日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:日米修好通商条約

幕末、残り火燃ゆ 桜田門外変後の水戸藩と天狗党の変 (歴研選書)[本/雑誌] / 入野清/著

価格:2,160円
(2017/5/16 05:45時点)
感想(0件)



1860年3月3日・・・風雲急を告げる幕末・・・。
季節外れの雪が舞う江戸城桜田門で、大老・井伊直弼が暗殺されました。
実行犯は、水戸脱藩浪士たち!!
そしてその4年後・・・水戸藩の志士たちが再び事件を起こします。
1864年天狗党の乱!!
首謀者は23歳の藤田小四郎!!

1854年3月3日・・・江戸幕府はアメリカの圧力に屈し、日米和親条約締結。
下田と函館の港を開きました。
215年続いた鎖国体制は崩壊し・・・日米修好通商条約も締結。
横浜や神戸・新潟・長崎なども開港することに・・・。
そんな弱腰外交は批判の的となり、幕府の権威は失墜し、尊王攘夷が声高に叫ばれるようになりました。
尊王攘夷・・・天皇を尊び外敵を斥ける。。。という思想です。
天狗党の乱の首謀者・藤田小四郎は、尊王攘夷派のサラブレッドでした。

1842年小四郎は水戸藩士・藤田東湖の四男として生まれます。
9代水戸藩主徳川斉昭の側用人だった東湖は、高名な儒学者でもあり、著書「講道館記述義」に於いて、初めて尊王攘夷を論じた人物です。
その家に生まれたことが、いかに小四郎に影響を与えたか・・・!!
祖父・藤田幽谷も尊王攘夷論者・・・尊王攘夷一家の中で育ち、そんな教育を受けていました。

小四郎が歴史の表舞台に出てきたのは21歳の時・・・
当時幕府は、強烈な攘夷論者で外国人を忌み嫌っていた孝明天皇に攘夷の実行を迫られていました。
そこで、外交政策を説明すべく、14代将軍徳川家茂が上洛することに・・・。
この時随行したのが、10代水戸藩主・徳川慶篤でした。

1861年2月16日、慶篤は1,000人余りの水戸藩士を伴い京へ出発。
その中に藤田小四郎もたいのです。
上洛に胸躍らせる小四郎・・・京は、攘夷派の志士たちの交流の場となっていました。
京につくと・・・攘夷急進派の長州藩・桂小五郎、久坂玄瑞らと会います。
桂から「そなたが東湖先生のご子息か・・・」と、親しく声をかけられ薫陶を受けました。
一方将軍家茂は、孝明天皇に謁見し、5月10日を攘夷決行日にすると約束。。。
これを聞いた小四郎は・・・
「水戸藩が先んじて攘夷を決行せねば!!」
水戸に戻るや否や同士集めに奔走!!
小四郎の元には、身分や年齢を問わず、志を同じくする人たちが続々と集まります。
茨城県にある照光寺は、小四郎たちの会合の場となりました。
高い志とほとばしる情熱を胸に、攘夷要求の準備を進めていく小四郎たち・・・

そこに問題も・・・
当時の水戸藩は、改革派(攘夷)VS保守派(開国)が対立していました。
保守派である諸生党は、改革派である天狗党を抑え込もうとしていました。
彼らが天狗党と呼ばれていたのは・・・反対派にとっては、彼らが鼻を高くして偉ぶっているように見えたからだそうです。

1863年5月9日、孝明天皇に攘夷の決行を約束した幕府は、横浜港の閉鎖を各国行使に通達します。
しかし・・・各国から強固な反発を受け、僅か9日で通達を撤回してしまいます。
幕府の不甲斐なさに小四郎は・・・
1864年3月27日、遂に立ち上がります。
62人の同市と共に、鈴ノ宮稲荷神社に必勝祈願をし、筑波山の麓に立つ筑波山神社で挙兵!!

「攘夷に消極的な態度をとり続けている幕府に、横浜港の閉鎖を実行させるのだ!!」by小四郎

小四郎は、幕府を奮起させ、今一度幕府を奮起させ、横浜港の閉鎖をしようとしていました。
寄せ集めの天狗党をまとめるために、総大将には若い自分ではなく、水戸町奉行・田丸稲之衛門を担ぎます。
武力に訴えてでも、攘夷を要求することにしたのです。

「我らは勝ち負けで立ったのではない。
 国の行く末を憂い、国体護持のために立ち上がったのだ。」by小四郎

1864年3月末日・・・小四郎たちは今後の方策を練っていました。
すると・・・「諸生党と幕府が挙兵に気付き、動き始めました。」
天狗党の足止めにかかってきました。

「家康公を祀る東照宮を詣でれば、我等の行動に権威が付きま。
 幕府に楯突く意思はなく、ただ攘夷の先駆けたることを明らかにしましょう。」

4月3日早朝・・・天狗党200人は、尊王攘夷を掲げ、日光へ向け出発!!
4月10日東照宮に到着。
しかし、日光奉行は、得体のしれない集団に恐れを抱き、参拝を拒否。
説得の末、なんとか許されるものの、厳しい監視の下での参拝となってしまいました。
小四郎は落胆しますが、ここで踏みとどまってはいられません。
太平山神社へと向かい、本陣を構えるのです。
そこへ1000人以上が集結!!

大部隊となってしまったことで、不測の事態に・・・。
2か月後・・・1000人となってしまった大部隊・・・幕府に対する要求は、横浜港を閉鎖すること・・・
しかし、この後、天狗党は逆賊となってしまいます。
幕府の巨大化によって内部統制ができなくなってしまった天狗党・・・
規律のゆるみ、同士間の不和、軍資金の枯渇・・・

そして・・・暴徒と化す者も・・・
小四郎の幼馴染・田中愿蔵率いる一派でした。
資金供出を断った者たちを斬殺!!
火を放って200戸以上全焼させてしまいました。
これによって天狗党の評判は急落・・・
天狗党が現れそうな地域では厳戒態勢をとることに・・・。

事態を重く見た小四郎は、田中達一派を除名・・・。
しかし、手遅れでした。
天狗党の一部が暴徒化したことで、逆賊と見なし、幕府によって追討令が出されました。
国元の水戸藩でも、鎮圧隊を派遣!!
隊長は天狗党と対立していた諸生党の市川三左衛門でした。

7月7日・・・幕府と諸生党の連合軍ができました。
小貝川を挟んで幕府・諸生党6,000人VS天狗党700人!!
幕府に刃を向けるつもりもなかった小四郎でしたが、申し開きの場もなく戦うことに・・・。
天狗党は、夜襲を仕掛けます。
不意を突かれた幕府軍はなすすべなく退却!!
市川たちも水戸へ逃げかえりました。
討伐軍を撃退した天狗党ですが、この戦いをもって、完全に幕府に弓を引いた逆賊の形となりました。

逆賊として追われる身となってしまった天狗党・・・力づくでも横浜港を閉鎖させるために、船を調達して斬り込もうとします。
しかし・・・水戸に逃げ帰った諸生党が天狗党に対して報復を開始しました。
諸生党は、攘夷派の要人70人を次々と弾圧・・・天狗党に加わっている者たちの家を襲撃し、板を打ち付けて閉じ込めて火を放つ!!
攘夷に燃える天狗党も、離脱者が続出!!
一方、市川たちの勢いは止まらず、水戸城を占領し、藩の実権を掌握してしまいました。

水戸城を占拠し、藩の実権を握った諸生党を見過ごすわけにはいかない・・・!!
一刻も早く横浜に向かいたかったものの・・・
「まずは水戸城を占拠する市川らを討ち、その上で攘夷を実行しよう。」

1864年7月下旬・・・
天狗党と諸生党は水戸城で激突!!
しかし、諸生党の激しい砲撃に、太刀打ちできない天狗党・・・!!
8月には2000人の幕府軍が、諸生党の援軍として合流・・・勝機なしと悟った小四郎は、兵を退き・・・那珂湊で体制の立て直しを図ります。
そして2か月後・・・追ってきた連合軍と激突!!
一進一退の攻防・・・焦る小四郎・・・
「戦闘が長期化すれば、挙兵の大義か遠のいて行くばかりだ。」
目的は、あくまでも攘夷の実現でした。
小四郎たちは、志のため、戦場を後にします。

その上で最後の策・・・
戦火から逃れてきた天狗党面々は、現在の大子町に集結。。。
その数およそ1,000人・・・
総大将は水戸藩家老・武田耕雲斎です。
「天狗党は、放火などで民衆の反感を買ったことを深く反省せよ。
 以後、一切の略奪や殺戮を禁じる。
 そして、最後の一戦を仕掛け、華々しく散ろう!!」
しかし、小四郎は戦うことに反対します。
「かくなるうえは、今日に上り、一橋慶喜を通じて朝廷へ尊王攘夷の志を訴えましょう。」
同じく水戸藩出身の一橋慶喜は攘夷派として知られ、開国派の幕臣たちと激しく対立!!
横浜港の閉鎖を唱えていたので、自分たちの力になってくれるのではないか??と考えたのです。
11月1日・・・天狗党は、大子を出発し、中山道をはるか京に向けて出発しました。

11月16日未明・・・上州下仁田のあたりで高崎藩の襲撃に遭いました。
11月20日・・・高崎藩を退けた天狗党は、信州の和田峠まで進軍・・・
しかし、今度は、高島藩、松本藩が待ち構えていました。 
総大将の武田は・・・
「我々は、故あって上洛する者で、好んで戦いをする者ではない。
 どうか道をあけてほしい・・・」
しかし・・・
「幕命により、通行は許可できぬ。」

またもや一戦を交えることに・・・
勝つも・・・またいつ襲われるか・・・常に緊張のある日々・・・。
出来る限り戦いは避けたい・・・
矢理に白紙を巻き、奉勅を掲げ進みます。

目指すは慶喜のいる京都・・・
疲弊した天狗党を待っていたのは・・・??
11月29日、美濃までやってきました。
京まであと少し・・・
このまま中山道を進めば、大垣藩、彦根藩との衝突は避けられない・・・
多くの犠牲が出るのは目に見えている・・・
そこで、中山道を迂回し、越前を経由して京を目指すことに・・・!!

しかし、既に幕府の術中にはまる・・・??
冬の越前は雪に阻まれて行軍できず・・・。
さらにルート沿いの大野藩は、天狗党が食料や寝床を確保できないように、街道沿いの民家をすべて焼いてしまいました。
疲弊していく天狗党・・・。

何としても京までたどり着かなければ・・・!!
その一心で豪雪の中を進み続けた小四郎たちは、現在の福井県敦賀市に・・・。
しかし、そこで待ち構えていたのは、加賀藩を中心とした1万の軍勢でした。

天狗党の総大将・鯛江田耕雲斎は、戦闘の意志がない事、一橋慶喜に会うための上洛だと訴えます。
しかし・・・その返答は・・・
「我々は、一橋公の命令によって陣を張っている。
 無理に通るというのであれば、一戦も止む無し。」
最後の頼みの綱と信じていた慶喜が、天狗党討伐を命じたというのです。

しかも、自ら2,500の兵と共に大津に布陣している・・・??!!

攘夷派に同情すれば、将軍になった時に幕府内での立場が悪くなってしまう・・・。
そのために、天狗党を切り捨てたのでは・・・・??
もはや時代は、開国へと進んでいたのです。

もはや降伏するしかなくなった・・・
武田耕雲斎は、慶喜に対して陳述書を渡してくれと懇願しています。

「幕府と戦い、天下の大法を犯した。
 よって一同加賀藩の軍門に下る。
 如何なる処遇も覚悟ながら、流賊の汚名を破るは死後も遺憾である。」

天狗党833人は、越前国・新保村で降伏・・・
加賀藩の恩情によって、捕縛を免除され、3つの寺に預けられます。
しかし、翌年の1月・・・幕府から天狗党の処分を任された田沼意尊がくると・・・一変。
田沼は、天狗党を単なる罪人として扱うのです。
ニシンの蔵に監禁・・・
下された沙汰は・・・藤田小四郎ら352人が斬首刑、島流し・・・137人、追放・・・187人。。。

どうして幕府は厳しい処分を・・・??
幕府としては、攘夷の思想は理解できても、もはや不可能・・・
開国せざるを得ない以上、全国の尊王攘夷派に対して見せしめにする必要があったのです。

藤田小四郎・・・24歳、その首は、塩漬けにされて水戸藩に送られ晒されたのでした。

これを知った薩摩藩・大久保利通は・・・
「この酷い行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示唆したものである。」と、日記に書いたといいます。

この3年後・・・幕府は260年余りの歴史に幕を引いたのでした。
 


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

藤田東湖 (人物叢書 新装版) [ 鈴木暎一 ]

価格:2,160円
(2017/5/16 05:46時点)
感想(0件)

幕末の魁、維新の殿 徳川斉昭の攘夷

価格:2,592円
(2017/5/16 05:47時点)
感想(0件)

吉田松陰『留魂録』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ)

新品価格
¥1,512から
(2015/4/14 17:12時点)



黒船来航・・・200年以上に及ぶ鎖国状態にあった日本に、列強が開国を迫った。。。
江戸幕府大老に就任した井伊直弼は、通商条約締結は避けられぬものと、開国へと舵を切る。
一方、開国に反対する勢力は、天皇を中心として京に集結。
外国を打ち払うことを主張した・・・。

開国か攘夷か??
途方もない嵐が、この国に吹き荒れようとしていた。。。

ということで・・・前回・・・新婚早々の玄瑞も、萩を飛び出して江戸へと向かうのでした。


江戸へとせっせと手紙を認める文。。。
松下村塾にも、いろんな塾生が増えてきました。

江戸の玄瑞に手紙を書くために・・・店先で紙を探していた文は。。。
一人の少女・キクに出会います。

少女が母親とはぐれてしまって・・・
その少女の母親は・・・松下村塾生・小野為八の医者である父親・山根文季のもとにいました。
コロリを発症して・・・!!
長崎に停泊中のミシシッピ号から発生し・・・東に広がってきていました。

hana4












街中がコロリになる前にどうにかしなければ・・・!!

その頃、寅次郎は・・・
コロリで揺らぐこの国が怖いという・・・
薬すら手に入らないこの国で、外国の脅威に晒される・・・。

春庵先生の看病も虚しく・・・次々と死んでいく患者たち。
その中には、キクの母親もいました。

病に打ち勝つ西洋の智識が必要なのに、外国に慄く人々・・・。
しかし、天子様の許可なく条約を結ぶことはできない・・・!!

が、井伊は、勅許を待たずに日米修好通商条約を結んでしまいました。

hana2













今こそ敵をビビらせるために・・・!!

長崎で兵学を学んできた小野為八は、新しい武器を・・・地雷を作ろうと考えます。

その頃江戸では・・・
玄瑞が京へ行きたいと懇願していました。
井伊様が天子様を彦根に移すのでは・・・??と、噂が立っていたのです。
医術を学ぶために来たはずの玄瑞・・・藩命に背くことは重罪でした。

志のために萩を出た玄瑞・・・どうする??
あ~、師匠よろしく、許可も得ずに京都に向かってしまうのでした。

自分に今できること・・・。
天涯孤独の身となったキクに字を教えようと思った文。。。

hana













そう、一人でも生きていけるように。。。

この頃、幕府に危機感を抱いた寅次郎は、一つの建白書を書き上げます。
そこには・・・”公方様を討て”と書かれてありました。

そんな過激な文がご公儀に知れたら・・・??
我が藩に謀反の疑いがかかると焦る周布政之助と長井雅樂。

寅次郎の憂慮が真か偽か・・・??

様子を見に松下村塾にやって来た伊之助・・・。
そこで、試行錯誤していた爆弾が破裂・・・!!
新しい武器を作ろうとしていることを見てしまったのです。

もう止められないのか・・・寅次郎を・・・!!

その頃京では・・・玄瑞が梅田雲浜に会っていました。
朝廷や他藩の動きを探るため・・・攘夷のために・・・!!
そこへやってきたのは高杉晋作。
「せめて・・・お文さんに手紙を書け・・・」
??そんなこと言いに来たんかい・・・??
と、思っちゃいます。。。

ちなみに・・・高杉晋作が京都に来たのは・・・
父の小忠太が松下村塾から引き離す為に願い出た&寅次郎も世間を見せてやりたかった
という、父と師匠の違う思惑から・・・でも結果は同じというおかしなことから京都に行ったと思われています。

ま、今風に見ると、一夫一婦で当たり前の時代ですが・・・
当時の志士たちは、故郷に妻を残して、京都に女性を囲うなんて当たり前。
ひとりの女性を想う気持ちがここまであるのかなあ・・・??なんて気もしますが・・・
そう思うと、文さんの周りにはたくさんの良い男がいたのに、不器用な朴念仁を選んだのね・・・。

キクは引き取られていきました。


遂に地雷火を完成させた小野。。。
明け方、河原で実験をしたいと寅次郎に申し出ました。

「この国のお役にたてるかどうか・・・みなさんに見極めていただきたいのです。」

私達の新しい第一歩のために・・・!!
すぐに準備を始めるという塾生たち・・・

しかし・・・

hana5















小野の父・山根文季はコレラにおかされていました。
異国に負けないために・・・!!

医術に命を懸けて落とした山根文季の命・・・

医術も捨て、兵法に打ち込んできた小野・・・。
これを新しい世を造るために・・・!!

コレラも異国のせいなのか??
そう問う文に、寅次郎は・・・

「戦いとはただ戦のことを言うんではない。
 戦いとはふっしない心をもつことを言うんじゃ。。。」と答える寅次郎。


爆弾の爆破実験をみたいという・・・
旦那様が進む道なら・・・その道を見て見たいという文。


そして・・・父のつもりで見て欲しいと寅次郎に懇願する小野。。。
謹慎中の寅次郎を背負って・・・

hana3















しかし・・・いつの間にか松陰は走りだしていました。

「この一歩は・・・いずれ・・・!!」by寅次郎

文は・・・
遠くに立ち上る黒い煙を見ていました。

「旦那様・・・あれは如何なる火になるんでしょう。。。」

久しぶりにあった玄瑞からの便り・・・

「昨夜・・・ふとお前の顔を思い出そうと思うて、しばらくじっと考えとった。
 いつの間にかそのまま眠ってしもうた。
 夢の中のお前は、それはそれは楽しそうで幸せそうで・・・。
 いつまでもその顔を見ていたいと思うた。。。」

これから・・・どんな荒波にのみ込まれていくのか・・・
安政の大獄が近づいてきていました。


松陰を慕って・・・門下生が増えていく中・・・
遂に安政の大獄が近づいてきていました。
もちろん、
女性目線で書いているこの大河・・・大河と思わなければとっても楽しい作品だと思うようになりました。
ちなみに幕末嫌いのパパ、どうして嫌いかというと・・・”殺伐としているから”。
でも、この大河は殺伐としていないので、結構楽しんでみています。

なので、私もちょっと目線を変えてみようかな?と、思い始めています。

が・・・この、安政の大獄が近づくにつれて。。。
門下生が止めても止まらない松陰先生が始まるのです。
そうなると・・・思想的に変わっていき様をもっとやって欲しいかな??なんて思っちゃうんですよね。

でも・・・楽しみなのは楽しみになってきました。
それは・・・時代が面白いから??

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。


にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト

新品価格
¥1,620から
(2015/4/14 17:12時点)

感化する力 ―吉田松陰はなぜ、人を魅きつけるのか

新品価格
¥1,620から
(2015/4/14 17:13時点)

このページのトップヘ