日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:日野富子

1465年9月13日、巨大な流星が京都上空に飛来しました。
人びとはこれを”天狗流星”と呼び、不吉の前兆とおののきました。
その2年後、京を焼き尽くす戦乱が勃発!!
11年にわたる応仁の乱です。
武士による空前の長期戦は、将軍継嗣問題、有力大名の家督争い、貿易権益の奪い合い、幕府内の権力闘争など、多くの利害が入り乱れ、京を戦乱の世に変えました。

乱の始まりは畠山義就と畠山政長の家督争いでした。
ここに足利義政・正室日野子と足利義視・義尚親子の将軍継承問題。
山名宗全と細川勝元の権力闘争が絡んできます。

乱の発端となった畠山氏の抗争とは・・・??
京都・観光客でにぎわう神社仏閣の多くが、応仁の乱で被害を受けました。
清水寺も例外ではありません。
清水の舞台へと続く轟門・・・2014年の保存修理工事の際に、門の礎石周辺から焼けた土の層が発見されました。
その年代から応仁の乱の戦火を被ったとされます。
祇園祭で知られる八坂神社にも資料が残っています。
1466年と1477年の地検帳・・・当時の市民の生業や家の大きさがわかる住民台帳ともいえます。
残されていたのは京都の中心部、室町通りと西洞院通の下京2ブロック分です。
二つの帳面を比較すると、乱の後は154軒から60軒と・・・住民や商店が激しく減り、空き地が増えています。
一方で両方に書かれている残った家もありました。
応仁の乱からの復興を生き生きと描いた”上杉本洛中洛外図屏風”には、将軍が暮らし政務を執った室町殿は花の御所と呼ばれ、その壮麗さを誇りました。
市民たちの姿も細密に書かれています。

畠山氏惣領は、持国に子供がおらず、弟・持冨に家督を譲ることになっていました。
しかし、持国は家督継承者を庶子の義就に変え、時の将軍・足利義政もこれを認めました。
これに不満を持ったのは、持冨の子・弥三郎でした。
弥三郎は義就達に戦を挑み勝利!!
将軍・義政はこれに態度を変え、弥三郎を継承者と認めます。
これにより持国は隠居、義就は京を去ることになりました。

畠山家の争いの背後にいたのは、管領の細川勝元と有力大名の山名宗全。
彼等は内紛を煽り、弱体化させることで自分達の権力強化を企んでいました。
それを知った将軍・義政は、幕政の主導権を握らせまいと、勝元の家臣を処罰し、宗全を隠居させました。
さらに、弥三郎に家督を許した4か月後、義就を再び家督に据えます。
この措置に弥三郎は没落、弟・政長に後を託してこの世を去りました。
しかし、義政は、義就が意にそぐわない行動をとるので、政長を家督としました。
細川勝元は、政長に管領を譲り恩を売って後ろにつき、強大な権力を得ます。



室町幕府の中央政府は・・・
将軍の補佐役の管領が大きな力を持っており、細川・畠山・斯波の足利一族のうちの一つだけが就くことができます。
侍所の長官は所司と呼ばれ、侍所所司を務めるのは山名・赤松・京極・一色の家に限られていました。
これらを三管四職といい、彼らを中心に諸大名が連合政権的に室町幕府は運営されていました。
大名達の力をと弱めないと、将軍は上に立つことができませんでした。
細川勝元は、畠山氏の分裂を煽って、政治の主導権を握ろうと考えました。

将軍・足利義政は、正室・日野富子との間に嫡子がいなかったので、後継者として僧侶になっていた弟を還俗させ義視としました。
しかし、1年後・・・義政と富子の間に義尚が誕生。
義政はまず弟・義視に将軍を譲り、息子の成長を待って義尚を将軍にするつもりでした。
義政の真意は、将軍を退いた幕政に影響力を残すことでした。
これに細川勝元も異論はなく、富子も妹が義視の妻で良かったのですが・・・山名宗全はそうではありませんでした。
宗全の考えは、義政の政界からの完全引退でした。
義視が正真正銘の将軍にと思っていたのです。
それでは管領は・・・??
山名宗全は、斯波義廉に娘を嫁がせていました。
斯波家は管領になれる・・・ということで、娘婿を管領にしたかったのです。
そして実権は自分に・・・!!

1466年12月、都を不穏な空気が私費足ました。
家督を奪われ京を離れていた畠山義就が山名宗全の求めに応じて数千の兵を従えて上洛したのです。
幕府の実権を細川勝元と畠山政長に握られた宗全は、これに対抗すべく畠山義就に接近していました。
宗全は勝元とたもとを分かち、政権奪取に・・・!!
義就の軍事力を目の当たりにした将軍・義政は、早々に義就の家督を認めます。
政長は家督を取り上げられたばかりか管領も罷免され、幕府内に居場所を失いました。
新しい管領には宗全の娘婿・斯波義廉がつき、剛腕フィクサー宗全のクーデターは成功しました。

これは終わりではなく・・・11年に及ぶ戦乱の始まりでした。

京都市上京区にある御霊神社・・・管領の座を追われ、京を離れるかと思っていた畠山政長はここに陣を敷いて義就に決戦を挑みます。
将軍・義政はあくまでも畠山氏の騒動として諸大名が加勢することを禁じます。
1467年1月18日、両畠山軍は激突!!
戦は義就の圧勝!!
しかし、敗走する政長軍に山名宗全の配下が追い打ちをかけます。
武士のメンツをつぶされた勝元はおさまらず、各地の軍勢に声をかけて宗全との対立が表面化していきます。

1467年5月26日、細川勝元軍は、花の御所・室町殿の向かいにある山名方の屋敷を襲い占拠。
山名方も宗全の娘婿・斯波義廉らの軍勢が応戦し、戦はみるみる上京一帯に・・・!!
ついに応仁の乱は、本格的な戦闘に突入しました。
翌日の夕暮れまで続いた激戦で、多くの寺院や家屋が焼失しました。

海鮮から二日後、将軍・義政は両軍に停戦を命じます。
これによって一旦戦闘はやんだものの、細川勝元は宗全との戦いを有利にするために、義政に将軍旗を求めました。
これまで中立を保とうとしていた義政を自分の方に引きずり込もうというのです。
圧力に押された義政は、勝元に将軍旗を与えました。
幕府は細川側に組することとなったのです。
かくして室町殿の西に陣取る山名方は西軍、東に陣取る細川方は東軍となります。
義政は弟・義視を東軍総大将にし、応仁の乱は泥沼化していきます。

応仁の乱による混乱で、京では商売が停滞し、食べ物にも不自由する状況に陥っていました。
しかし室町時代は商品経済が発展し、商店や行商による取引が盛んにおこなわれた時代でした。
女性も財産を持つことを認められ、経済活動で重要な地位をしめました。
時代の変化により、女性の社会進出が進んだ時代でした。

更に拡大する戦・・・
山陰から北九州を領国としていた大内政弘が・・・!!
大内は莫大な利益を得る日明貿易や瀬戸内海の制海権を巡って細川勝元と対立関係にありました。
勝元が幕府の覇権を握ることは、大内には見逃せないことでした。
東軍にとっても大軍をもって京に上ってくる大内は脅威でした。
東軍総大将・足利義視は大内の上洛前に西軍に内通する者を粛正しました。
しかし・・・1467年8月23日、遂に大内政弘が3万の軍勢を引き連れて京に現れました。
この時、東軍で思いもよらない事件が起こります。
大内の参戦に恐れをなした足利義視が、室町殿から姿をくらましたのです。
総大将がいなくなってしまった!??
大内の援軍を得た西軍は、室町殿、細川邸を取り囲み、一触即発の事態に至ります。
そして10月2日、室町殿の東、相国寺で大合戦が行われます!!
相国寺に陣を張っていた東軍に、西軍の畠山義就、大内政弘らが攻撃を仕掛けます。
3代将軍・足利義満が建立した大伽藍は、3日にわたり燃え続けたといいます。
その後、西軍は東軍の反撃を受け、寺の蓮池に足を取られて600人もが討たれたといいます。

壮絶な相国寺合戦以降、応仁の乱は小康状態に・・・。
1468年9月・・・きっかけは伊勢に逃れていた足利義視が将軍・義政の要請にこたえて上洛しました。
義視は復帰の条件として、幕府内で自分と対立する勢力の一掃を要求します。
が、義政に聞き入れられず、義視はまたもや出奔。
そしてあろうことか敵方・・・西軍に身を投じました。
奇怪な行動を見せる義視・・・その真意とは・・・??

足軽・・・応仁の乱で存在感を高めた戦力で、東西両軍とも彼らを雇って戦闘を繰り広げました。
略奪や放火によって敵を疲弊させるのが彼らの目的で・・・しかし、それは京都の町や人々に大きな被害をもたらしたのでした。

1469年・・・応仁の乱3年目・・・元号は文明に。
長引く戦乱を避け、公家や僧侶などの知識層は、洛中から逃れていきました。
これが連歌や茶の湯が各地に伝播することとなり、小京都という都市ができていきます。

幕府の中枢を担う斯波家の領国・越前・・・
斯波家は西軍山名宗全の娘婿・斯波義廉と、東軍・斯波義敏に分かれて家督を争っていました。
戦闘の末、越前を平定したのは、東軍の義敏でした。
敗れた西軍の義廉は、猛将として知られた西軍の足利孝景をむかわせ領国奪還に・・・!!
東軍はかねてからこの朝倉に目をつけていました。
西軍主力の朝倉に調略をしかけ、寝返りを誘っていたのです。
朝倉の条件は、自らを主君の領国・越前の守護とすること・・・勝元はこれを認め、朝倉は東軍に寝返ります。

越前を失ったことは、山陰に領国を持つ山名や大内にとって大きな痛手となりました。
それは西軍が日本海側からの補給路を断たれたことを意味していました。

1472年・・・応仁の乱6年目・・・
東軍・細川勝元と西軍・山名宗全は和平交渉に入りました。
しかし、東軍優勢の中の和睦に、畠山義就、大内政弘、足利義視は強く反対し、交渉は頓挫!!

1473年の暮れ・・・応仁の乱から7年目・・・
大きな転機が訪れます。
足利義政が将軍の座を息子の義尚に譲ったのです。
これで長年政権の行方を左右してきた将軍継嗣問題は一応の決着を見ます。
この年の3月18日、西軍を率いて幕府に反旗を翻して来た山名宗全が死去。
その2か月後の5月11日、東軍の総帥・細川勝元も死去。
細川・山名の後継者は和睦交渉を再開し、翌年山名が幕府に帰参することでおさまりました。
しかし、西軍の畠山義就と大内政弘はこの和睦を認めず、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。

義政の正室・富子は義視の義理の姉でもあります。
富子は夫・義政と義視の間を取り持ち、1476年・・・応仁の乱10年目で両者の和解を取り付けます。
富子は西軍の好戦派・大内政弘と幕府との交渉を進めます。
その結果、大内は領国4か国の守護職を安堵され、官位も上がるという厚遇を得て和睦。
最後まで矛を収めなかったのは、乱の発端となった畠山義就でした。
しかし、大内が撤退することとなり、孤立した義就も京を去らざるを得なくなりました。
1477年、応仁の乱は11年目にして収束したのでした。

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室町時代後期・・・未曽有の災害や民衆の暴動が相次ぎ、世は乱れに乱れていました。
足利将軍家の権威は地に落ち、遂には将軍暗殺事件まで起こりました。
そんな中、影の権力者として君臨することとなった女性・・・八代将軍・足利義政の妻、日野富子です。
強欲、淫乱、独裁者??本当に悪女だったのでしょうか??

代々朝廷に仕えてきた日野家は、将軍の正室を輩出する中級公家の一つでした。
中でも富子の伯母に当たる日野重子は、六代将軍義教に嫁ぎ、八代将軍・義政を出産・・・将軍の生母として権力をほしいままにしていました。
ところが、義政は側室に今参局を迎えると彼女にご執心となり、母の言うことより彼女の言うことを聞くようになりました。
「このままでは日野家の権勢が奪われてしまう。」そう感じた重子は、富子を嫁がせることで今参局から義政を取り返そうとしました。
日野家の女性を母とする世継ぎを産ませようとしたのです。
1455年8月27日、富子は16歳で、将軍義政の正室となりました。
この時、義政は20歳、大層な美男子で、芸術にも通じた教養ある人物でした。
しかし、富子を待ち受けていたのは、屈辱的な結婚生活でした。
義政にはすでに数人の側室がおり、中でも今参局に未だ夢中・・・振り向きもされない富子・・・。
しかも、義政は政治に全く関心がなく、昼間っから酒を飲んで、趣味の庭づくりに莫大なお金をかける始末・・・。
富子は耐えるしかありませんでした。

自分の権威を高める手段は・・・正室として世継ぎを産むこと!!
しかし、今参局も黙っていません。
親族の若い娘を側室に迎え・・・日野富子派VS今参局派の女の戦いが始まりました。
そして富子が将軍家に嫁いで4年・・・待望の男子を出産・・・
義政の跡継ぎを産んだ富子の勝利でした。
ところが、喜びもつかの間・・・富子の子は生後すぐに亡くなってしまいました。
この時、都中に不吉なうわさが・・・
今参局が自分の地位を守るために、若君を呪い殺したというのです。
この噂を信じ込んだ義政は怒り心頭!!
大した取り調べもせずに今参局を流罪に!!
今参局の息のかかった者たちも全員都から追放!!
今参局は、身の潔白を証明するために、自害したと伝えられています。
この今参局事件で、将軍の妻としての権威を回復した富子・・・女帝の道を歩んでいくこととなります。
でも、この事件には・・・陰謀が隠されていた・・・??
”今参局が呪い殺したとうわさ”を流したのは、富子の伯母・重子でした。
世継ぎの死というピンチを逆手にとって、将軍義政に告げ口し、今参局派を将軍御所から一掃していたのです。

世継ぎを産んで、その子を次の将軍に・・・!!

1459年夏・・・日本全土を天変地異が襲います。
豪雨、地震、その後3年にも及ぶ日照り・・・
これによって大飢饉が発生し、死者は都だけで8万人以上!!
この国難に際しても、義政は対策を施さないばかりか、将軍を辞めたがっていました。

しかし、富子には世継ぎがいません。
そこで、一刻も早く隠居をするために、義政は、富子に内緒で養子をもらうことにしたのです。
白羽の矢が立ったのは・・・当時、仏門に入っていた弟・義視です。
しかし、兄の優柔不断な性格を知っていた義視は・・・
「後に男子が生れても、その子は出家させ、決して跡継ぎにはしないでください。」
義政は、この意見を受け入れ、義視を還俗させたのです。
義視の後見人は、管領・細川勝元・・・義政の隠居生活計画が着々と進んでいきます。
そんな時・・・富子が懐妊したのです。
「もし男子が生れてくれば、本来ならこの子が世継ぎとなるはず・・・」
そして・・・1465年11月23日・・・富子は男子を出産。
将軍の世継ぎ候補が二人・・・これが、幕府を揺るがす大事件へと発展していきます。

優柔不断で政治的決断能力のない義政・・・
富子は動き出しました。
義視をどうにか・・・しかし、後ろ盾は細川勝元・・・。
そこで富子は、細川勝元のライバル・山名宗全に接触、味方につけることにしました。
しかし・・・この世継ぎ争いが、やがて京の町を焼き尽くす戦となっていくのです。

日野富子が男児を産んだことで、跡継ぎの座を巡って大混乱が起きました。
候補は二人・・・初代将軍・義政と富子の間に生まれた義尚(山名宗全)VS義政の弟・義視(細川勝元)。
そこに・・・有力大名の畠山氏が分裂してそれぞれにつき・・・一触即発の事態に陥っていました。

1467年5月26日、遂に両者が京の都で激突!!応仁の乱です。
激しい戦いが繰り広げられ・・・はじめは山名率いる西軍が、細川率いる東軍を圧倒していたのですが、やがて東軍が将軍御所と朝廷を制圧。
権力の中枢を押さえたことで形勢逆転!!
我が子善尚を将軍にするために、西軍に加勢していた富子ですが、御所が東軍に包囲されてしまうと、なすすべなく・・・。
総勢27万人が動員されたと言われる応仁の乱・・・
京の都は瞬く間に廃塵に帰し、その争いは全国へ広がっていきました。
将軍家の御家騒動が、大乱に発展してしまったのです。
戦が始まって6年・・・
1473年、長引く戦況に嫌気がさした義政は、ようやく決断します。
後継者に9歳になった義尚を選び、将軍職を譲って正式に隠居・・・
幾万もの命、そして京の都の被害と引き換えに、富子は義尚を将軍の座につけるという望みを果たしたのです。

応仁の乱を起こしたのは、本当に日野富子だったのでしょうか??
実は、後継者争いが起きる前に、細川勝元と山名宗全の対立構造は将軍後継争い以前からありました。
もはや武力衝突は避けられなかったようです。
細川、山名は、戦いを始めるきっかけを探していたのです。
たまたま足利家の家督相続争いがあったので、富子は戦の口実として利用された・・・巻き込まれたのでしょう。
本当の張本人は・・・細川勝元??
義視の後見人になったころから、虎視眈々と勢力拡大を狙っていました。
つまり、富子や宗全は、且元にとっては邪魔な存在だったのです。
富子は応仁の乱に対しては蚊帳の外・・・
富子は義尚が次の将軍となることだけを願っていました。
母親としての当たり前の強い思いだったようです。
富子は自分の権勢よりも、戦の終結を望んでいたようです。

富子は応仁の乱で莫大な富を蓄えました。
諸説ありますが・・・総資産70億円!!
どうやってそれだけの財産を築けたのでしょうか?

①コメの買い占め
戦によってコメ相場が急騰すると読んだ富子は、米を買い占め値段を吊り上げ大儲け。
②関所を設ける
戦のための物資の運搬が多くなると、京の七口に関所を設けます。
関所で人や物に関銭を課したのです。
③商人から税金を徴集
酒屋や高利貸しが儲かっていると聞けば、税金を徴集、幕府に入るお金を着服・・・??
④大名同士の訴訟に介入
大名達が領地問題で訴訟を起こした場合、判決を有利にする見返りとして、賄賂を受け取っていたと言われています。
強欲な守銭奴と呼ばれるようになってしまいました。
富子の権力の源泉は財力・・・
頼りない夫・将軍義政に代わって、蓄財に励み、幕府の財政を支えたのです。
稼いだお金を大名などに貸し、利息で財産を増やしました。
貸しはがしもやっているのです。
そのお金の使い道は??

義尚が9代将軍となっても終息を見ない応仁の乱・・・
京の都はすっかり荒廃し、公家や役人も多くが家を失って、路頭に迷っていました。
すると富子は・・・ため込んだお金を活用!!
焼け出された公家や幕府の人々を室町第に迎え入れ、食事や物資を振る舞ったのです。
そして・・・戦をしている大名たちにつぎ込みました。
領地を留守にしていた大名達・・・土地は荒れ果て、戦費はかさむばかり・・・巨大な借金をしながらの泥沼の戦いをしていました。
例えば・・・畠山義就に1千貫(1億5000万円)を貸し与えます。
資金を得た義就は、すぐに京とを引き上げ、河内国に帰っていきました。
富子が大名たちに金を貸したのは、利息で儲けるだけでなく、国元に帰る費用をねん出し、早く戦を終わらせようとしていたのです。
大名達は富子から資金を得たことで、潮が引いていくかのように京を離れ、領地に戻っていきました。
1477年11月11日・・・戦いが始まってから10年の月日が流れていました。
荒れ果てた京の都を復興させるために、寺社などに多額の寄進をする富子。
強欲ではなかったのです。

応仁の乱のさなか・・・室町第で大スキャンダルが・・・それは富子と後土御門天皇です。
将軍の正室と、天皇との密通疑惑・・・
応仁の乱を避け、天皇が富子のいる室町第に御座所を移したことから噂が一気に広まりました。
密通の噂はあっという間に広がり・・・義政の知るところとなります。
しかし、この噂はデマで・・・天皇のお相手は富子ではなく富子の侍女でした。
侍女が天皇の子を身ごもったことで、富子の疑いは晴れたのでした。

応仁のさなか・・・息子の義尚に将軍の座を譲った義政ですが、その後も相変わらず大酒を飲んで遊んでいました。
富子は幼い将軍を支え、幕府を支えていました。
義尚の教育にも力が入ります。
我が子を立派な将軍にしなければ・・・!!
しかし・・・義尚は、成長するにつれて・・・父親同様酒にぼれていきます。
反抗的になり、自分の髪の毛を切り落としてしまいました。
このままでは・・・!!富子は大いに悩みます。

1488年、義尚が病に倒れました。
1か月の闘病ののち、奇跡的に回復!!
死に直面したことで、心を入れ替え、酒を断ち、武芸に励むように・・・将軍としての自覚が芽生え始めました。
1489年、戦に出陣します。
幕府の権威を取り戻すために、近江の六角高頼が寺社の所領を横領しているという訴えに応じ、1万の兵をもって攻め込ました。
それは、富子が夢にまで見た将軍の勇士でした。
しかし、この戦いが長期戦となったために、義尚は陣中で酒を飲むことが多くなり、体調を崩します。
富子が駆けつけて、看病するもむなしく1489年に死去。。。25歳の若さでした。

将軍に代わり、幕府軍撤退の指揮を執ったのは富子でした。
我が子の亡骸と共に京に帰ってきたのです。
我が子を将軍にするために一生懸命尽力してきたのに、将軍にしてしまったが為に失くしてしまいました。

富子は掴んだ権力を失う・・・??
しかし、富子は義尚に万が一のことがあった時のために、かつての敵・義視の子・義材を義尚の養子に迎えていました。それも、夫の義政に一言の相談もなしに・・・。

どうして政敵の息子を養子にしたのでしょうか?
どうにかして室町幕府を存続させるためには、血筋的に義材を養子にするしかなかったのです。
足利将軍家を絶やさないために・・・苦渋の決断でした。
この富子が相談なしに決めたことに対し、怒った義政は、自ら将軍に返り咲こうとします。
しかし・・・翌年の1月・・・長年の不摂生が祟り、息子の後を追うのです。
義政の死を機に出家した富子ですが、陰の実力者として義材を将軍に就けるために暗躍します。
その甲斐あって、義材は10代将軍に就任。
ところが、またもや富子は疎んじられます。
義材は言い放ちます。
「今後、政治への口出しは無用に願いたい。」by義材
義材は、富子を権力の座から降ろすために幕府の財政権を剥奪!!
さらに、将軍が政治を行う室町第の近くにあった富子の住まい・・・小川殿を破壊し、義政の別荘だった東山山荘に追いやりました。
「こんな仕打ちを受けるとは・・・!!」
1490年6月、富子の怒りに火をつける事件が勃発!!
親しい人たちを招き、観世座を呼んで能を楽しもうとしていた時・・・
将軍義材の父である義視が、観世座に圧力をかけ、参加を辞めさせたのです。
集まった人たちは散会することとなり、富子の面目は丸つぶれ!!
屈辱的な仕打ちに対し、復讐に燃える富子は、義視のライバルだった細川政元と共謀し、反撃の機会を待ちます。
大御所の義視が亡くなったことを機に、義材は畠山氏を征伐するために京都を離れ、河内国へ・・・。
それを知った富子は、突如として亡き夫の異母弟の息子・足利清晃(のちの義高)を担ぎ出します。
なんとか復讐を遂げた??
留守中に、将軍を取り換えてしまったのです。

これに諸国の大名が従ったので、義材は降伏を余儀なくされたのです。
こうして権力の座に返り咲いた富子は、観世座を招き、盛大な祝賀会を開いたとされています。
クーデターによって再び権力を手に入れた富子・・・
しかし・・・新しく11代将軍となった・義高は、義材に肩入れし、将軍となったことを根に持っていました。
富子に東山山荘から出るように・・・さらに富子の協力者だった細川政元も、将軍の後見人となったことで手のひらを返したように、富子と敵対します。
失意の中・・・1496年、日野富子死去。。。57歳でした。

富子が応仁の乱を終わらせようとした頃に詠んでいたのは・・・

「偽りの ある世ならずは ひとかたに
         たのみやせまし 人の言の葉」

結局最後まで裏切られ、失意の中亡くなります。
その後、11代将軍・義高と後見人・細川政元との間に対立が・・・。
弱体化する幕府に代わって・・・諸国の実力者たちが台頭し・・・いよいよ、群雄割拠の時代に突入していきます。
皮肉にも、室町幕府の安泰を願う富子の死が、戦国の世の幕開けとなったのです。




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シリーズ・日本の転換点・・・
応仁の乱から始まった現代人の原点を探ってくれました。

世界に誇る古の里、京都。。。
今から500年前に火の海となりました。
京都に27万の兵が集まり戦った応仁の乱。。。
この戦いで焼失家屋3万軒・・・11年にわたる戦いとなりました。

誰と誰が何のために戦ったのか???
勝敗は???
よく分からない応仁の乱以降”日本人”が生まれました。

「ただ騒ぐだけの戦争ですが、それが日本人の歴史を一変させ、一種の革命作用をなした」by司馬遼太郎

この応仁の乱は、既成概念を焼き尽くしたのでした。

そもそもの原因は、駄目将軍・足利義政。

日本史上、応仁の乱は誰もが知る戦いですが・・・あんまりよく知られていません。
複雑で感情移入しにくいので、ドラマにしても当たりません。

下剋上・・・地方からの下剋上・・・
地方での生活、感性が生まれていきます。
畳、三度の食事。。。文化の胎動が生まれた時代でした。
現在は、応仁の乱以来の転換期に来ています。
我々は、緩やかな応仁の乱の中にいるのかもしれません。

応仁の乱はなぜ起きたのでしょうか???
史上最悪の将軍と言われる室町幕府第8代将軍足利義政。
乱の発端は、彼の早すぎる隠居願望でした。
室町幕府は、将軍と守護大名との合議制によって成り立っていました。
3代義光を頂点に、将軍の権威は失墜していきます。

6代将軍義教は粛清しますが、暗殺されてしまいました。
以後、守護大名の意見が重くなり・・・義政は担がれているのでした。

1464年義政は29歳の時に、隠居を決意します。
準備を始めました。
仏門に入っていた弟・義視を後継者とし、後見人に管領・細川勝元を置こうとしたのですが。。。
富子が男の子・義尚を出産。
ここから後継者争いが始まったのです。
富子は有力守護・山名宗全に書状を贈りました。
自分の息子を将軍に・・・!!!
山名は、幕府では細川に続く有力者。
後ろ盾にして息子・義尚を将軍にしようとしたのです。

そして、導火線に火をつけたのは・・・守護大名の畠山家。家督相続争いが始まりました。
従兄弟の2人は、それぞれ細川、山名に援軍を頼みます。
東軍と西軍に分かれての戦が始まりました。

細川率いる東軍は、室町第・将軍邸に陣を構え、将軍家を味方に。。。
西軍は反乱軍とみなされ敗北同然。。。
しかし、東軍内部では義視派と義尚派に分かれて対立しています。

義視はたまりかねて行方をくらませてしまいました。
これによって後継者は義尚。
のはずでした。
しかし、義視を山名宗全が匿ったのです。
西軍も西幕府を置きます。

緊急事態!!!都に二つの幕府が並列してしまいました。
こうして東軍西軍の戦いと、将軍家の家督争いが連動しだしたのでした。
味方を増やすために、なりふり構わず・・・それぞれが実力ある人間を守護に任命します。
家柄、代々の物が崩壊していきます。
下剋上はそれまでありえないことだったのに・・・戦国時代の扉を自ら開いてしまった瞬間だったのです。
戦局はますます混乱、27万の兵が京都に集結してきました。
”実力があれば守護になれる!!”

しかし、義政は遊んでばかり・・・

1か月の間に3万件が焼失。。。

都を焼き尽くしたのは・・・足軽。。。傭兵です。
傭兵たちは、市街戦で火を放ちました。
応仁の乱で、京の神社仏閣はほぼ消失。。。
戦に乗じて強奪が繰り返されます。
この神社仏閣を焼き払うということも、これまでとは全く違うものでした。
神仏中心の時代から、人間中心の時代へ。。。
違った新しい価値観の誕生でした。
室町時代中期は・・・応永の飢饉、長禄の飢饉、寛正の飢饉。。。地方で飢えに苦しむ人々は京都へ。。。
乱の前・・・1461年寛正の大飢饉には推定死者は8万2000人だったといわれています。

都では貨幣経済が浸透し、金融業を営む酒屋が300軒以上。。。
大金持ちも誕生し、超格差社会となっていきます。
それに反発し、徳政一揆が頻発し、その戦闘集団が足軽となっていったのです。
足軽たちの勢いは、雇い主である大名たちにも抑えられなくなっていきました。
巨大な既得権力が根こそぎやられていき、戦争が制御できなくなっていきます。

生活と政治の単位として村が・・・地方自治ができてきます。
近代までつながる”村落”が、この時代にうまれます。

史上空前の破壊・・・最も被害を被ったのは、高級官僚だった公家たちでした。
屋敷は丸焼け・・・大失業時代の到来でした。
天皇家でさえ、サインを売っていた???
この転落が、日本を変えていきます。
職を失った公家たちが全国各地でカルチャー教室を開き始めました。
蹴鞠のコーチ、源氏物語。。。文化遺産が各地で読まれ、保存されます。

一条家は新しい道を切り開いていきます。
屋敷が全焼した知識人・一条兼良は・・・
所蔵していた3万5000冊の書籍が灰になってしまいましたが。。。
記憶を掘り起し、後世に文学をまとめました。
京文化への憧れが・・・京文化が全国に広がっていきます。
日本の文化が隅々に広がっていったのです。

しかし、都では終わりのない戦いが続いていました。
当時の宗教は・・・京都五山は禅宗です。
が、足利幕府と癒着していました。
一休さんは、アンチ幕府、アンチ五山でした。
それまで武士や権力者のものだった禅をわかりやすく庶民に説いて回りました。
民衆が一番苦しんでいたのです。
禅僧の精進料理、保存食の寺納豆。。。リアルな生活の知恵を教えていったのです。
人々の心の支えとなりました。
一休み・・・一瞬止まってとりあえずは一休み、右か左か自分で考えなさい。。。

応仁の乱勃発から6年・・・1473年。。。
山名宗全、細川勝元が病死。。。
義政は隠居し、12月、義尚が第9代将軍となりました。
しかし・・・都では、小競り合いが繰り返されていました。。。
いつ終わるの?応仁の乱???

そこで立ち上がったのが富子でした。
幼い将軍に代わって、政務をとりしきります。
財テクで収入を増やします。
米を備蓄し、それを現金化しお金を貯めていきます。

1477には。。。
都に残る大名たちは、兵を退く資金すら無くしていました。
富子は、敵方の畠山軍に接触し、国許へかえるように説得し、1000願文を負担します。
2か月後・・・畠山軍は兵を撤退し始めました。
11年に及ぶ戦乱が終息していきます。

金の亡者、悪女と言われた富子。
しかし、泥沼の乱を終わらせたのは彼女だったのです。
経済力、交渉力で幕府を支えたのです。

その頃義政は・・・東山文化を華開かせます。
書院造は、日本住宅の基本となりました。
連歌、茶の湯、能、生け花、日本庭園の世界は・・・阿弥と呼ばれた身分の低い名匠でした。
武家的なものと、公家的なものの融合・・・そこからわびさびができたのです。
ここにも文化の下剋上があったのです。

1490年足利義政死去。
その6日後、富子は出家。
「義政がいてこその私です。」

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