日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:文帝

台地を悠々と流れる大河・・・それは、運河。。。
広大な中国を南北に貫く京杭大運河・・・北京から杭州まで長さは1800キロメートル。
水運の大動脈として、2014年に世界遺産に登録されました。この運河の原型が完成したのは、今から1400年以上も前・・・隋の煬帝が一世一代の事業としたのです。

中国の歴史の中で最悪の皇帝とされる人物が、2人います。
ひとりは万里の頂上を建築した秦の始皇帝。
もうひとりは、隋の煬帝です。
日本では飛鳥時代とされるこの時代・・・厩戸王が”日出づるところの天子”で書き出しの有名な書状を送った相手です。
煬帝の煬とは、天に逆らい、民を虐げるという意味・・・後世の人がつけた諡です。
皇帝の次男として生まれ跡継ぎではなかった煬帝は、野心を隠して父母に取り入り、卑劣な手段で巧妙にライバルを蹴落としていきます。
フェイクニュースで兄を糾弾し、自分に敵対する者は父親でも容赦なく死に追いやりました。
皇帝の座に就くと、狂気の偉業と言われる運河開発に全人口の4割を動員。
さらに対外戦争を繰り返し、民に重い負担を課しました。
民の苦しみをよそに、遊興にふける煬帝・・・。
遂に大規模な反乱が巻き起こります。
その時、煬帝の口から出たのは反省ではなく

「どうも人間が多すぎる
 刃向かう者は、片っ端から捕らえて殺すが良い」

中国全土を混乱に巻き込んだ最悪の皇帝。
しかし、近年の研究でその評価が変わりつつあります。

果たして煬帝は史上最凶の皇帝なのか??
それとも大事業を成し遂げた名君だったのか??

隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る

新品価格
¥1,555から
(2021/12/19 08:56時点)



6世紀の末、群雄割拠の争いが続いた中国大陸で、400年ぶりに統一国家隋が誕生しました。
初代皇帝・文帝のもとでは、律令制や科挙など、中央集権政策が推し進められました。
その文帝は、即位後すぐに長男を跡継ぎに指名しました。
しかし、24年後、2代目皇帝に即位したのは、次男の楊広・・・後の煬帝でした。
どうして楊広は皇帝の座に就くことができたのでしょうか?

中国の歴史書「隋書 資治通鑑」
これらの中に、煬帝の生涯が記されています。
569年、長安で楊広・・・のちの煬帝誕生。
楊広が生まれた頃、4つの国が、北朝と南朝に分かれてしのぎを削っていました。
楊家は、モンゴルの騎馬民族の出身の貴族で、父・楊堅は、質実剛健を尊ぶ軍人でした。
隣国・北斉を滅ぼす戦いで武功をあげ、北周王朝での地位を確かなものにしていました。
母の独孤・・・騎馬民族の家系でした。
男勝りの聡明な女性で、12歳年上の楊堅も一目置いていました。
しかし・・・一つだけ難点がありました。
男女関係には、超潔癖だったのです。
14歳で結婚した時、母は父にこう誓わせました。

”他の女性に子供を産ませない”

それでも、一度だけ父の浮気がバレ・・・母は、怒りのあまり浮気相手を殺してしまいました。
そんな両親のもとに生れた楊広は、北周の皇太子に嫁いだ姉と、兄・楊勇、さらに3人の弟がいました。
楊広は、容姿端麗で幼いころから賢く、学問を好み詩の才能に長けていたことから父母に愛されました。
しかし、彼には裏の顔がありました。
人をだますことなどなんとも思っていませんでした。
楊広が12歳の時、姉の夫である北周の皇帝が崩御。
幼い跡継ぎの後見人となった父・楊堅は、その翌年政権を奪い取り、即位。
こうして隋を開いた父・楊堅は、7年後、中国統一に向けて動き出します。

588年、20歳になっていた楊広は、陳征討の総司令官に任命されます。
隋の勢力はおよそ52万!!
対する陳は10数万・・・!!
圧倒的な戦力差で陳を滅ぼし、およそ400年ぶりに中国の統一が成し遂げられました。
即位後、父・楊堅は、長男・楊勇を皇太子に任命。
楊広ら弟たちには兄を支えるよう命じました。
しかし、楊広は密かに皇帝の座を狙い始めます。
楊勇と比較的近い年齢の楊広は、兄のことを頼りない存在としてみていました。
この兄では隋は大きくなれない・・・!!
兄を追い落としたい楊広・・・目をつけたのは、父に強い発言力を持つ母でした。
ある時、母に涙ながらに訴えます。

「私は平素より兄弟の道を守っておりますのに、兄の楊勇は、自分に好意を示してくれず、それどころか毒殺される危険におびえております」

日頃、兄の自堕落な暮らしぶりを苦々しく思っていた母・・・この言葉が火をつけました。

「もう我慢ならぬ、楊勇は愛人にうつつを抜かしているばかりか、弟に対してそんなたくらみを持っているとは、こんなにも許しがたいことがあろうか!!」by独孤

次いで、楊広は父の側近に近づき、皇太子に謀反の企てありという嘘の情報を流しました。
これを聞いた父は激怒、母の強い口添えもあって、楊勇から皇太子の剥奪を決行。
突然、身に覚えのない罪をかけられた楊勇は、城内の一角に幽閉されることになりました。

こうして、母と父を騙し・・・
600年、32歳の時に皇太子の座につきました。
それから2年後、母・独孤皇后が亡くなります。
すると、父・楊堅は、2人の側室に入れあげるようになります。
その2年後、父・楊堅が重い病に・・・
すると楊広は、父の死後、隋の政治をどうするのか腹心とやり取りをするようになります。
そして、以前から目をつけていた父の側室に言い寄り関係を迫ります。
しかし・・・このことを知った父は激怒。
直ちに腹心を呼びつけます。
楊広を皇太子から下ろし、幽閉されている長男・楊勇を再び皇太子にするつもりでした。
このままでは皇帝の座が逃げて行ってしまう・・・!!

部下に命じて宮殿に侵入し、父を監禁。
その直後、父はこの世を去りました。
父の死後、楊広は父の側室二人と関係。
そして、父・文帝の命令と偽って、幽閉されている兄を殺害。
604年、楊広はついに皇帝の座につきました。
この時、36歳!!

隋の二代皇帝となったとき、煬帝はこう言いました。

「私は先帝の後を継いで世界に君臨し、先帝の意思の遵守に努める」

しかし、実際は父の時代をはるかに超える壮大な政策に野心を燃やしました。
父・文帝の時代、長安が中心でした。
しかし、煬帝は長安から東に400キロメートルの洛陽に新たな都を作り始めます。

「洛陽は古からの都
 南ははるか遠く、東は広大であるから、今こそ”洛陽”に都をおくべきなのである」

その洛陽を拠点に、一世一代の大事業を起こしました。
中国大陸を南北に結ぶ大運河網の建設です。
黄河と淮水、揚子江を結ぶ大運河網です。
隋の統一後、長安と洛陽の人口は増え続けていました。
これらの都へ、物資を農産物の豊富な揚子江域から運ぶ必要がありました。
歴代の中国では、運河を作って南北をつなごうという発想は常にありました。
色々な試みがされていました。
その背景においても、父を超えて、新しい国づくりをやろうという思いがあったのです。

律令国家と隋唐文明 (岩波新書)

新品価格
¥924から
(2021/12/19 08:57時点)



605年、三代河川を結ぶ長大な水路が早くも完成。
次いで洛陽と涿郡(現在の北京)との間に運河を建設、さらに南部の江都と杭州を結ぶ運河も建設。
こうしてわずか4年で長安から洛陽を経て、北は涿郡、南は杭州まで2500キロメートルが水路で繋がりました。

運河の完成を記念し、煬帝は巨大な船を建造。
龍舟と呼ばれるこの船に乗り、洛陽から江都まで水路をめぐりました。
龍舟は、長さ60m、高さ15mの4階建てで、船体には美しい彫刻がなされていました。
龍舟の後ろには、数千隻の船が付き従う、列の長さは100キロにも及んだといいます。
皇帝の権威を示す巨大な船の行進・・・
煬帝にはもうひとつ目的がありました。
運河が無事きちんとできているか、確認したかったのです。

一方、洛陽の郊外には、巨大庭園を建設。
この西苑は、皇帝のレジャーランド。
世界中の奇獣や珍木を集めた動植物園が設けられ、サーカスや音楽などの催しも行われました。
また、園内には、皇帝専用の離宮が16カ所設けられ、それぞれに美人を侍らせていたといいます。
1年中、美しい景色を保つため、木には絹の葉を一枚一枚結びつけ、色が変わらないようにしました。
これらを建設するための莫大な資金は、父の代からの蓄えから支出。
そして、民にも多くの負担がかけられました。
工事に駆り出された人の数はのべ2000万・・・総人口の4割以上にあたります。
この労働には、女性や老人も動員されました。
こうして、国内の変革を一気に推し進めた煬帝は、国外にも進出します。
歴代の中国皇帝を悩ませた北方民族対策です。
万里の長城を修復し、騎馬民族の東突厥を服従させることに成功します。
また、自ら辺境地に赴き、周辺国と朝貢関係を結びました。
煬帝は、やみくもに国外に目を向けたわけではなく、計算しつくしていました。
南北を貫くと同時に、東アジアに君臨したいという密な野心がありました。

607年、煬帝が39歳の時、東方のある国の施設がやってきました。
相手は倭の国・・・当時の日本・・・厩戸王が派遣した遣隋使です。
煬帝は、使者の小野妹子から書簡を受け取ります。
そこには・・・

”日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す
 つつがなきや”

これを読んだ煬帝は激怒。
隋が日没する国・・・落ち目の国のように聞こえる・・・!!
決定的に無礼なのは、中国の皇帝だけが名乗る天子を倭も名乗っていることでした。
しかし、激怒したにもかかわらず、煬帝は倭と良好な関係を築こうとしました。
使者が帰国する際に、返礼の使者を同行させたのです。
初めて本格的に動き出した倭という国がどんな国なのか??
興味があったのです。
さらにもうひとつ・・・切実な理由がありました。
高句麗の牽制です。
その為に、倭とつながる必要があったのです。
倭を隋側につかせ、高句麗を孤立させようと考えていました。
この頃、隋の周りでは、朝鮮半島の高句麗だけが朝貢に応じていませんでした。
それどころか、国境を閉じ、隋との交流を拒み続けていました。
611年、43歳の煬帝は、高句麗遠征の詔を発します。

煬帝が建設した大運河は、その後何度かの改修を経て今も中国を南北に結んでいます。
出発点は、北京の郊外・白浮泉・・・
新しい都を作り、大運河で国中をつないだ煬帝・・・
それによって、多くのものや人が行き交い、未曽有の反映を極めていく隋・・・。
経済力を飛躍的に高めたのにどうして暴君と呼ばれたのか・・・??

612年、隋は高句麗遠征を開始。
隋の兵力は、陸軍、海軍をあわせて110万!!
さらに、200万もの民衆を動員して遠征の補給部隊を組織しました。
煬帝が高句麗遠征を決断した背景は・・・高句麗が国交を拒否したから・・・というだけではありません。
高句麗と朝鮮半島の覇権を争う百済と新羅のあと押しがあったからです。
新羅の使者が煬帝に高句麗遠征を請願します。
そして、百済の使者も、海路の案内をすると協力を申し出たのです。
圧倒的な戦力の差・・・勝利は間違いないと思われました。
しかし、高句麗軍は籠城し、しぶとく抵抗しました。
隋がさらに進撃すると、高句麗は軍に使者を送ってきました。

「私は高句麗王から遣わされた降参の使者です
 攻撃をやめていただけたなら、王が面会しに参ります」

実は、この男、降伏を装った高句麗のスパイでした。
面会のためと称して、隋の奥深くに入り込んで内情を探ると、隙を見て逃走しました。
そんなこととは知らず、敵が降伏すると思い込んで進む隋軍。
待ち伏せした高句麗軍の奇襲を受けて壊滅しました。
また、ある戦闘では、30万以上の水軍が国境の川を渡り、高句麗に攻め込みました。
しかし、散々に打ち負かされ、帰ってきた兵士は2700名でした。

隋が思わぬ大敗を喫した原因は、実は味方にありました。
隋とつながっていた百済の存在です。
百済は、ある面、二枚舌な動きをしていました。
「高句麗を遠征しましょう」と、問題提起をしてきたのは百済でした。

でありながら、百済は高句麗を支援する方向で、隋側の情報を流したり、高句麗が都合よく動けるような支援をしていたと思われます。
しかし、煬帝は、敗北の原因は、役人の無能だとしました。

「下級役人たちが、勝手に賄賂を取り、政治を仕切っている
 そのことが敗北につながった
 役人を糾弾し、体制の引き締めをはかれ!!」

613年、45歳の時、第2次高句麗遠征。
しかし、予想外の事態が・・・
後方の基地を任されていた隋の大臣・楊玄感が反乱を起こしたのです。
楊玄感は、高句麗遠征のため、苦しみ困窮する民を救うと立ち上がります。
国内の反乱軍と、高句麗軍に挟まれることになった隋軍は、前線から撤退し、大臣の反乱を鎮圧。
こうして、2度目の高句麗遠征も失敗に終わりました。

しかし、あくまで高句麗遠征にこだわる煬帝は、3度目の高句麗遠征を計画します。
臣下は誰一人として賛成しませんでしたが、煬帝は強行します。

なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか わが国だけが近代文明を手に入れた歴史の必然

新品価格
¥763から
(2021/12/19 08:58時点)



614年、46歳の時に第3次高句麗遠征。
ところが、この戦いでは逃亡する兵が後を絶ちませんでした。

「高句麗戦に行って無駄死にするな」・・・そういう運動が、民衆たちの間で起こっていました。
止む無く煬帝は、高句麗と和睦。
3回に及ぶ遠征は、ことごとく失敗に終わりました。
一方、この頃隋の国内では、圧政に苦しむ民が反乱を起こします。
大きな盗賊団や夜警団が生まれ、やがれそれらが集まって、隋への反乱軍が形成されました。
しかし、煬帝は、自分の行いを反省しないばかりか、

「どうも人間が多すぎるらしい
 多すぎるからこそ、集まって盗賊になるのだ
 刃向かう者は、片っ端から捕らえて殺すがよい」

強盗を働く者は有無を言わさず死刑、家族も財産没収。
車裂きや晒し首などの刑も見せしめに行われました。
しかし、刑罰の厳格化が、ますます反発を呼びます。
隋への反対運動は、ますます激しくなりました。
当時の反乱集団の数は、200以上、記録には、

”天下の人 十分の九を上げて群盗と為る”

と書かれています。

煬帝、この時46歳。

戦争への重い負担にあえぐ民衆・・・国のあちこちで反乱を起こし、もはや収拾がつかない状態になっていました。
そんな折、煬帝は東突厥を訪問しました。
東突厥は、隋に朝貢していた配下の国でした。
しかし、その帰り道で突厥兵に囲まれ、命からがら逃げかえります。
隋の威光は地に落ちたのです。
洛陽に逃げ帰った煬帝は、龍舟に乗り、南方の都市・江都へと避難しました。
江都では、宮中に100を超す部屋を作り、美女を侍らせて順番に回ったといいます。
臣下が訴える政治の窮状には耳を貸さず、女官に囲まれてただ酒を飲み、一日を過ごしていました。

江都へ来てから1年後の617年、これまでとは比較にならない大規模な反乱が起きました。
反乱お起こしたのは、煬帝の臣下である隋軍の司令官でした。
3万の兵を率いて、長安に侵攻したのです。
反乱軍の中心は、後に唐王朝をひらく李淵です。
李淵の軍は、進撃を続ける中で膨れ上がり、遂に20万の大軍で長安を占領。
およそ1000キロ離れた江都で、知らせを耳にした煬帝・・・
鏡を見ながらつぶやきました。

「わしのこの首、誰が斬るのかな」

翌年3月、煬帝の側近である家臣たちがデマを流します。

「陛下はたくさんの毒酒を作り、宴会に見せかけて部下を皆殺しにするつもりだ」

これを聞いた護衛兵たちは、殺されてはたまらないと宮殿に侵入。
煬帝を捕らえようと迫ります。
煬帝は、

「私は何の罪があって殺されるのか?」

「陛下は、外の征伐ばかりに一生懸命で、内は贅沢の限りを尽くしている
 女子供も野垂れ死に、民は職を失い、盗賊が横行、どうして罪がないなどと言えようか!!」 

「万民にはすまないと思っている
 だが、高い官位と報酬を受け取っているお前たちが、なぜこんな仕打ちをする?
 首謀者は誰か?」

「皆が恨んでいて、首謀者は一人ではありません」

斬りかかろうとする兵士に、煬帝は・・・

「天子には、天子の死に方がある
 刀ではいかん、毒酒を持ってきてくれ」

しかし・・・願いは聞き入れられませんでした。
煬帝は、絹の布で首を絞められて死にました。
兄や父を欺き、皇帝即位から14年後のことでした。
煬帝の死後、ほどなくして隋王朝は滅亡。
李淵が起こした唐の時代が始まります。

それからおよそ1400年後の2013年、かつて江都のあった場所から驚くべきものが発掘されました。
”煬帝”と刻まれた石板です。
長らく不明だった煬帝の墓です。
墓誌には、大業十四年・・・618年に亡くなった煬帝が、唐の時代に改めて葬られたと記されています。
豪華な副葬品もありました。
ベルトや、龍がデザインされた鏡・・・皇帝のみが身につけることができるこれらの品から、格式の高さが伺えます。
この墓を建てたのは、唐の二代皇帝・太宗です。
どうして煬帝の墓を改めて作ったのでしょうか??
それは、唐を中心とした新しい東アジアを作り上げ、太宗自身が東アジアの君主になる・・・
「盟主になりたい」という思いは煬帝と同じでした。
国づくりにおいても、煬帝が方向付けをした同じ路線に立ち入っていきます。
太宗自身、煬帝を評価しようと・・・煬帝のやった政治の正当性を認めようとしたのです。
煬帝が作り上げた大運河網は、今も中国各地に人や物を運んでいます。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

マグロ めばちまぐろ 赤身 三浦 三崎鮪 特盛 ブツ 切り落とし 訳あり お買い得 店主厳選 まぐろ家本舗  

新品価格
¥3,980から
(2021/12/19 08:59時点)



昭和の時代はお札の顔として親しまれ、”和を以て貴しとなす”で知られる憲法十七条、そして色で役人の身分を区別した冠位十二階など、日本の礎となる功績を数々残した聖徳太子・・・まさに、古代史最大の英雄です。
しかし、近年その聖徳太子を巡って様々な議論が巻き起こりました。
2017年、中学校では聖徳太子ではなく厩戸皇子の表記が優先されるとなりました。
聖徳太子がいなかったという虚構説まで・・・!!
私たちのよく知っている聖徳太子とは一体何だったのでしょうか?

飛鳥時代、古代日本の最大の転換点を生きた聖徳太子・・・その実像とは・・・??
聖徳太子に新しい光を当てる研究とは・・・??

太子について書かれている書物は、奈良時代に編纂された日本書紀など少ししか残っていません。
太子について書かれた書物・・・資料が極めて少ないために、謎に包まれています。
近年話題となったのが、聖徳太子虚構説です。
ひとりの有力な王族「厩戸王」はいたが、聖徳太子の功績は後世に作られたものだという説です。

憲法十七条も、奈良時代に日本書紀が編纂されたときに創作されつけ加えられたとされます。
しかし、それはありえない・・・??

第一条の和を以て貴しと為し・・・”以和爲貴、無忤爲宗”の無忤は、聖徳太子が生きた時代に近い中国南北朝時代の伝記が多いことがわかります。この文献を参考にして作られたものではないか??
南北朝時代の成実諭師・・・当時流行した「成実論」を勉強した人が良く使う単語なのです。
成実論は、中国の南北朝時代(5~6世紀)に流行した仏教書で・・・しかし、7世紀、唐の時代になった頃には否定され、重視されなくなっていました。
つまり、その後、奈良時代になって否定された文献を用いて憲法十七条を作ったとは考えにくいのです。
唐の時代には、批判されて、使われなくなった表現を使うというということは、虚構説の根拠の一部が崩れるのではないか・・・??

奈良県明日香村・・・
飛鳥時代に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺があります。
南北300m、東西200mの敷地に立ち並ぶ、壮麗な伽藍・・・
当時は朝鮮半島から最先端の技術を持つ工人を招いて作られた巨大な寺院でした。
飛鳥寺を建てたのは、蘇我馬子。
大臣として50年以上、4代の天皇に仕え、蘇我氏の黄金時代を築いた大豪族です。
馬子は聖徳太子と共に、仏教で国を治めることを目指しました。
その足掛かりとして飛鳥寺を建立したのです。
昭和32年、飛鳥寺の軒丸瓦が発見されました。
中央に5つの点があり、その周りには花伝が九つあるという特徴を持つ・・・これは、百済から来日した瓦職人のデザインです。
これと同じ文様の瓦は、聖徳太子が607年に建立したとされる斑鳩寺でも使われていたことがわかっています。
この二つの瓦は、同じ木型を使ったもので、文様が一致しています。
この文様が一致しているお云うことは、飛鳥寺と斑鳩寺が同じ職人たちの手によって作られていることを意味しています。
火災で一度消失し、今の法隆寺となった斑鳩寺・・・
建立された当時も、飛鳥寺に匹敵する寺院であったと推測できます。
斑鳩寺を造営した聖徳太子の非常に強い権力が表れています。
記録は、権力者の意向で改ざんされる余地がありますが、瓦は単なる建築材なので、権力者が改ざんする余地がないのです。
その時代の真実を証明する資料でした。

飛鳥時代、聖徳太子が政治の表舞台に立ったのは、二十歳を迎えようとしている頃でした。
592年、聖徳太子の叔母である推古天皇が即位。
その翌年、聖徳太子は推古天皇のもとで実務を行う皇太子となっています。
太子は、蘇我馬子と共に大和朝廷の中核を担い、新たな国づくりに着手することとなりました。

594年仏教興隆の詔・・・三宝(仏・法・僧)の功徳を広めようとしました。
飛鳥寺に倣い、大阪の難波に、自ら寺を・・・四天王寺を建立します。
聖徳太子の出発点は、馬子と協調して当時倭国と呼ばれた日本を仏教の力で治めようという新しい政治でした。
しかし、ちょうどその頃大陸では動乱の時代が始まろうとしていました。
581年、隋という王朝が誕生・・・
589年には南朝の陳を制圧し、中国に300年ぶりの統一王朝を樹立します。
隋の初代皇帝となったのは文帝でした。
文帝は律令を整備するなど統一王朝に相応しい中央集権化を推し進めていきます。
現在の中国の西安に大興城を築き、東西10キロ、南北9キロに及ぶ巨大な登城は、城内に54に区画された街並みが整然と広がり、かつてない威容を誇っていました。

文帝は、都の中に、国立寺院・大興善寺を築き、ここを仏教興隆の中心とし、多くの僧侶を集めました。
さらに、国内100カ所以上に釈迦の遺骨を納めたといわれる舎利塔を建立。
仏教の精神を隋全土に広めようとしたのです。
巨大帝国隋の存在に脅威を抱いた百済、新羅などの周辺諸国は、使節を送って外交関係を築こうとしました。
倭国は、中国と100年近く交流が途絶えていたので、この様子を静観していました。
こうした中、598年、高句麗が動き出します。
隋と高句麗は、国境線を巡って衝突!!
文帝は、陸海30万の軍勢で高句麗を反撃を開始。
この出来事が、倭国に大きな影響を与えました。
隋と高句麗の戦いのような「外圧」を感じる事件は、5世紀、6世紀にはなかったことでした。
外圧・・・それに押されるように、ついに600年、およそ100年ぶりとなる使者を送りました。
第1回遣隋使派遣!!
こうして巨大王朝隋との外交が始まることとなりました。

隋書によれば・・・
大興城に赴いた大使は、皇帝・文帝に謁見し、倭国の風習をこのように述べたといいます。

”天を以て兄と為し 日を以て弟と為す
 天未だ明けざる時 出でて政を聴き 跏趺して坐す”

倭国では、政を行うのは夜・・・そして日が上がれば政をせず休むというものでした。

”此れ太だ義理無し 是に於いて訓へて之を改め令む”

大変道理に合わないやりかただ
 こんなやり方は改めるべきだ

どの程度文明化されているのか?で、中国は諸国をランク分けしていました。
倭国は隋にかなり低いランクにされ・・・屈辱的、大きな間違いをしてしまったのです。

屈辱的な結果に終わった遣隋使外交・・・しかし、これが倭国の改革の原動力となっていくのです。

中国には「華夷秩序」という考え方があります。
中国を世界の中心=「中華」とし、他国を野蛮国=「夷狄」とする考え方です。
7世紀初めの時点で、隋は世界最強の国家でした。
そんな国と「何らかの関係を結ばなければ・・・」と、倭国も感じていました。

その後の倭国は・・・??
奈良時代の小墾田宮と考えられる遺跡で見つかった墨書土器には、墨で小墾(治)田宮と書かれています。
小墾田宮とは、推古天皇の603年、聖徳太子と蘇我馬子の政の拠点でした。
奈良時代には離宮として使われました。
小墾田宮の復元図によると、天皇の住居だけでなく、朝庭という庭が設けられていました。
これは、外国からの使節を迎える場として利用されました。

当時中国でも多く採用された構造で、それを意識して造られたと考えられます。
それまでの宮殿は、天皇の住まいとしての要素だけでした。
政治・儀式の場を兼ね備えた場所に変わって行ったのです。
都市計画のスタートラインに立った瞬間でした。
これを契機に聖徳太子は新しい政策を打ち出していきます。
603年12月 冠位十二階を制定
役人の服や冠を色分けし、十二の位階で区別したものです。
家柄重視から能力重視の身分制度へと変化したのです。
冠位十二階は、外交政策にも深くかかわっていました。
外交の場は一番の見せ場です。
どう中国に認知されているのか・・・??最重要事項でした。
中国の道徳律を理解しているという表明を削なければならなかったのです。
それが冠位十二階なのです。

色だけではなく、服装に着目すると・・・
この時取り入れられたのは、スカート型です。
これは、昔の中国の役人が朝廷に出仕する時の正装でした。
朝鮮半島ではズボン式が主流でした。
外構の場で倭国はスカートを着用することで、中国の文化を理解しているとアピールできたのです。
完璧な形で中国に対しなければいけない・・・朝鮮半島にも完璧な形で優越する立場でなければならない・・・!!
冠位十二階は、その目的が非常に大きかったのです。

605年斑鳩宮に移住
607年斑鳩寺を建立
斑鳩宮は、飛鳥の中心部から20キロ離れており、大和川流域付近で陸路だけでなく、船でも行きかうことができました。
どうして続けて宮を建てたのでしょうか?
交通の要衝に、二つの都をおき、使節に対する供応・滞留を目的とした・・・中国における洛陽や長安を意識したのではないか・・・??
聖徳太子は、二つの都を大河で結んだ中国に倣って土地開発をしたのでは・・・??と思われるのです。
更に太子は、二つの宮を結ぶ道を整備しました。
それは、太子道として現在も残されています。
この太子道にも聖徳太子のち密な計算が合ったと思われます。
太子道には正方位に対し22度西に傾くという特徴があります。
22度の傾斜とは、小墾田宮と斑鳩宮を最短距離の直線で結んだ角度でした。
他にも、22度に傾いた遺構がたくさんあります。
このことから、斑鳩宮を中心に、整然とした土地整備が行われていたのではないかと考えられます。
太子道によって最短距離で結ばれた二つの宮・・・
斑鳩宮は、難波まで大和川や陸路でつながり、港と飛鳥の中継地点にありました。
聖徳太子の土地開発に狙いは・・・外国からの使節、物資、情報をいち早く都へ届けるという外交政策だったのです。
1回目の遣隋使の時からこの計画はスタートし、中国の先進的なものに倣い、二つの都城を結ぶ道を作っているのです。
中国を意識した改革を、次々と推し進めた聖徳太子・・・
いよいよ満を持して2度目の遣隋使派遣に臨むこととなります。

第1回遣隋使の失敗から改革を進めた聖徳太子は、607年、2度目の遣唐使派遣に踏み切ります。
隋へ向かったのは、小野妹子を筆頭にし、僧侶数十人を伴った使節団でした。
妹子らは、文帝の跡を継いだ隋・第2代皇帝・煬帝と対面することになります。

隋書にその時の様子が詳しく書かれています。
煬帝に謁見した妹子らは、一つの書簡を手渡しました。
それはあの有名な一節から始まります。

”日亥出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す”

その文言を見た煬帝は・・・

「蛮夷の書 無礼なる有らば 復た以て聞する勿れ」

煬帝は、役人に対し、野蛮国が書いた書いたこんな無礼な書簡を二度と私に奏上するなといったのです。

煬帝は中国皇帝を表す”天子”を小国の倭国が用いたことに不快感を示したとされます。
この書簡から第2回遣隋使が倭国が隋に対等の関係を迫る対等外交・・・挑戦的な外交として知られてきました。

しかし、隋書をよく読むと、違う読み方が見えてきます。
「日出づる処の天子」の部分だけが注目されてきましたが、「隋書」には、使者の発言も記録されています。
使者が煬帝に向けた発言には・・・

「海西の菩薩天子 重ねて仏法を興すと聞く」・・・これは、妹子らが書簡を渡すときに煬帝に語った言葉です。
菩薩とは・・・釈迦の智慧を広め、悟りに向かい努力する聖人のことです。
妹子らは、煬帝を菩薩天子と称賛したのです。

「中国皇帝 煬帝は、菩薩のように素晴らしい天子であり、重ねて仏教を復興させている素晴らしい君主だ。
 そのために倭国は、その君主を拝むために使者を派遣して参りました。」と。

それから対等に・・・というのはかなり無理があるように感じられます。

使者が語った「重ねて仏法を興す」という言葉は、煬帝の父・文帝の時代に編纂された中国の書物に数多く書かれています。
倭国の使者の発言には、都に大寺院を建立し、隋全土に舎利塔を作り、仏教を国の礎にしようとした皇帝への畏敬の念が伺えます。

書簡の文言では不快にさせたものの、隋の国柄をきちんと学んできたことを倭国は最大限にアピールしました。
それが功を奏したのか・・・倭国に関心を示しました。
翌608年、隋が裴世清を倭国へ送ります。
倭国は大国隋からの使節を歓迎しました。
裴世清たちは、倭国の玄関口・難波の港に入り、太鼓、笛の演奏でもてなされました。
その後、斑鳩宮を通り、小墾田宮まで至ったと考えられます。
そして、煬帝からの国書が手渡されました。

「遠くの国から朝貢しに来たその真心をうれしく思い 裴世清を送る
 そして贈り物を授ける」

煬帝は遠路はるばるやってきた遣隋使の忠誠心を褒め称えました。
倭国が大国・隋から認められた時でした。
屈辱の第1回遣隋使から8年・・・聖徳太子の努力はようやくここに結んだのです。
その後も遣隋使は続き、618年、隋から唐に王朝が変わった後も、遣唐使へと引き継がれました。
飛鳥時代から奈良時代へ・・・
古代日本の礎となった中国との交流・・・遣隋使は、その扉を開いたのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

聖徳太子の真実 (平凡社ライブラリー) [ 大山誠一 ]

価格:1,650円
(2019/11/23 20:15時点)
感想(0件)

聖徳太子と日本人 天皇制とともに生まれた〈聖徳太子〉像 (角川文庫 角川ソフィア文庫) [ 大山誠一 ]

価格:968円
(2019/11/23 20:15時点)
感想(3件)

このページのトップヘ