安倍晴明『〓〓内伝』 現代語訳総解説 占術奥義 [ 藤巻一保 ] 価格:2,916円 |
妖気漂う魔都と呼ばれた平安京・・・。
そこに住む貴族たちは、物の怪や怨霊を信じて恐れていました。
そんな貴族たちのために、占いや呪術を行っていたのが陰陽師です。
中でも時の天皇や権力者に重用されたのが、安倍晴明でした。
呪術を巧みに操り、人々を物の怪から助け、超人的な力を持っていたといわれています。
平安時代に活躍した日本屈指の陰陽師・安倍晴明・・・
カラスの言葉がわかったとか、深夜に徘徊する鬼や物の怪・・・百鬼夜行が見えたなど、その伝説は数知れず・・・。
そんな晴明の手となり足となり働いたのが、式神です。
式神とは、普通の人には見えない鬼神のことで、晴明はそれを巧みに使って、様々なものを式神に変えたり、人や動物に憑依させたといわれています。
晴明は時に、式神に、家事や世話をさせたといわれています。
式神が使えるのは、陰陽師として高い能力を持っている証でした。
鎌倉時代の宇治拾遺物語には・・・
晴明が京都・嵯峨野にある寺を訪れたとき、若い僧侶がやってきてぶしつけな質問をしました。
「あなたは、式神を操るのが得意と聞きましたが、それで人や動物も殺せますか。」
「力を入れれば人でも何でも殺せますよ。
しかし、私は生き返らせる術を知らないため、そんなことをしたら摂政の罪を犯したことになってしまいます。
ですから致しません。」by晴明
出来るのにしないということを知ってしまった若い僧は、それを見てみたくなり、
「式神を使って、あのカエルを殺してみてください。
一度だけでいいのです。」
しきりに頼むので、断り切れなくなった晴明は、近くにあった草をつまむと呪文を唱え、勢いよくカエルに投げつけました。
すると、草は式神となり、カエルを押しつぶして殺してしまったのです。
これを見た若い僧は、晴明の恐るべき呪術に腰を抜かし、、自分の安易な言動を反省したといいます。
陰陽師・安倍晴明は、陰陽寮という役所に所属する官僚でした。
陰陽寮とは、天皇の傍で、重要書類を作成する役所でした。
中務省に属する国家機関で、陰陽寮は陰陽道・天文道・漏刻・暦道の四つに分かれていました。
陰陽道とは国や天皇のために占いを行う部署で、天文道は天体を観測し占星術を行い、漏刻は水時計を使って時刻の管理を行い、歴道は毎日の吉凶を書き込んだ暦を造る仕事をしていました。
陰陽寮とは、国に関する様々な占いをする機関で、属するすべての職員が陰陽師でした。
当時、占いはとても大切なもので、天災を事前に知るため、神の言葉を聞くのが占いでした。
国家運営そのものにかかわる仕事で、陰陽寮の役人以外が占うことを大宝律令で禁じていました。
唯一占いを許された重要国家機関・陰陽寮・・・安倍晴明は天文道に属し、毎日星を観測し、異常があればその吉凶を占いで判断し、朝廷に報告していました。
晴明は遅咲きで、40歳を過ぎて、この天文道の得業生となっています。
得業生は、成績優秀者だけに与えられる身分で、後継者を養成するための制度です。
晴明は、その卓越した技量を買われて得業生に抜擢されました。
晴明は非凡な才能を発揮し、瞬く間に出世します。
50歳を過ぎた頃には、天文道の最高位に当たる天文博士にまで上り詰めます。
天文博士は、蔵人に星の異変などを直接報告できる役職です。
この時代、星の異変は神からの警告だといわれ、その役割は重要なものでした。
しかし、陰陽師の仕事はそれだけではなく、呪術で物の怪などを追い払うことも・・・。
呪術師のようなことをすることになったのは・・・
奈良時代の事、新しく即位した桓武天皇は、時代を刷新する為に、平城京から長岡京への遷都を行います。
すると、遷都の有力推進者が何者かによって暗殺されてしまいました。
黒幕として捕らえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。
早良親王は無実を訴え断食を行いましたが、受け入れられず・・・淡路島に流される途中に餓死してしまいました。
その遺体は、都に戻すことも許されず淡路島に埋葬しました。
それから間もなく、長岡京で不幸や災難が起こります。
・桓武天皇の妃・旅子が病死
・激しい雷雨が都を襲う
・天然痘が大流行
・桓武天皇の母が病死
・第一皇子安殿親王が病に伏せる
不安になった天皇は、陰陽師に占わせます。
すると。。。”早良親王の祟り”・・・あらぬ疑いをかけられて死んでいった早良親王が物の怪を引き連れて長岡京を襲っているというのです。
桓武天皇は、すぐさま陰陽師を淡路島へ送り込んで「鎮魂の祭り」を行わせます。
早良親王の祟り・・・そのほかにも祟りが・・・陰陽寮の役人が使われることとなり、この出来事以降、陰陽寮の仕事の中で呪術の比重が増えていくのです。
占いや呪術によってさまざまな禍に退所していった陰陽師・・・
そのバイブルは「簠簋内伝(ほきないでん)」です。
正式には・・・「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」です。
この本は、安倍晴明が編纂したといわれていますが・・・安倍晴明を受けて、後の時代の陰陽師や僧侶が編纂したのでは??といわれています。
全5巻からなり、方位の吉凶、暦の吉凶、風水、星占い・・・占いの総合百科事典のような内容になっています。
簠簋内伝には、様々な災いへの対処法が書かれています。
代表的なのが、
①泰山府君祭と呼ばれる安倍晴明も得意の秘法です。
人間の生死を司る神・泰山府君に延命長寿や病気平癒を祈願する陰陽道最高の祭事とされています。
門外不出とされ、陰陽師の中でも選ばれたもののみが行えました。
晴明もその一人です。
医療が発達していないこの時代、誰もが求めていたのは病の原因を知ることでした。
②六三除けの秘法
発病した年齢を9で割ってあまりの数をこの図に当てはめて病の原因を知るという方法です。
39歳の場合・・・39÷9=4余り3
なので、女性の場合右足、男性の場合は左足
に病の原因があるというものです。
9で割り切れる場合は、頭部に原因があります。
と、当時は信じられていました。
幼児は幼児の死亡率も高く、幼児の無病息災を願って、額に”犬”という文字を書きました。
犬の子は良く育つ・・・ということです。
病を治す呪術もあります。
晴明の時代から使われていた様々な呪術が記されている「呪詛調法記」には・・・
①原因不明の病を取り除く呪術
豆腐を用います。
豆腐1丁を病人の年の数に賽の目に切り、酒と醤油と共に神前に供えます。
そして、病気平癒祈願をして・・・「五王ある中なる王にはびこられ病はとくに逃げ去りにけり」を10回唱えます。
手を4回打ち、礼を9回します。
備えた酒を3口飲み、豆腐を5切れだけ食べます。
残りの豆腐は白い紙に包み、川か海でこう唱えます。
「千早振る神の祟りを見に受けて六三除けし身こそやすけれ」
そして、豆腐を包んだ紙を流すと病は治るとされていました。
しかし、この呪術を行っても治らないときには・・・
生きるか死ぬかを占う秘法もありました。
物の怪や怨霊を畏れていた平安時代・・・陰陽師たちはこんな呪術も行いました。
②悪霊を祓う呪術
「付くも不肖 付かかるも不肖 一時の夢ぞかし
生は難の池水つもりて淵となる
鬼神に横道なし
人間に疑いなし
教化に付かざるに依りて
時を切ってすゆるなり
下のふたへも推してする」
と、長い呪文を唱えた後で、足の裏に3つお灸をすえます。
これですぐに悪霊が退散したといいます。
③生業繁栄
商売繁盛・・・毎日朝日を拝み、8回こう呪文を唱えます。
「金伯五金の気を呼び、全家の軸となる・・・」これで金銭に困ることは無くなると信じられていました。
④雷除け
白い紙に墨で・・・
東方 阿迦陀
西方 須多光
南方 刹帝魯
北方 蘇陀摩抳
と書き、それを家の四方の柱に貼るだけ・・・
平安時代の貴族たちが気にしていたのが「夢」です。
夢は、未来の吉凶を示すものと信じられていました。
そのため、夢で見たものが何を意味するのか読み解くのも陰陽師の重要な仕事でした。
安倍晴明が書いたといわれる「神霊感応秘蔵書」には・・・
人の体、食べ物、動物など15種類に分類されていて、何が吉で何が凶なのかを書いています。
雷は大吉・・・人に引き立てられるか官禄を得る
夜明けは大吉・・・寿命が延びる
蝶は凶・・・万事が定まらない前兆 相談事や商売は失敗する
朝顔の花の夢・・・女性で苦労するようになる
当時の人々は、陰陽師に夢を占ってもらうことで、未来を予測し、来る吉凶に備えたのです。
悪夢を見てしまった場合・・・その夢をいい夢に変える夢違えという呪法もありました。
「悪夢着草木吉夢成宝王」!!
陰陽師として確固たる地位を築いてきた安倍晴明・・・
天文博士になった安倍晴明・・・当時、天文博士の位階は正七位下が原則でした。
しかし、晴明はその上のくらいまで上り詰めます。
晴明が陰陽師として異例の出世を成し得たのは・・・
原因不明の頭痛を声明に占ってもらった花山天皇・・・すると・・・
「帝の前世であった者のドクロが岩の間に挟まっております。」
花山天皇が従者に命じて晴明が示した場所へと行かせると・・・そこには本当に古びたドクロが・・・。
すぐにこれを取り出すと、花山天皇の頭痛は無くなり、花山天皇は晴明への信頼を深くしていきます。
さらに晴明は、花山天皇の後に即位した一条天皇にも重用・・・日々の吉凶を占うのはもちろんのこと、帝が病に陥った際には、みそぎを行いたちまち回復させました。
陰陽道会の第一人者は、天皇が代を代わるごとに選ばれるのが常でした。
花山天皇から一条天皇の辺りは、晴明が大活躍をした時期で・・・
993年には正五位上を与えられ、異例の出世をし、天皇の蔵人所陰陽師にまで就任します。
998年、時の天皇・一条天皇の中宮・定子の周りで不幸が続きます。
父が突然亡くなる、兄が花山法皇を襲撃したのです。
一条天皇は、更なる災いを避けるために、数日間外出せず、食事を慎む”物忌み”を行うことに・・・
晴明はその際の祭司を命じられたのですが・・・その祭祀を放棄!!
始末書の提出を求められる大失態を犯します。
この時、晴明80歳近く・・・少しは休みたいというアピールだったのかもしれません。
晴明は忙しく・・・朝廷で絶大な権力を持っていた藤原道長・・・
道長の日記には度々晴明が登場します。
栄華を極めた道長でさえ、祟りを畏れて晴明を頼っていました。
時の権力者・道長に重用されたことで、晴明の位は従四位下に・・・年収は361石・・・4億円となりました。
他の追随を許さない安倍晴明・・・吉平、吉昌という息子がいました。
中でも、長男・吉平は、父の才能を受け継いでいました。
吉平は、陰陽寮を率いる長官にまで出世。
安倍家の行く末も安泰・・・
1005年晴明はこの世を去りました。
晴明に全幅の信頼を寄せていた一条天皇は、その死をいたく悲しみます。
そして、晴明の偉業をたたえるために、屋敷跡に神社を造りました。
平安時代、人を神として祀ったことはほとんどなく、まして、一官僚を神として祀るなど、前代未聞の事でした。
境内の一角には、晴明が呪術で掘り当てた井戸があります。
今も、滾々と湧き出て来るこの水を飲むと、様々なご利益が得られるとか・・・。
安倍晴明の墓は、その力を欲する人々のために、各地に作られています。
しかし、貴族の世が終わり、武士の世が始まると、陰陽師の地位は揺らぎ始めます。
安泰と思われた安倍家にも危機が・・・。
鎌倉時代になると、陰陽師は将軍家に徴用され、多くが関東に下りました。
室町時代には、晴明の子孫である安倍有世が将軍・義満に重用され、晴明を超える従二位の官位を得て、国政を担う最高幹部となりました。
安倍家の地位は確固たるものに・・・その後、陰陽師の需要が広まっていきます。
およそ10年に及んだ川中島の戦い・・・戦国武将武田信玄と上杉謙信は、尾張の見えない戦いに早く終止符を打ちたいと・・・共にある方法に打って出ます。
それは、陰陽師たちを陣に迎えることでした。
陰陽師に勝つために祈祷を行わせたり、戦を始める日時を占ったり、作戦の吉凶まで判断させたとか・・・
占いや呪術を信じなかったといわれる織田信長も、陰陽師に頼ったことがあります。
1575年長篠の戦いで・・・様子が書かれた絵に、陰陽師が写っています。
六芒星を背負っています。
ところが、戦乱の世が長引き、戦が複雑化していくと、兵法を知り尽くした軍師が占いをするようになり、陰陽師が次第に活躍の場を失っていきます。
そして、天下人が戦乱の世を終わらせる頃には、陰陽師の多くは没落・・・
そこで、生き残りをかけて策を練ったのは、安倍家の子孫たちでした。
安倍家が生き残りをかけて狙いを定めたのが、時の将軍・徳川家康でした。
家康に重用されることでお家の存続を図ろうとしたのです。
しかし、この策には問題がありました。
安倍家は、晴明の時代から朝廷に仕えてきた家柄でした。
その安倍家を陰陽師として徳川が使うことは、将軍・家康でもできないことでした。
そこで安倍家が考えたのは・・・苗字を土御門に変えたのです。
それによって別の家のようにふるまったのです。
安倍家は苗字を変えることで、朝廷に憚ることなく家康の求めに応じて、江戸に足を運び信頼を得ていきます。
そして、5代将軍綱吉の頃には土御門家が陰陽師すべてを統括しても良いという許しを得ます。
土御門家(安倍家)は、陰陽道界の宗家となりました。
しかし、明治維新で陰陽道が禁止され、衰退していきます。
私たちの暮らしの中には、大安や仏滅を気にしたり、鬼門などの包囲方角を気にしたり・・・いまだに陰陽道が深くかかわっています。
これも、安倍晴明をはじめとする陰陽師たちがいかに頼りにされていたのかを示す証なのかもしれません。
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