日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:文化大革命

20世紀最大の発見・・・兵馬俑。
そのすべての始まりは、一人の農民の鍬の一振りでした。

長い戦乱の世を一代で終わらせ、統一王朝を築いた秦の始皇帝。
その死後も仕える軍隊として作られたのが兵馬俑です。
威厳にあふれる将軍、武器を構える兵士、洗車をひく馬・・・始皇帝の軍隊を忠実に再現しています。
驚くべきことに、一人一人顔が違います。

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しかし、ここ兵馬俑・・・2000年間は土の中にいました。
そのまま埋まっていてもおかしくはない・・・。

1974年3月29日、中国中央部の荒れ地で、一人の村人が振り下ろした鍬が、偶然兵馬俑に当たります。
それからあれよあれよと・・・8000体の兵馬俑が現れました。
始皇帝の大軍団が、2000年の時の彼方から蘇りました。
今世紀最大の発見といわれる巨大遺跡でいた。

第一発見者・・・楊志発
最初に兵馬俑を掘り出したことで数奇な運命に翻弄されます。

中国中部陝西省の大平原・・・
都会から遠く離れた地で兵馬俑は見つかりました。
今や兵馬俑のおかげで見事に発見した村に、その男はいました。
楊志発・・・現在は自宅の一角で小さな記念館を開いています。
入場は無料で、話しも聞けます。

一本の鍬が、兵馬俑に当たった瞬間から、彼の人生は一変しました。
1974年、楊志発36歳・・・兵馬俑の発見は、いくつもの偶然が重なった結果でした。
楊の住む西楊村から1.5キロのところに始皇帝陵がありました。
しかし、当時の楊たちにとっては今日の暮らしの方が問題でした。
当時、中国はみんなで作ったものをみんなで分ける・・・共産主義体制が敷かれて25年目・・・
農村では食料は役所を通じて村人に均等に配給されていました。
しかし、どれだけもらえるかは、その村の収入次第・・・。
楊の村は、度々干ばつで、農作物がほとんどとれませんでした。
井戸は枯れ、どこを掘っても水は出ない・・・楊は家族を抱えて途方に暮れていました。
水よ・・・出てくれ・・・!!荒れ地を鍬で掘り続けます。

1974年3月29日・・・運命の日もそうでした。
村はずれのくぼ地・・・必死に4mぐらい掘った時・・・鍬がズボッと入り、抜けなくなりました。
土を払うと・・・そこには壺が・・・??
壺ではなく、それは神様の像・・・??
土の中から顔も出て・・・本物の人間のようでした。
最初の兵馬俑は、こうして姿を現しました。
掘り当てたいのは水・・・しかし、出てくるのは焼き物ばかり・・・。
楊は考えます。
始皇帝陵の近くで・・・大事なものなのでは・・・??
この日見つかっただけで、リヤカー3台分・・・地元の役人の元へと持ち込みます。

面倒と思っていた役人・・・陶俑ではないか??と気づきます。

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身分の高い人の墓に納められた陶器の人形・・・陶俑。
楊は、この時初めて自分が発見したものの価値を知りました。

役人は・・・
「手間賃はくれてやる
 とっとと井戸掘りにもどれ」と、30元をくれました。
当時の日本円でおよそ4,200円で、当時は現金は村人全員で分ける必要があり・・・楊の手元に残ったのは、0.13元・・・およそ20円でした。
農民の財産は集団のもので、個人の物はなく、方針に従わなければ食料ももらえませんでした。

あの掘り出し物はどうなるのか・・・??
井戸を掘り続けます。

役人は役人で困り果てていました。
妙な掘り出し物をどうするのか・・・??
国の法律もない・・・。
無かったことにしよう・・・役人は、倉庫の奥深くに兵馬俑を隠しました。
まだ残り、8000体もあるとは夢にも思わず・・・。

そしてそのまま3か月、事態は一転します。
きっかけは、北京の政府内で出回った密告文書でした。

従来の陶俑とは全く異なった等身大のものが見つかった・・・
地元の役人は、これに妥当の措置をしていません。

隠したつもりでも、情報は漏れていました。
密告を受けて政府が出した命令は・・・
「速やかに妥当な措置をとれ」でした。
妥当な措置とは・・・??
あいまいな命令でしたが、噂を聞いて楊は役所に駆けつけました。
発掘を手伝うつもりでした。
しかし、学者先生が発掘することに・・・。
発見したにもかかわらず、兵馬俑の外に追い出されてしまった楊・・・
その後、20年もの間遺跡に近づこうとはしませんでした。

所詮農民だから・・・と。

兵馬俑発見者の存在は忘れられました。
しかし、20年後、彼の立場は一変します。

すみやかに妥当な措置をとれ・・・に正面方立ち向かったのは、兵馬俑の初代発掘責任者・考古学者・袁仲一です。
最初に頼まれたときは、10日あれば終わると考えていました。
しかし、40年も兵馬俑に関わることとなります。
袁に託された任務は、ただの発掘ではありませんでした。
当時、中国では文化大革命(1966~1976)の嵐が吹き荒れていました。
名だたる歴史遺産が、次々と破壊されていた時代・・・兵馬俑は壊されていてもおかしくはありませんでした。

文化大革命・・・それは、当時の中国全土を吹き荒れた破壊と粛清の嵐でした。
新しい文化を生み出すスローガンのもと、古くからの歴史遺産が容赦なく破壊されていきました。
其れに抗う者たちは、反体制分子として厳しく処罰されました。
破壊を止めることは誰にもできない・・・。

折角見つかった兵馬俑も、このままでは・・・!!
そうなる前に、ピンチを救ったのは・・・袁仲一でした。
権力のプレッシャーと、学者としての使命・・・その狭間で戦います。

発掘隊のメンバーには、
「危険な時代だから一歩間違えば刑務所に行くかもしれない・・・でも、私たちで兵馬俑を守り抜こう!!
 たとえ逮捕されようとも、歴史の犯罪者にだけはなってはならない!!」そう決めていました。

悲壮な決意で発掘に臨んでいた袁仲一。
文化大革命の中、ギリギリの戦いが始まりました。

陝西省西安・・・この町で20代から考古学者の道を歩んでいた袁。
31歳の時、文化大革命が起きました。
毛主席の本を読み、毛主席の言葉を聞き、毛主席の指示に従おう・・・
毛沢東と違う考えを解く者たちは、自己批判を迫られさらし者に・・・
その敵意は、歴史自体にも向けられ、由緒ある仏像でも破壊される・・・!!
古い価値は否定しろ・・・!!考古学者には最低の時代でした。

文化大革命によって貴重なものが壊されました。
しかし、それを口に出すことは許されませんでした。
そんな袁が、運命を変える一報を受けたのは、1974年7月!!

兵馬俑発見から4か月後のことでした。
すみやかに妥当な措置をとれ・・・!!という命令でした。
破壊せよ・・・??
とにかく物を見て見よう・・・と、村を訪れます。
すると・・・ゴミ捨て場に陶俑の手が転がっていました。
兵士の胴体が植木鉢に・・・子供が腕でチャンバラを・・・!!
最初に発見した人は役所に届けていましたが、かなりの数の村人がこっそりと掘り返していました。

役所の倉庫に眠っていた兵馬俑も日の目を見ます。
陶俑は、秦より後の時代にも作られていますが、2、30cm・・・大きくても60cmほどしかありません。
兵馬俑は実物大・・・!!誰も見たことのない大きさでした。
遺跡の広さは想像をはるかに超えていました。
そこまで言っても終わらない・・・兵馬俑1号抗の大きさは1万4000㎡・・・世界でも1、2を争う規模の地下遺跡で、中身はぎっしり・・・!!
考古学者全員が大興奮でした。
大大大発見だったのです!!
どう措置する・・・??
絶対に守り抜く!!どうやって文化大革命の破壊を免れる・・・??

この時代でも壊されなかったもの・・・それは、万里の長城です。
どうして壊されなかったのか・・・??それは、秦の始皇帝が築いたものだったからです。
当時、始皇帝は特別な存在でした。
毛沢東が礼賛していたのです。
その理由は焚書坑儒。
始皇帝が儒教の学者を土に埋め、書物を焼き払ったという故事です。
毛沢東も、古い思想を否定する点では同じ・・・!!
この時代、始皇帝の行いはいいこととされ、彼の残したものは例外的に破壊を免れました。
兵馬俑が始皇帝のものだとわかれば・・・!!
始皇帝陵の近くで発見されたことから予感がありましたが・・・
与えられた発掘期間はわずか1年・・・なんども延長を訴えます。
遺跡の規模はとてつもなく大きい・・・途絶えることなく出てくる・・・
しかし、当局の決定は変わりませんでした。
始皇帝に関わるものを・・・??
いよいよ危険を感じ始めた1975年4月・・・
機嫌まで3か月を切ったある日の事・・・
兵馬俑が持っていた武器に、作らせた人物の名が書かれていました。
相邦の呂不韋・・・兵馬俑は焼き物ですが、武器は本物を持っていました。
その一つに明記されていたのです。
相邦とは、秦の国の政治のTOPに当たる存在、呂不韋とは始皇帝の若き日に相邦を務め、歴史書にも登場する人物です。

遂に、兵馬俑が始皇帝と結びつきました。
呂不韋は始皇帝と縁が深い人物です。
これで兵馬俑を守れる・・・!!

袁が突き付けた100点満点の回答・・・誰もが納得する妥当な措置でした。
これには毛沢東も大喜び。
1975年7月12日、始皇帝の遺跡、兵馬俑が発見されたという第一報が世界に向けて発信されました。
すると、全部掘り出せ、早く掘り出せと要求の嵐・・・
それをはねつける袁・・・10年でも20年でも待ってもらう・・・と。
袁は、発掘と修復が終わるまで、遺跡を考古学者の管理に置き、政治の介入を拒みました。

文化大革命という混乱の中、孤軍奮闘した袁・・・しかし、一つだけできなかったことがあります。
写真の公開です。
中国政府は詳細な情報は国家機密として写真は一切公表しませんでした。
闇に葬られる・・・??

ジャーナリスト、オードリー・トッピング・・・兵馬俑の価値を世界に知らしめた女性です。
兵馬俑は世界の宝へと変身していきます。
兵馬俑の運命を変えたオードリー・トッピングは、今、アメリカに住んでいます。
中国とのつながりは深く、先祖は19世紀の末から中国でキリスト教の布教をしていた宣教師でした。
中国=怖いというイメージが世界で広がっていた中で、何度も中国を取材し、人々の生の声を使えることを使命としてきたトッピング・・・1975年、兵馬俑を訪れたときも、もともとは別の取材を進めていました。
父の中国訪問を記事・・・父が周恩来などと面会するという記事・・・にするつもりでした。
父・チェスター・ロニングは、カナダの外交官でした。
イギリスのエリザベス女王や、インドのネルー首相などとも親しく交流した世界的な有名人物でした。
父の特別待遇を利用して中国を訪れることができたトッピング・・・
周恩来、鄧小平らとの会談を取材中に、思いがけないニュースを知ります。
北京で新聞を見ていたら、兵馬俑発見の記事が・・・
政治家の記事よりもこちらの記事を・・・!!
予定を切り上げ、すぐに遺跡へ・・・!!

発掘現場に向かおうとしたとき、役人が立ちはだかります。
兵馬俑遺跡を訪ねてきた欧米人など初めて・・・しかもカメラを持っている・・・。
ウソ泣きをして連れて行ってもらう・・・
「カメラはダメです!!」
しかし、予備のカメラを持っていました。
足を踏み入れた発掘現場・・・一目で圧倒されます。
いにしえの戦場が目の前に広がっていました。
こんな素晴らしい遺跡を目にしたら・・・ジャーナリストのすることはただ一つ!!
覚悟を決めてカメラで写真を撮りたい・・・!!
同行していた娘を囮に使います。
質問をしてメモを取り続け、役人の目を母からそらします。
その隙に撮った写真・・・撮れたのはごくわずかで、ピントもくるって使えません・・・。
滞在時間2時間・・・写真は撮れないまま、現場を後にします。
折角の取材をニューヨークタイムズに・・・!!
現場を見たものでしか書けない臨場感・・・!!
詳細に書かれたその記事・・・しかし、写真はないのでインパクトはありませんでした。
書きたいことは山ほどある・・・!!

考古学会で一番権威のあるナショナルジオグラフィックに売り込みます。
しかし、読者は写真なしでは許してくれませんよ!!
現場に行ったのに、どうして写真がないのか・・・??
世界中の人は、見たこともない写真を待っている。
どうやって写真を手に入れる・・・??

中国の秘密ルートを使いました。
発掘現場の誰かから写真を横流ししてもらいました。
トッピングが写真を入手たのは1976年の秋・・・同じころ、中国は激変を迎えていました。
1976年9月9日・・・毛沢東死去。
これを機に、文化大革命は収束に向かいます。
1年半後・・・もう誰も危害が及ばない・・・
1978年4月、ナショナルジオグラフィック誌・・・オードリー・トッピングは写真を掲載します。
世界はこの時初めて兵馬俑を見ます。
兵馬俑は今や世界の宝となりました。
この記事が、兵馬俑の価値を世界中に伝えたのです。
トッピングの記事の翌年・・・兵馬俑博物館がオープン!!
初日から外国人が殺到します。
1984年、たっての希望で兵馬俑を訪れたのはアメリカ合衆国レーガン大統領でした。
それからも相次いだビップに、中国政府も写真撮影を黙認・・・
1987年にはユネスコの世界遺産に登録され、名実ともに世界の宝となりました。
もう・・・兵馬俑を破壊しようと思う者もいない・・・!!

この記事によって、ようやく一人の男が見出されます。
忘れ去られていた第一発見者の農民・・・楊志発。
トッピングの記事を読んだ外国人が、楊のもとを訪ねてくるようになります。
聞かれるまま秘話を話していた楊・・・本をだすと瞬く間に8か国語に翻訳されます。
1994年6月、役所から「外国人に話をしたり、サインをするなら博物館の中でやってほしい」と頼まれます。
楊は20年ぶりに兵馬俑の近くに。。。
6月26日、兵馬俑博物館でサイン会開始・・・大行列となります。
アメリカ大統領クリントンもその一人です。
不遇だった兵馬俑の発見者は、外からの評価によって報われます。

誰一人かけても世界に知られることはなかった奇跡の遺跡兵馬俑・・・
2000年の眠りから掘り出したのはひとりの農民でした。
兵馬俑発見の直後にとった3歳の息子との写真が宝物です。
息子に話します。
「父さん、なんかすごいものを見つけてさ・・・」
息子に自慢ができてうれしかった。
それだけで十分だ・・・。


一本の鍬によって2000年の歴史から蘇った兵馬俑・・・
その瞳は、愚かで愛すべき人の営みを、これからも見つめ続けるのです。


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毛沢東は、大躍進政策の責任をとって国のTOPを劉少奇に譲ります。

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=毛沢東の求心力が低下していくのですが・・・


outakutouこれに危機感を抱いた毛沢東は、権力を奪い返そうとします。
その運動は、常に革命が必要である!!
自分達こそが革命である・・・!!

毛沢東が権力を奪い返そうという運動・・・
この時に使ったのが、毛沢東の個人崇拝です。
”毛沢東語録”を作り、毛沢東の言葉を一冊の本にまとめました。
”毛沢東がいかに偉大であるか”という一大キャンペーンです。
そして毛沢東が始めたのが文化大革命です。
「権力を取った者は腐敗していく。
 常に革命が必要である。
 それまでの権力者を打倒することが大事である。」
というものです。

つまり、劉少奇など、毛沢東が権力を失って、代わりに権力を取った連中を打倒しようというものです。
常に国家の新陳代謝が必要であると説いたのです。
その為には、若いものが年寄りを打倒しなければならない!!
”紅衛兵運動”が盛んになりました。
koueihei
















”紅”=革命のシンボルである”赤”・・・つまり、共産主義を守る兵隊のことです。
このような運動が、高校生・大学生を中心に始まりました。

文化大革命のスローガンのひとつに”造反有理”というものがあります。
「反逆には道理がある」というもので、今の秩序をひっくりかえすというものでした。

毛沢東語録を振りかざしていれば、とがめられることはない!!という事態となったのです。
何をしようとも、警察も一切手を出さない!!ということになってしまいました。

「学校で試験をすること自体が反革命である」
=白紙で答案を出すと高く評価される

「革命をしなければならない時に授業をやっている場合ではない」
=全国の学校が全て止まる

毛沢東語録に真理が詰まっているので、これだけ読めば後は一切学ぶ必要がない!!
ということで、1960年代に全国の学校が閉鎖され、学生は読み書きを含めた教育を受けなかったのです。
その人たちは今、50代・60代の人たちです。
文化大革命の影響で、今でも読み書きの出来ない人たちがたくさんいるのです。


当時北京の警察では、
「紅衛兵が人を殺してしまっても取り締まってはならない」
という通達が出ました。

紅衛兵同士の殺し合いが全国各地で起こっていきます。
さらに当時の幹部たちは、紅衛兵によって吊るし上げにあっていくのでした。
その結果・・・毛沢東による権力の奪い返しが成功するのです。

毛沢東は権力が手に入ると・・・紅衛兵たちが邪魔になってきました。
中国経済も停滞し、失業率が非常に高くなります。

毛沢東は・・・
「お前たち学生は、インテリ・知識人である
 知識人は本当の意味での革命家ではない
 地方に行って、労働者・農民に学べ」
ということで、都市部の学生・・・若者たちを全国の農村地帯に追いやるのでした。
これを下放といいます。

文化大革命によって何百万人の人が亡くなったのか?それははっきりしません。

ただ・・・大躍進政策や文化大革命によって
「うっかり御上の言うことを信用したらろくなことはない」
ということが刻み込まれてしまったのでした。

tousyouhei毛沢東が亡くなった後、経済の立て直しが始まりました。
中国が発展する政策をするのが鄧小平。

生産責任制で農業を立て直します。
中国は社会主義で、土地はすべて国有地・・・”人民のもの”。
しかし、それぞれの農地について・・・
自分の担当の農地で作ったものは、自由に処分をしていい」と決めます。

農家の人たちがみんな働き始めました。
飢餓状態が解消していきます。
農家が豊かになっていき・・・”万元戸”という言葉ができました。
年収が1万元を超える農民(大金持ち)のことです。
ここから大金持ちが出てきます。

そして、改革開放政策によって、社会主義の仕組みを改革しようとします。
鎖国状態だったものを・・・海外からの投資を認めるのです。

そんな鄧小平の求めたモデルが日本でした。
鄧小平は、日本の経済状況を見て衝撃を受けていたのです。
大躍進政策や文化大革命の間に、こんなにも差がついてしまった・・・!!

で・・・できたのが、社会主義市場経済なのです。
社会主義とは、国が計画を立て、国有企業でマーケットを通さずに全ての経済活動を行うものです。
市場経済とは、生産や消費をマーケットに任せ、自由な経済活動で発展するというものです。
社会主義なのにマーケットに任せる・・・??

つまり、政治は共産党独裁体制を、経済は資本主義をとなるのです。

「共産党にさえ逆らわなければ自由に金もうけをしろ」というのが、今の中国のやりかたなのです。

自由な経済をやれば何が起きるのか・・・?
”自由”や”民主主義”といった思想も入ってきます。


結果的に中国のやり方に矛盾が起きてきます。
学生たちの民主化運動が始まるのです。

この民主化運動への対応が、指導者たちの運命を左右します。

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学生たちの民主化運動が起きた時、国家主席だったのが胡耀邦。
胡耀邦は、1980年代に改革指導者として国民から支持されていましたが、学生の民主化運動に同情的でした。
厳しく取り締まらなかった結果・・・責任をとらされて失脚します。
胡耀邦は日本の当時の首相・中曽根康弘とも仲が良かったのですが・・・
罪状のひとつに「親日的である」ということも挙げられたのでした。
=うっかり日本と仲良くすると、胡耀邦の二の舞になるのでは??
という恐怖感も出てきました。

tyousiyou胡耀邦、その後を継いだ趙紫陽の裏には鄧小平がいて、闇将軍のような”最高実力者”となっていました。
国の役職にはつかないものの、”共産党中央軍事委員会主席”だったのです。
これは、中国の軍隊=共産党の軍隊なので、軍を動かす最高責任者ということです。

学生たちは「胡耀邦は学生運動に同情的な人だった。 改めて功績を認めて欲しい。」という運動を始めます。
影の権力者たちは抑えようとしますが・・・趙紫陽も学生たちの民主化運動に同情的になって・・・
厳しく取り締まりませんでした。
で・・・天安門に学生たちが集まってくるのでした。

天安門で・・・「胡耀邦を認めて欲しい」「民主化したい」というお願いの平和的な集会でした。
鄧小平はこれを許せず、徹底的に取り締まるのです。
それが天安門事件で、趙紫陽も失脚していくのでした。

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その後鄧小平があとにつけたのが江沢民でした。
1989年総書記・1993年国家主席に・・・。

江沢民が鄧小平から言われたことは・・・
「改革開放政策は進めろ、しかし学生たちの民主化運動は抑え込め!!」というものでした。

江沢民が「中国共産党を愛しましょう」という運動をはじめ、「いかに日本がむかし悪いことをしていたのか」を徹底的に教えるのです。

愛国運動が反日運動になっていくきっかけが、天安門事件でした。

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今回は、文化大革命です。

では、中国とはどんな国?
今年、2011年7月23日、衝撃的だったのが、高速鉄道事故でした。35人の死者(後に40人と訂正)を出し、その後の処理をめぐって大きな批判を世界中から浴びることとなりました。その処理とは、大きな穴を掘り列車を埋め、2日後に運転再開しました。

今まで、炭鉱の事故など色々な事故がありましたが、死者35人というのが多いそうです。世界では、偶然の一致にしては多すぎるので、正確な死者の数を発表していないのでは?と言っています。

おまけに事故処理している最中に乳児が見つかりました。どうしてそんなことが起こるのでしょうか?
それは、行政をチェックする機関、報道をし刑事事件などにしたり、検証していくシステムが整っていないからなのです。

だんだんと記事の扱いも小さくなり・・・事故調査委員会の発表は報道されるのでしょうか?国政や行政に対する国民の監視の目、批判が存在しないということが、忘れ去られていく原因なのです。

1949年、10月1日中華人民共和国成立を宣言。宣言したのは人民解放軍の毛沢東でした。憲法は出来たものの、中華人民共和国は共産党の指導の下にありました。つまり、憲法の上に共産党があるのです。

ちなみに、日本は憲法の下に三権分立(司法・立法・行政)です。

中国共産党の下に憲法があり、その下に行政機関があるのです。
党の組織としては、全国代表大会が5年に1回開かれ、そこから選ばれた中央委員会が1年に1回、その中から選ばれたのが政治局・常務委員9人です。この9人の中から総書記が選ばれます。今は胡錦濤さんです。が、基本はこの9人は平等で、胡錦濤さんの意見が全て通るわけではなく、9人が決めます。13億人を動かしているのです。

来年、9人のかなりの人が新しくなる予定です。

1950年、国を宣言した翌年、革命を・・・と、労働者が資本家を公開処刑します。それぞれの土地で、共産党に逆らうと殺されるのです。その数70万人。
殺されなかった人も、強制収容所に入れられ、労改(思想を改造する)させられます。このシステムは慣習として今も残っています。

法律の形ではないので、共産党ににらまれると、裁判にかけられることなく強制収容所行きなのです。例えば、民主化運動をした2010年にノーベル賞を受賞した劉暁波は、国家政権転覆扇動罪で今も服役中です。
この劉暁波は、法制度に基づいて判決が下りましたが、強制収容所で労改するのは、表向きには存在していないので、無いものはなくせず、今に至っているのです。

毛沢東は色々な仕組みを作ります。
農業生産の拡大を図るため・・・
①戸籍制度を設けます。
農村と、都市、二つの戸籍を設け、都市の人間は都市の戸籍を変えることは出来ません。が、最近ではゆるくなってきています。

農村出身者が、一生懸命勉強をして大学に進み、優秀な成績を修め都市の企業で就職したら都市の戸籍がもらえるようになりました。だから、みんな死に物狂いで勉強するのです。

②檔案・・・身上調書が作られます。これは、自分は見ることが出来ません。が、自分の祖先、階級、自分の経歴、どういう思想なのか、全て書かれていて、国民がコントロールされています。

そんな中、
1957年毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」という政策を打ち出します。
これは、色々な人が自由に意見を出して、国家を良くしていこうという政策です。

国民は、公開処刑で70万人も殺されたのに・・・。と、黙っていましたが、「批判してもいい」と、圧力をかけます。そんな時に言えるのは知識人です。知識人たちが恐る恐る言い出しましたが、それがエスカレート。共産党そのものの批判まで飛び出します。

その4ヵ月後、この批判は行き過ぎているとし、「反右派闘争」11万人が投獄、55万人が都市から地方へ追いやられたと言われています。この件に対しては、歴史的評価が分かれています。
エスカレートしたから大混乱したのか、
批判的な人をあぶりだそうとしたのか・・・。どちらかはわかりません。

その後も、「右派(資本主義)は、5%程度だろう」と、毛沢東が言うと、反政府勢力を5%追い出さなくてはならない!!と、役人にはノルマになってしまいました。全国で5%の人間を摘発し、追放するということが起きました。うっかり批判すると、右派と言われかねません・・・。

1958年、大躍進政策をとります。これは、一刻も早く社会主義化しようというものでした。

農業では、ソ連の農業の集団化を模しました。
「人民公社」を作り、ここで集団で農業をする。全員で一緒に共同生活をするのです。農民達は、今まで自分たちのだった「牛・ブタ・鶏・土地・農機具」が人民公社のものになってしまう!!と、牛・ブタ・鶏を食べてしまいました。これで家畜は姿を消しました。

集団生活なので、一緒に寝泊りし、共同食堂で食べます。いくら食べてもいいのですから、食べたほうが勝ち!食べ過ぎて、食料の消費量が莫大な量になります。給料は同じにもらえるので働かなくなり、農業生産が激減します。

米を食べるすずめの退治を全国で一斉にしましたが、このことですずめが激減し、害虫が大量発生、農業の深刻化に拍車がかかります。

おまけに、農地深耕といって、土地を数mにわたって掘り起こし、その斉で表土が失われ、農地は栄養を失い枯れていきます。また、稲の密植を行い、水はけも、風通しも悪くなり、次々に農業生産高は激減します。

そこで、農家の応援団も展開します。ちなみにこれは、北朝鮮では今も行われています。

工業では、イギリスに追いつけ追い越せ!!をスローガンにします。当時はイギリスが鉄鋼業の第一位でした。
1957年鉄鋼生産高  535万トン  倍以上にしよう!
  58年      1070万トン  倍以上にしよう!
  59年      2140万トンにしよう!

イギリスでは巨大な鉄工所がありましたが、中国には無く、みんなが手作りしたらいい!!と、全国60万ヶ所に鉄を作る施設を作り、農民が、農村地帯で、土法高炉で、製鉄を始めました。農業はおろそかになってしまいます。

みんなが毛沢東のいうノルマの達成に必死になります。高炉は1日中火を入れています。農業は出来ません。しかも、近代的な工場だからこそ質のいい鉄が出来るのですが、農民の作る鉄は、品質が悪くてものにはなりません。

が、「いい鉄が出来た」と報告します。毛沢東の絶大な権力の下、全国一斉にゴマをすり、お伺いをたてるのです。毛沢東が鉄道に乗る、となると、農業ほったらかしなのがばれないように、鉄道の脇に稲を植え替えたりしました。そうして、虚偽の報告が上がってくるようになり・・・。毛沢東は裸の王様になってしまいました。

鉄はまだまだ作らなければなりません。鉄鉱石は手に入りません・・・。とりあえずの鉄、農機具を高炉に入れて溶かしてしまいます。ノルマは達成しますが、農村地帯から農機具がなくなってしまいます。火を焚いているので山の木もなくなりはげ山になってしまいます。そうして、保水力がなくなり、洪水が多発、農村地帯は壊滅してしまいました。

全国で飢饉が蔓延し、飢え死に、餓死者の数はわかりません。が、1979年毛沢東の死後、大躍進政策の結果を共産党が調べたデータによると、4300万人から4600万人が餓死したことになっています。

しかし、毛沢東は当時、大成功と発表しました。これを真に受けたカンボジアのポル・ポト、アフリカではアンゴラ、モザンビーク、エチオピア、ソマリアが同じことをしました。

ソマリアでは今、無政府状態になっていますが、元をただせばこの大躍進政策を真似し、干ばつ状態、慢性的な飢餓が続き、内戦状態です。1月~7月のあいだに、乳幼児29000人が餓死したと言われています。毛沢東が原因だったのです。

余談ですが、このソマリアのスエズ運河では、海賊が横行し、その海賊から輸送船を守るため、各国の軍隊が派遣されており、そんな状態が長く続いた結果、海上自衛隊がジブジに拠点となる基地を作りました。Σ(T□T)

この頃から、毛沢東に対する個人崇拝が始まります。1956年ソ連ではスターリン批判が始まって、「個人崇拝がいけなかった」と結論付けます。
このソ連にカチンときた毛沢東は、1960年~ソ連を批判するようになります。「ソ連は、社会主義という仮面を被った帝国主義だ!!」

ソ連との戦争を覚悟するようになります。地下に巨大な地下都市(核シェルター)を建設します。天安門広場の下もそうです。
中ソ対立が激しくなります。

おまけに大躍進政策は失敗でしたが、毛沢東の批判は出来ません・・・。そんな中、幹部の一人が毛沢東に進言します。そうして毛沢東は、国家元首を退くのでした。

1959年国家主席は劉少奇、共産党主席は毛沢東となったのです。

毛沢東は表舞台から姿を消すも、権力を取り戻そうと画策していました。そうして毛沢東の復讐劇、1964年文化大革命が起こるのです。


ああ、最期まで書けませんでした・・・。ΣΣ( ̄◇ ̄;)!
題に文化大革命が入っているのに!!もう、晩御飯を作らなければ・・・。


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