日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:推古天皇

古代史も変わっています。
かつて4世紀中頃は、大和朝廷がその他の豪族を支配下に置き、統一政権として政治を行っていたとされてきました。
しかし、現在の教科書では、”大和朝廷”は”ヤマト政権”と表記されています。
表記が変わった理由は・・・??
大和が漢字ではなくなったのは・・・やまとを”大和”と書いた最古の文献は、8世紀後半の養老律令です。
4世紀中ごろは、大和ではなく、”倭””大倭”という文字が使われていました。
そのため、現在では4世紀中ごろに「大和」という漢字を使っていた確証がないため、カタカナの「ヤマト」と表記するようになりました。
朝廷が政権となったのは・・・??
朝廷は天皇を中心に政治を行う場所です。
しかし、当時の日本では、小国がたくさんありその王が支配し、その上に大王がいた・・・
「ヤマト政権」の時代は、天皇が全国を支配した統一政権ではなく、大王を盟主とした連合政権だったのです。
まだ朝廷という形態はなく、政治権力のみだったため、「政権」と表記するようになったのです。

実際に、朝廷が成立したのはいつ・・・??
朝廷の確立は、天皇が日本全国を支配下に置いたときとされています。
初代天皇といわれた神武天皇・・・古代においても天皇はいましたが、天皇の称号は後からつけられたもので、大王でした。
最初に自らを天皇と名乗ったのは誰でしょう・・・??
それは、第33代推古天皇といわれてきました。
その根拠の一つが法隆寺の薬師如来像で、銘文に大王天皇と書かれています。
そして丁卯年・・・これは推古天皇15年=607年だと考えられました。
なので、この銘文が天皇という表記が最も古い・・・初めて称したのは推古天皇でその頃に朝廷が成立したと考えられてきたのです。
ところが、昭和初期・・・薬師信仰が始まった時期や、銘文の筆跡から、薬師如来像は推古天皇の時代以降に作られたもの・・・もしくは、銘文が後に書かれたものと考えられるようになりました。
その時代についても諸説あり、一つ目は薬師信仰が日本にもたらされた第40代天武天皇の時代という説、もう一つが天智天皇9年・・・670年に、法隆寺が一度消失しています。
その再建にあたり、この薬師如来像が新たに据えられたのではないか??というのです。
つまり、天武天皇の兄である第38代天智天皇の頃という説です。
天智天皇は皇太子時代に大化の改新を断行、その詔で、公地公民制・・・「すべての土地と人民は、天皇が所有し支配する」と政策方針を示し、その後即位しました。
他にも天智天皇は現存しない幻の近江令を出したともいわれています。
なので、朝廷という政治形態が確実に存在した時代は、天智天皇~天武天皇の時代の頃だと思われます。

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今からおよそ1400年前から1100年前にかけて、木造の船で風を頼りに男たちが命がけで大陸を目指して海を渡りました。
世に言う遣隋使と遣唐使です。
当時、東アジアで強大な勢力を誇っていた隋と唐に派遣された使節団です。
飛鳥時代から平安前期にかけて300年もの間続けられた一代国家プロジェクトでした。

遣隋使を初めて派遣したのは、日本初の女性天皇・推古天皇を頂点とするヤマト王権でした。
長らく交流がなかった古代中国に強大な統一王朝隋が登場!!
この隋と国交を結ぶための使節派遣でした。
そして、この国家プロジェクトを任されたのが、推古天皇の甥で摂政だったと言われる厩戸皇子(聖徳太子)です。
こうして、西暦600年、第1回遣隋使派遣となります。
その船は、現在の大阪の難波津から出航しました。
北九州を経由して、朝鮮半島にわたり、黄海を横断し、山東半島に上陸したと推測されています。
その船には誰が乗っていたのか?いつ帰ってきたのか?日本には記録がありません。
600年から・・・
①600・・・不明
②607・・・小野妹子
③608・・・小野妹子
④614・・・犬上御田鍬
と、4回行われていますが・・・②~④は、日本書紀に記されています。
どうして「日本書紀」に1回目の遣隋使派遣の記述がないのでしょうか?

第1回遣隋使について唯一描かれているのが中国の歴史書「隋書」倭国伝です。
そこに書かれているには・・・倭国から来た使者に隋の初代皇帝・文帝はこう聞きました。
「倭国はどのような国か?」
「倭王は天が兄で太陽が弟です
 夜明け前に政務をはじめて、日が昇るとあとは弟に任せます」
一説には、これは倭王を明けの明星にたとえ、隋の皇帝を天とするならば、倭王はその下で輝く金星だと言いたかったのだと言われています。
ところが、通訳が拙かったのか意味が伝わらず、文字通りに受け取った文帝の怒りを買ったともいわれています。
中国では天は唯一の物で、天の命によって皇帝が決まるという考えで、皇帝は天ではありません。
文帝は「はなはだ義理なし」とし、中国的なやり方に改めるように指導したともいわれています。
文帝は倭国を未熟で野蛮な国だと門前払いをし、日本は大恥をかいたのです。
こうして何の成果もなく屈辱的な派遣だったので、第1回遣隋使は日本書紀には記されなかったのです。
これをきっかけに厩戸皇子は隋と対等の関係を結べるような国づくりに邁進していきます。
遣隋使によって、隋との違いを知り、国内体制の整備、改革の必要を痛感したのです。

厩戸皇子の国造り
当時、ヤマト王権には外交施設がありませんでした。
そこで、古代中国の建築物に倣い小墾田宮を建造します。
さらに、遣隋使の使節が位を表す冠をしていなかったことも野蛮とされた理由の一つだったとされ、冠位十二階を制定。
そして、孔子の教えである儒教など・・・日本に入ってきたばかりの外来思想を積極的に取り入れ、憲法十七条を定めます。
こうして、国内の制度を整えた厩戸皇子は、2回目の遣隋使派遣を決めます。
その7年間で、隋の皇帝は文帝から息子の煬帝へと変わっていました。

607年第2回遣隋使派遣
第2回遣隋使の最大の目的は、隋と国交樹立すること・・・さらに、この時から仏教が復興した隋で、仏法を学ばせたいと、日本の僧侶たちを連れていくようになりました。

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そんな2回目の遣隋使の代表・・・大使となったのが、小野妹子でした。
妹子は、現在の滋賀県大津市に当たる小野村の豪族の出身で、当時の官位は大礼で、決して官位は高くなかったのですが、古くから近江の豪族はヤマト王権の中枢で活躍していたので、妹子が抜擢されたのです。
妹子はこの時、こんな書き出しの国書を持って行きました。

”日出ずる処の天子
 書を日を没する処の天子に致す
 恙なきや云々”

日出ずる処とは東の日本のこと・・・日没する処とは西にある隋のこと・・・
ところが、これを聞いた隋の煬帝は、日本が隋を同格とみていることに激怒!!
使節たちは、またも帰されてしまうのでは??と思ってビクビクしていましたが・・・
この時、隋は隣の高句麗との戦争を控えていたので、日本を敵に回して高句麗と組まれては困ると考え、無事国交樹立となりました。
1年の滞在の後、608年小野妹子帰国。
この時、隋の煬帝から国書の返書を受け取ったのですが、途中で紛失してしまいました。
朝廷に戻った妹子はこう告げます。

「帰国の際に立ち寄った百済で、返書を奪われました。」

しかし、この返書紛失事件には裏がありました。
百済が隋の文書を奪うことは大きな国際問題となるので、疑問です。

奪われたわけではない・・・??
この文書は、倭国の国書に対して、無礼だとけん責し、改めさせる内容だったと考えられます。
そんな文章を持ち帰ったら・・・返書を持ち帰れないと考えた妹子は、百済で奪われたことにしたのです。

妹子を処罰すべき・・・??
推古天皇は、隋の使者に騒動が露見することを防ぐために、妹子を罪に問いませんでした。

処罰を免れた妹子は、608年、官位が最高位の大徳に昇進。
9月には、再び遣隋使の大使として海を渡ります。

京都にある紫雲山頂法寺・・・通称六角堂は、587年に厩戸皇子こと聖徳太子によって、創建されました。
隋から帰国した妹子は、出家するとこの寺に入ったといいます。
六角堂の北側にある聖徳太子が身を清めたと言われる池・・・この池のほとりに僧侶の住坊があったことから、六角堂の住職は池坊と呼ばれるようになりました。
池坊とは、華道の家元で知られるあの池坊です。
妹子と華道には深い関係があります。

当時はお花を神仏に備えるということはなく、常盤木(マツなどの常緑広葉樹)を縁起のいいものとして供えていました。
妹子が隋に行き、持ち帰ったのが供花・・・色花も含めた仏に備える花です。
そうして、ここが生け花発祥の地とされ、小野妹子は華道の祖と言われています。

614年、第4回遣隋使として犬上御田鍬・・・滅亡寸前の隋を目の当たりにします。
隋が、新興勢力だった唐に滅ぼされたのは、御田鍬が帰国した3年後・・・618年。
唐が、国として安定した630年、舒明天皇が唐との外交を密にするために、第1回遣唐派遣開始します。
そうして、894年まで、260年の間に、遣唐使は18回計画され、15回実行されたのでは?と言われています。

それではどんな人物が唐に渡ったのでしょうか?
最初の頃は、2隻の船で、使用団120人。
その大半は、船をこぐ水手でした。
船員たちは、朝鮮半島の往来に慣れていた北部九州から動員されたようで、遣唐使事業に従事したものは、3年免税されました。
船員の他には、遣唐使の使節たち・・・家柄、学識、教養、風采・・・総合的な選考が行われました。
特殊な技能を持っていた人も乗り込んでいました。
通訳、医師、主神(船内に祀られていた住吉の神に仕える者)、陰陽師(易による占いや天文、気象現象の観測を行う者)、絵師(絵や書で記録にとどめる)、船大工・・・
船大工は、外洋航海のために損傷が激しく、帰ってくるときに修理をしなければなりませんでした。
留学する者もいました。
留学生・・・長期滞在者・・・15~20年間滞在し、次回の遣唐使と帰国
     ・・・短期滞在者・・・1~2年間滞在し、同じ回の遣唐使と帰国

いずれも唐の文化を習得、密教の理解を深めることに努めました。

船旅は命がけ・・・第2回遣唐使は120名×2隻でしたが、1隻が竹島付近で遭難し、生存者はわずか5人でした。
無事生還したのは6割でした。

どうして遣唐使船は海難事故が多かったのでしょうか?
考えられるのが、船の性能、航海技術です。

①船
全長30m、全幅9.6m、船首に舵があります。
主な労力が風邪で、網代帆でした。
布帆も用いていた可能性もあり、無風、逆風の時は帆を下ろし、櫓を使っていました。
それなりの航海技術はありました。

②時期
日本は遣唐使を派遣していく中で、唐に2年に一度貢物をする約束をします。
その時には、必ず諸外国の使者と共に、唐の皇帝の祝賀行事の朝賀に参列。
それは、正月に行われることになっていました。
余裕をもって4,5か月前に出発・・・これは、現在の暦にすると9~10月ごろ・・・。
まさに、台風の起きやすい時期なのです。
おまけに季節風が向かい風に変わるころで、海が荒れ・・・海難事故・・・??
実際には、5~7月(6~8月)に出発した記録が多く、東シナ海が安定し、航海に適した時期でした。
季節風、海流などは認識していました。

どうして海難事故が多かったのか??
③ルート
当初船は、北回りルートでした。
博多→壱岐→対馬→朝鮮半島西岸を経由して山東半島に上陸。
そこから陸路で長安へ・・・船旅だけで、40~50日かかりました。
これは遣隋使の頃からのルートで、危険な海路に依存する割合が少なく、比較的安全だと思われていましたが・・・
7世紀半ば、朝鮮半島の新羅が唐と同盟を結び、百済と高句麗を滅ぼします。
その後、旧百済領を巡って、唐と新羅が争いました。
朝鮮半島西岸を通ることが危険となり、使えなくなっていまいました。
そこで用いられたのが、五島列島から直接唐に入る南回りルートです。
1週間から10日で唐の江南地区長江河口付近に到着するため、航海時間は短くなりましたが、荒れやすい外洋を進むことになったので、難破や遭難が増えたのです。
海難事故が増えたこともあって、少しでも多くの人が唐にたどり着けるように、船の数を2隻から4隻に、人数も250人から600人となりました。
長安までも、運河を船で行きさらに陸路で2ヵ月・・・かかるときは半年かかったようです。
しかも、全員長安に行けたわけではなく、600人のうち50人ほどしか許されませんでした。

命がけで海を渡ってきたのに・・・??
元々長安まで上京するのは使節団のみです。
唐が遣唐使節の滞在費を負担しました。
しかし、奈良時代の後半・・・安史の乱(755年~763年・唐で起きた大規模な反乱)で、治安が悪化し、財政問題から遣唐使に希望する者すべてを長安まで行かせることができなくなっていました。
皇帝の許しが出たものに関しては、持ち帰ったり、見学(暮らし・建築)をしたりすることができました。

飛鳥時代から奈良時代に移り遣唐使後期になると、600人になった使節団は、留学する者が多くなります。
その中には長期滞在(留学生・学問僧)、短期滞在(請益生・還学僧)がいました。
長期滞在者は、次の船が来るまでの15年~20年もの間唐に滞在、それぞれが文化の習得や仏教理解の研鑚に努めました。

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備中国の豪族の生まれの吉備真備(695~775)もその一人です。
留学僧として2度唐にわたっています。
一度目は、717年、第8回遣唐使として唐にわたり、17年間滞在します。
天文学、音楽、兵学を学び、帰国の際には唐から支給された留学の手当てをすべて書物などに変えて日本に持ち帰って朝廷に提出しました。
様々な学問書や仏教・儒教の書籍を日本へ持ち帰ることが遣唐使の大きな使命なのです。

当時の日本は、唐を参考に律令に基づく国家樹立を目指していたので、唐の事情に精通し、頭脳明晰な真備は重用されました。
帰国後は、破格の出世をし、従八位下から正六位下(大学助)に任じられ、学問面で国家の基礎づくりをします。
東宮学士という皇太子の先生となり、聖武天皇、光明皇后に寵愛され、破格の出世をし、766年には右大臣へ。
学芸、政治・・・奈良時代に数々の足跡を残しました。

日本に戻れずに唐でその人生を終える者もいました。
吉備真備と共に唐に渡った阿倍仲麻呂です。

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仲麻呂は、大和国の名家の生まれで、この時まだ19歳でした。
長安についた仲麻呂は、法律、文学、儒教など様々な学問を学び、唐の国家試験である科挙に合格し、唐で役人として出世し、時の皇帝玄宗に仕えました。
唐を代表する詩人・李白や王維とも交流を深めます。
そうして唐に来て16年・・・仲麻呂は遣唐使と共に帰国したいと玄宗に願い出ます。
ところが、帰ることを許してもらえなかったのです。
仲麻呂の願いが聞き入れられたのは、それから20年後のことでした。

その送別会の席で仲麻呂は歌を詠みます。

天の原
  ふりさけみれば
      春日なる
三笠の山に
    いでし月かも

日本を懐かしんだのですが・・・日本に帰る途中で暴風雨に遭い途中で遭難。
船はベトナムへ漂着し、再び唐に戻ることに・・・。
結局、日本に帰ることはかなわず、唐でその生涯を終えたのでした。

中には鑑真・・・鑑真は、日本に戒律の精神と儀礼を伝え、唐招提寺の開祖となりました。
すでに唐で名のある高僧だった鑑真が、日本にわたる決意をしたのは743年55歳の時でした。
鑑真は天台宗の高僧として活躍した慧思が、その死後、東方の国に生まれ変わり仏教を広めたという伝承を信じていました。
そして、その東方の国こそが日本で、戒律が栄えるべきところだと考えたのです。
しかし、時の皇帝・玄宗が出国を禁じます。
それでも鑑真の意志は固く、半ば密航の形で日本に向かいます。
しかし、悪天候、弟子の密告などに阻まれます。
1回目・・・743年・・・弟子の密告
2回目・・・743年・・・悪天候
3回目・・・744年・・・弟子の密告
4回目・・・744年・・・弟子の密告
5回目・・・748年・・・悪天候
5回目の渡航の際には愛弟子が亡くなり、鑑真も視力を失ってしまいます。
それでもあきらめることなく、754年日本に戻る遣唐使船に・・・。
6回目でついに来日を果たしたのです。

時の孝謙天皇は、鑑真に戒律を授ける権限を一任。
日本の仏教会の頂点に立った鑑真は、400人ほどに戒律を授け、戒律制度を整備。
さらに重い税や貧困に苦しむ民衆にも手を差し伸べて救済・・・763年76歳で天寿を全うしました。

894年8月・・・
第18回遣唐使派遣が決まります。
選ばれたのは、学者から出世を継げていた菅原道真でした。
菅原道真は、一旦は引き受けますが、1か月後、遣唐使の派遣中止を時の宇多天皇に訴えます。
道真は、過去にも受諾した案件を翻意にすることがありました。
この時もそうだったようですが・・・
どうして遣唐使の中止を訴えたのでしょうか?
意見書にはこう書かれていました。

「往復の危険は承知の上。
 しかし、今は唐の国力が衰えていて、以前なら安心だった唐の中の移動が危険にさらされている」
そのため、中止が望ましいと訴えたのです。

学者として調べると、9世紀の後半には反乱が起きていて、かなり治安が悪くなっていました。
留学生の待遇も悪化しており、支給されていた遣唐使への食糧が20年分から5年分と削減されていたのです。
唐の国力が衰退し、待遇も悪化していたため、危険を冒して唐にわたる必要がないと考えたのです。
また、当時商人の船による唐との往来が増えていて、国が船を出さなくてもいい状況になってきていました。
実際、遣唐使として唐にわたっていた円仁は、847年に新羅の承認の船で帰国しています。

情勢を冷静に判断した菅原道真の意見は通り、894年遣唐使中止・・・その後廃止となりました。
およそ300年間にわたって実施されてきた国家プロジェクトは、遣隋使4回、遣唐使15回、合計19回に及んだのです。
使節たちによってもたらされた先進国・隋や唐の文化と知識は、国内で熟成し、日本文化の基礎となっていきました。
命をかけ、海を渡った男たちの賜物・・・過酷な旅でした。


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天平期の僧と仏―行基・鑑真・道鏡、そして良弁

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聖徳太子と日本人 ―天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像 (角川ソフィア文庫)

大阪府堺市・・・巨大な古墳群・・・百舌鳥古墳群のなかでひときわ大きな古墳が仁徳天皇陵として知られる大山陵古墳です。
全長およそ486mの前報後円墳で、その面積は約47万㎡で、世界最大です。
クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に並ぶ世界三大墳墓です。
この百舌鳥古墳群と古市古墳群が世界遺産となることがほぼ内定しました。
日本国内に16万基以上ある古墳は、3世紀中ごろから7世紀末頃まで作られました。

何のために造られたのか?
誰の墓なのか・・・??

3世紀半ばから7世紀末ごろまで続いたと言われる古墳時代・・・
その幕開けと言われる古墳が奈良県桜井市の纏向遺跡にあります。
纏向遺跡は、初期大和政権発祥の地で、邪馬台国畿内説の候補地です。
その中にあるのが箸墓古墳です。
全長およそ280mの前方後円墳で、現在は孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命が埋葬された陵墓とされ、宮内庁が管理しています。
この時代に作られた古墳の形は様々で・・・その多くは、前方後円墳、前報後方墳・円墳・方墳に分かれています。
中でも前方後円墳は、ヤマト政権の大王やその一族、ヤマト政権と関係を持つ地方豪族が築造を許されていました。
日本オリジナルの形だと言われています。
どうして前方後円墳と言われるようになったのか?
それは、寛政の三奇人と言われた、江戸時代後期の儒学者・蒲生君平です。
君平は、二度にわたって近畿・四国の天皇陵の調査をし、地元調査を丹念に行った結果、車塚と呼ばれていることが多いことに気付きました。
古墳は使者を運ぶ車をかたどったもの??と考え、宮車をかたどったもので前方後円としたのです。
これが現在まで使われているのです。
現在では、この独特な形になった理由として、機能説が有力ですが、前方部の役割に諸説あります。
後円部は使者を埋葬する場所ですが・・・
前方部は①祭壇説②通路説③主従埋葬説などがあります。
結局どうしてこの形なのかは、今でも謎のままです。

当初は、ヤマト政権発祥の地である奈良盆地の東で築造された大和・柳本古墳群(3世紀中ごろ~4世紀前半)、ところが4世紀後半以降になると・・・
奈良盆地の北・佐紀古墳群(4世紀後半~5世紀後半)、西・馬見古墳群(4世紀後半~5世紀後半)、大阪平野の古市古墳群(4世紀末~5世紀末)、百舌鳥古墳群(4世紀末~5世紀末)で作られるようになり、より大きな前方後円墳が登場します。

中でも群を抜いて大きいのが、百舌鳥古墳群にある大山陵古墳・・・
日本書紀などから4世紀末に崩御したと言われる仁徳天皇が眠っていると言われています。
ところが・・・2018年、宮内庁が外部機関となる堺市と共同発掘したところ・・・5世紀の特徴を持った円筒埴輪やそれらが並んでいた痕跡を発見!!
仁徳天皇が崩御した時期とは違うことから、古墳がいつ造られて誰が埋葬されているのか再検討が必要となりました。
宮内庁は学者による調査を認めていませんが、世界遺産登録を機に本格的な発掘調査が行われるかもしれません。

この巨大な前方後円墳には、強大な権力者が埋葬されていることは必至・・・まさに国家プロジェクトでした。
その作り方は・・・??
①立地の選定・・・木を切って土地を平たんにする
②古墳の形を地面に描く
③濠の掘削~盛り土を行う
少し離れた櫓から、責任者が指示を出していました。
④葺石を敷く・・・葺石の数・約536万5千個
6キロ離れた石津川から運ばれてきたと考えられています。
多くの労働力と時間をかけて運ばれてきた石は、太陽の光を反射してキラキラ輝いていたと言われています。
古墳を縁取るように深紅の埴輪が並んでいました。
壮麗で圧巻なことだったことでしょう。
⑤被葬者の埋葬・・・後円部の頂上に穴を掘り埋葬する石室を作ります。
竪穴式石室は古い時代の石室で、石を積み上げて壁を作りその中に棺を入れました。
大山陵古墳は、このような石室が前方部と後円部、それぞれに作られたようです。

大山陵古墳に携わった人数は1日2000人、期間は15年8か月、費用は796億7700万円のビッグプロジェクトでした。
しかし、どうしてそこまで巨大な古墳を作る必要があったのでしょうか?
①支配下に置くものへの力の誇示
可視的な政治権力を見せつける装置でした。
その時々の技術、労働力の限界を追求したものでした。

②現在大山陵古墳から大阪湾までの直線距離は4キロ・・・。
ところが、5世紀当時はもっと海が迫っていました。
大山陵古墳・反正天皇陵・履中天皇陵が海岸線沿いにあったのです。
古墳は海から見えるように巨大にしていました。
国際的・・・外国からくる人に見せつけるためでした。
朝鮮半島の有力者たち渡来人たち・・・国内外に大和政権の権威の大きさを前方後円墳の大きさで示すためでした。
前方後円墳は基本的に見せる墳墓だったのです。
ヤマト政権の大王が勢力を見せつけるための巨大装置として築造した前方後円墳・・・
それはやがて、全国の地で作られるようになります。
誰でも勝手に作れたものではなく、ヤマト政権の認可によって各地の首長が前方後円墳を作ったのです。
ヤマト政権の一員になったことの証でした。

どうして地方の国々は、ヤマト政権の支配下に入ったのでしょうか?
理由は鉄でした。
武器や農具の材料として優れていた鉄ですが、当時の日本ではまだつくることはできませんでした。
そこでヤマト政権は、朝鮮半島南部の伽耶や新羅から大量に入手・・・ヤマト政権の支配下に入れば、その鉄が分け与えられたのです。
ヤマト政権の政治同盟の根幹は、モノ「鉄」とヒト「技術者」の分配で成り立っていました。
地方の国々は、ヤマト政権とネットワークを築くことで「鉄」やそれを使える「技術者」などを手に入れたかったのです。
全国に広がった前方後円墳は、統一国家となった証でもありました。
現在知られているだけでも、岩手県から鹿児島県まで、およそ5200基!!
そうした前方後円墳の中には、装飾古墳もあります。
福岡県桂川町にある王塚古墳もその一つです。
6世紀中ごろに作られたと考えられている前方後円墳で、全長86mあったと考えられています。
古墳からは、100点を超える武器や馬具、銅鏡、装飾品などが出土していますが、中でも多かったのは馬具です。
国内でもトップクラスの豪華さと精密さを誇ります。
装飾古墳と言われる由縁は、石室にあります。
王塚古墳は、横穴式石室で、入り口→羨道→前室→玄室となっています。
その石室は、普段は劣化防止のために非公式です。
6世紀中ごろまでの装飾古墳の5色使われているのは王塚古墳だけです。
使われている色は「赤・黒・緑・白・黄」。描かれている方法は、石室全体をまず赤色に塗り、そこから文様を描くという技法です。
珠文・・・天体をかたどったもの
三角文、靫、太刀、盾などが壁一面に描かれています。
どうしてこのような文様が書かれたのでしょうか?
謎を解くカギは双脚輪状文にありました。
縄文時代、弥生時代の人々は、お守りとして貝のブレスレット(腕輪)を身につけていました。
その貝は、ゴホウラ、スイジガイなどの南でとれる大型の貝でした。
その貝を輪切りにして貝を断面にすると双脚輪状文のような文様に・・・。
魔よけの効果を期待したのでは??
古代の人々は、魔よけの文様を描くことで、被葬者を守っていたと考えられます。
ここに埋葬されたのはどんな人??
4人の人が眠っているとされていますが・・・
様々な見解がありますが、副葬品や装飾品から位の高い首長を祀っていると考えられます。

3世紀中ごろから作られてきた古墳・・・しかし、7世紀に入ると、ヤマト政権の命令によって全国で前方後円墳の築造が停止します。
それは、朝鮮半島で新羅が、隋・唐の力を得て、朝鮮半島の統一にかかります。
それに対する脅威もあって、これに対抗するための連合政権から政権を一つにまとめる中央集権化へ・・・
その中心となったのが、当時推古天皇の摂政だった厩戸皇子(聖徳太子)でした。
冠位十二階で豪族の世襲制を防ぎ、憲法十七条で天皇への服従を唱えさせるなどして、中央集権化を推進・・・政策によって統治する律令国家の誕生で、巨大古墳で力を誇示する必要性が無くなっていったのです。
しかし、巨大な前方後円墳の築造が無くなっただけで、墓としての古墳は作られ続けられます。
その中で位の高いのが方墳です。

奈良県明日香村・・・そこに最大級の方墳があります。
石舞台古墳です。
天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のようであることから石舞台と呼ばれてきました。
古墳には大小およそ30個の花こう岩が使われており、一番大きな天井の石だけで77t・・・総重量は2300トンと推定されています。
この古墳・・・もともとは土を盛り上げて作った墳丘が覆っていたのですが、盛り土が失われて横穴式石室がむき出しになってしまっているのです。

遺体を安置した玄室の奥行きが7.6m、高さ4.7m、幅は3.5mとかなり大きなものです。
発掘調査によって、約50m四方の方墳で、濠と外濠が存在していました。
元々あった小さな古墳を壊してその上に築造されています。
築造は7世紀初めごろで、その頃にヤマト政権内で権勢をふるっていた蘇我馬子の庭園が近くにあったことから、この古墳は馬子を祀っているのではないか?と言われています。
どうして石室がむき出しになってしまったのでしょうか?
645年乙巳の変で、中大兄皇子は中臣鎌足たちによって殺害され、日本の歴史に悪人としてその名を刻む蘇我入鹿の祖父・・・。
そのため、多くの人から憎まれて墓を壊されてしまったのではないか?と言われてきました。
しかし、近年蘇我氏の再評価と共に異論も出てきています。
乙巳の変が起きたのは、隋が滅んで唐が建国された東アジアの状況に危機感を抱いた蘇我氏が、権力を集中して難局を乗り切ろうとした時の事でした。
そこで、近年では王族中心の国家にこだわる中大兄皇子が、中臣鎌足たちと共にそれを阻止しようとして蘇我氏を滅ぼし、それを隠蔽するために鎌足の子・不比等が日本書紀を編纂する為に蘇我氏を悪人に仕立てたのでは?とされています。
事実、蘇我氏は多くの人に支持されていたようで・・・
710年平城京遷都の際には、多くの人が蘇我氏の全盛期であった「飛鳥の都に戻りたい」「飛鳥の者が懐かしい」と、訴え続けていたといいます。
そんな思いを断ち切らせるために、為政者たちは人々が飛鳥京を懐かしまないように蘇我氏の権力の象徴だった石舞台古墳を破壊したのでは?と言われています。

645年の大化の改新後、古墳をめぐる状況は急展開します。
翌646年簿葬令の発布によって、
・身分によって墳墓の規模を制限
・王墓の築造にかける日数は7日以内
となりました。

そのため、古墳を築くことができるのは、一部の有力者の身になりました。
やがて古墳は小型化が進み、その代わりに古墳の内部を彩る極彩色壁画が施されるようになります。
その代表が高松塚古墳やキトラ古墳です。
王族を祀るために7世紀末から8世紀初め見かけて作られた終末期古墳です。
高松塚古墳の極彩色壁画には、方角を司る四神や女子群像などが色鮮やかに描かれ、キトラ古墳の石室天井には東アジア最古の天文図が・・・
どちらも当時の事を知る貴重な資料です。

そして古墳時代は終焉を迎えます。
カギを握るのは、天武・持統天皇陵です。
正八角形を形どった八角墳で、特別な存在である天皇だけに許された形でした。
二人が一緒に埋葬されているのは、持統天皇が夫である天武天皇と共に埋葬してほしいと願ったため・・・。
さらにその際、土倉ではなく仏教思想の火葬を望んだのです。

持統天皇は初めて火葬された天皇で、これ以降、その風習が広まっていったといいます。
それに伴って、古墳のような大きな墳墓は必要なくなっていきました。
こうして400年に渡った古墳時代は終わったのです。

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日本の紙幣に7度も肖像画を使われた人物・・・偉人中の偉人聖徳太子です。
遣隋使を送るなど、日本の仏教の礎を築いた重要人物として知られていますが・・・近年その存在が疑問視されています。
虚構か?実在か??

6世紀末から7世紀初頭にかけての飛鳥時代、奈良地方にあった大和政権が日本を動かしていました。
その政権の中心人物として数々の業績を残した偉人が聖徳太子ですが・・・
その聖徳太子にはたくさんの疑惑があります。

①架空の人物ではないか??
聖徳太子の記述が初めて登場するのは100年後の720年の日本書紀と言われています。
そこには、憲法十七条や、冠位十二階を制定したと書かれています。
が、その内容は、当時の政権の中枢にいた藤原不比等、長屋王、道慈たちが創作したもので、聖徳太子も彼らが作った架空の人物だったという虚構説です。

聖徳太子の名ではよばれていなかったものの、モデルになった人物はいました。
そのモデルとは、日本初の推古天皇を補佐した人物だと言われています。
その補佐役を務めていたのは、当時の状況から・・・推古天皇の甥にあたる用明天皇の第二皇子ではないか?と言われています。
しかし、第二皇子の正式名は解っていません。
どうして聖徳太子と呼ばれるようになったのでしょうか?

日本書紀にも聖徳太子という記述はなく、厩戸皇子・東宮正徳・上宮太子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子などと呼ばれています。
聖徳太子という名が登場するのは、日本書紀から30年後の漢詩集「懐風藻」(751)が最初です。
聖徳とは、日本書紀にある玄なる聖(ひじり)の徳(いきほい)という言葉から来たと考えられ、王位につかなかったが王と同じ徳を持つことを示しています。
このことと、皇太子であることが結びついてできた名が一番ふさわしい・・・と、聖徳太子となったのです。

②有名な肖像画は、聖徳太子ではなく全く別の人物では??
かつての1万円札など紙幣の肖像画の元となったのは、聖徳太子を描いた最古の絵として法隆寺に伝えられてきた人物像ですが・・・作者、制作年代は不明で、日本風ではないその服装から、唐人ではないか?百済の阿佐太子ではないか?と言われてきました。
ところが1980年代後半、奈良市の遺跡から木棺が発見!!
奈良時代、8世紀ごろのものとされるこの木棺には、役人の姿が描かれていました。
この姿と法隆寺の人物画と比較したところ、極めて似ていることから・・・この絵は8世紀ごろに書かれたもので、モデルとなったのは、日本人であることが分かってきました。
つまり、この肖像画は、聖徳太子の飛鳥時代に書かれたものではなく、8世紀に侵攻のための描かれた「聖徳太子」を推測して書かれたものとされています。

③超人伝説は本当なのか?
聖徳太子と言えば・・・日本書紀に書かれているエピソードの中に・・・
馬屋の戸の前で生まれる
生後すぐに言葉をしゃべった
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した
こうした聖徳太子の超人伝説はどうして生まれたのでしょうか?
聖徳太子の名前に・・・「上宮厩戸豊聡耳」という名があります。
この意味を考え・・・聖徳太子の様々なことが考えられたようです。
すべては名前からなのです。
聖徳太子の超人伝説は、皇太子の理想像として作られたのではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??日本書紀に書かれているので、聖武天皇にとってのお手本、マニュアルの存在だったようです。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末・・・
奈良地方では、有力豪族たちによる連合政権が作られ、その盟主として後の天皇としての大王が存在していました。
当時はまだ明文化された法律も、本格的な官僚制度もなく、政治は皇族、豪族たちによる話し合いで行われていました。
そんな中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいたと言われています。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時の朝鮮半島には、4つの国と地域(高句麗・百済・新羅・任那)があり、高句麗、百済、新羅の争いが続いていました。
その結果、鉄の産地として日本と縁の深かった任那が新羅によって併合されてしまいました。
このままでは、鉄の供給が絶えてしまう・・・そこで、倭国は3度にわたって朝鮮半島に遠征をしますが、芳しくなく・・・成果をあげることができませんでした。
そこで、外交戦略を変えます。
統一したばかりの大国・隋に使者を送ることを決断します。
そこには、聖徳太子の狙いがありました。
新羅に対して、倭国自らが圧力をかけるよりも、新羅が従属している隋に直接働きかけるのが一番ではないか?
当時の朝鮮半島の国々は、隋の属国としてありました。
支配者の隋に働きかけて、新羅を任那から撤退させようとしたのです。
600年、遣隋使を派遣!!
しかし、この目論見は大失敗!!

「隋書」倭国伝によれば・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者はこう答えました。
「倭王は、天をもって兄となし、日をもって弟となす。
 夜明け前に政務を執り、日が昇ると政務を停止し、後は弟に任せる。」
国家として体を為さない意味不明な説明で、隋の皇帝は「道理ではない」と、あきれてしまったのです。

帰国した使者から報告を受けた聖徳太子は、反省します。
「我が国は、国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに、隋と外交交渉することもできない。」と。
この最初の遣隋使の失敗がもたらした危機感が、聖徳太子を大胆な国づくりに駆り立てたのでした。

「なぜ我が国は、隋に認めてもらえなかったのか??」

聖徳太子は、その原因が日本の政治制度が整っていなかったことと痛感・・・。
国内体制の整備に取り掛かります。
大和政権内に、外交使節を招く格式高い場所がなかったことから、603年小墾田宮に遷宮。
宮の中心に、政務や祭礼が行われる朝庭を配する建物は、中国の建築物に倣ったもので、外国からの使節を招くにふさわしい場所となりました。
これが、後の御所の原型となります。
次に聖徳太子が行ったのが、豪族たちを序列化するための官位制度の制定です。
当時の氏姓制度は・・・大君から与えられた姓によってきめられていました。
君・臣・連・直・・・姓によって細かくランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物であっても、姓が低ければ、上の炊く職に就くことができませんでした。
そんな日本の序列制度を、隋はこう蔑んでいました。
「頭には冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂らしている」
隋では、役職に応じた冠位が定められ、冠をつけた正装で職務を行っていました。
もちろん、出世は実力次第・・・聖徳太子は、日本もこれを見習うべきだと新しく12段階の官位を定め、色分けした冠を作り、さらにそれらの官位は姓に関係なく実力によって与えられるように改革。
冠位十二階の制定には、日本を隋に認めさせたいという聖徳太子の思いが込められていました。

604年・・・憲法十七条の制定。
そこには、聖徳太子が理想とした国づくりの理念がありました。
当時生まれたばかりの官人(官吏・役人)達への批判が記されていました。
さらに、儒教の教え・・・社会秩序を作り出す礼の重要性を説きました。
常に、礼の心を持ちなさい。
民を治める基本は必ず礼にあります。
十七条の憲法には、儒教・法家など、外来思想を取り入れました。
なかでも聖徳太子が国の中心として位置付けたのは仏教でした。
仏教には、実学的な要素が高く、農業や建築を発展させるうえで、欠かすことができなかったのです。
こうして、国内の制度を整えた聖徳太子は、再び隋との交渉に臨むのです。

実際の聖徳太子は、どんな人物だったのでしょうか?
将来を嘱望されていた聖徳太子でしたが、その家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は欽明天皇の子という異母兄弟・・・
さらに、用明天皇が587年に崩御すると、母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
この母親の近親結婚に悩んでいたと言われていますが・・・??
この時代は当たり前で・・・近親結婚することで、天皇家の財産の拡散を防ぐと考えていました。

用明天皇が亡くなると、後継者争いを巡って蘇我馬子と物部守屋が対立!!
馬子は物部氏が擁立していら聖徳太子のおじ・穴穂部皇子を殺害!!
さらに、物部守屋を追討、滅ぼしてしまいました。
実権を握った馬子が、猛威につかせたのが、聖徳太子のもうひとりのおじ・崇峻天皇でした。
しかし、この崇峻天皇も、馬子によって暗殺!!
次々と起きる血生臭い豪族の死に、多感な青年期の聖徳太子は悩んでいた??

聖徳太子は道後温泉で湯治をしています。
結婚もしており、妃は4人(菟道貝蛸皇女・橘大郎女・刀自古郎女・菩岐々美郎女)、子供は14人いました。

日本書紀には、601年聖徳太子が28歳の時の動向が書かれています。
それまで推古天皇の右腕として辣腕を振るっていた聖徳太子が、飛鳥から20キロ離れた斑鳩に宮殿を建設し、拠点を移すというのです。
聖徳太子が斑鳩に移住して以降、日本書紀には聖徳太子に関する記述が少なくなります。
そのことから、蘇我馬子との権力争いに敗れた聖徳太子が、飛鳥から斑鳩に追いやられてしまったのか??
ではなく、新しく与えられた大きな課題があったからです。
聖徳太子の新しい職務とは、斑鳩の地理的条件からわかります。
斑鳩は、当時港のあった難波津と飛鳥の中間に当たり、近くには大和から河内の最短ルート・龍田道があり、大和川が流れる交通の要所でした。
飛鳥よりも難波津に近い斑鳩に拠点を置けば、一早く外国の情報を入手することができます。
斑鳩への移住は、聖徳太子にとって外交に専念するためだったのです。
最初の遣隋使から7年後の607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、1回目の遣隋使を迎えた文帝から二代皇帝煬帝に代わっていました。
煬帝は100万人を動員して運河を建設するなど、権力をほしいままにしていた暴君でした。
その煬帝に宛てて、小野妹子に国書を託します。
「隋書」倭国伝によると・・・
仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我国の僧侶たちに仏法を学ばせたい。
煬帝は、この国書の一文に目を留めます。
”日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。 つつがなきや”
煬帝はこの一文を見て、「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない」と、あきれ返ったといいます。

当時、隋は高句麗と戦いを始めようとしていました。
高句麗と倭国が連携することは避けたかったので、無礼な日本と手を組んでくれたのです。
隋からの使者は大和に滞在し、当時で来たばかりの飛鳥寺や建造物を見学したと言われています。
後進国ではないことを証明することができたのです。
聖徳太子は、政務に邁進しながら、仏教研究にも情熱を注いでいました。
聖徳太子建立七大寺は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・葛木寺(現存せず)。
622年に斑鳩で聖徳太子は亡くなったとされています。
2月21日に妃の膳部菩岐々美郎女が死去、翌日の22日に聖徳太子が亡くなったと言われています。
流行り病の可能性もあるとされています。
亡骸は磯長陵(しながのみささぎ)に埋葬されたといわれています。
それは、叡福寺北古墳と推定され、そこには、母・妃・聖徳太子の3つの棺が眠っているといわれています。

世界最古の木造建築とされる法隆寺。
現在は東院伽藍と西院伽藍からなっていますが、法隆寺が再建されている・・・??
607年聖徳太子が病に伏せっていた父・用明天皇のために推古天皇と創建したとされ・・・長い間、当時の姿のままと思われてきました。
しかし、日本書紀の670年の記述では、法隆寺は落雷によって全焼したといわれています。
1939年、法隆寺の南側から全く違う遺構の伽藍が発見されました。
この若草伽藍が、聖徳太子の作った法隆寺で、再建されたのが西院伽藍だと考えられるようになりました。
一度焼けてしまった法隆寺の再建理由は・・・??
娘の片岡女王や周辺豪族が聖徳太子を祀るためだったのではと考えられています。

聖徳太子は、その死後、色々な時代で人間を超える存在としてあがめられ、時の政権に利用されることとなります。
それは、聖徳太子が、日本の礎を築き、周辺諸国と渡り合える国にした偉大な功績があるからなのです。


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2017年3月、衝撃的な発表が奈良県明日香村でありました。
飛鳥地方最大級の古墳の存在が明らかになりました。

2014年からの発掘調査で・・・
新しく古墳の石室への通路の一部が見つかりました。
これらから、古墳の全体像が現れたのです。
小山田古墳と名付けられたこの古墳は、一遍が70mの方墳でした。
7世紀に築造され、完成後すぐに破壊されました。

これだけの巨大古墳を作れたのは・・・舒明天皇??
しかし、その一方で、この古墳が蘇我氏の拠点である甘樫丘の南の端にあることから、蘇我蝦夷の墓??
蘇我氏は、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と、100年以上にわたって君臨していました。
仏教や、新しい制度を次々と導入し、倭国を先進国へと生まれ変わらせた最大の功労者でした。
ところが・・・645年6月、古代史史上最大のクーデターが発生!!
乙巳の変!!です。

日本書紀によると、この時中大兄は皇極天皇から入鹿殺害の理由を聞かれ・・・

「入鹿は大王の位を脅かした。
 故に征伐した。」by中大兄

しかし、そこには、緊迫した大陸情勢があったようです。
そして一族の場内部抗争も大きく関係していました。
彼らが殺された本当の理由とは・・・??
蘇我氏失脚の謎は・・・??

奈良盆地の南・・・飛鳥・・・
ここは、100年にわたる蘇我氏の権力の舞台です。
無数の遺跡に彩られた地です。
中心には大和政権の宮殿跡・飛鳥宮跡。
7世紀前半、蘇我蝦夷・入鹿親子は権力の絶頂にあり、まさにここで入鹿が殺されました。
そして、南東には蘇我氏の強大な権力を誇示する石舞台古墳が・・・!!
高さ4.7m、高さ19.1m、の巨大な石室は、もとは土に覆われた一辺50m四方の方墳でした。
蘇我馬子の墓と考えられています。
どうして蘇我氏は強大な権力を得ることができたのでしょうか。

それまで無名だった蘇我氏を、一躍大和政権の中枢を担う大豪族に育て上げたのは、蘇我稲目でした。
稲目の墓とされる都塚古墳・・・
2014年の発掘調査で・・・その姿は6段以上のピラミッド型でした。
この古墳の形状から、稲目と朝鮮半島の強いつながりが感じられます。
将軍塚は、朝鮮半島北部の王朝・高句麗の王墓、都塚古墳と同じ石積みのピラミッド型古墳です。
稲目は、新しい精神文化を取り入れ、多くの渡来人のリーダーとなっていたようです。
渡来人たちを掌握し、彼らの最新の知識・技術を使って、大和政権に奉仕していました。
やがて・・・大臣という最高位まで上り詰めます。
さらに稲目は娘たちを大王の妃とし、娘たちの子が次々と大王となっていくのです。

稲目の死後、蘇我氏の最盛期を支えたのが、二代・馬子です。
馬子は、父から譲り受けた地位をさらに確固たるものとしていきます。
当時の大和政権は、大臣主催で有力氏族の代表者たちによる合議が行われていました。
これに対し、馬子は弟たちを蘇我氏から独立させ、新しい氏族とし、蘇我一族で多数派を形成できるようにします。
代表者会議を押さえた馬子は、推古天皇の元、厩戸王(後の聖徳太子)と協力し、大和政権の改革に努めるのでした。
その業績を代表するのが、日本初の本格的寺院・飛鳥寺の建立です。
当時、仏教は東アジア諸国で信仰され、文明のグローバル・スタンダードとなっていました。
馬子は、この仏教を積極的に導入。
さらに従来の世襲に代わって、実力主義を取り入れた官位制度を導入した冠位十二階などの数々の政策を推進し、日本を先進的な国に変わらせようとしました。

626年馬子が死去すると、後を継いだのは息子の蝦夷でした。
しかし、馬子の時代と打って変わって次々と内紛が起きます。
628年、馬子と共に、数々の改革を行ってきた推古天皇が崩御。
この後継者選びが難航します。
有力候補は・・・聖徳太子の子・山背大兄王と、田村皇子です。
蝦夷は、田村皇子を推していました。
しかし、蝦夷の方針に、蘇我一族から反対する者が出てきました。
蝦夷の叔父・境部摩理勢です。
馬子の代に、蘇我氏から独立し、境部氏を名乗っていました。
摩理勢は蝦夷に対抗し、山背大兄王を支持します。
次の天皇を擁した者が、次の大臣になれる・・・
そこには、蘇我氏内部の族長権争いが含まれていたのです。
馬子の代には結束して多数派を築いていた本家と分家・・・
しかし、蝦夷の代から一族間の不和の原因となっていきました。
蘇我一族の分裂によって、大王を選ぶ代表者会議は紛糾・・・
蘇我氏は強硬手段に・・・兵をもって摩理勢を攻め滅ぼしたのです。
629年蝦夷の推す田村皇子が即位し、舒明天皇に・・・。
ひとまず大和政権の安泰は保たれました。

7世紀・・・中国大陸では、世界史のターニングポイントとなる出来事が発生していました。
618年、世界帝国・唐王朝の成立・・・唐は、強大な国力を背景に、領土の拡大を推し進めます。
唐の二代皇帝・太宗は東に目を向け、朝鮮半島の三国への圧力を強めていました。
唐建国の直前、隋王朝によって大陸を南北に貫く大運河が建設されていました。
唐はそのインフラを最大限に活用し、国力、軍事力を増進していました。
倭国としても、強力な王権を作りあげて、東アジアの情勢に退所する国家づくりが課題となっていました。
朝鮮半島の状況は対岸の火事ではなく、どう対処するのか?大和政権の最重要課題となっていました。

642年皇極天皇即位・・・
643年、病気がちだった蝦夷は、「大臣」を入鹿に譲ります。
入鹿は若い頃、留学僧の元で学び、唐への造詣が深いといわれ、唐の脅威を誰よりも感じていました。
唐との戦いに備えるためには、国内の体制を変える必要がある・・・
入鹿の耳に飛び込んできたのは、一早く政治改革を断行した高句麗情報でした。
唐の圧力を受けていた高句麗では、有力貴族の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、王を殺害、新しい王を擁立し、独裁体制を築きました。
有力な貴族が権力を握り、唐との全面対決に臨もうとしたのです。

入鹿は、中国の脅威にいかに立ち向かうのか・・・??
そして国内の問題とは・・・??
部民正があって、それぞれの部族はそれぞれの主人に奉仕する縦割りな仕組みでした。
朝廷が必要な物、人間、兵力は、主人の豪族、王族の許可を得たうえで初めて朝廷に集まってくるというシステムでした。
戦争が可能なシステムを作るということは、中央集権的な仕組みを作るという事でした。
縦割り的な部民正を一元化する仕組みを入鹿は考えていたのです。

国内外の危機に直面した入鹿はどうする・・・??

積極策・・・改革を急ぎ断行する。
邪魔者を除き、わが手に権力を集中させなければ!!
高句麗では、権力集中に成功した。
この時、自分の脅威となるのは、王位継承候補となる山背大兄王・・・
他の豪族に担ぎ出され、いつ対立するかもわからない・・・!!
山背大兄王は、父・厩戸王から交通の要所・斑鳩と莫大な財を継承していました。
入鹿が大王を傀儡とし、権力を集中するためには、排除しなければならない人物でした。

慎重派・・・多数派を形成
権力の集中化を進めれば、豪族たちからの反発も大きいかも・・・。
自分の考え方に賛同する者を増やし、多数派を占めるべきではないか??

大和政権内で、蝦夷、入鹿は孤立しつつありました。
蘇我氏の強大な権力に反発する豪族たちが増えていたのです。
その原因となったのが、40年前に馬子が厩戸王と作り上げた冠位十二階でした。
大王に仕えるものを12段階の等級に分け、色違いの冠で分けるという人事制度です。
官位は大和政権への貢献度に対して一代限りで与えられました。
世襲から離れ、実力主義という画期的なものでした。
しかし、この制度の導入によって、蘇我氏への反発が生れたのです。

遣隋使で2度隋に渡った小野妹子は最後は徳冠という最高の地位につきました。
そうすると、豪族たちの政治的立場が相対的に下がっていったのです。
一方で、蘇我氏だけの独り勝ち・・・その不平不満が募っていっていたのです。


反発を恐れず改革か?多数派を形成するべきか・・・??

643年、入鹿の決断を促す緊急事態が新羅で起こっていました。
当時、高句麗と百済の侵攻に悩んでいた新羅は、唐に救援を求めました。
唐は新羅に対し・・・
「汝の国 婦人をもって 主となし 隣国に軽侮せらる」と言いました。
唐は救援の見返りに、新羅の女王を退位させ、新しく唐の王族を即位させることを要求しました。
国の根幹を揺るがす事態に、新羅は内乱状態に・・・!!

新羅の状況は、女帝を頂く当時の日本にとって無視できない存在でした。
皇極天皇は女帝・・・。
入鹿は権力集中を目指し、早急に決断します。
643年11月、山背大兄王を攻め滅ぼします。
他の豪族の反発を顧みない性急な行動に蝦夷は・・・
「ああ・・・入鹿、なんて愚かなことをした。 お前の命も危ないぞ。。。」と言ったとか。
2年後、蝦夷の恐れは現実のものに・・・

645年6月12日・・・乙巳の変。
ついにクーデターが・・・!!
宮中での儀式の際に、中大兄皇子らによって入鹿は殺されたのです。
中大兄たちは、すぐに飛鳥寺に軍を集結し、甘樫丘の邸宅に籠る蝦夷と対峙!!
飛鳥寺の中大兄の元には、王族や豪族が次々と集まったといいます。
反蘇我氏で多数派が形成されていたのです。
13日・・・命運が尽きたと思った蝦夷は、自宅に火をつけ自害・・・!!

ここに蝦夷、入鹿は滅びたのです。
蝦夷が自害した甘樫丘の南の端には小山田古墳。
蝦夷の墓の可能性がある古墳です。
日本書紀には蝦夷と入鹿の墓について・・・
二人は生前、全国の人を使って、大陵、小陵という自分たちの墓を作らせていました。
一遍70mの巨大な小山田古墳、これこそ、日本書紀にある大陵ではないか??と言われています。
これは、一遍50mの馬子の墓石舞台古墳や一遍60mの推古天皇陵をしのぐ規模です。
この大王をも越える巨大な墓を築いたことが、蘇我氏滅亡の引き金になったのではないか??
同時期の大王墓よりも大きな墓を・・・

古代史上最大のクーデターと言われる乙巳の変・・・
その首謀者の一人は、長らく蘇我氏の後塵を拝していた中臣鎌足でした。
鎌足は強大な蘇我氏を打倒する為に、周到な計画を練ります。
中大兄皇子ら有力な王族を立てることに成功!!
さらに・・・蘇我一族を分断!!
目を付けたのは、入鹿から権力奪還を狙う倉山田石川麻呂。
彼を暗殺計画に引き込みます。
その結果、石川麻呂は、入鹿、蝦夷亡き後の新政権で乙巳の変への功績を認められ上り詰めます。
しかし、その石川麻呂も僅か4年で失脚!!
残された蘇我一族も、歴史の表舞台から消えていきます。
しかし、後の時代に入ってもその権力を握るための手法は、ある一族に受け継がれました。
鎌足に始まる藤原氏です。
8世紀、藤原氏が次々と一族の娘を天皇に嫁がせ、外戚として権力を確固たるものとさせていきます。

蘇我氏が権力を掌握した要因の一つが群臣合議を掌握すること、もう一つが天皇家・大王家と外戚関係になることでした。
100年にわたりキングメーカーであり続けた蘇我氏・・・彼らが僅か2日で権力を失った理由とは・・・??
そして、その後の日本の権力構造に与えたものとは・・・??

権力への反感が渦巻いて、軍や警察などが参加や無視・放置、玉や大義名分などの正当性が反乱軍にあること・・・が、クーデターを成功させる要因となります。
入鹿、蝦夷は、反感があるのに放置し、抑え込むだけの力もなかったこと・・・
同族を配置し、権力を高めようと思っていたものの、世代交代で敵となってしまった・・・。

舒明天皇以降、天変地異がたくさんありました。
皇極が即位してからさらに増えたと書かれています。
そこには蘇我氏・・・蝦夷、入鹿の横暴ぶりを批判する意図がありました。
蘇我氏は・・・族長は、明日かを基盤とした入鹿、蝦夷から河内を基盤とした石川麻呂に・・・
蘇我氏の同族の多くは生き残り、高い地位に・・・。

蘇我氏の役割は・・・牧歌的な豪族の寄り合いを、近代国家に作り替えようとしたこと。
蘇我氏は先駆的・・・時代に先駆けて改革を目指したがゆえに、周りから浮き上がって潰されてしまった悲劇なのです。
国づくりをどうするかを考えて、突っ走って滅んでしまったのです。

日本の外交安全保障は、朝鮮半島情勢とその時々の大国が非常に大きなファクターであって、それは今も変わりありません。
性急な中央集権的国家を作り上げようとすると、失敗する可能性が高い・・・
日本史を貫く法則かもしれません。



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