日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:朝倉義景

1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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戦国時代、天下統一を目指し破竹の勢いで快進撃を続ける織田信長が重用した二人の家臣がいました。
明智光秀と羽柴秀吉です。
新参者・・・ライバル二人の熾烈な出世争い・・・より信長に評価されていたのはどちらだったのでしょうか?

天下統一を目指す尾張の織田信長には、譜代の家臣・・・柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛・・・優秀な家臣たちがいました。
そんな古参たちを差し置いて、重用されたのが新参者の外様の家臣、明智光秀と羽柴秀吉でした。

信長との出会い・・・羽柴秀吉の場合。
信長との出会いが早かったのは秀吉の方でした。
秀吉は、尾張国中村の貧しい農家に生まれました。
幼くして父親を亡くして諸国を放浪、職を転々としながら生活していました。
18歳の時、尾張に戻ってきた秀吉は、織田家家臣の推薦で小者として3歳年上の信長に仕えました。

小者は雑用係・・・
秀吉は信長の草履を懐で温めたという逸話があるぐらい忠勤を尽くし、戦の時の歩兵である足軽に・・・
そんな秀吉に出世のチャンスが訪れたのは、1566年。
この時信長は、隣国美濃を攻略する為に、木曽川・長良川・揖斐川の接近している墨俣に城を必要としていました。
柴田勝家や佐久間信盛らが築城に当たるも・・・途中で敵の攻撃を受け失敗!!
その様子を見ていた秀吉は・・・
「私にやらせて下せえ・・・ええ考えがあります。」
こうして築城を任された秀吉は土地のことを良く知る土豪など1000人を集め、川の上流で城を築くための木材を調達し、いかだで運搬、木材は木組みを組んでいたので、墨俣では組み立てるだけ・・・敵の攻撃を受ける前に素早く完成させました。
”墨俣一夜城”ととも言われる秀吉の功績です。
成功したのは、秀吉の人柄も大いに関係していました。
土豪を一流の人懐っこさで動かしたのでは??と言われています。
秀吉のおかげで信長の美濃攻略は成功します。
これ以後、重用されるようになっていく秀吉・・・侍大将まで出世します。
1569年に京都奉行に就任します。
それまでは、譜代門閥主義で、代々使える家柄を重用していました。
能力本位で人材を抜擢する信長・・・中途採用でも能力さえあれば、出世できました。
信長の人材登用術が秀吉を出世させたのです。

信長との出会い・・・明智光秀の場合。

明智光秀の出自ははっきりとはわかっていません。
が・・・1528年土岐氏の支族「土岐明智氏」の家に生まれたともいわれています。
しかし、斎藤道三と義龍の戦いで、道三側についていた光秀の一族は道三が破れると離散・・・
美濃の国を出た光秀は各地を放浪したのち、越前・朝倉義景に仕えます。
秀吉よりも9歳年上の光秀は、信長に会うのは40歳の頃でした。
きっかけは・・・
1565年畿内で力を持っていた松永久秀らが室町幕府13代将軍足利義輝を殺害!!
その弟義昭も奈良に幽閉されますが・・・越前に逃げてきます。
義昭は、上洛の助けを求めてやってきたのですが・・・朝倉氏は動こうとしません。
義昭の世話をし、親密になっていた光秀は、業を煮やして・・・光秀の脳裏に浮かんだのは信長でした。
この時、光秀35歳!!尾張から光秀のふるさと美濃に進出し、治めていました。
信長を味方につけることができれば・・・
1568年、光秀は美濃国に赴いて、義昭を上洛させてくれないか?と、交渉します。
この時、信長は上洛の機会をうかがっていたので・・・交渉はすぐに成立!!
これが、二人の出会いでした。
光秀と濃姫が従兄妹の関係にあったから・・・とも言われています。
信長は義昭を奉じて上洛!!光秀も付き従います。
1568年義昭が15代将軍に就任。
信長は後見人となり、実質的に京を支配していきます。
二人の橋渡しをした光秀は、信長に仕えるようになり・・・出会いから1年で・・・
1569年京都奉行に就任しました。

秀吉と光秀は、同時期に京都奉行となっています。
そして・・・金ヶ崎の退き口で決まる・・・??

外様の良きライバルとして並ぶ二人に、あるミッションが・・・
1570年4月・・・勢力拡大を目論む信長は、越前の朝倉義景討伐の兵を挙げ、光秀と秀吉も参戦・・・!!
手柄をあげる絶好のチャンスです!!
織田軍は若狭方面から越前に進み、朝倉側の天筒山城、金ヶ崎城を難なく落とし、一乗谷城へ・・・!!
しかし、予期せぬ出来事が起こります。
妹のお市を嫁がせ、同盟を組んでいた北近江の戦国大名・浅井長政が裏切り、朝倉側についたのです。
その上、六角氏も挙兵!!
これによって、織田軍は敵中で完全に孤立してしまいました。
金ヶ崎にいた信長は、すぐさま撤退を決め、退路を断たれる前に京都へ退くことに・・・
金ヶ崎の退き口です。
この撤退戦では、最後まで織田軍の陣に残り、敵を足止めする殿を自ら買って出たのが秀吉で、当時の秀吉の名を取って”藤吉郎金ヶ崎の退き口”と言われ、語り継がれていますが・・・
5月4日付の波多野秀治宛の一色藤長の書状によると・・・
金ヶ崎城に
木下=木下藤吉郎(羽柴秀吉)
明十=明智十兵衛尉光秀
池筑=池田筑後守勝正
その他残し置かれ・・・とあります。

つまり、殿を務めたのは、秀吉だけではなく光秀も、池田勝正もいたのです。
この時、殿を務めたのは新参者で、身を挺して敵の追撃を阻む・・・捨て駒なのです。
しかし、上手くいけば、たいそうな手柄になる!!
3人は、金ヶ崎城で殿の順番を決めます。
①池田勝正
②明智光秀
③羽柴秀吉

この順番で食い止めることとなります。

まずは、勝正の軍が、信長の軍を逃がすために戦います。
次に代わって光秀軍が・・・峠で待ち受けて食い止めては逃げるという戦法を・・・
三番手の秀吉軍も奮戦します。
そして、京に戻れた信長・・・。
殿の役目は手柄となる・・・??

最後を務め、帰ってきた秀吉を見て不安に駆られる光秀・・・。
秀吉は、朝倉勢に追いすがられ、落武者狩りにも遭い・・・命からがら逃げかえってきました。
光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れ死んでしまっているので、功績は秀吉のものになってしまった・・・。
後世、秀吉の武功となってしまったのです。
朝倉攻めでは、二人とも貢献したことを認めていた信長です。

先に一国一城の主となったのは・・・??

織田信長は、兵を一度岐阜に戻し、徳川家康の協力を得て北近江に出陣!!
浅井朝倉との戦いに邁進します。
比叡山延暦寺が逃げ出した浅井朝倉の兵を匿っていることを知った信長は・・・
「味方になるか、中立を保ってもらいたい。
 受け入れられなければ、全山ことごとく焼き払う。」
これに対し、延暦寺は拒否!!
比叡山を焼き討ちしようとします。
家臣たちの中にも反対意見のある中、主導したのは比叡山攻略最前線を任されていた明智光秀でした。
1571年9月12日、比叡山の僧侶、信者、老若男女構わず皆殺し・・・焼き討ちします。
誰もやりたがらないことをやった光秀は、1571年信長から近江志賀郡5万石を与えられます。
比叡山の麓、琵琶湖のに面した坂本に自らの城を築きました。
一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。
ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

城攻めが上手かったのは・・・??

1573年7月、信長が足利義昭を追放したことで、室町幕府が滅亡!!
信長は、更なる勢力拡大に向け、新しい軍事態勢を構築します。
信長自身が総大将となっていたものを・・・侵攻する地域を6つに分け、それぞれを信頼できる武将に任せます。
北陸方面郡・柴田勝家、関東方面軍・滝川一益、本願寺方面軍・佐久間信盛、四国方面軍・神戸信孝、近畿方面軍・明智光秀、中国方面軍・羽柴秀吉です。
二人もそれぞれ軍司令官に任じられました。
困難な地域を任された光秀と秀吉、その城攻めとは・・・??

明智光秀の場合・・・
1575年9月・・・光秀は丹波平定を開始。
花冠に攻め入るも・・・最初でつまづきます。
狙いを定めた黒井城が要害堅固な山城だったためにてこずってしまいます。
長引く中・・・織田方についていた丹波八上城主・波多野秀治が裏切ったため、光秀は坂本城にいったん退却!!
体制を立て直して攻め込もうとした矢先・・・
・・・光秀は、信長から石山本願寺攻め、紀州雑賀攻めに駆り出され、転戦を余儀なくされます。
結局、光秀が丹波攻めに戻れたのは1577年10月。
まずは丹波亀山城を攻略し、拠点とします。
翌年には、黒井城攻めの時に裏切った波多野秀治の八上城を攻めます。
信長公記によると・・・
「堀をほり塀・柵幾重もつけさせ、堀際に諸卒町家作に小屋をかけさせ、廻番を丈夫に警固をもう質kwられ、誠に獣の通ひもなく、在陣候なり」とあります。
光秀の城攻めは、戦わずして降伏させるというのが大前提・・・丹波の土豪たちに・・・
「味方をすれば本領安堵。忠節次第では増加なある。」
無駄に戦うことなく、交渉によって敵方を味方にしていきます。

その後も、次々と城を攻め落としていった光秀・・・最後に残ったのは、一度攻略に失敗した黒井城でした。
ところが、城主が変わっていたこともあって、光秀にあっさりと白旗を揚げるのです。
1579年、およそ4年をかけて、丹波を平定。
その翌年、信長から新たに近江(一部)と丹波を与えられ、合わせて34万石の大大名に・・・織田家家臣として確固たる地位を築いたのです。

羽柴秀吉の場合・・・
信長から中国法明軍司令官に任じられた秀吉は、中国地方の毛利輝元を攻めようとして味方を増やそうとしていました。
その手始めとなったのが、播磨の中で大きな勢力だった御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛でした。
味方につけた官兵衛が、後に秀吉を天下人へと引き上げる名軍師となるのはご存じの通ります。
さらに秀吉は、三木城主・別所長治を味方につけることに成功!!
隣国但馬に攻め入り周囲を固めたことで、中国平定は容易に成し遂げられると思われました。
ところが・・・三木城主別所長治が裏切り、毛利方についたのです。
これによって秀吉は、播磨・三木城攻めを開始します。

城攻めの際は、長期戦となるので、自軍の損害を最小限に抑え、消耗させないというのが基本です。
秀吉は、様々な城攻めの中で、兵糧攻めを好みました。
三木城攻略もその一つ・・・三木の干殺しです。
毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦し、2年に及ぶ長期戦となるも、1580年1月開城させ播磨と但馬を平定。
秀吉は攻撃目標を因幡に・・・!!
秀吉の中でも残忍な鳥取の渇え殺しです。
1581年6月、秀吉は2万の軍勢を率いて但馬口から因幡に入り、吉川経家の立て籠もる鳥取城を囲みます。
秀吉は三木城攻めの際に、毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦した苦い経験から、今回は城を包囲する前から計画を練っていました。
城に運び込む兵糧を少しでも少なくするために、因幡中の米を時価の数倍で買い占めたといいます。
また、村々を焼き払い、城の中に村人を逃げ込ませ、籠城する人数を増やし、食料を1日でも早く食いつぶさせようとしたのです。
やがて城の中の食料が底をつくと、飢えに苦しみ、柵に取りつくものが現れました。
秀吉軍はそれを狙い撃ちに・・・!!
その瞬間、城内の者たちは撃たれた者の体に飛びつきむさぼりついたとか・・・
それほどの飢餓状態にあったというのです。
吉川経家は兵たちの助命を条件に切腹。
城を明け渡しました。
この後、備前も攻略した秀吉は、4か国を平定したのです。

数々の城を攻め落としていった光秀と秀吉・・・
どちらが凄かったのでしょうか?
城攻めだけで見ると・・・光秀は当時の常套手段でした。
秀吉は独自の戦法を編み出しています。
なので、独自の戦法を持っていた秀吉の方が凄かったのです。
光秀と秀吉に、難しい地方の攻略を任せた信長は、この時二人をどう評価していたのでしょうか??
1580年8月8日付の佐久間信盛・信栄親子あての手紙によると・・・
「光秀の働き、天下の面目をほどこし候
 次に羽柴藤吉郎数か国比類なし」
としています。
つまり・・・光秀の方が評価が高かったのでは??
この時点での織田家の働き頭は光秀であると信長は考えていました。
光秀の評価が高かった点として・・・京都に近い国ほど、室町幕府ゆかりの勢力が多く、統治が難しかったことが挙げられます。
そして、丹波の地形は、大和盆地が入り組んでいて、統治が難しかったと思われます。
1581年2月、京都で織田軍5万ともいわれる「馬揃え」が行われます。
正親町天皇を始め、公家、女官、町人たちが見物しました。
この時、統括責任者とされたのが、信長から一番の信頼を得ていた明智光秀でした。

この時、あまりに嬉しかったのか、光秀は・・・
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召しだし、その上莫大な人数を預けられた。
 一族家臣は子孫に至るまで、信長様への御奉公を忘れてはならない。」と書いています。
しかし・・・その一年後、光秀が謀反を・・・!!

1582年5月、光秀は織田信長から中国毛利攻めを行っている羽柴秀吉の援軍として出陣するように命じられます。
そして6月1日・・・光秀は信長の命令通りに秀吉軍に加勢する為に、居城である丹波亀山城を後にしました。
ところが・・・老の坂で進路を変えるのです。

「敵は本能寺にあり!!」

向ったのは、信長が宿泊していた京都の本能寺でした。
6月2日未明・・・京都・本能寺。
けたたましい物音に目を覚ました信長・・・
光秀の謀反を知った信長はこう言ったと言われています。

「是非に及ばず」

天下取りを目前に・・・信長自刃。

信長に評価されていたにもかかわらず、どうして謀反に至ったのでしょうか?
怨恨説??これは江戸時代に書かれたものです。
近年有力視されているのは長宗我部問題説です。
信長は、四国に勢力を広がるために、土佐国などを治めていた長曾我部元親を取り込み、手柄を立てたら四国を与えると約束していました。
しかし、元親の力が大きくなると恐れた信長はその約束を反古にし、元親を怒らせたのです。
この元親と信長を取り持ったのが光秀でした。
面目を潰された・・・そう思った光秀。
本能寺の変は、信長が元親放伐を予定した日でした。
それを阻止する為に謀反を起こしたのでは?と考えられています。
最も信頼していた光秀によって命を落とすこととなった信長。

最終的な二人の評価は・・・??
甲乙つけがたいと思っていたようです。
その後、光秀は出世争いをしていた秀吉と戦い最期を遂げるのです。
良きライバル・・・信長にとって欠かせない二人でした。
この二人の存在が、戦国の歴史を大きく変えたことだけは、確かなようです。


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桶狭間の戦い・・・この合戦で、織田信長は歴史の表舞台に躍り出ました。
弱小兵力の信長が、起死回生の奇襲作戦で、東海の雄・今川義元を討ち取る大金星を挙げたのです。
それから10年・・・信長は、運命を左右する一戦に・・・姉川の戦いです。

戦いの舞台は、現在の滋賀県東北部、姉川沿い・・・浅井・朝倉との戦いでした。
これまで伝えられてきたたのは、巧みな陽動作戦によって信長が大勝利を収めるというものですが・・・。
ところが、姉川の戦いで信長は窮地に追い詰められ、命を落としかねない状況であったことが解ってきました。
逆桶狭間の危機に陥っていたのです。
信長の首を狙ったのは、北近江の武将・浅井長政。
信長の同盟者であり、義理の弟・・・長政が裏切り、最大の敵として立ちはだかったのです。
戦いの直前、信長は大きな過ちを犯していました。
それが、長政に付け入る隙を与えたのです。

1560年、織田信長の名前を天下に轟かせた桶狭間の戦い・・・。
しかし、大大名・今川を討ったとはいえ、信長はまだ尾張の小大名にすぎませんでした。
同盟を・・・と、隣の徳川家康、北近江の浅井長政と結びます。
隣国でもない長政とどうして同盟を結んだのでしょうか?
この時の敵は、美濃・斎藤家でした。
斎藤氏は、南近江の六角氏と結んでいました。
敵の敵は味方・・・斎藤氏けん制のために、長政と同盟を組んだのです。
浅井氏の居城・小谷城・・・北近江支配の拠点であり、当時有数の巨大な山城でした。
山全体を覆うように作られた曲輪。。。
軍事力に優れた浅井氏の力のほどが伺えます。
城の中でも際立つのが、中腹に作られた大広間です。
大きな空間が山城の中にあり、小谷城は戦国時代屈指の巨大山城であったことを証明しています。
城跡から出土した中国製の白磁や青磁・・・天目茶碗・・・浅井氏の経済的裕福が伺えます。
さらに小谷城を拠点に、横山城、佐和山城・・・独自の防衛ラインを築き、琵琶湖の水上交通を支配していました。
信長にとって浅井長政は軍事的、経済的に頼みとする武将だったのです。
同盟締結に、信長は妹・お市の方を嫁がせています。
この同盟にかける期待の大きさが伺えます。
天下への野心をあからさまにしていく信長・・・
1568年9月、美濃平定した信長は、次期将軍候補・足利義昭を担いで上洛を果たします!!
その翌月、義昭・征夷大将軍に就任。
信長は新将軍から”武勇天下第一”と称えられただけではなく、御父ともよばれました。
信長にとって、最大級の賛辞です。
この将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出します。

”おのおの上洛ありて
 御礼を申し上げられ
 馳走肝要に候
 御延引あるべからず”

これをはねつけたのが、朝倉義景でした。
かつて足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に、朝倉はこう答えます。

「これは上意に非ず
 信長の謀略である」と。

京を中心に畿内の覇権を図る信長にとって、朝倉はまさに目の上のコブでした。
1570年4月、朝倉討伐!!3万の軍勢を引き連れて、京を出陣します。
目指したのは、今の敦賀市・・・陸上交通と北国海運の要です。
朝倉氏にとっては畿内への玄関口でもありました。

1570年4月26日、金ヶ崎の戦い
ところが・・・落城させた直後に、信長に驚愕の知らせが・・・!!
浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りに際し、信長は・・・「虚説たるべき」・・・裏切りを嘘だとして報告を信じませんでした。

「浅井はれっきとした縁者であり、その上、北近江一体の支配を信長が許しているのだから不足などない・・・」と。
「浅井は近年、信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた。」と。
長政には、十分な所領、北近江半分を与えている・・・お市の方を嫁にしているではないか・・・!!
別格の待遇なのに・・・??

ところが長政としては、信長の家臣ではない・・・
家臣扱いされることに対する自尊心が・・・!!
朝倉攻めを優勢にしている信長・・・しかし、長政の裏切りが本当ならば、形勢は一気に逆転してしまう・・・!!
四方を囲まれて袋のネズミとなった信長・・・。
金ヶ崎城の麓にある神社・金崎宮には一風変わったお守りがあります。
袋の両端を結ぶことで、信長の窮地を暗示した小豆袋・・・浅井裏切りの一報を伝えたのはお市の方だという逸話も残されています。
小谷城から敦賀までおよそ35キロ・・・本当に長政が兵を動かしたとするならば、一刻の猶予も許されない・・・。
この時信長は即断即決し、家臣に後事を託すと、一目散に駆け出しました。
京までおよそ200キロの道程・・・金ヶ崎の退き口です。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を務めたのは、木下藤吉郎・・・豊臣秀吉や、明智光秀、徳川家康です。
信長は長政の支配下の琵琶湖周辺をさけ、山越えを選択。
若狭街道を南下し、京へ着いたのは長政の裏切り発覚から3日後の事でした。
この時信長に付き従ったものは、僅か十数人と言われています。

当時の宣教師によると・・・
「信長は、自らに加えられた侮辱に対しては、懲罰せずにはおかなかった。」

その言葉通り、岐阜城に戻るや否や・・・
6月19日、岐阜城を出陣!!

3万の大軍勢で、小谷城に進軍!!
いよいよ、姉川の戦いの火ぶたが切って落とされようとしていました。

信長は、浅井長政討伐のため北近江に侵攻しました。
姉川の戦いの始まりです。
この時、戦いの舞台となったのが、浅井方の城・横山城です。南北8キロに連なる横山丘陵に築かれた山城です。
1570年6月24日、信長・横山城を3万の大軍勢で包囲!!
横山城は小谷城と佐和山城の中間にあり、落とせば城の連携が遮断され、浅井の防衛ラインを崩すことができる!!
しかし、横山城は南北8キロに及ぶ長ぼそい丘陵・・・。
包囲することは非常に難しい!!
織田軍は、長い丘陵地帯の横山城を包囲する為に、軍を分散配置せざるを得ない・・・!!
この法線を担ったのは、秀吉や柴田勝家ら精鋭部隊だったと考えられます。
同じころ、朝倉の援軍8000が到着!!小谷城近くの大依山に陣を構えました。
一方、信長本陣は横山城北端の龍ヶ鼻、徳川家康は岡山に陣を構えました。
姉川を挟んで睨み合う形となったのです。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が動いたので、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなったのです。
この時信長は、敵の動きをこう読んでいました。
小谷城への撤退行動だと・・・!!
浅井・朝倉勢が撤退したとすれば、横山城攻略に専念することができる!!

長政の考えは・・・??
合戦を短期に決めてしまうには、信長の首をとるのが一番早い・・・。
一か八かで狙ったのが姉川の戦いでした。
長政は、小谷城に撤退したと見せかけて、密かに信長の本陣を突こうとしたのです。
この時、信長の周囲にいたのは、家康と馬廻衆などで大きな軍勢ではない。。。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到達。
信長の本陣に近づいていました。
そして・・・1579年6月28日、姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつく、乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に推される織田軍!!
敵は姉川を越え、信長の御手前へ差し掛かり、推しつ返しつさんざんに入り乱れました。

この時、信長の本陣は、陣杭の柳にありました。
そこには、浅井家家臣・遠藤直経の墓がありました。
信長にせまり、あと一歩のところで討ち取られた武士と記録されています。
本陣から墓まで300m・・・長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱を起こします。
信長は、今川義元になりかねなかったのです。

長政の奇襲攻撃によって、劣勢になった信長・・・
撤退する??踏みとどまる??

1570年6月28日、姉川の戦い開戦。
この時信長は、長政の奇襲攻撃で、大苦戦を強いられていました。
しかし、信長は戦場を離脱することなく戦場に留まりました。
味方の援軍を待ったのです。

乾坤一擲の奇襲攻撃にかけた長政・・・しかし、信長の首がとれないとわかると、小谷城に撤退したと思われます。
横山城を包囲していた織田の武将たちは、信長本陣に・・・追撃を開始しました。
浅井・朝倉勢が退却したことで、孤立した横山城は、退却を余儀なくされました。
信長は、横山城を奪取することに成功したのです。

織田軍は、横山城を浅井攻めの足掛かりとして小谷城攻略を進めていきます。
結果的に、姉川の戦いの勝者は信長であることが有力となります。
ところが・・・戦いの僅か3か月後、浅井・朝倉勢が挙兵!!
比叡山を抑え、信長の京への上洛路を遮断したのです。
3か月にわって信長を苦しめたこの戦いを志賀の陣といいます。
それだけの余力があれば、姉川の戦いで余力があったのでは??と考えられます。

信長の危機を招いた姉川の戦いによって、信長は長政に対して更なる復讐の炎を燃え上がらせていくのです。

信長と長政・・・戦いは膠着したまま事態は悪化の一途をたどります。
畿内一円で反信長の火の手が拡大したのです。
姉川の戦いの後、石山本願寺や長島一向一揆など、宗教勢力の挙兵。
足利義昭の寝返り・・・戦国最強の武田信玄が反旗を翻す・・・。
信長包囲網が出来上がります。
こうした四面楚歌に追い込まれた信長は、強引な方法で難局に対していきます。

1571年9月、比叡山延暦寺焼き討ち。
これによって、信長の上洛路を脅かすものは無くなります。
畿内周辺の敵を各個撃破、長政の小谷城を孤立させていきます。

1573年8月、朝倉滅亡。返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻に、遂に長政切腹・・・享年29の若さでした。
小谷城落城の際、信長の妹・お市の方や、娘たちは救出されます。
しかし、長政の長男・万福丸は許されず、極刑に処せられます。

さらに翌年、信長に刃向かった長島一向一揆を殲滅。
降伏した者たちを皆殺しにしたばかりではなく2万もの農民が焼き殺されました。
信長の残虐極まる行いが記されています。
金泥を施した浅井長政、朝倉義弘のしゃれこうべを肴に、酒宴が催されたのです。
信長は、何もかもが思いのままになってまことにめでたく上機嫌でした。

浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力が途絶えました。
これを機に、天下布武の元、信長は領土を急激に拡大させていくのです。

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「わが敵は本能寺にあり!!」
主君を裏切った悪人??
光秀の実像はあまりよくわかっていません。
が・・・どうして主君を討つことになったのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀が味方を集めようと各地に送った書状が見つかりました。
この発見で、どうして光秀が信長を討つことになったのか??に関心が集まりました。
もともと長い間浪人生活を送っていた光秀・・・そんな彼を、一国一城の主としたのが織田信長です。
信長のもとで、光秀は裁縫をいかんなく発揮します。
朝廷との交渉、戦場での活躍・・・まさに信長の右腕といえる存在でした。
いわれたことをきっちりこなす理想的な部下・・・とんとん拍子の出世でした。
しかし、光秀は突如、信長に反旗を翻します。

怨恨説、野望説、四国説、前途悲観説、黒幕説・・・真相はいまだ闇の中・・・。

天下の謀反人の真の姿とは・・・??

京都府亀岡市・・・かつて、明智光秀の居城・亀山城がありました。
町では光秀の功績を称え、毎年祭りが行われます。
もともと農家が点在する場所に、光秀が城を築き、城下町として発展させたのです。
織田信長のもとで成功を手にした光秀・・・しかし、信長に仕え始めたのは41歳の時でした。
その年で、どうして信長を主君と仰ぐようになったのでしょうか?

光秀は戦国時代を迎えていた1528年美濃国明智城主の子として生まれました。
その後、美濃国は下剋上でのし上がった斎藤道三が治めるところとなり、土岐明智家も道三に仕えることに・・・。
ところが、光秀29歳のころ・・・
斎藤道三の息子・義龍が兵を挙げ、道三を討ったのです。
そして、道三の家臣だった明智家も攻撃を受けます。
1556年、29歳の時に明智城落城・・・光秀は城から逃れます。
以来、再び明智家を再興することが、光秀の使命となります。

光秀は主君を探し、何年も諸国を渡り歩きます。
「再び我らの領国を手にするためには、力ある主君に仕えねばならぬ。」by光秀
しかし、生活は厳しく、食事にも事欠く始末・・・

そんなある日、客人をもてなすことになって困り果てた光秀・・・。
しかし、豪華な料理が・・・!!
客人の帰った後、妻に聞くと・・・長く美しかった煕子の髪を売って客をもてなしていたのです。
光秀は生涯側室を持つことはなく、煕子を大切にしたといいます。
子宝にも恵まれ、光秀の三女は、後の細川ガラシャ・・・関ケ原の戦いの際に、人質になる事を拒み、死を選んだことで有名です。

放浪生活の末、越前の朝倉義景に仕えることに・・・
すでに戦国の世、武田信玄、上杉謙信、新興勢力の織田信長も台頭しつつありました。
ある日、光秀が仕える朝倉家に、思いもよらない人物が・・・後に室町幕府の第15代将軍となる足利義昭です。
当時の室町幕府は、有力大名に牛耳られていて、足利家に何の実権もありませんでした。
義昭は、復権を望んでいました。
そこで、昔から将軍家と関わりのあった朝倉家に支援を求めてきたのです。
この時光秀は、足利義昭の家臣・細川藤孝と出会います。
二人は意気投合し、強い信頼関係で結ばれます。
足利義昭の意向を知りながら、主人・朝倉義景はなかなか動こうとしません。
遂に光秀は、細川藤孝に切り出します。

「残念ながら、朝倉家には義昭公を京に上らせ奉るほどの武力も、気力もござりませぬ。
 もっと強い力と、果敢な意気に燃えた大名を求めねばなりませぬ。
 尾張の織田信長さまがおよろしかろう。」by光秀

光秀は、仲介役として信長の元へ・・・!!
二人が対面したのは、光秀41歳、信長35歳の時でした。
信長は光秀の申し入れを承諾します。
足利義昭を将軍に就かせ、その権威を利用しようとします。
こうして信長は、義昭を擁し、京へ上ります。
1568年、上洛
義昭は室町幕府第15代将軍に・・・!!
そして光秀は、朝倉義景のもとを去り、足利義昭と織田信長に仕えることになるのです。
両属といって、二人から禄をもらっていたのです。

信長と出会った光秀は、その後、織田家臣団のTOPに上り詰めます。
信長は光秀をこう評しています。
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」
どうして信長の信頼を勝ち得ることができたのでしょうか?

信長に仕えることになった光秀は、重要な役職に抜擢されます。
京都奉行です。
都の治安維持や朝廷や公家との交渉を行う要職です。
光秀は歌会や茶会を開いては、公家たちの要望を聞きだしていきます。
貴族は、各地に荘園を持っていましたが、応仁の乱以降、武士に侵略されたその公家や調停の荘園を取り戻す仕事もやっています。
公家と光秀は親密になっていきます。

1570年、朝倉義景討伐!!

しかし、同盟関係にあった近江の浅井長政に裏切られ挟み撃ちに・・・!!
撤退することさえ難しい、信長最大のピンチに、光秀は秀吉と共に金ヶ崎の退き口と呼ばれる武功を挙げます。
撤退する軍の殿を担い、見事撤退させたのです。
続いて信長が取り掛かったのが比叡山焼き討ちです。
当時、武装していた比叡山は、戦国大名さながらの一大勢力で、信長と対立していました。
しかし、寺院や仏像を焼き、僧侶を殺すことに家臣の多くは二の足を踏みます。
そんな中、光秀は、信長の命に忠実に従います。
光秀は、比叡山を壊滅させます。
こうした光秀の働きを、信長は評価します。
そして、比叡山に近い近江・坂本に5万石の領地を与えるのでした。
光秀はここに坂本城を築城し、念願の城を手に入れるのでした。
信長の家臣の中で、一国一城の主となった最初です。
明智城の落城から17年・・・ついに光秀は、明智家再興の悲願を達成したのでした。

信長に仕える一方で、足利義昭にも仕えていた光秀・・・しかし、厳しい選択を迫られることに・・・
将軍・義昭を飾りとしか考えない信長に不安を募らせた足利義昭が挙兵!!
光秀が選んだのは信長でした。
戦いに敗れた義昭は、京都から追放され、室町幕府は事実上の滅亡!!
室町幕府を滅ぼした信長は天下統一へ・・・!!
そして、48歳の光秀に新たな命が・・・!!
丹波攻略!!
丹波国には、堅固な山城が点在し、信長をはじめ、多くの戦国武将が攻めきれずにいました。
その丹波攻略を命じられた光秀!!
しかし、他のものの援軍も命じられ、各地を転戦します。
1576年、過労によって・・・陣中で病に倒れます。
それでも復帰を果たした光秀は、5年がかりで丹波攻略をします。
信長は光秀を絶賛!!
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」by信長
光秀は、攻略した丹波29万石を加増。
元々の5万石とで34万石の大名に!!
信長につかえて12年・・・信長の右腕となった光秀なのでした。

信長は次々と支配地域を拡大!!
1582年、最大のライバルだった武田氏を滅ぼします。
天下統一に大きく近づいた信長・・・
しかし、その数か月後、本能寺で討たれることとなるのです。

どうして光秀は、信長に反旗を翻したのでしょうか?
様々な説があります。
黒幕説も・・・
・朝廷黒幕説
天下統一目前の信長は、朝廷に対し不遜な態度をとるようになっていました。
そこで朝廷が光秀をそそのかし、信長を討つように仕向けたというものです。
・幕府黒幕説
信長に追われ毛利家に滞在していた足利義昭が、後ろで糸を引いていたと言うものです。
・秀吉黒幕説
本能寺の変の後の素早い行動は、事前に光秀の動きを知っていたからというのです。

光秀自身の決断??
・四国説
四国統一を目前にしていた長宗我部元親。
信長と同盟関係にあり、その仲を取り持ってきたのは光秀でした。
しかし、一方的に信長が元親との同盟を破棄!!
領地を差し出すように命じます。
光秀は面目丸つぶれ・・・信長は四国討伐を決意!!
本能寺の変の当日、四国征伐軍が出陣予定だったのです。
光秀がこれを阻止しようとした??
・怨恨説
ポルトガルの宣教師が人々から聞いたところによると、口答えをした光秀を、信長が足蹴にした。
この理不尽な仕打ちに恨みを抱いた・・・??
・前途悲観説
この頃信長は、息子たちなど身内を重用するようになっていました。
一方で、織田家に長年仕えてきた家老二人を、最近目立った働きがないと追放!!
そして、光秀にも信長の命令が・・・
現在の領地・近江と丹波を手放し、山陰地方(出雲・石見)に移れと言うもので・・・しかも、その二つは毛利家の領地・・・実力で奪えというものでした。
この時、光秀は55歳・・・将来への不安が心を占めます。
「人を道具としてしか見ておらぬ・・・」
・野望説
本能寺の変の4日ほど前、毛利出陣のための戦勝祈願を神社でしています。
翌日、この神社で連歌会がありました。
その時光秀が詠んだ歌は・・・
「時はいま 雨が下しる 五月かな」
時は土岐明智家、雨が下は天下、しるは治める・・・
つまり、今こそ自分が天下を治める時だ!!という解釈です。

果たして、光秀の真意は・・・??

1582年6月1日・・・
この時、信長の主だった家臣たちは京都から遠く離れたところで戦っていました。信長は、僅か100人の手勢と共に、本能寺に・・・!!
光秀は、毛利攻めをしている秀吉の援護に向かうために、夜8時ごろ、丹波・亀山を出発!!
光秀の決意を知るものは僅かな者だけ・・・

「我が敵は、本能寺にあり!!」by光秀

一万を越える軍勢が、本能寺に攻め入ります。
ただならぬ物音に起きた信長は、謀反を知ります。
「相手は、何者・・・??!!」by信長
「明智光秀にございます!!」by家臣
「是非に及ばず・・・!!」by信長

信長は自害し、亡骸は、炎に包まれたのでした。

信長を討った光秀は、天下をとろうと動き始めます。
しかし、光秀の天下は僅か11日・・・後に三日天下という言葉が生れるほど、あっけないものでした。
光秀は、何を読み違えたのでしょうか?
信長、長男・信忠を討った光秀は、安土城へと向かいます。
我こそが天下人という立場を示すためでした。
しかし、信長の家臣によって、安土城への橋が落とされます。
止む無く光秀は坂本城に戻りました。
橋の復旧には3日かかりました。
その間に、各地の大名たちに書簡を書き続けます。

「信長父子の悪逆は、天下の妨げ、討ち果たし候」

信長を討ったことを知らせるとともに、協力を要請します。
3日後、橋が復旧し、光秀は安土城に入城!!
しかし、ここでも足が止まります。
光秀は朝廷からの使者を待つことに・・・。
天下人として朝廷からのお墨付きをもらおうとしたのです。
待ちに待った勅使が来るまで、3日間待ちます。
朝廷からの公認を得た光秀。
一安心ですが・・・気がかりは書状を受け取って集まってくるはずの武将たちがなかなかやってきません。
原因は、秀吉の策略でした。
本能寺の変が起きたとき、秀吉は京都から200キロ離れた備中高松城に!!
毛利勢と睨み合っていました。
信長が討たれたことを知ると、迅速に行動に出ます。
毛利勢に信長の死が伝わらないようにし、停戦!!
そして、各地の武将に書状を送ります。
「信長さまは、無事に切り抜けられた!!」
遺体が見つかっていないことをいいことに、生きているというニセ情報を流したのです。
そして、猛スピードで京都へ・・・中国大返しです。
稀に見る強行軍で、1日で70キロの日もありました。
光秀は完全に秀吉に出遅れ、協力を得られず孤立していきます。
かつての盟友・細川藤孝にも断られてしまいました。
ガラシャを細川家に嫁がせていたのに・・・藤孝は出家をしてしまいました。

いよいよ秀吉の軍が迫ってきました。
上京の途中で兵が加わり、2倍以上になった秀吉軍!!
6月13日、山崎の戦い!!
光秀の軍1万VS秀吉3万6000以上!!
圧倒的な兵力の差に、勝負は短時間でつきました。
そして光秀は、落武者狩りをしていた農民に命を落としたのです。
享年55歳。。。

ながい放浪生活に耐えた苦労人。
家族を大切にしたよき夫。
恩をアダで返した逆臣!!

かつて光秀が治めた近江坂本にある寺には一通の書状が残っています。
光秀が戦で亡くなった家臣を弔うために供養米を収めたときのものです。
当時、部下である家臣を弔うのは、珍しい事でした。
一人一人の名前、同じ量の供養米・・・身分の分け隔てなく、家臣を平等に弔った光秀・・・
中には苗字を持たない低い身分の者もいました。
天下の謀反人といわれた男の素顔は、ようやく光が当たり始めたばかりです。


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天下統一を目指して、数々の戦で百戦錬磨だった織田信長。
しかし、信長の最大の宿敵は、武田でも、上杉でもなく・・・顕如・・・武士ではなく、浄土真宗大坂本願寺の第11世宗主です。
各地の門徒を総動員し、一揆で信長に対抗します。
信長と蓮如の10年にわたる戦い・・・石山合戦です。

1560年、今川義元を桶狭間で破った織田信長は、その後も次々と敵を撃破し、近畿を制圧!!
1568年足利義昭を奉じて、悲願の上洛を果たします。
第15代将軍足利義昭の後見人となって、天下統一に名乗りをあげました。
そんな信長の前に立ちはだかったのが、本拠地を大坂とする浄土真宗・本願寺でした。
全国に数十万の門徒を持つ本願寺は、お布施によって戦国武将以上の財力を誇り、僧兵を持っていました。
勢力拡大を狙う信長にとって、本願寺は邪魔な存在・・・。
その財力を弱めるために、畿内平定を理由に本願寺に矢銭(軍資金)を要求しました。
断れば・・・制裁が待っていました。

この厳しい要求を突き付けられたのは、浄土真宗の若き宗主・顕如でした。
本願寺は要求を呑むのか・・・紛糾するものの、顕如は理不尽な信長の求めに応じます。
すると信長は、畿内一円にある浄土真宗の他の寺にも矢銭を要求。
30億円にも及びました。
ところが信長は、浄土真宗が莫大な矢銭を納めたにもかかわらず、本願寺の大坂からの立ち退きを要求したのです。

一方で、信長は天下取りのための策略を巡らせていました。
将軍・義昭に、五か条の条書を突きつけます。
「天下の儀は信長に任せおかれたのだから、上意をうかがわずに信長の考えで処置する」
政治はすべて信長が行う・・・とあったのです。
名ばかりの将軍となってしまった義昭は、武田、浅井、朝倉、三好・・・有力大名に呼びかけ、信長包囲網を築きます。
信長は、辛くも浅井・朝倉連合軍を破り・・・ところが三好一族が阿波から大坂に進出!!
信長も大坂を目指します。
そこで、信長に反旗を翻した顕如!!
信長と顕如、10年にわたる石山合戦の始まりでした。

顕如は全国の門徒に対し、檄を飛ばします。

「信長と戦え!!戦わない者は破門に処す!!」by顕如

「信長は、上洛して以来、たびたび難題を突き付けて来た。
 さらに本願寺が大坂から立ち退かなければ、破却すると通告してきた。。。
 このうえは、身命を投げ打ち、忠節を尽くすように・・・!!」by顕如

浄土真宗門徒にとっては、信長は命に代えても倒さなければならない仏敵となったのです。
顕如が決起した理由は・・・??
矢銭を要求する信長に対し、強い不快感を抱いていました。

本願寺派第11世宗主・顕如・・・
石山合戦開戦当時27歳、大坂本願寺の住職でした。
妻は、甲斐の虎・武田信玄の正室の妹・如春尼。

かたや信長は37歳。
天下統一を目指し京に上り、畿内の制圧に着手しようとしていました。
二人が激突した石山合戦の始まりは、信長による「大坂からの立ち退き命令」でした。
どうして大坂本願寺に立ち退きを命令したのでしょうか??

大坂本願寺は、今の大坂城のあたりにありました。
寺の周りには、自治集落である寺内町を作り、税を免除するなど経済的な特権を付与。
そのため、門徒だけでなく各地から商人たちも集まりたいそうな賑わいを見せていました。
当時の大坂の地形は、今とは異なり、本願寺のあたりは島になっていました。
そのため、都市国家の様相を呈していました。
全国から多くの人が集まる大坂・・・

「本願寺は日本で一番大きい宗派である
 日本の富の大部分は本願寺の僧侶が所有している。」byガスパル・ビレラの報告書

信長の狙いは、この本願寺の富にありました。
京都や大阪に近く、経済の拠点・・・大阪の経済力が欲しかったのです。

もう一つ本願寺から取り上げたかったのが、宗教的な既得権益です。
本願寺のような宗教勢力は、武将の権力構造の外にあります。
お布施を集めたり、僧兵を集めたり・・・信長にとっては脅威でした。
政教分離の確立を徹底しようとしたのです。
大坂から本願寺を追い出すことは、信長の天下統一にとっては必須だったのです。

1570年11月、信長のおひざ元尾張と伊勢の国境・・・長島で、大規模な一揆・・・長島一向一揆が・・・
顕如の命を受けた地元の門徒たちが、信長の弟・信興の治める城を攻撃!!
しかし、信長は、浅井朝倉との戦いで、応援に行くことができません。
一揆衆に囲まれた信興は、なすすべなく自決に追い込まれてしまいました。

「顕如よ、許さん!!」by信長

半年後、信長は長島一向一揆を鎮圧すべく、自ら大軍を率いて出発!!
しかし、一揆衆の反撃にあって、鎮圧どころか苦戦!!
長島は、複数の中洲の集合体で、戦うには自然の要塞・・・地の利がありました。
葦が深く生い茂る河原での戦い・・・進軍もままならないぬかるみ。
一揆衆は、その芦原に身を潜め、織田軍を罠にかけ取り囲みます。
重い甲冑を身に着けている織田軍は思うように身動きできず、次々と倒されていきました。
ゲリラ攻撃で、信長軍を窮地に追い込んでいきます。
織田軍は防戦一方となり、名将・柴田勝家までも負傷・・・織田軍は、退却を余儀なくされたのです。

武士と門徒では価値観が違う・・・
武士達の恩賞は、「知行」「出世」でしたが・・・門徒たちは戦って死ねば「極楽浄土」が約束されていました。
信長の大軍勢をもってしても勝てない理由がそこにはあったのです。

1571年9月、仏教界に衝撃が・・・
信長が、対抗勢力の一つだった比叡山延暦寺を焼き討ちしたのです。
僧侶、女性、子供に至るまで、3,000人を殺戮したのです。
浅井・朝倉との戦いで、中立を申し入れたにもかかわらず、これを拒否したことへの報復でした。
多くの戦国大名は、宗教勢力とは共存共栄でやってきていた中、信長は3つの権門。。。
①公家 ②寺家 ③武家 の公家と寺家とを排除して、武家の世界を作りたかったのです。

比叡山焼き討ちに危機を感じた顕如は、反信長勢力の結集に向けて動きます。
武田信玄を味方にし・・・
本願寺、浅井、朝倉、武田で信長包囲網を構築したのです。
戦国最強の武田軍が、織田軍に向かって進軍し始めました。


1572年三方ヶ原の戦いで、織田に組する徳川を撃破、信長は、絶体絶命の危機に・・・!!
ところが、信玄が進軍途中に死去・・・
信長包囲網にほころびが生じてきました。
これに乗じて、信長は足利義昭を追放!!
ここに室町幕府は滅亡!!
危機を脱した信長は、浅井・朝倉を殲滅!!
残る敵は、本願寺のみとなりました。

1574年7月・・・信長は、再び長島一向一揆の鎮圧に・・・
8万を越える大軍で、長島一帯を完全に包囲!!
前回のゲリラ戦に懲りた信長は、兵糧攻めに・・・!!
3か月で・・・半数が餓死・・・それでも「一揆衆すべて根切せよ!!」by信長
根切とは・・・降伏しても捕虜にせず・・・皆殺し!!
しかも一揆衆だけでなく、家族までも一人残らず殺せと命じました。
逃げられないように柵をし、火を放ち、2万もの人々を焼き殺してしまいました。
負けてもはい出て来る・・・門徒の怖さを信長は熟知していたのです。
遂に、長島一向一揆を鎮圧!!

1575年越前の一向一揆に乗り出します。
顕如は信長によって滅ぼされた朝倉の領地・越前に守護代として側近を派遣。
本願寺による領地の支配を目論んでいました。
しかし、信長がそれを許すはずもなく、ここでも殲滅作戦を実行!!
この時信長に差し出された首は、1万2000ともいわれています。
ここにきて、ようやく顕如は信長に休戦を乞い、和睦がなされました。
そしてこの和睦が、新しい領国支配のシステムを作り出すこととなります。

一向一揆を再び起こさせないために、重臣の柴田勝家を送り込みます。
これが、新しい領国支配の基礎となります。
戦国時代は領地を支配するのは土着の武士でしたが、信長はその土地と関係のない武士に一国を与え、領国支配を任せます。
それは、信長の求心力を高めるためでもありました。
信長を頂点とした統治システムだったのです。

越前一向一揆の後、信長と和睦をした本願寺の顕如・・・
しかし、顕如はまだ打倒信長を諦めてはいませんでした。
上杉謙信、武田勝頼らと新しい包囲網を築き、戦いを挑みます。
これに対し、信長もついに大坂攻めを決行!!
大軍で海と陸から本願寺を包囲!!
しかし、要害堅固の大坂本願寺・・・周囲には深い堀が張り巡らされて・・・
掛かっている橋には鉄砲隊が・・・!!
顕如は信長との全面対決に向けて、紀州の鉄砲隊・雑賀衆を雇っていました。

織田軍苦戦の一報を受けたとき、信長は京都にいました。
いそぎ信長は大坂に駆け付けて自ら指揮を執ることに・・・!!
しかし、足に流れ弾が当たり深手を負ってしまいました。
鉄砲と言う新しい武器で戦を勝ち上がってきた信長が、皮肉にもその鉄砲で負けたのです。
そこで信長は、長島一向一揆と同じく、兵糧攻めに作戦を変更!!
ところが、この作戦を邪魔したのが・・・西国の雄・毛利輝元でした。
信長と友好関係にあったにもかかわらず、瀬戸内海から木津川を通じて船で兵糧を本願寺に送っていたのです。
信長の兵糧攻め、全くの効果なし!!
輝元はどうして本願寺に味方したのでしょうか?
輝元は、信長の西国進出を食い止めようと考えていたようです。
戦況が拮抗している今ならば、信長を倒せるかも・・・??
1576年7月、本願寺の補給路を断つべく、織田水軍300艘を大阪湾に派遣!!
兵糧を積んで入ってきた毛利水軍を迎え討ちます。
これが木津川の戦いで・・・これも、織田軍は大敗!!
毛利水軍の強力な武器・・・焙烙玉(手りゅう弾)に負けたのです。
おかげで顕如は、兵糧と武器を手にすることとなりました。
撤退を余儀なくされてしまった信長・・・このまま手をこまねいているわけにはいかない・・・
顕如を倒さなければ天下統一はなしえない・・・

そこで、志摩国の九鬼水軍の九鬼義隆に命じて、焙烙玉に耐えうる船づくりに乗り出します。
鉄砲の弾も通らない・・・鉄甲船です。
ベースは当時の軍船として使われていた安宅船・・・
焙烙による攻撃を防ぐために、外側に厚い鉄板を貼り付けます。
四方には大砲を・・・!!
船の全長は30mに及び・・・世界初の鉄張り軍艦でした。

最高の攻撃力と防御力を誇る軍船でした!!
信長は、鉄甲船を6艘・・・堺に配備!!
毛利水軍に大敗してから2年後の1578年11月・・・
本願寺に物資を運ぼうと、毛利水軍600艘が大阪湾にやってきました。
鉄砲、焙烙玉で戦う毛利水軍・・・しかし、鉄甲船はびくともせず、鉄板がことごとく跳ね返します。
毛利水軍は・・・砲火を浴びて撃沈・・・完敗してしまうのでした。

信長は、本願寺の補給路を完全に立つことに成功!!
遂に、最終決戦!!
織田軍の完全包囲!!
10年戦ってきた顕如を打ち負かす、チャンスです!!
信長はこれまで一揆鎮圧に向けて大量虐殺を行ってきました。
今回も、非情な殲滅作戦を実行するのでは・・・??
しかし、信長の決断は・・・??

1580年閏3月、信長の起請文が顕如の元へ・・・
本願寺に対して、天皇の仲裁による勅命講和案を提示します。
その内容は・・・
「大坂を明け渡すならば、本願寺の存続を保証する」というものでした。
それに続けて信長は・・・
「これは、本願寺を赦免するようにとの、天皇からの仰せに従ったものである。」
どうして講和を選んだのでしょうか??
この時信長は、天下布武を成し遂げるためには、本願寺をつぶして城を立てることを考えていました。
本願寺の立つ土地と、寺内町を無傷で手に入れたかったのです。

顕如はこの和議を受け入れます。
しかし、それは、顕如の降伏を意味していました。
顕如は大坂本願寺を後にして、紀州の寺へ・・・。
その4か月後・・・主のいなくなった大坂本願寺は、失火とも放火とも区別のつかない火災によって消失してしまいました。
ここに・・・10年に及ぶ石山合戦が幕を下ろしたのでした。

この僅か2年後の1582年・・・信長は、明智光秀の謀反により本能寺の変で波乱の生涯を閉じることに・・・。
顕如との戦いに10年も費やしていなければ・・・天下を取っていたのかもしれません。
その後、豊臣秀吉は、大坂本願寺後に大坂城を築き、天下統一を果たすのです。


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