日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:有間皇子

『万葉集』有間皇子の歌二首から見る古代・現代の風俗・習慣

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久々の熊野古道です。
色んなことに迫られて・・・更新遅れていました。

今回は、私の30年以上もの片思いの相手、有間皇子のお墓です。
やっぱり万葉で外せないのは、大津皇子と有間皇子でしょう。
女の子の大好きな、悲劇の皇子のお話です。

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ちなみにこちらが熊野古道にあるお墓。
海南の藤白坂にあります。
お墓自体は、明治時代になってから建立されました。
この場所で・・・高貴な方の棺が発見されたからだそうで・・・たぶん有間皇子では??
そう、有間野皇子は、この藤白坂で・・・縊られ・・・19歳の若さで亡くなっているのです。

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こちらでも、ボランティアのおじさんが、お話を聞かせてくれました。
それも、歴史オタクな私よりもかなり詳しく。
とっても面白かった。

そんな有間皇子は・・・
悲劇は大化の改新から始まりました。

第34代舒明天皇の後、皇后が・・・皇極天皇として皇位につきました。
そう、女帝です。
645年中大兄皇子・・・後の天智天皇と中臣鎌足らによって、時の権力者蘇我入鹿が殺害されます。
これが、大化の改新・・・っていうか、今では乙巳の変です。

皇極天皇は、2日後弟・軽皇子に皇位を譲ります。
これが孝徳天皇です。
皇后は・・・中大兄皇子の妹・間人皇女がなりました。
鎌足は内臣となり、中大兄皇子との・・・ふたりの天下となっていきます。

この孝徳天皇と小足媛との間にできたのが、有間皇子です。
が・・・孝徳天皇と中大兄皇子の確執から・・・亡くなってしまい・・・
重祚という形で、皇極が斉明天皇となりました。
この時、有間6歳・・・。
中大兄皇子はまだ皇太子。
これが悲劇への幕開けとなるのです。

ま、当時の皇位継承は、血だけではなく、それ以外にも、聡明であること、それなりのお年であること、実績があること・・・なんかが必要とされていました。
そう、今みたいに、皇位継承がきっちりと決まっていなかったのです。


中大兄皇子はその後も・・・
古人大兄皇子を死罪に、蘇我倉山田石川麻呂も自殺に・・・
有間皇子にその手が伸びるのは、時間の問題でした。

利口であったのに、気がふれたように振る舞ったとも言われている有間皇子。
牟婁の温湯(和歌山県の白浜温泉)に出かけ療養して元気になったので、子供をなくして傷心だった天皇にもその湯を薦め・・・

その留守に、事件は起こりました。
11月3日、蘇我馬子の孫・留守官の蘇我赤兄が有間皇子邸を訪れ、天皇の3つの失策をあげて謀反をそそのかします。
「大きな倉庫(くら)を建てて、人民の財物を集積することがその一」
「延々と水路を掘って、公の食料を消費することがその二」
「舟に石を乗せて運び、それを丘のように積み上げることがその三」です。

5日には、赤兄の家に赴き、謀議を巡らせます。
その際・・・皇子の脇息が折れたので、不吉だと挙兵を断念したとも言われています。


その夜半・・・
皇子の館を取り囲むものあり・・・!!
なんと、赤兄の兵でした。
そして、皇子は共謀者と共に、牟婁の温湯に護送されてしまうのでした。

つまり、赤兄は謀反をそそのかしたというか・・・
そそのかすように・・・そんな感じに申し開きのできないようにはめるように・・・
中大兄皇子や鎌足に言われていたのかもしれません。
そう、これが悲劇・・・!!

護送の途中で詠んだ歌・・・最も優れているとされているのは・・・

磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 
           真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む(万・巻2-141)

家(いへ)にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 
              旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る(万・巻2-142)

です。

11月9日・・・牟婁の温湯に到着した有間皇子は、中大兄皇子の厳しい尋問にあいます。

「どうして謀反を企てたのか???」と問われた有間皇子は・・・

ただ一言・・・
「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない)
と答えました。


11月11日には再び都へ送還され、その途中・・・自ら結んだ松の枝は目にしたものの、藤白の坂で絞首。

19歳でした。

時代は過ぎて43年後・・・
持統・文武両天皇は、牟婁の温湯行幸に出かけます。
その時に着き従った大宮人の歌が残っています。

藤白の み坂を越ゆと 白妙(しろたへ)の わが衣手(ころもで)は 濡(ぬ)れにけるかも(万・巻9)


19歳で悲劇の死を遂げた有間皇子を悼んで詠まれたものです。

「100年経てば歴史となる」と言われていますが、当時は50年もすれば歴史となっていたのかもしれません。

熊野への入り口に・・・
この非業の死を遂げた有間皇子のお墓があるということも、なんだか感慨深いというか・・・
旅人達は、困難な熊野詣を・・・無事に旅を遂げられるように祈ったのかもしれませんね。

あ・・・でも、忘れてはいけません。。。この石碑ができたのは、明治時代。
きっと、人々が豊かになり、おおっぴらに弔うことができるようになったからなのかもしれません。

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感想(359件)

藤白神社に来ましたよ~~

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こんな立札がありました。

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みんなでちょっとづつ土を運びます。
体力に自信のない私は、パパに持ってもらいました。


藤白神社は、万葉の時代、斎明天皇が、紀の湯(白浜町)に行幸の際、この地を訪れ創建されたと伝えられています。

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熊野三山霊域の入口にある神社で、熊野九十九 王子の中でも特に格式の高い「藤代王子」の旧址です。

神社には境内を覆う5本の大クスが聳えて います。
境内社である「子守楠神社」の御神体とされる3本と、その南方に1本あります。

PA199186

















kumagusu

子が生まれるとこの神社に詣で、子供の名前に、楠、藤、熊の一字を入れて名を受け ることが多かったのですが・・・。
紀州が生んだ偉人で、博物学者として世界に名を知られる南方熊楠がこの神社で名を 受けたのは有名です。

そして・・・次は有間皇子のお墓へ。。。




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いよいよ坂に挑戦です。

有間皇子のお墓の近くには・・・

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お地蔵さんがありました。

ここから藤白坂を登っていきます。

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はじめは平坦な道ですが・・・

PB222384.JPG

ああ、階段が!!
峠に突入です。黒ハート


動くのが苦手な私ですが、道には1丁ごとにお地蔵さんが立っています。

この地蔵は元禄年間(1688~1704)に海南の高僧全長上人が、安全祈願と坂の長さを計るために1丁ごとに建てたものです。

全部で18体あるそうです。

私も、あと〇丁・・・と、勘定しながら登りました。黒ハート
けっこう励みとなりました。

ずんずん進んでいくと、竹藪もあります。

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笠をかぶった平安美女が、赤い衣装で出てきそうです。

そんな趣も感じながら、

十四丁まで行くと、筆捨松と硯石がありました。
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この筆捨松、そのいわれは・・・
平安初期の仁和(885)のころ、絵師巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い競画をすることになりました。
金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いたのですが。。。

金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいってしまいました。
童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まったのですが、しかし、金岡のウグイスはついに帰りませんでした。

金岡は「無念!」と筆を投げ捨てたといいます。
その筆は、「投げ松」のところへ落ち、以来、筆捨松と呼ばれてきました。

その童子は熊野権現・・・おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたというお話です。

その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに造らせたのがこちら。
PB222415.JPG

硯石です。

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ピンとはった空気の中、今も昔も変わらない・・・そんな空間を楽しみながら

たどり着いたのは

PB222421.JPG

峠のおじぞうさん、地蔵峰寺です。

この中には、大事にお地蔵さんが祀られています。
この裏にある丘は御所の芝といい和歌浦から淡路島まで見渡せる景勝の地です。

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この日は朝から雨だったので、ちょっと靄がかかっていますが、片男波がとても綺麗でした。

熊野への行幸は、宇多天皇が最初だと言われています。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われています。
白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行いました。
これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになり、その後、後白河上皇も34回の熊野行幸を行っています。
ちなみに回数は、有名どころで・・・
宇多法皇(1)・白河上皇(9)・鳥羽上皇(21)・崇徳上皇(1)・後白河上皇(34)・後鳥羽上皇(28)・・・と、いろいろな天皇や貴族に愛されていました。

でも。。。
ホントに、天皇行幸ってなったら、輿はいるは荷物も多いは・・・よくこんな道を歩けたものだ・・・と思います。
決死の覚悟だたのでしょうね。
だからこそ、景色にも、温泉にも、大自然の神秘にも、心の底から感動したのでしょうね黒ハート


ああ、ほんとに、視聴率低迷の”平清盛”ですが、もっと熊野古道もタイアップしてれば良かったのに・・・!
出てきた天皇、みんな熊野詣してるじゃん!!


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藤白神社を後にして、地蔵峰寺を目指して歩き出しました。黒ハート

で・・・有間皇子のお墓でまたもや脱線です。揺れるハート

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有間皇子は孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人です。


640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、待望の皇子に「有間」と名付けました。

孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟で、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係に当たります。

654年難波の都で孝徳天皇は病になり、10月10日、寂しくこの世を去りました。
有間皇子はこのとき15歳。
孝徳天皇が亡くなり、中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位しましたが、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ります。
  

父・孝徳天皇がいなくなり、有間皇子は次の天皇の候補者となりました。
しかし、中大兄皇子の存在は脅威的。
日本書紀によると657年18歳の有間皇子は狂人のふりをしたといいます。

有間皇子は身の危険を感じて、657年に心の病と称して牟婁の湯(和歌山県白浜町)に隠れました。
しかしその後都に帰って斉明天皇に病の完治を伝えたときに、その地の風光明媚なことを話したところ、たいそう喜んで・・・斉明天皇は牟婁の湯に行幸することになりました。

斉明天皇一行は牟婁の湯に行幸し、有間皇子は飛鳥に留まりましたが、このとき留守居役だった蘇我赤兄が有間皇子宅を訪れ・・・天皇の失政を語ったことに心を許して、謀反の計画を二人でめぐらせてしまいました。これが、有間皇子の変と言われているものです。


しかし、赤兄は、謀反を密告した上で有間皇子を捕らえて、牟婁の湯に送ってしまったのです。
その後、中大兄皇子と面会して尋問されたときに、有間皇子は・・・

「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」

と答えたと伝えられています。

有間皇子は、この後都に送り返されたものの、その二日後、この藤白坂で絞首刑に処せられました。


「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

これは、万葉集に残されている有間皇子の詠んだとされる歌です。
どんな気持ちでこの歌を詠んだのでしょうか???



実際に、孝徳天皇・有間皇子政策VS斉明天皇・中大兄皇子政策という戦いだったのか、ただ単に中大兄皇子と蘇我赤兄が有間皇子を陥れるための悲劇の死だったのか・・・日本書紀に数十行書いているものの、真実はわかりません。


でも・・・今でもこの花は、絶えることはありません。


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藤白神社は、熊野九十九王子の中でも最も格式の高い五躰王子のひとつで、熊野聖域の入口とされています。

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ちなみに五躰王子とは・・・
九十九王子の中でも他とは格式を異にするとされています。
これらは一般に、熊野の主神の御子神ないし眷属神として三山に祀られる神々のなかでも、五所王子と呼ばれる神々(若一王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮)を祀る神社で、三山から勧請したものと考えられています。
これら五躰王子では、舞・白拍子・神楽・猿楽などが行われ、芸能的性格が強いと言えます。

いずれの王子を五躰王子に数えるかは、解釈の相違があります。
修明門院参詣記では籾井(樫井)・藤代・稲葉根の3社を挙げていますが、後鳥羽院参詣記は藤代王子のみが該当し、稲葉根王子がこれに準じるとしていますが、他の列挙例もあって一貫していません。

現在では、諸史料から最小公倍数をとって、藤代王子(藤白)・切目王子・稲葉根王子・滝尻王子・発心門王子の5社とするのが一般的だそうです。

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この藤白神社、斉明天皇が牟婁の温湯(白浜湯崎温泉)に行幸された時、神祠を創建されたと言われています。


そして、聖武天皇が玉津島行幸の時、僧行基を詣らせて皇子誕生を祈願したところ高野皇女ご誕生しました。母・光明皇后はそのための神域を広め整えました。
これにより、熊野三山の遙拝所とされ、子授け・長寿の守護神として広く信仰を集めたのです。

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そのせいか、境内には大きな楠の木「千年楠」をご神体とする子守楠神社があります。
子どもの神様として知られており、子どもが生まれると、この宮に祈願して名前を受けます。
楠・藤・熊の名をつけると長命・出世をするとも言われ、有名な科学者「南方熊楠」翁もその一人です。
今も子授け・安産・成長の神様として親しまれています。

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何だか木の国和歌山のパワーを感じますね。揺れるハート

そして・・・藤白坂の方向に・・・

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陰謀により19歳で殺害された万葉の貴公子・有間皇子を祀る有間皇子神社があります。

「家にあれば
  笳に盛る飯を
      草枕
 旅にしあれば
    椎の葉に盛る」

こちらはとても有名な歌ですよね。失恋

皇位継承に巻き込まれてしまった皇子です。
小さい時から賢かった皇子は、うつけの真似をして中大兄皇子から逃げようとしたそうですが、やはり、賢さがにじみ出ていたのでしょう。
謀反の罪を着せられて・・・ここで、命尽きることとなります。

この日は、たくさんのおば様たちが見学に来ていました。
「可哀想に・・・可哀想に・・・」と、有間皇子を偲んでいました。


毎年11月11日に「有間皇子まつり」が催されます。



ちなみに・・・藤白神社は鈴木さんの氏神です。

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この幟にもあるでしょう?
「鈴木さんいらっしゃい」って。
鈴木さんには神社からプレゼントがあるようですよ揺れるハート
私は違うので、もらえませんでしたが。。。

鈴木氏は、平安末期にこの地に居を構え、全国に熊野信仰を広めました。
また、全国200万の鈴木姓のルーツです。

そして、私たちは藤白坂に向かいます。黒ハート

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