日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:明暦の大火

およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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1657年1月18日、江戸の町で起きた火災は3日間燃え続け、町を、人を、江戸城天守をも炎に包んでいきました。
江戸の2/3を焼き、10万人を死に追いやった・・・明暦の大火。
後の関東大震災や東京大空襲などと並ぶ、日本史上最大級の災害となりました。


明暦3年1月18日、午後1時ごろ・・・
江戸城の北、本郷にあった本妙寺から出火。
現在の文京区本郷5丁目にある本妙寺坂付近です。
火は、北よりの風にあおられて南東へ・・・。
湯島、駿河台の大名屋敷を次々と焼いていきます。
信仰の場であった湯島天神や神田明神にも延焼。
日本橋にあった吉原や劇場のあった地域までも壊滅状態!!

午後5時ごろになっても日はおさまりません。
西からの風に代わり・・・火は東方向へ・・・
八丁堀の通りは、鍋や布団など家財道具を手に逃げまどう人たちでごった返しました。
車長持ちに荷物を乗せて逃げる人も・・・それが道を塞いでしまったので、さらなる混乱をきたしました。
火の勢いはとどまることを知らず、停泊中の船にまで飛び火!!
隅田川を飛び越して、霊岸島へと広がっていきました。島に祀られていた寺は炎上・・・
さらにその先にあった佃島、石川島も焼き尽くしたのです。

どうして被害が広まったのでしょうか??
火事が起こった1月18日は・・・現在の3月初旬・・・。
この時の江戸では80日以上雨が降っておらず、井戸は枯れ、空気はひどく乾燥していました。
小型台風並みの季節風が吹いて砂煙を巻き上げていました。

過密都市・・・
江戸開府から50年余り・・・その間に町は急激に拡大し、人口は50万人。
どうして人口が急増したのでしょうか??
1635年、幕府の政策として参勤交代制度化。
大名達は、上屋敷、中屋敷、下屋敷を構え、家臣を常駐させます。
大大名ではこれに加えて抱屋敷もありました。
これによって武家地は密集化が進み、さらに新しい町に全国から一旗揚げようと商人たちも町人地に集まってきました。
密集していたので、延焼が激しくなったのです。


さらに情報の錯綜。
火の手が迫った伝馬町の牢獄では・・・
牢屋奉行の石出帯刀は独断で、牢に戻ると約束させ、囚人たちを解き放ちました。
囚人たちは石出の措置に感激!!
全員戻ってきたと言います。
しかし、この人道的措置が2万3000人もの死者を出した浅草橋門での悲劇を生んでしまいました。
浅草橋門にはこの時火災から逃れようと多くの人々が押し寄せていました。
しかし、門が閉じられていたのです。
浅草橋門の門番たちが、小伝馬町の囚人たちが脱獄したと誤報を信じ、囚人たちを外に出すまいと門を閉ざしてしまったのです。
背後から迫ってくる火に人々は焼かれ、門をよじ登った者は堀に落ちて溺れてしまいました。

防火体制の甘さ・・・。
人口が急増し、火事が多発しても、町にはまだ火の見櫓も、半鐘もほとんどありませんでした。
消火活動は、破壊消防でした。
当時は大名火消しのみで、町火消はこの63年後に設けられます。当時は町人たちの自助努力でした。

甚大な被害をもたらした明暦の大火・・・
その日がおさまったのは、1月19日午前2時ごろでした。
半日燃え続け・・・四十八町、5.3平方キロメートルを焼き尽くしていました。
大勢の人が行方不明者を探して彷徨っていたと言います。

それでは本妙寺の出火原因とは??
振袖火事??新都市計画のための幕府放火説??
出火原因がわからなかったので、様々なうわさが飛び交います。

江戸時代に火事を出してしまうと江戸追放などの処分がなされますが、本妙寺は火元であるにもかかわらず処分なし。
出火元である本妙寺になんの処分もなかったので、もう一つの説が出てきます。
本妙寺に隣接した老中・阿部忠秋邸が出火元という説です。
おまけに本妙寺は大火後、寺の格が上がる厚遇を受けています。
また阿部家から供養料が、関東大震災まで納められています。

実際には確証がなく、断定はできませんが・・・。

48もの町を焼き、半日ほどで自然鎮火した火災。
ところが再び火の手が上がります。
9時間後・・・19日の午前11時ごろ。
火元となったのは、小石川にあった大番衆与力の宿所。
出火原因は不明。
北西の風にあおられて、火は南下。
水戸藩屋敷を焼き外堀を越えていきます。
麹町・・・大名屋敷を次々と焼いていきました。
大名屋敷から逃げた馬が、通りを人々を蹴散らして走ったので、多くの犠牲者が出ました。

そして火の手はついに江戸城へ!!
北の丸が炎上!!
火は天守へ・・・!!
江戸城天守は、壁に合板を用いて耐火建築だったことから燃えることはないと誰もが安心していましたが・・・
正午過ぎ、高さ60メートルを誇る日本一の天守は火柱となってしまいました。
猛烈な火災旋風が発生。これによって、天守の窓が開き、そこから炎が入って内側から燃え広がったのです。
弾薬庫が爆発!!
火は、本丸御殿へと迫ります。
幕閣たちは時の第4代将軍・家綱をどこへ避難させるかで議論!!
しかし、先代の将軍の異母兄弟であり幕閣であった保科正之は・・・

「本丸に火が回ったら西の丸に移ればよい。
 西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を建てればよい。
 将軍を動かすなどもってのほかだ!!」

一同、返す言葉もありませんでした。
保科は、リーダーである将軍が軽々しく動けば、人々が動揺すると考えたのです。
将軍は保科の提案通り、西の丸に避難しました。

ところがその時大奥では女性たちがパニックに・・・。
その女性たちを救ったのが、老中・松平信綱でした。
女中たちは大奥以外の部屋に入ったことがないので、どうやって西の丸に行けばいいのかわかりませんでした。
そこで、畳を裏返し、それを道しるべとしたのです。
午後4時ごろ・・・風は西風に・・・火は西の丸をそれて東へ向かいました。
京橋付近では次々と橋が焼け落ち、2万6000人が亡くなりました。


1月19日午後4時ごろ・・・麹町5丁目の町屋から第三の出火が・・・。
西風にあおられて、火は西の丸、桜田門、日比谷、増上寺・・・
1月20日午前8時ごろ自然鎮火。。。
海岸べりで止まりました。

この3つの火元から出た火事の3日間で、江戸の6割を焼き尽くしました。
明暦の大火による被害は・・・
大名屋敷・・・・・・・・160軒
旗本屋敷・・・・・・・・770軒
   町家・・・・・・・・800町
   寺社・・・・・・・・350か所
     橋・・・・・・・・60基
   倉庫・・・・・・・9000か所

焼失面積は、およそ25平方キロメートル、千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の60%が焼けてしまいました。
死者の数はおよそ10万人、その夜から大雪が降ったので、焼け出された人が凍死したことも原因の一つです。

町を襲った明暦の大火・・・その救済措置とは・・・??
余りにも甚大な被害に・・・すぐさま救済措置をとったのが、保科正之をはじめとする幕閣でした。

①情報統制
鎮火した1月20日、保科は老中・松平信綱の名で関東一円に将軍の無事を伝えるお触書を出しました。
人々を安心させるためです。

②食糧配給
翌日には江戸市中に6カ所の仮小屋を設置し、かゆの配給を始めました。
その量、一日1000俵。
配給は、2月12日までのおよそ20日間行われました。
さらに、焼けてしまった幕府の米蔵の米も放出。
焦げているとはいえ、貴重な食料となりました。

③金銭援助
保科は大名から下級武士まで、階級に関わらずに援助をしました。
さらに、町人たちにも16万両の資金援助をしようとしたところ・・・幕閣たちは反対!!
しかし、
「幕府の金蔵に蓄えがあるのは、このような時に使って民を安堵させるため、救済しないのであれば、たくわえなどしない方がましである!!」
と、庶民への援助を断行!!

保科はこれらの救済措置を矢継ぎ早に行いますが・・・
しかし、自身もこの時、大火で大きな痛手を負っていました。
跡継ぎである正頼が火災により死去したのです。
数日間喪に服しただけで政務に戻る保科正之。

焼き尽くされた江戸の復興プロジェクトを始める保科。
しかし、幕閣の人々は・・・焼け落ちた天守を建てようとします。
保科は、この天守建設のお金を、町の復興に使おうとします。
軍備の象徴だった天守など、もはや無用の長物!!
太平の世にこの判断は正しい事でした。
以後、江戸城天守が再建されることはありませんでした。

保科は復興のための木材は買わない、と、うわさを流すことで、材木商たちが材木の値段をつり上げようとするのを阻止します。
在庫を一挙に放出する材木商たち・・・価格は安定し、材木を手に入れやすくなりました。
さらに参勤交代の停止や、期間短縮を決行!!
深刻な食糧不足のために、国元に人々を帰すことで口減らしをしたのです。

そんな江戸復興プロジェクトとは??

①過密化の改善
被害拡大の原因であった過密化の改善を試みます。
大名屋敷を移転します。
例えば江戸城内にあった尾張、水戸、紀州の上屋敷をそれぞれ外堀の外へ・・・
その跡地は、建物を造らず、馬場や菜園にし、火除け地としました。
今の皇居・吹上御苑のところです。
これによって大名屋敷は玉つきに郊外に押しやられます。
青山、赤坂、麻布はこの時に整地されました。
また、移転によって次からは、びっしりと建物を建てないようにしました。
日本橋にあった吉原遊郭も、浅草の北に移転、新吉原として200年賑わうこととなります。

②道の拡張
火事の際、逃げ惑う人々でごった返した道も拡張します。
日本橋通りなどのメインストリートは、およそ2倍に広げられ、万が一に備えて真っすぐに道を通します。
通りに面した商家には、それまで柱がついた2メートル近いひさしがありましたが、これを三尺に規制。
居住用の町屋はひさしを一間つけることが義務付けられ、三階建ては禁止。
火災が起きたときにひさしから屋根に上り、破壊消防をしやすいようにしました。

③耐火建築の奨励
新しく建物を建てるときは、藁葺や茅葺でなく牡蠣殻葺に・・・
外壁は土や漆喰で塗って、木造部分を見えないようにしました。

迅速に推し進められた江戸の復興、その最後の一手は・・・橋の増設。
明暦の大火が大きな被害となったのは、人々が隅田川を渡れなかったことでした。
というのも、幕府は隅田川を天然の堀としていたので防犯上、千住大橋より下流に橋をかけることを禁じていたのです。
両国橋・・・後に、見世物小屋の営業が許され、江戸一番の賑わいを見せることとなります。
さらに新大橋、永代橋がかけられ、隅田川の東側は大きな発展を遂げていきます。
この復興事業によって、一気に拡大した江戸。
およそ1.5倍にまで広がります。
もはや戦国にあらず・・・軍事的要素を捨て去った江戸は、この時、平和都市へと生まれ変わります。

上方文化を受け入れるだけだった人々は、新しくなった江戸で結束し、独自の文化をはぐくんでいきます。
明暦の大火後に建てられた寺・・・墨田区両国にある回向院。
道端に放置されていた犠牲者の人々を見て心を痛めた保科正之が、創建させました。
彼らを供養するために・・・。



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