小京都と言われる飛騨高山は、江戸時代の面影を今に止め、多くの観光客でにぎわっています。
この地で250年前に異彩を放つ一揆が起きました。
それは大原騒動・・・飛騨高山の農民1万人が決起しました。
3代にわたって19年もの間、親子2代の代官と対峙しました。
過酷な増税と、容赦のない拷問・・・タブーとされていた鉄砲による一揆弾圧。
農民たちはあらゆる手段で代官に抗い続けました。
強訴、捨訴、駕籠訴・・・
大原騒動、その真実とは・・・??

高山市の中心部にある飛騨国分寺・・・
1771年12月11日、この境内に飛騨高山の農民たちが続々と集まってきました。
その数実に数千人!!
人びとは大きな声で叫び、罵り、その声は町中に響き渡りました。
明和騒動と呼ばれる1回目の大原騒動です。
どうしてこんなにたくさんの農民たちが集結したのでしょうか?

大原騒動の顛末を参加した農民が著した「夢物語」
そこには農民たちの発言が鮮明に記されています。

「とにかく今度の代官は金銭欲が強い人で、皆でいろいろ工面してお金を納めた。
 江戸表からの要請だというが、そんなことはない。
 代官の言うことは信じられない。」

代官の支配に対する不平不満、疑念が騒動の原因でした。

1766年5月10日、高山陣内に新しい代官が。。。大原彦四郎です。
大原はもともと下級武士の出で、勘定所留役→勘定組頭→代官と順調に出世してきていました。
就任すると、高山陣屋の地役人に転勤をいいます。
地役人は皆、高山の出身で農民と近しい存在でした。
大原はここで飛騨高山の統治に厳しく臨む姿勢を鮮明にしました。

1771年飛騨高山に激震が・・・
向こう5年間、飛騨高山の樹木の伐採を禁止すると幕府の命令でした。
乱伐で木材の質が落ちたので、暫く山を休めようというのです。飛騨高山は江戸幕府の直轄地・天領でした。
豊富な山林は御用木にされ、山間部の農民たちはその伐採で糧を得ていました。
それが中止となれば、農民たちにとって死活問題です。
農民たちは代官所に向かい、御用木の伐採継続を願い出ました。
しかし、大原代官は「これは幕府の決定である」と、願いを退けました。
そして農民たちに追い打ちをかけます。
「陣屋の修復が必要なので、その費用は農民たちが負担するように」
息をのむ農民たち・・・しかし、大はr代官は・・・
「とはいえ、このままでは生活に困るだろう
 幕府に年貢を安くしてもらえるように取り計らってやる
 ついては運動費用として3000両を用立てよ」
どうして大原代官はこのように難題を要求したのでしょうか?

代官は勘定奉行の管轄下にあり、そのトップは老中・田沼意次でした。
田沼政権下に、大原彦四郎代官は、金銀の力で全てのことをうまくやっていたのです。
金権政治家・田沼意次を後ろ盾に、大原は異例の出世を成し遂げてきたのです。

かくして大原代官の難題に抗うべく、飛騨高山の農民たちは飛騨国分寺に集結してきました。
1771年12月14日、声を上げた一人の人物・・・大古井村伝十郎です。
伝十郎は、休山取りやめ嘆願のために江戸に赴いていました。
そこで、大原代官の更なる不正の情報を入手しました。

「休山で困っている俺たちを助けるどころか、大原代官は飛騨高山の商人たちと手を組み、治めた年貢米を巡って金儲けを企んでいる・・・!!」

代官は年貢米を元に安い米を買い、利ザヤを稼ごうとしている。。。
この話を聞いた農民たちは激高!!
暴徒と化して商人たちの屋敷を襲います。
これが明和騒動です。
打ちこわしは、2晩にわたりました。

農民たちの考えを、正式な文書として大原代官に提出。
そこには46の村、百姓たち95人の署名、捺印が円形に推されていました。
一致団結のために行われたものです。

農民たちの並々ならぬ努力を前に、3000両の資金提供と陣屋の修復費用の負担を取り下げます。
しかし、打ちこわしに参加した農民たちには厳しいお咎めが・・・徹底した首謀者探しのため、伝十郎ら数十人をつかまえ厳しい取調べが行われました。
角責、火責で苦しみ、さけび、かなしむ有様は目も当てられぬ上古湯でした。
そして・・・伝十郎たちに判決が・・・
大古井村伝十郎・・・
百姓どもを呼び集め、居宅へ踏み込み、建具諸道具損さし候 始末に及び候段 徒党の頭取に相決し 不届き至極につき・・・死罪申しつくるものなり。
伝十郎は打ちこわし首謀者として2年間獄中の後、1774年斬首!!



岐阜県高山市飛騨一宮水無神社・・・古来農業を奨励する神社として飛騨の人たちに厚い信頼を受けてきました。
神社の前に立つ強大な碑・・・そこには「一宮大集会之地」と書かれています。
明和騒動から2年後、この境内で農民たちの大集会が行われました。
その数、およそ1万!!
中心人物は本郷村善九郎、わずか19歳の若者でした。
安永騒動と呼ばれるこの一揆はどうして起こったのでしょうか?
1773年3月18日、陣屋に近い花里村に、大原代官の姿がりました。
検地が行われたのです。
元禄検地以来、飛騨では80年余り検地が行われていませんでした。
その間に新しくできた田畑を検地するのが目的でした。
その様子を見ていた農民たちおどろきます。
従来の検地では、1~2割少なめに測量します。
これは縄心といって、凶作や農民の意欲に対する配慮でした。
しかし、大原代官の検地は、全く縄心がありません。
極めて厳格に、正確な面積を帳簿に記していきます。
そして約束を破って、古田までも測量し始めました。
古田を正確に測量し、さらに新しい田畑を追加することで、年貢が2~3割増し、場所によっては5割増しとなりました。

花里村の検地の様子は、瞬く間に飛騨高山中に広がり、農民の代表たちは大原代官に抗議しました。

「古田は、検地しないお約束でした」

すると大原は・・・
「時に望んでは、嘘言方便も世の宝なり」

1773年7月22日、江戸品川の沖合に一艘の船が浮かんでいました。
中にいたのは密かに江戸に潜入していた飛騨の農民たちです。
彼等は大原代官の悪政を止めるために非常手段に訴えるべく相談していました。
それは、駕籠訴。
駕籠訴とは、幕府の有力者や大名の駕籠が通るところで待ち伏せして、直接訴状をだす・・・当時厳禁されていました。
決行する農民たちの家族は、国中の農民で面倒を見ると誓っての命をかけての訴えでした。
7月26日午前9時、桜田門通り・・・そこに、駕籠訴を決行する6人の農民の姿が・・・!!
訴える相手は老中・松平武元・・・。
いよいよ駕籠がやってきて・・・たくさんある駕籠・・・どれが松平武元の駕籠かわからない・・・
そこで農民たちは近所の者に金を渡して、どの駕籠か教えてもらうように頼んでいました。
脱兎のように飛び出す6人!!
ようやく駕籠にたどり着いて駕籠が止まり・・・早速嘆願書を差し出し・・・
決死の駕籠訴は成功!!訴えは老中に届いたのです。
しかし、決行した6人は一人は牢死、5人は獄門となりました。

駕籠訴決行の報せを聞いた大原代官は激怒!!
村の代表者を呼びつけ・・・
「6人の者は、村の総代ではない。
 私共の全く存ぜぬことである。」という文書を要求しました。

これに納得できない農民たちが、1773年9月、飛騨一宮水無神社に集まってきました。
その数1万!!
率いるのはわずか18歳の本郷村善九郎。
善九郎は農民たちに呼びかけます。
「駕籠訴を命がけで決行したのは、我々の代表だ!!
 どんなにつらい目にあおうとも、偽りの証文に捺印することはできない・・・!!」
10月20日、善九郎ら3000人の農民が、高山陣屋に押しかけました。
強訴の結構です。
強訴とは、多数の農民が団結し、領主側を圧倒・・・強引に要求をのませる百姓一揆を指します。
陣屋の門前に姿を現した大原代官に、善九郎は言います。
「今年の年貢米の上納を、来年3月まで延期してほしい。
 検地御赦免願いのため、代表3000人を江戸へ送るので、代官の添え状を書いてほしい」
3000もの農民に恐れをなした代官は、こう答えます。
「お前たちの願い承知した。」
歓喜の声を上げる農民、善九郎達。。。
この時、大原代官は、すでに武力による弾圧を考えていました。

かねてから幕府は一揆が起きた際には、幕府の沙汰を待たず直ちに近隣の藩に出兵を要請せよという通達を出していました。
大原代官は、隣国の郡上藩に一揆鎮圧を要請。
500人もの兵が高山藩に向かいました。
11月15日未明・・・1万もの農民が立て籠る飛騨一宮水無神社を郡上藩の大軍が襲いました。
この時、驚くべき事態が・・・!!
足軽20人が先頭に立ち、鉄砲を次々に撃ち始めました。
島原の乱以降、一揆制圧には鉄砲を撃ってはいけないというのが幕府の方針でした。
それを曲げ、幕府は鉄砲使用の許可を出したのです。
神社に入れば、手荒な真似は出来ないと思っていた農民たちは逃げ惑うのみ・・・
鉄砲による死者4人、逮捕者350人!!

首謀者善九郎は、自宅で捕らえられ・・・
抗うことなく善九郎は、年老いた両親に
「命は初めから無きものと覚悟していました。
 先立つことは不幸ですが、これも宿命と諦めてください。」
農民たちに下された判決は、磔4人、獄門10人、死罪2人、遠島14人・・・
このほか、罰金など1万人の農民の殆どがなんらかの罪に問われました。
農民の完全な敗北でした。

1774年12月5日、本郷村善九郎 獄門・・・。

検地は再開され、飛騨の石高は約25%増しの5万5000石に!!
農民たちの命をかけた戦いは、水泡と帰したのです。

1777年5月、大原代官は将軍お目見えの布衣郡代に昇進。
我が世の春を謳歌していました。
しかし、1779年、大原郡代は原因不明の熱病で悶死。
人びとは、亡くなった農民たちの祟りだと噂しました。

1783年7月、浅間山大噴火!!火山灰が空を覆い、各地に天明の大飢饉をもたらします。
飛騨高山も大凶作に・・・。
この時飛騨郡代の任にあったのが大原亀五郎・・・1781年9月22日に布衣郡代を父から継いでいました。
亀五郎は先代と同じく、ひたすら金銭を農民から収奪する姿勢を崩しませんでした。
この年、農民たちから6128両を借財。
翌1784年には江戸幕府からの返戻金1600両を没収。
その一部は、田沼意次の賄賂に使われたともいわれています。
飛騨の郡代は世襲というのはあまりなく、幕府から役人が派遣されてくる中・・・
二代続いたのは、金銀の力をもって世襲の配慮が働いたのでは・・・??

安永騒動で徹底的な弾圧を受けた農民たちは、大原亀五郎の悪政に耐えるほかありません。
しかし、生活は苦しくなるばかり・・・
追いつめられた飛騨の農民は、一策を講じます。
捨訴です。
捨訴とは、訴状を奉行所や老中の門前に密かに捨て去る・・・
身元がわからないので、誰が捨てたのか限定されずに、飛騨高山の様子を伝えることができる・・・!!
農民たちは、大原郡代に対抗しようとします。
折しも、1786年田沼意次は失脚していました。

この時農民がわらをもすがる思いで訴えたのは・・・新たな老中・松平定信でした。
松平は清廉な政治を目指していました。
訴状を見た定信は、諸藩や天領を視察する巡見使を飛騨高山に派遣!!
これを知った大原亀五郎は、農民が巡見使に願い出ないよう徹底的に取り締まります。
この時、農民側で活躍したのが大沼村忠次郎です。
忠次郎は飛騨を出て、能登の白瀬村まで逃亡・・・巡見使が飛騨に入るのを見計らって再び飛騨に戻り・・・
1789年5月26日、飛騨高山大萱村で巡見使に会います。
忠次郎が大原亀五郎郡代の悪政を伝え、国中の農民が困窮し、それを省みない郡代など百姓に勝利はありません。と訴えました。
8月20日、江戸の勘定奉行の屋敷において、郡代と農民の吟味が行われました。
朝10時、大原亀五郎がお白州に・・・夕方5時ごろ、忠次郎らが呼び出されました。
郡代と農民とが同じ白州で平等に吟味を受けたのです。
さらに郡代の部下や農民たちに吟味を行い、ようやく4か月後・・・
1789年12月25日、判決が申し渡されます。

大原亀五郎は八丈島流罪、大夢魔村忠次郎お咎めなし!!

他の農民の殆どが、お叱りなどの軽い罪で済みました。
かくして死者34人、遠島17人など多くの犠牲を払った大原騒動は、19年にわたる長い戦いに幕を閉じたのです。

自分達の命と生活をかけた飛騨の農民たちの戦いは、今も静かに語り継がれています。

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