日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:斎藤利三

1982年6月2日未明・・・
京都本能寺で突如炎が上がりました。
わずかな手勢で宿泊していたのは、天下の織田信長!!
その最も信頼する家臣・明智光秀が襲ったのです。
事件当日光秀には、中国地方で戦う羽柴秀吉の応援に向かう筈が、突然軍を本能寺に向けます。
夢にも思っていたなかった光秀の謀反・・・信長は寺に火をかけ、奥に入って自刃しました。
日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変・・・いまだに謎が多く、光秀の動機について数えられないほどの説が語られてきました。
真実は何なのか・・・??

①怨恨説
これまで通説そして長く信られてきた怨恨説・・・映画やドラマなどで常に描かれてきた信長による光秀への暴力的叱責・・・怨恨説は、光秀が恨みを募らせて謀反を起こしたというものです。
この説の根拠の一つとされているのが、1582年の「惟任退治記」です。
本能寺の変の4か月後、羽柴秀吉が書かせたもので、光秀を討伐したという記録です。
この資料には、光秀が謀反を起こした動機について、こう書かれています。

「決して当座の思い付きではなく、積年積もる逆意があって、この時が好機であると決断したのである」

主君・信長を殺害するまでに、積もりに積もった逆意とは・・・??
光秀の信長に対する恨みの理由に関して、後世の資料では様々なエピソードがありますが、その中でも有名なものが”徳川家康の饗応役解任”をめぐる確執です。

本能寺の変の2週間前、信長は同盟相手の徳川家康をねぎらうために、安土城で盛大にもてなすことに・・・饗応役としてその仕切りを任されたのが、明智光秀でした。
光秀は、各地から山海の珍味を集め、豪勢な料理の準備に余念がありませんでした。
しかし・・・接待の食事に出した魚から悪臭が漂っていたとして信長が激怒、光秀は足蹴にされたと言います。

信長からの暴力的な叱責は、宣教師ルイス・フロイスの記録にも見ることができます。

”人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度足蹴にしたということである”

信長の光秀に対する激しい叱責と、積年の恨みが光秀が謀反を起こす理由だったのか??

怨恨説の中にはもう一つ・・・斎藤利三をめぐる怨恨説があります。
斎藤利三は、光秀の右腕ともいわれた明智家の重臣です。
本能寺の変から遡ること1か月、斎藤利三は明智家のために他の織田家の家臣から家老の一人を引き抜きました。
これを聞いた信長は、織田家家臣団の規律を乱すとして激怒、利三の切腹を命じるほどの激しい怒りでした。
このエピソードは、利三に家老を引き抜かれた稲葉家の記録「稲葉家譜」に書かれています。
1582年5月27日、光秀は、利三の監督責任を問われ、叱責を受けたと言われています。
この時、あるアクシデントが起こり、光秀のプライドがズタズタになります。
殴ったはずみで、”かつら”が取れてしまいました。
光秀は、髪が薄いことを気にして、普段から付髪をしていました。
人前であからさまに付髪を取られてしまったのは、屈辱でした。
この事件が起きたのは、本能寺の変の4日前です。
公衆の面前で潰された武士の面目・・・これが本能寺の変に向かわせたのでしょうか?

怨恨説の根拠は、後の時代に書かれた二次資料です。
一次資料には、光秀が信長を恨んでいたという記録は残っていません。
怨恨説の否定材料となる一次資料は・・・??
本能寺の1か月前の信長の最後の朱印状が細川家に残っています。
あらゆる軍事情報は、光秀を通じて送るように命じています。
虐めるどころか、光秀あっての近畿の軍事政権であると信頼していました。

光秀が信長を恨んだエピソードは、後世の脚色で、一次資料には見られません。
おおむね否定です。

②共謀説

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、光秀についてこう評しています。

”彼は裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、計略と策謀の達人であった”

計略に長けた光秀と何者かが手を組んで本能寺の変を起こしたのか・・・??
数ある共謀説の中でも代表的なのが”朝廷共謀説”です。
朝廷と光秀が共謀して信長を殺したというものです。
だとしたら、朝廷が信長を亡き者にしようとした理由とは・・・??
本能寺の変の前年、信長は京都で馬揃えを行いました。
馬揃えとは、今の軍事パレードです。
しかも信長の馬揃えは、かつてないほどの壮大なものでした。
朝廷共謀説によれば、信長は軍事力で朝廷を威圧するためのものだったのでは・・・??と言われています。
自らの軍事力を見せつけたうえで、これまでにない要求をします。
”三職推任”です。
三職とは、朝廷の最高職「太政大臣」、天皇の補佐「関白」、武家のTOP「将軍」という天皇の除く最高権力・・・信長はこのうちのどれかに自分を推薦するように天皇に迫ります。
三職を与えるかどうかを決めるのは、天皇の専権事項・・・
信長の要求は、天皇の権力を蔑ろにするような前代未聞の暴挙でした。
朝廷にとって信長は危険な存在・・・
そこで朝廷は、公家とも親しい文化人の光秀に近づき、謀反を共謀したというのです。

イエズス会共謀説
さらに、朝廷以外にも、公家と親しかったイエズス会・・・
キリスト教の布教のために、イエズス会は本能寺の変の33年前から日本で活動を始めました。
この時彼らは、中国進出のために日本での基盤を固めるべく、信長を経済的に支援していました。
ところが、信長がほぼ天下を収め、手中に収めると・・・天下人として振る舞うようになり、イエズス会にとってコントロールできない存在となってきました。
ルイス・フロイスは、イエズス会を震撼させた信長の言動を記しています。

「途方もない凶器を盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないというに至った
信長はあろうことか絶対的な存在であり、キリスト教の守ですら否定し、自分はそれよりも上の存在だと言い出したのだ
神を冒涜する信長を許してはならない」

イエズス会は信長に次ぐ実力者だった光秀に近づき、共謀して信長を暗殺した??
信長を亡き者にしたい朝廷、そしてイエズス会・・・それらの巨大組織が光秀と繋がって本能寺の変を起こしたのか・・・??
イエズス会の重要人物の一人・宣教師オルガンティーノは、安土にいたものの本能寺の変の後、明智軍を恐れ、批難したと言われています。
イエズス会と明智が繋がっていたとすると、オルガンティーノの動きは説明がつきません。

朝廷共謀説、イエズス会共謀説は、根拠となる資料が乏しく否定。

③鞆幕府推戴説

広島県福山市にある惣堂神社・・・
厳重に保管されている御神体は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。
広島と足利義昭、本能寺の変の関係とは・・・??
本能寺の変の9年前・・・1573年に室町幕府が滅亡。
信長に槙島城の戦いで敗れ、京都から追放された足利義昭・・・
これをもって、室町幕府が滅亡したと言われています。
しかし・・・京都追放後、義昭は広島県福山市の鞆の浦に毛利氏の庇護のもと、鞆幕府と呼ばれる勢力を存続・・・
将軍として再起を図ろうとしていました。
しかし、どうして鞆の浦・・・??
港からほど近い小松寺・・・
ここは、室町初代将軍・足利尊氏が京都で幕府を開く直前戦勝祈願のために立ち寄ったとされる寺です。
再び上洛を果たし、幕府復興を目論む義昭にとって、鞆の浦は縁起のいい場所でした。
さらに、鞆の浦は、海流が満潮時に丁度ぶつかる瀬戸内海屈指の交通の要所でした。
四国・九州から、人、物、そして情報が集まり、戦力的にも有利な場所でした。
義昭は、京都から広島に逃れ、信長と敵対する西国の大大名・毛利氏らと組み、打倒信長を画策していたのです。

義昭が御所として使ったとされる常国寺・・・
今でも足利将軍家の家紋「足利二つ引」が掲げられています。
寺に伝わる羽織は、義昭が地元の有力者に贈ったものだとされています。
そこには、将軍家など権力者だけに許されていた紋「九七桐」が使われています。
光秀が鞆の浦で京都奪還を望む義昭に近づき「本能寺の変」を引き起こした??

義昭の野望と、光秀の深いつながりを示す証拠が本能寺の変から10日後に書かれた「土橋重治宛光秀書状」に書かれています。
秀吉との最終決戦・山崎の戦いを控え信長と敵対していた勢力に宛てた協力を求める書状には・・・


「上意への奔走を命じられたことを、お示しいただき、ありがたく存じます
 しかしながら、(将軍の)ご入洛につきましては、すでにご承諾申し上げています。」

信長亡き後、上意が使われる人物は、義昭以外に他ならない・・・??
その義昭の入洛・・・光秀自身既に承諾している・・・??
光秀が、鞆幕府を推戴していた証拠なのでは・・・??
光秀は、室町幕府復興の大義のために、本能寺の変を起こしたのか・・・??
義昭の入洛について承諾しているという光秀の書状から、光秀が義昭を担ごうとしていたことはわかるものの、問題は、光秀と義昭が結びついたのが、本能寺の変の前か、後か??
書状が本能寺の変の後に書かれていることから、光秀が自分の正当性を示すために義昭の権威を利用したのかも??

光秀と義昭のつながりは、変の前→義昭と計画的に行われた謀反
へんの後であれば、謀反の大義名分のために推戴したのでは・・・??と思われるのです。

将軍義昭を再び京都に迎え入れるために奔走した光秀、最近、義昭と光秀のつながりが発見されました。
そもそも、明智光秀に関する信頼できる資料は非常に乏しく、前半生は謎に包まれています。
本能寺の変を起こした時の年齢も、明智軍記=55歳、当代記=67歳と、言われています。

光秀に関して最も信頼されている古い記録は、本能寺の変の15年前、永禄10年の「永禄六年諸役人附」です。
そこには、光秀が越前国の足利義昭陣営の足軽衆であったと記されています。
信長に会う前、光秀は足利義昭の家臣でした。
当時義昭は、将軍だった兄を殺され、京を追われ朝倉氏のもとに身を寄せていました。
幕府とつながりの深い朝倉氏のもとで、上洛に必要な大名を探していました。
そこで目をつけたのが、美濃で力をつけてきていた織田信長でした。
その時、義昭と信長を結びつけるために出てきたのが明智光秀です。
この時、若く見積もっても40歳・・・出自もわからない光秀が、どのようにして義昭と結びついたのでしょうか?
長い間謎となっていました。
そんな中、2017年、熊本で・・・謎に迫る発見が・・・!!
「針薬法」と呼ばれる書物は、細川家の家老米田家に残された光秀本人が語った新資料です。
資料には、永禄9年の物と書かれていますが・・・これが事実なら、光秀に関する一番古い資料となります。
その奥書には・・・
”明智十兵衛光秀は、近江国高嶋の田中城に籠城していた”
光秀は、永禄9年(1566年)以前に武将として活躍していたことがわかります。
どうして明智光秀は、主君・織田信長を討ったのか・・・??

本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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④構造改革反発説
光秀は、信長の行った革新的な構造改革に反発し、変を起こしたという説です。
世は戦国時代、自分たちの所領や領地を守り、いかにして拡大するか・・・??
大名たちによる限られた土地の奪い合いは、100年近く続いていました。
そんな時代を終わらせるべく、信長が出した全く新しい思想は・・・預治思想です。
土地はあまねく天の物・・・それを預けられ、治める・・・この思想が、信長の革命的な思想なのです。
土地はすべて天からの物で、天下人に与えられたものであり、各大名はその土地を預かっているだけ・・・
そうすることで、土地の奪い合いは無くなる・・・預治思想は、秀吉・家康に受け継がれ、幕藩体制の礎となっていきます。

天正8年・・・1580年8月、信長は大和一帯を治める筒井順慶に居城ひとつを残して他の大和一帯の城をすべて破壊するように一国城割を命じました。
領地・城の管理は、従来の各大名の権限で、それを信長は奪い、自ら差配、それまでの権力者とは、一線を画す命令でした。
そして天正8年を機に、
天正8年 大和 城割 検地
      摂津 城割 検地
      河内 城割 検地 
      和泉 城割 
      丹波 城割 検地
      丹後 城割 検地
天正9年 越中 城割
      能登 城割
      伊賀 城割
光秀や秀吉などの家臣の領地で、石高を調べる検地を次々と行い、領地管理を徹底管理させていきます。
さらに、長年自らに仕えてきた宿老に対し・・・
滝川一益 伊勢長島→上野厩橋
越前府中 江千仙府中→能登七尾
細川藤孝 山城青龍城→丹後宮津
見ず知らずの土地に国替えを命じました。
全ては、天下人を中心とした集権国家にするためのもの・・・まさに、国の形を劇的に変える構造改革をしようとしていたのです。
そして次なる国替えは光秀だった・・・??
江戸時代にまとめられた「明智軍記」によれば、「丹波・近江を召し上げ出雲・石見を与える」と言われたと言います。
丹波の地は、光秀が4年の歳月をかけて平定した土地です。
新しい国の形を探して信長が行った構造改革・・・しかし、旧来の常識にとらわれる家臣たちにとっては、あまりにも革新的過ぎたのでは・・・??

革新的なのは信長か?光秀ら家臣たちか??
革命家・信長と旧来型の家臣・光秀・・・そうした従来の評価は近年大きく変わってきています。
信長の革新的の象徴とされる安土城・・・信長は土の城から城郭へと進化させ、城革命を成し遂げたと言われてきました。

しかし、光秀と親交のあった吉田兼見によると・・・
「坂本城の天守を作るところを見せてもらった」とあります。
坂本城とは、安土城の4年前に建築が始まった光秀の城です。
信長よりも早く、荘厳な天守を築いていた可能性があるのです。
さらに、京都市に残る周山城は、東西に800m、南北に620mの広大な山城で、天守の役割をする建物もありました。
当時の一般的な城は土塁・・・周山城は石垣・・・広大で巨石を積み上げた総石垣の山城は、他に例がありません。
さらに、家臣たちを統率する規律も、時代を先取りしたものでした。
「明智光秀家中軍法」によると・・・
当時の軍は、いろいろな出自の者が集まる寄せ集めでした。
家中軍法では、こまごまとした規律が定められています。
戦場での雑談や抜け駆けの禁止が徹底され、織田家はもとより他の大名家に軍法が存在しない中、明智家だけに存在した法律・・・そのあまりの革新性に、江戸時代につくられた偽の文書ではないかとも言われていました。

革命家と言われてきた信長・・・
朝廷が執り行う儀式には、多額の資金が必要で、それを援助するのは伝統的に室町幕府が行うものでした。
しかし、室町将軍・義昭を追放した後は、信長が変わって経済的援助を行い、朝廷を支えていました。
さらに、岐阜城に入ったのち、天下布武の印を使い始めた信長・・・天下統一を目指し、天下人となる決意表明ととられがちですが・・・
信長にとって戦の目的は、天下統一ではなく、各地で起きる反乱を鎮め、朝廷を中心とした伝統的な秩序を守るためでした。
信長は、次の時代を作った革命家ではなく、最後の戦国大名だったのでは・・・??

この頃、信長が使っていた”天下”という言葉も、最近解釈が変わってきています。
天下とは室町幕府、朝廷、京都のこと・・・??
天下布武は、日本全土を支配するのではなく、近畿一円では・・・??
従来のイメージと異なる信長と光秀の人物像・・・
ここから本能寺の変の真相に、新たな説が見えてきます。

⑤暴走阻止説
信長の暴走を止めるために、本能寺の変を起こした・・・??
1580年、石山本願寺との戦いが終わり、畿内を平定。
しかし、信長は戦いをやめることはありませんでした。
全国各地の自らに従わない勢力に対し、兵を送り、武力で押しつぶそうとしました。
信長の行動は、武力に任せるという旧来の戦国大名と何ら変わりのないものでした。
既に中国地方での毛利との戦いは6年に及び、上杉とも戦いは続いていました。
長引く戦と、拡大する戦線・・・織田家臣団は、疲弊しつつありました。
そんな中で、信長は更なる戦を決定します。
四国攻めです。
尾張の見えない戦の日々・・・そんな信長に最も危機感を持っていたのは光秀でした。
織田家の有力者たちに任された地域を見ると、秀吉の中国地方、柴田勝家の北陸地方に対して、光秀は信長のおひざ元・畿内周辺を任されていました。
さらに、光秀と軍事行動を共にする大名を含めると、京をぐるりと包囲しているのがわかります。
信長の暴走を止められるのは、畿内を任され、軍事的No,2だった光秀のみ・・・??
本能寺の変の動機に関して、自筆の書状が残っています。
”明智光秀覚条々”(1582年6月9日付)によると・・・
本能寺の変の後、細川藤孝に対して自ら筆をとっています。
ここに書かれた動機こそ、この説の大きな根拠になっています。
本当に光秀は、信長の暴走を止めるべく本能寺の変を起こしたのでしょうか?
本能寺の変は、光秀が天下を取るためではなく信長の時代を終わらせ、次世代に渡すためだった可能性も・・・??

⑥四国説
2014年、歴史界を驚かす、驚きの発見がありました。
”石谷家文書”によると・・・明智光秀の重臣・斎藤利三と土佐の長曾我部元親がやり取りした膨大な数の手紙によると・・・
注目されたのが、四国説です。
長曾我部元親は、四国統一を目指していた戦国大名でした。
元親は、信長と同盟関係にあり、その取次ぎを務めていたのが光秀でした。
戦いで勝ち取った土地は、自分のものにしてよいという信長のお墨付きをもらい、敵対する三好家と戦い続けた元親・・・四国統一目前でした。
ところが、状況は一変・・・本能寺の変の前年・・・信長は突然長宗我部ではなく三好家と接近・・・元親が戦いで勝ち取った四国の一部を三好家に返上を要求します。

「元親のために光秀は尽力している」

手の平を返す用に領地を奪われる立場となった元親のために、奔走していた光秀・・・
その結果、ようやくたどり着いた妥協案は・・・??
本能寺の変の10日前、元親から光秀の重臣・斎藤利三に出された手紙です。

「信長との間を始終取り計ららってくれたことは忘れない
 阿波国内の主要な山城は明け渡す」

領土の返上を渋っていた元親の説得に成功した光秀・・・
しかし、信長は情け容赦ない決定を下します。
長宗我部を滅ぼすと・・・!!

光秀の人力空しく、四国出兵が決まります。
元親討伐軍が四国渡航予定の6月2日未明・・・光秀は本能寺の変を決行したのでっす。
この四国政策の手のひら返しが本能寺の変を引き起こさせた・・・??

本能寺の変が起こった1582年、信長はすでに家督を信忠に譲っていました。
二人を同時に討たなければ、謀反は成功したとは言えない・・・
ところが、当初信長と別行動をとるはずだった信忠が、予定を変更。
二人が急遽、兵を伴わずに京都にいることになりました。
これが決定したのは、本能寺の変がおこるわずか3日前のことでした。
中国出兵が決まっていた光秀のもとには、1万3000余りの軍勢が・・・!!
光秀にとってありえないほどの好条件が重なったことが、本能寺の変の大きな要因の一つになりました。
四国をめぐる信長の判断が、光秀を追いつめ、織田家家臣団の問題が表面化し、本能寺の変につながった可能性が高いと思われます。

⑦秀吉陰謀説
四国説で浮き彫りになった光秀と秀吉による織田家臣団のNo,2争い・・・
ここからまことしやかに囁かれているのが・・・秀吉陰謀説です。
本能寺の変の直後の光秀について、京都・吉田神社の神官・吉田兼見・・・
朝廷にも深くかかわり、光秀と頻繁に行き来する間柄の吉田兼見によると・・・
本能寺の変当日の兼見の日記には、

”光秀は信長方を悉く討ち果たし、大津に異動した
 私は馬に乗って粟田口まで走り出て光秀に対面し
 吉田家・吉田神社の領地を保証してくれるよう直接頼んだ“

兼見だけでなく、京都の多くの勢力が光秀を謀反人として扱うことはなかったようです。
その後、安土城に入城した光秀のもとに、朝廷からの勅使が訪れました。
これは、朝廷が光秀を次の天下人として認めた可能性を示しています。
本能寺の変後、光秀の動きは順調に見えました。
しかし・・・
それを打ち砕いたのが、秀吉の中国大返しです。
本能寺から200キロも離れていた高松城から毛利との講和を結び、京都に取って返した秀吉・・・
変からわずか11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦いで光秀は秀吉に破れました。
本能寺の変で最も得をした人はだれか・・・??
天下人の道を歩み始めた秀吉です。
どうして秀吉は、こんなに早く変の情報を入手し、動くことができたのか・・・??
秀吉は本能寺の変に何らかの形で関わっていたのか・・・??

秀吉の陰謀である可能性は低いが、秀吉は光秀の謀反を予知していた可能性は高いと思われます。

本能寺の変の直後から、光秀は味方になってくれる織田家家臣団を取り込むべく各所に書状を送り、援軍を頼みました。
敵対勢力・・・最大の秀吉を制すれば、謀反は成功するはずでした。
光秀が最も頼りにしていたのが、細川藤孝・忠興親子でした。
藤孝は、光秀が信長と出会う前からの長い付き合いで、当時光秀の与力大名として軍事行動を共にする間柄でした。
息子の忠興は、三女のガラシャが嫁いだ相手・・・つまり、娘婿でした。
当然彼らの援軍を得られるであろうと思っていた光秀・・・
ところが、本能寺の変を知ると、細川親子は信長の喪に服すると出家、光秀とは組まないという意思を示しました。
さらに、娘婿の忠興は、たまを離縁、幽閉します。
思いもよらない細川親子の反応・・・
光秀はどう受け止めたのでしょうか?
本能寺の変の7日後・・・
光秀が細川家に送った書状によると、細川親子の出家に対し、抗議しながらも、今からでも味方してほしいと強く要請しています。
にもかかわらず、細川家が動くことはありませんでした。
細川家のこの判断によって、光秀の運命は決まりました。

秀吉による中国大返し、それでももし、秀吉の通り道にある丹波で細川が迎え撃てば、秀吉の足止めができたかもしれない・・・
しかし、細川は動かず、実に三倍の兵力を引き連れた秀吉と・・・
1582年6月13日、山﨑の戦い!!
光秀を撃破した秀吉は、信長の後継者の地位を手繰り寄せました。
本能寺の変の1か月後・・・光秀に組しなかった細川家に宛てた秀吉の文書が残っています。
”羽柴秀吉血判起請文”によると・・・花押の上に秀吉の血判が・・・今に残る秀吉唯一の血判です。
細川家によって、400年以上大切に保管されてきました。
秀吉はこう書いています。

”この度のご不慮(信長が自刃に追い込まれた本能寺の変で)
 細川家の行動は「比類なき頼もしさ」であった”と。

そして秀吉はこう続けます。

”これからは、ごく親しい関係を結び
 表裏なく、公私とも抜かりなく協力していこう”

そこには、細川家に対する最大の感謝が伺えます。
しかも、書かれたことが真実であることを誓う、熊野神社の護符の裏紙が使われ、この誓いを破ったら、日本中の神の罰を受けてもいいとまで書かれています。

本能寺の変で、中世が終わり近世が始まる・・・国家の在り方を江戸時代につなげる転換期でした。

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愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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久しぶりの「英雄たちの選択」です。

敵は本能寺にあり!!
本能寺の変は、天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀に討たれた戦国史最大の事件です。

後世に大きな影響を与えたこの事件・・・
いろいろ憶測が・・・

①野望説
②怨恨説
③朝廷黒幕説
④足利義昭黒幕説

様々な説が唱えられています。
が、本人もいろいろ悩んでいました。
鍵となるのは・・・光秀の細やかな性格です。

謀反人というイメージが強いのですが・・・???
光秀が多数者の運命に大きな影響を与えたのは間違いありません。

滋賀県大津市1571年光秀は初めての城・・・坂本城を築きました。
その近くにある西教寺には、戦で亡くなった部下たちを弔うための寄進米をしていました。
そこには、侍大将から足軽の名前も・・・そして、名前も同じ位置に、寄進米も同じだけ・・・お供えをしている心優しいところがありました。

どうしてこんなに家臣を大切にしたのか???
光秀は美濃の名門・土岐市の流れをくむと言われています。
前半生はよく分かりませんが・・・
転々とし、15代将軍足利義昭に仕えることになりました。

同じころ・・・織田信長の目に留まり、家臣団に!!
高い教養を備えて、一流の文化人たちや公家たちと親密な光秀は京の事情にも明るかったのです。
光秀は、朝廷や公家たちとの交渉に当たり、織田家の外交官のような存在でした。
信長の期待に応えていきます。

秀吉や重臣たちを差し置いて・・・
初めての城持ち大名となったのです。
その地が坂本城でした。

光秀は、織田家の中では成り上がり・・・
外様大名・・・譜代の家臣が少ないので、自分の領地の地侍や豪族を家臣団に編成していく・・・だからこそ、気を使い大切にしたのです。
軍事面でも戦功をあげていきます。
1580年丹波を平定・・・信長から最高の称賛を受けます。
しかし、光秀は気を抜くことができません。
古参の佐久間信盛が働きが不十分だからと追放されてしまったのです。

今後の働き次第で追放されるかも???

信長の苛烈な要求にこたえていきます。

1582年・・・ついに怖れていたことが!!
光秀が信長に頭を叩かれた!!とか、足蹴にされた!!という記録が残っています。
事の発端は、光秀の重臣・斉藤利光が他の武将の家臣を引き抜こうとしたことが・・・織田家家臣の規律を乱すということで信長の怒りを買ったのです。

斎藤利三は、光秀が最も信頼していた家臣でした。
切腹は免れたものの・・・
大切な家臣の命を奪おうとした信長・・・
光秀は敵意を持ち始めたのです。

さらに・・・光秀と利光を追い込んでいく信長。。。
長宗我部元親と同盟を結び、四国の支配を認めていた信長・・・
長宗我部家と斉藤家は姻戚関係にありました。
その取次役が光秀たちだったのです。

しかし・・・長宗我部に領地の差出を命じます。
従わないと見るや討伐を決定!!
その妨げになると・・・光秀を四国担当から外してしまいました。
長年良好な関係を築いてきた光秀にとって・・・面目丸つぶれでした。

さらに・・・
中国攻めに行っていた秀吉の応援に!!
立場も危うく悪くなり、秀吉の下に・・・!!
心中穏やかならず・・・

光秀は人生の大きな岐路につき悩んでいました。

1582年5月27日、戦勝祈願で有名な京都・愛宕神社に光秀はいました。
秀吉のために、中国攻めに行く途中でした。
2度、3度くじを引き・・・何かを考えている光秀。
そこへ・・・ある情報が!!
信長がわずかな手勢で京都・本能寺に入るという・・・嫡男・信忠と一緒に!!

①千載一遇の好機??
②ひたすらに耐え、信長に従う?
③時期を待つ?

ルイス・フロイスの書によると・・・
日本の66ヶ国を治める覇者になったならば、大船団を形成し、中国を武力をもって征服する・・・
とあります。
大陸を侵攻する場合、秀吉と光秀を総大将にし、九州の大名を従え大陸侵攻を行う可能性が高かったのです。
しかし、九州の大名たちもそんなところには行きたくはない・・・
ということは、光秀に味方してくれるかもしれない。。。
当時光秀は55歳説と67歳説があり、人生50年といわれる時代に残された時間は少ない。

光秀の考えに大きな影響を与えたのは・・・斎藤利三。
斎藤利三が謀反の首謀者だという資料もあります。

信長の長宗我部討伐は6月3日に迫っていました。
利三にとっては姻戚。。。長年の付き合いがありました。
長宗我部氏の利益を守るべき???
ゆれる光秀!!
一刻の猶予もないと決断を迫る利三。

”斎藤内蔵助は四国の儀を気遣いに存ずるによって
 明智殿謀反の事いよいよさし急がれ”           by元親記

家臣団に支えられてここまで来た光秀・・・ここで立たなければ、家中の結束が乱れてしまう!!!
信長の理不尽な行為・・・首を切られる恐怖・・・

「上様を・・・討つ!!!」

1万の軍勢を連れて京都へ!!
家臣たちに真の目的を告げた時・・・

「今日より我が殿は天下様におなりになるゆえ
       下々草履取に至るまで勇み喜ぶがよい」

6月2日未明、本能寺を光秀の軍勢が襲います。

信長は蘭丸に・・・
「これは謀反か 如何なる者の企てぞ」
「明智が者と見え申し候」
「是非に及ばず。。。」

光秀ほどのものが起こした謀反なら、抜かりはないはずじたばたしても仕方がない・・・。と理解されています。

信長を討ち果たし安土城に入る光秀。
6月7日朝廷は光秀の行動を許可し、勅使をよこします。
順調に行くかに見えました。。。
そこに誤算が。。。
味方に付くと思われた畿内の大名たちが離反。
中国地方で毛利攻めを行っていた秀吉の中国大返し。
秀吉の大義名分に呼応するかのように、京に向かう間に多くの武将が味方します。
6月13日の山崎の合戦時には2万に膨れ上がっていました。

光秀軍は・・・近江や丹波などの小大名・・・。
戦力不足の中、光秀は敗れ・・・京都・小栗栖の地で絶命しました。
斎藤利三も生け捕りにされ・・・処刑されてしまったのでした。

12日間の胸中は・・・如何なるものだったのでしょう?
6月9日の細川父子に宛てた手紙が・・・
しかし、当てにしていた細川幽斎は、信長の死を悼み剃髪していました。
無欲を訴え、隠居をほのめかす手紙でした。

人柄が良いのにどうしてついてこなかったのか???
まさに乱世に向かない文化人・教養人だからこそ、武の世界では受け入れられなかったのかも知れません。
でも、信長が死んだことで・・・大量虐殺を防ぐことができていたのかも???

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