戦後20年・・・日本は大量生産、大量消費、そして核家族化の時代へ・・・!!
多くのものが転換期を迎えていました。
1968年12月10日・・・日本犯罪史に残る事件が起こりました。
場所は、東京府中刑務所前!!
3億円・・・現在の価値にすると20億円!!
3億円は、輸送車ごと盗まれてしまいました。
奇抜で大胆な犯行・・・残された手掛かりが多かったことからすぐに解決すると楽観視されていました。
ところが・・・捜査は難航。
1975年12月10日に時効が成立します。
日本の犯罪史上、最も有名な大事件は未解決となってしまいました。
1968年12月10日午前9時15分。
その日はバケツをひっくり返したような季節外れの豪雨でした。
そんな中、一台の現金輸送車が、日本信託銀行国分寺支店を後にします。
車種は黒色のセドリック。
積んでいたのはジュラルミンケース3個、中には東芝府中工場の従業員4523人分の冬のボーナス・・・
2億9430万7500円が入っていました。
当時、給料やボーナスは、振り込みではなく手渡しでした。
工場まではわずか3.5キロ。
現金輸送のため乗っていたのは、4人の銀行員でした。
車は国分寺街道を府中方面に南下。
交差点を右折して、学園通りに入り、200mほど走ると府中刑務所のコンクリートの壁が見えてきました。
目的地まで数百メートル・・・
その時、後方から追ってきた白バイが車を止めるよう指示してきました。
そして白バイ警官は・・・
「日本信託銀行の車ですね、
巣鴨の支店長宅が爆破されました
この車にもダイナマイトが仕掛けられていると連絡を受けています
調べさせてください」
そう言って、銀行員たちを下ろさせると、白バイ警官は、車を調べ始めます。
そして・・・
「爆発するぞ、逃げろ!!」
ダイナマイト発見!!
銀行員たちはすぐに避難します。
白バイ警官は、自ら車に乗り込み、走り去りました。
この間、わずか3分!!
勇敢な警官・・・ところが、爆発しない・・・!!
恐る恐る近づいてみると、ダイナマイトだと思っていたもの発煙筒でした。
こうして、3億円が奪われたのです。
犯行現場に残された白バイ・・・よくよく見れば、車種は当時警察車両には採用されていなかったヤマハスポーツ350R1。
偽物の白バイでした。
さらに、バイクのボディーカバーを引きずったまま走っていました。
偽白バイを使った偽警官の犯行でした。
どうして銀行員たちは騙されてしまったのでしょうか?
それは確証バイアス・・・
先入観に基づき他人を観察し、自分に都合の良い情報だけを集めて死に先入観を補強するというものです。
白バイに乗っている人=警察官
が大きく影響しています。
「警察官ではないのではないか?」という疑問は「確証バイアス」によって打ち消されてしまうのです。
疑う余地もなかったのです。
大金を運び大雨・・・不安感が煽られる状況が出来ていました。
人は、緊張が高まり、不安が煽られると極端に視野が狭くなります。
これらは、正常性バイアスというもので、人間が自分の精神をストレスから守るために、不都合な情報を無視したり、過小評価したりすることです。
12月6日・・・事件発生の4日前・・・
日本信託銀行国分寺支店長宛に、京は言う城が届いていました。
現金300万円を要求、従わなければ支店長宅を爆破する!!
犯人は、事前に脅迫状を送ることで、銀行が狙われている、爆弾が仕掛けられている、という意識と恐怖を植え付けていたのです。
午前9時44分・・・
銀行から現金輸送車が襲われたという通報を受けた警視庁は、緊急配備を発令。
都内900カ所で検問態勢が敷かれましたが、現金輸送車の黒のセドリックは見つかりませんでした。
午前10時18分・・・
奪われた現金輸送車が発見されたのは、事件発生から50分後・・・
犯行現場から直線距離で600m、武蔵国分寺跡の藪の中にあったのです。
しかし、車の中にジュラルミンケースはなく、近くには他の車のタイヤ痕がありました。
犯人は、あらかじめ逃走用の車を用意して置き、犯行直後、それに乗り換えて逃走。
その為、検問の網にかからなかったのです。
こうして警察は、犯人の足取りを失ってしまいました。
犯行現場に残されたのは、白バイに似せて白く塗られたバイク
工具の書類箱はガムテープで止められたクッキー缶でした。
トランジスタメガホンも、市販品を白く塗装したものでした。
白バイが引きずっていたボディーカバー、そしてそのボディーカバーの中にあった犯人のものと思われるハンチング帽が見つかりました。
さらに・・・110番通報が相次ぎました。
その中で、有力証言が出てきました。
証言したのは、現金輸送車が乗り捨てられていた第2現場近くに自宅のあった高校生でした。
「藪の中にカローラが置いてあったのを見ました
1968年型のトヨタカローラデラックスです
色はたばこのピース色で、バックシートはベージュ、薄い地色に白の花柄のシートカバーがかかっていました」
この目撃証言により、逃走車の概要が浮かび上がりましたが・・・
既に事件発生から4時間が経過していました。
12月10日午後6時ごろ・・・
犯行現場近くの派出所に、近所の主婦がやってきて、「変な車が置いたままになっているんです」と伝えました。
場所は、国分寺街道と学園通りが交差する場所からほど近い空き地・・・
乗り捨てられていたのは、緑色のカローラでした。
エンジンをかけたまま放置されており、ワイパーも動きっぱなし、助手席の窓も開いていました。
そして、捜査の結果、事件発生10日前に盗難の届け出がありました。
逃走車発見か??
しかし、高校生の証言によれば、逃走車は紺色・・・??
捜査員たちの懸命な聞き込みによって、重大な事実がわかりました。
緑色のカローラが止まっていた第3現場に、事件当日の朝、シートに覆われたオートバイがエンジンをかけたまま駐車されていたというのです。
目撃者は10人以上・・・
駐車していた時間は、午前6時から9時10分までの間・・・
捜査本部は、事件当日の犯人の動きをこう推測します。
犯行に使用された車両は3台
改造した白バイと2台のカローラ
そのうちの1台・緑色のカローラは、現金輸送車を監視するために使用したと考えられる
つまり、犯人は、レインコートを着てハンチング帽をかぶり、銀行から出る現金輸送車を監視、緑色のカローラはこのために使用したのです。
現金輸送車が銀行を出ると、その前に車をつけ監視しつつ先行。
そして、わき道に入って空き地に車を止めると、そこでハンチング帽とレインコートを脱ぎ捨て、用意しておいた白バイに乗り換えます。
そうして、白バイで現金輸送車に追いつき、犯行を実行。
現金輸送車を奪い、走り去ると第2現場にあらかじめ擁して置いた紺色のカローラに、ジュラルミンケースごと3億円を移し、逃走したというのです。
ジュラルミンケースの重さはひとつ29.4kg・・・
中に入っていたお札は、
1万円札・・・・27,369枚
5000円札・・・・2,161枚
1000円札・・・・8,785枚
500円札・・・・2,191枚
合計40,506枚・・・想定外の事態が起こった時に備え、通常ならば仕分けが終わったのちに札番号の範囲が印刷された帯封を専用の箱にまとめていれておき、1週間は捨てずにおいておくことになっていました。
ところがこの事件の前日に限って、専用の箱に残っていたのは、500円札2千枚分の帯封しか保管されていませんでした。
つまり、残りの番号の控えがなかったのです。
犯人が使っても足がつかない・・・
それでも捜査員たちは、当時は事件解決を楽観視していました。
多数の目撃証言と、数々の遺留品があったからです。
3億円事件の犯人は、多くの遺留品を残していきました。
・偽の白バイ
・発煙筒
・監視用の車
・犯人が送った脅迫状
実は日本信託銀行以外にも、事件発生半年前から近隣の農協に同一犯と思われる脅迫状が送られていました。
脅迫状の筆跡は、重要な手掛かりです。
さらに、切手についていた唾液から、犯人の血液型がB型と判明。
最終的には、150点となった遺留品を前に、捜査員たちは楽観ムード・・・
しかし、捜査は難航します。
当時の日本は、朝鮮戦争の特需を受けたいざなぎ景気から続く高度経済成長期で、大量生産、大量消費の時代に突入していました。
大量に作られた生産ルートをたどっても、購入した人までたどり着けないのです。
結局、終わってみたらどこからも手掛かりが得られなかったのです。
その見通しの甘さが、事件を迷宮へといざないました。
犯人捜査で数々のミスを犯すのです。
①ハンチング帽
偽の白バイが引きずっていたボディーカバーから発見されたハンチング帽。
毛髪や汗が付着していれば、有力な物的証拠となるはずでした。
ところが、あろうことか詳細に調べる前に捜査員がふざけてかぶってしまい、証拠能力が失われたのです。
②紙幣ナンバーの公表
捜査本部は、事件当日に奪われた500円札、2千枚の紙幣ナンバーを公表。
犯人はこの紙幣を利用すれば足がつくと踏んだのですが・・・
捜査本部は、みすみす敵に捕まらないための情報を与えてしまいました。
実際、公表された500円札は、現在まで1枚も見つかっていません。
③思い込みと直感頼り
捜査員たちが血眼になって探し続けたものがありました。
犯人が逃走に使用した車でした。
目撃証言から車種は紺色のカローラ。
盗難車でナンバーは”多摩5 ろ 35-19”であることまで突き詰めました。
ナンバーの語呂合わせから、”多摩五郎”と呼ばれた車の発見こそが、捜査の行き詰まりを打破してくれると捜査本部は考えます。
そして、逃走車の走った方角と地理的条件から、隠し場所として目をつけたのが、府中市にある広大な多磨霊園でした。
多摩地区・・・西多摩・旧北多摩・旧南多摩の三つの多摩郡・・・
三億円事件犯人は、ここに土地勘のある人物とされました。
犯人の土地勘が「三多摩」にあるからといって三多摩に車を乗り捨てるかというと・・・ぎゃくにアシがついてしまう・・・
結局多磨霊園からは逃走車は発見されませんでした。
時間と労力を無駄にしただけでした。
④曖昧な証言
現金輸送車に乗っていた4人の銀行員・・・
犯人と直接接触した唯一の目撃者でした。
そこで、捜査本部はすぐに事情聴衆を行います。
しかし、ここでもミスを犯します。
4人合同で調書を取ったのです。
4人そろった方が、記憶を呼び戻せるのではないか??という考えもありました。
「あの人がそういうんだからそれに合わせよう・・・」
証言力として弱まってしまったのです。
1968年は、「刑事警察」が「近代警察」へとなっていく端境期でした。
当時の検挙率がずっと右下がりに落ちていました。
ところが、世の中全体は豊かになり・・・時代の変化に捜査力がついていかなかったのです。
三億円事件以前、犯罪捜査は絵の上手い捜査官が似顔絵を描いていました。
犯人を割り出すため、三億円事件の捜査では、似顔絵ではなく、当時の最新技術が導入・・・
モンタージュ(組み立て)写真です。
ここでも捜査本部はミスを犯すのです。
モンタージュ写真作成のため呼ばれた銀行員4人・・・
しかし、事件当日は土砂降りで、運転手は10㎝開けた窓越しに見ただけ。。。
さらに、犯人はヘルメットをかぶり、顔もマスクでほとんど隠れて銀行員たちの記憶はあいまいでした。
それでも、事件の早期解決にはモンタージュ写真が不可欠だとして、捜査本部は作成を強行したのです。
三億円を奪われた銀行員4人には、批判の目が注がれていました。
そのうえ、犯人のことを覚えていないとは・・・
ハッキリ見ていない銀行員も、印象を証言してしまっていました。
記憶が曖昧だったうえに、混乱した状況のまま写真を選ばせたのです。
出来上がったのが、有名なモンタージュ写真です。
しかも、この写真、捜査員たちにはある意図がありました。
モンタージュ作成者も、その容疑者に一致する顔を作りたいと思ってしまう・・・
捜査本部には、作る前から想定していた顔がありました。
それが”少年S”・・・
Sは、事件発生直後から捜査線上に上がっていた19歳の立川の非行少年グループのリーダー格でした。
父が警察官で白バイ隊員・・・
少年Sが、お札のようなものを燃やしていたという近所からの情報もありました。
しかも、お札らしきものを燃やしていたのは、盗まれた500円札の番号が公表された翌日。
証拠隠滅のために違いないと、捜査員たちは色めき立ちます。
しかし、接触しようとした矢先、少年Sが服毒自殺してしまいました。
自殺した少年Sをホンボシだと睨んでいた捜査本部は、彼に似たモンタージュを作ったというのです。
これを全国に配布、街の至る所に張られました。
効果は絶大、多いときは1日1800件以上の情報が寄せられたのです。
しかし・・・モンタージュ写真に沿った情報しか入らなくなりました。
「ところでその方は、モンタージュ写真の白バイ警官に似てますか?」
似ていなければ、そこではじかれてしまいました。
それは、失敗する捜査の典型的失策でした。
曖昧な記憶と容疑者ありきでつくったモンタージュ写真は、かえって操作を混乱させてしまいました。
事件発生から4か月後・・・逃走用車両「多摩五郎」発見。
発見されたのは、犯行現場からわずか4キロにあった小金井市の公営団地の駐車場でした。
誰にも気づかれず、4カ月もの間放置されていました。
車内に放置されたからのジュラルミンケース・・・なにより、捜査員たちを愕然とさせたのは、血眼になって探していた多摩五郎が事件翌日からここにあったということ。
この頃、多摩地区はベッドタウン化し、人口が爆発的に増加していました。
変わりゆく東京・・・団地という集合住宅が生んだ無関心さ・・・
事件は知らぬ間の時代の落とし穴に落ちていたのです。
事件現場から目と鼻の先にあったにもかかわらず、4カ月も見つけられなかったことは、捜査員の士気を下げました。
1969年4月、膠着した現状を打破すべく、捜査の神様と呼ばれた伝説の刑事を呼び寄せました。
平塚八兵衛です。
関わった事件100件、うち未解決はたった2件でした。
迷宮入りと言われた「吉展ちゃん事件」を解決に導いた男です。
エース平塚が投入されたことで、犯人逮捕の期待は膨らみました。
平塚は独自の捜査で、いまだ多くの捜査員たちがホンボシと睨んでいた自殺した少年Sを「シロ」と断定。
その根拠は、
脅迫状の切手から判明した血液型はB型で、A型だった少年Sの血液型と異なっていたこと。
脅迫状に書かれた文字と、少年Sの筆跡が異なっていたこと
脅迫状の投函された当時、少年Sは少年鑑別所にいたこと
そして・・・捜査員たちに
「この犯人のモンタは忘れてもらいたい
物こそがモノを言う!!」by平塚
平塚の指揮のもと、遺留品の洗い直しが始まりました。
1970年12月末・・・そして、事件から2年
偽白バイに取りつけられていたトランジスタ・メガホンから小さな紙片が発見されたのです。
トランジスタ・メガホンを白く塗装する際、新聞紙が付着したものと考えられます。
解析した警視庁科学検査所は、「菱形文様」を検出。
新聞の地紋と推測します。
地紋とは、見出しの文字を浮き出させるためのベース紋様のこと・・・
新聞社ごとに異なっていました。
平塚たちは、2年前からの各新聞社を取り寄せ、一致するものを探します。
気の遠くなるような地道な作業でした。
そして、ついにそれが、事件4日前のサンケイ新聞の朝刊だと判明。
配達地域も判明・・・多摩地区で数千部配達されたものでした。
捜査員たちはすぐに販売店を訪ねます。
しかし・・・事件から3年。
すでに販売店の順路表は破棄されており、犯人にたどり着くことはできませんでした。
遅すぎました。
その後も捜査は懸命に続けられました。
取り調べられた容疑者11万人以上。
1969年11月、そんな中、別件逮捕の下、青年をホンボシとして逮捕。
しかし、アリバイが成立して翌日釈放。
7年後には自殺した少年Sと同じグループにいた青年を勾留・尋問するも、決め手に欠け、頑なな拒否によって逮捕に至らず。
浮かんでは消える容疑者・・・迷走する捜査。
そして、伝説の刑事も現場を去りました。
「俺が退職する直前の今年、三億円事件に絡んで洗った人間は11万7235人に上った
これだけの数をこなしているのにもかかわらず、捕まんないというのは、捜査にどこか欠点があったんじゃねえか
俺も反省しているよ」
その9か月後・・・1975年12月10日、午前0時。
事件発生から7年・・・三億円事件は時効を迎えます。
投入された捜査員17万1520人、捜査日数2,555日、捜査費用約10億円。
多すぎる物証が、捜査に楽観的な味方を与え、ミスを量産してしまいました。
迷宮入りした三億円事件・・・
この事件以降、多くの会社が給料を口座振り込みに切り替えたり、訓練の積んだ警備員による現金輸送警護が増えたといいます。
盗まれた三億円は・・・そして、犯人は今どこに・・・
その真相は、いまだ闇の中です。
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多くのものが転換期を迎えていました。
1968年12月10日・・・日本犯罪史に残る事件が起こりました。
場所は、東京府中刑務所前!!
3億円・・・現在の価値にすると20億円!!
3億円は、輸送車ごと盗まれてしまいました。
奇抜で大胆な犯行・・・残された手掛かりが多かったことからすぐに解決すると楽観視されていました。
ところが・・・捜査は難航。
1975年12月10日に時効が成立します。
日本の犯罪史上、最も有名な大事件は未解決となってしまいました。
1968年12月10日午前9時15分。
その日はバケツをひっくり返したような季節外れの豪雨でした。
そんな中、一台の現金輸送車が、日本信託銀行国分寺支店を後にします。
車種は黒色のセドリック。
積んでいたのはジュラルミンケース3個、中には東芝府中工場の従業員4523人分の冬のボーナス・・・
2億9430万7500円が入っていました。
当時、給料やボーナスは、振り込みではなく手渡しでした。
工場まではわずか3.5キロ。
現金輸送のため乗っていたのは、4人の銀行員でした。
車は国分寺街道を府中方面に南下。
交差点を右折して、学園通りに入り、200mほど走ると府中刑務所のコンクリートの壁が見えてきました。
目的地まで数百メートル・・・
その時、後方から追ってきた白バイが車を止めるよう指示してきました。
そして白バイ警官は・・・
「日本信託銀行の車ですね、
巣鴨の支店長宅が爆破されました
この車にもダイナマイトが仕掛けられていると連絡を受けています
調べさせてください」
そう言って、銀行員たちを下ろさせると、白バイ警官は、車を調べ始めます。
そして・・・
「爆発するぞ、逃げろ!!」
ダイナマイト発見!!
銀行員たちはすぐに避難します。
白バイ警官は、自ら車に乗り込み、走り去りました。
この間、わずか3分!!
勇敢な警官・・・ところが、爆発しない・・・!!
恐る恐る近づいてみると、ダイナマイトだと思っていたもの発煙筒でした。
こうして、3億円が奪われたのです。
犯行現場に残された白バイ・・・よくよく見れば、車種は当時警察車両には採用されていなかったヤマハスポーツ350R1。
偽物の白バイでした。
さらに、バイクのボディーカバーを引きずったまま走っていました。
偽白バイを使った偽警官の犯行でした。
どうして銀行員たちは騙されてしまったのでしょうか?
それは確証バイアス・・・
先入観に基づき他人を観察し、自分に都合の良い情報だけを集めて死に先入観を補強するというものです。
白バイに乗っている人=警察官
が大きく影響しています。
「警察官ではないのではないか?」という疑問は「確証バイアス」によって打ち消されてしまうのです。
疑う余地もなかったのです。
大金を運び大雨・・・不安感が煽られる状況が出来ていました。
人は、緊張が高まり、不安が煽られると極端に視野が狭くなります。
これらは、正常性バイアスというもので、人間が自分の精神をストレスから守るために、不都合な情報を無視したり、過小評価したりすることです。
12月6日・・・事件発生の4日前・・・
日本信託銀行国分寺支店長宛に、京は言う城が届いていました。
現金300万円を要求、従わなければ支店長宅を爆破する!!
犯人は、事前に脅迫状を送ることで、銀行が狙われている、爆弾が仕掛けられている、という意識と恐怖を植え付けていたのです。
午前9時44分・・・
銀行から現金輸送車が襲われたという通報を受けた警視庁は、緊急配備を発令。
都内900カ所で検問態勢が敷かれましたが、現金輸送車の黒のセドリックは見つかりませんでした。
午前10時18分・・・
奪われた現金輸送車が発見されたのは、事件発生から50分後・・・
犯行現場から直線距離で600m、武蔵国分寺跡の藪の中にあったのです。
しかし、車の中にジュラルミンケースはなく、近くには他の車のタイヤ痕がありました。
犯人は、あらかじめ逃走用の車を用意して置き、犯行直後、それに乗り換えて逃走。
その為、検問の網にかからなかったのです。
こうして警察は、犯人の足取りを失ってしまいました。
犯行現場に残されたのは、白バイに似せて白く塗られたバイク
工具の書類箱はガムテープで止められたクッキー缶でした。
トランジスタメガホンも、市販品を白く塗装したものでした。
白バイが引きずっていたボディーカバー、そしてそのボディーカバーの中にあった犯人のものと思われるハンチング帽が見つかりました。
さらに・・・110番通報が相次ぎました。
その中で、有力証言が出てきました。
証言したのは、現金輸送車が乗り捨てられていた第2現場近くに自宅のあった高校生でした。
「藪の中にカローラが置いてあったのを見ました
1968年型のトヨタカローラデラックスです
色はたばこのピース色で、バックシートはベージュ、薄い地色に白の花柄のシートカバーがかかっていました」
この目撃証言により、逃走車の概要が浮かび上がりましたが・・・
既に事件発生から4時間が経過していました。
12月10日午後6時ごろ・・・
犯行現場近くの派出所に、近所の主婦がやってきて、「変な車が置いたままになっているんです」と伝えました。
場所は、国分寺街道と学園通りが交差する場所からほど近い空き地・・・
乗り捨てられていたのは、緑色のカローラでした。
エンジンをかけたまま放置されており、ワイパーも動きっぱなし、助手席の窓も開いていました。
そして、捜査の結果、事件発生10日前に盗難の届け出がありました。
逃走車発見か??
しかし、高校生の証言によれば、逃走車は紺色・・・??
捜査員たちの懸命な聞き込みによって、重大な事実がわかりました。
緑色のカローラが止まっていた第3現場に、事件当日の朝、シートに覆われたオートバイがエンジンをかけたまま駐車されていたというのです。
目撃者は10人以上・・・
駐車していた時間は、午前6時から9時10分までの間・・・
捜査本部は、事件当日の犯人の動きをこう推測します。
犯行に使用された車両は3台
改造した白バイと2台のカローラ
そのうちの1台・緑色のカローラは、現金輸送車を監視するために使用したと考えられる
つまり、犯人は、レインコートを着てハンチング帽をかぶり、銀行から出る現金輸送車を監視、緑色のカローラはこのために使用したのです。
現金輸送車が銀行を出ると、その前に車をつけ監視しつつ先行。
そして、わき道に入って空き地に車を止めると、そこでハンチング帽とレインコートを脱ぎ捨て、用意しておいた白バイに乗り換えます。
そうして、白バイで現金輸送車に追いつき、犯行を実行。
現金輸送車を奪い、走り去ると第2現場にあらかじめ擁して置いた紺色のカローラに、ジュラルミンケースごと3億円を移し、逃走したというのです。
ジュラルミンケースの重さはひとつ29.4kg・・・
中に入っていたお札は、
1万円札・・・・27,369枚
5000円札・・・・2,161枚
1000円札・・・・8,785枚
500円札・・・・2,191枚
合計40,506枚・・・想定外の事態が起こった時に備え、通常ならば仕分けが終わったのちに札番号の範囲が印刷された帯封を専用の箱にまとめていれておき、1週間は捨てずにおいておくことになっていました。
ところがこの事件の前日に限って、専用の箱に残っていたのは、500円札2千枚分の帯封しか保管されていませんでした。
つまり、残りの番号の控えがなかったのです。
犯人が使っても足がつかない・・・
それでも捜査員たちは、当時は事件解決を楽観視していました。
多数の目撃証言と、数々の遺留品があったからです。
3億円事件の犯人は、多くの遺留品を残していきました。
・偽の白バイ
・発煙筒
・監視用の車
・犯人が送った脅迫状
実は日本信託銀行以外にも、事件発生半年前から近隣の農協に同一犯と思われる脅迫状が送られていました。
脅迫状の筆跡は、重要な手掛かりです。
さらに、切手についていた唾液から、犯人の血液型がB型と判明。
最終的には、150点となった遺留品を前に、捜査員たちは楽観ムード・・・
しかし、捜査は難航します。
当時の日本は、朝鮮戦争の特需を受けたいざなぎ景気から続く高度経済成長期で、大量生産、大量消費の時代に突入していました。
大量に作られた生産ルートをたどっても、購入した人までたどり着けないのです。
結局、終わってみたらどこからも手掛かりが得られなかったのです。
その見通しの甘さが、事件を迷宮へといざないました。
犯人捜査で数々のミスを犯すのです。
①ハンチング帽
偽の白バイが引きずっていたボディーカバーから発見されたハンチング帽。
毛髪や汗が付着していれば、有力な物的証拠となるはずでした。
ところが、あろうことか詳細に調べる前に捜査員がふざけてかぶってしまい、証拠能力が失われたのです。
②紙幣ナンバーの公表
捜査本部は、事件当日に奪われた500円札、2千枚の紙幣ナンバーを公表。
犯人はこの紙幣を利用すれば足がつくと踏んだのですが・・・
捜査本部は、みすみす敵に捕まらないための情報を与えてしまいました。
実際、公表された500円札は、現在まで1枚も見つかっていません。
③思い込みと直感頼り
捜査員たちが血眼になって探し続けたものがありました。
犯人が逃走に使用した車でした。
目撃証言から車種は紺色のカローラ。
盗難車でナンバーは”多摩5 ろ 35-19”であることまで突き詰めました。
ナンバーの語呂合わせから、”多摩五郎”と呼ばれた車の発見こそが、捜査の行き詰まりを打破してくれると捜査本部は考えます。
そして、逃走車の走った方角と地理的条件から、隠し場所として目をつけたのが、府中市にある広大な多磨霊園でした。
多摩地区・・・西多摩・旧北多摩・旧南多摩の三つの多摩郡・・・
三億円事件犯人は、ここに土地勘のある人物とされました。
犯人の土地勘が「三多摩」にあるからといって三多摩に車を乗り捨てるかというと・・・ぎゃくにアシがついてしまう・・・
結局多磨霊園からは逃走車は発見されませんでした。
時間と労力を無駄にしただけでした。
④曖昧な証言
現金輸送車に乗っていた4人の銀行員・・・
犯人と直接接触した唯一の目撃者でした。
そこで、捜査本部はすぐに事情聴衆を行います。
しかし、ここでもミスを犯します。
4人合同で調書を取ったのです。
4人そろった方が、記憶を呼び戻せるのではないか??という考えもありました。
「あの人がそういうんだからそれに合わせよう・・・」
証言力として弱まってしまったのです。
1968年は、「刑事警察」が「近代警察」へとなっていく端境期でした。
当時の検挙率がずっと右下がりに落ちていました。
ところが、世の中全体は豊かになり・・・時代の変化に捜査力がついていかなかったのです。
三億円事件以前、犯罪捜査は絵の上手い捜査官が似顔絵を描いていました。
犯人を割り出すため、三億円事件の捜査では、似顔絵ではなく、当時の最新技術が導入・・・
モンタージュ(組み立て)写真です。
ここでも捜査本部はミスを犯すのです。
モンタージュ写真作成のため呼ばれた銀行員4人・・・
しかし、事件当日は土砂降りで、運転手は10㎝開けた窓越しに見ただけ。。。
さらに、犯人はヘルメットをかぶり、顔もマスクでほとんど隠れて銀行員たちの記憶はあいまいでした。
それでも、事件の早期解決にはモンタージュ写真が不可欠だとして、捜査本部は作成を強行したのです。
三億円を奪われた銀行員4人には、批判の目が注がれていました。
そのうえ、犯人のことを覚えていないとは・・・
ハッキリ見ていない銀行員も、印象を証言してしまっていました。
記憶が曖昧だったうえに、混乱した状況のまま写真を選ばせたのです。
出来上がったのが、有名なモンタージュ写真です。
しかも、この写真、捜査員たちにはある意図がありました。
モンタージュ作成者も、その容疑者に一致する顔を作りたいと思ってしまう・・・
捜査本部には、作る前から想定していた顔がありました。
それが”少年S”・・・
Sは、事件発生直後から捜査線上に上がっていた19歳の立川の非行少年グループのリーダー格でした。
父が警察官で白バイ隊員・・・
少年Sが、お札のようなものを燃やしていたという近所からの情報もありました。
しかも、お札らしきものを燃やしていたのは、盗まれた500円札の番号が公表された翌日。
証拠隠滅のために違いないと、捜査員たちは色めき立ちます。
しかし、接触しようとした矢先、少年Sが服毒自殺してしまいました。
自殺した少年Sをホンボシだと睨んでいた捜査本部は、彼に似たモンタージュを作ったというのです。
これを全国に配布、街の至る所に張られました。
効果は絶大、多いときは1日1800件以上の情報が寄せられたのです。
しかし・・・モンタージュ写真に沿った情報しか入らなくなりました。
「ところでその方は、モンタージュ写真の白バイ警官に似てますか?」
似ていなければ、そこではじかれてしまいました。
それは、失敗する捜査の典型的失策でした。
曖昧な記憶と容疑者ありきでつくったモンタージュ写真は、かえって操作を混乱させてしまいました。
事件発生から4か月後・・・逃走用車両「多摩五郎」発見。
発見されたのは、犯行現場からわずか4キロにあった小金井市の公営団地の駐車場でした。
誰にも気づかれず、4カ月もの間放置されていました。
車内に放置されたからのジュラルミンケース・・・なにより、捜査員たちを愕然とさせたのは、血眼になって探していた多摩五郎が事件翌日からここにあったということ。
この頃、多摩地区はベッドタウン化し、人口が爆発的に増加していました。
変わりゆく東京・・・団地という集合住宅が生んだ無関心さ・・・
事件は知らぬ間の時代の落とし穴に落ちていたのです。
事件現場から目と鼻の先にあったにもかかわらず、4カ月も見つけられなかったことは、捜査員の士気を下げました。
1969年4月、膠着した現状を打破すべく、捜査の神様と呼ばれた伝説の刑事を呼び寄せました。
平塚八兵衛です。
関わった事件100件、うち未解決はたった2件でした。
迷宮入りと言われた「吉展ちゃん事件」を解決に導いた男です。
エース平塚が投入されたことで、犯人逮捕の期待は膨らみました。
平塚は独自の捜査で、いまだ多くの捜査員たちがホンボシと睨んでいた自殺した少年Sを「シロ」と断定。
その根拠は、
脅迫状の切手から判明した血液型はB型で、A型だった少年Sの血液型と異なっていたこと。
脅迫状に書かれた文字と、少年Sの筆跡が異なっていたこと
脅迫状の投函された当時、少年Sは少年鑑別所にいたこと
そして・・・捜査員たちに
「この犯人のモンタは忘れてもらいたい
物こそがモノを言う!!」by平塚
平塚の指揮のもと、遺留品の洗い直しが始まりました。
1970年12月末・・・そして、事件から2年
偽白バイに取りつけられていたトランジスタ・メガホンから小さな紙片が発見されたのです。
トランジスタ・メガホンを白く塗装する際、新聞紙が付着したものと考えられます。
解析した警視庁科学検査所は、「菱形文様」を検出。
新聞の地紋と推測します。
地紋とは、見出しの文字を浮き出させるためのベース紋様のこと・・・
新聞社ごとに異なっていました。
平塚たちは、2年前からの各新聞社を取り寄せ、一致するものを探します。
気の遠くなるような地道な作業でした。
そして、ついにそれが、事件4日前のサンケイ新聞の朝刊だと判明。
配達地域も判明・・・多摩地区で数千部配達されたものでした。
捜査員たちはすぐに販売店を訪ねます。
しかし・・・事件から3年。
すでに販売店の順路表は破棄されており、犯人にたどり着くことはできませんでした。
遅すぎました。
その後も捜査は懸命に続けられました。
取り調べられた容疑者11万人以上。
1969年11月、そんな中、別件逮捕の下、青年をホンボシとして逮捕。
しかし、アリバイが成立して翌日釈放。
7年後には自殺した少年Sと同じグループにいた青年を勾留・尋問するも、決め手に欠け、頑なな拒否によって逮捕に至らず。
浮かんでは消える容疑者・・・迷走する捜査。
そして、伝説の刑事も現場を去りました。
「俺が退職する直前の今年、三億円事件に絡んで洗った人間は11万7235人に上った
これだけの数をこなしているのにもかかわらず、捕まんないというのは、捜査にどこか欠点があったんじゃねえか
俺も反省しているよ」
その9か月後・・・1975年12月10日、午前0時。
事件発生から7年・・・三億円事件は時効を迎えます。
投入された捜査員17万1520人、捜査日数2,555日、捜査費用約10億円。
多すぎる物証が、捜査に楽観的な味方を与え、ミスを量産してしまいました。
迷宮入りした三億円事件・・・
この事件以降、多くの会社が給料を口座振り込みに切り替えたり、訓練の積んだ警備員による現金輸送警護が増えたといいます。
盗まれた三億円は・・・そして、犯人は今どこに・・・
その真相は、いまだ闇の中です。
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