日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:春日局

愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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将軍の世継ぎを設けるため、将軍以外の男子の出入りが禁じられた空間・・・
政治の中心地に出現したこの空間・大奥で、徳川による平和な時代を願い辣腕を振るったのが春日局。
三代将軍家光に仕えた日本史上最も力を持った乳母・春日局です。

丹波国にある黒井城・・・春日局はこの城の主・斎藤利光の子として生まれました。
父の利光は武芸に優れ、明智光秀の重臣として手腕を振るっていました。
1582年6月、本能寺の変!!
明智光秀が、主君・織田信長に謀反を起こしたのです。
しかし光秀は、羽柴秀吉との戦いに敗れ命を落とし、利光もまた謀反人として捕まってしまいました。
利光は、市中引き回しの上打ち首・・・
その首は、京都粟田口に晒されました。
当時4歳だったお福は、1万石の姫から一転、謀反人の娘となってしまったのです。
父の僅かな友人や、母の親族を頼り、各地を流転する日々・・・
お福は母方の一族・稲葉家の養子となり苗字を変え、京都で身を隠しながら暮らしたといいます。

そんな生活から14年、お福に転機が・・・!!
同じく稲葉家の養子だった稲葉正成と結婚。
稲葉正成は、小早川秀秋の重臣で、関ケ原の合戦では秀秋を徳川方に寝返らせることに成功!!
武功を立てた男が夫だとなったのです。
が・・・正成が主君と対立し、牢人となってしまいました。
お福たちは正成の弟を頼り美濃へ・・・。
お福たちは乳飲み子を抱え、ひそやかに生きました。
お福が通ったとされる汾陽寺の参道は後にお局道と呼ばれました。
戦乱の世に翻弄される日々・・・ここに通ったお福の思いは・・・??

その頃、江戸では歴史が大きく動いていました。
1603年徳川幕府樹立!!
ほどなくして秀忠の正妻・お江が身ごもりました。
男子ならば・・・待望の世継ぎ!!
そのため、徳川家は乳母を探し始めました。
当時の乳母は・・・
御台所は子育てをしません。
子育てはすべて乳母の仕事でした。
女房集団のTOPが乳母で、次世代を養育する・・・乳母は、中世後期の社会において、憧れの職業だったのです。

日本で乳母という職業ができたのが平安時代・・・
枕草子には、乳母が女官たちの間で特別な存在であったことが記されています。
乳母には大きな権限が与えられていました。
そして武家の時代となっても、乳母は権威のある職業としてあり続けます。
流転の日々を送ったお福・・・
お福が乳母に採用された裏には、徳川家康の意向がありました。

「斎藤利光の娘なら、ただ者ではないだろう。。。」by家康

武勇で知られた父を持ち、偶然にも4人目の子を産んだばかりのお福に白羽の矢を立てたのです。
それは、大きなチャンス・・・夫と別れ、幼い子供を連れて江戸へと旅立っていきました。

江戸城に入ったお福の生活は・・・??
竹千代の乳母となったお福には4部屋・・・広さ40畳の住まいが用意されました。
貧乏生活から一転、お福は安定した暮らしを手に入れたのです。
さらに・・・天井裏には・・・部屋が隠されており、秘密の相談や女中を説教する時に使われたといわれています。
お城を支える女性たちをまとめるために、一生懸命努力していたようです。
お福は竹千代に乳を与え、我が子のように愛情を注ぎます。
後の将軍として期待を背負った竹千代・・・僅か4歳で優秀な守役がつき、帝王学を学びます。
そんな周囲の期待に反し、竹千代は病気がちな子供でした。
お福は竹千代の健康のために工夫を凝らします。
七色飯を用意し、食の細い竹千代に食べさせたといいます。

1606年、弟・国松誕生。
竹千代さまの弟・国松さまは聡明でした。
母・お江は、病弱な竹千代よりも、国松を可愛がったといいます。
武家社会の家督相続は・・・戦国時代は実力の時代だったから、実力のある者が天下の権を握る、国の舵をとるということが常識でした。
子供が何人いても、”誰が一番家を存続させるか”という基準で選ぶのが普通でした。

1614年大坂冬の陣・・・竹千代11歳。
翌年の夏の陣によって、豊臣家が滅び、ついに徳川の時代が到来します。
徳川の家督は誰が継ぐのか・・・??
秀忠は国松を跡継ぎにしようとしている・・・そんな噂が流れます。
12歳になった竹千代は追いつめられていきます。
”竹千代さまが自殺なされようとした”
跡継ぎ問題で混沌とする江戸城!!
竹千代のために乳母として何ができるのか・・・??

家康に直訴する??
しかし、直訴に失敗したらお福は終わりだ・・・!!
秀でたものが家を継ぐのは世の習い・・・??

徳川家康の駿府城・・・そこの姿を現したのは、江戸城にいるはずのお福でした。
彼女が目をつけたのが、当時はやっていた”伊勢参り”。
お伊勢参りに行くと偽って、手形を入手し、箱根を越え駿府へ・・・!!
女官の結びつきを利用し、家康の側室を懐柔・・・
お福は家康の面会にこぎつけました。

「竹千代さまが、将軍家のお世継ぎとして何が足りないというのでしょう。
 弟が兄に勝るなど許されぬ事・・・。
 それが将軍家で行われているとあっては、天下が乱れる恐れがあります。」byお福

お福は家康に長子相続を直訴したのです。
これに対し家康は・・・??

ある日家康が江戸城へ・・・竹千代と国松を呼び出します。
「竹千代殿、これへこれへ・・・」と、竹千代を近くに呼び寄せて、竹千代と共に近寄ろうとした国松に・・・
「国松は、元いたところに下がっておれ!!」
家康は、竹千代にのみ、自分の近くに寄ることを許したのです。
さらに家康は秀忠に訓戒する・・・
「嫡子を排し、庶子を立てん事は、天下が乱れることである!!」と。
そう、家督相続争いが起こると戦国争乱は終わらない・・・
家康自身は武断政治から文治政治への転換をしていたのでしょう。
それが、三代将軍の跡継ぎ問題となったのです。

この時期、武家諸法度、禁中並公家諸法度など作成、武力国家から法治国家への転換を図っていました。
お福が願っていた長子相続制度は、家康の願っていた国の姿に不可欠だったのです。
直訴から2年後の1617年・・・江戸城西の丸に移った竹千代・・・。
ここは、徳川家の家督を継ぐ者が住むことを許された場所でした。

その後竹千代は元服し、家光となります。
1623年、20歳で三代将軍となりました。
お福は乳母としての責務を果たしたのです。
しかし、彼女が城を去ることはありませんでした。
お江が亡くなると・・・お福は大奥総取締役に就任。
大奥の実権を握ることに・・・!!
男子禁制などの規律の遵守に側室探し、大奥の組織化と拡大に尽力します。
後の大奥の原型が、この時出来上がったのです。
お福は女官たちの待遇改善にも力を入れます。
すべての階級の女中たちに、合力金という名の衣装代を幕府に願います。

一方、お福は朝廷との交渉役も担っていました。
後水尾天皇天皇に拝謁し、春日局という称号を賜わります。
この”春日局”とは、天皇の子を産んだ女官たちに授けられた由緒ある称号で、一介の武士の娘に与えられるなど、前代未聞のことでした。

戦乱の世で、男たちに翻弄された娘が、江戸時代の始まりに権力者と肩を並べる力を手にしました。
そして・・・1643年、お福は65歳で、その激動の生涯を終えるのです。

乱世を生き抜いたお福の時世は・・・

西に入る 月を誘い 法を得て
         今日は火宅を 遁れぬるかな



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BS歴史館~大奥はこうして誕生した~お江VS春日局・女の戦いに秘められた真実~です。

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去年の大河ドラマの主人公の二人と言っても過言ではないと思われます。
が、これくらい内容の濃い大河ドラマにしてほしかったです。失恋
それぐらい、お江とお福の魅力が満載です。

江戸時代、お世継ぎづくりのためだけに・・・最盛期には2000人の女性がいたといわれる大奥。
愛憎劇や、陰謀が渦巻く女の園として面白おかしく語り継がれてきました。
しかしその大奥、どうやって作られて何のために必要だったのでしょうか?

この大奥誕生には、2人の女のバトルがありました。
勿論、三代将軍の生母・お江と、乳母・お福です。
逸話として残っているものには・・・。
①将軍継承問題
②お世継ぎ問題
などがあります。

しかし本当は、2人は協力をしていたようです。この2人の連携が、江戸幕府初期の男性の活躍を支えていました。

その立派な役割とは?巨大組織大奥の、その知られざる実態とは何なのでしょうか?

華やかで、艶やかで、恐ろしいイメージの大奥。そこは、男子禁制の女の園です。しかし、そのイメージは、テレビドラマや映画の影響が強いようです。

本当は・・・。女性国家公務員組織なのです。これが、幕末に至ると、巨大化してしまうのです。

1605年秀忠が将軍に就任。このころに完成します。
江戸城、表と中奥で4800坪、しかし、大奥は6300坪もありました。
江戸城本丸完成と同時に大奥が生まれました。その御台所として君臨したのがお江でした。
しかし、この当時、ひとりの側室もおらず、男子禁制でもありませんでした。
埼玉県川越市にある喜多院には、大奥の建物が、江戸城から移築され保存されています。
それは、1604年7月に長男・竹千代を出産した部屋、乳母・お福の部屋です。

2人は、生母・乳母として竹千代を将軍へ導くはずでしたが・・・。
1606年次男国松誕生。
これが、2人のバトルのきっかけでした。

ROUND1・・・将軍継承問題

性格の全く違う2人の子供・・・。
長男・竹千代は、病弱で引っ込み思案、お福は健康食を食べさせたり、キジのかぶりつき食いを見せたり・・・。
次男・国松は、聡明で活発。お江と秀忠がかわいがり、後継者にしようと考えます。

そこで、お福は大御所に直訴します。お伊勢参りに行くふりをして、駿府の家康を訪ねます。
大御所は江戸にやってきて・・・
子供たちに会った際に・・・。
「上座に上がれるのは次期将軍のみである」と、竹千代を膝にのせて、国松を下座に置いたとか・・・。
という逸話があります。

しかし、これは、信憑性に乏しく、作られたもののようです。
というのも、お福は家臣、お江は正室、身分違いも甚だしく、対等にやり合える存在ではなかったのです。
だから、直訴したことに対して疑問があります。

また1612年、家康がお江に宛てた訓戒状には、将軍教育が27か条にわたって細かく書かれています。とりわけ兄弟の序列が厳しく書かれています。

「長男は跡継ぎとして別格
 次男以下は 家来と同じであると
 思っておくように

 長男よりも次男の威勢が良いのは家が乱れる原因となる。」

次男をかわいがる夫婦をたしなめています。つまり、直訴するまでもなかったのです。

戦国時代は、長男が家督を継ぐと約束されたわけではありませんでした。しかし、安定した世の中では、兄弟間の争いが増える危険性があるのです。

平和と安定のために家康が支持したのは、儒教「長幼の序」。上下関係を重んじるのです。

この頃から家康は、武断政治から文治政治へ変えようとしています。法令や仕組みで安定化を図ろうとしたのです。
年長者が跡を継ぐ長子相続=争いは起きなくなります。これが、大奥の最大の目的となるのです。

この長子相続、秀忠は長子ではありません。戦国時代は下剋上、能力主義の時代。
「君 君足らざれば 臣 臣足たらず」これでは困るのです。

「君 君足らずとも 臣 臣足らざるべからず」時代へ・・・。
つまり、お江VSお福のバトルはなかったのです。

このルール、正室でさえも私的感情を持ち込めないルールとなりました。
ちなみに戦国時代では、信長も、政宗も弟を殺しています。それは、母が弟をかわいがったからです。
しかし、それでは国家が維持できません。

この訓戒状の狙いは、徳川内部が、竹千代派と国松派に分裂すれば、乱のもとになるので、それを防ぎたかったのです。


お江とお福、彼女たちには少女時代に起こった運命的な事件がありました。

1582年本能寺の変。
天下統一目前の信長を、自害に追い込んだ明智光秀。
この時お江10歳、お福はわずか4歳でした。
お福の父は、光秀の重臣斉藤利三。お江にとっては、伯父を殺した仇の娘・・・。2人は敵同士で仲が悪かったと言われていますが・・・。
実はお江の父・浅井長政の本当の仇は信長であり、育ての父・柴田勝家を自害に追い込んだのは、光秀を討った秀吉でした。

秀吉にひきとられたお江は、政略結婚に利用され・・・。三度目の相手が秀忠でした。
家康は、そんな苦労人お江をかっていたのです。


では、なぜお福が乳母に?
当時、乳母というのは、一番のエリート職でした。
お江もそうですが、お福の能力の高さに目を付けたようです。

「春日局由緒」には・・・。
スーパー乳母の条件
①名将・斉藤利三の遺伝子。
敵でさえも、その死を惜しむほどの人物で、外交能力にたけ、また、茶人でもありました。
家康は、京で乳母を探させます。それは、公家対策であり、寺社対策でもありました。
京都に対して知識のある乳母を探します。

②名家・京都西三条家の品格。
母方の祖母は、西三条右大臣の娘でもありました。
お福は、13歳から3年間、西三条家に奉公に上がり、公家のしきたり、教養を身に着けていました。
この公家とのかかわりの深さが評価されました。
③戦国一の苦労人。
お福・4歳の時、父を謀反人としてさらし首にされます。その後、母親と貧苦のどん底で転々とします。
稲葉正成と結婚するも、愛人問題で離縁。この、苦労人のところを最も評価したそうです。

家康は、組織作りのプロ。
竹千代には苦労をした人を付けよう。。。
太平の世に相応しい将軍を!!

公家をどう抑えるか?
粗野で乱暴な東国女性では駄目だったのです。

政治性・帝王学・情報・知識も必要で・・・。お福は、母性よりも政治力、外交力に長けていました。

お福が配置した、家光幼少時の側近には、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛など優秀な人を付けています。この人々は、後に老中になるわけですが・・・当時は、お福学校と言えるでしょう。

父権社会から母権社会への転換期だったのかもしれません。

1616年家康が亡くなります。75歳の生涯でした。
1623年家光が三代将軍を継承します。

その妻は?お世継ぎは?

ROUND2・・・お世継ぎ問題

お江が選んだ公家の娘・鷹司孝子、2年間教育し、正室となりました。自らの権力を誇示するための正室作戦です。お福は密かに堕胎薬を飲ませ、子供が生まれないように追いやってしまう・・・。

側近につけた美少年たち。。。女性には見向きもせずに、男色に走る家光。お福はなりふり構わず側室作戦を実行します。

家光が一目惚れしたのは、なんと、19歳の尼僧でした。強引に還俗させ・・・この人が「お万の方」です。そして、気に入りそうな娘を次々と側室に。

お玉の方は、京都の八百屋の娘です。いわゆる「玉の輿」です。
浅草寺で見つけたお楽の方は、父親は農民出身で死罪になっていました。

努力の甲斐あって、女性に目を向けるようになった家光でした。


この話にも、意味があります。
「正室作戦」の真相は・・・。京都の公家からもらう意味は、将軍の権威を高め、公家衆も支配するということ。公家対策なのです。

「堕胎薬」の真相は、朝廷との間は維持したいが、子供を産んで力が強くなられても困る。。。
正室には子供を産ませない=公家の力を深入りさせない。ということなのです。

御台所は、代々皇室・公家衆から迎えられましたが、将軍は一人も生まれていません。
正室を公家から迎えられるのはすごいことです。もし、徳川幕府が京に行くと・・・華美になって、平清盛や足利義満のようになりかねません。
質実剛健な家康は、公家化を防ぐためにも、京から江戸城に迎えるという体制をとったのです。

「お福が庶民を選んだ理由」は、町にいる女性の方が健康で、元気な世継ぎを産めるのでは?ということなのです。
この結果、お楽の方は4代将軍の、お玉の方は5代将軍の生母となります。
ちなみに、大奥女中は幕臣の娘です。が、どんな娘でも、幕臣の養女になれば良いことなので。。。

また、側室には30歳定年制がありました。お褥辞退というのですが、つまり、側室は30歳までに子供を産まなければならないのです。次々とリストラされるので、追加する必要がありました。

お江が正室、お福が側室さがし。2人で手を取りあって、幕府体制の奥向きの維持に努めました。
巧妙な仕掛けだったのです。

そこには、当時の出産事情があります。子供は生まれても、なかなか育たないのです。島原の乱以降、「末期養子」が認められなくなりました。末期養子とは、跡継ぎのない武家が、主君の死に臨んで急に養子を決めることです。

大名は跡継ぎがいなくて断絶というところもたくさんありました。もともと家光はボーイズラブでしたが、側室が増えることで、部屋が増え、御付きの人が増え、大奥を支えるための雇用が増えました。大奥は、グレードの高い職場となったのです。

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将軍継承の安定と、お世継ぎ制度、見事な連携で大奥の役割は果たします。
この大奥、規律やシステムが江戸城中に壁書きが張り出されます。

1618年大奥法度
女中の出入りや門限のチェックなど5か条です。
基本的には秘密漏えい防止の義務です。
が、最も重要なのは、局より中へは男子入るべからず=男子禁制です。
将軍以外の男子が入らないようにすることで、「ここで生まれた子は将軍の子」ということを明らかにしたのです。また、周りにも認知させるためです。

この大奥法度の前には、武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などの法律が出来ていました。表と奥、あわせて法治国家としたのです。


一方お福は老中に、毎年「合力金」という衣装代を幕府から頂戴したいと、禄以外の収入を確保しました。
お福は、経済的自立をバックアップします。お福のおかげで、サラリーや、生涯年金あったのです。それと共に、呉服屋が誕生し、財閥へ・・・、町人社会の変革をもたらします。江戸経済をも回す効果があったのです。

大奥は憧れの場所となり、その所作、ファッション、今も昔も変わらない女性の仕事が大奥から発生したのです。

この女性国家公務員は、女性の位置づけとしても重要です。

範例となって各藩に持ち込まれたので、全国に女性の職場が確保されました。

大奥を取り仕切るお江とお福。国家公務員となった女中たち。ここには、表の政治に対しても重要な役割がありました。

2代・3代は徳川幕府草創期。大名家を参勤交代で統制していました。
厳しく処罰し、たくさん改易となりました。
大名たちは大名証人として、江戸に妻子を人質として置いていました。
また、大名同士が徒党を組まないように、大名同士の婚姻関係を制限していました。

そこで、大名家の情報を取り持って、縁談を取り持っていたのがお江・お福・大奥女中たちだったのです。
公式結婚斡旋所です。つまり、情報収集や外交、幕府の根幹的役割をはたし、裏での大名統制が行っていたのです。

大名証人制度と大奥外交・・・
大名証人とは、大名の妻子に江戸在住を義務付けたもので、その妻たちを大奥が統制していました。江戸藩邸は、大名家の大使館でした。お江が死んでからは、お福が・・・。

また、改易された武士たちは幕府を恨むでしょう・・・が、その後、女性たちを大奥へあげて感謝をされるということもしました。女性の外交力が大奥と繋がっていたのです。

このことからも、大奥が権力を握るのは明らかです。


お江とお福。戦国時代から虐げられてきた女性たちの代表です。平和になるまでの苦労をたくさんしてきました。
日本は平和でなければならない・・・。戦国乱世を生き抜いてきた2人の結晶が大奥なのです。
大奥は、全国の女性の手本となる、徳川幕府の日本女性局だったのです。

1626年お江 没。54歳の生涯でした。
この後は、お福が引き継いでいきます。
女性の職場を作るために、太平の世を築く礎となりました。
1643年お福 没。65歳の生涯でした。
京都金戒光明寺には・・・。お江の供養塔が立っています。これは、お福が建てたもので、その傍らには、ひっそりとお福の供養塔がありました。

協力して作り上げた大奥。
出会うべくして出会った二人が、徳川の基礎を作りました。
家康の人選大成功でした。


大河ドラマの「江」も、まんじゅうばっかり食べて子供ばっかり産んでいないで、これくらい内容を濃くして欲しかったなあ。。。

THEナンバー2史上最高のファーストレディー 「お江」はこちら

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