英傑の日本史 激闘織田軍団編 浅井長政 (カドカワ・ミニッツブック)


高野山・持明院には戦国一の美女・お市の方の肖像画が伝えられています。

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この絵は、娘の茶々が奉納したと言われています。
お市は、36年という短い生涯の中で、3度の大きな選択に迫られました。


一度目・・・夫・浅井長政が兄・織田信長を裏切った時。
二度目・・・浅井氏が滅びる時。
三度目・・・再婚した柴田勝家が羽柴秀吉によって攻め滅ぼされる時・・・死か生か・・・??


1547年、お市は織田信秀の娘として生まれました。
兄・信長の13歳年下で、母は信長と同じ土田御前とされています。
お市が生れた当時、信秀は着々と勢力を伸ばし、尾張の守護や守護代をしのぐ勢力を持っていました。
1551年に信長が家督を継ぐと、尾張の統一に成功!!
桶狭間の戦いで今川義元を破ると、美濃に勢力を広げていきます。
家督を継いで17年・・・信長に飛躍のチャンスが・・・!!
1568年、第13代将軍足利義輝の弟・義昭が上洛の助けを求めてきました。
義昭を奉じて上洛すれば、天下に号令することができる!!
しかし、その前には六角氏が行く手を阻んでいました。
そこで信長が目を付けたのが、北近江に勢力を持っていた浅井氏。
この長政と同盟を結び六角氏を打倒!!そのまま上洛を目論みました。
そして、その同盟を確固とするために白羽の矢が立ったのが妹・お市の方でした。
当時22歳で絶世の美女!!
この時代に他家に嫁いだ女性の役割は・・・??
嫁ぎ先の情報を掴んで実家に伝える??両家の平和の使者の役割でした。
1568年4月、お市、小谷城へ輿入れ。
お市と長政は、勢力結婚ながら仲睦まじく、結婚の翌年長女・茶々、次の年次女・初をもうけます。
お市の輿入れからわずか5か月後・・・信長は上洛のために岐阜城を出発、長政の参陣もあって六角氏との戦に勝利!!
見事京に入ることに成功!!
お市の結婚が、信長の野望を支えたのです。

しかし・・・2年後の1570年4月・・・長政と信長が敵対!!
その背景には新将軍・足利義昭の策謀がありました。
信長に操られることを嫌った義昭は、秘密裏に各地の大名に信長打倒を命じていたのです。
これに応じたのが、越前の朝倉義景!!
信長はこの動きを知ると3万の兵を率いて京を出発!!
信長は朝倉氏の城を次々と落とし、本拠地・一乗谷を目指します。
しかし、その途中で・・・衝撃的な一報が!!
浅井長政離反!!
同盟者だった長政の裏切り・・・!!
始め信長は、その裏切りを信じようとはしませんでした。
しかしそれは事実!!
長政は、信長よりも、三代にわたって深い結びつきのあった朝倉を選んだのです。
浅井が軍を出せば、朝倉と挟み撃ちにされる・・・!!
信長は這う這うの体で京に帰りました。
この織田家の危機に対し、お市の行動は・・・??

夫の裏切りを知ったお市は、密かに両端を縛った小豆袋を陣中の信長に送り・・・
信長はその小豆袋を見て”袋のネズミ”だということを知ったという有名なエピソード・・・
しかし、これは後世の創作と考えられています。
実際のお市はどう振る舞ったのでしょうか??
お市は長政と一緒に・・・織田家とは縁が切れてもいいと思っていたようです。
実家と嫁ぎ先が敵対関係になった場合、妻は離縁され国元に送り返される習わしでした。
しかし、お市はその後も浅井家に残り続けます。
完全に浅井の人間となっていたのです。

1570年6月、浅井・朝倉連合軍は、織田軍と激突!!姉川の戦いです。
この一大合戦に長政は敗北!!
信長は、そのまま小谷城近くの横山城に秀吉を入れ、長政をけん制。
秀吉は浅井の家臣に裏切りを勧めるなど切り崩しにかかります。

1573年8月、越前の朝倉氏を滅ぼした信長は、その勢いで小谷城を包囲!!
長政だけでなくお市や娘たちまで閉じ込められてしまいました。
落城間際の小谷城・・・長政は死を覚悟し・・・
「生きながらえて自分の菩提を弔ってほしい。」
「自分だけ生き残って、浅井の女房と後ろ指をさされるのも口惜しい事です。
 一緒に死なせてください!!」

一緒に死ぬ??夫の菩提を弔う??

しかし、まだ小さい子供たちのために生きてほしいと長政に説得され・・・
お市と三人の娘たちは信長のもとに戻ったのです。
その直後、小谷城は信長の命を受けた秀吉によって落城されます。
長政は自害しました。

更にその1か月後・・・城から逃がされていた長政の嫡男・万福丸が捉えられ・・・秀吉によって処刑され、10歳という短い生涯を閉じたのです。

実家に戻ったお市と娘たちは信長によって岐阜城に迎えられたと思われます。
ほどなくして信包の城・伊勢上野城に移されます。
ここで娘たちと平穏な日々を送ったとされますが・・・お市の気持ちが晴れることはありませんでした。
というのも、信長がお市の出家を許さなかったのです。
まだ政略結婚の駒として仕えるのではないか??
しかし、お市は首を立てには振りません。
10年間誰とも結婚することはありませんでした。

長政の死からおよそ10年・・・1582年6月2日本能寺の変!!
この事件によって信長の野望は潰えました。
代わって織田家で主導権を握ったのは羽柴秀吉。
ここで36歳になっていたお市に結婚話が持ち上がります。
相手は織田家の重臣・柴田勝家。
当時、秀吉は信長の孫である三法師を織田家の後継者とし、実権を握ろうとしていました。
信長の百箇日法要も自らが中心となって行っています。
これに信長の後継を狙う三男・信孝が反発!!
信孝は、お市を勝家に嫁がせて、秀吉に対抗する勢力にしようとしたのです。
柴田勝家は、信長の若いころから仕えていた家臣・・・
1582年8月、勝家と再婚。越前・北庄城に三人の娘と共に移り住みます。
しかし、安住の地ではなく1年もたたずに危機が・・・
1583年4月、賤ヶ岳の戦い!!
秀吉との決戦に敗れた勝家・・・北庄城は秀吉軍に包囲されてしまいました。
城内には僅か200の兵・・・城が落ちるのも時間の問題でした。
勝家は娘たちを連れて城を出るようにお市に言います。
小谷城の悲劇再び・・・!!

娘たちと城を出る??
しかし、信長が戦国の習わしを変えてしまっていました。
1578年、荒木村重を討伐した際・・・村重は城に女子供を置いて城を脱出!!
これに怒った信長は、その見せしめに城に残った女子供を皆殺しにしていたのです。
その犠牲者は120人余りに上りました。
これは、落城の際に女子供の命は助けるという戦国の習わしを破る前代未聞のことでした。
もはや女性だからと言って命の補償はありません。

勝家と自害する??
しかし娘たちを犠牲にするのは・・・!!

北庄城に籠城した勝家は、僅かの兵で7度も秀吉軍に斬り込みます。
やがて落城を覚悟し・・・宴を催します。
その後お市は勝家と共に命を絶ちました。
勝家は用意していた火薬に火をつけさせ、天守もろとも爆破。
遺体は残らなかったと言われています。
お市は勝家と共に自害する道を選んだのです。

死の直前、お市は秀吉に書状を送っていました。
三人の娘たちの保護を頼んでいました。
三人の娘たちは秀吉の元へ・・・。
お市の死の翌年、秀吉は早速三女・小督を佐治家に嫁がせます。信長の次男・信雄を味方につけるために・・・

次女・初は近江の名門・京極家に嫁がせます。
そして長女の茶々は秀吉の側室に・・・。
茶々は秀吉との間に二人の男子を産んでいますが・・・
最初の子が生まれたときに、お願いをしています。
高野山・持明院・・・ここに茶々は発案したお市の肖像画が伝えられています。
この時もう一つの肖像画が・・・それは亡き父・浅井長政の肖像画です。
ここで供養をしたものです。
茶々が秀吉に望んだのは、父と母の菩提を弔う法要だったのです。
茶々はこの後も、二人目の子を産んだ後、京都に父・長政の菩提寺・養源院を建てています。
ここには一体の仏像が・・・
浅井氏が信仰した弁財天です。
これは、お市が長政と別れる際に持ち出し、茶々に託したものです。

茶々は秀吉の子を産むことで、母の成し得なかった父・長政の菩提を弔うことに成功。
1615年大坂夏の陣で大坂城は落城・・・茶々は豊臣家と運命を共にします。

茶々の死後、初と小督もしたたかに生きます。
家康の後継者・秀忠と再婚していた小督、彼女が産んだ家光が三代将軍となります。彼は浅井家の孫。
京極家に嫁いでいた初・・・菩提寺・常高寺には驚くべきものが残っていました。
初が死の間際に京極家当主に書いた遺言状です。
そこには・・・
”さくあんの事、迷惑かと思いますが、今更捨てるわけにも参りません故・・・
 私の死後も、私にくれてやるのだと思ってさくあんに知行を与え、目をかけてやってほしい”

さくあん・・・作庵は、長政のもう一人の息子です。
小谷城落城の際に、生き残った腹違いの弟だったのです。
初は京極家の中に、作庵を匿い続けていました。
生涯をかけて、浅井の血を絶やさぬように動いていたのです。
乱世の渦に巻き込まれ、三者三様の生涯を送ったお市の娘たち・・・
彼女たちは乱世の女性に課せられた役割を演じつつ、母・お市の想いを果たそうとしたのかもしれません。



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