日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:朝鮮出兵

佐賀県唐津市・・・今から400年以上前、ここに戦国時代屈指の巨大な城がありました。
豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城です。
高層の店主がそびえたち、周囲には全国の大名たちが陣を構えました。
城郭都市の人口は、30万人に及んだといわれています。
城の巨大さは、秀吉の大陸侵攻への野心の大きさでした。

秀吉が起こした文禄・慶長の役・・・
中国の王朝・明の征服を目論み、朝鮮半島を戦火に巻き込んだ対外戦争は、7年も続きました。
この無謀な戦争を止めるべく、講和交渉を担ったのが小西行長でした。
行長は、日本と朝鮮・明との講和を早急に実現しようと奔走します。
しかし、積年のライバル加藤清正が立ちはだかりました。

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玄界灘を望む交通の要衝に築城された肥前名護屋城・・・
面積17万平方メートルに及ぶ、当時日本最大級の城でした。
秀吉は、ここを拠点に大陸侵攻への野望を実現しようとしました。
秀吉の野心が記録に現れるのは・・・
織田信長の死後、その後継者となった秀吉が周囲の大名を次々と従え、天下に号令をかけようとしていたその時です。

「日本のことは申すに及ばず 唐国まで仰せつけられ候 こころに候」

関東の雄・北条氏を滅亡させ、遂に天下統一を成し遂げた秀吉・・・ここから大陸侵攻の意思をあからさまにしていきます。
建国以来、200年となる朝鮮王朝を経由し、中国・明に攻め入ろうとする壮大な計画・・・当時は唐入りと呼ばれました。
肥前名護屋城は、その前線基地でした。
城跡からは、秀吉の対外戦争にかける意気込みが浮かび上がってきます。
大手口から城の本丸へと向かうと・・・本丸には、壮麗な建物が並び立ち、高僧の天守がそびえていました。
玄界灘、そして大陸に睨みを利かすかのような巨大なシンボル・・・さらに、この城には、当時最先端の防御の工夫がなされていました。
秀吉の居館があった山里口・・・複雑に門が組み合わさっています。
外枡形をより発達させた門で、敵の侵入を防ぐために、屈曲が連なっています。
この連続外枡形は、後の熊本城や姫路城に採用され、近正の城郭に大きな影響を与えたと思われます。

城の周囲には、商人たちが城下町を形成していました。
人口は、爆発的に急増し、その数2,30万に達したといわれています。
今日や大阪、堺の商人でにぎわっていました。

”肥前名護屋は、日本一の港町である”

それだけではありません。
城を中心とする半径3キロ圏内には、各地の大名が集結・・・
現在確認されているだけでも、150もの陣が築かれていました。
東北から九州まで、日本中の大名が集められたのです。

大名の陣には、能舞台だけでなく茶室まで整備されていました。
大名たちは秀吉の命令に従い、城の周囲に堅固な陣を築き、長期的な対陣を覚悟していました。
この肥前名護屋城を拠点に、総勢30万もの大軍勢が動員され、7年に及んだ大戦争・・・
文禄・慶長の役が始まるのです。

熊本県宇土市・・・かつてここに、小西行長の居城・宇土城がありました。
現在、城跡に残る石垣は、行長の後にこの地を治めた肥後熊本藩主・加藤清正時代のものです。
行長が作った石垣は、この石垣の中にパックされています。
行長の痕跡は、積年のライバル・清正によって、跡形もなく消え失せています。
宇土城の本丸に建立された小西行長像・・・キリシタン大名として知られていましたが、関ケ原の戦いで西軍に属し、時代の敗者となりました。

行長は、初め備前の戦国大名・宇喜多氏に仕えていたと考えられています。
その後、宇喜多氏が織田信長と手を結んだことで、当時、信長配下で中国方面の攻略を担っていた秀吉に仕えることになったといわれています。

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信長の書状に、当時の行長の活躍が記されています。

”毛利方の警護船200艘ばかり海上を上がってきたところ、行長が船で乗り出し敵を追い払った
 実に素晴らしい働きである”

当時、来日した宣教師・フロイスも、こう記録しています。

”行長は海の司令官である”

こうした海での活躍が、信長・秀吉に重んじられた理由だと思われます。
瀬戸内海の、毛利の海ではない海(大阪に近い方)に従わせること・・・
各港の海の民・海賊衆、いざとなったら戦に船を提供してくれる人々・・・行長は、司令官としてその方々を説得して、秀吉政権が上手く回るようにしました。

秀吉の信頼を得た行長は、肥後南部を領する大名に抜擢されます。
この頃、秀吉は、行長はじめ、加藤清正、黒田長政など、子飼いの武将などを九州に配置、唐入りの準備を着々と進めていました。
その中でも特に交渉力に優れた行長に、朝鮮との交渉を担わせることにしました。

1592年3月、行長は朝鮮とのかかわりが深い対馬の宗氏と共に事前工作に奔走します。
目的は、仮道入明・・・朝鮮に道を仮、明に攻め入ることでした。
秀吉の計画は、肥前名護屋城から軍船を仕立て、壱岐・対馬を経由し、朝鮮に上陸。
兵を進め、明に侵攻するというものでした。
それには、朝鮮の協力が必要だったのです。

しかし、長きにわたって明を宗主国としてきた朝鮮が、こうした要求を受け入れるはずがありませんでした。
秀吉は、あくまで強硬姿勢を貫きます。
朝鮮が異議を申し立てるようなことがあれば、対峙すべきである!!
武力で朝鮮に攻め入ることになるのか・・・??
行長は、難しい交渉を託されたのです。
そして結果は・・・朝鮮は、日本に対する協力を正式に拒否!!
4月12日、行長はおよそ2万からなる第1陣を率いて朝鮮・釜山に上陸・・・文禄の役です。
翌日、早くも釜山の城を攻め、これを陥落させることに成功します。
戦闘は、僅か半日ほどで終了しました。
この時、勝敗を左右したとされるのが、当時の日本の主力兵器・鉄砲でした。
戦に習熟した秀吉の軍勢は、200年の泰平を維持してきた朝鮮王朝にとって、大きな脅威となりました。
釜山を陥落させた行長は、破竹の勢いで進軍!!
その4日後、加藤清正率いる第2軍が上陸します。
両軍は競い合うように朝鮮王朝の首都・ハンソン(漢城)・・・ソウルを目指しました。
そして、上陸から1月足らずで・・・5月20日、行長率いる第1軍がハンソンに入城しました。
この時、行長は、朝鮮に対し降伏を促す書状を作成・・・無益な争いを避けるため、これを朝鮮軍に届けようとしました。
ところが・・・加藤清正の軍勢に行く手を阻まれ、書状を届けることができなかったのです。
同じ日本軍とはいえ、行長と清正の戦略は違っていました。
清正は、秀吉に命じられた通り朝鮮の武力制圧、明への侵攻を目指しました。
そんな清正にとって、朝鮮との交渉を目指す行長の行動は、許しがたいものでした。
2人が手紙で相談したやり取りは、1通も残っていません。

清正との対立によって、朝鮮との交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
そこで行長は、さらに北上を続け、明との国境に近い平壌まで進出!!
今度は、明との直接交渉に臨もうとしました。
しかし、そんな行長の思いとは裏腹に、明は朝鮮の援軍のために大軍勢を平壌に向かわせていました。

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文禄の役・・・
行長率いる第一軍に続き、総勢16万の日本の軍勢が海を渡り朝鮮全土に侵攻しました。
行長はじめ、加藤清正、黒田長政、小早川隆景など、武将たちは朝鮮各地に・・・それぞれの地域を制圧しようとしました。ところが、文禄の役は僅か2か月でほころびを見せ始めます。
陸では、郷土防衛のため、朝鮮の有力者が地元の人々を義兵として組織、各地でゲリラ戦を展開し、日本を苦しめました。
さらに、海では朝鮮水軍を率いるイ・スンシンが、日本の軍船を各地で撃沈!!
これにより、日本からの兵糧や軍事物資の輸送がままならなくなっていました。

1592年8月・・・明との直接交渉を模索していた行長は、朝鮮在陣の武将たちと軍議を開きます。
このまま民へ侵攻するのは難しい・・・そこで決議したのが、年内への明への侵攻の延期でした。
1593年1月、明・朝鮮の連合軍5万の大軍勢が、行長のいる平壌を襲ってきました。
その攻防戦を描いた屏風では・・・鉄砲を駆使し、大軍を退けようとする行長の軍勢が書かれています。
しかし、およそ7000という少ない行長軍は、連合軍の総攻撃を前に、ピョンヤン撤退を余儀なくされてしまいます。
勢いに乗じた明・朝鮮連合軍は、首都・ハンソンを目指し南下・・・そこを、小早川隆景らが迎撃・・・ピョクチェグァンの戦い。
今度は明軍を撤退させます。
戦線は膠着・・・ここに、講和の期は熟したとみた行長は、明との接触を試みます。
戦争は、始めたら終わらせなければならない・・・その時、相手の国との交渉を行い、戦争開始よりも利益を得ることが大切です。
行長としては、この戦争で何も日本側に利益がきていないことから、相手との落としどころを探りたいと思っていました。

3月、行長は、明の使節との会談が実現します。
その結果、明との一時的な停戦協定が結ばれ、明の勅使の日本への派遣が決定されました。
行長は、その後家臣を明に派遣し、自らは日本と朝鮮を行き来するなど三年にわたって明の勅使を迎える環境を整えることに力を尽くしました。
そして、最終的に秀吉が明の勅使を受け入れるための条件を3つにまとめます。

①朝鮮の王子を来日させ秀吉の臣とする
②日本と明の間で勘合貿易を行う
③朝鮮八道のうち四道は日本領とする

当時、朝鮮は八道と呼ばれる行政区に分けられていました。
秀吉が求めたのは、南四道・・・明との交渉にあたり、これが一番の問題でした。
この時、明は日本に対して、朝鮮からの全軍撤退を求めていました。
互いに折り合わない条件の中、明との講和をどう実現すべきか・・・苦悩する行長・・・!!

時間をかけて講和条件を詰めていく??
それとも、秀吉と明勅使との対面を優先して講和の既成事実を作る・・・??

1596年9月1日、秀吉と明の勅使の対面が実現します。
行長の努力が実ったのです。
行長は、講和条件についてはいったん棚上げし、対面を優先したのです。
勅使から秀吉に対し、明の皇帝の言葉が伝えられました。

”ここに特になんじを封じて日本国王と為す”

柵封といわれる措置です。
皇帝から国王として承認を受けることで、中国と朝貢貿易を行うことができました。
近年の研究では、莫大な貿易の利益を生む条件に、秀吉は満足したと考えられています。
こうして両者の対面はうまくいき、秀吉も上機嫌でした。
行長は、事前に明の勅使に対し、領土問題を口に出さぬようにくぎを刺していました。
ところが・・・面会を終えた明の勅使が宿所に戻った時、事件が起きます。
勅使歓待のために派遣された日本の高僧が秀吉のこんな言葉を伝えたのです。

「おのれに対して要求するものはなんでも正直に言うがよかろう」

この言葉を聞いた明の勅使は、思わず朝鮮に駐留する日本の軍勢の撤退を口にしてしまったのです。
後でそれを伝え聞いた秀吉は激怒!!

「彼が激怒したのは、講和を結ぶためには朝鮮国の半分だけでも入手する己の考えを忘れてはいなかったからである」byフロイス

ここに、行長の講和交渉は頓挫してしまいました。
1597年2月、秀吉は再び朝鮮出兵を命じます。

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14万余りの大軍勢が渡海し、およそ2年に及んだ慶長の役が始まりました。
今度の戦は、明に攻め入るためではなく、秀吉がこだわった南四道への侵略が目的となりました。
秀吉は容赦なく、「老若男女、僧俗に限らず、あまねくなで斬りにせよ!!」と言明しました。
これにたいし、明や朝鮮は事前に戦闘態勢を整え、日本軍を迎え撃ちます。
行長も、1万5000の兵を率いて出陣!!
戦闘の傍ら講和を模索し続けます。
しかし、郷土防衛に徹する朝鮮に、日本との講和など考える余地もありませんでした。

朝鮮側の資料に、行長の言葉が残されています。

「朝鮮は文禄の役のとがを私の責任にしているが、それは事実ではない
 私は秀吉の命に従っているだけである」

自ら望んでいない戦いを強いられた行長の本音が垣間見えます。
戦闘は激しさを増し、凄惨を極めます。
京都にある耳塚・・・日本軍が戦果として持ち帰った耳や鼻を埋めて供養した塚です。
日本軍は、朝鮮の兵士のみならず、民衆に至るまで武力で蹂躙・・・各地に深い傷跡を残していました。
泥沼化の一途をたどった慶長の役・・・1598年8月・・・秀吉の死去と共にようやく幕を閉じました。

大陸侵攻の前線基地として築かれた肥前名護屋城・・・!!
秀吉の野望のシンボルは、僅か7年でその役割を終え、人口30万を誇った城郭都市と共にやがて消え失せていきました。

文禄・慶長の役に動員された全国の大名は、新たに獲得した土地もなく、莫大な戦費ばかりを負担することとなりました。
その不満の矛先は、講和交渉に失敗し、戦を長引かせた小西行長や石田三成に向けられました。
一方、朝鮮に出兵することなく国内で実力を蓄えた徳川家康の権勢は増しました。

1600年9月15日、三成や行長は、反家康の軍勢を集め挙兵!!
東軍と西軍を二分した関ケ原の戦いです。
わずか半日で決した戦いは、行長が属した西軍の敗北となりました。

行長は、三成と同じく西軍の首謀者として捕らえられ、10月1日処刑・・・43年の短い生涯だったと伝えられています。
江戸時代以降、行長は家康に歯向かった大悪人として伝えられ、その実像は覆い隠されました。
1980年、没後380年を記念して、行長の銅像が建てられました。
しかし、落成後、すぐにトタンでおおわれいます。
当時、まだ大悪人のイメージがついていて、反行長派の破壊行為から銅像を守るために2年間もおおわれていました。
宇土の地域で神社仏閣を焼き払ったという誤った伝承があり、市民感情が非常に悪かったのです。
小西行長は、歴史に何を残したのか・・・??
その評価は、今でも問われています。

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「小西行長 講和への模索・・とめられなかった文禄・慶長の役・・」




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豊臣家の世継ぎ・・・鶴松がわずか3歳でこの世を去りました。
悲しみのあまり・・・秀吉の興味は、朝鮮出兵以外に無くなってしまったのです。

1591年・・・天正19年12月28日。
秀吉は、関白の座を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称しました。
???もしかして、秀次・・・初めて出てきましたか・・・??
出てこれて良かったね・・・。

肥前名護屋城では・・・官兵衛が朝鮮出兵に向けての城普請をすすめていました。
そこにやって来た石田三成と増田長盛。。。

お・・・三成、嫌味なほどの白い陣羽織着てます。
そう言えば、三成はいつも白っぽい着物でしたね。。。
官兵衛の黒と対照的にしいているのかしら???
う~ん、話の流れからすると、三成の方が腹黒だから・・・黒のほうが・・・??

4月には朝鮮に向けて出兵になるらしい・・・。
三成は、殿下の名代たる奉行として、黒田が本心から働くか否かを見極めるんだって・・・。
何とも高飛車な三成・・・今回もチョー煽ってます。

3月・・・秀吉の到着を待つことなく出兵することが決まってしまいました。

会議に出席する諸大名達。。。

kan4

















総大将・宇喜多秀家。
先陣・小西行長
先陣2・加藤清正・・・

と、言いかけたところで、自分が先陣だと怒り出す清正・・・
それを受けて、1日交代で先陣を務めれば・・・と、提案する官兵衛ですが・・・
こんなんでいいの??
妙案じゃ!!と言っているけど、一本筋が通らないと思うんだけど

官兵衛の意見が通ったことを腹立たしく思う三成なのでした。

「これ以上、口出しはさせん・・・断じて・・・!!」by三成

kan1












1592年4月・・・
大陸侵攻が決行されます。

15万8000の軍が海を渡りました。
小西行長軍を先頭に、漢城を目指します。
圧倒的な鉄砲の数で、破竹の進撃・・・なんと、漢城を落とすことができ。。。
ちょっといい気になって報告をする三成なのでした。

で・・・???と思ったのか、官兵衛は自ら朝鮮に渡ると言い出しました。
すると・・・三成までもが某も・・・!!と言ったのです。
ダチョウ倶楽部を思い出しちゃいました。
でも、さすがに官兵衛は「どうぞどうぞ!!」とは言いません。

二人で行くことになったので、大荒れになる模様・・・。

んでもって・・・三成は、茶々とも密会を・・・

「私はもう一度殿下の子を産んでみせます。
 お世継ぎを・・・」

なんともはや、意味深な台詞
個人的には大野治長がお相手だって思ってるんですが、どうでしょう???


朝鮮に渡った官兵衛・・・朝鮮・黄海道にある黒田の陣では・・・
慣れない土地で、怪我人が・・・疲労困憊の上・・・地図もなく、道も解らず・・・。
どこに何があるのか解らない・・・言葉さえもわからない状況でした。

「思った以上にひどいな・・・」という官兵衛とは反対に、攻め込むべきだという小西行長。
逃げた朝鮮の王子を捕えに勝手に行ってしまった清正・・・
飢えていることに兵糧を三成に要求する長政たち・・・

「何しに来た??」と言われた三成は、
「某、皆さまの働きを見極めるために来ました。」
と、殿下の名代であることを笠に着る三成・・・
讒言するのか??と、一色触発です。

大義がないので、一つになって戦うことができないのです。

この事実を伝えるために、名護屋へと戻った官兵衛・・・しかし、秀吉は大坂にいる大政所の死によって、大坂に戻ってしまっていました。

「しばらくはこちらへは戻られんであろう。。。」by家康。

1593年正月・・・
朝鮮での戦況はさらに悪化していきました。
命からがら逃げかえった小西行長・・・。
「浅はかであった・・・官兵衛さまのおっしゃったとおり、漢城で守りを固めるべきであった。」by行長。

その頃名護屋城に戻ってきていた秀吉。
淀からまたもや懐妊したことを聞くのでした。

有頂天になる秀吉。。。
そう言えば、鶴松が亡くなった時、儂には出兵しか残っていない!!と言っていたから・・・
きっと、朝鮮出兵はどうでもよくなったと見える・・・。

官兵衛にも嬉しそうに話しています。
「して・・・用向きはなんじゃい??」

って、あなたが言い出した、無謀な朝鮮出兵のことですよ。。。

苦戦を強いられているので、和睦を図ろうという官兵衛に・・・

「相分った!!
 官兵衛、お主に任せる!!」

って、本当にどうでも良くなったんだろうな。。。朝鮮出兵・・・

2月、官兵衛は再び挑戦に渡りました。
しかし、秀吉の和睦の条件は、明や朝鮮の意向とはかけ離れたものだったのです。

っとありますが・・・

kan5















この交渉は、あの小西行長が担当でした。
が・・・交渉は、行長と沈惟敬による欺瞞外交だったのです。

明が申し出た和睦条件は・・・

1・明が日本に使者を派遣する。
2・日本は朝鮮の王子2人と従者を返還する。
3・明が韓国から撤退する。
4・日本は漢城から撤退する。

だったのですが・・・
明の勅使として漢城に来た謝用梓と徐一貫の2人は、皇帝の勅使ではなく明軍の大将・宋応昌の部下だったのに・・・
”正式な勅使”として日本に送っちゃいました。

明が降伏したと思っている秀吉は・・・

1・明の皇女を天皇の妃とすること。
1・勘合貿易を復活させること。
1・日本と明の両国は、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと。
1・朝鮮八道のうち四道を李氏朝鮮に返還すること。
1・朝鮮王子および家老の1両名を日本に人質として差し出すこと
1・捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬に返還すること。
1・朝鮮の重臣は後世、日本に背かないことを誓約すること。

と、とんでもない内容だったのです。

ドラマでは、高飛車な秀吉が強調されてますが・・・事実は何処に??
小西行長のちゃんと出来ない外交のせいだったかも知れません。。。

再び漢城に戻った官兵衛に泣きつく小西行長・・・。
って、こんなに行き来出来んのに、兵糧が足らないって・・・
ま、16万人も行ってるんだから、そうなんでしょうね。。。

kan2












おお・・・!!
この秀吉の申し状を焼き捨て・・・
殿下を欺いて、官兵衛が交渉するように入れ知恵してます。

「明とて・・・長い戦は望んではおらぬ。
 申し状を伏せたまま、明と折衝し、使者を出すように促す。
 他に道はない。。。
 とにかく、1日も早くこの無謀な戦を終わらせる。
 このとこ・・・他言無用じゃ・・・!!」

???
本当に、官兵衛がこんなことをしたか分かりませんが・・・
交渉に当たるのはやっぱり頼りない行長なのでした。

釜山に撤退することになった日本軍。。。
何を思ったか、三成・・・。

「黒田殿、我ら奉行衆は、一足先に名護屋へ帰りまする。
 黒田殿も、御同行願いたい。
 このたびの成り行き、殿下にしかと解き明かして頂きたい。
 これは軍師官兵衛殿にしかできぬお役目でござる。」

「わかった・・・」

なにを考えている??三成???
三成の方が軍師っぽいよ。。。

と・・・日本に帰ってきたふたり・・・なんだか秀吉が怒ってますよ。。。
漢城を捨てたことに怒っているみたい。。。

「わしの命に背いていいとはいっておらん・・・!!」

いろいろ不満はあるようですが・・・
一番の不満は、朝鮮で三成たち奉行衆が、官兵衛の意見を聞こうと訪ねた時に、碁を打っていて会わなかったことを怒っているみたい。。。

う~ん。。。この囲碁事件・・・本当は、官兵衛の方が悪かったようです。
事実は解りませんが、仲の悪かった官兵衛と三成・・・。
軍議を開くためにやって来た軍事奉行の石田三成ら三奉行らを、表の座敷に待たせ置き、そのまま浅野長政と囲碁を打ち続けたみたいなの。。。
当たり前だけど、怒った三成が帰ってしまって・・・
「戻ってきてくれ~~~」by官兵衛だったんだけれども後の祭り。。。

でも、この時は、秀吉は大目に見てくれたらしいのよね。。。
「2人が囲碁好きなのを知っていたが、ワシは軍事のことばかりに気を取られ、囲碁の禁止を言い渡すのを忘れていた。」

って言ってね。。。

大河では三成の陰謀にはめられた官兵衛みたいになってます。
個人的には、軍師官兵衛なので、もっと汚いというか、姑息な手を平気で使う官兵衛さんが良いです。
三成はどっちかっていうと官僚的だしね・・・。

ブラック官兵衛ならともかく、こんなブラック三成、見たことありません。
私は・・・三成は、小心者で細かく・・・部下思いで・・・でも、空気読めない君みたいなイメージがあります。

「官兵衛!!
 貴様、誰に向かって口をきいておる・・・!!
 貴様の無礼な態度に、このわしは幾度となっく腹を立ててきた・・・
 それを許したのは、お主とは長い付き合いゆえじゃ・・・!!
 じゃが・・・此度の件、さすがに儂も、堪忍袋の緒が切れた・・・!!
 この太閤をコケにした罪は重いぞ・・・!!
 当地にて蟄居せよ!!
 覚悟して、沙汰を待て!!」

三成の陰謀によって、蟄居を言い渡されちゃいました。

kan3












ほくそ笑んでその場を立ち去る三成・・・
この一件で、おとがめを受けることなく、官兵衛を蹴落とした三成。
お主も悪よのう~~~

そして・・・朝鮮・釜山の黒田の陣にも、官兵衛蟄居の知らせが届いていました。

ピンチ・・・!!
どうする官兵衛???

ま、囲碁事件で怒っていたことだけがストーリーとされていますが、この時、未だ明の使者も来ず・・・
秀吉のご機嫌が悪かったこともピンチを広げてしまったのだと思います。

この大河では、秀吉と官兵衛のコミュニケーション不足というか・・・
なんともあんまり会話をせずに・・・秀吉がいきなり激怒だったり、官兵衛がなんの説明もせずに”無謀”とか言って秀吉に駄目だしします。
官兵衛は、本当に耳の痛いことを、空気を読めずにそのまま言ったと言われていますが、さすがにこのドラマでは、秀吉を怒らせたら一番な人にのし上がってしまっています。

今後どうなる事やら。

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感想(8件)



あ~~~、天下統一最後の敵・後北条もなんだかんだと小田原城を開城させられ・・・
戦乱の世が終わりを告げました。
こんなに早く終わったのは・・・これも官兵衛マジック??

北条氏政は、切腹を言い渡され・・・
その地へ先祖伝来の地・三河を守ってきた徳川が移封されることになるのでした。

そんな三河へやって来た官兵衛。。。

「このたびの関東への移封・・・徳川様には迷惑な話でございましょう。」

「殿下は今、お世継ぎのため、豊臣家の天下を盤石にせんとわき目もふらぬ有様・・・。」

「それが、天下のためになるのであればよろしいのですが。。。
 天下を私する為となれば、お諫めするのが某の役目。。。
 徳川様・・・このたびの国替え、天下のためになるかどうかは徳川様次第。。。」

「天下のため、関東で力を養っておくとしよう。。。
 黒田殿・・・殿下の手綱を頼みますぞ!!」

軍師とタヌキおやじの化かし合いを演じていました。


や~~~、こんなこと、言いに来てたのかどうか怪しいものです。
だいたい新幹線もなければ車もない・・・
徒歩と馬・・・そんな時代にこんなにあっちにこっちに殿が出張っていくのも不思議な感じがしますが。。。
とりあえずは、今後の伏線となっていると思っときます。

天下を統一し、明を征服するという野望を抱くようになった秀吉。。。
たぶんそこには、もう、日本には分け与える領地がない!!ということもあったと思います。
もしかすると、北条を切腹させ、領地を取り上げさせたものその考えがあったからかもしれませんね。

京・聚楽第では・・・
おねと官兵衛と一献・・・って、耳の痛いことを言われるみたい・・・

「天下統一・・・祝着至極に存じまする。。。」by官兵衛。

で・・・やんわりと明に出ていくのを止めようとしております。

「あまりに無謀!!」と。。。
淀殿にご執心のこと、鶴松のこと・・・いろいろ耳の痛いことを言うのも軍師の役目!!と。。。

kan1












そうかもしれないけれど、天下統一を果たしいい気分になっているときに、この言い方。。。
気持ちを逆なでさせるのは目に見えてますよ。。。

おまけに秀長の病状は悪化の一途を辿っているようで・・・利休と官兵衛に後を頼んでいます。
そうなんですよね。。。
何度も言うようですが、秀長がもっと長生きしてくれればね。。。

1590年11月・・・秀吉と朝鮮の使者との謁見が行われました。
取り計ったのは小西行長。
秀吉は、明征服に向けての第一歩のつもりでした。

あ・・・鶴松連れてきました。
この時点で朝鮮の使者は
おまけに鶴松はおもらしし・・・使者たちにはとっても失礼な秀吉・・・まさに、井の中の蛙。。。

しかし・・・朝鮮国は服属の意を表しにきたのではなく、”天下統一の祝いを述べるため”に来てもらえるように行長がお願いしたものでした。
って、これは本当なんだろうか??

ちなみにこの窓口となったのは、対馬の大名、宗義調・義智親子。
秀吉に、「李氏朝鮮の国王を上洛させろ。上洛が遅れた場合は直ちに討伐を開始する」
と脅しのようなことを言われてしまってアタフタ・・・
この親子がどちらにもいい顔をしようとしたためだと言われています。

これから先、小西行長、朝鮮出兵でいいとこなしになっていくのに・・・
このドラマではどうして取り立てられたのかも分かんないほど、武功のひとつもありません。。。

そんなこんなを利休と官兵衛に相談する行長。。。
「お助け下され・・・!!」と言われてもなぁ・・・
な、ふたりですが。。。どうする??官兵衛。。。

官兵衛の小言に飽き飽きしている秀吉。。。
お・・・利休もいるわ。

利休の出した茶碗に文句をいう秀吉。。。
その茶碗は、小田原攻めの際に、秀吉の怒りを買ってなぶり殺しにされた弟子・山上宗二のもの。。。
そして・・・その意図は・・・”殿下をお諫めするため”でした。

「明の征服など。。。無謀にござりまする。
 殿下、ご存知か?
 挑戦は殿下に従う気など毛頭ございませぬ。

 先だっての使者は、天下統一の祝いを述べに参っただけで、明への道案内などするはずがございませぬ。
 朝鮮に兵を送れば、その場で戦になるだけでございます。
 何卒、お考え直し下さい。。。
 戦乱の世は、100年余りも続き、皆、平穏を望んでおります。」by利休

そこまで言うか・・・利休。。。
これって、軍師・利休??

あ・・・三成・・・また、秀吉にいろいろ吹き込んでます。
今回は利休のこと。。。

そして遂に、「大徳寺山門の利休像」の話に。。。

1591年1月22日・・・
秀吉を支え続けて来ていた豊臣秀長がこの世を去りました。
秀吉を諌めることのできる人物だったのに・・・
そして、ここから歯車が崩れ始めます。

蟄居を言い渡される利休・・・。

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「今までの傲慢さを改め、殿下に詫びるというのであれば、某が取り次ぎます」by三成。
この時利休は70歳??30歳そこそこの・・・若造にこんなことを言われて、どんな気分だったのでしょう??

この利休は、官兵衛は軍師なので、朝鮮出兵に必要な人物・・・なので、自分が命を懸けて諌める役を引き受けた・・・みたいになっていますが。。。

秀吉も百姓から成り上がったように、堺の商家(魚屋)に生まれた利休も、ある意味天下を取ったお人なので、傲慢になってもしかるべきって感じもします。
秀吉は、自分と同じにおいを感じていたのかもしれませんね。

そんな商家に生まれた利休が、見事に切腹をしたのもスゴイというか・・・ある意味武士道??いえいえ、茶道を貫いたってことになるんでしょうね。。。kan2













政所、官兵衛・・・ふたりの想いも虚しく・・・利休切腹。。。

2月28日・・・切腹を命じられた利休。。。
「茶の支度ができております。。。」

使者に茶を振る舞っての見事な切腹でした。

そんな利休をも晒し首にしようとは・・・やっぱり殿下は変わってしまったのでしょう。
賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといいます。

利休の願いも虚しく・・・届きませんでした。

そんな横暴に災いか??
鶴松が病気に・・・。しかし、秀吉の願いも虚しく、鶴松は3歳でこの世を去ったのです。
あ~、この三成、何考えてんのか全く分らん。。。

で・・・秀吉崩壊・・・!!
そうですよね・・・わが子を亡くした気持ち・・・光は解るって言ってるけど、そんなの偽善者だと思う。。。
だって子供を亡くしたことがないんだから。。。
私はひねくれているのか、自分の経験していない辛いことを・・・そんなことを簡単に”わかる”と言ったり、台詞にするのは嫌い。。。

う~ん。。。秀吉が変わってしまったのは、鶴松が生まれたせい・・・で、一本化してしまってますが・・・
やっぱり傲慢になってもいいんじゃないかと思うんです。
誰もやったことのない天下統一を果たしたんだから。。。
やっぱりブレーンがしっかりしていなかったということが最大の弱点だったんですよね。
そう、秀長の死から利休の死まで1か月半・・・
まさに両腕をもがれてしまった秀吉なのです。。。

で・・・その目を朝鮮出兵へと移すのでした。。。
朝鮮をはじめ、家臣みんながとばっちり。
でも、信長も、天下統一を果たせば、海外へ進出していたと思われます。
このあと、伊達政宗も慶長遣欧使節をスペインに送っているしね。

会議にて・・・
官兵衛は肥前に城を作れと命令されます。
朝鮮出兵の用意が始まったのです。
ま・・・朝鮮出兵の準備は、九州遠征のときに始まっていますから、そんなに驚くことないんじゃないかと思います。

「無謀・・・無謀・・・!!無謀!!」by官兵衛

三成に船を作ることを命じる秀吉。。。
船と兵糧を用意させるのでした。
ま、これはとってもベストな選択です。
三成の物資調達能力は、ずば抜けたものがありました。
そう、朝鮮出兵後のみんなの褒美もろもろの時に、加藤清正や福島正則は戦っているので、武断派は武功を武器に文句を言いますが、その時の三成の物資調達にはすんごい苦労があったらしく・・・
清正、正則が戦えたのは、三成の物資があったからなので・・・
ここに豊臣政権のもう一つ大きなヒビが配流原因となってしまうのです。

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怒りを何処に持っていっていいのか解らないほど怒り心頭・官兵衛です。


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そんな朝鮮出兵に選んだ城・・・その場所は名護屋・・・!!
名護屋からは壱岐が見え・・・対馬・朝鮮へと繋がっていました。

「我らが支えねば・・・!!
 黒田が支えねば・・・!!この国が滅びてしまう・・・!!」

???

黒田の立ち位置って???

とも思えちゃうほどのこっちもある意味傲慢??

いよいよ朝鮮出兵に入ってきました。
軍師・官兵衛と言いながら、戦のシーンをことごとく避けてきた今回の大河ドラマ・・・。
なら、朝鮮出兵はどないすんねん??

期待しています。

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名城を歩く(2)新版 熊本城 [ 西ケ谷恭弘 ]
名城を歩く(2)新版 熊本城 [ 西ケ谷恭弘 ]

熊本城・・・加藤清正が築いた天下の名城です。
やりすぎの城とも言われています。

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熊本県熊本市・・・
人口73万8678人、面積389.54㎢、特産は馬刺し、からし蓮根、茄子
阿蘇山の麓、杜の都と呼ばれる町です。
築城したのは、名将・加藤清正。
少年時代に豊臣秀吉にその才を見出され、数々の戦いで頭角を現し、信長の死後、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いで大きな武功をあげて、賤ヶ岳七本槍として歴史に名を残しました。

それ以後も、数々の武功をあげて秀吉から与えられたのは、肥後北半分国19万5000国の領主でした。
秀吉からの信頼は厚く、朝鮮出兵でも中心的な役割を担いました。
そして、後世に残されるのは、その卓越した築城技術。
江戸城や名古屋城など、数々の名城を築城しています。
そんな加藤清正が、全ての技術をかけて作ったのが・・・やりすぎの城・熊本城です。

日本3名城にも数えられる堅牢堅固な城は、まさに難攻不落の城でした。
加藤清正生涯一級の作品です。
清正公(せいしょこ)さんと親しまれている名将・加藤清正。
そんな清正が、並々ならぬ情熱を注いだのがやりすぎの城下町でした。

kiyo3.png

幾重にも重なるその石垣と階段・・・お城には、長い直線の道はありません。
侵入者の動きを鈍くするためです。
大天守閣と小天守閣があります。
その石垣は、武者返しとなっています。
場内になかなか進入できないようになっています。
これは、朝鮮出兵の時に学んだもので、以後の築城技術の基本となりました。

そして、石垣の上には巨大な櫓が。
床の隅から下が眺められるようになっています。

狭間は弓や鉄砲で敵を、石落としからは石や煮えたぎった油を・・・
そして、忍び返し・・・様々な防衛技術がなされています。

それが生かされたのは・・・築城から実に270年後の事。
1877年に起こった西南戦争。
谷干城率いる政府軍・3000人が熊本城に籠城、西郷隆盛率いる薩摩軍1万3000人の猛攻をしのぎ耐えたのです。

熊本城を落とせなかった西郷は・・・
「官軍に負けたのではない。
 清正公に負けたのだ。」
と、言ったと言われています。
加藤清正の築城した熊本城は、最初で最後の闘いで難攻不落を証明したのでした。

またここには、実戦をするための秘策もありました。
井戸を120掘りました。
お城も食べられるように工夫してあります。
清正築城当時は・・・壁はかんぴょうで、畳は芋の茎で作り、100日分の食料となっていました。そして、城内には銀杏・栗・梅・桃など食べられる木が植えられていました。
備蓄された食料や水は、家臣はもちろん城下の領民を含めても3カ月以上は生き延びることが出来ると言われています。

でもどうしてこの城を???
武人・加藤清正がどうしても勝つことのできなかった戦い、死の淵まで追い込まれた戦いの苦い経験がそこにはありました。
1597年朝鮮出兵・・・
秀吉が自らの力を海外に示そうとした戦いで、中心人物となったのが加藤清正でした。文禄・慶長二回に及んだ遠征は、苛烈を極めました。
忘れられない苦しい戦い、20万ともいわれる朝鮮軍の包囲する中での籠城戦。
後方からの支援も得られずに飢えと渇きに苦しめられます。
その籠城戦での体験が、食べられる城を造り上げたのです。

敵の侵入を防ぐ難攻不落のシステム、籠城戦を可能にさせる備蓄食料・・・清正が築いたやりすぎの城は、“守る究極の城”でした。
そして、さらなる秘密は???
本丸御殿に・・・清正公自らすら入ることのできなかった部屋があります。
“昭君之間”です。
金箔で飾られた豪華絢爛なその部屋は、漢の官女・王昭君が描かれていることから昭君の間と呼ばれていますが・・・
しかし、質素倹約・質実剛健とも言われていた清正がどうしてこのような部屋を???
それは・・・“将軍の間”だからです。

そこにあったのは、「熊本幕府プロジェクト」です。
昭君=将軍・・・
徳川家康が天下を取った後も、かつての主君・豊臣秀吉の恩を忘れなかった清正は、熊本城に秀頼を迎えるその日の為に・・・作られた部屋だったのです。
結果としては、この部屋は使われることはありませんでした。
いざとなれが、徳川と一戦を交える覚悟だったのです。

城下町は、清正がいたころそのままに、その名前と残っています。
正方形の区画が多く、碁盤の目のようになっています。
そこにも清正公の秘密がありました。
細い路地を抜けると、白梅天満宮があります。
天正年間の疫病を鎮めるために建てられました。
四方を民家に囲まれて・・・表通りからは見逃されそうです。
この町には、碁盤の目一つ一つに寺があり、それは、その碁盤の目の中心にあります。
1町1寺といわれるこのつくりは、敵が攻めて来たら寺を出城にするという清正公の防衛対策の一つでした。
そう、城下町もまたやりすぎの城下町でした。

馬肉を食べる習慣の始まりは、清正公です。
1597年朝鮮出兵の時に苦戦した蔚山城の戦い・・・ここで清正軍の食糧難は深刻にして重大でした。
その時に軍馬を殺して食した・・・。
加藤清正の命の恩人が馬肉なのです。

そして、キムチを赤くしたのも清正公。
もともとキムチは白かったのですが、清正軍が寒さ対策に持ち込んだ唐辛子を食文化に取り入れたのだそうです。

謎多き清正・・・その真相の謎は・・・???
1611年にこの世を去った加藤清正。
清正公は本妙寺に祀られています。
いつまでも人々を守っていてほしい・・・そんな民の願いから、本堂は熊本城の天守閣と同じ高さに建てられています。

清正公は・・・豊臣秀頼の身代わりとなって亡くなったのでしょうか?
その死については、いろいろ伝えられています。

が・・・大坂から帰る船の途中で亡くなったと言われています。
脳溢血だった・・・感染症だった・・・とか言われていますが・・・
徳川の天下となった時代・・・家康と秀頼の二条城会見に立ち会った清正公。
徳川側が出した御菓子・・・食べなければ失礼・・・しかし、毒まんじゅうだったら???

ためらう秀頼の代わりに、このまんじゅうを食べたのが清正でした。
会談後秀頼は、無事大坂へ帰還。
しかし、清正は熊本へ帰る途中に亡くなったのです。
もしかすると・・・あえて・・・秀頼公の身代わりになったのかもしれません。

今となってはすべてが謎のままですが・・・
言えることは、清正は誰よりも主君に忠実で、誰よりも領民に愛情を注いでいたこと・・・そして、領民がその死を惜しんだということ。

加藤清正が築いた天下の名城・・・清正公は、今も人に愛され続けていました。
人は清正のように、雄々しさと優しさを持っている町でした。

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