夏草や 兵どもが 夢の跡

閑かさや 岩にしみ入 蝉の声

荒海や 佐渡によこたふ 天河

誰もが知るこれらの俳句は、紀行文学の傑作「奥の細道」で詠まれたものです。
作者は俳聖と呼ばれた松尾芭蕉・・・芭蕉は、東北や北陸の名所旧跡を巡り、人々との出会いや別れ、心に残る風景を五・七・五に詠み込んでいきました。
しかし、この奥の細道・・・謎があります。
芭蕉が旅した元禄2年は、幕府と仙台藩との関係が悪化し、奥州が緊迫した情勢にありました。
その渦中に、芭蕉は仙台藩の政治と深くかかわる土地に立ち寄っているのです。
この旅には、名所旧跡を巡る以外に何か隠されていたのでは・・・??
同行した門人の曾良は、後日に幕府に雇われ大名の監視や収集を行った人物です。
曾良の旅日記には、奥の細道には書かれていない情報が詳細に記録されています。
謎をはらんだ2400キロ、5か月の旅・・・その果てに芭蕉がたどり着いた俳句の極意とは・・・??

三重県伊賀市・・・江戸時代、津藩の大名・藤堂家の治める伊賀上野で芭蕉は育ちました。
農家の次男だったため、十代で武家奉公に出た芭蕉・・・藩の侍大将の息子で、藤堂家の一族だった藤堂良忠の世話を担いました。
当時、良忠が熱中していたのが、俳諧・・・蝉吟という俳号を持つほどでした。
武家や商人の間で流行していた俳諧は、現在の俳句とは異なり五七五を詠むと、他の人物が七七と繋げていく連句でした。
多い時は、100句と続いていきます。
芭蕉もまた、蝉吟の相手をしながら俳諧の魅力に取りつかれていきました。
晩年に、当時を回想してこう語っています。

「仏の教えを学ぶわけでもなく、俗世で職に就くわけでもなく、若い頃から俳諧に没頭し、その道一筋に繋がれたこの身の無能無才を恥じるのみである」

仕えていた良忠が亡くなって6年・・・
1672年、芭蕉は伊賀上野を離れ、29歳で江戸に向かったと伝わっています。
長年奉公した藤堂家は、時の幕府老中の親戚筋に当たり、江戸でも一目置かれていました。
芭蕉はその伝手を利用したのか、商業の一等地・日本橋に居を構え、新人俳諧師としての一歩を踏み出しました。
その一方で、芭蕉は意外な役割を担うことになります。
江戸の重要なインフラだった上水路・・・中でも人々の生活を支えていたのが、神田上水でした。
神田上水の工事・・・その触書に、当時の芭蕉の俳号・桃青と書かれているものがあります。

”上水道の竣設工事があるので、契約している町は桃青に連絡するように”

芭蕉は、水道工事の請負人だったのです。
人員や道具の手配だけでなく、工事中の断水の通達まで芭蕉が取り仕切っていました。

江戸で人脈を広げた芭蕉は、武士や医者の息子、大旦那の主人など、様々な職業、家柄の弟子を持つようになります。
芭蕉が催す句会は、いつも大盛況でした。
ところが、37歳の時、突如芭蕉は日本橋から江戸のはずれの深川に隠棲します。
その理由は良くわかりませんが、自らの句を高めるためにわびしい環境に身を置いたともいわれています。
そして、ここ深川で、芭蕉の才能が開花します。

あの誰もが知る名句も、ここで生まれました。

古池や蛙飛こむ水のおと

蛙が飛び込む音に着目した一句です。
それは、それまでにない、革新的な句でした。
蛙は山吹の下で鳴くのが古典であり、俳諧もそのルールに縛られていました。
さらに、仕掛け・・・掛詞・・・ダジャレがも必要でした。
俳諧とは、こうした仕掛けを、言葉遊びを楽しむものでもあったのです。

古池や蛙飛こむ水のおと

何気ない日常の風景を詠んだ芭蕉・・・それは、古典も仕掛けも使わない常識外れの句でした。
しかし、この句の発想が、俳句を言葉遊びから文学へと飛躍させていったのです。

深川で、俳諧一筋の日々を送った芭蕉・・・故郷伊賀上野に帰る旅路でも、句づくりに励みました。
1684年「野ざらし紀行」、1687年「笈の小文」、1688年「更科紀行」・・・芭蕉は旅の成果を紀行文にまとめていきました。
そして1689年3月27日・・・芭蕉は訪れたことのない奥州に出発します。
作品「奥の細道」に結実する旅です。
江戸深川を出て、日光東照宮を参拝、仙台藩領を通ってかつて多くの歌人が歌に詠み込んだ名勝・歌枕を中心にめぐります。
その後、日本海沿いを通って、岐阜・大垣を目指す全長2400キロ、5か月にわたる壮大な旅です。
芭蕉は、門人の曾良と共に、2人で旅立ちました。

「奥州・・・そこには私がまだ見たこともない歌枕があちこちにある・・・
 しかも今年は、敬愛する西行法師の500回忌に当たるとした
 西行・能因法師・源頼政いにしえの歌人たちが多くの歌を残した奥州に向かい、その旅路をたどることで新たな俳諧の境地に至ることができるのではないか・・・??」

旅を通して、俳諧の更なる高みを目指した芭蕉・・・
しかし、この奥の細道の旅には、研究使者たちの間で様々な謎が指摘されてきました。

どうしてこの時期だったのか・・・??
芭蕉たちが向かった日光東照宮と仙台藩領・・・当時この地域は緊迫した情勢にありました。
仙台藩伊達家は、外様大名ながら62万石の大藩・・・幕府にとって脅威となり得る存在でした。
幕府はその力を削ぐため、仙台藩に日光東照宮の修繕工事を命じました。
伊達家が莫大な費用の負担を強いられた史料も残っています。
藩士たちの給与は三割以上がカットされました。
藩内では幕府への不満が高まり、一つ間違えば謀反の起こりかねない・・・そんな状況でした。
どうして芭蕉は、あえてこの時期に旅に出たのか??

仙台藩での不可解な動き・・・

芭蕉は仙台藩領に入ると、それまで頻繁に開いていた句会を一度も開くことなく、歌枕も足早に過ぎ去りました。
平泉に至っては、わずか2,3時間の滞在でした。
その一方、道を間違えたと書きながら訪ねたのが石巻の港・・・
ここは、仙台藩の貿易の拠点で、江戸で流通するコメは、この港から搬出されたものが多数を占めていました。
さらに、当初訪ねる予定のなかった国境近くの山にも立ち寄っています。
この小黒崎という山は、仙台藩にとって重要な土地でした。
ここは当時、仙台藩の金山でした。
今ではその坑道跡がわずかに残るのみです。
伊達家としては、大切な鉱脈でした。
落盤で亡くなった方が非常に多かったということで、このあたり全体は”死人山”とも言われていました。

このコースは、幕府に関わりのあるところが多い・・・
奥の細道の旅に、幕府がスポンサーについたとしたら・・・??
1695年に貨幣改鋳が行われています。
それまでに金がどうなっているのかを確かめなければならない・・・!!
そんな調査の一端を担っていた可能性があります。

奥の細道の旅と、幕府の関係をさらに疑わしくさせるのが、同行者曾良です。
曾良は、後に幕府の巡検使随員となり、大名の監視や情報収集を担った人物でした。
曾良が残した旅の日記・・・そこには、移動にかかった時間、天候の変化、手紙のやり取りなど、奥の細道には書かれていない情報が、事細かく書かれていました。
芭蕉たちの旅に秘められた謎・・・
2人が緊迫した時期に、日光や仙台藩領に赴いたのは、幕府に有益な情報を手に入れようとしていたからなのか・・・??
芭蕉の奥の細道は、どんな旅だったのでしょうか?

5か月に及び旅の工程を記した奥の細道・・・
それは、度重なる推敲を経て完成した文学作品でした。
残された草稿からは、芭蕉が試行錯誤する姿が浮かび上がります。
芭蕉の最終稿が完成したのは、旅から5年後のことでした。
芭蕉は奥の細道で何を伝えようとしたのか・・・??
1689年3月27日、住み慣れた深川の芭蕉庵を離れ、旅立ちます。

行春や鳥啼魚の目は泪

過行く春と自分を重ね、友人たちとの別れを鳥や魚の様子に例えながら嘆きます。
旅立ちの心情を重々しく始まったこの奥の細道の旅・・・

梅雨晴れの日に平泉を訪れた芭蕉・・・
そこは、かつて栄華を極めた奥州藤原氏の都でした。
しかし、都は跡形もなくなくなっていました。

夏草や兵どもが夢の跡

目の前には、ただ夏草が生い茂る・・・芭蕉は夢と消えてしまった在りし日の武士たちに心を寄せました。

梅雨も明けるころ、山形の立石寺に立ち寄りました。
もう蝉も泣き始めている・・・

閑さや岩にしみ入蝉の声

蝉が鳴いているのに閑さや・・・??
それは、心の世界でした。
芭蕉が、宇宙の静けさに初めて直面した瞬間でした。

立石寺を後にし、最上川を下り、出羽三山を目指します。
その一つ、月山の山頂で一泊した芭蕉は、月と出会いました。

雲の峰幾つ崩れて月の山

山を下りていくと、広大な庄内平野が・・・太陽が沈もうとしていました。

暑き日を海に入れたり最上川

7月4日、越後国・・・荒海に隔てられた佐渡島に思いを馳せます。

荒海や佐渡によこたふ天河

不易流行・・・
宇宙とは、様々に動いているように見えながら、実は何も変わらない姿を大昔から未来に渡ってとどめている
この世は、すべてが変化しているように見えながら、実は何も変わらないというのが、この宇宙の実態で、変化=不変
絶えず移ろうように見えるこの世も、宇宙から見れば永遠不変である・・・不易流行という世界観を得て、芭蕉の旅は日本海に沿って続けられました。

旅の終着点、岐阜・大垣・・・

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

出発した時の句と比べると、大きな変化があります。
出発した時の句は、中国の漢詩を思わせるようなスタイルですが、最後の句は軽く読めるような句になっています。
重く苦しい人生も、宇宙から見れば些末なもの・・・この軽みの境地こそ、芭蕉の俳諧の到達点となりました。

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

旅に生きた芭蕉は、1694年、大坂で病に倒れ、この句を最後に息を引き取りました。
享年51歳・・・
それから8年後、当時の俳諧事情を記した花見車という本に、芭蕉はこう紹介されています。

もはや俳諧はどうしようもないと辞める人も少なからずいた
そんな時に、松尾桃青が新しい詠み方を示し、端正で含蓄のあるものにしてからは、皆がこれにならい、今ではそれが誰の流儀とも知らずに広まった
本当にならおうとすると難しい風体である

芭蕉が奥の細道の旅を終えた岐阜・・・
芭蕉の弟子がここで立ち上げた俳諧の流派・美濃派の句会・・・江戸時代から300年の伝統を受け継いでいます。
芭蕉の死後、一部の商人や武士の嗜みだった俳諧は、庶民にまで広がりました。
各地に残る江戸時代の美濃派の句集からは、身分や職業を問わず女性や子供も含め、多くの人々が俳諧を楽しんでいたことが伺えます。

人々はささやかな日常に着想を得て、句づくりに励みます。
美濃派では今も五七五を詠み、七七で返す連句を続けています。

芭蕉の故郷に芭蕉直筆の書が残されています。

「自然」(じねん)・・・奥の細道を終えた芭蕉が、時を開けずに書いたと伝わっています。
奥の細道の後にたどり着いた精神でした。
中国の老子や荘子が説いた無為自然を踏まえたものだといいます。
作為を捨て、物事のありのままの姿を肯定すること・・・
芭蕉の教えは、日本人が俳句に親しむ礎となり、今日まで生き続けています。

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