吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」 (朝日新書)

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幕末の思想家・吉田松陰。
松陰が主宰した松下村塾には、日本を切り開いた人材がたくさん集まっていましたが・・・
その中でも、松陰が後継者として期待をかけ、天下の英才とまで言わしめたのが久坂玄瑞です。

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諸外国を武力で打ち払おうという攘夷運動・・・若き志士たちを牽引する久坂・・・が、関わったのが、京の街の2/3を焼き尽くし、幕末動乱の火蓋を切った禁門の変です。
御所に向かって発砲する・・・この大事件の裏には、久坂の大きな決断がありました。


萩・・・1840年久坂玄瑞は、藩医の三男として生まれました。
15歳で両親や兄弟を相次いで亡くし・・・天涯孤独の身となりました。
家督を継いで医者の道に進むことに・・・
その頃の日本は、西欧列強から開国を迫られ・・・鎖国が終わろうとしていたのです。
このままでは列強に屈して・・・植民地化となってしまうのでは・・・??


久坂は・・・

「わが胸の中にあるのは、病人をなおす処方ではない。。。
 天下を治療する処方である。」

17歳の時に、松陰の噂を耳にします。
国禁を犯し黒船に乗り込もうとした松陰の考え方は・・・
西欧列強に立ち向かうためにはまず、敵の事を知るべきだ!!という革新的なものでした。
松陰に共感した久坂は・・・松陰に手紙を書きます。
しかし・・・異人を斬るべし!!と、書かれた久坂の手紙に、松陰は反対をします。

「アメリカの使節を斬るのは、和親条約締結前だったら良しとされる
 だが、今となっては遅いも遅い、考えが浅いとはこの事である。」by松陰

屈辱的な返信でした。

翌年・・・松下村塾を始めた松陰・・・18歳の久坂も門下生となります。
塾は、武士や町人など・・・身分にかかわらず、松陰と議論を繰り広げました。
しかし・・・この恵まれた環境は・・・1年ほどしか持ちませんでした。

1858年幕府は天皇の勅を得ずに、5か国と不平等条約を結びます。
激怒した松陰は、幕府重臣の暗殺を計画します。
この事が発覚し・・・1859年10月27日松陰処刑されてしまいました。
享年29歳でした。
この死の間際・・・門弟たちに教えを残していました。
「草莽崛起」です。
草莽たちがこの国を変える・・・身分を越えて一つになること・・・それが松陰の理想の国家像でした。
久坂は、草莽として教えを実行する・・・!!と、逆賊となった松陰の墓に名前を刻んでいます。


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松陰の死から半年・・・久坂は行動に移します。
21歳で江戸に遊学。
それ以外にも、全国からの攘夷派の志士たちと会合を持っていきます。
松陰を政治運動のシンボルとしていきます。
外国と対等に渡り合うためにはどうしたらいいのか・・・??
長州藩だけではなく、日本国として対抗しなければ・・・!!
藩を越えるという考え方は、それまでにないものでした。
政治的な手腕に長けていた久坂・・・坂本龍馬も感化されています。

江戸で草莽の志士たちを増やした久坂は、1862年4月に政治の中心地・京都へ・・・。
目指すは朝廷へ・・・!!
目をつけたのは、攘夷派の公家・三条実美。
幕府に対して開国の方針を撤回し、攘夷の決行を促す建白書を書かせようとしたのです。
久坂が築いてきたネットワークは・・・長州藩・薩摩藩・土佐藩・・・。
三藩合同の請願書を提出し、説得に成功します。

2か月後・・・幕府に対して攘夷の決行を促す建白書が出されます。
朝廷の権威の前に幕府は・・・翌年5月10日に攘夷を決行すると宣言します。
攘夷決行の期日・・・長州藩は、関門海峡で外国船を砲撃!!
全国に先駆けて攘夷を決行します。

当時の政局は・・・朝廷の公家、幕府、雄藩(長州・薩摩などの外様大名)の3つがありました。
久坂たちが扇動し、日本は攘夷に傾いてきていました。
ところが・・・長州藩を危険視する声も・・・その急先鋒が、時の帝・孝明天皇でした。
孝明天皇は、この急進的な攘夷が、諸外国との戦争を巻き起こすのではないか??と、心配していたのです。
会津藩、長州を快く思っていない薩摩藩、公家たちを巻き込んで、長州追い落としの策を練り始めます。
1863年8月18日・・・八月十八日の政変・・・。
会津と薩摩の連合軍が、御所から長州藩を追い出します。
一夜にして政治の中心から排除されてしまった無念・・・
久坂は妻への手紙に綴っています。

「去十八日のこと、いかにも口惜しきはわるものども数千人
 きんりさまをとりまきそのうえ御国(長州藩)にてもちまもり候へし御門をも外の人に御預けになる
 いかにもいかにも ざんねん」

一刻も早く攘夷を推し進めたい久坂は、帝に嘆願しようと試みます。
しかし・・・朝廷や幕府に願出でても、帝への嘆願が受け入れられることはありませんでした。
久坂は高杉に対し・・・

「死力を以って尽くす心づもりだ」と手紙に書いて・・・。

久坂は、武力による政治交渉を行おうとします。

1864年6月・・・兵を引き連れて京都へ向かいます。
御所の周り・・・嵯峨勢、山崎勢、伏見勢・・・三方に分かれて・・・京都に残っていた兵も含めて2000・・・。
ここに、本体が合流する予定でした。
一方京都の守りは、一橋家、会津藩、桑名藩連合軍2500・・・勢力は拮抗していました。
一触即発の中、久坂は必死に御所への交渉を行います。
朝廷、幕府の会議は紛糾し・・・しかし、孝明天皇は、厳しい態度を貫きます。
長州を入京させないように幕府に指示したのです。

長州藩が布陣を布いてから3週間・・・この間に、幕府は諸藩に援軍を求め・・・2万人以上・・・。
幕府は盤石の体制となったのです。
7月16日・・・長州軍が撤退しなければ征討するという情報がもたらされます。
長州軍は・・・幹部20人ほどが集まって・・・男山・石清水八幡宮で最後の軍議を開きます。
久坂・・・どうする??
強硬する??
しかし、相手の兵力は10倍・・・
慎重策に出る??
この時、毛利定広が援軍8000を率いてきていました。
毛利家の血筋が上京する・・・この事は大きな意味がありました。
毛利家は、平安時代平城天皇の息子を源にしていました。
忠義も篤かったので、諸藩とは別格だったのです。
定広の到着を待つ??
しかし、援軍の到着はあと10日はかかる・・・。
幕府の攻撃は明日・・・??

どうする、久坂??

久坂が選んだ慎重策は・・・朝敵にならないように幕府の命令を受け入れる・・・??
しかし、来島又兵衛が反対します。
「若殿が来る前に、目の前の敵を排除する!!」by又兵衛
涙を流してそれを止めようとする久坂。

しかし、来島は全く聞く耳を持ちませんでした。
そして・・・最年長の真木和泉が・・・来島の主張を推したのです。
強硬策をとることになってしまった長州軍・・・

7月18日・・・。
出陣の準備が始まりました。
覚悟を決めた久坂・・・
7月19日未明・・・禁門の変・・・御所に向けて進軍しだしました。
ことろが・・・三方の兵の連携がとれておらず伏見勢は撃破され・・・。
嵯峨勢は・・・来島又兵衛が進軍・・・蛤御門まで攻め入ります。
そこを守っていたのは会津軍・・・。
鬼気迫る勢いで戦う来島軍でしたが・・・会津に援軍が!!西郷隆盛率いる薩摩軍でした。
来島は、薩摩の銃弾に撃ち抜かれて戦死。
隊長を失った軍は、勇敢に戦うも・・・結局は総崩れとなってしまいました。
残るは・・・久坂率いる山崎勢。。。
長州の配色が濃くなった頃到着・・・。
その近くには、攘夷派の鷹司家の屋敷がありました。
久坂は駈け入ります。天皇への直訴を願う久坂。。。
しかし、巻き添えを恐れる鷹司にその声は届かなかったのです。
幕府軍に囲まれた鷹司家には大砲が撃ち込まれ・・・火の手が上がってしまいました。
屋敷からあがった火の手は、北風に煽られて燃え広がります。
京の町の2/3を焼き尽くしてしまいました。

もはやこれまで!!

鷹司家で・・・責任を負って自害する久坂がそこにはいました。

この禁門の変で・・・大きく歴史が変わっていきます。
この失敗は、長州藩を存亡の危機へと追い込みます。

1864年8月・・・久坂が行った攘夷の報復として・・・四国艦隊が下関を砲撃。。。
長州藩は大敗を喫し、異国の力を思い知らされることとなります。
翌月には、朝敵となった長州藩に対し、幕府に長州征討の命が下ります。
進軍してきた幕府軍に対し、全面降伏するほか、術はありませんでした。

ここに・・・久坂が推し進めてきた攘夷運動は終止符を打つこととなるのです。

しかし、松陰⇒久坂へと受け継がれてきた「草莽崛起」の志は消えず・・・
久坂と松下村塾の双璧と謳われた高杉晋作によって奇兵隊が結成され実践していくのです。
高杉たちは、自分達を打ち負かした諸外国から武器を買い、富国強兵をすすめます。
そして・・・坂本龍馬を仲立ちとして薩長同盟を結ぶこととなるのです。
新しい日本を作るためには、古い幕藩体制を潰すしかない!!
最新鋭の武器で幕府軍を撃破していく長州藩。
討幕への道を切り開いていきます。

明治になって初めて国家を持つようになる日本。。。
そのスタート地点は禁門の変だったのです。

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