1465年9月13日、巨大な流星が京都上空に飛来しました。
人びとはこれを”天狗流星”と呼び、不吉の前兆とおののきました。
その2年後、京を焼き尽くす戦乱が勃発!!
11年にわたる応仁の乱です。
武士による空前の長期戦は、将軍継嗣問題、有力大名の家督争い、貿易権益の奪い合い、幕府内の権力闘争など、多くの利害が入り乱れ、京を戦乱の世に変えました。
乱の始まりは畠山義就と畠山政長の家督争いでした。
ここに足利義政・正室日野子と足利義視・義尚親子の将軍継承問題。
山名宗全と細川勝元の権力闘争が絡んできます。
乱の発端となった畠山氏の抗争とは・・・??
京都・観光客でにぎわう神社仏閣の多くが、応仁の乱で被害を受けました。
清水寺も例外ではありません。
清水の舞台へと続く轟門・・・2014年の保存修理工事の際に、門の礎石周辺から焼けた土の層が発見されました。
その年代から応仁の乱の戦火を被ったとされます。
祇園祭で知られる八坂神社にも資料が残っています。
1466年と1477年の地検帳・・・当時の市民の生業や家の大きさがわかる住民台帳ともいえます。
残されていたのは京都の中心部、室町通りと西洞院通の下京2ブロック分です。
二つの帳面を比較すると、乱の後は154軒から60軒と・・・住民や商店が激しく減り、空き地が増えています。
一方で両方に書かれている残った家もありました。
応仁の乱からの復興を生き生きと描いた”上杉本洛中洛外図屏風”には、将軍が暮らし政務を執った室町殿は花の御所と呼ばれ、その壮麗さを誇りました。
市民たちの姿も細密に書かれています。
畠山氏惣領は、持国に子供がおらず、弟・持冨に家督を譲ることになっていました。
しかし、持国は家督継承者を庶子の義就に変え、時の将軍・足利義政もこれを認めました。
これに不満を持ったのは、持冨の子・弥三郎でした。
弥三郎は義就達に戦を挑み勝利!!
将軍・義政はこれに態度を変え、弥三郎を継承者と認めます。
これにより持国は隠居、義就は京を去ることになりました。
畠山家の争いの背後にいたのは、管領の細川勝元と有力大名の山名宗全。
彼等は内紛を煽り、弱体化させることで自分達の権力強化を企んでいました。
それを知った将軍・義政は、幕政の主導権を握らせまいと、勝元の家臣を処罰し、宗全を隠居させました。
さらに、弥三郎に家督を許した4か月後、義就を再び家督に据えます。
この措置に弥三郎は没落、弟・政長に後を託してこの世を去りました。
しかし、義政は、義就が意にそぐわない行動をとるので、政長を家督としました。
細川勝元は、政長に管領を譲り恩を売って後ろにつき、強大な権力を得ます。
室町幕府の中央政府は・・・
将軍の補佐役の管領が大きな力を持っており、細川・畠山・斯波の足利一族のうちの一つだけが就くことができます。
侍所の長官は所司と呼ばれ、侍所所司を務めるのは山名・赤松・京極・一色の家に限られていました。
これらを三管四職といい、彼らを中心に諸大名が連合政権的に室町幕府は運営されていました。
大名達の力をと弱めないと、将軍は上に立つことができませんでした。
細川勝元は、畠山氏の分裂を煽って、政治の主導権を握ろうと考えました。
将軍・足利義政は、正室・日野富子との間に嫡子がいなかったので、後継者として僧侶になっていた弟を還俗させ義視としました。
しかし、1年後・・・義政と富子の間に義尚が誕生。
義政はまず弟・義視に将軍を譲り、息子の成長を待って義尚を将軍にするつもりでした。
義政の真意は、将軍を退いた幕政に影響力を残すことでした。
これに細川勝元も異論はなく、富子も妹が義視の妻で良かったのですが・・・山名宗全はそうではありませんでした。
宗全の考えは、義政の政界からの完全引退でした。
義視が正真正銘の将軍にと思っていたのです。
それでは管領は・・・??
山名宗全は、斯波義廉に娘を嫁がせていました。
斯波家は管領になれる・・・ということで、娘婿を管領にしたかったのです。
そして実権は自分に・・・!!
1466年12月、都を不穏な空気が私費足ました。
家督を奪われ京を離れていた畠山義就が山名宗全の求めに応じて数千の兵を従えて上洛したのです。
幕府の実権を細川勝元と畠山政長に握られた宗全は、これに対抗すべく畠山義就に接近していました。
宗全は勝元とたもとを分かち、政権奪取に・・・!!
義就の軍事力を目の当たりにした将軍・義政は、早々に義就の家督を認めます。
政長は家督を取り上げられたばかりか管領も罷免され、幕府内に居場所を失いました。
新しい管領には宗全の娘婿・斯波義廉がつき、剛腕フィクサー宗全のクーデターは成功しました。
これは終わりではなく・・・11年に及ぶ戦乱の始まりでした。
京都市上京区にある御霊神社・・・管領の座を追われ、京を離れるかと思っていた畠山政長はここに陣を敷いて義就に決戦を挑みます。
将軍・義政はあくまでも畠山氏の騒動として諸大名が加勢することを禁じます。
1467年1月18日、両畠山軍は激突!!
戦は義就の圧勝!!
しかし、敗走する政長軍に山名宗全の配下が追い打ちをかけます。
武士のメンツをつぶされた勝元はおさまらず、各地の軍勢に声をかけて宗全との対立が表面化していきます。
1467年5月26日、細川勝元軍は、花の御所・室町殿の向かいにある山名方の屋敷を襲い占拠。
山名方も宗全の娘婿・斯波義廉らの軍勢が応戦し、戦はみるみる上京一帯に・・・!!
ついに応仁の乱は、本格的な戦闘に突入しました。
翌日の夕暮れまで続いた激戦で、多くの寺院や家屋が焼失しました。
海鮮から二日後、将軍・義政は両軍に停戦を命じます。
これによって一旦戦闘はやんだものの、細川勝元は宗全との戦いを有利にするために、義政に将軍旗を求めました。
これまで中立を保とうとしていた義政を自分の方に引きずり込もうというのです。
圧力に押された義政は、勝元に将軍旗を与えました。
幕府は細川側に組することとなったのです。
かくして室町殿の西に陣取る山名方は西軍、東に陣取る細川方は東軍となります。
義政は弟・義視を東軍総大将にし、応仁の乱は泥沼化していきます。
応仁の乱による混乱で、京では商売が停滞し、食べ物にも不自由する状況に陥っていました。
しかし室町時代は商品経済が発展し、商店や行商による取引が盛んにおこなわれた時代でした。
女性も財産を持つことを認められ、経済活動で重要な地位をしめました。
時代の変化により、女性の社会進出が進んだ時代でした。
更に拡大する戦・・・
山陰から北九州を領国としていた大内政弘が・・・!!
大内は莫大な利益を得る日明貿易や瀬戸内海の制海権を巡って細川勝元と対立関係にありました。
勝元が幕府の覇権を握ることは、大内には見逃せないことでした。
東軍にとっても大軍をもって京に上ってくる大内は脅威でした。
東軍総大将・足利義視は大内の上洛前に西軍に内通する者を粛正しました。
しかし・・・1467年8月23日、遂に大内政弘が3万の軍勢を引き連れて京に現れました。
この時、東軍で思いもよらない事件が起こります。
大内の参戦に恐れをなした足利義視が、室町殿から姿をくらましたのです。
総大将がいなくなってしまった!??
大内の援軍を得た西軍は、室町殿、細川邸を取り囲み、一触即発の事態に至ります。
そして10月2日、室町殿の東、相国寺で大合戦が行われます!!
相国寺に陣を張っていた東軍に、西軍の畠山義就、大内政弘らが攻撃を仕掛けます。
3代将軍・足利義満が建立した大伽藍は、3日にわたり燃え続けたといいます。
その後、西軍は東軍の反撃を受け、寺の蓮池に足を取られて600人もが討たれたといいます。
壮絶な相国寺合戦以降、応仁の乱は小康状態に・・・。
1468年9月・・・きっかけは伊勢に逃れていた足利義視が将軍・義政の要請にこたえて上洛しました。
義視は復帰の条件として、幕府内で自分と対立する勢力の一掃を要求します。
が、義政に聞き入れられず、義視はまたもや出奔。
そしてあろうことか敵方・・・西軍に身を投じました。
奇怪な行動を見せる義視・・・その真意とは・・・??
足軽・・・応仁の乱で存在感を高めた戦力で、東西両軍とも彼らを雇って戦闘を繰り広げました。
略奪や放火によって敵を疲弊させるのが彼らの目的で・・・しかし、それは京都の町や人々に大きな被害をもたらしたのでした。
1469年・・・応仁の乱3年目・・・元号は文明に。
長引く戦乱を避け、公家や僧侶などの知識層は、洛中から逃れていきました。
これが連歌や茶の湯が各地に伝播することとなり、小京都という都市ができていきます。
幕府の中枢を担う斯波家の領国・越前・・・
斯波家は西軍山名宗全の娘婿・斯波義廉と、東軍・斯波義敏に分かれて家督を争っていました。
戦闘の末、越前を平定したのは、東軍の義敏でした。
敗れた西軍の義廉は、猛将として知られた西軍の足利孝景をむかわせ領国奪還に・・・!!
東軍はかねてからこの朝倉に目をつけていました。
西軍主力の朝倉に調略をしかけ、寝返りを誘っていたのです。
朝倉の条件は、自らを主君の領国・越前の守護とすること・・・勝元はこれを認め、朝倉は東軍に寝返ります。
越前を失ったことは、山陰に領国を持つ山名や大内にとって大きな痛手となりました。
それは西軍が日本海側からの補給路を断たれたことを意味していました。
1472年・・・応仁の乱6年目・・・
東軍・細川勝元と西軍・山名宗全は和平交渉に入りました。
しかし、東軍優勢の中の和睦に、畠山義就、大内政弘、足利義視は強く反対し、交渉は頓挫!!
1473年の暮れ・・・応仁の乱から7年目・・・
大きな転機が訪れます。
足利義政が将軍の座を息子の義尚に譲ったのです。
これで長年政権の行方を左右してきた将軍継嗣問題は一応の決着を見ます。
この年の3月18日、西軍を率いて幕府に反旗を翻して来た山名宗全が死去。
その2か月後の5月11日、東軍の総帥・細川勝元も死去。
細川・山名の後継者は和睦交渉を再開し、翌年山名が幕府に帰参することでおさまりました。
しかし、西軍の畠山義就と大内政弘はこの和睦を認めず、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。
義政の正室・富子は義視の義理の姉でもあります。
富子は夫・義政と義視の間を取り持ち、1476年・・・応仁の乱10年目で両者の和解を取り付けます。
富子は西軍の好戦派・大内政弘と幕府との交渉を進めます。
その結果、大内は領国4か国の守護職を安堵され、官位も上がるという厚遇を得て和睦。
最後まで矛を収めなかったのは、乱の発端となった畠山義就でした。
しかし、大内が撤退することとなり、孤立した義就も京を去らざるを得なくなりました。
1477年、応仁の乱は11年目にして収束したのでした。
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人びとはこれを”天狗流星”と呼び、不吉の前兆とおののきました。
その2年後、京を焼き尽くす戦乱が勃発!!
11年にわたる応仁の乱です。
武士による空前の長期戦は、将軍継嗣問題、有力大名の家督争い、貿易権益の奪い合い、幕府内の権力闘争など、多くの利害が入り乱れ、京を戦乱の世に変えました。
乱の始まりは畠山義就と畠山政長の家督争いでした。
ここに足利義政・正室日野子と足利義視・義尚親子の将軍継承問題。
山名宗全と細川勝元の権力闘争が絡んできます。
乱の発端となった畠山氏の抗争とは・・・??
京都・観光客でにぎわう神社仏閣の多くが、応仁の乱で被害を受けました。
清水寺も例外ではありません。
清水の舞台へと続く轟門・・・2014年の保存修理工事の際に、門の礎石周辺から焼けた土の層が発見されました。
その年代から応仁の乱の戦火を被ったとされます。
祇園祭で知られる八坂神社にも資料が残っています。
1466年と1477年の地検帳・・・当時の市民の生業や家の大きさがわかる住民台帳ともいえます。
残されていたのは京都の中心部、室町通りと西洞院通の下京2ブロック分です。
二つの帳面を比較すると、乱の後は154軒から60軒と・・・住民や商店が激しく減り、空き地が増えています。
一方で両方に書かれている残った家もありました。
応仁の乱からの復興を生き生きと描いた”上杉本洛中洛外図屏風”には、将軍が暮らし政務を執った室町殿は花の御所と呼ばれ、その壮麗さを誇りました。
市民たちの姿も細密に書かれています。
畠山氏惣領は、持国に子供がおらず、弟・持冨に家督を譲ることになっていました。
しかし、持国は家督継承者を庶子の義就に変え、時の将軍・足利義政もこれを認めました。
これに不満を持ったのは、持冨の子・弥三郎でした。
弥三郎は義就達に戦を挑み勝利!!
将軍・義政はこれに態度を変え、弥三郎を継承者と認めます。
これにより持国は隠居、義就は京を去ることになりました。
畠山家の争いの背後にいたのは、管領の細川勝元と有力大名の山名宗全。
彼等は内紛を煽り、弱体化させることで自分達の権力強化を企んでいました。
それを知った将軍・義政は、幕政の主導権を握らせまいと、勝元の家臣を処罰し、宗全を隠居させました。
さらに、弥三郎に家督を許した4か月後、義就を再び家督に据えます。
この措置に弥三郎は没落、弟・政長に後を託してこの世を去りました。
しかし、義政は、義就が意にそぐわない行動をとるので、政長を家督としました。
細川勝元は、政長に管領を譲り恩を売って後ろにつき、強大な権力を得ます。
室町幕府の中央政府は・・・
将軍の補佐役の管領が大きな力を持っており、細川・畠山・斯波の足利一族のうちの一つだけが就くことができます。
侍所の長官は所司と呼ばれ、侍所所司を務めるのは山名・赤松・京極・一色の家に限られていました。
これらを三管四職といい、彼らを中心に諸大名が連合政権的に室町幕府は運営されていました。
大名達の力をと弱めないと、将軍は上に立つことができませんでした。
細川勝元は、畠山氏の分裂を煽って、政治の主導権を握ろうと考えました。
将軍・足利義政は、正室・日野富子との間に嫡子がいなかったので、後継者として僧侶になっていた弟を還俗させ義視としました。
しかし、1年後・・・義政と富子の間に義尚が誕生。
義政はまず弟・義視に将軍を譲り、息子の成長を待って義尚を将軍にするつもりでした。
義政の真意は、将軍を退いた幕政に影響力を残すことでした。
これに細川勝元も異論はなく、富子も妹が義視の妻で良かったのですが・・・山名宗全はそうではありませんでした。
宗全の考えは、義政の政界からの完全引退でした。
義視が正真正銘の将軍にと思っていたのです。
それでは管領は・・・??
山名宗全は、斯波義廉に娘を嫁がせていました。
斯波家は管領になれる・・・ということで、娘婿を管領にしたかったのです。
そして実権は自分に・・・!!
1466年12月、都を不穏な空気が私費足ました。
家督を奪われ京を離れていた畠山義就が山名宗全の求めに応じて数千の兵を従えて上洛したのです。
幕府の実権を細川勝元と畠山政長に握られた宗全は、これに対抗すべく畠山義就に接近していました。
宗全は勝元とたもとを分かち、政権奪取に・・・!!
義就の軍事力を目の当たりにした将軍・義政は、早々に義就の家督を認めます。
政長は家督を取り上げられたばかりか管領も罷免され、幕府内に居場所を失いました。
新しい管領には宗全の娘婿・斯波義廉がつき、剛腕フィクサー宗全のクーデターは成功しました。
これは終わりではなく・・・11年に及ぶ戦乱の始まりでした。
京都市上京区にある御霊神社・・・管領の座を追われ、京を離れるかと思っていた畠山政長はここに陣を敷いて義就に決戦を挑みます。
将軍・義政はあくまでも畠山氏の騒動として諸大名が加勢することを禁じます。
1467年1月18日、両畠山軍は激突!!
戦は義就の圧勝!!
しかし、敗走する政長軍に山名宗全の配下が追い打ちをかけます。
武士のメンツをつぶされた勝元はおさまらず、各地の軍勢に声をかけて宗全との対立が表面化していきます。
1467年5月26日、細川勝元軍は、花の御所・室町殿の向かいにある山名方の屋敷を襲い占拠。
山名方も宗全の娘婿・斯波義廉らの軍勢が応戦し、戦はみるみる上京一帯に・・・!!
ついに応仁の乱は、本格的な戦闘に突入しました。
翌日の夕暮れまで続いた激戦で、多くの寺院や家屋が焼失しました。
海鮮から二日後、将軍・義政は両軍に停戦を命じます。
これによって一旦戦闘はやんだものの、細川勝元は宗全との戦いを有利にするために、義政に将軍旗を求めました。
これまで中立を保とうとしていた義政を自分の方に引きずり込もうというのです。
圧力に押された義政は、勝元に将軍旗を与えました。
幕府は細川側に組することとなったのです。
かくして室町殿の西に陣取る山名方は西軍、東に陣取る細川方は東軍となります。
義政は弟・義視を東軍総大将にし、応仁の乱は泥沼化していきます。
応仁の乱による混乱で、京では商売が停滞し、食べ物にも不自由する状況に陥っていました。
しかし室町時代は商品経済が発展し、商店や行商による取引が盛んにおこなわれた時代でした。
女性も財産を持つことを認められ、経済活動で重要な地位をしめました。
時代の変化により、女性の社会進出が進んだ時代でした。
更に拡大する戦・・・
山陰から北九州を領国としていた大内政弘が・・・!!
大内は莫大な利益を得る日明貿易や瀬戸内海の制海権を巡って細川勝元と対立関係にありました。
勝元が幕府の覇権を握ることは、大内には見逃せないことでした。
東軍にとっても大軍をもって京に上ってくる大内は脅威でした。
東軍総大将・足利義視は大内の上洛前に西軍に内通する者を粛正しました。
しかし・・・1467年8月23日、遂に大内政弘が3万の軍勢を引き連れて京に現れました。
この時、東軍で思いもよらない事件が起こります。
大内の参戦に恐れをなした足利義視が、室町殿から姿をくらましたのです。
総大将がいなくなってしまった!??
大内の援軍を得た西軍は、室町殿、細川邸を取り囲み、一触即発の事態に至ります。
そして10月2日、室町殿の東、相国寺で大合戦が行われます!!
相国寺に陣を張っていた東軍に、西軍の畠山義就、大内政弘らが攻撃を仕掛けます。
3代将軍・足利義満が建立した大伽藍は、3日にわたり燃え続けたといいます。
その後、西軍は東軍の反撃を受け、寺の蓮池に足を取られて600人もが討たれたといいます。
壮絶な相国寺合戦以降、応仁の乱は小康状態に・・・。
1468年9月・・・きっかけは伊勢に逃れていた足利義視が将軍・義政の要請にこたえて上洛しました。
義視は復帰の条件として、幕府内で自分と対立する勢力の一掃を要求します。
が、義政に聞き入れられず、義視はまたもや出奔。
そしてあろうことか敵方・・・西軍に身を投じました。
奇怪な行動を見せる義視・・・その真意とは・・・??
足軽・・・応仁の乱で存在感を高めた戦力で、東西両軍とも彼らを雇って戦闘を繰り広げました。
略奪や放火によって敵を疲弊させるのが彼らの目的で・・・しかし、それは京都の町や人々に大きな被害をもたらしたのでした。
1469年・・・応仁の乱3年目・・・元号は文明に。
長引く戦乱を避け、公家や僧侶などの知識層は、洛中から逃れていきました。
これが連歌や茶の湯が各地に伝播することとなり、小京都という都市ができていきます。
幕府の中枢を担う斯波家の領国・越前・・・
斯波家は西軍山名宗全の娘婿・斯波義廉と、東軍・斯波義敏に分かれて家督を争っていました。
戦闘の末、越前を平定したのは、東軍の義敏でした。
敗れた西軍の義廉は、猛将として知られた西軍の足利孝景をむかわせ領国奪還に・・・!!
東軍はかねてからこの朝倉に目をつけていました。
西軍主力の朝倉に調略をしかけ、寝返りを誘っていたのです。
朝倉の条件は、自らを主君の領国・越前の守護とすること・・・勝元はこれを認め、朝倉は東軍に寝返ります。
越前を失ったことは、山陰に領国を持つ山名や大内にとって大きな痛手となりました。
それは西軍が日本海側からの補給路を断たれたことを意味していました。
1472年・・・応仁の乱6年目・・・
東軍・細川勝元と西軍・山名宗全は和平交渉に入りました。
しかし、東軍優勢の中の和睦に、畠山義就、大内政弘、足利義視は強く反対し、交渉は頓挫!!
1473年の暮れ・・・応仁の乱から7年目・・・
大きな転機が訪れます。
足利義政が将軍の座を息子の義尚に譲ったのです。
これで長年政権の行方を左右してきた将軍継嗣問題は一応の決着を見ます。
この年の3月18日、西軍を率いて幕府に反旗を翻して来た山名宗全が死去。
その2か月後の5月11日、東軍の総帥・細川勝元も死去。
細川・山名の後継者は和睦交渉を再開し、翌年山名が幕府に帰参することでおさまりました。
しかし、西軍の畠山義就と大内政弘はこの和睦を認めず、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。
義政の正室・富子は義視の義理の姉でもあります。
富子は夫・義政と義視の間を取り持ち、1476年・・・応仁の乱10年目で両者の和解を取り付けます。
富子は西軍の好戦派・大内政弘と幕府との交渉を進めます。
その結果、大内は領国4か国の守護職を安堵され、官位も上がるという厚遇を得て和睦。
最後まで矛を収めなかったのは、乱の発端となった畠山義就でした。
しかし、大内が撤退することとなり、孤立した義就も京を去らざるを得なくなりました。
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