日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:昭和の選択

日本海海戦の真実 (読みなおす日本史)

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今回は、昭和の選択です。

牙を剝き、人々に襲い掛かる自然災害。
災害を予測し、注意を促す天気予報は、私たちの生活に欠かせないものです。
天気予報の育ての親は、岡田武松。
明治から大正・昭和にかけて、日本の気象事業の礎を築いた科学者です。
武松は、台風という言葉の名付け親で、梅雨の原因を解明。
富士山測候所の建設も行いました。
日露戦争では、日本海海戦の気象予報官として活躍。
見事予想を的中させ、歴史的勝利に貢献しました。
武松は、中央気象台のTOPとして紛争しました。
そんな武松に時代の荒波が・・・太平洋戦争です。

近代日本の天気予報は、どこで始まったのでしょうか?
その舞台は、皇居・・・ここにかつて中央気象台はありました。
江戸城の天守を支えていた石垣には、気象台のシンボル・・・大きな風速計が回っていました。
中央気象台は明治8年に発足しています。
お雇い外国人の指導の下、気温、気圧、雨量の計測など地道な作業が行われていました。

1884年天気予報開始。
全国22カ所の観測を元に、街の交番などに張り出されました。
しかし、的中率は低く・・・マスコミの非難の的となります。
そんな中央気象台に1899年就職した岡田武松。
東京帝大で、気象学を学び、日本の気象事業の発展を志していました。

武松が生まれたのは、千葉県我孫子市布佐。
台風や大雨によって度々氾濫した利根川・・・
武松は、自然の猛威に翻弄される人々を目に焼き付けていました。
気象台に入った武松は、正確な観測を徹底、技師たちの再教育を徹底します。
気象の法則性を・・・分析し、測候所を増やすことを提案します。

武松は、勤め始めてわずか5年・・・1904年には中央気象台の予報課長となります。
そして、その直後、重責を担うこととなるのです。
日露戦争の天気予報です。
1905年、日本海軍は世界最強のロシア・バルチック艦隊を迎え討つ準備を進めていました。
決戦の地は対馬海峡!!
その天気予報を、武松が任されたのです。
しかし、問題が・・・日本の気象は、西から東へ移り変わります。
予報するには、西の観測データが不十分でした。
そこで気象台は、朝鮮半島と大陸沿岸に測候所を増設、技師たちを派遣し、観測網を一気に拡大します。
ロシアに負ければ日本の未来はない・・・
善戦からのデータに集中する武松。
5月26日未明、バルチック艦隊が出現!!
明日には戦いが始まる!!
天気は・・・??
戦いの前日、対馬沖は低気圧に覆われ、雨が降っていました。
集められた観測データから低気圧を予想します。

”天気晴朗ナレドモ 波高カルベシ”

低気圧は去り、強風と高波の中、天候は回復すると予想しました。
翌日・・・予報は見事的中!!
連合艦隊は、大本営に向け決意の電報を送ります。

”敵艦見ユトノ警報ニ接シ 
 連合艦隊ハ直チニ出動
 コレヲ撃滅セントス
 本日は天気晴朗ナレドモ波高シ”

この知らせは、日本軍の戦意を大いに上げました。
波が高く、船が揺れる闘いは、砲撃の技術が勝る日本にとって有利!!
バルチック艦隊を撃滅させる大勝利へと繋がりました。
気象観測にかける武松の努力を証明した戦い・・・。
この勝利をきっかけに、気象台への信頼は一気に高まりました。

自分達の予報を国民に役立てたい!!
武松は新しい取り組みを始めます。
それが海難事故でした。
政府は予算不足を理由に計画に反対するであろう読み、

「建設費はこちらで用意します。
 施設の運営費だけ承認してください。」

と、海運業で成功した船成金から寄付金を獲得。
建設費用を自前で用意して政府の許可を得ます。
こうして誕生したのが、1920年海洋気象台です。
天気予報は、3000km離れたパラオまで届きました。
船乗りたちの心の支えになります。

1923年中央気象台長に就任。
予報の伝え方に心を砕くようになります。
天気図を新聞社に提供し、ラジオにも情報を提供します。
より正確に、より分かりやすく・・・人々の支持を集めていきます。
それを支えたものこそ、武松の薫陶を受けた職員たちによって365日、休むことなく行われた観測でした。

「気象人たるもの いかなる天変地災があろうと、観測を放棄してはならない。
 たった一度の観測の誤りが、将来の大きな過ちにつながるのである。」by武松

気象事業の更なる発展を目指した武松・・・
課題は山積みで・・・その一つが、台風でした。
いつどこで発生し、どうどう接近するのか??
正確な予測ができません。
東北の冷害・・・やませ襲来の予測長期予報の確立!!
地球規模で起こる気象現象の解明には、他の国との連携が欠かせません。
武松は、海外の気象台や学者たちと情報を頻繁に交換し、自ら国際会議にも参加。
国際協力体制を築きます。

国際協力のために武松が開発に取り組んだのが、現在も続く上空の気象観測です。
小型センサーを風船につけて高度1万メートル近くの気温や気圧、湿度などを計測し、電波で地上に届ける仕組みです。
そのデータは、世界各国で共有される予定でした。
この観測が長期にわたってできれば、地球規模で起こる気象現象の解明に期待できました。
武松の仕事・・・それは、国境を越えて、各国と協力し、地球、人類全体を見つめることを必要とされました。

しかし・・・時代は・・・。
1931年満州事変。
1933年日本は国際連盟脱退。
第1次世界大戦後の軍縮条約を破棄し、軍備拡充の道へと進み始めました。
そんな中、軍部が重視したのが気象技術でした。
航空機という新しい兵器が出現し、作戦遂行のため、上空の観測データが欠かせませんでした。
第1次世界大戦で登場し、日本でも開発が進んでいた毒ガス兵器・・・ガスを効果的に拡散するためには、気象学が必須でした。
こうして気象学は、軍事分野と密接な関係となっていきます。

そして・・・1937年日中戦争。
日本軍が宣戦を拡大する一方、中国は拠点を内陸の重慶に移し徹底抗戦!!
戦いは泥沼化していきます。
1938年陸軍は、陸軍気象部創設。
しかし、人材が不足していたことから、武松らに人材派遣を要求します。
手塩に育てた人材を、やすやすと手放すわけにはいかない・・・
武松は、希望するのもに限るとします。

戦争の出口が見えない中・・・軍部は中央気象台を陸軍省の管轄下に置こうとします。
設備も、人材も・・・!!
湯治気象台の観測網は、北は満州、南はパラオまで広がっていました。
こうしたインフラや観測技師たちを、軍は利用しようとしたのです。
しかし、武松はこれを突っぱねます。
当時、中央気象台は、文部省に所属していました。
気象は、衛生、土木、農業、航海など、様々な分野の利益のためにあり、軍部に独占させるものではありませんでした。
武松の遺品から手帳が発見されています。
そこには・・・虫のいい・・・軍部への不満が書かれていました。
測候事業の危機・・・苦悩する武松・・・。

忠君愛国は、軍人だけではない。
我々だって、国のため尽くしている。
必要な資料や予報は、軍はもとより各省に提供している。
いま、移管する必要など見当たらない。

武松は、協力できるところは協力したものの、軍の組織となることだけは、頑なに拒み続けました。
抵抗をつづける武松に、陸軍の圧力は日に日に高まります。
命の危険が迫る中、武松の戦いは続いていました。
武松は、あくまで気象台の独立にこだわり続け、陸軍の要請を断り続けていました。
しかし、昭和14年、軍用資源秘密保護法が公布。
外国への情報漏洩を避けるためにできたこの法律、気象に関する情報も秘密とされました。
陸海軍大臣の一存によって、気象情報の取扱いが制限されるようになり・・・気象台は、国家有事の際には、軍の下に置かれることとなったのです。
昭和16年7月30日、岡田武松は中央気象台を退職・・・68歳でした。
その年・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦!!
真珠湾への飛行ルートは、軍部が中央気象台に分析を依頼したといいます。
同じ開戦の日、気象台に指令が届きます。
それは、天気予報などを外部などに発表することを禁止する気象報道管制の実施を命じるものでした。
その日を境に、全ての気象情報は極秘となり、観測は続けられたものの外に出すことは固く禁じられました。

国民に伝えられない天気予報が、悲劇につながります。
1942年8月27日周防灘台風では、死者行方不明者、1000名を超える甚大な被害となりました。
被害にあった人の殆どは、台風が来ることも知りませんでした。

そして・・・日本は戦争に負けました。
1週間後、焼け野原となった東京に嬉しい知らせが・・・
それは、禁じられていたラジオ天気予報の復活でした。
天気予報の声が、人々に平和が戻ったことを実感させました。
予報の早期復活には理由がありました。
中央気象台は文部省から運輸省に移管されたものの、最後まで軍部の傘下には入っていなかったのです。
気象台では戦時中も武松の教えが語られていました。

”自然は単純でありながら、複雑でもある
 ゆえにかえって正確なものだ
 熱心に観測していれば、自然の法則がいかに高く険しいものであり、人間がいかに浅はかであるかを知ることになるだろう”

気象台を退職したのち、故郷の安孫子に戻った武松・・・しかし、気象学への情熱が衰えることはありませんでした。
自ら設立に尽力した養成所で教壇に立ち続けます。
気象学の基礎となる物理学から観測機器の扱い方、気象人の心得まで、多岐にわたりました。
養成所は、気象大学校と名を変え、今も気象学を志す若者が集います。
大学校は原則全寮制で、共同生活を送りながら専門知識を学びます。

寮の名は「智明寮」・・・名付け親は武松です。

「青年に最も禁物は自己陶酔である
 老子の言葉に
 ”他人を知るものは智なり
 自分を知るものは明なり”とある
 この”智”と”明”が大切だ
 これさえ心得ておれば、自己陶酔に陥ることもあるまい」 

確かな目を持った人材を育てることが、気象事業の未来につながる・・・そう武松は語っています。

国民の暮らしと共にある気象事業・・・その発展と普及に力を尽くした岡田武松は、1936年9月2日、83年の生涯を閉じたのでした。

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「昭和の選択」です。

天才ピカソは、祖国スペインの町が受けた無差別爆撃を「ゲルニカ」で、戦争暴力の大罪を世界に訴えました。
その傑作に匹敵するといわれているのが・・・
東京大空襲の惨劇を現した書・「噫横川国民学校」です。
作者は前衛書道の草分け・井上有一。
感情をそのまま吐き出したような井上の書は、日本ばかりでなく外国でも高い評価を受けています。

昭和20年3月10日、東京の下町を焼き尽くしたアメリカ軍の攻撃・・・東京大空襲。
その死者は、10万ともいわれる未曽有の被害を出した無差別爆撃でした。
小学校の教員としてその場に居合わせた井上。
目の当たりにしたのは、火炎が生み出す焦熱地獄でした。

九死に一生を得た井上・・・しかし、教え子を救えなかったことが大きな悔恨となりました。
書家として世界的に名声を得ても、東京大空襲の記憶は30年書けませんでした。

東京下町の横川国民学校訓導・井上有一は、6年生男子35人を引き連れて、昭和19年8月から千葉県君津郡富岡村に疎開していました。
井上と子供たちの一日は、生気歌・・・愛国歌の吟唱から始まりました。
村人たちにの新設に支えられ、健気で質素な毎日を送っていました。

既に首都圏は、アメリカ軍の襲撃を受けていました。
日本は太平洋戦争開戦から2年足らずで、南方の拠点を失い、戦況は著しく悪化。
日本の都市部では本格化する本土空襲に備え、縁故疎開を促進しました。
加えて、空襲での火災を最小限に抑えるために、建物疎開と称して家屋の撤去を進めました。
昭和19年7月、サイパン島を奪われた日本は、学童疎開促進要綱を発表。
子供たちの疎開が始まりました。
子供達を守る事・・・それは、将来の戦力を守る事・・・。
東京からは23万5000人の子供たちが地方へ移り住みました。
井上たちも、多くの人に見送られながら疎開しました。

かつて画家を志していた井上は、教師との両立に限界を感じ、書道に楽しみを見出していました。
井上は、疎開先の宿舎を「群龍蟠棲寮」と名付け、気落ちする子供たちを鼓舞しました。

「午前の仕事は野菜とり、米とり、まきとりなど、自ら食うための仕事が先決で、勉強どころではない。
 子供にとっては重労働だが、野菜とりは先方の部落で、いもなどふかして待っていてくれる。
 まきとりは、ついでに山の中で遊んでくる。
 それぞれ、楽しみが付いているからみんないそいそと出かける。」

子供達は親元を離れたものの、戦争の暗い空気に覆われた東京を出、生気を取り戻していきました。
厳しい富岡村の冬を、井上と子供たちは肩を寄せ合いながら切り抜けました。

昭和20年1月・・・
井上と子供たちの元年は、書初めで始まりました。
”生気歌”を寄せ書きしました。
寄せ書きをさせた井上の狙いとは・・・??
この書初めから2か月後・・・大きな選択を迫られることとなります。

アメリカ軍は、サイパン島を占領し、日本本土のほとんどを爆撃圏内に入れました。
最新鋭の長距離爆撃機B29は、日本の都市部に容赦ない爆撃を繰り返しました。
東京は・・・11月から翌2月にかけて、30回以上の空襲に晒されました。
銀座なども被害に遭い、死者は2000人に達していました。

昭和20年2月26日、井上は、疎開先の千葉から東京に向かいました。
受け持っていた6年生の卒業と進学の打ち合わせのためでした。
東京についた井上は・・・その変わり果てた姿に呆然自失。。。

「こんなところへ帰ってくるなら、何のために疎開しているのかわからない。。。」

変える必要がないと抗議・・・!!

①疎開を続ける
この先、また東京が空襲に遭うのは間違いない・・・こんな時に東京に帰すのは危険だ・・・
卒業式よりも子供たちの命を守る事こそ教師の使命だ。。。

②東京へ引き上げる
しかし、国や自治体の方針が変わるわけでもない・・・おまけに6年生を帰さなければ新しい学童も受け入れられない・・・。
卒業後の進路も・・・。

戦争を遂行する国家の方針と子供の命・・・。
一介の教員に過ぎない井上は引き裂かれる思いでした。

国民学校初等科を卒業するということは、一人前の日本国民。
国民たるものは、空襲があれば消火に努めなければならない。
働いて、戦争を支えなければいけない・・・。


昭和20年3月3日、子供たちは富岡村に別れを告げて東京へ。。。
2月以降、学童たちは各地から続々と帰郷していました。
井上は、実家が罹災していたので、その夜は学校に宿直していました。
3月10日午前0時8分・・・
深川に最初の一発が落とされたのを合図に、大空襲が始まりました。
続々と学校へ押し寄せる避難民・・・烈風でまともに立っていられない・・・
一面の日の海・・・火炎は校門前に迫っていました。
校内は真昼のような明るさで、とにかく消化を・・・!!
すべては無駄・・・死の直感・・・死が近づいている・・・。

B29の爆撃は、2時間以上続き、東京の下町を焼き尽くしたのです。
一夜にしておよそ10万人が命を落としたのです。
焼夷弾は、日本の木造家屋を焼くために、アメリカが開発したものでした。
3月10日の朝日は、下町を埋め尽くした死体を照らしました。
そのほとんどは一般市民でした。
仮死状態だった井上は、校庭に出され、人工呼吸で奇跡的に息を吹き返しました。
しかし、横川国民学校では、1000人もの人が命を落としていました。
その中には、井上と一緒に富岡村から帰ってきた6年生・8人がいました。

当時は「防空法」という法律で、年の住民は空襲があったら消火に専念すべきである。
退避というのは、事実上法律によって禁じられていました。
がんばって国民は火を消すべきだ・・・!!

教員として何もできなかったという無念・・・。
たまたま生き残ってしまった悔い・・・。
自分の体験を語れない苦しみ・・・。

空襲で住まいを失った井上は、親戚を頼って神奈川県に・・・。
井上はそこでも教壇に立ち続けました。
教職の傍ら、書にのめり込みます。
敗戦から目覚ましい復興を見せる日本・・・。
井上も、新しい時代の新しい書を確立させるために、文字を書くことを辞め、気持ちのままに筆を走らせるという型破りな作品を書きます。
しかし、それに限界を感じ、再び文字を書くことを決意します。
そんな時、「第4回サンパウロ・ビエンナーレ展」の日本代表に選ばれました。
欧米の画家に匹敵する作家として書家の井上に白羽の矢が立ったのです。


gutetu「愚徹」

サンパウロで展示されたこの作品は、西洋人に衝撃を与えます。
国際的な評価を得ることに・・・


ところが・・・

書こうとしてもかけなかった言葉・・・「瓦礫」でした。


瓦礫・・・瓦礫・・・瓦礫・・・


瓦礫カク・・・ダメ也
瓦礫カク・・・結局ダメ也

東京大空襲の時の・・・目覚めたときの瓦礫・・・
人間も瓦礫になって・・・

瓦礫を想うだけで、何もかも壊れて無くなっている様が浮かんでしまう・・・。

井上は個性的な教員として定年まで勤め、昭和51年校長として退職しました。
いよいよ制作活動に専念する時が・・・!!

退職から2年・・・東京大空襲から33年間しまい込んできたあの夜のことを噴出させます。

井上有一晩年の傑作・・・「噫横川国民学校」

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井上の魂に刻み込まれた、あの夜の声、匂い、不条理が姿を現しました。
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芸術作品というよりも供養のようなもの・・・
生き残ってしまった事、死ねなかった事の絶叫・・・。

横川小学校校長室から1冊のガリ版の文集が見つかりました。
タイトルは「とみをか」発行は敗戦の翌年、昭和21年でした。
表紙の裏には、東京大空襲で亡くなった井上の教え子たちの名がありました。
共に富岡村に疎開していた同級生たちが文章を書き寄せています。

井上は、空襲で亡くなった教え子への想いを、春の富岡村の景色に詠んでいました。

亡き子らの 碑建てんと思ふ 櫻花

井上有一渾身の一作「噫横川国民学校」・・・
それは、失われた命を永遠に慈しむ痛恨の碑でした。




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日独伊三国同盟と第二次大戦 (岩波ブックレット―シリーズ昭和史)

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今回は、「英雄たちの選択」ではなくって「昭和の選択」第1回です。
でも、メンバーも音楽も一緒。

終戦70年・・・開かれた太平洋戦争への扉。。。

syukuga1940年9月末・・・東京の華族会館で日独伊三国同盟婦人祝賀会が開かれました。
当時陸軍大臣だった東条英機の妻・かつ子が主催したものです。


一部の人々が恐れていたことが現実となります。
日独伊三国同盟・・・イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーとの同盟に、アメリカは激しく反発します。

その1年後、日本は太平洋戦争へと踏み出しました。
しかし三国同盟締結したものの、日本は望んでいない対米戦でした。
締結直前まで、海軍は同盟反対を訴えていたのです。
突如賛成へと変わった海軍・・・その理由とは・・・??

スイス・ジュネーブ・・・かつて国際連合の本部が置かれていたこの地で、1933年日本は大きな決断をします。
1931年の満州事変をきっかけに1932年に満州国が成立・・・
これが日本の傀儡国家であるという非難を受け、国際連盟から脱退します。
yousuke日本全権を任されたのは松岡洋右・・・。
奇しくも同じ時期に国際連盟を脱退したのは、ヒトラー率いるドイツ。
領土拡大を目論見、軍備拡大を深めていたからです。
孤立する二国は急接近していきます。
1936年日本はドイツとの間に日独防共協定を結びます。

共産主義国家・ソ連を仮想敵国として結ばれたこの協定・・・翌年には、ムッソリーニ率いるイタリアが参加し三国へとなっていきます。

1938年・・・日本はドイツから提案を持ち掛けられます。
ソ連だけではなく、イギリスとフランスを仮想敵国とすることを・・・!!
軍事同盟を結びたい!!
この頃、ヨーロッパに拡大していくドイツは、オーストリアを併合。
領土拡大はイギリス・フランスとの対立となっていました。
そこでヒトラーが注目したのは、極東にある日本の存在でした。
ドイツからの持ちかけに賛成したのは陸軍大臣・板垣征四郎。
1937年から中国で日中戦争が起こっており、短期間で中国を制圧できると思っていたものの・・・
日本に権益を独占されることを危惧するイギリス(ビルマ)とフランス(仏領インドシナ)が国民政府・蒋介石に軍需物資を搬入、さらにアメリカも資金援助をし、戦いは泥沼化していました。
陸軍は・・・中国を支援する国々を、三国同盟で牽制できると思っていたのです。

主要閣僚が集まった会議で・・・板垣征四郎は、三国同盟を締結するべきだと陸軍を主張します。
これに反対するのは海軍大臣・米内光政。
米内は、アメリカやイギリスと戦争になった時に事を考え、「勝てる見込みはない」と、判断します。
反対する理由・・・そこには軍需物資の問題がありました。
海軍にとって必要不可欠な軍需物資輸入額に占めるアメリカの割合は・・・
石油:76%、鉄類:69%でした。
その大部分をアメリカに依存していたのです。
「英米が、日本に攻撃を仕掛けることはないだろうが、経済的な圧力をかけてきたらとても憂慮に耐えることができない!!」と。

もう一つ海軍が反対する理由が、ドイツからの協定案の一文でした。
「締約国の一が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合、ほかの締約国は之に対し、武力援助を行ふ義務あるものとす」
参戦義務を意味する条文で、日本がヨーロッパでの戦いに巻き込まれる恐れがあったからです。
米内とともに同盟に反対していたのは、海軍次官の山本五十六。
反対する手紙も残っています。

「勇戦奮闘 戦場の華と散らむは易し
 誰か至誠一貫俗論を排し
 斃れて後已むの難きを知らむ
 ・・・・
 此身滅すへし此志奪ふ可からす」

事実この頃、同盟反対をつらぬく海軍首脳には、暗殺の噂が絶えませんでした。

それでも志を曲げることはない・・・と、山本は覚悟を決めていたのです。
陸海とも一歩も譲らす・・・平沼騏一郎内閣では、70回以上の会議を重ねました。

そんな中・・・ヨーロッパから衝撃的なニュースが・・・!!
ドイツが・・・日本と仮想敵国としていたソ連との・・・1939年8月23日・独ソ不可侵条約締結です。
この時、ポーランド侵攻を画策していたドイツは、西の英仏、東のソ連の挟み撃ちを避けるために、ソ連との条約締結に踏み切ったのです。
日本には、事前に何も連絡はありませんでした。
平沼内閣は、もはや国際情勢に対応できない・・・??と思われ総辞職!!
”欧州の天地は複雑怪奇!!”
三国同盟の締結は・・・一旦立ち消えとなってしまいました。

1939年9月第二次世界大戦勃発!!
快進撃を続けるドイツ軍・・・翌年にはフランスを制し、西ヨーロッパを手中に収めようとしていました。
日本はイギリスさえもドイツの手に落ちると考え・・・
世論の後押しもあり、日独伊三国同盟の機運が高まります。
しかし政府は、反対派の米内光政内閣!!
そこで同盟に賛成する陸軍は・・・海軍大臣・畑俊六に辞表を出させ、代わりの大臣を出さない・・・と、策謀する
陸軍大臣不在・・・異例の事態に米内内閣はわずか半年で総辞職となります。

humimaro近衛文麿は・・・内閣発足3日前に、邸宅に閣僚候補者を集めて、今後の話し合いを持ちました。
その中に近衛自ら外務大臣に指名したのは、国際連盟脱退の時の松岡洋右でした。
松岡は、日独伊の三国にソ連を加え、日本の立場を強化してアメリカと話し合う・・・渡り合う・・・と考えていたようです。

日ソ独伊の締盟は、事変(日中戦争)解決に最後の決定力を持つ!!

四国連合交渉に・・・!!
ソ連との国境不可侵協定を結ぶべし!!
アメリカには無用の衝突を避け・・・アメリカと戦うつもりは毛頭ない!!
それが、近衛内閣の方針となりました。

同じころドイツでは・・・イギリス本土への戦いが本格化???

松岡どうする??
①同盟に賛成する??
日中戦争を終わらせるためには・・・!!
これには陸軍も大賛成ですが・・・

②同盟に反対する??
海軍は相変わらずこちらを支持!!
参戦義務の問題はどうする??
望まざる戦争に巻き込まれるかもしれない・・・!!


国民はどう思っていたのでしょうか??

対米外交は強硬に出るべきか??
強硬に出る・・・・・・・・・・・・・・62%
強硬に出るのはよくない・・・37%

1940年9月7日、ドイツから外務大臣特使ハインリヒ・スターマーがやってきました。
迎えたのは外務大臣・松岡洋右。
海軍の許可もなく・・・独自に交渉を始めました。
ヒトラーも、日本との同盟に前向きでした。
6月10日演説をしました。これまでヨーロッパでの戦争を傍観していたアメリカ・・・
アメリカ大統領・ルーズベルトが、イギリスの支援を表明したからです。

松岡とスターマー・・・
ドイツが日本に求めるのは、あらゆる手段でアメリカをけん制し、アメリカの参戦を阻止することでした。
日ソ神前につき、ドイツは正直な仲買人たるの用意あり・・・。
ドイツも四国連合に興味を持っていたのです。

一方海軍は、黙ってみていたわけではなく・・・
9月13日海軍次官が松岡のもとを訪れ、賛成はできないと迫り・・・参戦義務を外す!!と、松岡に言わせます。
海軍大臣・及川古志郎は、参戦義務がなくなった今、この選択を迫られることとなりました。

会議の場で・・・松岡ははっきりとした態度に出ないといけない!!と詰め寄り・・・
及川は、「それ以外・・・道なし!!」海軍大臣として初めて同盟に賛成の意を表しました。
15日には、海軍首脳会議が・・・
ここまで来たら仕方ない・・・賛成・・・
及川の考えが、海軍の総意となった瞬間でした。

1940年9月27日・・・ベルリンで、調印式が行われ・・・日独伊三国同盟が成立!!
大きく分けて三条からなるこの条約・・・第三条は、一方が攻撃された場合・・・三国は軍事を含むあらゆる手段で援助をするという内容でした。
参戦義務をうたっているかに見えるこの条項・・・
松岡とドイツの間では、攻撃されたかどうかは三国で協議するとなっていました。
つまり。。。参戦義務の回避をしたのです。

isorokuこの時山本五十六は・・・
「実に言語道断だ!!
 東京あたりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常にみじめな目に遭うだろう」
と言っています。

しかし、賛成に回ったことで海軍にはメリットも・・・
物資不足で全く行き詰っていた海軍の戦備は、幸か不幸かこれを機に進んだのです。
海軍は多大な予算を獲得!!

松岡の次なる構想は・・・
志を同じくする国と提携し、全世界の国家と人民に永久の平和を調約することでした。
全国各地で祝賀が行われます。


日中戦争の解決のために結んだ日独伊三国同盟・・・
しかし、海軍の恐れていた事態が・・・
アメリカがくず鉄の対日輸出を禁止!!
厳しい経済制裁を打ち出してきます。
軍需物資を求めて・・・アジア南方への進出の必要性が・・・!!

アメリカが牙をむき始めた今・・・!!
松岡洋右はモスクワにいました。
四国連合の重要性が増してきていたのです。
1941年4月13日日ソ中立条約締結!!
しかし、松岡の思惑通りに進んだのはここまででした。
2か月後の6月22日、独ソ戦勃発!!
四国連合構想が藻屑となった瞬間でした。
内閣の信用を失った松岡は、外務大臣の職を辞することとなります。
7月28日・・・資源を求めて仏領インドシナに進駐を開始する日本・・・
4日後にはアメリカの石油全面禁輸という制裁が待っていました!!

日本の石油の備蓄はわずか2年分。
軍事行動によって打開しようという考えが・・・!!
ついに日本は・・・決断・・・1941年12月8日日米開戦!!
真珠湾攻撃を指揮したのは、最後まで三国同盟に疑問を抱いていた山本五十六でした。

開戦の方を受けた松岡洋右は・・・泣きながら・・・
「三国同盟の締結は、ぼく一生の不覚だったことを今更ながら痛感する。」

三国同盟締結からわずか1年余りでなだれ込んだ太平洋戦争・・・
日本は国際情勢を読み違えた末に、悲惨な戦争へと踏み出したのです。

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