大きな壁が立ちはだかります。
それは、関白・秀吉。
その頃秀吉は、西日本を手に入れて・・・北条と伊達・・・天下統一に王手をかけていました。
1589年秀吉は、関東を支配する北条氏に宣戦布告!!
政宗にも揺さぶりをかけてきます。
秀吉に従って、北条攻めに参加せよとの脅しの手紙が届きます。
・・・出陣しない政宗。。。
豊臣政権には組み込まれない自信がありました。

1590年4月秀吉軍、20万の大軍で小田原城を包囲。
天下人の桁外れの実力を、全国の大名たちに知らしめるためでした。

秀吉の力を見くびっていた政宗・・・
小田原に兵を進める決心をします。
しかし、参陣の手紙から、すでに4か月もたっていました。
政宗軍が小田原に到着したのは、小田原城攻めが終わる1か月前のことでした。

この遅刻に秀吉は大激怒!!

この危機に政宗は・・・
秀吉との初対面に際して、白装束で参上します。
この芝居がかったパフォーマンスに秀吉は・・・許すのでした。
政宗が当主となってからの領地のほとんどが秀吉に召し上げられてしまいました。

しかし、野望を失ったわけではありませんでした。
伊達領の隣国で地侍達が反乱を起こしました。
これは・・・秀吉が裏からけしかけたものでしたが、秀吉にばれてしまいます。
密書が秀吉の手に渡ってしまったのです。
その手紙には、政宗の花押が。。。

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しかし、反乱の手紙には花押であるセキレイの目がありませんでした。
よって花押は偽物であると主張したのでした。

命の瀬戸際を楽しんでいくかのような政宗。。。

1598年・・・豊臣秀吉がなくなります。
この機を逃さなかったのが、徳川家康でした。
関ヶ原の戦いで、石田三成と天下分け目の戦いをします。
結果は、東軍が圧勝し、家康は天下人の道へとすすんでいきます。
江戸幕府を開き将軍へ!!!

この勝利には、東北で伊達家が貢献していました。
三成側の有力大名・上杉家を東北に釘づけしていたのです。
褒美は、上杉の領地を含む50万石。
自分の領地と合わせると、大大名の100万石となれるのです。
徳川政権での地位は、確実!!な筈でした。
しかし、家康は約束を守らず、2万石しか与えませんでした。

そして・・・家康によって追い詰められていきます。
天下普請によって、伊達家の国力と資金が失われていきます。
おまけに敵対する上杉を隣に配置、政宗を牽制する扱いは、まさに仮想敵。。。

しかも家康は、倹約家!!
徳川の世が着々と出来上がっていきます。
政宗は、平和路線で安心させるように持って行きます。
江戸の屋敷に招待してお茶や囲碁でおもてなし。
贈り物攻撃も欠かしません。

鮭・狩りの獲物・オットセイのたたき・・・

仙台に京都の女歌舞伎を招いて遊興に励みます。
徳川の警戒心を解くために。。。
その結果、政宗を信頼し始めました。

徳川家康、危篤!!!
伊達政宗謀反の噂が・・・!!!

政宗は駿府へ!!
戦ではなく、見舞いのためでした。
枕元へ来た政宗に・・・
「息子 秀忠をよろしく頼む。。。」
と願った家康。
この時、政宗は50歳でした。

天下への野望を諦めた時「苦しみ」から解放され「楽しみ」を知った政宗でした。

宮城県仙台は東北最大の都市です。
この基礎を築いたのは政宗です。
それは新しい平和の街づくりでした。

高台に築かれた仙台城。。。
しかし、敵意がないということを示すために天守はありません。
 
食にも力を入れて・・・仙台味噌ができます。
献立も自分で作り、料理もします。

「料理の心得がないものは、心が貧しいものである。
 一品でも自ら盛るなら、それが最高の馳走である。」

47歳の時、スペインとローマに使節を送ったりもしています。
国内の文化にも力を入れます。
和歌や漢詩もたしなみ、書も一流。
能楽・茶の湯・香道・鷹狩り・酒・・・まさに悠々自適の生活を送りました。

余生を楽しんだ政宗は、1636年亡くなります。
享年70歳でした。
精一杯生きているからこその”楽しい人生”でした。


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