日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:早良親王

安倍晴明『〓〓内伝』 現代語訳総解説 占術奥義 [ 藤巻一保 ]

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妖気漂う魔都と呼ばれた平安京・・・。
そこに住む貴族たちは、物の怪や怨霊を信じて恐れていました。
そんな貴族たちのために、占いや呪術を行っていたのが陰陽師です。
中でも時の天皇や権力者に重用されたのが、安倍晴明でした。
呪術を巧みに操り、人々を物の怪から助け、超人的な力を持っていたといわれています。

平安時代に活躍した日本屈指の陰陽師・安倍晴明・・・
カラスの言葉がわかったとか、深夜に徘徊する鬼や物の怪・・・百鬼夜行が見えたなど、その伝説は数知れず・・・。
そんな晴明の手となり足となり働いたのが、式神です。
式神とは、普通の人には見えない鬼神のことで、晴明はそれを巧みに使って、様々なものを式神に変えたり、人や動物に憑依させたといわれています。
晴明は時に、式神に、家事や世話をさせたといわれています。
式神が使えるのは、陰陽師として高い能力を持っている証でした。
鎌倉時代の宇治拾遺物語には・・・
晴明が京都・嵯峨野にある寺を訪れたとき、若い僧侶がやってきてぶしつけな質問をしました。

「あなたは、式神を操るのが得意と聞きましたが、それで人や動物も殺せますか。」

「力を入れれば人でも何でも殺せますよ。
 しかし、私は生き返らせる術を知らないため、そんなことをしたら摂政の罪を犯したことになってしまいます。
 ですから致しません。」by晴明

出来るのにしないということを知ってしまった若い僧は、それを見てみたくなり、

「式神を使って、あのカエルを殺してみてください。
 一度だけでいいのです。」

しきりに頼むので、断り切れなくなった晴明は、近くにあった草をつまむと呪文を唱え、勢いよくカエルに投げつけました。
すると、草は式神となり、カエルを押しつぶして殺してしまったのです。
これを見た若い僧は、晴明の恐るべき呪術に腰を抜かし、、自分の安易な言動を反省したといいます。

陰陽師・安倍晴明は、陰陽寮という役所に所属する官僚でした。
陰陽寮とは、天皇の傍で、重要書類を作成する役所でした。
中務省に属する国家機関で、陰陽寮は陰陽道・天文道・漏刻・暦道の四つに分かれていました。
陰陽道とは国や天皇のために占いを行う部署で、天文道は天体を観測し占星術を行い、漏刻は水時計を使って時刻の管理を行い、歴道は毎日の吉凶を書き込んだ暦を造る仕事をしていました。
陰陽寮とは、国に関する様々な占いをする機関で、属するすべての職員が陰陽師でした。

当時、占いはとても大切なもので、天災を事前に知るため、神の言葉を聞くのが占いでした。
国家運営そのものにかかわる仕事で、陰陽寮の役人以外が占うことを大宝律令で禁じていました。
唯一占いを許された重要国家機関・陰陽寮・・・安倍晴明は天文道に属し、毎日星を観測し、異常があればその吉凶を占いで判断し、朝廷に報告していました。
晴明は遅咲きで、40歳を過ぎて、この天文道の得業生となっています。
得業生は、成績優秀者だけに与えられる身分で、後継者を養成するための制度です。
晴明は、その卓越した技量を買われて得業生に抜擢されました。
晴明は非凡な才能を発揮し、瞬く間に出世します。
50歳を過ぎた頃には、天文道の最高位に当たる天文博士にまで上り詰めます。
天文博士は、蔵人に星の異変などを直接報告できる役職です。
この時代、星の異変は神からの警告だといわれ、その役割は重要なものでした。

しかし、陰陽師の仕事はそれだけではなく、呪術で物の怪などを追い払うことも・・・。
呪術師のようなことをすることになったのは・・・
奈良時代の事、新しく即位した桓武天皇は、時代を刷新する為に、平城京から長岡京への遷都を行います。
すると、遷都の有力推進者が何者かによって暗殺されてしまいました。
黒幕として捕らえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。
早良親王は無実を訴え断食を行いましたが、受け入れられず・・・淡路島に流される途中に餓死してしまいました。
その遺体は、都に戻すことも許されず淡路島に埋葬しました。
それから間もなく、長岡京で不幸や災難が起こります。

・桓武天皇の妃・旅子が病死
・激しい雷雨が都を襲う
・天然痘が大流行
・桓武天皇の母が病死
・第一皇子安殿親王が病に伏せる

不安になった天皇は、陰陽師に占わせます。
すると。。。”早良親王の祟り”・・・あらぬ疑いをかけられて死んでいった早良親王が物の怪を引き連れて長岡京を襲っているというのです。
桓武天皇は、すぐさま陰陽師を淡路島へ送り込んで「鎮魂の祭り」を行わせます。
早良親王の祟り・・・そのほかにも祟りが・・・陰陽寮の役人が使われることとなり、この出来事以降、陰陽寮の仕事の中で呪術の比重が増えていくのです。

占いや呪術によってさまざまな禍に退所していった陰陽師・・・
そのバイブルは「簠簋内伝(ほきないでん)」です。
正式には・・・「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」です。
この本は、安倍晴明が編纂したといわれていますが・・・安倍晴明を受けて、後の時代の陰陽師や僧侶が編纂したのでは??といわれています。
全5巻からなり、方位の吉凶、暦の吉凶、風水、星占い・・・占いの総合百科事典のような内容になっています。

簠簋内伝には、様々な災いへの対処法が書かれています。
代表的なのが、
①泰山府君祭と呼ばれる安倍晴明も得意の秘法です。
人間の生死を司る神・泰山府君に延命長寿や病気平癒を祈願する陰陽道最高の祭事とされています。
門外不出とされ、陰陽師の中でも選ばれたもののみが行えました。
晴明もその一人です。

医療が発達していないこの時代、誰もが求めていたのは病の原因を知ることでした。

②六三除けの秘法
63
発病した年齢を9で割ってあまりの数をこの図に当てはめて病の原因を知るという方法です。

39歳の場合・・・39÷9=4余り3

なので、女性の場合右足、男性の場合は左足

に病の原因があるというものです。

9で割り切れる場合は、頭部に原因があります。
と、当時は信じられていました。

幼児は幼児の死亡率も高く、幼児の無病息災を願って、額に”犬”という文字を書きました。
犬の子は良く育つ・・・ということです。

病を治す呪術もあります。
晴明の時代から使われていた様々な呪術が記されている「呪詛調法記」には・・・
①原因不明の病を取り除く呪術
豆腐を用います。
豆腐1丁を病人の年の数に賽の目に切り、酒と醤油と共に神前に供えます。
そして、病気平癒祈願をして・・・「五王ある中なる王にはびこられ病はとくに逃げ去りにけり」を10回唱えます。
手を4回打ち、礼を9回します。
備えた酒を3口飲み、豆腐を5切れだけ食べます。
残りの豆腐は白い紙に包み、川か海でこう唱えます。
「千早振る神の祟りを見に受けて六三除けし身こそやすけれ」
そして、豆腐を包んだ紙を流すと病は治るとされていました。

しかし、この呪術を行っても治らないときには・・・
生きるか死ぬかを占う秘法もありました。

物の怪や怨霊を畏れていた平安時代・・・陰陽師たちはこんな呪術も行いました。
②悪霊を祓う呪術
「付くも不肖 付かかるも不肖 一時の夢ぞかし
 生は難の池水つもりて淵となる 
 鬼神に横道なし
 人間に疑いなし
 教化に付かざるに依りて
 時を切ってすゆるなり
 下のふたへも推してする」

と、長い呪文を唱えた後で、足の裏に3つお灸をすえます。
これですぐに悪霊が退散したといいます。

③生業繁栄
商売繁盛・・・毎日朝日を拝み、8回こう呪文を唱えます。
「金伯五金の気を呼び、全家の軸となる・・・」これで金銭に困ることは無くなると信じられていました。

④雷除け
白い紙に墨で・・・
東方 阿迦陀
西方 須多光
南方 刹帝魯
北方 蘇陀摩抳
と書き、それを家の四方の柱に貼るだけ・・・

平安時代の貴族たちが気にしていたのが「夢」です。
夢は、未来の吉凶を示すものと信じられていました。
そのため、夢で見たものが何を意味するのか読み解くのも陰陽師の重要な仕事でした。

安倍晴明が書いたといわれる「神霊感応秘蔵書」には・・・
人の体、食べ物、動物など15種類に分類されていて、何が吉で何が凶なのかを書いています。
雷は大吉・・・人に引き立てられるか官禄を得る
夜明けは大吉・・・寿命が延びる
蝶は凶・・・万事が定まらない前兆 相談事や商売は失敗する
朝顔の花の夢・・・女性で苦労するようになる
当時の人々は、陰陽師に夢を占ってもらうことで、未来を予測し、来る吉凶に備えたのです。

悪夢を見てしまった場合・・・その夢をいい夢に変える夢違えという呪法もありました。
「悪夢着草木吉夢成宝王」!!

陰陽師として確固たる地位を築いてきた安倍晴明・・・
天文博士になった安倍晴明・・・当時、天文博士の位階は正七位下が原則でした。
しかし、晴明はその上のくらいまで上り詰めます。
晴明が陰陽師として異例の出世を成し得たのは・・・
原因不明の頭痛を声明に占ってもらった花山天皇・・・すると・・・
「帝の前世であった者のドクロが岩の間に挟まっております。」
花山天皇が従者に命じて晴明が示した場所へと行かせると・・・そこには本当に古びたドクロが・・・。
すぐにこれを取り出すと、花山天皇の頭痛は無くなり、花山天皇は晴明への信頼を深くしていきます。
さらに晴明は、花山天皇の後に即位した一条天皇にも重用・・・日々の吉凶を占うのはもちろんのこと、帝が病に陥った際には、みそぎを行いたちまち回復させました。

陰陽道会の第一人者は、天皇が代を代わるごとに選ばれるのが常でした。
花山天皇から一条天皇の辺りは、晴明が大活躍をした時期で・・・
993年には正五位上を与えられ、異例の出世をし、天皇の蔵人所陰陽師にまで就任します。

998年、時の天皇・一条天皇の中宮・定子の周りで不幸が続きます。
父が突然亡くなる、兄が花山法皇を襲撃したのです。
一条天皇は、更なる災いを避けるために、数日間外出せず、食事を慎む”物忌み”を行うことに・・・
晴明はその際の祭司を命じられたのですが・・・その祭祀を放棄!!
始末書の提出を求められる大失態を犯します。
この時、晴明80歳近く・・・少しは休みたいというアピールだったのかもしれません。
晴明は忙しく・・・朝廷で絶大な権力を持っていた藤原道長・・・
道長の日記には度々晴明が登場します。
栄華を極めた道長でさえ、祟りを畏れて晴明を頼っていました。

時の権力者・道長に重用されたことで、晴明の位は従四位下に・・・年収は361石・・・4億円となりました。
他の追随を許さない安倍晴明・・・吉平、吉昌という息子がいました。
中でも、長男・吉平は、父の才能を受け継いでいました。
吉平は、陰陽寮を率いる長官にまで出世。
安倍家の行く末も安泰・・・
1005年晴明はこの世を去りました。
晴明に全幅の信頼を寄せていた一条天皇は、その死をいたく悲しみます。
そして、晴明の偉業をたたえるために、屋敷跡に神社を造りました。
平安時代、人を神として祀ったことはほとんどなく、まして、一官僚を神として祀るなど、前代未聞の事でした。
境内の一角には、晴明が呪術で掘り当てた井戸があります。
今も、滾々と湧き出て来るこの水を飲むと、様々なご利益が得られるとか・・・。

安倍晴明の墓は、その力を欲する人々のために、各地に作られています。
しかし、貴族の世が終わり、武士の世が始まると、陰陽師の地位は揺らぎ始めます。
安泰と思われた安倍家にも危機が・・・。

鎌倉時代になると、陰陽師は将軍家に徴用され、多くが関東に下りました。
室町時代には、晴明の子孫である安倍有世が将軍・義満に重用され、晴明を超える従二位の官位を得て、国政を担う最高幹部となりました。
安倍家の地位は確固たるものに・・・その後、陰陽師の需要が広まっていきます。
およそ10年に及んだ川中島の戦い・・・戦国武将武田信玄と上杉謙信は、尾張の見えない戦いに早く終止符を打ちたいと・・・共にある方法に打って出ます。
それは、陰陽師たちを陣に迎えることでした。
陰陽師に勝つために祈祷を行わせたり、戦を始める日時を占ったり、作戦の吉凶まで判断させたとか・・・
占いや呪術を信じなかったといわれる織田信長も、陰陽師に頼ったことがあります。
1575年長篠の戦いで・・・様子が書かれた絵に、陰陽師が写っています。
六芒星を背負っています。

onmyouji
ところが、戦乱の世が長引き、戦が複雑化していくと、兵法を知り尽くした軍師が占いをするようになり、陰陽師が次第に活躍の場を失っていきます。
そして、天下人が戦乱の世を終わらせる頃には、陰陽師の多くは没落・・・
そこで、生き残りをかけて策を練ったのは、安倍家の子孫たちでした。


安倍家が生き残りをかけて狙いを定めたのが、時の将軍・徳川家康でした。
家康に重用されることでお家の存続を図ろうとしたのです。
しかし、この策には問題がありました。
安倍家は、晴明の時代から朝廷に仕えてきた家柄でした。
その安倍家を陰陽師として徳川が使うことは、将軍・家康でもできないことでした。
そこで安倍家が考えたのは・・・苗字を土御門に変えたのです。
それによって別の家のようにふるまったのです。
安倍家は苗字を変えることで、朝廷に憚ることなく家康の求めに応じて、江戸に足を運び信頼を得ていきます。

そして、5代将軍綱吉の頃には土御門家が陰陽師すべてを統括しても良いという許しを得ます。
土御門家(安倍家)は、陰陽道界の宗家となりました。
しかし、明治維新で陰陽道が禁止され、衰退していきます。
私たちの暮らしの中には、大安や仏滅を気にしたり、鬼門などの包囲方角を気にしたり・・・いまだに陰陽道が深くかかわっています。
これも、安倍晴明をはじめとする陰陽師たちがいかに頼りにされていたのかを示す証なのかもしれません。

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弘法大師空海が歩いた奈良 (奈良を愉しむ)

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千年の都・・・京都・・・ひときわ目を引くのが東寺の五重塔です。
東寺は平安時代の幕開けに際して建てられた特別な城です。
その役割は、様々な災いから新しい都を護るためにありました。
この寺を、天皇から直々に託された人物こそ、弘法大師・空海です。

空海が生きた奈良~平安は、日本は激しく動いていました。
天皇位を脅かす僧、跋扈する怨霊、天変地異・・・降りかかる禍に・・・
ときの桓武天皇は、10年で2度の遷都を余儀なくされます。

そんな中・・・大陸から最先端の密教を持ち帰った空海・・・
その法力で、都を護ることを託されたのです。
しかし、本来空海は、この時日本にはいない人物でした。
遣唐使として唐に渡った空海・・・
科せられた留学期間は20年・・・しかし、僅か2年で切り上げて帰国!!
死罪にもあたる選択でした。

空海生誕の地として知られる香川県善通寺市・・・
ここで語学にもたけた空海の発見がありました。
佐伯直氏の墓には・・・その石室内に、国内でも僅か数点しか出土していない青銅製の冠帽がありました。
日本でなく、朝鮮半島で製作されたと思われています。
別の古墳からは外洋船の壁画が・・・
この地域には、長らく渡来人が暮らし、彼らを支配下に置いていたのが空海の祖先・佐伯直氏と思われます。
空海は、中国の言葉や文章に秀でていました。
人間・・・空海の姿とは・・・??

奈良時代後期、日本は激動の時代を迎えていました。
桓武天皇は、2度の遷都・・・異例の政治を余儀なくされました。
70年の奈良の都を捨てた桓武天皇・・・
その原因の一つが奈良の仏教界でした。
6世紀半ば・・・朝鮮半島から日本にもたらされた仏教・・・
以来天皇は、仏教によって国家の安寧を願う鎮護国家を政策としてきました。
しかし、8世紀になると、全国の国分寺の建立や、東大寺の廬舎那仏造営など、財政を圧迫するようになってきます。
さらに、天皇の庇護を受けた奈良の仏教僧達が、政治介入を始めていたのです。
その象徴が弓削道教。。。
称徳天皇に仕える僧侶の身でありながら、天皇の政策に大きな影響力を及ぼし、自ら天皇になろうとしました。
こうした奈良の仏教界の僧は、五代にわたって天皇を出していた天武天皇系と緊密に結びついていました。
新たに天武天皇系から出た桓武天皇は、奈良の仏教勢力を政治から切り離したいと考えていました。

784年11月、桓武天皇は平城京から北におよそ40キロ離れた長岡京への遷都を決断します。
この時、桓武天皇は、異例の詔を発していました。
「私的な寺院を移転、新設することを禁ずる」
これによって、奈良の仏教勢力は、寺院を新たな都に移転することを阻まれました。
しかし・・・ほどなく軋轢を生みます。
785年9月、桓武天皇の右腕として長岡京造営を任されていた公暁・藤原種継が暗殺されます。
犯人を捕まえ尋問すると、桓武の退位を企てるクーデターが露見!!
その首謀者の一人として名が挙がったのが、桓武の弟・早良親王でした。
早良親王は11歳の時に東大寺で出家した元僧侶・・・
奈良の仏教勢力と深いかかわりを持ち、桓武天皇に反発し、自分たちを中核中軸とする勢力をもう一度取り戻そうとしていました。
背景に、奈良の仏教勢力がいたことは、まぎれもない事実でした。
桓武天皇は、早良親王を流罪とし・・・しかし、その道中、早良親王は無実を訴えて憤死!!

その後、桓武天皇で次々と異変が・・・
788年~二人の妻と母が次々と亡くなり・・・息子の安殿親王が病に臥し・・・
792年8月・・・大水害・・・
桓武天皇は恐れおののいていました。
全ては早良親王の祟りではないのか・・・??
そして、僅か10年で長岡京を離れ・・・

794年10月平安京遷都。
二度の遷都は、奈良の仏教界と早良親王の怨霊から逃れるため・・・止むに已まれぬ行動でした。
平安ではない歴史的な事実があったから、平安京と名付けたのです。
平安京という新しい都を守護するには、奈良仏教とは違う新しい仏教が必要!!
この頃、20年に一度の遣唐使が計画されていました。
遣唐使に唐から最先端の仏教を期待します。

その頃・・・31歳の空海は、山野で修業に明け暮れていました。
18歳で都の大学に進学、高級官僚への道が約束されていたにもかかわらず僅か1年余りで中退し、仏の道を歩み始めていました。
修行中に触れたのが密教・・・
密教とは、インドで生まれた仏教の一種で、様々な呪文や神秘的な儀式をとり行う最先端の教えでしたが、日本には本格的には伝わっていませんでした。
「理解できないところがあり、質問をしてもわかる人もいなかった。」by空海
日本で密教を学ぶには限界がある・・・と、唐に渡ることを画策します。
一介の無名の僧でありながら、遣唐使に選ばれます。
朝廷から命じられた留学期間は20年・・・
この時、同じ遣唐使として桓武天皇の期待を一身に受けていた僧が最澄でした。
後に、天台宗の開祖となる最澄・・・すでに新しい仏教の担い手として桓武天皇の寵愛を受けていたのです。
朝廷が最澄に定めた留学期間は1年・・・すぐに帰国してほしいと考えていたからです。
日本を出発した空海は、半年後長安へ・・・いかにして密教を学ぶのか・・・??

805年唐の都・長安に滞在していた空海は、密教の師を探していました。
当時、長安の南東にあった青龍寺・・・空海がこの寺で出会ったのが、恵果でした。
恵果は、インドから伝わった密教の正当な流れを受け継ぐただ一人の僧・・・
歴代皇帝から篤い信頼を得、1000人の弟子がいたと言います。
空海と初めて会ったとき・・・
「私はあなたが来るのを長い間待っていました。」と言ったといいます。
恵果は多くの弟子を差し置いて、空海に密教の全てを伝授します。
その証となるのは・・・空海が経過自身から授かった五鈷鈴・五鈷杵・・・ともに、密教儀式で使われる法具の一種です。
他にも、巨大な曼荼羅や、密教経典を授かります。
しかし・・・出会いからわずか半年でこの世を去ってしまった恵果。
恵果は空海に遺言を残していました。

「すぐに帰国し、密教の教えを国家に奉り、国中に広めてほしい。」

しかし、空海に課せられた留学期間は20年・・・未だ1年4か月・・・どうする・・・??

「奈良の仏教の教えは、苦しむ患者を前に、病気の原因や薬の効能をただ論じるようなもの。
 密教の教えは、薬を調合し、服薬させ、病を取り除くことができる。」

古代では、宗教的な力、霊的な力を以ても、安全保障をしなければなりませんでした。
しかし、奈良仏教は、学問仏教的な色彩が濃く、儀式や儀礼、修行という面では未熟だったのです。
その未熟な部分を密教は完全に補完できるというイメージが空海にはありました。
密教は奈良の仏教よりも実行力に勝る!!
新しい都に相応しい!!

しかし、任期は20年・・・天皇の命に背いていいのか・・・??
死罪になれば、今までの教えが水の泡・・・。
唐に留まるべき・・・??恵果阿闍梨亡き今、20年もどうやって過ごす??
天竺に行く・・・??

進むも退くも、いばらの道・・・??

806年、空海は唐の皇帝に向けて手紙を認めます。
「私は20年で売るべき成果を、1年で体得することができました。
 密教こそ、桓武天皇の勅命に対する答えなのです。」by空海

日本に向かう船に乗り込む空海。
恵果の遺言に従って、直ちに日本に戻ったのです。

2年ぶりに祖国へ・・・しかし、処遇に困った朝廷は、3年も都に入ることを許しませんでした。
この頃、日本の政治状況は変わってきていました。
空海が帰国する半年前・・・806年3月、桓武天皇が病に倒れて死去。
そのあおりを受けたのが、空海よりも先に帰国していた最澄でした。
桓武天皇の庇護のもと、天台宗を開いていた最澄でしたが、後ろ盾を失ったことで、奈良の仏教勢力との対立が表面化!!
810年9月、追い打ちをかけるように・・・時の上皇・平城太上天皇の変(薬子の変)・・・再び都を平城京に移すと挙兵したのです。
時の天皇・嵯峨は、すぐにこれを鎮圧!!
桓武の政策を引き継ごうとしていましたが・・・死罪を含む多くの処罰者を出すことになります。
この事件が空海の密教の力を示すこととなります。
天皇の許しを得て、国家安寧を祈願する密教儀式を執り行ったのです。
812年最澄が空海から灌頂を授かります。
空海は、鎮護国家の要として嵯峨天皇の信頼を一身に受けることとなります。
823年、空海は嵯峨天皇の勅命によって、一つの寺を下賜されます。
東寺の平安京の中、天皇の命によって建てられた寺は東寺と西寺。
そのうちの東寺が都を守護する寺として、空海に与えられたのです。
空海は、ここで、唐にもなかった新しい密教世界の表現を試みます。
大日如来を中心に鎮座する21体の仏像・・・それまで平面だった曼荼羅を立体の世界へ・・・!!
桓武天皇が願って止まなかった奈良仏教に代わる新しい仏教の招来・・・。
それを空海は、目に見える形で平安京にもたらしたのです。

ここ東寺から日本の仏教が始まる・・・
空海のオリジナルの仏教が・・・!!

唐から帰国して10年・・・朝廷に願い出て、高野山に密教道場を開きます。
都から遠く離れたこの地で、自分や弟子たちが修行に専念できる場所を作ったのです。

「唐から帰国して多年を経たが、いまだ密教の教えは広く流布していない。
 縁のある方々の力添えによって経典を書写し、教えを広めたい。」

そこで空海は、日本各地の仏教僧たちに経典の書き写しを依頼、その一人が東北地方を中心に活躍していた僧・徳一。
徳一は、奈良の仏教勢力出身でしたが、天台宗・最澄と教えを巡り対立し、論争は5年・・・
しかし、空海は、奈良の僧とも積極的に交流し、関係を深めていました。

更に民衆にも布教・・・しかし、障壁が・・・!!
当時の僧は、生活の全てを国が賄っている公務員!!
その仕事は国家の安寧を祈る事であり、民衆への布教活動は固く禁じられていました。
しかし空海は・・・??
唐で学んだ土木工事などを行い民衆たちに伝えます。
理屈ではない、まず苦しんでいる人を救うのが仏教!!
実践こそがすべて・・・!!
それを体現したのが、弘法大師・空海でした。

最晩年の言葉
「すべての生きとし生けるものが悟りを得るまで私は祈り続ける。」
空海の教えは、今も救いを求め続ける人々に生き続けています。

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平安時代中期・・・都を席巻した天才呪術師がいました。
安倍晴明(920?~1005)です。
seimei2



















式神を伴って、悪霊退散!!呪術を巧みに操って人々を救い、意のままに雨をも降らせた・・・!!
陰陽師として、小説や映画でもおなじみです。
しかし、その生涯は多くの謎に包まれています。
そんな陰陽師の正体とは・・・??

kuzunoha大阪府和泉市にある信太森葛葉稲荷神社には、晴明の出生にまつわる伝説が残っています。
母は葛の葉・・・
迷い込んできた狐を助けた豪族の安倍安名、助けた際に傷を負います。
人間に姿を変え介抱する葛の葉・・・こころを通じ合わせともに暮らすようになり、生まれた子供が童子丸・・・のちの安倍晴明です。
親子3人で幸せに暮らしていましたが・・・ある日、幼い晴明が、狐になった母を見てしまいました。
恐ろしさのあまり号泣・・・葛の葉は、我が子に霊力を授けると・・・姿を消したのでした。
そんな晴明の人生には不思議なことがたくさんあります。

seimei青年になった晴明が街を歩いていると、どこからともなく声が聞こえてきたので声を聴いてみると・・・話していたのはカラスでした。
晴明は鳥の言葉が分かったのです。
「内裏の北西に例が宿った土器が埋まっていて帝を病気にしている」
カラスの言葉にすぐにその土器を掘り出し、呪術で霊を沈め、帝の病を治したともいわれています。

存在していた師匠は加茂忠行です。
その加茂忠行は大変優れた占い能力を持っていました。
ある夜、牛車に乗る忠行のお供をしていた晴明は、百鬼夜行に出くわします。
忠行の術によって姿を隠し、事なきを得るのですが・・・百鬼夜行が見えるのは、陰陽師として優れている証拠!!
忠行は、晴明に知りうるすべての術を教えます。
こうして晴明は師に学び、陰陽師となっていきます。

そんな陰陽師とは・・・??
晴明神社には、魔よけの記「五芒星」は、晴明が考案したと言われています。
若くてイケメンに書かれる晴明ですが、活躍したのは40歳以降、亡くなったのは85歳、長生きをしていろいろな功績がありました。
官僚・・・天皇の詔を文章にするという大切な役・・・中務省の中の一つ、陰陽寮と言われる役所に所属する役人でした。
4つの部署(陰陽道・暦道・天文道・漏刻)に分かれ働いていたのはおよそ70人。
陰陽道では国や天皇の占いを行い、歴道では毎日を占い暦を作り、天文道は天文や気象・・・占星術を行い、漏刻では時間を管理していました。
このすべての部署で最も重要視されていたのは占い・・・当時の人々にとって神の言葉を聞く言葉であり、国の行く末を左右する大切なものでした。

そのため、陰陽道の役人以外が占いを行うことは固く禁じられていました。
占いは、陰陽五行説に基づき、森羅万象は陰と陽という二つと、木・火・土・金・水という五つの要素からなると考えられていてこれをもとに占いをしていました。
歴史書に初めて出てくる晴明は40歳・・・陰陽寮の天文道の中で働いていた一人でした。
陰陽寮の役人=陰陽師で、占いを司る国家公務員でした。


国家公務員だった安倍晴明、物事の吉凶を占うだけではなく、まじないによって物の怪を払う呪術使いの役目もしていました。
陰陽師が二つの顔を持つようになったのは・・・
784年の奈良時代、桓武天皇は、平城京から長岡京への遷都を強行!!
すると、遷都の有力推進者が何者かによって暗殺されてしまいました。
このとき黒幕としてとらえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。

親王は無実を訴え断食したものの受け入れられず、淡路島に流される途中で餓死してしまいました。
それでも桓武天皇は許さず、遺体を都に入れずに淡路島に埋葬しました。
すると、長岡京に次々と不幸が・・・!!
788年、桓武天皇の妻・藤原旅子が死去
     5か月後に激しい雷雨が都を襲う
789年、皇太后・高野新笠が病死
     第一皇子・安殿親王が病に伏せる
     天然痘が大流行
多くの死者が出ました。

恐ろしくなった桓武天皇が陰陽師に占わせます。
すると・・・すべては早良親王の祟りだ!!
怨霊となった親王が物の怪とともに長岡京を襲っている!!
桓武天皇は、さっそく陰陽師を淡路島に送り「鎮魂の祭り」を行わせました。
呪術の需要が増え、陰陽師も退治を行うようになったのです。
怨霊・呪術=陰陽師というイメージが付きました。

祟りを恐れ、平安京への遷都を決めた桓武天皇は、今度こそは長く続く都を・・・!!
ということで、風水を使って四神相応の地を探します。
kyou北(玄武)には山、南(朱雀)には窪地、東(青龍)には川、西(白虎)には道のある場所を・・・!!
そのため平安京は、北に船岡山、南に巨椋池、東に鴨川、西に山陰道・・・の地が選ばれました。


そして、鬼が出入りするという鬼門(北東)に、上賀茂神社、下鴨神社を作り守りを固めます。


しかし、それでも早良親王の祟りは収まりません。
平安は、鬼や物の怪が棲む”魔の都”と呼ばれてしまいます。
そこで活躍したのが陰陽師・安倍晴明です。

不吉なこと・・・病気・・・それらはみんな、物の怪の仕業・・・??
物の怪におびえる貴族にとって、陰陽師が欠かせない存在となっていきます。

52歳で天文博士となった安倍晴明は、陰陽師としては遅咲きでしたが、晩年異例の出世をしていきます。
陰陽師としては誰も手に入れたことのない従四位を!!
どうやって陰陽師の頂点へと上り詰めたのでしょうか・・・??

天皇のための呪術を頻繁に行うようになった晴明・・・花山天皇の確固たる信頼を得ていきます。
7歳で天皇となった一条天皇にも重用され、日々の吉凶、病の際には禊を・・・
こうして時の天皇の信頼を得ていった晴明は、993年正五位上を叙され、995年、75歳の時には蔵人所陰陽師に就任します。

「この世をば
      我が世とぞ思ふ 望月の
 欠けたることも
     なしと思へば」

栄華を誇った藤原道長も、当時、晴明を重用した一人で、日記には晴明の名がよく出てきます。
全てを手に入れた道長でさえ、祟りを恐れて陰陽師・晴明に頼っていたのです。

ライバルを排除した晴明は、陰陽師のトップとして従四位下という前代未聞の地位へと上り詰めたのです。
一年間の俸給は約361石・・・4億円!!

権力者の信頼とライバルの排除。。。
呪術で犯人を見つけたり、占いで病の原因を探したり見つけたり・・・
この能力は本当なのでしょうか??
1004年・・・深刻な干ばつが・・・!!
晴明は雨乞いの祭り”五龍祭”を行い、見事、雨を降らせました。
本当に呪術で・・・??
晴明は天文博士という役職職にあり、星を見る以外に天気を見ることができました。
天候の先読み・・・安倍晴明の呪術の正体は、天文や気象の知識で呪いを信用させていたようです。
得意だったのは”泰山府君祭”。
危篤状態だった高僧の命を蘇らせたこともあったといいます。
しかし、ここにもからくりが・・・
当時の人々は、呪術で病が治ると心から信じていました。
晴明ほどの陰陽師の呪いとあらばなおさら!!
これは現代のプラシーボ(偽薬)効果と同じです。

専門知識の応用と相手の思い込みでが安倍晴明の呪術の真相だったのです。


美青年に書かれることの多い闇のヒーロー・安倍晴明は、実は遅咲きの天才で老獪な男。
魔都が安倍晴明を必要とし引き上げた男でした。
85歳で亡くなった安倍晴明・・・一条天皇はその死を悼み、晴明をまつる神社を・・・それが晴明神社です。
平安時代、人間を神としてまつったモノはほとんどなく、一役人を神と崇める・・・前代未聞のことでした。

晴明神社は、かつて晴明が暮らしていた跡地に建てられました。
境内の一角には、晴明が呪術で掘り当てたという井戸が残っています。
今も沸き続ける井戸は、飲めば様々なご利益があると言われています。
晴明は・・・亡くなった後もその力を必要とされ、各地に墓が作られました。
晴明の偉業はその名声とともに神格化され、人々を魅了していきます。
伝説の陰陽師・安倍晴明として・・・!!


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