日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:斎藤道三

明智光秀って、紹介するにはいろいろエピソードがあって・・・
でも、本当のことはあまりよく知られていないという・・・なんとも難しいキャラです。
が、色々話があるのにわからないってことは、いろんな話が作れるってことで、ドラマとしては面白くなるのかもしれないですね。

mituhide













先日紹介しましたが、「麒麟がくる」では長谷川博己さんがやってくれます。

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明智光秀は、みなさんご存じだと思いますが、本能寺の変で織田信長に謀反を起こし、でも・・・根回しが不十分で誰も味方がおらず、中国大返しで意気揚々な羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、三日天下で終わる・・・あの光秀です。

後に世を治めるのが、光秀のライバルであった秀吉や家康だったので、なかなかいいところは書物として残されていないというのが現状です。
だから、光秀のことはよくわからないんだと思います。

光秀の本姓は、源氏、清和源氏の家系で、土岐氏の支流である明智氏の出身です。
糟糠の妻は熙子、子供にはあの細川ガラシャもいます。

私のイメージでは、武闘派で田舎者の多かった織田家臣団にあって、唯一の知性派だったと思います。
もちろんそこは信長も一目置く・・・というか、光秀の公家とのあれこれを最大限に利用します。
そうして、真面目で使い勝手のいい光秀・・・
だからこそ、一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。

ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

後に信長に領地を取り上げられますが・・・
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域もあるほどです。

聞けば聞くほど・・・光秀のことを知りたくなります。
大河ドラマでは、どんなふうに色付けしてくれるのか・・・とっても楽しみです。



「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

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来年の大河ドラマは、「麒麟がくる」です。
今年は歴史ものではないので、ただ単に楽しく大河ドラマを見ることにした私。
でも、「いだてん」も、楽しく見させてもらっています。

来年は、戦国時代ということで、心が躍ります~~!!
しかも、明智光秀ってことで、気になってるんです!!

主人公の明智光秀は長谷川博己さんです。

kirin















長谷川博己さんと言えば・・・

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「八重の桜」の川崎尚之助を思い出します~~!!
個人的にはちょっと華がないかなあ・・・とも思うんですが、この大河で化けてもらいましょう!!

NHKさんによると・・・

「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。

脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。
大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生にも光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。

若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る…
「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。

そして、NHKで放送されるオリジナルストーリーということになります!!

王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。
応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから
解放してくれるのは、誰なのか・・・
そして、麒麟はいつ、来るのか?
若き頃、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として
勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、
多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、
戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。
従来の価値観が崩壊し、新たな道を模索する現代の多くの日本人に向けて、
同じように未来が見えなかった16世紀の混迷の中で、
懸命に希望の光を追い求めた光秀と数多くの英傑たちの青春の志を、
エネルギッシュな群像劇として描き、
2020年、新たな時代を迎えるすべての日本人に希望と勇気の物語をお届けします。
明智光秀とはいったい何者なのか?
麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか・・・
今、すべてが、始まる──


タイトルの「麒麟(きりん)」は、王が仁のある政治を行う時に頭上に現れるとされる中国の伝説の霊獣・・・
その麒麟が明智光秀なのか・・・??
ということです。

私は信長は、外様の光秀と秀吉をとっても評価していて・・・でも、秀吉は絶対に家臣だと思っていただろうけど、光秀は自分に持っていない品格を持ち、都ともつながりがあると・・・家臣だけど一目置いていたと思います。
そんな光秀だからこそ、信長を天下人にするわけにはいかなかったのかも・・・??
今までの大河では、謀反人としての光秀が書かれてきましたが、本当の光秀・・・家族思いで、家臣思いで、領民思いという非の打ち所のない光秀がやってくるのかもしれません。

とにかく楽しみですね~~!!


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「わが敵は本能寺にあり!!」
主君を裏切った悪人??
光秀の実像はあまりよくわかっていません。
が・・・どうして主君を討つことになったのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀が味方を集めようと各地に送った書状が見つかりました。
この発見で、どうして光秀が信長を討つことになったのか??に関心が集まりました。
もともと長い間浪人生活を送っていた光秀・・・そんな彼を、一国一城の主としたのが織田信長です。
信長のもとで、光秀は裁縫をいかんなく発揮します。
朝廷との交渉、戦場での活躍・・・まさに信長の右腕といえる存在でした。
いわれたことをきっちりこなす理想的な部下・・・とんとん拍子の出世でした。
しかし、光秀は突如、信長に反旗を翻します。

怨恨説、野望説、四国説、前途悲観説、黒幕説・・・真相はいまだ闇の中・・・。

天下の謀反人の真の姿とは・・・??

京都府亀岡市・・・かつて、明智光秀の居城・亀山城がありました。
町では光秀の功績を称え、毎年祭りが行われます。
もともと農家が点在する場所に、光秀が城を築き、城下町として発展させたのです。
織田信長のもとで成功を手にした光秀・・・しかし、信長に仕え始めたのは41歳の時でした。
その年で、どうして信長を主君と仰ぐようになったのでしょうか?

光秀は戦国時代を迎えていた1528年美濃国明智城主の子として生まれました。
その後、美濃国は下剋上でのし上がった斎藤道三が治めるところとなり、土岐明智家も道三に仕えることに・・・。
ところが、光秀29歳のころ・・・
斎藤道三の息子・義龍が兵を挙げ、道三を討ったのです。
そして、道三の家臣だった明智家も攻撃を受けます。
1556年、29歳の時に明智城落城・・・光秀は城から逃れます。
以来、再び明智家を再興することが、光秀の使命となります。

光秀は主君を探し、何年も諸国を渡り歩きます。
「再び我らの領国を手にするためには、力ある主君に仕えねばならぬ。」by光秀
しかし、生活は厳しく、食事にも事欠く始末・・・

そんなある日、客人をもてなすことになって困り果てた光秀・・・。
しかし、豪華な料理が・・・!!
客人の帰った後、妻に聞くと・・・長く美しかった煕子の髪を売って客をもてなしていたのです。
光秀は生涯側室を持つことはなく、煕子を大切にしたといいます。
子宝にも恵まれ、光秀の三女は、後の細川ガラシャ・・・関ケ原の戦いの際に、人質になる事を拒み、死を選んだことで有名です。

放浪生活の末、越前の朝倉義景に仕えることに・・・
すでに戦国の世、武田信玄、上杉謙信、新興勢力の織田信長も台頭しつつありました。
ある日、光秀が仕える朝倉家に、思いもよらない人物が・・・後に室町幕府の第15代将軍となる足利義昭です。
当時の室町幕府は、有力大名に牛耳られていて、足利家に何の実権もありませんでした。
義昭は、復権を望んでいました。
そこで、昔から将軍家と関わりのあった朝倉家に支援を求めてきたのです。
この時光秀は、足利義昭の家臣・細川藤孝と出会います。
二人は意気投合し、強い信頼関係で結ばれます。
足利義昭の意向を知りながら、主人・朝倉義景はなかなか動こうとしません。
遂に光秀は、細川藤孝に切り出します。

「残念ながら、朝倉家には義昭公を京に上らせ奉るほどの武力も、気力もござりませぬ。
 もっと強い力と、果敢な意気に燃えた大名を求めねばなりませぬ。
 尾張の織田信長さまがおよろしかろう。」by光秀

光秀は、仲介役として信長の元へ・・・!!
二人が対面したのは、光秀41歳、信長35歳の時でした。
信長は光秀の申し入れを承諾します。
足利義昭を将軍に就かせ、その権威を利用しようとします。
こうして信長は、義昭を擁し、京へ上ります。
1568年、上洛
義昭は室町幕府第15代将軍に・・・!!
そして光秀は、朝倉義景のもとを去り、足利義昭と織田信長に仕えることになるのです。
両属といって、二人から禄をもらっていたのです。

信長と出会った光秀は、その後、織田家臣団のTOPに上り詰めます。
信長は光秀をこう評しています。
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」
どうして信長の信頼を勝ち得ることができたのでしょうか?

信長に仕えることになった光秀は、重要な役職に抜擢されます。
京都奉行です。
都の治安維持や朝廷や公家との交渉を行う要職です。
光秀は歌会や茶会を開いては、公家たちの要望を聞きだしていきます。
貴族は、各地に荘園を持っていましたが、応仁の乱以降、武士に侵略されたその公家や調停の荘園を取り戻す仕事もやっています。
公家と光秀は親密になっていきます。

1570年、朝倉義景討伐!!

しかし、同盟関係にあった近江の浅井長政に裏切られ挟み撃ちに・・・!!
撤退することさえ難しい、信長最大のピンチに、光秀は秀吉と共に金ヶ崎の退き口と呼ばれる武功を挙げます。
撤退する軍の殿を担い、見事撤退させたのです。
続いて信長が取り掛かったのが比叡山焼き討ちです。
当時、武装していた比叡山は、戦国大名さながらの一大勢力で、信長と対立していました。
しかし、寺院や仏像を焼き、僧侶を殺すことに家臣の多くは二の足を踏みます。
そんな中、光秀は、信長の命に忠実に従います。
光秀は、比叡山を壊滅させます。
こうした光秀の働きを、信長は評価します。
そして、比叡山に近い近江・坂本に5万石の領地を与えるのでした。
光秀はここに坂本城を築城し、念願の城を手に入れるのでした。
信長の家臣の中で、一国一城の主となった最初です。
明智城の落城から17年・・・ついに光秀は、明智家再興の悲願を達成したのでした。

信長に仕える一方で、足利義昭にも仕えていた光秀・・・しかし、厳しい選択を迫られることに・・・
将軍・義昭を飾りとしか考えない信長に不安を募らせた足利義昭が挙兵!!
光秀が選んだのは信長でした。
戦いに敗れた義昭は、京都から追放され、室町幕府は事実上の滅亡!!
室町幕府を滅ぼした信長は天下統一へ・・・!!
そして、48歳の光秀に新たな命が・・・!!
丹波攻略!!
丹波国には、堅固な山城が点在し、信長をはじめ、多くの戦国武将が攻めきれずにいました。
その丹波攻略を命じられた光秀!!
しかし、他のものの援軍も命じられ、各地を転戦します。
1576年、過労によって・・・陣中で病に倒れます。
それでも復帰を果たした光秀は、5年がかりで丹波攻略をします。
信長は光秀を絶賛!!
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」by信長
光秀は、攻略した丹波29万石を加増。
元々の5万石とで34万石の大名に!!
信長につかえて12年・・・信長の右腕となった光秀なのでした。

信長は次々と支配地域を拡大!!
1582年、最大のライバルだった武田氏を滅ぼします。
天下統一に大きく近づいた信長・・・
しかし、その数か月後、本能寺で討たれることとなるのです。

どうして光秀は、信長に反旗を翻したのでしょうか?
様々な説があります。
黒幕説も・・・
・朝廷黒幕説
天下統一目前の信長は、朝廷に対し不遜な態度をとるようになっていました。
そこで朝廷が光秀をそそのかし、信長を討つように仕向けたというものです。
・幕府黒幕説
信長に追われ毛利家に滞在していた足利義昭が、後ろで糸を引いていたと言うものです。
・秀吉黒幕説
本能寺の変の後の素早い行動は、事前に光秀の動きを知っていたからというのです。

光秀自身の決断??
・四国説
四国統一を目前にしていた長宗我部元親。
信長と同盟関係にあり、その仲を取り持ってきたのは光秀でした。
しかし、一方的に信長が元親との同盟を破棄!!
領地を差し出すように命じます。
光秀は面目丸つぶれ・・・信長は四国討伐を決意!!
本能寺の変の当日、四国征伐軍が出陣予定だったのです。
光秀がこれを阻止しようとした??
・怨恨説
ポルトガルの宣教師が人々から聞いたところによると、口答えをした光秀を、信長が足蹴にした。
この理不尽な仕打ちに恨みを抱いた・・・??
・前途悲観説
この頃信長は、息子たちなど身内を重用するようになっていました。
一方で、織田家に長年仕えてきた家老二人を、最近目立った働きがないと追放!!
そして、光秀にも信長の命令が・・・
現在の領地・近江と丹波を手放し、山陰地方(出雲・石見)に移れと言うもので・・・しかも、その二つは毛利家の領地・・・実力で奪えというものでした。
この時、光秀は55歳・・・将来への不安が心を占めます。
「人を道具としてしか見ておらぬ・・・」
・野望説
本能寺の変の4日ほど前、毛利出陣のための戦勝祈願を神社でしています。
翌日、この神社で連歌会がありました。
その時光秀が詠んだ歌は・・・
「時はいま 雨が下しる 五月かな」
時は土岐明智家、雨が下は天下、しるは治める・・・
つまり、今こそ自分が天下を治める時だ!!という解釈です。

果たして、光秀の真意は・・・??

1582年6月1日・・・
この時、信長の主だった家臣たちは京都から遠く離れたところで戦っていました。信長は、僅か100人の手勢と共に、本能寺に・・・!!
光秀は、毛利攻めをしている秀吉の援護に向かうために、夜8時ごろ、丹波・亀山を出発!!
光秀の決意を知るものは僅かな者だけ・・・

「我が敵は、本能寺にあり!!」by光秀

一万を越える軍勢が、本能寺に攻め入ります。
ただならぬ物音に起きた信長は、謀反を知ります。
「相手は、何者・・・??!!」by信長
「明智光秀にございます!!」by家臣
「是非に及ばず・・・!!」by信長

信長は自害し、亡骸は、炎に包まれたのでした。

信長を討った光秀は、天下をとろうと動き始めます。
しかし、光秀の天下は僅か11日・・・後に三日天下という言葉が生れるほど、あっけないものでした。
光秀は、何を読み違えたのでしょうか?
信長、長男・信忠を討った光秀は、安土城へと向かいます。
我こそが天下人という立場を示すためでした。
しかし、信長の家臣によって、安土城への橋が落とされます。
止む無く光秀は坂本城に戻りました。
橋の復旧には3日かかりました。
その間に、各地の大名たちに書簡を書き続けます。

「信長父子の悪逆は、天下の妨げ、討ち果たし候」

信長を討ったことを知らせるとともに、協力を要請します。
3日後、橋が復旧し、光秀は安土城に入城!!
しかし、ここでも足が止まります。
光秀は朝廷からの使者を待つことに・・・。
天下人として朝廷からのお墨付きをもらおうとしたのです。
待ちに待った勅使が来るまで、3日間待ちます。
朝廷からの公認を得た光秀。
一安心ですが・・・気がかりは書状を受け取って集まってくるはずの武将たちがなかなかやってきません。
原因は、秀吉の策略でした。
本能寺の変が起きたとき、秀吉は京都から200キロ離れた備中高松城に!!
毛利勢と睨み合っていました。
信長が討たれたことを知ると、迅速に行動に出ます。
毛利勢に信長の死が伝わらないようにし、停戦!!
そして、各地の武将に書状を送ります。
「信長さまは、無事に切り抜けられた!!」
遺体が見つかっていないことをいいことに、生きているというニセ情報を流したのです。
そして、猛スピードで京都へ・・・中国大返しです。
稀に見る強行軍で、1日で70キロの日もありました。
光秀は完全に秀吉に出遅れ、協力を得られず孤立していきます。
かつての盟友・細川藤孝にも断られてしまいました。
ガラシャを細川家に嫁がせていたのに・・・藤孝は出家をしてしまいました。

いよいよ秀吉の軍が迫ってきました。
上京の途中で兵が加わり、2倍以上になった秀吉軍!!
6月13日、山崎の戦い!!
光秀の軍1万VS秀吉3万6000以上!!
圧倒的な兵力の差に、勝負は短時間でつきました。
そして光秀は、落武者狩りをしていた農民に命を落としたのです。
享年55歳。。。

ながい放浪生活に耐えた苦労人。
家族を大切にしたよき夫。
恩をアダで返した逆臣!!

かつて光秀が治めた近江坂本にある寺には一通の書状が残っています。
光秀が戦で亡くなった家臣を弔うために供養米を収めたときのものです。
当時、部下である家臣を弔うのは、珍しい事でした。
一人一人の名前、同じ量の供養米・・・身分の分け隔てなく、家臣を平等に弔った光秀・・・
中には苗字を持たない低い身分の者もいました。
天下の謀反人といわれた男の素顔は、ようやく光が当たり始めたばかりです。


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標高329メートルの金華山山頂にそびえる岐阜城は、織田信長が天下取りの足掛かりとした城です。
しかし、その前は、稲葉山城とよばれ、その主は美濃のマムシと恐れられた戦国大名・斎藤道三でした。
一介の油商人から大名になった下剋上の代名詞です。

11年もの長きにわたった応仁の乱・・・全国を争乱の渦に巻き込んだこの戦いは、足利幕府の権威を失墜させ、守護の力を弱めてしまいました。
そんな不安定な情勢の中、実力で下のものが上のものにとって代わる下剋上の時代がやってきました。
そこに登場したのが斎藤道三です。

道三の出自ははっきりしていませんが、京の都・山城の地侍の子として1494年に生まれました。
11歳で出家して京都・妙覚寺で修業したとされています。
しかし、その傍らで軍略書を読み、兵法を勉強していました。
武士として名をあげたい・・・野心を抑えきれずに還俗!!
油商人の入り婿となり、庄五郎と名乗ると、全国を渡り歩き活躍の場を探します。
そんな中、今日に近い交通の要所・美濃国でチャンスが訪れます。
この時、美濃を治めていたのが守護・土岐政頼。
守護である政頼は、弟である頼芸と家督相続でもめていました。
政頼には守護代に美濃の斎藤家が、頼芸には重臣の長井長弘が付き、土岐家は分裂!!

大きく揺れる土岐家・・・
道三は、商売をやめて槍の猛特訓をし、槍使いの名人となり長井長弘に仕える道三。
やがて頭角を現し、出世し、ほどなく頼芸の直臣となります。
しかし、それでは満足できない道三。
狙いは美濃の国を手に入れること。
その野望を叶えるために、次々と邪魔者を排除していきます。
まず、土岐頼芸をそそのかしてクーデターを起こし、政頼と斎藤家を追放!!
その後、自分を最初に取り立ててくれた長井長弘を殺害!!
主君である頼芸までも追放!!
僅か一代で美濃を乗っ取ってしまいました。

しかし、この一大国盗り話はウソ??

「六角承禎条書」の中に・・・
「新左衛門尉 京都妙覚寺の修行僧にて、長井弥二郎に仕える」とあります。
新左衛門尉とは、斎藤道三の父のことです。
つまり、僧侶から油商人となり、長井家の家臣となったのは道三の父親の経歴でした。
多分、頼芸を担ぎ出し、政頼を追放したのは父で・・・美濃の国盗りは、道三と父との二代でのことだったのです。
道三の資料はほとんど残されていませんが、この文書が書かれたのが道三の死後の4年後なので、信憑性があります。

父の地盤を元に、国盗りに邁進していく道三。
1533年、父・新左衛門尉 死去。
家督をついだ道三の下剋上が始まりました。
最初のターゲットは、頼芸の重臣であり、自分を取り立ててくれた長井長弘!!
長弘が道三のことを疎ましく思うようになっていたのです。
というのも、頼芸が弁の立つ道三の傀儡になりつつあったので、長弘は危機感を感じていました。
道三の調略は手が込んでおり、一説には長弘に美女をあてがい遊興に溺れさせ、政務怠慢でその信用を落としていきます。
そうしたうえで道三は頼芸に、「長弘に謀反の意あり」と、讒言!!
上意討ちの許可を取り付けて殺害!!
非情にも、かつての主で恩人の首を斬ったと言われています。
長井家を乗っ取り、居城だった稲葉山城を手に入れたのです。

さらに、追放した斎藤家の名跡を継ぎ、それ以来斎藤道三と名乗るようになりました。
実質的な美濃のNo,2となった道三は、頼芸の弟・頼満を娘婿に迎えます。
姻戚関係を結ぶことで、土岐家をも乗っ取ろうとしていたのです。
しかし、婿に入った頼満は、道三の危険性を感じており、道三の排除を画策しますが、道三に気付かれてしまいました。
頼満を毒殺!!マムシの道三なのです。
そんな道三の新しい敵となったのが、尾張・織田家!!
信長の父・信秀が、稲葉山城の道三に戦を仕掛けてきました。

織田軍の兵2万VS道三の兵数千・・・。
調略に暗殺・・・邪魔者をことごとく排除してきた道三、次なる敵は織田!!
ところが、その圧倒的な状況の中・・・
織田の軍勢は稲葉山城に詰め寄り、城下を焼き払いました。
それでも、城に籠った道三に、怖気づいたか・・・と、信秀は勝利を確信し、日暮れにいったん兵を下がらせました。
道三はこの時を待っていたのです。
買ったも同然と気が緩んだ織田軍に、奇襲をかけ、僅かな兵で勝利を収めます。
一説には、織田一族、十院など、5000の兵が討死したともいわれています。
この時道三は、織田の家臣に謀反を起こさせて兵を退かせたり、調略で勝っていくという戦略化でした。
この織田家との戦いで、土岐家に代わって道三は美濃の実権を握ったのです。

1548年、織田信秀から和睦の要請が・・・。
織田家は、道三との戦で多くの犠牲者を出し、疲弊していました。
さらに、織田信秀はこの時、今川義元とも戦っていて負けていました。
同時に二つの戦いは・・・と、手を結ぼうと思ったのが道三でした。
道三は織田との和睦を受け入れ・・・娘・濃姫を信秀の息子・信長に嫁がせようとしたのです。
この時、信長15歳でした。
帝王学を学ぶために、那古屋城の城主となり、家老・平手政秀によって養育されていましたが・・・
この頃は、大うつけとして、一族、家臣、城下のものたちにまで疎まれていました。
道三は、濃姫に短刀を渡します。
「隙あらば、信長を討て!!」と。
事実はわかりませんが、マムシの道三、織田家の乗っ取りを企てていたかも・・・??

織田家と同盟を結び、盤石な備えを築いた斎藤道三は、国盗り最後の仕上げに取り掛かります。
主君・土岐頼芸を追放し、遂に念願の美濃一国を手に入れたのです。
その矢先・・・織田信秀急死。
これによって19歳だった信長が後を継ぐこととなりますが、家臣からは不満の声が・・・
織田家当主の自覚が微塵もないうつけ者・・・。

そこで、道三は会ってみることに・・・。
これは当時としては異例のことでした。

1553年4月、場所は、美濃と尾張の境にある寺でした。
道三は対面を前に、信長が通る道沿いの小屋から信長をうかがうことに・・・。
行列を率いてやってきた信長は、髪は無造作に結び、奇抜な虎皮の袴に奇抜な着物でした。
噂通りのうつけ??
尾張を手にする日も近い・・・??
しかし、供のものは・・・6mを越える長槍を装備した兵が連なっていました。
甲陽軍鑑には・・・
「信長の戦い方は、父の信秀を少しも真似ず、斎藤山城守の戦法を真似ようとしていた。」とあります。
斎藤山城守とは、道三のこと。
長槍を使った戦法は、道三が最も得意としたとされ、当時としては新しい戦法でした。
この頃の戦い方は、大将の周りには馬廻が、その周りには防御役の足軽が導入され始めていました。
しかし、足軽の武器は様々で、防御に不向きです。
そこで、彼らに長槍を持たせ、防御(槍衾)としたのです。
信長はこの道三の戦法を真似ることで、新しい時代に対応したのです。
そしてさらに・・・鉄砲隊!!
信長は、500挺近い鉄砲を携えてやってきたのです。

いよいよ対面・・・!!
対面の場に後れてやってきた道三はわが目を疑います。
信長はいつの間には髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
キチンと挨拶をする信長・・・。
平然と信長と杯を交わす道三・・・道三の目に、信長はどのように映ったのでしょうか?

「どう見ても、信長殿は阿呆でございますなぁ」by家臣
「だから無念なのだ。
 この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の家臣となるであろうよ。」by道三

道三は、このただ一度の対面で、信長がただ者ではないと気づいたのです。
既成の秩序を壊す改革者として・・・!!
この時、道三60歳、信長はまだ20歳でした。
同盟関係以上の強い絆で結ばれることとなる二人です。

翌年・・・今川義元が尾張を我が物にしようと侵攻を始めました。
これを食い止めるために出陣しようとした信長、しかし、留守中に那古屋城が攻められることは必至!!
そこで、同盟相手であり舅の道三に助けを求めます。
道三はこれに応じ、重臣・安藤守就を尾張に派遣します。
信長がこの戦に負ければ、道三は尾張を攻め、奪うつもりだったと言います。
ところが、その考えを変える出来事が・・・それは、信長の行動でした。
信長は、安藤の援軍が来ると、本拠地である那古屋城近くに陣を張らせ、那古屋城を預けたのです。
自分の本拠地の城を預ける・・・??
それは、道三との信頼関係を内外に示すためのものでした。
城を出た信長は、今川軍の砦に急いで向かいます。
最新鋭の鉄砲隊と共に信長も前線で戦い、今川軍を僅か1日で撃退!!
美濃へ戻った安藤は、他国の援軍に城を預ける信長の大胆さと、その巧みな戦いぶりの一部始終を道三に報告します。
「敵にすれば、信長ほど恐ろしい武将はおるまい・・・!!」by道三
こうして、道三は織田の領地を奪うことより、信長との関係を強固なものにする道を選んだのです。

しかし・・・これがマムシの道三の足元をすくうことに・・・!!

1554年、美濃国を手に入れてからわずか数年で、長男・義龍に家督を譲ります。
稲葉山城を離れ、鷺山城に入って隠居。
しかし、その翌年、事件が起こります。
病を装い床に臥せていた義龍が、二人の弟たちを殺害してしまいました。
義龍の謀反に道三は激怒!!
どうして息子・義龍は、道三に対して謀反を起こしたのでしょうか?

義龍の母は、道三の正室・深芳野です。
元々は、道三が追放した土岐頼芸の側室で、道三のもとに下げ渡された拝領妻でした。
一説によると、その時深芳野のお腹には頼芸の子がおり、その子が義龍だというのです。
成長して自分のことを知った義龍は、道三を恨んでいたというのですが・・・
これは創作で、別の理由がありました。
道三は、義龍に譲ったものの、ゆくゆくは次男にと思っていたのです。
義龍は、本ばかり読んでいる物静かな、道三とは正反対の息子だったからです。
道三→義龍への家督交代は、家臣たちによって強制的になされていました。
道三によって戦いに明け暮れていた美濃国内は、疲弊しきっていました。
国を治めるという面では、道三は優秀ではなかったのかもしれません。
国内には、まだまだ土岐家の勢力が残っており、その勢力をなだめるための家督交代だったのです。
ゆくゆくは次男に家督を・・・それを義龍は察していたようです。
それ以外にも、道三が信長に肩入れしているということに、義龍も不満を持っていたようです。

義龍の謀反に激怒した道三は、兵を挙げます。
長良川を挟んで対峙する両軍!!
知らせを受けた信長は、道三を助けるべく美濃へ・・・!!

1556年4月20日、長良川の戦い!!
およそ1万7000の義龍軍に対し、道三は僅か2000!!
この時点では、道三は隠居しているので、道三を支持する者はほとんどおらず、まるで道三が反乱軍のようになってしまいました。
道三危うし!!の知らせを受けた信長は急ぎ美濃へ・・・!!
しかし、その途中、義龍の別動隊に行く手を阻まれてしまいます。
突破を試みるも苦戦!!
そこへ知らせが・・・!!
斎藤道三討死!!63歳、無念の死でした。

義龍との決戦前夜、遺言状を認めていました。

「美濃国も、ついに織田信長の想いのままに任せるほかはないので、譲状を送りつかわした次第である。」

道三は、後継者に信長を指名していました。

すべては夢のようだ・・・
終の住処はどこになるのだろうか

道三は死を覚悟していました。
野心のままに非情な裏切りと謀略を繰り返し、下剋上によって一国を手に入れた・・・そんな人生を夢のようだと振り返り、そののちは安らかではないこともわかっていました。
道三の死から11年、信長は道三の遺言状を大義名分として美濃を攻め、斎藤家を倒し美濃国を手に入れます。
稲葉山城に入るとその名を岐阜城と改めました。
この時から信長は命令書に「天下布武」の印を使うようになります。
信長はこの美濃から天下統一へと歩み出したのです。

道三が託した男に間違いはなかったのです。



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岐阜県岐阜市・・・難攻不落の岐阜城の城下町です。
織田信長が天下統一を掲げた城下町。。。
四方を山に囲まれて・・・長良川の流れる城下町。
天空にそびえる白亜の城です。

gihu



















美濃を代表する戦国武将は斎藤道三、そして織田信長。
岐阜城のある金華山は、戦国時代には稲葉山城と呼ばれ、斎藤道三の居城・稲葉山城がありました。
この道三によって、城下町の基礎がきずかれましたが、1567年・・・斎藤龍興の時代に・・・
難攻不落の稲葉山城は信長の手によって攻略。
この地を平定した信長は・・・井口という地名を・・・中国の故事に習って岐阜と改めました。
斎藤道三・織田信長・・・ふたりの偉大な戦国武将の地です。

標高329mの金華山山頂にそびえる岐阜城・・・
天守閣からは、眼下に濃尾平野の絶景を望むことが出来ます。
信長は、この岐阜から天下布武を掲げ・・・野望実現に向かったのです。

今は昭和31年に再建された岐阜城ですが。。。
信長の建てた岐阜城とはどんなものだったのでしょうか?

信長の屋敷跡は、今も発掘調査が行われています。
今からおよそ440年前に、信長が築いた岐阜城・・・
金華山の麓には、信長の居城があったと言われ。。。
昭和59年から、居館発掘調査が行われています。

2013年に、この居城から発掘された瓦・・・
牡丹と菊花紋は、金箔がはられていました。
従来の定説からは、金箔は安土城が最初・・・と言われていましたが、その始まりは岐阜城からだったのです。

時は戦国時代・・・防衛よりも・・・
守りに徹する武骨な城よりも、敵方にも存在を誇示するような”見せる城”で・・・。
迎賓館としての役割・・・外交の拠点もあったようです。
楽市楽座も発祥の地で・・・信長統治下の岐阜を訪れたルイス・フロイスは・・・
「まるでバビロンの町のよう。。。」
と言い、当時は京に次ぐ繁栄を極めていました。
信長が、天下統一を果たすために築いた新感覚の城下町だったのです。

長良川沿いには・・・古い町家が残っていて・・・道三の時代から水上運送による市場があり、商業が発展していました。
岐阜団扇は室町時代から生産され、その材料は、地元の竹、美濃和紙が長良川によって運ばれてき。。。
提灯や和傘づくりも盛んに行われてきました。

金鳳山正法寺には大仏があります。

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この大仏は・・・真鍮を通して・・・主に木材や和紙で作られた日本一の乾漆像です。
奈良大仏・・・14.98m
岐阜大仏・・・13.63m
鎌倉大仏・・・11.31m
と、引けを取りません。
竹や和紙で作られた岐阜大仏は、岐阜産業の集大成とも言えます。
岐阜の城下町ならではの大仏様なのです。

1300年前から行われている古の漁法・・・
夏の風物詩は、長良川の鵜飼い・・・古事記にも描かれている伝統の漁法です。
江戸時代は、尾張藩の保護によって娯楽へと発展していきます。
松尾芭蕉は・・・
「おもしろうて
 やがてかなしき
       鵜船かな」
と、詠んでいます。

この句は、当時の鵜飼の姿を伝えています。

戦国の梟雄達が自らの野望を実現する為に争った岐阜・・・
しかし、それは、長い歴史の中の一コマなのです。

人々は、いつまでも変わらない長良川と金華山に誇りを持っている・・・
そんな城下町でした。

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