日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:明智光秀

1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

細川ガラシャ:散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

新品価格
¥3,080から
(2019/12/30 23:09時点)

細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯 (中公新書)

明智光秀って、紹介するにはいろいろエピソードがあって・・・
でも、本当のことはあまりよく知られていないという・・・なんとも難しいキャラです。
が、色々話があるのにわからないってことは、いろんな話が作れるってことで、ドラマとしては面白くなるのかもしれないですね。

mituhide













先日紹介しましたが、「麒麟がくる」では長谷川博己さんがやってくれます。

mituhide2



















明智光秀は、みなさんご存じだと思いますが、本能寺の変で織田信長に謀反を起こし、でも・・・根回しが不十分で誰も味方がおらず、中国大返しで意気揚々な羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、三日天下で終わる・・・あの光秀です。

後に世を治めるのが、光秀のライバルであった秀吉や家康だったので、なかなかいいところは書物として残されていないというのが現状です。
だから、光秀のことはよくわからないんだと思います。

光秀の本姓は、源氏、清和源氏の家系で、土岐氏の支流である明智氏の出身です。
糟糠の妻は熙子、子供にはあの細川ガラシャもいます。

私のイメージでは、武闘派で田舎者の多かった織田家臣団にあって、唯一の知性派だったと思います。
もちろんそこは信長も一目置く・・・というか、光秀の公家とのあれこれを最大限に利用します。
そうして、真面目で使い勝手のいい光秀・・・
だからこそ、一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。

ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

後に信長に領地を取り上げられますが・・・
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域もあるほどです。

聞けば聞くほど・・・光秀のことを知りたくなります。
大河ドラマでは、どんなふうに色付けしてくれるのか・・・とっても楽しみです。



「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

明智光秀・秀満 ときハ今あめが下しる五月哉 [ 小和田 哲男 ]

価格:2,700円
(2019/9/24 23:45時点)
感想(0件)

信長を殺した男明智光秀の真実 [ 跡部蛮 ]

価格:1,080円
(2019/9/24 23:46時点)
感想(0件)

来年の大河ドラマは、「麒麟がくる」です。
今年は歴史ものではないので、ただ単に楽しく大河ドラマを見ることにした私。
でも、「いだてん」も、楽しく見させてもらっています。

来年は、戦国時代ということで、心が躍ります~~!!
しかも、明智光秀ってことで、気になってるんです!!

主人公の明智光秀は長谷川博己さんです。

kirin















長谷川博己さんと言えば・・・

yae












「八重の桜」の川崎尚之助を思い出します~~!!
個人的にはちょっと華がないかなあ・・・とも思うんですが、この大河で化けてもらいましょう!!

NHKさんによると・・・

「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。

脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。
大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生にも光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。

若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る…
「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。

そして、NHKで放送されるオリジナルストーリーということになります!!

王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。
応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから
解放してくれるのは、誰なのか・・・
そして、麒麟はいつ、来るのか?
若き頃、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として
勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、
多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、
戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。
従来の価値観が崩壊し、新たな道を模索する現代の多くの日本人に向けて、
同じように未来が見えなかった16世紀の混迷の中で、
懸命に希望の光を追い求めた光秀と数多くの英傑たちの青春の志を、
エネルギッシュな群像劇として描き、
2020年、新たな時代を迎えるすべての日本人に希望と勇気の物語をお届けします。
明智光秀とはいったい何者なのか?
麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか・・・
今、すべてが、始まる──


タイトルの「麒麟(きりん)」は、王が仁のある政治を行う時に頭上に現れるとされる中国の伝説の霊獣・・・
その麒麟が明智光秀なのか・・・??
ということです。

私は信長は、外様の光秀と秀吉をとっても評価していて・・・でも、秀吉は絶対に家臣だと思っていただろうけど、光秀は自分に持っていない品格を持ち、都ともつながりがあると・・・家臣だけど一目置いていたと思います。
そんな光秀だからこそ、信長を天下人にするわけにはいかなかったのかも・・・??
今までの大河では、謀反人としての光秀が書かれてきましたが、本当の光秀・・・家族思いで、家臣思いで、領民思いという非の打ち所のない光秀がやってくるのかもしれません。

とにかく楽しみですね~~!!


「明智光秀が築いた京の奥座敷 亀岡の城下町」はこちら
「明智光秀・本能寺への葛藤」はこちら
「悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~」はこちら
「光秀VS秀吉 信長はどちらを評価?」はこちら
「明智光秀~"天下の謀反人"の真実~」はこちら
「新説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」はこちら

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

新装版 明智光秀 真の天下太平を願った武将 (PHP文庫)

新品価格
¥1,058から
(2019/9/22 22:14時点)

明智光秀と近江・ 丹波 分国支配から「本能寺の変」へ (淡海文庫)

新品価格
¥1,620から
(2019/9/22 22:14時点)

京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

北政所と淀殿―豊臣家を守ろうとした妻たち (歴史文化ライブラリー)

新品価格
¥9,800から
(2019/9/21 21:15時点)

東大教授も惚れる! 日本史 アッパレな女たち (集英社ノンフィクション)

尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

清須会議 スタンダード・エディション【Blu-ray】 [ 役所広司 ]

価格:5,076円
(2019/7/21 22:34時点)
感想(3件)

清須会議 秀吉天下取りへの調略戦 (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 柴裕之 ]

価格:1,620円
(2019/7/21 22:34時点)
感想(0件)

このページのトップヘ