日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:推古天皇

聖徳太子 本当はなにがすごいのか [ 田中 英道 ]

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(2018/7/12 10:19時点)
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日本の紙幣に7度も肖像画を使われた人物・・・偉人中の偉人聖徳太子です。
遣隋使を送るなど、日本の仏教の礎を築いた重要人物として知られていますが・・・近年その存在が疑問視されています。
虚構か?実在か??

6世紀末から7世紀初頭にかけての飛鳥時代、奈良地方にあった大和政権が日本を動かしていました。
その政権の中心人物として数々の業績を残した偉人が聖徳太子ですが・・・
その聖徳太子にはたくさんの疑惑があります。

①架空の人物ではないか??
聖徳太子の記述が初めて登場するのは100年後の720年の日本書紀と言われています。
そこには、憲法十七条や、冠位十二階を制定したと書かれています。
が、その内容は、当時の政権の中枢にいた藤原不比等、長屋王、道慈たちが創作したもので、聖徳太子も彼らが作った架空の人物だったという虚構説です。

聖徳太子の名ではよばれていなかったものの、モデルになった人物はいました。
そのモデルとは、日本初の推古天皇を補佐した人物だと言われています。
その補佐役を務めていたのは、当時の状況から・・・推古天皇の甥にあたる用明天皇の第二皇子ではないか?と言われています。
しかし、第二皇子の正式名は解っていません。
どうして聖徳太子と呼ばれるようになったのでしょうか?

日本書紀にも聖徳太子という記述はなく、厩戸皇子・東宮正徳・上宮太子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子などと呼ばれています。
聖徳太子という名が登場するのは、日本書紀から30年後の漢詩集「懐風藻」(751)が最初です。
聖徳とは、日本書紀にある玄なる聖(ひじり)の徳(いきほい)という言葉から来たと考えられ、王位につかなかったが王と同じ徳を持つことを示しています。
このことと、皇太子であることが結びついてできた名が一番ふさわしい・・・と、聖徳太子となったのです。

②有名な肖像画は、聖徳太子ではなく全く別の人物では??
かつての1万円札など紙幣の肖像画の元となったのは、聖徳太子を描いた最古の絵として法隆寺に伝えられてきた人物像ですが・・・作者、制作年代は不明で、日本風ではないその服装から、唐人ではないか?百済の阿佐太子ではないか?と言われてきました。
ところが1980年代後半、奈良市の遺跡から木棺が発見!!
奈良時代、8世紀ごろのものとされるこの木棺には、役人の姿が描かれていました。
この姿と法隆寺の人物画と比較したところ、極めて似ていることから・・・この絵は8世紀ごろに書かれたもので、モデルとなったのは、日本人であることが分かってきました。
つまり、この肖像画は、聖徳太子の飛鳥時代に書かれたものではなく、8世紀に侵攻のための描かれた「聖徳太子」を推測して書かれたものとされています。

③超人伝説は本当なのか?
聖徳太子と言えば・・・日本書紀に書かれているエピソードの中に・・・
馬屋の戸の前で生まれる
生後すぐに言葉をしゃべった
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した
こうした聖徳太子の超人伝説はどうして生まれたのでしょうか?
聖徳太子の名前に・・・「上宮厩戸豊聡耳」という名があります。
この意味を考え・・・聖徳太子の様々なことが考えられたようです。
すべては名前からなのです。
聖徳太子の超人伝説は、皇太子の理想像として作られたのではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??日本書紀に書かれているので、聖武天皇にとってのお手本、マニュアルの存在だったようです。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末・・・
奈良地方では、有力豪族たちによる連合政権が作られ、その盟主として後の天皇としての大王が存在していました。
当時はまだ明文化された法律も、本格的な官僚制度もなく、政治は皇族、豪族たちによる話し合いで行われていました。
そんな中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいたと言われています。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時の朝鮮半島には、4つの国と地域(高句麗・百済・新羅・任那)があり、高句麗、百済、新羅の争いが続いていました。
その結果、鉄の産地として日本と縁の深かった任那が新羅によって併合されてしまいました。
このままでは、鉄の供給が絶えてしまう・・・そこで、倭国は3度にわたって朝鮮半島に遠征をしますが、芳しくなく・・・成果をあげることができませんでした。
そこで、外交戦略を変えます。
統一したばかりの大国・隋に使者を送ることを決断します。
そこには、聖徳太子の狙いがありました。
新羅に対して、倭国自らが圧力をかけるよりも、新羅が従属している隋に直接働きかけるのが一番ではないか?
当時の朝鮮半島の国々は、隋の属国としてありました。
支配者の隋に働きかけて、新羅を任那から撤退させようとしたのです。
600年、遣隋使を派遣!!
しかし、この目論見は大失敗!!

「隋書」倭国伝によれば・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者はこう答えました。
「倭王は、天をもって兄となし、日をもって弟となす。
 夜明け前に政務を執り、日が昇ると政務を停止し、後は弟に任せる。」
国家として体を為さない意味不明な説明で、隋の皇帝は「道理ではない」と、あきれてしまったのです。

帰国した使者から報告を受けた聖徳太子は、反省します。
「我が国は、国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに、隋と外交交渉することもできない。」と。
この最初の遣隋使の失敗がもたらした危機感が、聖徳太子を大胆な国づくりに駆り立てたのでした。

「なぜ我が国は、隋に認めてもらえなかったのか??」

聖徳太子は、その原因が日本の政治制度が整っていなかったことと痛感・・・。
国内体制の整備に取り掛かります。
大和政権内に、外交使節を招く格式高い場所がなかったことから、603年小墾田宮に遷宮。
宮の中心に、政務や祭礼が行われる朝庭を配する建物は、中国の建築物に倣ったもので、外国からの使節を招くにふさわしい場所となりました。
これが、後の御所の原型となります。
次に聖徳太子が行ったのが、豪族たちを序列化するための官位制度の制定です。
当時の氏姓制度は・・・大君から与えられた姓によってきめられていました。
君・臣・連・直・・・姓によって細かくランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物であっても、姓が低ければ、上の炊く職に就くことができませんでした。
そんな日本の序列制度を、隋はこう蔑んでいました。
「頭には冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂らしている」
隋では、役職に応じた冠位が定められ、冠をつけた正装で職務を行っていました。
もちろん、出世は実力次第・・・聖徳太子は、日本もこれを見習うべきだと新しく12段階の官位を定め、色分けした冠を作り、さらにそれらの官位は姓に関係なく実力によって与えられるように改革。
冠位十二階の制定には、日本を隋に認めさせたいという聖徳太子の思いが込められていました。

604年・・・憲法十七条の制定。
そこには、聖徳太子が理想とした国づくりの理念がありました。
当時生まれたばかりの官人(官吏・役人)達への批判が記されていました。
さらに、儒教の教え・・・社会秩序を作り出す礼の重要性を説きました。
常に、礼の心を持ちなさい。
民を治める基本は必ず礼にあります。
十七条の憲法には、儒教・法家など、外来思想を取り入れました。
なかでも聖徳太子が国の中心として位置付けたのは仏教でした。
仏教には、実学的な要素が高く、農業や建築を発展させるうえで、欠かすことができなかったのです。
こうして、国内の制度を整えた聖徳太子は、再び隋との交渉に臨むのです。

実際の聖徳太子は、どんな人物だったのでしょうか?
将来を嘱望されていた聖徳太子でしたが、その家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は欽明天皇の子という異母兄弟・・・
さらに、用明天皇が587年に崩御すると、母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
この母親の近親結婚に悩んでいたと言われていますが・・・??
この時代は当たり前で・・・近親結婚することで、天皇家の財産の拡散を防ぐと考えていました。

用明天皇が亡くなると、後継者争いを巡って蘇我馬子と物部守屋が対立!!
馬子は物部氏が擁立していら聖徳太子のおじ・穴穂部皇子を殺害!!
さらに、物部守屋を追討、滅ぼしてしまいました。
実権を握った馬子が、猛威につかせたのが、聖徳太子のもうひとりのおじ・崇峻天皇でした。
しかし、この崇峻天皇も、馬子によって暗殺!!
次々と起きる血生臭い豪族の死に、多感な青年期の聖徳太子は悩んでいた??

聖徳太子は道後温泉で湯治をしています。
結婚もしており、妃は4人(菟道貝蛸皇女・橘大郎女・刀自古郎女・菩岐々美郎女)、子供は14人いました。

日本書紀には、601年聖徳太子が28歳の時の動向が書かれています。
それまで推古天皇の右腕として辣腕を振るっていた聖徳太子が、飛鳥から20キロ離れた斑鳩に宮殿を建設し、拠点を移すというのです。
聖徳太子が斑鳩に移住して以降、日本書紀には聖徳太子に関する記述が少なくなります。
そのことから、蘇我馬子との権力争いに敗れた聖徳太子が、飛鳥から斑鳩に追いやられてしまったのか??
ではなく、新しく与えられた大きな課題があったからです。
聖徳太子の新しい職務とは、斑鳩の地理的条件からわかります。
斑鳩は、当時港のあった難波津と飛鳥の中間に当たり、近くには大和から河内の最短ルート・龍田道があり、大和川が流れる交通の要所でした。
飛鳥よりも難波津に近い斑鳩に拠点を置けば、一早く外国の情報を入手することができます。
斑鳩への移住は、聖徳太子にとって外交に専念するためだったのです。
最初の遣隋使から7年後の607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、1回目の遣隋使を迎えた文帝から二代皇帝煬帝に代わっていました。
煬帝は100万人を動員して運河を建設するなど、権力をほしいままにしていた暴君でした。
その煬帝に宛てて、小野妹子に国書を託します。
「隋書」倭国伝によると・・・
仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我国の僧侶たちに仏法を学ばせたい。
煬帝は、この国書の一文に目を留めます。
”日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。 つつがなきや”
煬帝はこの一文を見て、「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない」と、あきれ返ったといいます。

当時、隋は高句麗と戦いを始めようとしていました。
高句麗と倭国が連携することは避けたかったので、無礼な日本と手を組んでくれたのです。
隋からの使者は大和に滞在し、当時で来たばかりの飛鳥寺や建造物を見学したと言われています。
後進国ではないことを証明することができたのです。
聖徳太子は、政務に邁進しながら、仏教研究にも情熱を注いでいました。
聖徳太子建立七大寺は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・葛木寺(現存せず)。
622年に斑鳩で聖徳太子は亡くなったとされています。
2月21日に妃の膳部菩岐々美郎女が死去、翌日の22日に聖徳太子が亡くなったと言われています。
流行り病の可能性もあるとされています。
亡骸は磯長陵(しながのみささぎ)に埋葬されたといわれています。
それは、叡福寺北古墳と推定され、そこには、母・妃・聖徳太子の3つの棺が眠っているといわれています。

世界最古の木造建築とされる法隆寺。
現在は東院伽藍と西院伽藍からなっていますが、法隆寺が再建されている・・・??
607年聖徳太子が病に伏せっていた父・用明天皇のために推古天皇と創建したとされ・・・長い間、当時の姿のままと思われてきました。
しかし、日本書紀の670年の記述では、法隆寺は落雷によって全焼したといわれています。
1939年、法隆寺の南側から全く違う遺構の伽藍が発見されました。
この若草伽藍が、聖徳太子の作った法隆寺で、再建されたのが西院伽藍だと考えられるようになりました。
一度焼けてしまった法隆寺の再建理由は・・・??
娘の片岡女王や周辺豪族が聖徳太子を祀るためだったのではと考えられています。

聖徳太子は、その死後、色々な時代で人間を超える存在としてあがめられ、時の政権に利用されることとなります。
それは、聖徳太子が、日本の礎を築き、周辺諸国と渡り合える国にした偉大な功績があるからなのです。


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2017年3月、衝撃的な発表が奈良県明日香村でありました。
飛鳥地方最大級の古墳の存在が明らかになりました。

2014年からの発掘調査で・・・
新しく古墳の石室への通路の一部が見つかりました。
これらから、古墳の全体像が現れたのです。
小山田古墳と名付けられたこの古墳は、一遍が70mの方墳でした。
7世紀に築造され、完成後すぐに破壊されました。

これだけの巨大古墳を作れたのは・・・舒明天皇??
しかし、その一方で、この古墳が蘇我氏の拠点である甘樫丘の南の端にあることから、蘇我蝦夷の墓??
蘇我氏は、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と、100年以上にわたって君臨していました。
仏教や、新しい制度を次々と導入し、倭国を先進国へと生まれ変わらせた最大の功労者でした。
ところが・・・645年6月、古代史史上最大のクーデターが発生!!
乙巳の変!!です。

日本書紀によると、この時中大兄は皇極天皇から入鹿殺害の理由を聞かれ・・・

「入鹿は大王の位を脅かした。
 故に征伐した。」by中大兄

しかし、そこには、緊迫した大陸情勢があったようです。
そして一族の場内部抗争も大きく関係していました。
彼らが殺された本当の理由とは・・・??
蘇我氏失脚の謎は・・・??

奈良盆地の南・・・飛鳥・・・
ここは、100年にわたる蘇我氏の権力の舞台です。
無数の遺跡に彩られた地です。
中心には大和政権の宮殿跡・飛鳥宮跡。
7世紀前半、蘇我蝦夷・入鹿親子は権力の絶頂にあり、まさにここで入鹿が殺されました。
そして、南東には蘇我氏の強大な権力を誇示する石舞台古墳が・・・!!
高さ4.7m、高さ19.1m、の巨大な石室は、もとは土に覆われた一辺50m四方の方墳でした。
蘇我馬子の墓と考えられています。
どうして蘇我氏は強大な権力を得ることができたのでしょうか。

それまで無名だった蘇我氏を、一躍大和政権の中枢を担う大豪族に育て上げたのは、蘇我稲目でした。
稲目の墓とされる都塚古墳・・・
2014年の発掘調査で・・・その姿は6段以上のピラミッド型でした。
この古墳の形状から、稲目と朝鮮半島の強いつながりが感じられます。
将軍塚は、朝鮮半島北部の王朝・高句麗の王墓、都塚古墳と同じ石積みのピラミッド型古墳です。
稲目は、新しい精神文化を取り入れ、多くの渡来人のリーダーとなっていたようです。
渡来人たちを掌握し、彼らの最新の知識・技術を使って、大和政権に奉仕していました。
やがて・・・大臣という最高位まで上り詰めます。
さらに稲目は娘たちを大王の妃とし、娘たちの子が次々と大王となっていくのです。

稲目の死後、蘇我氏の最盛期を支えたのが、二代・馬子です。
馬子は、父から譲り受けた地位をさらに確固たるものとしていきます。
当時の大和政権は、大臣主催で有力氏族の代表者たちによる合議が行われていました。
これに対し、馬子は弟たちを蘇我氏から独立させ、新しい氏族とし、蘇我一族で多数派を形成できるようにします。
代表者会議を押さえた馬子は、推古天皇の元、厩戸王(後の聖徳太子)と協力し、大和政権の改革に努めるのでした。
その業績を代表するのが、日本初の本格的寺院・飛鳥寺の建立です。
当時、仏教は東アジア諸国で信仰され、文明のグローバル・スタンダードとなっていました。
馬子は、この仏教を積極的に導入。
さらに従来の世襲に代わって、実力主義を取り入れた官位制度を導入した冠位十二階などの数々の政策を推進し、日本を先進的な国に変わらせようとしました。

626年馬子が死去すると、後を継いだのは息子の蝦夷でした。
しかし、馬子の時代と打って変わって次々と内紛が起きます。
628年、馬子と共に、数々の改革を行ってきた推古天皇が崩御。
この後継者選びが難航します。
有力候補は・・・聖徳太子の子・山背大兄王と、田村皇子です。
蝦夷は、田村皇子を推していました。
しかし、蝦夷の方針に、蘇我一族から反対する者が出てきました。
蝦夷の叔父・境部摩理勢です。
馬子の代に、蘇我氏から独立し、境部氏を名乗っていました。
摩理勢は蝦夷に対抗し、山背大兄王を支持します。
次の天皇を擁した者が、次の大臣になれる・・・
そこには、蘇我氏内部の族長権争いが含まれていたのです。
馬子の代には結束して多数派を築いていた本家と分家・・・
しかし、蝦夷の代から一族間の不和の原因となっていきました。
蘇我一族の分裂によって、大王を選ぶ代表者会議は紛糾・・・
蘇我氏は強硬手段に・・・兵をもって摩理勢を攻め滅ぼしたのです。
629年蝦夷の推す田村皇子が即位し、舒明天皇に・・・。
ひとまず大和政権の安泰は保たれました。

7世紀・・・中国大陸では、世界史のターニングポイントとなる出来事が発生していました。
618年、世界帝国・唐王朝の成立・・・唐は、強大な国力を背景に、領土の拡大を推し進めます。
唐の二代皇帝・太宗は東に目を向け、朝鮮半島の三国への圧力を強めていました。
唐建国の直前、隋王朝によって大陸を南北に貫く大運河が建設されていました。
唐はそのインフラを最大限に活用し、国力、軍事力を増進していました。
倭国としても、強力な王権を作りあげて、東アジアの情勢に退所する国家づくりが課題となっていました。
朝鮮半島の状況は対岸の火事ではなく、どう対処するのか?大和政権の最重要課題となっていました。

642年皇極天皇即位・・・
643年、病気がちだった蝦夷は、「大臣」を入鹿に譲ります。
入鹿は若い頃、留学僧の元で学び、唐への造詣が深いといわれ、唐の脅威を誰よりも感じていました。
唐との戦いに備えるためには、国内の体制を変える必要がある・・・
入鹿の耳に飛び込んできたのは、一早く政治改革を断行した高句麗情報でした。
唐の圧力を受けていた高句麗では、有力貴族の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、王を殺害、新しい王を擁立し、独裁体制を築きました。
有力な貴族が権力を握り、唐との全面対決に臨もうとしたのです。

入鹿は、中国の脅威にいかに立ち向かうのか・・・??
そして国内の問題とは・・・??
部民正があって、それぞれの部族はそれぞれの主人に奉仕する縦割りな仕組みでした。
朝廷が必要な物、人間、兵力は、主人の豪族、王族の許可を得たうえで初めて朝廷に集まってくるというシステムでした。
戦争が可能なシステムを作るということは、中央集権的な仕組みを作るという事でした。
縦割り的な部民正を一元化する仕組みを入鹿は考えていたのです。

国内外の危機に直面した入鹿はどうする・・・??

積極策・・・改革を急ぎ断行する。
邪魔者を除き、わが手に権力を集中させなければ!!
高句麗では、権力集中に成功した。
この時、自分の脅威となるのは、王位継承候補となる山背大兄王・・・
他の豪族に担ぎ出され、いつ対立するかもわからない・・・!!
山背大兄王は、父・厩戸王から交通の要所・斑鳩と莫大な財を継承していました。
入鹿が大王を傀儡とし、権力を集中するためには、排除しなければならない人物でした。

慎重派・・・多数派を形成
権力の集中化を進めれば、豪族たちからの反発も大きいかも・・・。
自分の考え方に賛同する者を増やし、多数派を占めるべきではないか??

大和政権内で、蝦夷、入鹿は孤立しつつありました。
蘇我氏の強大な権力に反発する豪族たちが増えていたのです。
その原因となったのが、40年前に馬子が厩戸王と作り上げた冠位十二階でした。
大王に仕えるものを12段階の等級に分け、色違いの冠で分けるという人事制度です。
官位は大和政権への貢献度に対して一代限りで与えられました。
世襲から離れ、実力主義という画期的なものでした。
しかし、この制度の導入によって、蘇我氏への反発が生れたのです。

遣隋使で2度隋に渡った小野妹子は最後は徳冠という最高の地位につきました。
そうすると、豪族たちの政治的立場が相対的に下がっていったのです。
一方で、蘇我氏だけの独り勝ち・・・その不平不満が募っていっていたのです。


反発を恐れず改革か?多数派を形成するべきか・・・??

643年、入鹿の決断を促す緊急事態が新羅で起こっていました。
当時、高句麗と百済の侵攻に悩んでいた新羅は、唐に救援を求めました。
唐は新羅に対し・・・
「汝の国 婦人をもって 主となし 隣国に軽侮せらる」と言いました。
唐は救援の見返りに、新羅の女王を退位させ、新しく唐の王族を即位させることを要求しました。
国の根幹を揺るがす事態に、新羅は内乱状態に・・・!!

新羅の状況は、女帝を頂く当時の日本にとって無視できない存在でした。
皇極天皇は女帝・・・。
入鹿は権力集中を目指し、早急に決断します。
643年11月、山背大兄王を攻め滅ぼします。
他の豪族の反発を顧みない性急な行動に蝦夷は・・・
「ああ・・・入鹿、なんて愚かなことをした。 お前の命も危ないぞ。。。」と言ったとか。
2年後、蝦夷の恐れは現実のものに・・・

645年6月12日・・・乙巳の変。
ついにクーデターが・・・!!
宮中での儀式の際に、中大兄皇子らによって入鹿は殺されたのです。
中大兄たちは、すぐに飛鳥寺に軍を集結し、甘樫丘の邸宅に籠る蝦夷と対峙!!
飛鳥寺の中大兄の元には、王族や豪族が次々と集まったといいます。
反蘇我氏で多数派が形成されていたのです。
13日・・・命運が尽きたと思った蝦夷は、自宅に火をつけ自害・・・!!

ここに蝦夷、入鹿は滅びたのです。
蝦夷が自害した甘樫丘の南の端には小山田古墳。
蝦夷の墓の可能性がある古墳です。
日本書紀には蝦夷と入鹿の墓について・・・
二人は生前、全国の人を使って、大陵、小陵という自分たちの墓を作らせていました。
一遍70mの巨大な小山田古墳、これこそ、日本書紀にある大陵ではないか??と言われています。
これは、一遍50mの馬子の墓石舞台古墳や一遍60mの推古天皇陵をしのぐ規模です。
この大王をも越える巨大な墓を築いたことが、蘇我氏滅亡の引き金になったのではないか??
同時期の大王墓よりも大きな墓を・・・

古代史上最大のクーデターと言われる乙巳の変・・・
その首謀者の一人は、長らく蘇我氏の後塵を拝していた中臣鎌足でした。
鎌足は強大な蘇我氏を打倒する為に、周到な計画を練ります。
中大兄皇子ら有力な王族を立てることに成功!!
さらに・・・蘇我一族を分断!!
目を付けたのは、入鹿から権力奪還を狙う倉山田石川麻呂。
彼を暗殺計画に引き込みます。
その結果、石川麻呂は、入鹿、蝦夷亡き後の新政権で乙巳の変への功績を認められ上り詰めます。
しかし、その石川麻呂も僅か4年で失脚!!
残された蘇我一族も、歴史の表舞台から消えていきます。
しかし、後の時代に入ってもその権力を握るための手法は、ある一族に受け継がれました。
鎌足に始まる藤原氏です。
8世紀、藤原氏が次々と一族の娘を天皇に嫁がせ、外戚として権力を確固たるものとさせていきます。

蘇我氏が権力を掌握した要因の一つが群臣合議を掌握すること、もう一つが天皇家・大王家と外戚関係になることでした。
100年にわたりキングメーカーであり続けた蘇我氏・・・彼らが僅か2日で権力を失った理由とは・・・??
そして、その後の日本の権力構造に与えたものとは・・・??

権力への反感が渦巻いて、軍や警察などが参加や無視・放置、玉や大義名分などの正当性が反乱軍にあること・・・が、クーデターを成功させる要因となります。
入鹿、蝦夷は、反感があるのに放置し、抑え込むだけの力もなかったこと・・・
同族を配置し、権力を高めようと思っていたものの、世代交代で敵となってしまった・・・。

舒明天皇以降、天変地異がたくさんありました。
皇極が即位してからさらに増えたと書かれています。
そこには蘇我氏・・・蝦夷、入鹿の横暴ぶりを批判する意図がありました。
蘇我氏は・・・族長は、明日かを基盤とした入鹿、蝦夷から河内を基盤とした石川麻呂に・・・
蘇我氏の同族の多くは生き残り、高い地位に・・・。

蘇我氏の役割は・・・牧歌的な豪族の寄り合いを、近代国家に作り替えようとしたこと。
蘇我氏は先駆的・・・時代に先駆けて改革を目指したがゆえに、周りから浮き上がって潰されてしまった悲劇なのです。
国づくりをどうするかを考えて、突っ走って滅んでしまったのです。

日本の外交安全保障は、朝鮮半島情勢とその時々の大国が非常に大きなファクターであって、それは今も変わりありません。
性急な中央集権的国家を作り上げようとすると、失敗する可能性が高い・・・
日本史を貫く法則かもしれません。



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が・・・その聖徳太子にいろいろと疑惑が出ています。

①架空の人物ではないのか・・・??
聖徳太子の記述が初めて出てきたのは、死後100年ほどたった「日本書紀」(720年)です。
そこには、冠位十二階、憲法十七条を定めた人物と記載されています。
これは、当時の政権の中枢の藤原不比等たちが創作されたもので、聖徳太子も架空の人物ではないか?というものです。

虚構説について・・・
日本書紀における聖徳太子が、数多くの粉飾、脚色に覆われていることは事実ですが、モデルとなった人物がいたのではないか??という見方が主流となっています。
そのモデルは・・・推古天皇を補佐していた人物で、推古天皇の甥にあたる・・・用明天皇の第二皇子とされています。
しかし、その正式名称はわかっていません。
日本書紀にも聖徳太子というという記述はなく、厩戸皇子、東宮正徳、上宮太子、皇太子、上宮厩戸豊か聡耳太子・・・など、様々な名前で記されています。
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そして、聖徳を持つ皇太子・・・「聖徳太子」が一番ふさわしい・・・となったのです。

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つまり、法隆寺の人物画は、飛鳥時代には書かれていないものの、奈良時代、信仰のために聖徳太子をイメージして書かれたと思われます。

③超人伝説は本当なのか・・・??
日本書紀によると、聖徳太子と言えば・・・
馬屋の前で生まれる。
生まれたばかりで言葉をしゃべった。
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した

こうした超人伝説はどうして生まれたのでしょうか??

聖徳太子には・・・「上宮 厩戸 豊聡耳」という長い名前がついていました。
この名前から、紡ぎ出されたものと思われます。

聖徳太子を神格化したのは・・・皇太子の理想像を作り上げたかったからではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??と、聖武天皇のお手本を示すためだったのかもしれません。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末、奈良地方では、有力な豪族たちによる連合政権が形成され、その盟主として大王が中心にいました。
当時はまだ明文化された法律も、官僚制度もなく、政治は、大王、皇族、豪族などの話し合いで行われていました。
そうした中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいました。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時は、朝鮮では、高句麗、百済、新羅、任那と別れており、高句麗、新羅、百済の三国の争いが続いていました。
そのため、鉄の産地として日本と深い関係にあった任那が新羅に併合されてしまったのです。
このままでは鉄の供給が断たれてしまう・・・!!
倭国は三度にわたり、朝鮮半島遠征を試みますが・・・芳しい成果は得られませんでした。

そこで、政策を変更!!
当時中国を統一した隋に近づくために、使者を送ることを決めます。
新羅に対して、倭国が働きかける。。。
新羅が隷属している隋に直接働きかける。。。
と、考えたのです。

当時の朝鮮半島の国々は、隋と属国関係にありました。
支配者である隋に働きかけて、任那から撤退させようとしたのです。

600年遣隋使を派遣
しかし・・・この目論見は大失敗!!
「隋書」倭国伝によると・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者は・・・
「倭王は天をもって兄となし 日をもって弟となす
 夜明け前に政務をとり、日が昇ると政務を停止し 後は弟に任せる」
意味不明な説明に、隋の文帝は「道理ではない」と、あきれてしまいました。
帰国した使者からの報告に聖徳太子は、
「我が国は国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに隋と外交交渉することもできない」
この最初の遣隋使の失敗によって、国づくりを急ぐ必要があったのです。

どうして隋に認めてもらえなかったのだろうか・・・??
国内体制の整備に取り掛かります。
603年大和朝廷内・小墾田宮に遷宮
ここは、外国からの使者を迎えるいい場所となりました。
これがのちの天皇の御所の原型となりました。

当時の氏姓制度は、蘇我(氏)臣(姓)馬子・・・と、大王から授けられた姓によって決められていました。
臣・連を最上位に、姓によってランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物でも姓が低ければ、上には立てなかったのです。
このことについて隋は・・・”頭には冠はなくただ髪を両耳の上に垂らしている”と、蔑んでいました。
隋では役職に応じた官位がさだめられ、冠を付けた正装で職務を行っていました。官位制度です。
もちろん出世は実力次第です。
日本もこれを見習うべきだ!!
と、冠位十二階を定めます。
さらにこれら冠は、姓ではなく、個人の功績や実力によって与えられることとなりました。
隋に認められるために・・・!!

604年憲法一七条の制定。
そこには聖徳太子が理想とした国づくりの理念が書かれており、当時生まれたばかりの官人たちへの批判が書かれていました。
さらに、社会秩序を作り出す礼の重要性を説きます。
憲法一七条には、儒教・法家など外来思想が採りいれられていました。
中でも国の中心に置いたのが仏教でした。
こうして国内の制度を作り上げ、隋との交渉に臨んだのでした。


実際の聖徳太子は・・・??

聖徳太子は574年頃、用明天皇の二番目の皇子として生まれます。
将来を嘱望されていた皇子でしたが、家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は異母兄弟で、さらに用明天皇が587年頃崩御。
母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
母の近親結婚に悩んでいた・・・とも言われています。
しかし、これは当時、当たり前のことでした。

用明天皇が亡くなると、後継者擁立を巡って蘇我馬子と物部守屋との対立が表面化。
馬子は物部派の穴穂部皇子を殺害!!
さらに物部守屋を討伐!!
実権を握った蘇我馬子が皇位につかせたのが聖徳太子のもう一人の叔父・崇峻天皇でした。
が、崇峻天皇も馬子によって暗殺されてしまいました。
次々と同族の死が・・・聖徳太子は悩んでいたようです。

601年に斑鳩に宮殿を移す用意を始めました。
聖徳太子が斑鳩に移ったのは・・・??
新しい職務の遂行のためでした。
斑鳩は、当時都があった飛鳥と難波津の中間にあたる場所で、龍田道、大和川・・・交通の要所でした。
ここに拠点を置けば、外国の情報をいち早く手に入れることが出来る!!ということです。
斑鳩への移住は、外交に専念するためだったのです。

607年小野妹子を使者とする第二次遣唐使を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、煬帝へ変わっていました。
煬帝は権力をほしいままにしていた暴君・・・その煬帝へ、国書を・・・小野妹子に託します。
隋書倭国伝によると、派遣の理由は・・・
「仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我が国の僧侶たちに仏教を学ばせたい!!」
煬帝が目にしたのは・・・
「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす、つつがなきや。」
煬帝はこの一文で・・・
「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない!!」と、あきれ返ったと伝えられています。
”天子”は一人しかいない!!無礼極まりないということです。
その結果、小野妹子に国書を渡し、裴世清を日本に遣わします。

聖徳太子は政務にまい進しながら、仏教研究にも力を注ぎます。
「聖徳太子建立七大寺」は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・(葛木寺)・・・

622年聖徳太子は斑鳩で亡くなったとされています。
2月21日妃の膳部菩岐々美郎女死去。
2月22日聖徳太子死去・・・
流行り病だった可能性があります。
お墓は、叡福寺北古墳と推定されます。



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なぜ蘇我氏は排除されなければならなかったのでしょうか?

日本書紀「皇極紀」には、
「蘇我氏は甘樫丘に大邸宅を築き、「宮門」(王の住まい)と呼んだ。蘇我入鹿は野望を抱き、自ら天皇になろうとした。」・・・逆賊であると、記されています。

しかし、これにも疑問符が付くのです。

2007年、甘樫丘の発掘調査で、邸宅跡が発見されました。そこにあったのは、わずか10坪の部屋ばかりでした。大邸宅ではなかったのです。
この、皇極紀の記載も、加筆されたかのように、文章のくせが違うのです。

加筆で脚光を浴びたのは、天皇を頂点とするために行った乙巳の変の主導者、中大兄皇子と中臣鎌足です。この二人が行ったクーデターが、正義のクーデターであるためには、蘇我本宗家、特に入鹿が極悪非道でなければならなかったのです。

これと同じ加筆者が、厩戸皇子についても加筆している可能性があるのです。

587年「崇峻紀」より・・・
「味方の軍勢が、今にも破れそうになると、厩戸皇子は仏教の守護神、四天王に祈願し、勝利を呼び込んだ。」=聖徳太子を奇跡の英雄として持ち上げたのです。

「日本書紀」の最終段階で、聖人君子として特別な人間として描こうとしたきらいがあるのです。


それが、万能の英雄の誕生でした。

大化の改新の目標、正当性を集合代名詞である「聖徳太子」に託したのかもしれません。

中国の司馬遷の「史記」に代表されるのは、物語として読ませるために、作り話が入っているということ。
記述には・・・
帝紀・・・皇帝に関する出来事を年ごとに記述
列伝・・・個々の人物の一生を記述したもの
この2つがあって、これが合わさって歴史書となっています。

でも、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足が英雄ではないのでしょう?

聖徳太子の制度は、1世紀後に律令制として国家ができたことによって完成されました。
つまり、聖徳太子の業績は、100年後に花開いたのです。

厩戸皇子は、権力争いから身を引いたにもかかわらず、子孫は蘇我氏によって滅ぼされています。
厩戸皇子は、日本史の悲劇のヒーローの先駆者でした。

居たという証明は、今となっては難しいですが、その信仰は、まぎれもなく今現在も残っています。
聖徳太子は、良い国をつくろうという日本人の象徴として生きてきたのかもしれません。

その力は、日本史にとって絶大です。


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