日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:明智光秀

天下取りへの第一歩、桶狭間の戦い・・・織田信長が、今川義元の大軍を打ち破った奇跡の逆転劇です。
しかし、実は信長には用意周到な作戦があったのでは・・・??
どうして桶狭間の戦いに勝てたのでしょうか??

レジェンド&バタフライ



1560年、27歳の時、桶狭間の戦い!!
この頃、織田家が支配する周りは、敵だらけ・・・!!
危機的状況を打開するために織田家の長男として育てられた信長。
しかし、期待外れの変わり者とみられていました。
信長公記には、従来の信長の姿が描写されています。

”いつも着物の袖を外し、短い袴をはいただらしない格好で、特に見苦しいには街中で栗や柿、うりをかじりつき、人に寄り掛かり、ぶらぶら歩いている”

大うつけ・・・大バカ者と噂されたといいます。
その後、父の病死で当主となった信長・・・
うつけ者が、どうやって強大な今川軍と戦ったのでしょうか??
従来、桶狭間の戦いのきっかけは、今川義元が京の都にのぼろうとしたためだといわれていました。
江戸時代初期に記された信長公記には・・・

”今川義元は上洛し、国家の政治を正すため兵を挙げた”

その為、今川義元が尾張に進軍してきたというものです。
さらに、桶狭間で信長が勝った理由は、これまでは奇襲攻撃だといわれてきました。

”敵の後ろ側へ迂回して移動しろ
 旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣を攻めろ”

信長軍は北へ迂回しながら今川軍に見つからないように丘陵地帯を進み、桶狭間に展開する義元本陣を急襲したというものです。
しかし、近年、研究者が記録を総合的に見直すと、全く異なる戦いの姿が浮かんできました。

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事の発端は、桶狭間の戦いの7年前・・・信長が、19歳で家督を継いだことでした。
それを知った義元は、

「信長はうつけと聞く
 今が大高城を手に入れる好機!!」by義元

大高城は尾張でも大きく重要な城でした。
そこを義元は奪い取ります。
大高城を手に入れたことで、義元は織田家の領地を南北に両断!!
しかも、この大高城は伊勢湾の目の前にあり、海上交易の利益を得られます。
大高城を奪ったことで、織田の経済力に打撃を与えたのです。
また、大高城と同じ年、義元は同じく伊勢湾に面した鳴海城も手に入れ、経済的支配を確固たるものにしました。
信長は絶体絶命の危機・・・!!
しかし、義元の策を読んで、戦略を練っていたのです。

桶狭間の年の前年、1559年26歳の時、信長は大高城のそばに2つの付城・・・丸根砦と鷲津砦を作ります。
さらに、北に3つの砦を作りました。
大高城と鳴海城を砦で囲み、今川軍の兵糧の運び込みを妨害、義元が大高城を助け出陣すせざるを得ない状況を作ったといわれています。
義元が出てくることを見越していたからこそ、付城を作って包囲して、攻め立てたことがきっかけで義元が出てきたのです。
今までのイメージとは違い、信長の方が自ら仕掛けていって義元を誘い込んでいたのです。

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1560年5月12日、今川義元出陣!!
大高城救援に向かう義元・・・道中にあったのが桶狭間でした。
この時、清州城で戦況をにらんでいた信長は、5月19日早朝、出陣!!
向かったのは、鳴海城東に位置する善照寺砦でした。
この砦は、これまで鳴海城を監視する砦と考えられていました。
ところが、砦の構造を丁寧に検証すると・・・
鳴海城の反対側の山の端っこに作った城だったことが分かります。
つまり、善照寺砦からは鳴海城が監視できないのです。
その代わり、南東の方角が一望出来ました。
善照寺砦の南東方面・・・それは桶狭間でした。
信長は最初から、今川軍の行動を読んで、桶狭間方面を監視するためにこの砦を設置してたのです。
今川の軍勢が尾張に向かってやって来れば、いち早くそこでキャッチできる監視塔のような役割を果たしていたのが善照寺砦でした。

記録によると、信長はここで2時間ほど動いていません。
信長が善照寺砦に到着したころ、すでに鷲津砦・丸根砦が今川先陣によって落とされていました。
この状況で信長が桶狭間に向かえば、大高城にいる今川軍に背後をつかれる恐れがありました。
また、最も重要だったのは、義元が今どこにいるのか??という情報でした。
戦全体を一望できる善照寺砦から、大高城の今川軍が動かない・・・義元は桶狭間にいるという二つの条件を見極めていたのです。

さらに、信長は運も味方につけていました。
二つの砦を落した今川軍は、人馬を休め、休憩。
この時、急に天候が激変し、豪雨が降りだしました。
今川軍は雨の中、動きが鈍くなり、火縄銃なども火薬が湿って使えない状況でした。
織田軍は砦に待機し、雨が上がるのを待っていました。
しばらくすると一転、晴れ渡る空~~!!
その時、信長は、

”空が晴れるのをご覧になって、信長は槍をとって大声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃった”

織田軍は、砦から2000の兵で正面攻撃!!
今川軍は総崩れ・・・義元は討ち死に!!

桶狭間の戦い・・・それは、奇跡の逆転劇ではなく、用意周到な戦術家・信長が起こした必然の勝利かもしれません。

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1568年、35歳の時、桶狭間の戦いの8年後、信長は室町幕府の将軍候補・足利義昭と共に上洛。
従来、天下統一のため将軍を利用したとされてきました。
明治期の歴史書には・・・

”信長の上洛は、義昭のためではなく足利氏の代わり天下を平らげんとする意味”

その後、義昭を京から追放し、それに代わって自ら権力を握った事実から、信長のイメージは伝統的秩序の破壊者に・・・!!

ところが、近年の研究では信長の違った一面が見えてきています。
どうして将軍・足利義昭と共に上洛したのでしょうか??

1568年、35歳の時、信長は足利義昭と共に上洛。

”将軍上洛のともとして織田信長が参陣する”

しかし、この発見された書状の年を見てみると、永禄9年となっています。
信長は、実際の上洛の2年も前から義昭と共に京を目指す計画を立てていました。
しかし、永禄9年の時点では、桶狭間の戦いで今川義元に勝利したとはいえ信長の周囲は強敵ばかり・・・
いつ攻められてもおかしくないため、上洛など考える余裕はありませんでした。
しかし、信長はそんな状況の中でも、義昭と共に上洛することを考えていました。
信長にとって、義昭と上洛することはどんな意味があったのでしょうか??

1467年、応仁の乱・・・京で始まった権力争いは、全国を巻き込む戦乱へと発展します。
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
そんな中でも信長は幕府の権威を重んじていたことを示す記録が残っています。
上洛の5年前に書かれた室町幕府の家臣の名簿・・・
その中に、”織田尾張守信長”の名が・・・!!
信長も、将軍を支える大名のひとりだったのです。
権威を重んじる信長が、上洛を目指した目的・・・それは、室町幕府の再興を図ったからです。

信長は、特に中央が維持された中で、「自分の領国があるんだ」という考え方の人物でした。
中央も鎮まるべきだという考えから、積極的に動いて行きました。
伝統的秩序に対する信長の思い・・・
新たに見直されている言葉「天下布武」!!
信長が用いたスローガンで、”天下に武を布く”と読めます。
自分の書状に、この正印を押した信長・・・
これまでは、「天下を武力で我がものとする」という意味で捉えられてきました。
しかし、この天下布武・・・当時の使われ方は・・・??
天下・・・今では日本全国という意味ですが、戦国時代、日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主は、天下の領主と呼ばれる」
つまり、天下とは、全国ではなく、京都周辺の地域(京・山城・摂津・和泉・河内・大和)を示しているのです。
もう一つの手がかりが、”天下静謐”という表現です。
上洛後の信長が、足利義昭への手紙で使った言葉です。
「天下」すなわち「五畿内」に将軍を置き穏やかに治めることを理想としているのです。
これらの事実から、天下布武の意味を読み解くと・・・

”武力という手段を使ってでも五畿内の平和的秩序を目指す”

というスローガンとも取れるのです。
実際に信長のやったことを見ていくと、乱れていた中央を鎮めるという意味合いが一番強い・・・
安泰を維持していく、そういう世の中を求めていたのです。

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1568年9月、35歳の時に4万の軍勢を率いて京へ!!
立ちはだかる敵を蹴散らします。
遂に、義昭と共に念願だった上洛を果たしました。
10月には、信長の軍事力を背景に、義昭が征夷大将軍に就任。
その後、信長が政権内で担当したのは、義昭が行う行政の監査、京の町の治安維持・・・
あくまで財政や守護の任命などの内政面は、義昭が担当しました。
二人は補い合う関係でした。

しかし、蜜月の時は長くは続きませんでした。
上洛からわずか2年・・・信長の怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉氏の反逆をきっかけに、畿内周辺の有力大名や寺社勢力が信長に反旗を翻したのです。
これに対し、信長は戦を重ね、支配地域を拡大!!
勢いを増す信長に、義昭は不安を抱き始めます。
やがて二人の関係に亀裂が生じていきます。
将軍義昭は、信長と組んで気付いたら周りが敵対者に囲まれてしまっている!!
自分も共倒れになってしまうんではないか??
そんな中、徐々に信長とのすれ違いが生まれてきます。
これに対しの信長は、義昭のふるまいを非難した意見書を送ります。
十七箇条の意見書です。
義昭の怠慢や悪政を、十七条にまとめ、厳しい言葉で忠告しています。

・忠勤の部下を大切にせよ
・えこひいきがあってはならない
・世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

信長としては、中央を治める将軍なんだから、しっかりしなさいということを求めていました。
義昭からすれば、不信感の上に、説教まで・・・!!と、怒りが増大してきていました。

上洛から5年後の1573年、信長40歳の時、義昭は信長に対し挙兵。
しかし、信長の圧倒的軍勢の前になすすべなく和睦するほかありませんでした。
信長は、義昭を都から追放。

「命を助けて後世の人々の評価に委ねようと、恨みを恩で返すつもりで送り届けた」

伝統的秩序の破壊者という信長のイメージ・・・
しかし、その実像は、室町幕府再興を願う武将だったのかもしれません。

将軍を京から追放し、戦を重ねて領地を広げた信長・・・
その強さを支えたのは卓越した経済力でした。
信長は、これまでにない経済政策を次々と打ち出していったパイオニアだといわれてきました。
しかし、そのほとんどは、他の武将のマネだったことがわかっています。
信長は、どうやって経済を発展させたのでしょうか??
楽市楽座とは、これまで商人たちが商売を行う際に、土地の所有者に払っていた税を廃止し、組合に入らなければ商売ができなかったものを緩和、自由な商売を認め、経済を活性化させたものです。
歴史の教科書でも信長の経済政策として取り上げられるので、革新的なイメージと相まって、信長発案の印象がありました。
しかし、近年、戦国時代の都市や政策の計画の研究が見直され・・・
楽市楽座は、信長が実施する以前からありました。
現在残る文献では、近江の戦国大名・六角義賢が1549年に楽市令を出していることが確認されています。
信長が岐阜で初めて楽市政策を始める18年も前のことです。

さらに、今川氏の楽市令・・・信長が楽市楽座を行う前年の1566年に出されています。
治安の悪化で活気が減った富士大宮の市に対して税をとらない楽市にすると書かれています。
こうした先人たちの試みである楽市楽座を信長が取り入れたのは、当時解決しなければならない課題があったからです。
流通経済の乱れ・・・特に、拠点となるところを通らずに、流通が展開してしまう・・・!!
信長としては、戦争が終わった状況でそれを再興していく必要がありました。
足利義昭を追放したのち、世の中の安泰を望む信長にとって、戦によって乱れた町と、流通経済の復興が必要だったのです。
信長は、以前からの楽市政策に、ある改良を加えて城下町の復興を活かします。

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1567年、信長が34歳の時に岐阜城下に楽市楽座令を出します。
最初の条文にこう書かれています。

”この市場に移住するものについては、国内の流通を保証し、税を免除する”

城下に移住する商人たちに限って税を免除!!
定住する人を増やして、城下が栄えることが目的としたのです。

自分の支配地域だけで、戦に必要な物資が全て集まることは、各地で戦っていた信長にとって大きなメリットでした。
そして信長は、経済力を高めるため、当時の日本随一の港・堺に目をつけます。
堺は当時、海外貿易で巨万の富を得ていました。
中国・明との貿易では、1回の航海につき2万貫(20億円)の利益が出ていたともいわれています。
当時の戦国大名の多くは、土地を獲得して年貢による収益を得るのが一般的でした。
しかし、信長は、領地拡大だけでなく、港に目をつけ、貿易での商人たちから税をとることで、収入を増やしました。
さらに貿易港・堺を押さえたことは、戦にも有利に働きます。
その効果が分かる戦いが・・・
1575年、信長42歳の時、武田勝頼の軍と対峙した長篠の戦いです。
織田軍が鉄砲を駆使し、武田軍に勝利したことで知られています。
2019年、合戦場の発掘調査で、織田軍の武器から驚くべき特徴が浮かんできました。
織田軍の鉄砲の玉・・・成分調査をすると、東南アジアの鉛の成分が出ました。
鉛は加工が簡単で、銃弾を大量生産できるため、鉄砲の玉に適した材料です。
しかし、日本ではあまり取れず、十分な量をとるのが難しい素材です。
信長は、堺の貿易ルートを使って、東南アジアから銃弾の原料となる鉛を大量輸入していました。
さらに、このルートで、国内では手に入らない硝石・・・火薬の原料も同時に手に入れていました。
硝石は、国内では取れません。
それを押さえているのは堺の港・・・信長は当然硝石の独占権を握ることとなります。
鉛の弾を輸入していた港は堺・・・堺を押さえていた信長が、圧倒的に鉛も手に入れていました。
武田は鉄砲はありましたが、火薬は作れないし鉛の玉もない・・・
鉄砲はほとんど使えませんでした。

たとえ改革の先頭を走らなくても、先人の成功を取り入れ、プラスアルファ―を加えることで、ライバルを上回る・・・それが織田信長でした。

元は尾張の大名にすぎなかった信長・・・
46歳の頃に安土に居城を移し、所領を大きく広げていました。
その躍進の原動力となったのが、身分にとらわれず重用した家臣たちです。
羽柴秀吉は低い身分から家臣となり、明智光秀は足利将軍の側近の出身、滝川一益に至っては忍者だったという逸話もあります。
一方で、結果が出なければ追放もある厳しい実力主義は、家臣たちとのゆがみを生んでいきます。

1579年、46歳の時に安土城が完成。
信長は安土城に身を置き、各方面の統治を自らの有力家臣たちに任せるようになります。
広い領国を、ひとりでは見切れないためです。
この時信長は、家臣たちに厳しい統治のルールを課します。
柴田勝家らが越前を治める際に、信長が勝頼に送った書状が信長公記に残っています。

”不法な税は取るな
 ただし事情がある場合は我々に尋ねよ
 そして裁判は公正に
 双方が納得しないようなら、我々に伺いを出して判決せよ”

そして、各地を治める家臣たちのもとに与力と呼ばれる信長直属の配下たちを監視役、目付として付けました。
信長は、部下を監視し、支配に揺るぎがない体勢を築いていこうとします。
しかし・・・お互いを離反させるような、仲良くさせないような仕掛けが多すぎて、織田か診断の中がぎすぎすしていました。
そこが、信長流人事の欠点でした。
そして、仕事ぶりがよくない家臣を罵倒!!
信長の父の時代から織田家に仕えていた尾張出身の重臣・・・佐久間信盛。
佐久間は、本願寺と戦う前線の指揮官でしが、目立った功績はあげていませんでした。
そこで信長が、佐久間信盛に送りつけた手紙には・・・

”丹波は明智が平定し、目覚ましい活躍をしている
 秀吉も数カ国で”功績をあげている
 それに引き換えお前は、5年間、感心する功績を一度もあげていない
 剃髪して高野山へ行け”

信長は、他の武将の名を上げて、佐久間を激しく批判します。
そしてこの手紙ののち、佐久間信盛は追放・・・2年後に、失意のうちに亡くなります。

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さらに、この状況に不安を抱いた人物がいました。
明智光秀です。
光秀は、佐久間が指揮していた本願寺攻めに参加。
祖の指揮官であった佐久間が追放処分になっていることが、穏やかではありませんでした。
手柄なき者は去れという露骨な人事・・・
武将達の神経を逆なでするようなことも、平気でやるのがこの頃の信長でした。

実力主義の信長軍団・・・しかし、一方でこの頃から信長は、長男・織田信忠に家督を譲り、次男・織田信雄には伊勢を与えるなど、息子たちを重用し始めます。
こうした信長の対応は、家臣たちの間にほころびを生んでいきます。
荒木村重、松永久秀といった家臣たちは、織田家の中での立場を不安視・・・
信長に対して反旗を翻しました。
そして、家臣の恐怖や不満が、形に立って現れたかのような事件が起きます。

本能寺の変です。

京の本能寺に滞在していた信長を、家臣・明智光秀が襲いました。
本能寺は炎の包まれ、信長はこの世を去りました。
1582年・・・織田信長死去、享年49歳。

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500年前、身の丈6尺、180㎝という大男が現れました。
茶の湯の大成者・千利休です。
彼が愛したのは、その体とは対照的なとても小さな宇宙でした。

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京都府の南・・・大山崎町。
ここには、千利休がつくった唯一現存する茶室が残っています。
国宝・待庵です。
小さな入り口をくぐると、わずか2畳の極小の空間。
壁は、素材がむき出しで質素な素材。
窓は小さく、室内は薄暗い・・・
利休が好んで使ったのが、武骨で荒々しい黒樂茶碗。
独自の日を追求したこの小宇宙で、名だたる戦国武将たちをもてなしました。
茶の力によって時代を動かした利休。
しかし、歴史の表舞台に現れたのは、50代の頃でした。
そこから激動の人生を歩むことになります。
堺の商人出身で、52歳の時に信長に茶の師匠として抜擢されます。
信長が本能寺の変で討たれると、その後、天下人となる豊臣秀吉のもとでは茶の湯のみならず、裏で政治を操るほどの大出世。

「利休以外には、秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」

また、茶の湯を大衆に広めるため、1000人を超える茶の湯の大イベントを成功に導きます。
さらに、秀吉の信頼を受け、前代未聞、御所での茶会をプロデュースします。
天皇からも認められる存在となりました。
硬い絆で結ばれた秀吉のもと、時代の寵児となった利休・・・
しかし、秀吉から命じられたのは切腹でした。
利休に何が起きたのでしょうか??
その栄光と挫折とは・・・??

千利休の生まれは、自由な商売で繁栄した商売の町・堺。
しかし、利休は、その自由な町の支配を狙う戦国武将・織田信長に仕えることになります。
どうして信長に仕えたのでしょうか??
千利休・・・幼名・与四郎は、室町時代終盤の1522年、現在の大阪・堺に生れました。
倉庫や魚、塩を扱う商家と言われますが、父や祖父を早くに失い、暮らしは厳しかったといいます。
当時は戦国大名が、各地で力を競い戦乱の時代・・・。
堺の商人の中でも、外国と貿易を行い武器を大名に売るものは巨万の富を得て豪商へと成長しました。
堺は、町の周囲に堀を築いて守りを固め、豪商が自ら町を治める自治都市として繁栄しました。
日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、自由で豊かな商業都市・堺をこう例えました。

「まるで東洋のベネチアのようだ」byフロイス

そんな堺の町の商人たちの間で流行していたのが茶の湯です。
茶の湯は、4畳半ほどの茶室でお茶を飲みながら商談や世間話などをするサロンのようなものでした。
茶の湯を楽しむときに欠かせないのが、名物・・・主に中国製の高価な茶道具です。
堺の商人にとって、莫大な富で名物を買い集め、客に披露しながら茶の湯を行うのがステータスでした。
与四郎も、商人のたしなみとして、十代の頃から茶の湯の稽古を始めました。
そして、19歳の頃、大きな影響を受ける人物と出会います。
武野紹鴎・・・武具・甲冑を売る豪商で、名物の収集家・・・堺の商人や茶人としても一流でした。
与四郎は、紹鷗の茶会に参加するなど修行を続け、この頃から千宗易と名乗るようになります。
ある時紹鴎が、宗易の才を試そうとした逸話が残っています。

「庭を掃除しなさい」by紹鷗

しかし、宗易が庭に行ってみると塵ひとつありません。
紹鷗は、わざと宗易を困らせて反応を見ようというのです。
宗易は、庭の木の1本の近づき揺らす・・・やがて落ち葉が風に舞い、地に落ち、庭に自然の趣を添えました。
宗易は、わざと完璧を崩すことで美しさを演出したのです。
完璧・・・完全無欠を日本人は好みません。
花も散り際が美しいという、古来日本で語られていたある種の「わび」が生まれてくるもとになった言葉を表現しています。
「わび」とは何かを理解し、それを表現しようとする少年でした。

さらに宗易は、茶会の際、独自の工夫で客人を喜ばせます。
当時、宗易がもっている数少ない名物のひとつは、香炉。
宗易は、茶会の前に本来は床の間に飾り披露する香炉を茶入れ用の袋に入れて隠しておきました。
茶会が始まり、客が見せる様な名物もないのかと思う中、宗易が素知らぬ顔で袋を開けたところ・・・
名物の香炉が出てきて客はビックリ!!
この宗易の大胆な工夫は、客を楽しませ、茶会は大成功に終わったといいます。

名物道具の鑑賞というのが、お茶会の柱でしたが、名物を持っていない茶人も出てきます。
これを当時はわび数寄と言い、千利休の弟子の山上宗二が書きとどめたわび数寄の心構えが”胸の覚悟ひとつ 作分ひとつ手柄ひとつ”。
作分は創意工夫、作分を支えるのが胸の覚悟・・・名物の鑑賞会から脱却して、お茶というものを通じて亭主と客がコミュニケーションをとっていくことが中心となっていくお茶を、突き詰めていったのが千利休でした。

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宗易の評判は次第に広がり、37歳の時に有力武将とも親交を持ちます。
戦国武将・三好実休です。
三好家は、畿内や四国で大きな勢力を持つ大名で、堺が商人の自治都市として維持できているのは三好家の後ろ盾のおかげでした。
三好実休も、茶の湯をきっかけに宗易を気に入り、お抱えの商人にしました。
いわば、宗易の恩人です。

実休亡き後、1568年、宗易47歳の時に三好家との間にひびが入ります。
織田信長の上洛です。
尾張の一大名だった信長は、京の都で足利将軍家の権威を得ることで、畿内での勢力を拡大。
畿内の有力者三好勢を京から追い払うとともに、後ろ盾の無くなった堺の商人に過酷な要求を行います。

「軍資金2万貫の献上を命じる」

現在の価値で20億円という莫大な金額の献上金でした。
これは、信長が堺を支配下に置くための第一歩でした。
豪商の多くは、堺の自治を守るため三好の反撃に期待し、信長の要求を拒否しようとします。
しかし、そんな堺の中で、信長に従おうとする者が現れます。
堺で指折りの豪商・今井宗久です。
宗久は、戦国大名が欲しがる鉄砲の生産に目をつけ、その売買で得た大金で多くの名物を持つ茶人でした。
信長の上洛後すぐに、茶つぼと茶入れを信長に献上、敵意がないことを示していました。
また、千宗易も今井宗久と親しいことから、これまでの三好とのつながりよりも、信長側につくことを選んだと言われています。
信長の上洛の翌年・・・堺の多くの期待を背負った三好勢は、信長方に攻め込みますが・・・反撃を受け敗北。
後ろ盾を失った堺は、信長からの軍資金の要求を受諾。
信長の支配下に置かれることになりました。
そして、今井宗久はいち早く従う意思を見せたことで信長に認められ、その経済面を支える重要な配下となります。
この時宗久は、茶の湯を嗜みとする信長に、堺の優れた茶人を紹介・・・その中に千宗易もいました。
信長の茶の湯を仕切る一人として召し抱えられることとなったのです。
この時・・・52歳!!

室町時代の中頃まで身分の高い人々が嗜んでいた茶の湯・・・
大広間に高価な美術品を飾り、大人数んで行うことが一般的でした。
しかし、宗易は、わずか2畳の質素な茶室を作ります。
そこにはどのような狙いがあったのでしょうか??

堺が織田信長の支配下に置かれた2年後、54歳の千宗易は信長3番手の茶頭に。。。
茶頭とは、主君に仕え茶会を仕切る重要な役割です。
しかし、宗易はその重い責任に臆することなく、自らの茶の湯を表現しました。

ある茶会にて・・・
信長は、宗易が茶をたてる様子に違和感を覚えました。

「他の茶頭と比べると、作法を略してあるところがあるようだが・・・」

信長に、手を抜いていると思われたら一大事!!
ところが・・・

「信長さまは、茶の湯をお好みですから、後には世の人々もそれに倣うようになるでしょう
 その時、古法の通りにやっていては難しがって嫌がります
 そう考えて、わかりやすい作法にしました」by宗易

これを聞いた信長は、大いに感心したといいます。

型をその場その場に応じて変化させることに恐れない・・・
必要とあらば、ある種の権威や格を外したり崩したりすることを恐れないという踏み込んだ勇気と個性がありました。
信長が、宗易たち茶頭を重宝したのは、趣味のためだけではありません。
茶の湯は、政治に利用できるからです。
武士の時代、功績を上げた家臣には領地を与えて労うのが常識でした。
しかし、土地には限りがあります。
そこで信長は、高価な茶器・名物に目をつけました。
新たな支配地で、茶器の収集・名物狩りを行い、家臣に褒美として与えるようになります。
褒美の茶器が素晴らしいものと価値をつけるためには、目利き役として宗易たち茶頭は欠かせなかったのです。

”褒美には、茶入れを所望したが、都から離れた国を与えられては茶の湯が出来ない”by滝川一益

また宗易は、相手の気持ちを察し気遣いできる達人でもありました。

「戦の前、鉄砲の弾千発が届いた
 心遣いを大変うれしく思う」by信長

やがて宗易は、信長のもとでその後の人生を決める大きな出会いを・・・!!
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、信長の有力な家臣として各地で戦をする多忙の中でも、茶の湯を好んだといいます。
そんな秀吉に、宗易は茶釜を送り、親交を深めていきました。

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1582年6月、宗易61歳。
本能寺の変!!
明智光秀が謀反を起こし、信長を討ちます。
この時、利休は大きなかけに出ます。
新たな支配者として京の都を制した明智光秀ではなく、中国大返しのさ中の秀吉のもとへ身を寄せたのです。
二人とも成り上がりで、持たざる者でした。
それと同時に、茶の湯など、文化芸術が二人とも好きでした。
宗易は、元祖職業茶人・芸術家なので、それを愛してくれる人と結びついたのです。
本能寺の変からおよそ10日後・・・
畿内に駆け戻った秀吉は、京の都のある山城国の入り口・山崎で明智光秀を撃破。
信長の後継者として名乗りを上げ、天下人へと向かう秀吉・・・その茶頭として、宗易も天下に名を上げていきます。

光秀を破ったのち、秀吉が本拠地を構えたのが山崎。
ここに、秀吉と共に千宗易がつくった茶室が残っています。
国宝・待庵。
茶の湯の伝統を覆す、独創的な空間で知られています。
かがまなければ入れないにじり口、中はわずか2畳・・・
それまでの開放的な大広間や、堺の茶人たちが使用した四畳半よりもさらに狭く・・・。
さらに茶道具にも革命を起こします。
本能寺の変で、信長が持っていた中国製の価値のある名物の多くが失われました。
新しい茶器が必要でした。
そこで、宗易が新しく職人に作らせたのが、黒!!

”黒キハ古キコゝロ 赤ハ雑ナルコゝロ”

”黒は古き心なり”の中に、見せかけの華やかさや豊かさを捨てることで、物事のもともと持っている素の形、姿の中に、美しさとか価値というものと向き合って、それを自分が選び取っていくことが、わび数寄には大事なんだということを、利休は好み、人に伝えようとしました。
黒楽茶碗は、名物とは対照的な質素なデザインでした。
しかも、適度な厚みで熱を伝えにくいため、持ちやすくて実用的でした。
宗易は、茶の湯を通して時代の美意識を変えていきます。
この時、61歳!!

1585年、宗易64歳。
秀吉が関白に就任します。
天下人への道を歩む秀吉は、朝廷から天皇の補佐をする関白職に任じられたのです。
そのお礼として秀吉は、御所で茶会を開きます。
秀吉自ら天皇に茶をたてる”禁中茶会”です。
これには、秀吉の権威を見せつけるという意味もありました。
失敗が許されない催しに、宗易も茶頭として参加することになりました。
しかし、一つ問題が・・・
朝廷で位も官職もない宗易は、御所に入ることができません。
そこで、宗易が天皇から授かったのが、”利休居士”の号です。
居士とは、朝廷に仕えず自由に修行に励む者のことです。
階級や身分から外れた特別な立場です。
こうして禁中茶会に参加が叶った宗易・・・以後は、利休と名乗るようになります。

「禁中で台子の茶式を行った
 この上なく光栄なことだ」by利休

そして、禁中茶会で利休と秀吉は権威を示す驚くべきものを持ち込みました。
黄金の茶室です。
この茶室の特徴は、組み立て式だということ。
禁中茶会の後も、どこにでも持ち運ぶことができました。
秀吉は、後に大坂城で組み立て、訪れた客に披露したといいます。
世間の序列の外、特別な存在として認められた利休・・・
彼の言動は、時代の価値観を大きく揺さぶっていきます。

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1000貫文は、今の価値でおよそ1億円・・・
利休が認めれば、どんな茶器も高い価値を持ったのです。
全てを常識にとらわれずに見定める利休は、政治も大きな影響力を持つようになります。
秀吉の有力の補佐・弟の豊臣秀長は、ある大名に語っています。

「内々に秀吉さまに申し上げることは利休に
 公に申し上げるにはこの秀長にお伝えください」by秀長

秀長の信頼を得た利休は、その後ろ盾によってますます大きな存在となっていきます。

「利休以外には秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」

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利休64歳の時、秀吉は天下統一への大きな足掛かり・・・九州平定に乗り出します。
秀吉は、九州全域を手に入れるべく戦いを続けていた島津義久に対し、警告を送ります。

「戦を中止しなければ、遠征し成敗する」by秀吉

九州では勢いのある島津でしたが、圧倒的な軍事力の秀吉に攻め込まれれば勝ち目は薄い・・・
島津義久は返事を送ります。
あて先は利休でした。

「少ないですが、生糸十斤を送ります
 秀吉殿におとりなしくだされば大変喜ばしいです」by島津義久

やがて秀吉は、九州を平定。

1587年、利休66歳・・・歴史的な茶会を開催します。
京都の北野天満宮に1000人以上が集まったとされています。
北の大茶湯です。
その様子を描いた図が、北野天満宮に残されています。
秀吉や利休の姿・・・くじ引きで当たった者は、秀吉や利休の点てた茶を飲むことができたといいます。
しかも、この大茶湯が画期的だったのは、上流階級だけの茶会ではなかった事です。

「茶の湯に興味がある者は、若侍、町人、農民、誰でも参加せよ
 茶座敷は各々2畳、ただし、畳を持って来られない者はむしろでも構わない」by秀吉

藁の敷物を敷いた茶席、地面に傘を差しだただけの茶席・・・
秀吉が、天皇から庶民に至るまで、自分こそが天下人であり、天下人は政治・権力を握っているだけではなく、ある種の文化の庇護者として世の中をリードしてこれを庇護する存在なのだとアピールする意味で、必要なイベントだったのです。

秀吉と利休、2人は同じ志のもと、長く固まっていた社会の序列を破壊し、新たな時代を目指そうとしていました。

常識外れの茶会を次々成功させ、秀吉と共に新たな時代を目指していた千利休・・・
しかし、利休は、盟友のはずの秀吉に切腹を命じられます。
二人の間に何があったのでしょうか?
1590年、利休は69歳の時、小田原にいました。
秀吉の天下統一に抵抗する最後の大物・北条氏を屈服させる小田原攻めに同行したためです。
しかし、この頃から、利休と秀吉の関係は悪化していきます。
一説には、小田原攻めの時、利休の弟子・山上宗二が秀吉に処刑されたことが原因とされています。
もともと宗二は、利休と共に秀吉に仕えていました。
歯に衣着せぬ発言で、頑固な性格と言われる宗二・・・率直な物言いが、秀吉を怒らせ追放処分に。
その後、宗二は北条氏に仕えたため、小田原の地で利休と宗二は再会します。
利休は、愛弟子を利休に面会させ、追放処分を解いてもらおうとしました。
しかし、宗二の発言がまたも秀吉を怒らせます。
そしてついに、処刑!!
耳と鼻を削ぐという残酷な仕打ちでした。
利休は、手紙に記しています。

”小田原で悲しい思いをした
         涙を流すばかりだ”

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1590年、利休69歳・・・
北条氏を倒した秀吉は、天下を統一!!
しかし、この後、秀吉は変わります。
茶の湯では新たな作法をもうけ、秀吉が認めた者のみが秘伝を教わるように限定しました。
茶の湯をルールで縛る権威付けに使う秀吉・・・
利休は密かにつぶやきました。

「本来、茶の湯に大事な習いなどというものはありません
 習いなどないことを極意とするのです」by利休

1591年利休70歳・・・
彼の立場は大きく揺らぎます。
利休と共に秀吉を支え、信頼篤かった豊臣秀長が病死したのです。
その後、利休は秀吉から突然罪に問われました。
罪状は二つ・・・
①大徳寺の山門に利休の像を設置したこと
山門は、天下人である秀吉や天皇の勅使もくぐるもの
それを、利休の像が上から見下ろすのは不敬とされたのです。
しかし、この像は、2年前から設置されており、今更罪に問うのは不自然でした。
②売僧と呼ばれた不当売買
鑑定や売買で不正を行い、値段を釣り上げたというのです。
しかし、そもそも茶器売買は、目利きの利休が決めた値打ちに客も納得して行うものです。
昔からのやり方を不当と言い出すのも、おかしな話でした。
罪に問われた利休は京を追放され、堺に蟄居を命じられてしまいます。

それはまさにでっち上げでした。
平和な時代が訪れる中で、身分制度など新たに立ち上がっていく武士を中心とした社会の中で、階級に属さない特別な立場の人間の居場所がなくなっていきました。
利休のような特殊な立場の茶頭を必要としない世の中になっていったのです。
利休は、都を去る時、弟子に言い残しています。

「都の思い出が様々思い出され、今は悲しく涙を流すばかりだ」by利休

利休追放から間もなく、京都では大徳寺の利休像が一乗戻橋のたもとで磔に・・・晒されました。
一説には、直ちに謝罪しなければ、利休本人も処刑するという秀吉の脅しともいわれています。
利休を慕う武将たちは、秀吉に物申したくても、仲介役の利休が罪に問われ、秀長もすでにいない・・・
そこで頼ったのが、秀吉の家族である母・大政所と妻・北政所でした。
秀吉が大切にする身内であれば、仲介も上手くいくに違いない・・・
二人は秀吉に謝罪するように助言します。
しかし、
「茶の湯で天下に名をあらわした私が、命が惜しいからと女性たちを頼って助命となるのは無念でしょう」by利休

秀吉は、利休を京に呼び戻し、命じます。
「切腹・・・」と。
利休は受け入れます。
1591年・・・70歳の時でした。

利休は、己の運命を神となった偉人に例えました。
優れた才能が嫉妬され都を追われた人物・・・

「利休は何はともあれ果報者である
        菅原道真になると思えば」by利休

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京都・表千家 ~わび茶の世界~



1590年、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めました。
天下統一の総仕上げとなった戦場・・・そこに苦楽を共にした一人の武将の姿がありませんでした。
秀吉の弟・豊臣秀長です。兄が壮大な夢を叶えるのを見届けることなく、秀長はこの世を去りました。

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1582年6月2日、秀吉、秀長兄弟の運命の歯車が急速に回り始めました。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
信長の家臣として出世を重ねていた羽柴秀吉、この時46歳!!
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを受け急ぎ畿内へと引き返します。
中国大返しです。
この時、撤退する秀吉軍の殿を任されたのが、弟・秀長・44歳でした。
最後尾で敵の追撃を食い止める殿は、命を張って大将を守る危険な任務です。
これまで幾度となく秀吉軍の殿を務めてきた秀長・・・
この時も、明智光秀のもとに攻めあがる秀吉の背後を守る地味ながら重要な役割を一手に引き受けました。
そして迎えた明智光秀との山崎での戦い・・・
秀長は、勝敗を分ける天王山に布陣!!
この地の守りを固め、秀吉本体の突撃を援護、勝利に貢献しました。
強気に攻める秀吉に対し、守りを固める秀長・・・
そんな兄弟は、生い立ちからして対照的でした。

1537年、尾張国の農民の家に生まれた秀吉は、若くして家を出ます。
行商人として放浪したのち、武士を志し信長に仕えるようになります。
一方、秀長は、1540年、秀吉の3歳下の弟として生まれました。
真面目で働き者の秀長は、長男の秀吉に代わり農家を守っていました。
しかし、秀長が20歳を過ぎた頃、突然、秀吉が弟の元を訪れ、自分の家来になってほしいという・・・。
武士になるなど夢にも思わなかった秀長は困り果てたものの、兄の強引な誘いを断り切れませんでした。
以来、行動を共にするようになった2人・・・20年後、本能寺の変をむかえたのです。
山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉と秀長・・・ここから天下統一への兄弟の挑戦が始まります。

1583年、賤ケ岳の戦い・・・
秀吉は、信長の後継者の座をかけて、柴田勝家と戦います。
勝家軍は、北国街道を南下、それを琵琶湖の右岸で秀吉軍が迎え撃ちました。
布陣から一月後、両軍睨み合う中でハプニングが発生!!
信長の3男・織田信孝と、滝川一益が挙兵。
秀吉は戦場を離脱し、美濃に向かわなければならなくなりました。
後を任されたのが、秀長でした。

この時、秀吉から秀長に送られた書状が残されています。
秀吉が秀長に、どう戦闘を行うべきか、柴田軍と対峙するべきかの命令が書かれています。

”私が戻ってくるまでは攻め込んではならない”

この時も秀長は、秀吉から戦場の守りを任されたのです。
しかし、敵の大将がいなくなったのを知った柴田軍は、一斉に攻撃を開始。
窮地に立たされる秀長・・・それでも秀吉の命に徹し、守り続けました。
そこへ秀吉本体が美濃から引き返してきました。
形勢は一気に逆転し、戦いは秀吉軍が勝利!!

兄弟の連携によって、秀吉の後継者争いに一歩抜き出たかに見えました。
しかし、ここで二人に待ったをかける者が現れます。
徳川家康です。
賤ケ岳の戦いの翌年の1584年。
家康は、信長の2男・織田信雄の求めに応じて挙兵。
小牧長久手の戦いで、秀吉は家康に手痛い敗戦を被りました。
各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康・・・最大のライバルとして秀吉の天下統一に立ちはだかります。

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家康と敵対するうえで、戦略拠点となった城・・・それは、大和国の宇陀松山城です。
ここを難攻不落の城に大改修したのが秀長でした。
この城の東には、伊賀・伊勢、南には紀伊、そこには、家康と気脈を通じる勢力が根を張っていました。
伊賀衆、根来衆、雑賀衆・・・といった地侍集団の本拠地でした。
彼らは、小牧長久手の戦いでは家康と連携して秀吉を苦しめました。
もし、再び彼らが家康と結託して攻め寄せる事態となれば、秀吉は二方面から攻撃を受けることになってしまう・・・
その脅威を阻むためには、宇田松山城で、伊賀や紀伊の在地勢力を押さえ込むことが必要でした。
その為に、秀長は、この宇陀松山城の防御能力を飛躍的に高めようとしました。
東海より東に領地が広がる徳川家康・・・西に広がる秀吉。
両者がぶつかり合う地点を、秀長は堅固な城で守り通すのに成功します。
秀長は、秀吉の影の存在として、兄の天下取りを支え続けていたのです。

秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長・・・
46歳になった時、武将としての真価が問われる機会が訪れました。
1585年、四国攻めです。
小牧長久手の戦い以降、秀吉は徳川家康と手を組む勢力への対応に苦慮していました。
なかでも、秀吉に強く反抗し続けていた人物が・・・長宗我部元親です。
土佐の豪族から身を立てて、一代で四国全土を制覇した戦国大名です。
小牧長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣・本多正信が元親に畿内への出兵を依頼していたことが記録されています。
四国支配を目論むようになってきた秀吉には、服従しない姿勢を貫いていました。
業を煮やした秀吉は、対に自ら総大将となって、四国攻めに出ることを決断し、準備に取り掛かります。
しかし・・・直前になって秀吉は体調を崩したため、急遽総大将は秀長が任されることになります。
これまで影の存在となってなってきた秀長は、予期せず表舞台に立つことになりました。
徳島県土佐泊・・・秀長が率いる6万の軍勢が、ここに上陸しました。
秀長は、長宗我部方の前線の城を次々と攻略。
そして行きついたのが、阿波一宮城!!
四国山地の入り口に位置するこの城は、長宗我部の本拠である土佐へ侵入するのを防ぐ防衛拠点でした。
ここを突破すれば、四国攻めは一気に秀長側に形勢が傾くと考えられていました。
5000の長曾我部軍は、阿波一宮城に籠城します。
秀長は、川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き、およそ5万の兵で城を包囲しました。
城攻めを進めていた秀長・・・そこに、大坂から思わぬ知らせが届きます。
病のいえた秀吉が、出陣して来るというのです。
秀吉からの申し出に・・・指示に従い秀吉の出陣を待つ??それとも、秀吉の出陣を断わる??

四国攻めを行っていた当時、秀吉は別方面にも手ごわい敵を抱えていました。
家康に与していた佐々成政が、北陸で敵対行動を起こしていました。
佐々討伐のために、秀吉が発給した命令書が残っています。
記されているのは、前田利家・池田輝政・山内一豊・蒲生氏郷・細川忠興・・・名だたる武将への出兵要請でした。
兵の総勢は、5万7300!!
北陸で、四国攻めと同等の大きな戦が始まらんとしていました。
もしここで秀吉が四国攻めに参加すれば、佐々成政や家康に自由に動く機会を与えることになってしまう・・・!!

秀吉の出陣を待つべきか??自ら四国攻めを決着させるべきか・・・??

秀吉が四国攻めに参戦すると聞いた秀長は、思案の末、兄に書状を送りました。

”ご出陣は、殿の御威光を損ねます
 たとえ日数がかかっても、期待に応えますのでご出陣をおやめください”

秀長は、秀吉の出陣を断わり、自ら四国攻めをやり遂げることを選択しました。
これまで戦場では、兄からの命令を忠実にこなしてきた秀長が、自らの考えで行動することを決断した瞬間でした。

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鉄壁の阿波一宮城をどのように攻略すべきか??
秀長は一つの策を思いつきました。
貯水池を干上がらせるため、秀長は城の背後から侵入させ、水路を破壊しました。
水の手を奪われたことで、城の兵たちは慌てふためきました。
このタイミングで、秀長は長曾我部元親に和議を提案しました。

”城が落ちる前に降参すれば、元親殿の面目も保てるでしょう
 私に任せてもらえれば、良きように取り計らわせていただきます”

秀長は、どちらかが滅ぶまで戦うよりも、和議による道を探ります。
阿波一宮城が落城すれば、本領土佐への侵攻は避けられないと考えた元親は、提案を受け入れ降伏。
阿波・讃岐・伊予の三国は秀吉方に接収されましたが、秀長の計らいによって土佐は安堵されました。

一方、四国に来なかった秀吉は、北陸を攻め佐々成政を降伏させました。
各地の味方を失った徳川家康・・・
ここで秀吉は、思い切った懐柔策に打って出ようとします。
妹・旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所も家康のもとに送ろうとしたのです。
家族を事実上の人質に差し出そうとする兄に、秀長は猛反対!!強く意見したといいます。
この頃を機に、秀長は秀吉からいわれるがままに動かずにはっきりと反対意見もいう存在に変わっていきました。

1585年、秀長は、大和、紀伊、和泉の大名になります。
秀長が、領国経営の拠点とした大和郡山城!!
近年の発掘調査によって、この城について新たな事実が明らかになりました。

2014年に行われた発掘調査で、礎石が発見され大和郡山城に天守があったことが分かりました。
さらに、大坂城と同種の金箔瓦が出土したことから、豪華絢爛な天守であったことも明らかとなりました。
秀長が、煌びやかな天守を築いたことには、ある狙いがありました。
薬師寺、東大寺、興福寺を見ることができます。
大和国はもともと寺院や神社の力の強い地域でした。
寺社勢力は、広大な荘園からなる経済基盤を持つだけでなく、独自に兵を組織し、武力も備えていました。
武士にはなびかない厄介な相手に対して、天守を見せることで領主としての権威を示そうとしたのです。
豊臣が力を持ち、これからの時代は豊臣が中心の大和国である!!
そのメッセージを、いかにお寺のお坊さんたちに見せつけるか??意図して豪華にしたものです。

秀長は、寺社勢力と渡り合うために他にも知恵を絞っていました。
興福寺の僧が記した”多門院日記”には、秀長の行った政策が細かく記されています。

・多武峰(寺)が、弓・槍・鉄砲などの全てを秀長に差し出した
秀長は、強大な兵力を備えていた多武峰寺をはじめとする寺社から、武具や防具をすべて没収し、武装解除させました。
これは秀吉が行った刀狩りの3年も前のことです。
秀長は、戦乱の世を終わらせる方策をいち早く考えていたのです。
秀長が行った政策について、こうも記されています。

・土地の面積など書き、差し出すように申しつけられた
秀長は、所領の面積や米の収穫量を申告させる差しだしという検地を行いました。
申告内容は、細かく確認され、寺の土地はことごとく押し取られたというケースもあります。
実際、興福寺は、2度に渡った検地で、領地を1/5にまで減らされました。
秀吉は、大和国の検地をさらに改良した太閤検地を全国の大名に実施させ、長く続いてきた荘園制に基づく土地所有の在り方を一新させました。

秀長は、後に豊臣政権の屋台骨となる政策を先駆けとなってあみ出していたのです。

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1587年、九州攻めでは秀吉が肥後方面の総大将・・・秀長は日向方面の総大将となり、二方面から島津氏を攻略。
九州平定によって、東海より西はほとんど秀吉の支配する処となり、天下統一は目前となりました。
秀長はこの年、48歳にして従2位大納言に叙されます。
豊臣政権内では、秀吉に次いで高い官位です。
この頃になると、秀長は戦場よりも政治の場で重要な役割を担うようになっていました。
秀吉に謁見する為に上洛する各地の大名達・・・
血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも秀長の仕事となりました。
秀長の居城・大和郡山城に招かれた毛利輝元の言葉が残されています。

”お供の衆にまで気を遣われる大納言殿の心配りは、筆舌に尽くしがたい”

九州の有力大名であった大友宗麟は・・・

”内密の話は千利休だ
 公式な業務は私が執り計らうので安心してほしい”

大友宗麟は、豊臣ファミリーをこう評しています。

”秀長殿に頼ればすべて大丈夫である”

今や権力者となった秀吉に、意見を言える数少ない存在となった秀長・・・
最も強く反対したのは、朝鮮出兵の構想についてでした。
決して実行すべきではないと歯止めをかけ続けました。

1590年の北条攻め・・・秀吉の天下取りも最終段階に入ったこの戦に、秀長の姿はありませんでした。
1591年・・・病を患った秀長は、52歳でこの世を去りました。
秀長の葬儀には、20万もの領民が集まり、野山を埋め尽くしたと記録されています。
秀長に領地を奪われた興福寺の僧でさえ、こう記しています。

「これからこの国はどうなるのか、心細い限りである」

その心配は、ほどなくして現実となります。
秀長の死から1か月後、政権を内から支えていた千利休が、秀吉に命じられて切腹。
さらに翌年、秀長が頑なに反対していた朝鮮出兵が断行されました。
秀長亡き秀吉政権は、崩壊へと進んでいったのです。

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超ビジュアル! 戦国武将大事典

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2020年5月、戦国史を揺るがす大発見がありました。
京都御苑の一角で、巨大な城の痕跡が400年ぶりに見つかったのです。
城の名は京都新城!!
当時の資料には登場するものの、その正体は幻とされていた城です。
さらに、金箔河原も出現。
五七の桐と呼ばれる紋様は、豊臣家を象徴するものです。
この城を築いたのは豊臣秀吉。
一代で天下人に上りつめ、戦国乱世に終止符を打った英雄です。
東西およそ400m、南北およそ800mに及ぶ壮大な城郭は、秀吉が無くなる1年前に築かれたことがわかっています。
秀吉が京都新城に込めた狙いとは・・・??



最晩年、病に侵されながら幼い秀頼を後継者と定めた秀吉・・・
徳川家康を信頼し、後事を託しました。
ところが!!秀吉の死後、家康は秀頼から転嫁を簒奪!!
豊臣家は敢え無く滅亡したとされてきました。
しかし、京都新城の発見によって、秀吉が秀頼と豊臣家を守るため周到な布石を打ってきた可能性が出てきました。
知略を駆使して戦国を駆け抜けた秀吉・・・
その最期の戦略、知られざる終活プラントは??

1582年6月2日、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により壮絶な死を遂げました。
本能寺の変です。
この時、織田家の有力家臣の中でいち早く抜きんでたものこそ羽柴秀吉でした。
逆心・光秀を討伐することに成功した秀吉・・・
卓越した軍略で、織田家筆頭・柴田勝家を破り、莫大な経済力で最大のライバル徳川家康を圧倒しました。
しかし、この時秀吉はすでに50歳近かったのです。
天下を掌握し、自らの覇権を維持するためには何をするべきか、盤石な政権を築くことが秀吉の課題でした。
大きな壁のひとつが、出自の問題でした。
九州の有力大名・島津氏は、秀吉の出自をこう記録しています。

”秀吉はまことに由来なき人物である”

農民出身の秀吉を、由緒のない低い身分の者とさげすんでいるのです。
そこで秀吉は、出自の問題を克服するため、朝廷の権威を利用しようとしました。

1584年10月、秀吉は、朝廷から従五位下(佐近衛権少将)に任じられました。
従五位下とは、殿上人として昇殿を許される最初の位です。
さらにその翌年、秀吉は異例の速さで昇進・・・関白にまで上り詰めました。
この時、朝廷から豊臣の氏を賜り、以降、豊臣秀吉と名乗ることとなります。
当時来日した宣教師は、その衝撃をこう記しています。

「秀吉が下賤な家柄から出世し、わずかばかりのうちに突然日本最高の名誉を手にしたことは、日本人すべてを驚嘆させずにはおかなかった」

さらに秀吉は、大名たちの統制をはかるために、独自の戦略に打って出ます。
秀吉の苗字である羽柴の姓を、有力大名に下賜する授姓という政策です。
徳川家康、毛利輝元、小早川隆景・・・いずれの大名も、羽柴と名乗っています。
一国以上もつ大名はほぼ全員が羽柴になって、羽柴姓だらけになる非常に珍しい体制となりました。
家制度、家柄を意識する日本社会の中でなかなかできることではありません。
秀吉は、自分自身が持っていなかったということもあってか、疑似的な一族意識、連帯感を持ちたかったのです。
そうせざるを得なかったのです。
しかし、秀吉にとって最大の問題は後継者問題でした。
秀吉と北政所の間には、実子がいませんでした。
その為秀吉は、信長をはじめ家康や前田利家など有力大名の子供を養子とし、家督相続に備えていました。
ところが・・・秀吉53差の時に淀殿が鶴松を出産。
これで後継者問題はひとまず落着しました。
その翌年・・・1590年7月、秀吉は小田原合戦で北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
この時点では、秀吉、豊臣家の天下は末永く安泰であるかに見えました。

実子・鶴松を正統な後継者とするため、秀吉はその下地作りを始めます。
有力大名の養子を他家へと転出させる一方、養子同志を婚姻させ、一族の結束を図りました。
ところが・・・そんな秀吉に火が気が襲いかかります。
1591年8月、鶴松死去。
秀吉の後継者問題は、再び暗礁に乗り上げます。
そこで秀吉は、自分の姉の子・甥の秀次を新たな養子としました。
血縁のある者が少なかった秀吉にとって、既に成人し、自らの天下統一を支えてきた武将は秀次しかいませんでした。
1591年12月、秀吉は秀次に関白職を譲ります。
正統な後継者としました。
養子となった秀次に、関白職のみならず聚楽第まで譲ります。
秀吉は、秀次に国内の政を任せると、海外制覇への野望を抱くようになります。
1592年4月、文禄・慶長の役が始まります。
総勢30万の軍勢が、朝鮮に侵攻しました。
鶴松が死んだことで、秀吉は動揺しました。
秀吉自身が大陸に行くということで、国内のことを誰かに任せなければなりませんでした。
そうなると、秀次を跡継ぎにとなりました。
自分が日本を留守にする間の総責任者として秀次を指名したのです。
しかし、1593年8月、秀吉が57歳の時に予想だにしない出来事が起こりました。
淀殿が再び懐妊し、拾・・・秀頼が生まれました。



秀吉の天下を受け継ぐ者はひとりだけ・・・!!
実子・秀頼か、関白・秀次か・・・??
果たして秀吉の選択は・・・??

当時の秀次側近の記録には、秀頼と秀次の娘が婚約を結ぶべきと秀吉が命じたとあります。
つまり、秀吉は、当初秀頼を関白・秀次の後継者とすることでこの問題を平和裏に解決しようとしていました。
秀頼が順調に成人を迎えるのか??
もちろん確証はありませんでした。
その期間は、秀次に安定して関白職を任せておけるようにしたいと思っていたようです。

1594年4月、秀吉に病魔が襲い掛かります。
病名は明らかではありませんが、当時の記録には・・・
秀吉は意識不明となり、小便を垂れ流したとあります。
同じ頃、秀吉の朝鮮侵略は膠着状態に陥り、出陣した将兵の間に厭戦気分が蔓延していました。
先の見えない対外戦争・・・自らの病・・・徐々に疑心暗鬼が生じた秀吉は、自らの後継者問題に残酷な決断を下すことになります。

1595年7月3日、奉行衆が秀次を詰問。
秀次とその家臣たちが、秀吉に対する謀反の談合をして、武具などを準備していたためだという・・・
その5日後には、秀次の関白職を剥奪し、高野山に追放。
そして・・・7月15日、秀次は切腹して果てました。
享年28歳とされています。

京都市にある秀次の菩提寺・瑞泉寺・・・
ここに、事件のあらましを記録した縁起絵が伝えられています。
京・三条河原で秀次の正室や側室34人、そして秀次の子供5人が次々と処刑されました。
秀吉は、秀頼の将来に禍根を残さぬように秀次の一族を抹殺しました。
さらにその矛先は、関白の政庁だった聚楽第にも向けられ、跡形もなく破壊しました。

事件後、秀吉は有力大名たちに起請文を提出させます。
第1条にはこうあります。
秀頼に対し、いささかも裏切るような心を持たず、お守り申し上げること。
非情な手段で秀次を排斥した秀吉は、こうして実子・秀頼を正統な後継者と定めたのです。

2020年5月、京都で戦国史に新たな光を当てる大発見がありました。
京都御苑の南東の一角で、秀吉が築いた城の堀跡の一部が見つかったのです。
地中深くから現れたのは、戦国時代に多く見られる自然石を積み上げた野面積の石垣です。
こうした石が、5,6段積み上げられ、その高さは2m以上あったと推定されます。
この城は、当時の記録に新城と記録されていることから京都新城と呼ばれています。
秀吉が後継者となる秀頼のために築いた城です。
さらに、堀跡からは、京都新城の性格をうかがわせる貴重な遺物が発見されました。
金箔瓦です。
金箔が施された瓦には、豊臣家を象徴する五七の桐と、天皇の象徴・菊の紋様が書かれていました。
京都新城は、豊臣の権威というだけではなく、公家の権威、両方兼ね備えたお城でした。
堀跡が発見されたのは、京都御苑の仙洞御所内の一角でした。
その後の調査で、堀の幅はおよそ20mあることがわかりました。
京都新城は、東西400m、南北800mにも及ぶ巨大な城郭だったと推測されています。

江戸時代初めに描かれた絵図・・・京都新城の北側は、公家屋敷に囲まれ、天皇の御所である内裏があったことがわかります。

京都新城とはどのような城だったのでしょうか??
京都市にある西本願寺に、戦国時代に築かれた貴重な建物が保存されています。
国宝・飛雲閣・・・桃山文化を代表する建築のひとつです。
池に面した三層に築かれた楼閣は、来客をもてなす場として使用されていました。
飛雲閣は、これまで聚楽第の遺構と考えられてきました。
しかし、その建築年代が聚楽第より新しい京都新城の年代に位置することから、最近の研究では飛雲閣が京都新城から移築されたものだと推定されています。

京都新城は、周囲を巨大な塀で囲み、塀の中に深い堀が築かれ、城内には庭園の池に面した公家屋敷風の建物などが立ち並んでいたとされています。
聚楽第の中心部とほぼ同じ大きさで、当時、洛中に作られたお城としては最大級でした。
豊臣政権の威信をかけて作られたお城でした。
秀吉が、秀頼の為この地に城を築き始めたのは、1598年4月。
亡くなるわずか1年前のことでした。



秀吉は、どうしてこの地に城を築いたのか??
京都新城の北側に当たる場所に、秀吉が城を築いた理由を紐解くものがありました。
土御門第跡・・・もともとは、藤原道長が屋敷を持っていた場所でした。
時の最高権力の所在したところが豊臣政権の本拠である・・・そんなメッセージが込められていました。
平安貴族を代表する道長の屋敷跡を取り込み、公家屋敷に隣接した場所に城を築いた秀吉。
それは、秀頼を公家と一体化させようとしたためではないかと思われます。
当時、秀頼の年齢は5歳・・・豊臣政権の頂点に君臨するにはあまりにも幼過ぎました。
秀吉は、秀頼を公家化することで、豊臣家を永続させようと目論んだのです。
最晩年の秀吉が築いた京都新城・・・果たしてそれは、秀頼を公家化しようとして築かれたのでしょうか??

1597年4月15日、秀吉は秀頼や家康などを伴い京都新城に入城。
この時、秀頼は朝廷から破格の待遇を受け、わずか6歳で家康に次ぐ位階・従二位権中納言を授けられました。
ところが・・・京都新城から伏見城に戻った秀吉は発病し、そのまま寝たきりの状態になったといいます。
幼い秀頼に、いかに豊臣家を継承させるべきか??
病床の秀吉は、最終的な決断を迫られました。
5月、秀吉は、大坂城の強化を命じます。
そして、秀頼の居城を京都新城ではなく、大坂城と定めたのです。
2003年の大坂城の発掘調査で見つかった全長240mに及ぶ障子堀の跡・・・堅固な大坂城の防御力をさらに高める目的で、秀吉が命令した普請の跡だとされています。
秀吉は、大坂城を改造するだけでなく、有力大名を家族ごと城内に人質として住まわせます。豊臣家を継ぐ秀頼には、朝廷の高い官位だけでなく、武家の棟梁としての働きを期待したのです。
7月15日、秀吉は、有力大名を集め、死後の政権運営を11箇条にまとめたものを披露します。
そこに記されたのは、秀頼を支える大名たちの役割です。
伏見城には徳川家康が居住し、大坂城は秀頼の居城であるから前田利家がお守り役としてすべてお世話願いたい。
秀吉は、特に徳川家康と前田利家に秀頼を盛り立ててくれるよう依頼しました。
そして、8月5日、秀吉は、家康たちにあて最後の遺言を書き残しました。

”かさねがさね秀頼のこと、頼み申し候
 何事もこの他に思い残すことなく候”

この13日後、豊臣秀吉死去。
享年62歳でした。
そののち、秀頼は新たな豊臣政権のTOPとして君臨。
幼い秀頼を石田三成などの五奉行や、徳川家康を筆頭とする五大老が補佐する体制が整えられました。
ところが、やがて徳川家康がその本性をあらわにします。
秀吉が生前に定めた御掟にはこうあります。

”諸大名間の縁組は上様の御意を得て決定すること”

家康はこの御掟に反し、諸大名との姻戚関係を独断で結びました。
さらに家康は、伏見城に居住という秀吉との約束を破り大坂城に入城し、そのまま居座るばかりか新たに天守まで築きました。
家康は専横を極めました。
それを激しく糾弾したのが五奉行の石田三成でした。
やがて二人の対立は、家康を盟主とする東軍と、三成の西軍に二分。
全国を巻き込む内乱へと発展しました。
そのさ中、1600年8月29日、西軍が京都新城の堀や石垣を破壊。
史料には、禁裏のご近所の故なりrとあります。
天皇の御所が、両軍の戦いに巻き込まれないよう配慮したといいます。
秀頼の退去後、京都新城には北政所が移り住んだと記録されています。
この時の破壊に、彼女がどうかかわったのか、真相は定かではありません。

その15日後・・・9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが勃発。
戦に勝利した徳川家康は、やがて征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
豊臣家が滅亡したのは、そのわずか12年後のことです。

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愛知県北西部にある長久手市・・・リニアモーターカーが走るベッドタウンとしても人気のこの町で、今からおよそ440年前の1584年3月、戦後最大の頭脳戦と言われる戦いが繰り広げられました。
後の天下人秀吉と、徳川家康が激突した小牧・長久手の戦いです。
最初で最後直接対決でした。

織田信長亡き後、天下をわがものにしようとする羽柴秀吉と、信長の次男・信孝とタッグを組んだ徳川家康!!
果たして小牧・長久手の戦いとはどんな戦だったのでしょうか?

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1582年6月、天下統一まであと一歩と迫っていた織田信長と、その長男で織田家の家督を継いでいた信忠が、家臣である明智光秀の謀反によりこの世を去りました。
その後、頭角を現したのが主君の敵・明智光秀を山崎の戦で破った羽柴秀吉でした。
秀吉は、天下統一への野心をたぎらせ、障害となる武将たちを次々と排除していきます。
まず、信長の次男・信雄を味方につけると、信長の三男・信孝と組んだ柴田勝家と激突!!
賤ケ岳の戦いで、勝家を自害に追い込みます。
さらに、敗走した信孝に対し、兄である信勝に切腹を命じさせたのです。
これで、信長の子の中で、秀吉に対抗できる武将は次男・信雄だけでした。

「信雄殿の役目は終わったのう」by秀吉

秀吉は、一転、態度を変え、安土城にいた信勝を追い出すと、信勝の有力家臣であった岡田重孝・浅井長時・津川義冬の三家老を懐柔し、寝返らせます。

信雄は激怒し、遂には秀吉に宣戦布告します。
しかし・・・相手は、明智光秀や柴田勝家を倒した強者・・・しかも、この時秀吉は大坂城を拠点に四方に版図を広げ、すでに20か国を支配下に置いていました。
援軍が必要だと考えた信雄は、ひとりの武将に接近します。
それが、徳川家康でした。
亡き父・信長の盟友であり、同盟者だったからです。

秀吉・家康 たった一度の直接対決・・天下取りの知恵くらべ・・



家康はこの時、新たな領地である信濃と甲斐を加えた5か国130万石の経営に専念。
中央と距離を取り、天下取り争いを静観し続けていました。
それにもかかわらず・・・信勝からの要請を受けたのです。
どうして信勝と組んで秀吉と戦うことにしたのでしょうか??

①自領を守るため

信勝の領地である尾張と接していた家康は、信勝が秀吉に飲み込まれれば常に侵攻の脅威にさらされると恐れました。
その為、家康は領国の支配を盤石なものにしておくために、信雄と手を組んで秀吉と戦うことにしたのです。

②天下取りのため

賤ケ岳の戦いまでは、秀吉と友好関係にあった家康は、自身もまた天下を手に入れようともくろんでいました。
そこで、信雄を立て、織田家を守るという大義名分を手に入れることで、秀吉に対峙し、急速に拡大する勢力に歯止めをかけようとしたのです。

③北条氏との同盟関係

さらに、家康が秀吉と戦う決意をしたのには、北条氏が関係していました。
家康は、小牧・長久手の前年、自分の娘・督姫を北条氏政の嫡男・氏直と政略結婚させていました。
その証として北条氏と同盟を結んでいます。
この北条氏は、伊達政宗とも同盟を結んでいるので、三国同盟が樹立されていました。
強気だったのです。
家康は兵の上では秀吉に圧倒的に劣っていましたが、北条と伊達が味方に付けば秀吉とも対峙できると思っていました。
家康から、北条に援軍を要請していますが、北条氏も他の戦いが忙しくて援軍を送るに至りませんでした。

1584年2月、家康は信雄と同盟を結びます。
そしてすぐに援軍を養成して秀吉包囲網を確立します。
3月になると、信雄は、秀吉と内通した三家老を誅殺しています。
この時、家康は信雄にこう言いました。

「戦は先手を取る必要がある」by家康

3月7日、秀吉と内通していた三家老を信勝に殺害させた翌日、家康は1万3000の主力部隊を率いて浜松城を出発します。
3月13日には、信雄のいる尾張の清州城に入り、秀吉との直接対決に入ります。
そんな中、信雄のもとに驚きの報せが・・・

「池田殿が寝返り、我が方の犬山城を奪いました!!」

寝返った池田恒興は、幼いころから小姓として織田家に仕え、厚い信頼を置いていた重臣でした。
当然、自分につくであろうと思っていたのです。
池田恒興は、秀吉が力をもってきていると判断していました。
得意の懐柔策によって、池田恒興という即戦力を得た秀吉の動きも早く、家康が清州城に入る前、3月8日には恒興とその娘婿である森長可に犬山城と小牧山城を奪うように大坂から命じていました。
これを受け、恒興は犬山城を、長可は小牧山城を攻めることにすると、先に恒興の軍勢が犬山城を攻撃・奪取します。
まさに、家康が清州城に入った3月13日のことでした。
この池田恒興の裏切り行為による犬山城の占拠こそが、小牧・長久手の戦いの始まりでした。
犬山城を奪取されたと知った家康は、

「これで小牧山まで取られては後手に回る」

家康は、小牧山城を狙っていた秀吉の策を見抜いていました。
そこで、すぐさま重臣の酒井忠次を小牧山城に向かわせ守りを固めると、3月15日信勝と共に小牧山城に入り秀吉軍を待ち受けることにしたのです。

対して秀吉方では・・・
恒興が先に犬山城を奪取したことで、森長可が焦っていました。

「急ぎ、小牧山城を落とさねば・・・!!」

功を急いだ長可は、3月16日、小牧山城を奪取する為に援軍となる恒興の軍勢を待たずに単独で出陣してしまいます。
この動きはすぐに家康の知るところとなりました。
家康は、その夜長可の軍勢を討つため、松平家忠、酒井忠次ら5000あまりの兵を向かわせます。
そして、翌3月17日早朝・・・
酒井の軍勢の先鋒が、小牧山城に向かう途中の長可の軍勢に奇襲をかけるのです。
横から松平家忠の鉄砲隊の攻撃を受け、長可は後退・・・しかし、背後にはすでに酒井の別動隊が待ち構えていました。

勝機なしと判断した長可は敗走・・・羽黒での戦いは、信雄・家康連合軍が勝利しました。
そこで家康は、小牧山城周辺に土塁や砦を築かせ、秀吉軍への備えを盤石のものとします。

一方、羽黒での敗北を知った秀吉は、大激怒!!
すぐに大坂を発ち、3月27日、犬山城に入りました。
信雄・家康連合軍1万6000に対して、秀吉軍は10万の大軍勢でした。
数の上では圧倒的に優位だったのです。
さらに秀吉は、家康連合軍同様周囲に土塁や砦を作り、戦に備えます。
その為、両軍攻めあぐね、睨み合い・・・膠着状態が続きました。
総勢11万6000の兵が待機する中、この状況を打破するべく動いた人物がいました。
池田恒興です。
娘婿の失態を取り戻したい一心でした。

「我らに中入りをお許しいただきたい」

これを聞いた秀吉は、ほくそ笑んでいました。

犬山城は、室町時代、織田信長の叔父・信康によって築城された、現存する日本最古の天守です。

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1584年3月13日、天下を狙う羽柴秀吉軍に、信長の次男・信雄と徳川家康の連合軍が対峙した小牧・長久手の戦いは、信雄がたからこの犬山城を奪取したことで秀吉軍優位で始まりました。
しかし、羽黒での戦いで、信雄・家康連合軍が勝利しました。
敗戦の報せに自ら動いた秀吉は、犬山城から信雄・家康連合軍が陣を構える小牧山城に5キロと迫る楽田城日本人を移します。
両軍周囲の守りを固めたため、互いが見える位置に陣を構えたまま膠着状態に・・・。
そんな中、犬山城を奪取した池田恒興が、秀吉にある秘策を持ち掛けます。

「羽黒戦の屈辱を晴らすため、我らに中入りをお許しいただきたい」by恒興

この中入りは、空になった相手の領国を攻撃することです。
この場合は、三河の徳川家康が尾張まで出てきているので、三河・岡崎城を攻めるということです。
この時、恒興は自分の娘婿・森長可の小牧山城奪取の失敗を挽回するため、中入りを願い出たと思われます。

「良いであろう、貴殿らの志、この秀吉しかと受け取った」by秀吉

秀吉は、池田恒興と森長可をおとりにしようと考えたのではないかと思われます。
当然、城を出てくるであろう家康を討ちに行こうと考えたのです。
この策を聞きつけて、大将にしてほしいとはせ参じたのは、三好信吉・・・後の豊臣秀次でした。
秀吉は、軍略に長けた堀秀政を軍師にたてるということを条件に、参陣を許します。
秀吉が池田恒興の策に乗ったのは、甥の信吉が武功をあげるチャンスだと考えたのです。
中入りを許したのは、恒興と長可をおとりにして、家康をおびき出す狙いと、甥の信吉に 武功をあげるチャンスを与えたいといいう思いからだったのです。

1584年4月6日深夜・・・
三好信吉、池田恒興、森長可らは、三河に向け2万ほどの兵を率いて、本陣である楽田城を出発したのです。
秀吉の思惑通り、秀吉の動きは伊賀衆を通じてすぐに家康の耳に入ってきました。

「2万の兵とな!!
 秀吉め、何を考えておる・・・!!
 城攻めか・・・ならば、どこだ??」by家康

おとりとは知らず城から出てしまうのか・・・罠だと気づき残るのか・・・??
別の策があるのか・・・??

8日夜、家康は、榊原康政ら5000の兵を、城から10キロほど南東の小幡城に向かわせます。
さらに家康は、酒井忠次、石川教正、本田忠勝らに城を任せると、およそ9000の兵を率いて出発します。
秀吉の思うつぼ・・・??

1584年4月6日、膠着状態を脱するため、羽柴秀吉は甥の三好信吉を大将に、池田恒興、森長可ら2万ほどの兵を三河中入り隊として出陣させます。
家康はこの動きを伊賀衆から知らされます。
すると、5000の兵を先発隊として、自らも9000の兵を率いて小牧山城から出陣、小幡城に向かいます。

秀吉が思うより早く情報を得た家康は、秀吉が動く前に小幡城に。
そこで、家康は恒興らがここから2キロ北東のところを進んでいると情報を得ると逆に仕掛けます。

「明朝背後から忍び寄る 仕度いたせ」by家康

情報網に長け、敵の動きを素早く知ることのできた家康は、先に奇襲をかけようと考えます。
4月9日午前2時・・・家康軍は小幡城を出発。
この頃秀吉方は・・・第1陣として戦闘を進んでいた池田恒興の軍勢が、進路にある信雄方の岩崎城を襲撃、夜が明けるころ攻略していました。

殿をつとめる総大将・信吉は、その岩崎城から5キロ離れた林の中にいて知らせを聞きます。
すると・・・安堵したのか、兵を休めて悠長に昼食を取り始めたのです。
これが戦の流れを大きく変えることとなりました。

家康はすかさず奇襲をかけます。
油断していた信吉の軍勢は壊滅状態に・・・!!
大将の危機を知った軍師・堀秀政が向かうも、これも家康に読まれていました。
家康は引き返してくる残りの秀吉軍を一網打尽にしようと、長久手・御旗山に有利な陣形を作り待ち構えていたのです。
軍略に長けた秀政も、敗走するしかありませんでした。
そして、同じく引き返して来た恒興と長可は9000の軍勢も、家康軍に取り囲まれてしまったのです。
大きな動きがあったのは、午前10時ごろ、長可の正面突破で長久手の戦いの火蓋が着られました。

両軍、槍や刀を手に駆け回り、大乱戦です。
2万を超える軍勢が、鎬を削る中、先陣を切った森長可が、鉄砲で眉間をうたれ即死。
恒興も、家康に背後から狙われ首を取られてしまいます。

秀吉軍の敗北は、決定的となりました。
そして、午後2時ごろ・・・家康軍は高らかに勝鬨を挙げるのです。

どうして秀吉軍が負けたのでしょうか??
まずは、家康の情報網のすごさです。
敵の動きを十分に察知していました。
そして、秀吉側の軍師・黒田官兵衛が、現場にいなかったことも理由の一つです。
この時、官兵衛は毛利氏との国境画定協議に行き、戦場にいなかったのです。
官兵衛がいれば違ったかもしれません。

さらに、大将を秀吉の甥・三好信吉にしたことも敗因だったのかもしれません。
信吉はこれが初陣でした。
戦経験のない信吉は、岩崎城陥落の報せに油断、家康軍に不意を突かれ、秀吉軍が総崩れとなるきっかけを作ってしまったからです。
長久手の戦いで、秀吉軍が負けてしまったのは、
①家康軍の方が情報量がまさっていたこと
②頼れる軍師・黒田官兵衛がいなかったこと
③初陣の三好信吉を大将にしたこと
が要因だったのです。

本陣である楽田城で苦戦の報せを受けた秀吉は、怒りに震えます。
すぐに出陣するも、時すでに遅し・・・
勝敗は決し、家康の姿もそこにはありませんでした。
長久手の戦いでの敗戦は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀吉に汚点を残したのです。
復讐に燃えた秀吉は、美濃にある信雄方の支城を攻め落とし、尾張の蟹江城も占拠します。
しかし、一進一退の攻防が続き、長期戦の様相が呈してくると・・・

長久手の戦いで黒星を喫した秀吉は、もはや力で徳川家康をねじ伏せるのは難しいと判断、そこで、家康と共に戦う織田信雄に狙いを定めます。

そもそも、小牧・長久手の戦いの発端は、秀吉に圧迫された信雄が、家康に泣きついたからです。
秀吉が事の発端である信雄と和議を結べば、家康が戦う大義名分がなくなるのです。
秀吉は、信雄に単独の講和を申し入れています。
このまま戦が長引いて秀吉軍が苦戦したとなれば、全国の大名に秀吉おそるるに足らずと思われかねません。
そうなれば、秀吉に歯向かうものが現れ、天下統一の妨げになると思ったのです。

1584年9月、秀吉軍は信雄が治める北伊勢に侵攻・・・信雄方の重要な市場である戸木城を攻略しました。
すると信雄は精神的に追い詰められ・・・
11月11日、秀吉を恐れた信雄は、家康に黙って和議の申し入れを受け単独講和を結ぶのです。

秀吉の目論見通り、信雄という大義名分を失った家康は、浜松へと帰っていきました。
こうして、9か月に及んだ小牧・長久手の戦いは局地戦では家康が勝利したものの最終的には秀吉が信雄と講和を結ぶことに成功したことで引き分けに終わりました。

こののち秀吉は、紀州や四国などを平定。
1585年には関白に就任して絶大な権力を握ります。
すると秀吉は、家康に自分のもとに上洛して和議を結ぶように要求します。
しかし、家康はこれを拒否、何度交渉しても首を縦に振りませんでした。
再び家康を攻めると決めた秀吉は、前線基地となる大垣城に新たに兵糧蔵を築くとそこに、5,000俵あまりの兵糧を運ぶなど戦の準備を開始。
さらに、家康の右腕で豊臣家との交渉を担当していた石川教正に近づくと10万石の所領を餌に寝返らせたのです。
実質N0,2だった石川教正が秀吉側に転じたことで、徳川家滅亡の可能性がありました。
上洛して秀吉と和議を結び傘下に入るか、再び一戦交えるか・・・
徳川家の存亡をかけた決断が迫られた家康の元に、秀吉の使者が岡崎城にやってきます。
すすと家康は・・・

「わしは秀吉殿の家来ではない
 何故、指図を受けねばならぬのだ
 よって、秀吉殿のもとへ上洛する気など毛頭ない!」

「上洛せねば、関白殿下は大軍をもって攻めますぞ!!」

家康はひるむことなく・・・

「わしが、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国の兵力を集めれば、三万、四万は集まる
 潔く一戦交えようではないか!!」by家康

しかし本心は・・・

「わしが小牧・長久手で、多くの羽柴方の武将を討ち、秀吉殿は怒っていることだろうよ
 上洛?
 何をバカな、上洛して殺されでもしたらたまらぬではないか」by家康

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1585年11月、徳川家康を討つべく盤石の準備を整えていた羽柴秀吉は、こう宣言します。

「明くる年、正月十五日までには出陣し、家康を討つ!!」

対して家康は・・・??
右腕だった石川教正が秀吉に寝返ったことで、徳川家の情報が敵方に筒抜けとなり、このまま戦えば負けるのは必至・・・徳川家存続は今や風前の灯火でした。

ところが・・・11月29日夜・・・
中部・東海・北陸と、広範囲に及びM8、最大震度6の天正大地震が起こります。
この時、近江国大津に滞在していた秀吉は、最も安全とみられた大坂城に避難します。
事なきを得るも衝撃的な・・・大垣城全壊!!
大垣城は、家康討伐のための前線基地として兵糧蔵を置いていた城です。
前線基地が崩壊した秀吉は、家康討伐どころではなくなってしまったのです。

この天正大地震が起きたのは、家康が岡崎で秀吉の使者と交渉した翌日のことでした。
家康は、秀吉と一戦交えると腹をくくり、援軍を要請する書状を北条氏らに書き送るなど戦の準備に追われていました。
そんな中、大地震が起きたのです。
この地震がなければ、家康は秀吉の軍の総攻撃を受けていたと思われます。
家康は、天正大地震によって徳川家滅亡の窮地を逃れたのです。

風前の灯火だった家康・・・なんという強運の持ち主!!
こののち秀吉は、家康討伐を中止し、双方若い路線に転じます。

「もはやわしは五畿内・中国・北国まで支配下に置いた
 家康とて、わしに本気で勝てるとは思ってはおるまい
 妹の旭姫を家康の妻にやり、婿入りの挨拶にことよせて上洛させよう」by秀吉

家康も、旭姫を娶り、秀吉と講和をします。
しかし、秀吉は長久手の戦いで敗戦したこともあり、家康を厚遇せざるをえなくなります。
これが豊臣家崩壊へとつながるとは夢にも思わず・・・

江戸時代後期の歴史家・頼山陽の「日本外史」にはこう書かれています。

”家康が天下を取るは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にある”

まさに、この言葉通り、2人の唯一の直接対決となった小牧・長久手の戦いこそが天下分け目の戦いと言えるのかもしれません。

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